一章 母、帰る


「やぁっっ!」
 気合いとともに、由維が拳を打ち込んでくる。スピードの乗った、きれいな順突きだ。
 しかし奈子は余裕を持ってそれをかわし、突き出された腕に自分の右腕を絡めながら、右足を後ろに引いた。
 腕を引っ張られる恰好になった由維は、突きの勢いも手伝って、前のめりにバランスを崩す。
 その瞬間、奈子の足がドンッと床を踏み鳴らした。いつの間にか、胸には奈子の左手が押し当てられている。
 さほど力が込められているようには見えない掌底だったが、軽い由維の身体は簡単に宙に浮いた。床に落ちるとそのままごろごろと転がる。
「い…痛った〜い! 少しは手加減してくださいよぉ!」
 床の上で俯せになった由維が顔を上げる。既に涙目だ。
「これでも手加減してるんだから。もっともっと強くなってもらわないとね」
 奈子は腰に手を当て、笑いながら言った。
 二人がいるのは、北原極闘流の道場。今日は奈子が、由維を特訓しているのだ。
 理由は簡単。由維を『向こう』へ連れていくことに決めたから。
 最低限、自分の身を守れるようになってもらわないと困る。向こうでは、いつどこで危険な目に遭うかもわからないのだから。
 本当なら、そんな危険な場所に連れていくべきじゃないのかもしれない。だけど、一緒にいたい。我が儘ではあるけれど。
 奈子にいいようにあしらわれている由維だったが、実際のところ、運動神経はかなりいい。空手の腕前だって、中学女子としてはかなりのものだ。
 とはいえ、それはあくまでも一般的なレベルでの話であり、奈子や安藤美夢の中学時代に肩を並べるようなものではない。奈子は自分を基準に考えてしまうため、由維の力にはまだまだ不満なのだ。
「め〜め先輩くらい強ければ、安心できるんだけど…」
 などと言うが、十年に一人の才能の持ち主といわれている美夢と比べる方が無理があるだろう。
「私だって、ずいぶん強くなったんですよぉ。これでも、中等部の軽量級じゃ一番なんだから」
「とはいってもなぁ…。この分じゃ、今年は極闘流の全階級制覇は無理かも。美樹先輩、怒るだろうなぁ」
 去年、初めての全国大会で固くなっていた奈子に「負けたら殺す」と言っていた美樹を思い出す。あれは目が本気だった。
 奈子や美夢がそれぞれの階級で優勝するのはほぼ確実だから関係ないように思うかもしれないが、中等部の選手が負ければ「お前らの指導が悪いからだ」と、とばっちりが回ってくるのは目に見えている。
 そういう本人は高校を卒業した後、道場そっちのけで外国を放浪しているそうで、今は消息不明だった。
「大丈夫ですよ。私は勝ちますから」
「イマイチ不安だなぁ」
 なにしろ、中学部の大会は体重別ではないのだ。いくら運動神経がよくても、由維は小さすぎる。
「め〜め先輩だって、私とそんなに変わらない身長なのに、中学時代も無敵だったじゃないですか」
「あんた、め〜め先輩より小っちゃいじゃん」
 いずれにしても、参加選手中で最軽量なのは間違いないだろう。
「え? 私がどうかした?」
 突然割り込んできた声に、二人は同時に道場の入口を見た。ちょうど、小柄な少女が入ってくるところだった。
「め〜め先輩」
 奈子と由維の声が重なる。
 め〜めこと安藤美夢、奈子の一年先輩だ。そして、北原極闘流の…いやフルコンタクト空手の女子軽量級で、日本最強の選手といってもいい。
 しかし外見だけを見れば、美夢はとても空手選手とは思えない。身長百五十センチ弱、体重三十五キロ。小柄で痩せていて、透き通るような白い肌に、腰まで伸ばした長いストレートの黒髪。
 まるで日本人形のような容姿だ。これで、最近まで奈子ですら手も足も出なかった強豪なのだから、ほとんど詐欺といってもいい。
「二人ともずいぶん練習熱心ね。今日は休みだというのに」
 他に人がいないので、美夢は更衣室へ行かずに着替えはじめる。
「め〜め先輩こそ」
「きっと、奈子は来ていると思ったからね」
 道着の帯を締めながら、美夢は奈子を見て目を細める。瞳の奥に、なにやら危険な光を感じた。
「言っとくけど、夏の大会で受けた屈辱は忘れたわけではないわよ」
「え…?」
「負けたまま引き下がったら、それこそ美樹さんに怒られちゃう。だから…」
 バシィッ!
 次の瞬間、体重の乗った回し蹴りが、奈子の脇腹にめり込んでいた。不意打ちをまともに喰らった奈子の身体は、くの字に曲がる。
「め〜め先輩!」
 由維が悲鳴を上げる。
「これはハンデね。私はウォーミングアップもしてないんだし」
 人形のような静かな笑みを浮かべたまま、美夢は言った。
 奈子は悲鳴すら上げられなかった。一瞬、呼吸が止まった。
 倒れそうになるのを辛うじて踏みとどまり、第二波を避けるために後ろへ跳んだ。
「…さすがめ〜め先輩。美樹先輩の愛弟子はえげつないコトするねぇ」
 脇腹を押さえて、呻くように言う。蹴られた部分がずきずきと痛む。肋骨が折れていないのが奇跡のようだ。体重は軽いくせに、美夢の蹴りはやたらと重い。衝撃が内臓にまで響いている。
「あなたも美樹さんの後輩なんだからわかるでしょう。一度負けた相手には、次は何としても勝たないと」
「それを言ったらアタシ、め〜め先輩には公式戦だけで五回くらい負けてるけど…」
 そう言いながら、奈子は呼吸を整える。
「そんなの、知ったことではないわね」
 今度は普通に構えた美夢が、間合いを詰めてくる。
 奈子も構えを取った。自分からは仕掛けない。そんなことをすれば、美夢の術中にはまるだけだ。相手が仕掛けてくる、その一瞬を待つ。
 動いたのは同時だった。二つの拳がすれ違う。
 奈子はもう一方の腕で美夢の突きを受け流すと、一歩前に出て密着した体勢から肘を打ち込む。腕でそれをガードしながら、美夢は横に回り込んで下段蹴りを狙う。
 端で見ている由維が瞬きひとつする間に、二人の間にはいくつもの技の応酬が行われていた。目にも止まらぬ速さで、次々と攻撃が繰り出され、そしてお互いにそれをかわし、あるいはブロックする。
 コマ落としのカンフー映画のような、一瞬も途切れることのない連撃だ。なにしろ、女子空手では頂点を極めた二人がなんの手加減もなしに闘っているのだ。
 その攻防は一見、互角に見える。しかし由維の目には、やや奈子有利と映った。
 スピードではやはり、軽量級の美夢が速い。しかし奈子もその動きに遅れてはいない。そしてなんといってもパワーが違う。体格面で奈子は、美夢はもちろん美樹よりもはるかに恵まれている。その打撃は、ガードの上からでも美夢にダメージを与えることができた。
 とはいえ、美夢には一撃必倒の回し蹴りがある。先刻はボディだったからなんとか耐えられたが、頭に喰らえば奈子でも一撃でKOされる。一瞬も油断はできない。
 ところが、しばらく続いていた突きと蹴りの息詰まる攻防は、突然終わった。美夢が大きく後ろに飛び退いたのだ。
 二メートルほどの間合いを空けて、二人の動きが止まる。
 ふっと美夢の身体から力が抜けた。構えを解くと、ばつが悪そうに笑って片手を上げる。
「ごめん、アレ始まっちゃった。今日はこれまでね」
 奈子と由維が同時にコケた。そんな二人を後目に、美夢は手洗いの方へと歩いていく。
「あ、私もトイレ!」
 先に立ち直った由維が、美夢の後を追っていった。


「あ、ゆ、由維ちゃん」
 扉を開けると、美夢は鏡の前に立っていた。由維が入ってきて、一瞬狼狽したように見える。その目に、涙が光っていたように思った。
「…逃げたんですか?」
 由維は単刀直入に訊いた。
「失礼ね」
 美夢が怒ったような素振りを見せる。それが本気でないことは一目瞭然だったが。
「生理は本当よ。私は軽い方だから、試合にはあまり関係ないけど」
「じゃあ…」
「…強く…なったね。もう、私じゃ勝てないかな」
 俯き加減に、悲しそうな声で言った。その目から、今度こそ涙がこぼれる。
「め〜め先輩だって、十分強いじゃないですか」
 由維は慰めるように言った。
 確かに今では奈子の方がやや強いようだが、美夢の強さだってずば抜けている。ただ、この一年間の奈子の成長が尋常ではないだけだ。
 そもそも身長で二十センチ弱、体重も二十キロ近く奈子の方が上回っているのだから、それで互角の闘いができる美夢こそ化物と言ってもいい。
 こんなことで泣く美夢の気持ちが、由維にはよく理解できなかった。由維はこうした、美夢や奈子、あるいは美樹のような「強さに対する執念」がない。
「め〜め先輩は十分強いですよ。私とあまり変わらない体格なのに、どうしてそんなに強いんですかぁ?」
 由維はそれが知りたかった。強さに対する執念はなくとも、由維はもっと強くならなければならなかった。
 奈子を護るために。
 いつも奈子の傍にいるために。
 向こうの世界での闘いを通して、少しずつ壊れていく奈子の心。その傷を癒すのは、由維でなければならなかった。
 他の者であってはならない。
 そのためには、もっと強くなる必要があった。
「由維ちゃんは運動神経もいいし、技も切れるけど…精神的な問題、ね」
 備え付けのペーパータオルで涙を拭って、美夢が応える。
「やっぱり…?」
「人間って、大きく二種類に分けられるの思うの。人を傷つけられる者と、傷つけられない者…いや、他人の痛みを、自分の痛みよりも強く感じる者、と言うべきかな。私や美樹さんは前者よ」
 自分が自分が傷つき、殺されるくらいなら、相手を殺すことを選ぶ。なんの躊躇いもなく。
 何があろうとも、自分が傷つくのは嫌だ。そのためなら、どれだけ他人を傷つけようとも構わない。
 だけど、それができない者もいる。
 自分の痛みよりも、他人の痛みを強く感じる者。殴られる痛みよりも、殴る痛みに耐えられない者。
「世の中には、自分を犠牲にして他人のためにつくす人たちもいる。確かに立派な行いかもしれないけど、結局は価値観の違いでしかないのよ。他人が苦しむ姿に、何よりも強い痛みを感じる。その痛みを和らげるために助ける。結局は自分のためじゃない? 私はそれよりも、自分が傷つけられることが一番辛い。ただそれだけの違いよ」
 それだけ言うと、美夢は由維を置いてひとりで出ていく。由維は慌ててその後を追った。
「奈子は、どちらなのかな…」
 美夢は由維の顔を見ずに、独り言のようにぽつりとつぶやいた。



「あ〜、まだ痛むわ」
 コーヒーカップの底に残った最後の一口を飲み干しながら、奈子は呻いた。美夢に蹴られた脇腹は、一時間以上たってもまだずきずきと痛む。いくらなんでも、肋骨を折られてはいないと思うが。
「隙があるからですよ」
 クリームソーダのストローをくわえた由維が応える。
 ここは、道場と奈子の家の中間にある喫茶店『みそさざい』。奈子たちが練習帰りに時々立ち寄る店だ。
 他に客はいなくて、雇われマスターの晶がカウンターの中で文庫本を読んでいる。
 彼女は長い黒髪の、少し神秘的な笑顔が特徴の美人だ。年齢はよくわからない。二十代なのは確かだが、二十二歳という自称は、かなりサバを読んでいるのもまた確かだ。なにしろ去年も一昨年も「二十二歳」と言い張っていたのだから。
 それほど広くない店内だが、三人しかいないとがらんとした印象を受ける。いつもは陽気なバイトの女子大生がいるのだが、今日は姿が見えない。
 …と思っていたら。
「ごめ〜ん、晶さん! 遅れちゃった〜!」
 奈子たちが帰ろうとした時、ばたばたと飛び込んできた。「寄せて上げなくても余裕でDカップ」の自慢の胸が、大きく揺れている。赤いメッシュの入った金髪という派手な髪をしているが、化粧が薄いためにごく自然な雰囲気を醸し出していた。
「一時間も遅刻よ、どうしたの?」
「だぁって、オトコが放してくれなくってさ〜」
 その女子大生、柊由奈は悪びれずに笑うと、エプロンを取り出した。
「下着を着けてないのは、そのせい?」
「え?」
 苦々しげな表情の晶に言われて、由奈は自分の胸を見下ろした。広く開いた胸元から深い谷間が見えるその胸は、ノーブラだった。
「あはは〜、時間ぎりぎりまでヤッてて、慌てて服着たから」
 由奈は屈託なく笑う。
「時間ないから一度だけって言ったのに、立て続けに三回もするんだもんな〜」
「どうせあなたが『もっともっと』ってせがんだんでしょ」
「あ、わかる?」
「わかるわよ。いつものことだもの」
 独り者の晶は眉をひそめた。
「…相変わらずですね、由奈さん」
 奈子と由維は、二人のやりとりを呆れ顔で見ていた。店を出たところで由維がつぶやく。
 由奈の男遊びの激しさはこのあたりでは有名だし、由維の姉の美咲は由奈と仲がいいから、その武勇伝は山ほど聞いている。
「…エッチって、そんなに気持ちイイのかなぁ?」
 由維はそう言って、上目遣いに奈子の顔を見た。
「なぜそれをアタシに訊く?」
 奈子は不快そうに応える。
「だって、エイシスさんとエッチしたんでしょ? 気持ちよかった?」
「そ、そ〜ゆ〜恥ずかしいことを往来で訊くな!」
「でも、興味ありますもん」
「…そりゃあ、気持ちよくないって言ったらウソになるけどね…」
 奈子は赤い顔をして、小さな声で言った。



「ね〜え、由維?」
「え? きゃああっ!」
 家に帰るなり、奈子は由維をソファに押し倒した。
「そんなに興味あるんだったら、あんたもそろそろ経験してみない?」
 じたばたと暴れる由維を押さえつけ、顔中にキスの雨を降らせる。
「ん…だめぇ…」
 抗議の声を無視して、由維のシャツをたくし上げた。お臍のすぐ上にキスをして、そこから上に向かって唇を滑らせる。
「やぁ…もぉ…」
 由維は身体をよじらせるが、本気で嫌がっている様子ではない。調子に乗った奈子は、ブラジャーをずらしてその下の控え目な膨らみを舌でくすぐる。
「や、やあっ!」
 抵抗が少し激しくなる。奈子も最初は冗談のつもりだったのだが、調子に乗っているうちに、だんだんその気になってしまった。
(このまま、最後までしちゃおっかな?)
 ちらりとそんなことを考えた時。
「…なにやってんのっ! あんたはぁっっ!」
 そんな声と同時に、目の中に火花が散った。
 後頭部に強烈な衝撃を受け、一瞬意識が遠くなる。ちらりと、花畑の風景が見えたような気がした。
「う……ぐ…ぅ」
 後頭部を押さえて身体を起こした奈子は、ソファの傍に立っている人物を見て絶句した。
 それはぱっと見二十代後半〜三十歳くらいの女性。整った顔立ちで、やや気の強そうな美人だ。
「……っ!」
「み、美奈さん!」
 奈子が何も言えずにいるうちに、由維が先に我に返った。真っ赤になって飛び起きる。
「か…母さん!」
 血の気の引いた顔で、奈子はようやくそれだけを口にした。
 そう、その女性の名は松宮美奈、奈子の実の母親だ。ただし世間一般では、芸名の「夏川」という姓の方が通りがいい。
 ちなみに、年齢は不詳だ。娘相手にもサバを読むので、奈子も正確なところは知らない。三十代半ばくらいだとは思うが、外見はまだ二十代で通用する。高校生の娘がいるなんて、彼女のファンでも知らない人が多いだろう。由維も「おばさん」などと呼ぶと張り倒されるので、「美奈さん」と名前で呼んでいる。
 美奈の職業は女優だった。日本では珍しく、アクションのできる本格派女優として知られている。まだ無名だった頃に出演した、香港のアクション映画がヒットして以来の人気女優だ。
 学生時代に中国拳法を習っていたのが幸いした。奈子の格闘技好きな性格は、母親の影響に依るところが大きい。
 美奈は腕を組んで、恐い顔をして二人を見下ろしていた。なまじ美人なだけに迫力がある。格闘技に関してはもちろん今の奈子の方が強いが、それでも美奈には頭が上がらない。『母親』というのは問答無用で強い存在なのだ。
 そう考えると、今の状況はものすごくまずいかもしれない。なにしろ由維を押し倒して、服を脱がせているところだったのだから。二人が単なる幼なじみや友達以上の関係であることは、母親は知らないはずだった。
「まったく! ちょっと目を離すとこうなんだから!」
 奈子を睨みつけてきつい口調で言う。
「他人様の娘さんに手を出して! それも無理やり! 最低ね、あんた!」
「いや…これは、その…」
 しどろもどろに応える。いったいどう言い訳すればいいものやら、見当もつかない。身内で奈子と由維の関係を知っているのは、由維の姉の美咲だけだった。
「しかもベッドにも行かずにこんなところで! 昼間っから! だいたいあんた、ちゃんと避妊の用意はしてるの?」
「へ…? 避妊…?」
 奈子は素っ頓狂な声を出す。何か論点がずれてはいないだろうか?
「やっぱり何も考えてないのね。由維ちゃんは結婚前の女の子、それもまだ中学生なのよ? 万が一のことがあったらどうするの!」
 美奈は一方的にまくし立てる。
「…万が一って…あの、あ…アタシたち、女同士…なんだけど…?」
「へ…?」
 今度は美奈がきょとんとする番だった。
「まさか、母さん…」
「は、ははは…。ほら、たまにしか顔を会わさないし…ねぇ?」
 ジト目で睨む奈子を、笑って誤魔化そうとする。奈子は叫んだ。
「自分の子供の性別を、本気で忘れるなぁっっ!」
 しかしそれで引き下がる美奈ではない。奈子以上の声で怒鳴り返してくる。職業柄、声量では向こうが上だ。
「なに言ってんの、あんたが悪いんじゃない! 女の子を襲うような『娘』なんて、持った憶えはないわっ!」
 開き直って叫び、奈子の頭を拳で殴る。
「なにすんのよ! 痛いじゃない!」
 奈子も負けじとやり返す。
「顔は殴らないでよ、あたし女優なんだから!」
 そんな親子喧嘩の合間に、由維は慌てて服を直していた。


 松宮家では、母親が帰ってきても食事の仕度は由維の仕事だった。美奈はお世辞にも料理が上手ではない。奈子よりはマシ、という程度だろうか。実をいうと、料理は父親の方が上手い。
 で、由維がいつものように夕食の仕度をしている間、奈子と美奈は居間でテレビを見ていた。
 野球中継である。ちなみに奈子はダイエーファンで、美奈は西武ファンだ。この二チームの対戦だとまた喧嘩が起きるので、チャンネルは巨人―阪神戦になっている。もっともこの場合、松井秀喜ファンの奈子と、高橋由伸ファンの美奈の間で、やっぱり喧嘩になるのだが。
「ところで奈子、あんた前よりも髪が黒くなったんじゃない?」
 画面がCMに変わったところで、ふと思いついたように美奈が言った。
「え、そお?」
 奈子は長い前髪を摘んで、目の前に持ってくる。焦げ茶色の髪は、特に変わったようには見えない。
「やっぱり、大きくなると母親に似てくるのかしら」
 今は明るい色に染めてはいるが、美奈の髪は本来真っ黒だ。茶色味を帯びた奈子の髪は、父親の遺伝である。
「自分ではわかんないけどな。由維も何も言わないし」
「毎日見ていたら気付かないわよ。ところで由維ちゃんといえば…」
 美奈は急に声を落とし、耳元でささやいた。
「あんた、由維ちゃんのことが好きなの? 恋愛対象として」
「え?」
 奈子の声が裏返る。
「そ、それは…」
 先刻うやむやに誤魔化したことを蒸し返されて、奈子は慌てた。なんと答えればいいのだろう。
「まあ、あんたの性格からして、同性を好きになるのも不思議じゃないけど」
 美奈はあっさりと言う。そう簡単に納得されると、それはそれで悲しいものがある。
「…少しは驚いてくれたって」
「で、どうなの?」
「……」
 何秒間か間を置いてから、奈子は心を決めた。自分に嘘をつくことはできない。
「…好きだよ。世界中で一番好き。いけない?」
「別に、悪いとは言わないけど」
 美奈には驚いた様子もない。娘が同性愛者だと聞かされた母親が、こんなに冷静でいいのだろうか。
「由維のいない生活なんて、考えられないよ」
 奈子は思い詰めた表情で言葉を続けた。
 今となってはもう、由維と離ればなれになって生きていくことなど考えられない。それは友人、幼なじみ、恋人、姉妹、親子…それら全部を合わせたよりも強い絆。
 水よりも空気よりも当たり前に、身近に存在するもの。存在しなければならないもの。
 今ではもう、自分を誤魔化すことはできない。
「別に、同性愛が悪いとは思わないわ。ただ…」
 美奈にだってそれはわかっていた。自分の娘にとって、あの可愛らしい幼なじみがどれほど大切な存在なのか。
 奈子が小さい頃はともかく、ある程度大きくなってからは、仕事が忙しくてあまり構ってやることもできなかった。東京のマンションで生活する時間が長くなってからはなおさらだ。向こうで一緒に暮らそうと考えたこともあるが、奈子は頑として奏珠別を離れることを嫌がっていた。
 兄弟でもいれば、また事情は違ったのかもしれないが、奈子は一人っ子だった。一人娘の相手をする時間も十分ではないのに、とても二人目を産み育てる時間的余裕などなかった。
 その代わりとなったのが由維だ。
 親友で、妹代わりで、時には母親代わりでさえある。
 奈子が全面的に信頼し、甘えることのできる相手。
 いつしか、単なる親友とか幼なじみなどという言葉で言い表せない関係になったとしても、むしろ当然のことだろう。
 美奈から見れば、ここ一、二年で奈子はずいぶん変わった。本人は気付いていないかもしれないが、たまにしか顔を会わせない分よくわかる。
 この一年で背もずいぶん伸びて、たくましくなって。だけど以前より、むしろ雰囲気は女らしさを増したような気がする。
 そして、そういった外見のことだけではなくて、精神的な変化はもっと大きい。その変化に自分自身が戸惑って、不安定になっているようにも見える。
 由維の存在が、そんな不安定な奈子の心を支えていた。精神の平衡を保つために。
 去年くらいから、奈子が何か秘密を抱えていることにも美奈は気付いていた。由維だけが、その秘密を共有しているらしいことにも。
 昨年の夏、奈子は一ヶ月近く失踪していた。その間どこで何をしていたのかについては、いまだに固く口を閉ざしているけれど。
 だけど、由維がついている限りは大丈夫だろう、と。
 美奈はそう思っていた。
「ただね…」
 それでも美奈は、眉間にしわを寄せて言った。
「ただ、ひとつだけ言っておくけど、無理やり襲うのは止めなさいよね」
「だから…、あれは冗談だって!」
「冗談で襲うなんて、本気でするよりもっとたちが悪いわよ。ところであんた、彼氏はいないの?」
「いるわけないじゃん。アタシには由維がいるもの」
「でもあんた、もうバージンじゃないでしょ?」
 突然の核心をついた台詞に、奈子は思わず固まった。うわずった声で訊き返す。
「ど、ど〜して? 由維が何か言った?」
「まさか、由維ちゃんは何も言わないわよ。でもね、いくら留守がちだからって、これでも母親なんだからね。子供が思っている以上に、親はよくわかっているものなのよ。あんたも親になればわかるわ」
「う…」
 夕食の仕度を終えた由維が二人を呼びに来るまで、奈子は何も言えずに真っ赤になって俯いていた。



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