由維と一緒にこちらへ来るようになってから、半月ほど過ぎたある日のこと。
奈子は一人で、タルコプの街を歩いていた。
いつものように、ソレアに買い物を頼まれて…というのが表向きだが、実際のところ、買い物を口実にしてソレアの家から逃げ出してきた、というのが正しい。
今、ソレアの家は戦場だった。
連日、激しい戦いが繰り広げられている。
こうなることは、予想しておくべきだった――と後悔しても後の祭り。
つまり、由維とファージの仲が悪いのだ。
ことあるごとに、争いを繰り返している。
どっちが奈子と一緒にお風呂に入るか、とか。
どっちが食事のテーブルで隣に座るか、とか。
そんなくだらない理由だ。
当人たちは真剣なのかもしれないが、端で見ていると馬鹿馬鹿しいという他ない。
「まったく…」
ソレアは二人の仲裁をするどころか、煽って楽しんでいるフシがある。いや、二人の板挟みになって困っている奈子を見て、楽しんでいるというべきだろうか。
昨夜だって「どちらが奈子と一緒のベッドで寝るか」で取っ組み合いの喧嘩をしている二人に向かって「3Pという手もあるわよ」なんてことを言う。
おかげで奈子は二人から隠れて、物置の隅で寝る羽目になった。寝違えて首が痛い。
「あの人も、娯楽に飢えてるのかもね〜」
考えてみれば、墓守というのもストレスの溜まりそうな使命だ。
ソレアが奈子の来訪を歓迎するのも、いい息抜きになるからかもしれない。息抜きのネタに使われる方としては、たまったものではないのだが。
そんなことを考えながら通りをぶらぶらと歩いていると、
「ねえ! そこの、胸のでかいツリ目のおねーちゃん!」
不意に、そんな子供の声が聞こえた。
奈子は思わず立ち止まってしまう。
別に自分のことだと思ったわけではないが、高校一年生という年齢やウェストの細さの割に胸が大きめであることと、ややネコ目であることは事実である。
声のした方を見ると、十歳くらいの女の子が立っていた。
髪は短くて痩せていて、一見男の子のようにも見える。が、着ているものが女物だから間違いなく女の子だろう。
目が大きくて、やや気が強そう…というか、年齢からすると「腕白そう」という表現の方が相応しいだろうか。
大きな荷物を背負っていて、真っ直ぐに奈子を見ている。
「…ひょっとして、アタシ?」
仕方なく、訊いてみた。
「他に誰がいるっていうの? おねーちゃん、鏡見たことないの?」
「見たことはあるけど…さぁ…。なんというか…もう少し言い方が…」
そんな奈子の台詞は無視される。女の子は一方的に自分の用件だけをまくしたてた。
「おねーちゃん、ソレア・サハ様のお弟子さんなんでしょう?」
「え?」
「街の人がそう言ってたよ。あたしも、ソレア様に弟子入りしたいの。紹介してくれない?」
「弟子、って…」
否定しかけて、ふと思い直した。なるほど、街の人にはそう思われていたのか…と。
ソレアは大陸でも名の知られた魔術師だから、弟子入りしたいという人間も多いのかもしれない。
この世界での魔術師は一種の職人、あるいは学者みたいなものだから、弟子を取っている者も少なくない。例えばマイカラスの王都に、ソレアの知り合いのラムヘメス・サハという魔術師がいるが、彼女のところには奈子より一つ年下の女の子が弟子として住み込んでいた。
しかし、ソレアやファージ、あるいはフェイリアに弟子がいるという話は聞いたことがない。三人とも、それぞれ複雑な事情のある身の上だから、普通に後継者の育成をするどころではないのだろう。
「紹介することはできるけど…多分、無理だと思うよ?」
率直な意見を述べる。街の人たちはもちろん知らないことだが、ソレアは普通の魔術師ではない。
「そんなの、会ってみなきゃわからないじゃない。こう見えてもあたし、素質ではおねーちゃんに負けないと思うよ」
「大した自身だこと」
奈子は苦笑した。このタイプは、いくら口で言っても絶対に引き下がらない。
「いいよ、ソレアさんに会わせてあげる。でも、断られたからってアタシを恨まないでよ」
「大丈夫。ソレア様だってきっと優秀な弟子を欲しがっていると思うの。あ、あたし、ユクフェ・メィね」
「ナコ・ウェルよ」
「よろしく、先輩」
ユクフェと名乗った少女は、もうすっかり弟子になったつもりでいる。
生意気だけど、なんとなく憎めない性格だ。奈子は小さく肩をすくめると、ユクフェの手を引いて歩き出した。
「…と、ゆ〜わけなんだけど…」
奈子は、街で拾った少女――ユクフェ・メィ・サルサン――をソレアに引き合わせた。
向こうでは由維とファージの、見るもばかばかしい闘いが続いているが、とりあえずそれは無視しておく。奈子が口を出せば、状況はさらに悪化するのだ。
「ふぅん…」
ソレアは静かにうなずくと、ユクフェを真っ直ぐに見つめた。
「あなた、生まれは何処?」
「ヌッカプの村」
「ご家族は?」
「父さんと母さんと、お祖母ちゃんと、お姉ちゃんが二人」
「どうして、私に弟子入りしようと思ったの?」
「家を追い出されたから」
「追い出された? どうして!」
思わず大声を上げたのは奈子だ。
こんな小さな子を追い出すなんて、いったいなんて親だろう。
しかし、ユクフェは平然と言う。
「家を、半分吹き飛ばしたから」
「…は?」
「お姉ちゃんたちと魔法の力比べをしていて、つい勢い余って…ね」
「…はぁ?」
「なにしろあたしって、才能が有り余ってるから」
ユクフェは屈託なく笑っている。
「でも、父さんに怒られちゃってね〜。今年になって二度目だし。ちゃんとした魔術師に弟子入りして、もっと上手に力を使えるようになれ、って」
なるほど、ようやく納得がいった。
つまり、ユクフェは魔力は強いけれども、それを制御する技術が身に付いていないのだ。
しばしば暴走するユクフェの魔法に手を焼いた親は、力のある魔術師の元で修行させようと考えたのだろう。
「なるほどね」
率直に言って奈子は呆れたが、ソレアはほとんど表情も変えずにうなずいている。
「それに、腕のいい魔術師って儲かるんでしょう? やっぱり、貧乏よりはお金持ちの方がいいじゃない」
「修行は厳しいわよ。我慢できる?」
「へーきへーき。あたし、才能あるから」
「いいわ、弟子にしてあげる。今日からここで暮らしなさい」
「えっ?」
驚いたのは奈子の方だ。絶対、ソレアは断ると思っていたのに。
ソレアは確かに腕のいい魔術師だが、魔術師、占い師の姿は仮のもの。本当の姿は、王国時代の危険な知識を封印する『墓守』の末裔だ。
それが、世間一般の職業魔術師のように弟子を取るなんて。
(…、それとも…)
ふと、思いついた。
以前、クレインが言っていたではないか。
ソレアは、墓守の最後と一人だ、と。もしかしたらソレアは、ユクフェを自分の後継者とするつもりなのだろうか。
「なに?」
ソレアが、何か言いたげな様子の奈子に気付く。
「別に、なんでもない」
「いろいろ言いたいことはあるかもしれないけど、それは後で…ね。それより、今夜はパーティをしましょう。ユクフェちゃんを歓迎して」
パーティと聞いてユクフェの顔がぱっと輝く。現金な性格だ。
ソレアは、由維とファージのところへ行くと、パンパンと手を叩いた。
「ほら、あなたたちもいい加減にしなさい!」
両手で、お互いの頬をつねり合っていた二人が動きを止め、ソレアを見る。
二人とも、痛みを我慢して涙目になっているくせに、相手をつねる手は放そうとしない。
「まったく、いつまでも子供みたいな喧嘩してるんじゃないの」
「私のせいじゃない。この大平原胸が悪いんだよ」
「だ、大平原胸〜っ?」
由維が目をつり上げた。中学二年生という年齢を考えても、彼女の胸はお世辞にも発育がいいとはいえない。
「なによ、ちょっと胸が大きいからって偉そうに! 言っとくけどね、奈子先輩はこ〜ゆ〜のが好きなんだから!」
「人聞きの悪いことを言うなぁぁっっ!」
部外者を装っていた奈子だったが、思わず叫んでしまう。
「おねーちゃんって、ロリコンなの?」
真剣に訊いてくるユクフェの視線が痛い。
「あたしも襲われないように気を付けなきゃ」
「違〜う!」
奈子は頭を抱えた。
ソレアが弟子を取ったという事実。
それは目出度いことなのかもしれないが、奈子にとっては、頭痛の種がひとつ増えるということらしい。
その夜、ソレアの屋敷はかつてない賑やかさに包まれていた。
奈子と由維、ソレアとファージ、そしてユクフェの五人に加え、ソレアが呼んだのか単なる偶然かは知らないが、フェイリアとエイシスが、リューリィまで連れてやって来たからだ。
この家に、こんな大勢の人間が集まるのは初めてだ。少なくとも、奈子が知る限りは。
本来はフェイリアも「王国時代の知識を求める者」であり、ソレアたちとは対立する立場ではあるが、最近では、少なくとも奈子の見ている前では衝突することはない。奈子としては、ファージもソレアも、そしてフェイリアも好きなのだから、これはいい傾向だ。
パーティ…というか宴会は、夜中まで続いていた。
ソレアと由維、そしてこれも料理が上手なリューリィの手料理と、エイシスが持ってきた上等なワインに舌鼓をうって。
ユクフェも大喜びだ。
かなり遅い時刻になって、奈子は酔い醒ましにバルコニーへ出た。頬に当たるひんやりとした夜の空気が心地良い。
ユクフェは、さすがにもう寝室へ下がっているようだ。
リューリィが竪琴に似た楽器を弾きながら歌っていて、他の人たちはそれに聴き入っている。由維とファージも、今夜は一時休戦といった様子だ。
(リューリィって、歌もうまいんだな…)
ぼんやりと思う。
顔は文句なしに美しく、スタイルも良くて、おまけに料理も上手で、歌を歌わせれば本職の歌姫並の美声だ。
なんとも、完全無欠の美少女ではないか。
(唯一の欠点は、男の趣味が悪いこと…か)
そんなことを思いついて、一人でくすくすと笑った。
それにしても、綺麗な歌声だ。曲も美しい。
素朴で、それでいて心に染み渡る旋律。遠い昔にどこかで聞いたことがあるような、懐かしい旋律。
この大陸に古くから伝わる歌だそうだ。
奈子は、目を閉じて聴いていた。
夜風に身を任せながら。
「…どうしたの、こんなところで」
いつの間にか、ソレアが隣に来ていた。
「ちょっとね、酔いを醒ましてるの」
「今夜は、そんなに飲んでいないじゃない」
「この前が飲み過ぎだったから。少し控えてる」
「そうよね。リューリィが見ている前でエイシスに迫ったりしたら大変だものね」
ソレアがからかうように言う。
「…もう、そのことは忘れてよ」
奈子は真っ赤になって言い返した。自分でも、恥ずかしくて思い出したくないことだ。今さら蒸し返してほしくない。
「…たまには、こんな日があってもいいかもね」
しばらく黙っていたソレアが、ぽつりと言った。
「…え?」
一瞬、なんと言ったのかわからなくて聞き返す。
「この家で、こんな風に友達が…と言っていいのかな…が集まって騒ぐことがあるなんて、奈子ちゃんと出会う以前は考えられなかったわね」
「……」
奈子は黙ってソレアを見た。
いつものように、静かに微笑んでいる。その表情からは、ソレアが何を考えているのか伺い知ることはできなかった。
「以前は、ファージも滅多に顔を出さなかったし」
「…それもそうか…」
言われてみれば、普段この屋敷を訪ねてくる者といえば、今日ここにいる者を除けば「表向きの仕事」の客しかいない。ソレアやファージの友人などは会ったことがないし、恋人がいるという話も聞かない。
ファージとソレアも、奈子が間にいない時は決して仲がいいわけではない。
王国時代の知識を受け継ぎ、護る者――墓守。
普通の人間と同じような生活はできないのだろう。
「その…ソレアさん、恋人とかは…?」
「いるはずないでしょう? 物心ついた頃からずっと、墓守としての知識と技を叩き込まれてきたんだもの。普通の女の子のように友達と遊ぶ時間も、恋をする時間もなかった。おかげで、この歳になってまだ処女よ」
ソレアは自嘲めいた笑いを浮かべる。それから、ゆっくりと話し始めた。
ソレアの身の上話なんて、初めて聞いた。
物心つく以前に、母親が亡くなったこと。
それからは父親と二人で生きてきて、魔法の知識と技術を教え込まれたこと。
十六歳の時に、初めて墓守のことを聞かされ、それ以後は墓守としての教育を受けてきたこと。
同じ頃、父親に紹介されてファージと初めて出会ったこと。
その父親もソレアが二十歳の時に殺されたこと。
父親の死後は、ソレアが墓守の最後の一人だった。もっと昔は、他にも墓守の家系はあったらしいのだが。
「それが正しいことかどうか、楽しいかどうか、そんなこと考えたこともないわね。それがすべて。そう教えられてきたんだもの」
「ユクフェを、墓守の後継にするつもりなの?」
奈子は、昼間から気になっていたことを訊いた。この話を聞いた後では、ユクフェはここにいない方がいいのではないか、とも思えてくる。
「…さあ、正直なところ、わからないわ」
ソレアは隠さずに答えた。
「そうなれるだけの教育はするつもりだけど…最終的に道を選ぶのは本人ね。私には、その自由もなかった。いずれにしても、ユクフェちゃんには今のところ、ここにいる以外の選択肢はないんだし」
「選択肢がない? …どうして?」
「ユクフェちゃんの家があるヌッカプの村は、お世辞にも豊かとはいえない地よ。そんな土地で女の子ばかり三人姉妹、楽な暮らしではないでしょうね」
「あ…」
この世界、奈子の世界の中世に比べれば女性の地位は比較的高い。魔法に関しては、一般に女性の方がやや優れた能力を示すからだ。
とはいえ、農作業のような力仕事には、どうしても男手が必要になる。貧しい村で、女の子ばかり三人もの子供を育てるのは、並大抵の苦労ではあるまい。
そう考えると、ユクフェが「追い出された」と言っていたのも、あながち冗談ではないのかもしれない。
「…口減らし、ってこと…?」
「まぁ、そんなところね。女の子の場合、人買いに売られることも多いけど」
「そんな! でも、あれだけ魔法の素質があれば…」
「確かに、あの子は優れた素質を持っている。並の魔術師では手に余るほどの…ね。他に行き場所がないっていうのは、そういうことよ」
つまり、ユクフェが魔法で身を立てようにも、並の魔術師では彼女を弟子にはできないということか。
「そんな…、あんなに元気で、明るくて、生意気なのに…」
「精一杯の強がりでしょう。ね、今夜はユクフェちゃんと一緒に寝てあげてくれない?」
「え?」
「もし夜中に目を覚ました時にひとりだったら、寂しいかもしれないでしょう?」
「ああ、そうだね、そうするよ」
奈子はうなずいた。故郷を遠く離れて、見知らぬ街で迎える初めての夜。そしてユクフェはまだ十歳の女の子なのだ。ホームシックにならないとも限らない。
こんな時、人の温もりが傍らにあるだけでぜんぜん違う。奈子は経験的に、そのことを知っていた。
「ちょうどアタシも、どこで寝たらいいのか悩んでたし」
「自分のベッドは?」
「きっと今頃、由維とファージが占領してる」 苦笑いを浮かべて応える。
「後継者といえば…」
ソレアが、複雑な表情で口を開いた。
「今だから言うけれど、ナコちゃんと会ったばかりの頃、あなたをそうしようと考えていたのよ。ファージも、そのつもりであなたを寄越したんだと思ってた」
「え?」
あまりにも意外な発言に、一瞬、思考が停止する。
「素質は十分だし、この世界に何のしがらみもないし…適任でしょう?」
「だからって、そんな…」
「まあ、性格的には向いていないかもしれないわね」
「当然でしょ」
奈子は即答する。
「それに…アタシ、ソレアさんのことは大好きだけど、はっきり言って『墓守』って存在は、嫌いだな」
「…嫌い?」
ソレアが訝しげな表情で奈子を見る。その目を真っ直ぐに見つめ返して、奈子は言った。
「ソレアさんも、それにファージも、過去に縛られて生きてる。アタシはヤダ。アタシは…未来のために生きたいよ」
「……」
ソレアは無言のままだ。
ただ黙って、奈子を見ている。
「ソレアさん、自分の未来って考えたことある? 死ぬまで、ただひっそりと王国時代の力を封印するためだけに生きるの? トリニアが滅びてから千年、墓守たちはずっと同じことを続けてきた。王国時代の遺跡を封じ、その力を求める者たちと闘いながら。この先千年も、また同じことの繰り返し?」
「ずいぶんはっきりと、言いたいこと言うのね」
小さくため息をつく。
「それが性格だもの」
「少し羨ましいわ、あなたの生き方。でも…」
ソレアは視線を外すと、夜空を仰ぎ見た。今はノーシルの三つの月のうち、ひとつだけが空にあった。
「…生き方って、簡単には変えられないものよ」
「少しずつでもいいんだよ。でも、昨日と違う今日、今日と違う明日。少しずつでもなにか変えていかなきゃ、結局、なにも変わらない」
月明かりの下で静かに微笑んでいるソレアの姿は、いつになく儚げに見えた。
まるで、今にも月の光に溶けて消えてしまいそうな。
「生意気なこと言ったかもしれないけどさ…でも…」
「いいえ、その、常に前向きなあなたの性格は貴重だと思うわ。多分私たちにとっては、前だけを見て生きるには過去が重すぎるのね」
重すぎる過去。千年前に世界を滅ぼしかけた、凄惨な戦い。
奈子の世界で言えば、それは全面核戦争にも匹敵するものだ。
その大きすぎる傷痕は千年経った現在でも生々しく残り、風化することがない。
そんな世界で生まれ育ったために、どうしても過去に縛られてしまうのだ、と。
それは、奈子にもわかる。
それでもやっぱり、奈子は前を向こうとする。以前、クレインが言っていたではないか。「歴史を紡ぐのは、今を生きている者の役目だ」と。
未来へ向かって、新たな歴史を紡ぐことを諦めてはいけない。
とはいえ、ソレアにはソレアの生き方がある。
彼女がこれまで生きてきた三十年の歴史がある。
価値観がある。
それをすぐに変えろと言うのも、無理なことだろう。
だから奈子は、この話題をそれで打ち切った。
「じゃ、ユクフェのところに行くわ。お休み」
「…おやすみなさい」
ソレアは奈子の背中を見送る。
いつの間にか、居間は無人になっていた。リューリィやエイシスたちも寝室へ引き上げたらしい。
「後片付けは…明日にしましょうか」
ソファに腰を下ろして、残っていたワインを空の杯に注いだ。
奈子が寝室の扉をノックした時、ユクフェはまだ起きていた。
ベッドの上に座って、窓から外を見ていたらしい。その背中が寂しげに見えたのは、奈子の気のせいだろうか。
「ここで寝てもいい? アタシのベッド、由維とファージに占領されちゃって」
「…襲わないでね」
ユクフェが笑いながら応える。
「誤解だって」
「でも、ナコおねーちゃんってカッコイイから、襲われてもいいかも」
「なにマセたこと言ってるの」
ユクフェの頭を小突いて、奈子はベッドに入った。ユクフェも隣にもぐり込んでくる。ちょうど、ユクフェに腕枕しているような格好になった。
隣から静かな寝息が聞こえてくるまでに、そんなに時間はかからなかった。奈子に抱きつくようにして、ユクフェは眠っていた。
「まだ、起きてたんだ」
一人で居間のソファに座っていたソレアに、ファージが声をかけた。
「ファージこそ」
「…ちょっと、ナコには内緒の話があって」
「珍しいわね」
ソレアはそう言うと、テーブルの上から、まだ少し残っているワインの瓶を取った。
「飲む?」
「少し」
そう応えるファージに、ワインを注いだ杯を渡した。ファージはそれを、ゆっくりと喉に流し込んだ。
そして、本題を切り出す。
「ユイのこと、どう思う?」
ソレアは少し考えてから応えた。
「可愛い子ね。頭も良さそうだわ」
「そういうんじゃなくて」
ファージが何を言いたかったのか、ソレアにはもちろんわかっている。
わかっていて、わざとはぐらかしてみた。
黙って、ファージの顔を見る。
「どうして、今になって連れてきたんだと思う?」
本当なら、もっと早くにそうしていてもいいはずだった。
相変わらず、転移魔法でこちらの人間が奈子の世界へ行くことはできない。しかし、奈子が自分の世界の人間を連れてくることはできると、ずっと前からわかっていた。
なのに奈子はこれまで、頑として由維を連れてこようとはしなかったのだ。ソレアは以前にも「連れてきたら?」と勧めたことがあるのに。
理由は簡単だ。
この世界では、由維の身に危険が及ぶかもしれないから。
奈子ひとりでも、いつも闘いに巻き込まれ、危ない目に遭っている。そんな状況で、由維を護りきれる自信がないから。
だから、これまで連れてこなかった。
なのにどうして、今になって連れてきたのだろう。
「むしろ、前よりも危険は増しているのに…」
以前よりも危険が減ったということはない。むしろ、その逆だ。
ソレアやファージにとっては何も変わらないが、奈子にとっては危険が増していると言っていい。
ソレアたちの『敵』が、ナコ・ウェルという存在を認識している。
単なる「墓守の傍にいる女の子」ではない。無銘の剣を所有する騎士として、彼女を認識しているのだ。
その代表がトカイ・ラーナ教会だ。
しかもアルワライェ・ヌィは、奈子が持つ無銘の剣よりもむしろ、奈子本人に興味を示しているらしい。
これまでの奈子の闘いは、他人の闘いに巻き込まれたものか、自ら進んで首を突っ込んだもののどちらかだった。
しかし。
あの事件以来、事情が変わってきている。
奈子自身が『敵』の目標となることもあり得るのだ。
なのにどうして、今になって由維を連れてきたのだろう。
「だからこそ…かもしれないわね」
ソレアは独り言のように、ぽつりとつぶやいた。
「ん?」
ファージがソレアを見る。
「並の騎士を圧倒する戦闘能力と、だけど他人を傷つけることを望まない心。その矛盾を、ユイちゃんが取り除いてくれるとしたら?」
「ユイがいれば、無茶な闘いには関わらないってこと?」
「その逆よ。あの子がいれば、ナコちゃんはなんでもできる。あの子を護るため、という大義名分さえあれば、ナコちゃんは屍の山を築くことだってできるでしょう。ユイちゃんのためなら、正気を保ったままそれができるわ」
ソレアは難しい表情で言った。
「もっとも、それがナコちゃんにとっていいことなのかどうか…。とりあえずあの子を連れてきたからといって、ナコちゃんの弱みが増えたわけではないということね」
「難しいな…」
ファージがつぶやく。
「正直なところ、ナコはこれ以上関わらない方がいいのかもしれない。あまり、危ない目には遭わせたくない。だけど…」
「こっちへ来ることを止めることもできない。一緒にいたいから…?」
「ずいぶん久しぶりにできた『友達』だもの」
「あら」
ソレアが意外そうな声を上げた。からかうような調子で。
「私は、友達じゃなかったの?」
ファージは驚いた表情でソレアを見た。ソレアがこんなことを言うなんて、思いもしなかった。
墓守にとってのファージは本来、単なる『武器』でしかない。
「私には、ソレア・サハなんて友達はいないね」
むっとした口調で、ぶっきらぼうに応える。
本心かどうかはわからないが、ソレアはほんの少し、傷ついたような表情を見せた。
「…でも、ユウア・ヴィ・ファラーデって友達はいたよ。昔…ね」
ファージがそう言うと、ソレアの口元に微かな笑みが浮かんだ。
「ねえ、ファージは、自分の将来なんて考えたことがある?」
「え?」
いきなり話題を変えられ、ファージは戸惑った。
「私たちは、いつも過去ばかり見ているわね。やっぱり、過去の歴史が重すぎるから…かしら」
ソレアが何を言いたいのかわからずに、ファージは黙って見ている。
「ナコちゃんはいつも前向きよね。その瞳は、常に未来を見ている。その身体にも、心にも、いくつもの過去の傷が刻まれているのに。振り返ろうとはしない」
その口調にはいくらかの、憧れが含まれているように感じられた。
「だけど、この世界にだってそういう人はいたわね。どれほど傷ついても、決して未来への希望を捨てなかった。執念深く…といってもいいほどの強さで、遠い未来を見据えていた」
「ユウナ・ヴィとか、レイナ・ディとか…?」
「そうね…」
静かにうなずく。
「マルスティアとアンシャスの遺跡…。もう一度、調べてみた方がいいかもしれないわ」
「レイナ・ディ・デューン…か」
ファージは独り言のようにつぶやく。
「あなたは、直に会ったことはないの?」
言われて、記憶を辿る。長い長い千年分の記憶を。
自分の脳だけでは憶えきれない情報は、聖跡が記憶している。そこから引き出せばいい。
「私はその頃、聖跡の中さ。実体も持たずに…ね」
ファージが肉体を与えられて聖跡の外に出たのは、もっと後の時代だ。
「でも、聖跡の中で一度だけ会ったことがある…かな。聖跡の外から、実力であそこまで入ってきた奴は初めてだった」
「似ていた?」
興味深げに、ソレアは訊く。誰に、とは言わなかったが、ファージには通じたようだ。
「顔は、少し…ね。ナコよりもずっと性格悪そうだった」
二人は声を揃えて笑う。
「そうだね。近いうちに北の方へ行く用事があるから、その時にアンシャスの遺跡も寄ってみるわ。マルスティアはその後…かな。なにしろ忙しすぎるよ。最近はトカイ・ラーナ教会だけじゃなくて、ハレイトンもアルトゥルも、しまいにはヴェスティア王国まで、いろいろと怪しげな動きをしているから」
「悪いけどお願いね」
「悪いけど…か、そんなこと言ったことなかったよね」
ファージは、杯を置いて立ち上がった。
「じゃ、おやすみ。ユウア」
「…おやすみなさい、ファージ」
「…古来、魔法の力は、その呪文が持つ『言霊』によってもたらされると考えられてきました。これに異を唱えたのがストレイン帝国の魔道学者ヘイトック・サムで、彼は、いっさい呪文を発せずにまったく同じ魔法の効果が得られることを、実験で証明してみせました。
ヘイトックは、魔法の発動は精神の働きにのみ依存し、呪文は精神集中を助けるだけのものあると考え、自著『精神魔法論』に記しています。この仮説は、その後五十年間にわたって、魔法論の中心として支持されてきましたが、トリニアの時代になって、ハレイトン王国の主席魔術師ルス・ルゥの実験によって覆されました。
ルスは、脳の思考を司る部分を破壊した実験動物を用い…ナコちゃん!」
何の予告もなしに、ソレアは手にしていた厚い本を、机に突っ伏して居眠りしていた奈子の後頭部に振り下ろした。
重々しい打撃音と、悲鳴が同時に上がる。
「いったぁ〜い! もう、なにすんのよ!」
「それはこっちの台詞。毎日居眠りばかりして、もう少し真面目にやったらどう?」
隣に座っている由維とユクフェが、呆れ顔で肩をすくめている。
ユクフェが弟子入りして以来、奈子と由維も一緒に、ソレアから魔法学の講義を受けるようになっていた。
こちらに来たばかりの由維と違い、一応は魔法を使える奈子だったが、きちんとした教育を受けているわけではないので、かなり我流が入っている。その上、理論面がさっぱりだからだ。
しかし奈子の授業態度は、優等生と呼ぶにはほど遠い。自分の世界でも、学校の授業はあまり真面目に聞かない方である。
常に泳いでいないと呼吸できない鮫に似て、動きを止めた途端に眠くなる体質なのだ…とは由維の弁だ。
もちろん奈子はそれに反論したが、講義の度にこんな調子ではやや説得力に欠ける。
「最近、すごく眠いんだよ。春眠暁を憶えず、ってね」
大きな欠伸をしながら応える。
「あなたの世界では秋でしょうに!」
ソレアはこの台詞だけは、ユクフェの耳に入らないように小声で言った。
「だいたい、こ〜ゆ〜講義って退屈なんだよね。アタシは別に魔法学者になりたいわけじゃないんだから、魔法の歴史とかを勉強しても意味ないもん。もっと、実践的なことを憶えたいな」
「どんなことにも、基礎は必要でしょう?」
「だからといって、剣士になるのに刀鍛冶の知識は必要ないっしょ?」
「まったく、ああ言えばこう言うんだから…」
温厚なソレアには珍しく、かなり不機嫌な様子だ。
これまで弟子を持ったことはないと言うソレアだが、教師としてはかなり熱心というか、スパルタというか。とにかく、奈子のような不真面目な授業態度は我慢がならない性格らしい。
これまで知らなかった一面を見たな…と、奈子は呑気に考えた。
「あの、ソレアさん。質問なんですけど…」
由維がそっと手を上げる。
「はい?」
ソレアは途端に笑顔になって振り返る。由維のような真面目な生徒はお気に入りらしい。
ちなみに、ユクフェも講義になると真剣になる。まあ、こちらは自分の将来がかかっているのだから、当然といえば当然だ。
「なに、ユイちゃん?」
「そもそも、魔法っていつ頃からこの世界に存在してるんですか?」
「いい質問ね」
教師の表情に戻ったソレアが答える。
「でも、はっきりとしたところはわかっていないのよ。いろいろな説があるんだけど…。昔は、人間が誕生した時から存在していた、といわれていたわ」
「でも、人間以外の動物でも、魔法が使えるものはいますよね?」
「そう。だから、この星に生命が誕生した時から普遍に存在した力だ、と。そういわれていたこともあった。だけど、そうすると矛盾があるのよね」
「矛盾?」
由維が首を傾げる。
「魚類、及びそれよりも下等な動物には、魔法を使えるものがいないのよ」
「あ…」
それに対して両生類、爬虫類、哺乳類、そして鳥類には、魔法を使える種が存在する。
だから、魔法の能力が動物に備わったのは、魚類が両生類に進化して地上へ進出した頃、二億〜三億年前のことであろう、と。
それが王国時代の通説だった。ただし、確証があるわけではない。
古代の生物が魔法を仕えたかどうかを調べるのは難しいことだ。魔法の素養の有無は、化石には残らない。
「でも、それってヘンですよね」
由維は既に、その矛盾に気付いていた。
「陸に上がった最初の両生類に魔法の能力が備わったのだとしたら、それから進化した動物すべてが、魔法を使えなきゃならないのに」
現実には、魔法を使える種はごく僅かだった。
数としては哺乳類がもっとも多いが、王国時代に人の手で作りだされた種を除いた、いわゆる「天然種」は三十種類程度でしかない。鳥類や爬虫類に至ってはさらに少ない。
「そうね。だから、もっとも革新的な仮説としては、魔法が生まれたのは僅か十万年前だ、という人もいるわ」
それは、王国時代の末期、トリニアの若い魔道学者が唱えた説だった。魔法の能力を持つ動物の遺伝子を徹底的に調べ上げ、その種が地上に出現したのは約十万年前と計算したのだという。
しかしそうなると、魔法の能力は複数の種にほぼ同時に顕現したことになる。それはそれで、弱点の多そうな学説だった。
「十万年前の出来事といえば、いわゆる『大破局』…前文明の滅亡があるわ。それと魔法の出現がなにか関係しているのではないか、とその学者は考えていたらしいけど、実際のところ何の確証もないわ」
「前文明…ね」
十万年前、この星に生まれた最初の文明。
原始時代の小さな村落での生活よりもはるかに進んで、石造りの大きな都市を築くところまで発展していたと考えられている。
しかしそれは、想像を絶する大きな災厄――おそらくは巨大隕石の衝突――によって滅び、人間たちはまた原始時代からやり直すこととなった。
現在の人間の歴史は、そうして紡がれてきたのである。
「前文明の滅亡と魔法の発生の関連については何の証拠もなくて、どちらかといえば学問というよりも、お伽話の世界ね」
「ふぅん…」
由維はどことなく不満げだった。今の説明だけでは物足りない。
昔から何かわからないことがあると、徹底的に調べなければ気が済まない性格だった。だから、こうして結論が出ない疑問があると、欲求不満に陥ってしまう。
しかし、これだけ博識で、王国時代の知識にも通じているソレアがわからないとなれば、今のところは諦めるしかあるまい。
「…じゃあ、講義の続きに戻しましょうか。トリニア暦二五五年、テンナ王国の魔術師ティアットが、魔力の強さと月に関する論文を発表しました。月と魔法になんらかの関わりがあることはそれ以前からもいわれており、月の光が魔力の源であるという古い伝承は大陸各地に残っています。
しかしティアットは、光を完全に遮断した地下室で実験を行うことによって、月光と魔力の関連を否定。この星ノーシルを巡る三つの月の配置こそが、魔力に影響を与えることを発見しました。そして、月の配置以外の条件を同じにした実験では、最悪の配置と最良の配置で、魔力の強さに約二割もの差が出ることを確かめたのです。
多層次元論が魔法理論の主流である現在では、月の重力がなんらかの影響を及ぼしているものと考えられています。月の軌道と魔力の強さの関係を表した公式は極めて難解なものなので、説明はまた別な機会にしますが…」
調子よく喋っていたソレアが、ふと言葉を切った。その眉間にしわが寄る。
由維とユクフェがソレアの視線を追うと、奈子がまた、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「…顔でも洗って、目を覚ましてらっしゃい!」
同時に、奈子の姿が消えた。
街はずれを流れる川の中へ、強制的に転移させられた奈子が全身ずぶ濡れで戻ってきたのは、それから二十分ほど後のことだった。
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