序章 レーナの末裔


 風が、強くなってきた。
 長い黒髪が風にたなびいている。
 ざわざわと草が揺れる。静かだった湖面に尖った波が立つ。
 そこは広大な湖の岸辺。一度風が吹き始めれば、それを遮るものは何もない。
 レイナ――レイナ・ディ・デューンは、剣を構えて立っていた。
 彼女と向き合っているのは、よく似た顔の女騎士。レイナよりも少し短い銀色の髪が揺れている。その手には、長い、純白の刃の剣が握られていた。
 ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリト。優れた竜騎士を数多く擁するトリニア王国の中でも、最高の騎士の一人だ。
 この場にいるのは、二人だけだった。彼女たちの闘いを邪魔する者は誰もいない。
「もしも……もしもあなたが勝ったら、一つだけ頼みを訊いてくれるかしら?」
 ユウナの唇が小さく動く。
「フェイシア・ルゥに会いに行って」
「フェイシア……トリニアの魔術師か? なんのために」
「会えばわかるわ」
「ふん……。どうやら、負けを覚悟したか?」
 ふっと笑みを浮かべる。
 今日こそ決着がつく。レイナはそう考えていた。
 これまで幾度となく刃を交えた相手。そろそろ終わりにしてもいい頃だろう。
 ストレイン帝国に多大な損害を与えてきた、トリニア最強の竜騎士。彼女を倒せば、戦況は一気に有利になる。しかしレイナにとっては、そんなことは些細な問題だった。自分がユウナに勝つこと、それだけが重要なのだ。
「負ける? 私が? まさか。あくまでも万が一のためよ。実の妹が相手だからといって、勝ちを譲るはずがないでしょう、トリニアの竜騎士としては」
 ユウナの口調には、まるで気負ったところがない。
 余裕を滲ませたその笑みが、妙に癇に障った。これではまるで、自分の方が余裕を失っているみたいではないか。
「この、紅蓮の青竜の紋章にかけて、無様な姿は晒せないわ」
「妹? まだそんな寝言を」
 レイナはこの時まだ、その言葉を信じてはいなかった。
 いや、その表現は正確ではないだろう。心の奥底では「もしかしたら」と思っていた。ただ、信じたくなかっただけだ。
 それを受け入れてしまったら、ストレイン帝国の竜騎士として、これまで自分を支えてきたものがすべて崩れてしまう。
 だから、信じなかった。髪の色こそ違え、顔立ちのよく似たこの騎士を目の前にしても。
「この私が、そんな見え透いた手に乗るとでもっ?」
 叫ぶと同時に、レイナの方から仕掛けた。動揺を見透かされないために。
 勝ちを譲るはずがない――その言葉は嘘だった。
 後になって思えば、この時ユウナは最初からレイナに――妹に殺されるつもりでいた。レイナをフェイシアと会わせれば、自分の目的は達せられるから、と。
 レイナの剣が、無銘の剣と呼ばれる最強の魔剣が、ユウナの身体を貫いていた。
 あの感触は一生忘れない。
 どれほど忘れようとしても、忘れることはできない。
 血を分けた姉を、この手で殺したことを。
 同じ血を分けて生を受けた自分の半身を、自らの手で永遠に滅ぼしたことを。


 
「――――」
 ごく短い時間、気を失っていたらしい。
 レイナは、頭を軽く振りながら身体を起こした。
 また、あの夢を見た。
 ユウナを殺した時の夢を。
 昨日のことのように鮮明だった。しかし実際には、あれはもう何年も前のことだ。
 レイナがまだ後ストレイン帝国の竜騎士で、トリニアと激しい戦闘を繰り返していた頃のこと。
 運命とは、なんと不思議なものだろう。今の自分はアンシャスの女王であり、トリニアの残党と同盟を結んでストレインの帝都に攻め込んでいる。
 ユウナと闘った時には思いもしなかったことだ。
 あの当時とはずいぶんと状況が変わってしまった。
 いま一度、周囲を見回す。後ストレイン帝国とトリニア王国連合の、最後の戦いの光景を。
 主の力を誇示するような、荘厳な宮殿。
 それが、燃えていた。天井が崩れ、床は瓦礫に埋まって足の踏み場もない。
 床に転がっているトリニア、ストレイン双方の騎士たちの骸。
 血を流して倒れている長い銀髪の魔術師、フェイシア・ルゥ・ティーナ。
 そして、左胸を紅く染めたストレイン帝国の皇帝。
 ただ一人レイナだけが、深手を負いながらも剣を手にして立っていた。
 ちらりと、床に落ちている剣に目をやる。
 漆黒の刃の――黒の剣。
 このままにしておいていいものだろうか。しかしレイナでは、黒の剣に触れることもできない。
 触れればおそらく、魅了されてしまう。あの魔性の剣に。
 破壊することもできない。黒の剣は永遠不滅の存在なのだ。
「……仕方ない」
 今は、どうしようもない。
 レイナは黒剣をそのままにして、瀕死のフェイシアの身体を乱暴に担ぎ上げた。
 宮殿の建物全体が軋みを上げている。ここも、もう長くは持たない。この場で死ぬつもりでなければ、早々に退散するべきだろう。
 大きな窓から身を乗り出し、そのまま外に飛び出した。
 二人を空中で拾い上げたのは、巨大な青竜だった。今はレイナの騎竜となっているフレイムだ。
 翼の付け根に真新しい大きな傷があり、裂けた鱗の間から紅い肉が覗いている。深紅の傷と青い鱗のコントラストが少し不気味だった。
 レイナとフェイシアを背に乗せたフレイムは、一気に高度を上げた。
 ストレインの帝都レ・ミレアスの全域が見渡せる。レイナも子供の頃、この街で暮らしていた。
 あちこちで、大きな炎が上がっていた。帝都全体が煙に覆われ、遠くが霞んで見える。
 レ・ミレアスは、五百年近いその歴史に幕を下ろそうとしていた。昨年、トリニアの王都マルスティアが同じ運命を辿ったように。
 五百年に渡ってこの大陸を支配してきた二つの大国が、時をほぼ同じくして最期の時を迎えようとしている。
 これは、なにかの啓示だろうか。
 レイナは無言で、燃える帝都を見下ろしていた。



「……暑いし、埃っぽいし。最低の場所だな、ここは」
 ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリトは、滴る汗を拭いながら不機嫌そうにつぶやいた。
 山脈から吹き下ろす風がこの地方独特の朱い土を巻き上げ、街中の建物を同じ色に染め上げているように見える。水と緑に囲まれた王都マルスティアで生まれ育った彼女には、我慢がならない土地だった。
 自慢の銀髪が赤毛になりそうだ――と毒づく。
 ここは、金の鉱脈を探す山師たちによって拓かれた辺境の街だ。いくら荒事に慣れている騎士とはいえ、トリニアの名門の生まれである十八歳の女性が安らげるような場所ではない。
 しかし、文句は言っていられない。
 コルシア平原の西端に、大陸中央部を南北に貫く大山脈が聳えている。この街は、そこへ旅する際の出発点だった。
 ここで食料をはじめ、必要な物を揃えなければならない。竜の棲む中央山脈へ旅をするためには、この街に立ち寄らなければならないのだ。
 ユウナは、騎竜を探す旅の途中だった。青竜の騎士となる資格を得た者の、最後の関門だ。
 誰よりも優れた力があるからといって、それですぐに竜騎士になれるというわけではない。騎竜を――騎士の力を認め、共に闘ってくれる伴侶を見つけなければならない。
 それは、簡単なことではなかった。これに比べれば、竜騎士候補同士での試合など子供の遊びも同然だ。
 竜はただでさえ数が少ない。人間に心を開く竜となればなおさらだ。
 ユウナは、心を通わせることのできる竜を見つけるまではマルスティアには戻らない覚悟でいた。たとえ、何年かかろうとも。
「……こんばんは、お一人?」
 宿で夕食を摂っている時、一人の女性が声をかけてきた。
 珍しいことだ。若くて美しいユウナに声をかけてくる愚かな男は掃いて捨てるほどいたが、女性とは。
 ここはトリニアの中央から遠く離れた辺境の土地、そもそも若い女性は極めて少ない。山師たちを相手に商売する女ならよく見かける。しかし、この女性は違うようだ。
 食事の手を止め、相手の顔を見る。
 こんな埃っぽい土地には不釣り合いな長い銀髪の、美しい女性だった。
 年齢はよくわからない。外見だけならユウナよりも少し上というところだが、もっと年長らしい落ち着きも感じさせる。第一、相手が力のある魔術師であれば、実年齢は外見だけでは判断できない。
「初めまして。私はフェイシア・ルゥ。フェイシア・ルゥ・ティーナ。こんなところでアール・ファーラーナに会えるとは幸運だわ」
 外見に相応しく、声も美しい。が、ユウナは微かに眉をひそめた。アール・ファーラーナと呼ばれるのは好きではない。
 アール・ファーラーナ――ファレイアの神話では、太陽神トゥチュと大地の女神シリュフの間に生まれた娘、戦いと勝利の女神の化身とされている。古くからトリニアにおいては、美しくて力のある女性騎士に与えられる称号だ。
 ユウナは文句なしに美しく、現役の女性騎士で最高の能力を持っていた。そしてなにより、母親はエモン・レーナの血を引く名門ラーナ家の出身である。女神の称号で呼ばれるのはむしろ当然といえた。
 しかし今のユウナにとって、この名は皮肉にしか聞こえない。
 自分は戦場で大怪我を負わされ、目の前で許嫁を殺された間抜けな騎士だ――そんな想いに支配されている。
「――――」
 ユウナは、無言で相手を睨んだ。
 フェイシア・ルゥという名に覚えはなかったが、向こうはユウナのことを知っているようだ。
 別に不思議なことではない。ラーナ・モリト家の美しい一人娘は、王都でも知らぬ者はない有名人なのだから。
 相手は簡単に自己紹介した。ハレイトンの王立学院に所属する魔術師で、王国時代以前の古い遺跡を研究している――と。
 これから中央山脈の方へ調査に行く予定なのだそうだ。そして彼女は、ユウナに同行を求めてきた。いろいろと危険も多い辺境の地、竜騎士が一緒にいれば心強いから、と。
 ユウナはもちろん、断るつもりでいた。
 そんな暇はない。一刻も早く騎竜を見つけ、あのストレインの竜騎士に復讐しなければならないのだ。
 しかしフェイシアは、ひどく魅力的な提案をしてきた。
 協力してくれれば竜を紹介する、と。
「彼は、この大陸で最強の青竜よ」
 ユウナの心を見透かしたように、笑ってそう付け加えた。


 ユウナとフェイシアが人の暮らす街へ戻ってきたのは、半年以上も後のことだった。
 その間、中央山脈の麓に残された王国時代以前の古い遺跡をいくつも調べ、様々な発見をした。
 もしかしたら、それは知らない方が良かったことかもしれない。
 しかしフェイシアはそれが目的だったのだ。危険だから、というのは方便。最初からユウナを巻き込むつもりでいたに違いない。
 宿を取り、久しぶりに思う存分身体を洗った後で、ユウナは一人で食事に行った。そこへ、男が近付いてくる。
「やあ。君、一人?」
 ユウナは無言で、男を一瞥した。
 背が高く、短い黒髪。見知らぬ男だ。
 鍛えられた身体をしているし剣も持っているが、騎士ではない。騎士の証である腕輪は付けていなかった。
 ナンパ男に用はない、と無視していたが、男はしつこくつきまとってくる。力ずくで黙らせようか、と危険な考えが頭をもたげたところに、フェイシアがやってきた。
 こいつはフェイシアに引き取らせよう、と決めて立ち上がる。
「少しくらい付き合ってくれてもいいじゃないか。俺のどこがいけないんだい?」
「私は、人間に化けて女を口説くような竜は趣味ではない」
 そう言い捨てて、その場を立ち去った。
 残された二人が、ユウナの背を見送る。
「……なんだ、バレてたのか」 
 男の方が肩をすくめた。フェイシアがその腕を小突く。
「当たり前じゃない。あの子を誰だと思ってるの」
「アール・ファーラーナだろう。レーナ家の末裔だ。さすがに魅力的だね。気に入った」
「ところであなた、どうして人型で出てくるのよ?」
 フェイシアは男を睨んで、責めるように言う。
「上手に化けただろ? そう悪くはないと思うが」
 男は軽く両手を広げて、自分の身体を確かめるように見下ろした。
「そうね。でも『悪くはない』って程度でしょう? 人型のあなたはせいぜい並の色男。竜の姿の方がずっと素敵よ。あの子は生まれついての竜騎士なんだから、生身で来ればイチコロだったのに。嫌われちゃったじゃない」
「竜の姿だと、街へは入って来れないし」
「明日の朝、連れていくって言ったでしょ」
「とても待ちきれないね」
 男はそう言って、愉快そうに笑った。


 翌朝――
 ユウナとフェイシアが宿を出たところで、また昨日の男――昨日の竜、というべきか――が近寄ってきた。
 無視するユウナの後を、軽薄そうな笑みを浮かべながらついてくる。ちょうど剣が届かないぎりぎりの距離を空けているのは、ユウナがひどく危険な目をしていたためだろう。
「そうつれなくするなよ。俺は役に立つぜ」
 男が言う。
 ユウナは唾を吐き捨てた。
「ナンパ竜のどこが」
「ナゥケサイネに勝てるのは、俺だけだ」
 ユウナの足が止まった。表情が強張り、全身から殺気が立ち昇る。
 あの巨大な赤竜、ナゥケサイネ。
 ストレイン帝国の竜騎士レイナ・ディ・デューンの騎竜。
 この男がユウナとレイナの因縁を知っているとしたら、それを話した者は一人しかありえない。
 ユウナは無言で、隣で肩をすくめているフェイシアを睨んだ。
「仕方ないじゃない。でも、言ってることは事実。このフレイムは、私が知る最強の戦士竜よ」
「俺が約束できることは、一つだけだ。だが、お前にはそれで十分だろう?」
「約束?」
「俺は、どんな竜にも負けない。俺より強い竜はこの世に存在しない。それだけじゃ、不服か?」
「……その点については、不満はない」
 渋々、といった調子でユウナはつぶやいた。
「じゃあ何が」
「…………軽薄な男は嫌いだ」
 ユウナは、また歩き出した。もう振り返りはしない。
 フェイシアとフレイムが、その後を同じ速度でついてくる。
 結局、正式にフレイムがユウナの騎竜となったのはそれから一年以上も後、後ストレイン帝国のトリニア侵攻が始まってからのことだった。



 身体中が痛い。
 目を覚ましたフェイシアは、真っ先にそう思った。
 しかし、痛みを感じるのは生きている証拠だ、とも。
 微かな笑みがこぼれる。
「なにか可笑しいか?」
 すぐ傍で声がした。
 頭を動かすと、隣に座っているレイナの姿が目に入った。柔らかそうな緑の草の上に腰を下ろしている。
 どうやら自分は、草原の上に敷いたマントの上に寝かされているようだ。
 少し離れたところに、フレイムがいた。同じく草原の上に、傷ついた巨体を横たえている。しかし向こうは単なる昼寝だろう。
(……やっぱり、人型よりもこっちの方がずっと素敵よね)
 そんな、くだらないことを思い浮かべて。
 それからようやく思い出した。今はストレインの帝都を脱出して、アンシャスに戻る途中なのだと。
 重傷のフェイシアに無理は禁物と、ここで休憩していたのだ。
「夢を……見ていたわ」
「夢?」
「ユウナと初めて会った時の。そして、フレイムとユウナが出会った時の」
「……そうか」
 レイナは、興味なさそうに応えた。
 フレイムは、ユウナの騎竜だった。
 ユウナとフレイムが、レイナの騎竜ナゥケサイネを殺した。
 レイナが、フレイムの騎士であったユウナを殺した。
 あれから何年が過ぎただろう。
 そして今、レイナとフレイムは一緒に闘っている。
 お互い、一番大切な相手の仇だというのに。
 だけど……。
「アンシャスに戻って、それで終わりだな」
 長かったのか、短かったのか。
 レイナにはわからなかった。
 普通の竜と騎士のように、心を通わせていたわけではない。
 それでも、相手に生命を預けて一緒に闘ってきた。
 何故。
 なんのために……。



 外はひどい吹雪だった。
 城の窓から見える景色は、白一色だ。
 滅びの光景。
 永遠に続くのではないかと思われる冬。
 レイナは無言で外を眺めながら、昔のことを想い出していた。
 フレイムはもうここにはいない。そしてフェイシアもハレイトンへ戻った。
 だからといって、寂しいわけではない。フェイシアが連れてきた姪のレイナ・ヴィは一緒に暮らしているし、それに――
 コン、コン。
 ノックの音で、思考は中断した。
「レイナ様、午後のお茶をお持ちしました」
 見慣れないメイドが、ティーセットを乗せた盆を手にして入ってきた。
 レイナの口元に、微かな笑みが浮かぶ。
 このメイド、城の者ではない。それはすぐにわかった。身にまとっている気配がまるで違う。
 あの『罠』に掛かった、遠い未来に生きる者だ。
 面白い話だ。
 レイナはまだ、その罠を仕掛けてもいない。
 未来に仕掛けられるであろう罠にかかって、さらに遠い未来からやってきた少女。遠い未来の意識が、あの『罠』の力によってここに実体化している。
 まだ、十代の半ばくらいだろう。ちょうど、レイナがストレイン帝国の正騎士となったのと同じくらいの年頃だ。
 この少女も騎士らしい。左手首にトリニアのものと似た、しかし少し異なるデザインの腕輪をはめている。
 濃い茶の髪と、同じ色の瞳。やや気の強そうな顔立ちだ。
 女子としては長身で、大きな胸を除くと一見細身ではあるが、無駄な脂肪のない鍛えられた身体をしている。そのため、いま身に着けているスカートとフリルの付いたエプロンは、あまり似合ってはいなかった。
 お茶を淹れる手つきがぎこちない。こういったことには慣れていないのだろう。
 じっと目を見て、相手の素性を探る。そして、少しばかり驚いた。
 まさか、異世界からやってきた者とは。
 これはさすがに予想外だった。
 しかし、そんなものかもしれない。
 変化は常に『外』からもたらされるものなのだ。
 レイナは差し出されたカップを受け取ると、ぽつりとつぶやいた。
「まだ、秋の十日というのに、この吹雪か……」
 暦の上では秋になったばかり。このアンシャスが大陸の北部に位置するとはいえ、この気象は異常だった。
「トリニアもストレインも、大陸が焦土と化すまで戦い続けて……。その結果がこれだ」
 自嘲めいた笑みを浮かべる。
 この時代、もうトリニア王国もストレイン帝国も存在しない。
 いくつもの都市が消滅し、数え切れない人間が死んだ。生き残った者はごく僅かしかいない。
 そして、戦争の最後で用いられた強大な魔法の後遺症が、この気候の異変だった。
「この城にはまだ蓄えもあるが……今年の収穫が望めないとなると、またあちこちで戦が始まるな」
 充分な蓄えのない国は、よそから奪うしかない。
 レイナの言葉は、その少女に聞かせるというよりは独り言のようだった。
「自分たちの住む世界を滅ぼして、それでもまだ戦うことを止めないんだ、人間は。結局、人間には過ぎた力なのかも知れないな。この、魔法というやつは……。先人から受け継いだこの力、人間には分不相応だったんだ。いっそ、魔法なんてない方が平和だったとは思わんか?」
 最後の一言ははっきりと、その少女に向けて問いかけた。これが、試験だった。
「それでも……戦争はなくならないと思います」
 少女は答えた。
「魔法が使えず、剣を取り上げたとしても、人間は戦うことを止めません。拳で殴り、歯で噛みついて……。きっと、戦い続けます」
 レイナは微かにうなずいた。
 面白い。なかなか、面白い少女だ。
「しかし、そんな戦いで世界が滅びることはあるまい? どんな動物だって戦いはする。大人しい草食動物だって、発情期には雌を奪い合って争うんだ」
 そこで一旦言葉を切り、カップに残ったお茶を飲み干した。緊張しているつもりはなかったが、喉が渇く。
「だが、それで世界が滅ぶことはあるまい? それは、分相応の力で戦うからだ。人間だけだ。種も、世界も滅ぼしてまで戦うのは。人間だけが、不自然に大き過ぎる力を手にしてしまった。動物の歴史は、戦いの歴史。だけど戦いは本来、生き延びるためのもの。子孫を残すためのもの。滅ぼすためのものじゃない」
 お茶をもう一杯、とレイナはカップを差し出した。少女はそれを受け取って、ポットからお茶を注ぐ。
「竜騎士として、二十年間戦い続けた私が言うことでもないけどな。戦い続けて、勝ち続けて、全ての敵を倒せば、平和が訪れると思っていた。その結果がこれだ……」
 それきり、レイナは黙ってしまった。なにも言わず、二杯目のお茶を空にする。
「レイナ様……」
「お前、名は何という?」
 しばらくの沈黙の後、思い出したように訊いた。そういえばまだ、名前も訊いていなかった。
「……は?」
 少女が一瞬、戸惑ったような表情を見せる。
「奈子……、ナコ・ウェル・マツミヤと申します。レイナ様」
「ナコ……か」
 なるほど、変わった名前だ。
「よし、ナコ。お前にこれをやろう」
 レイナは傍らに置いてあった剣を無造作に取り上げると、ナコと名乗った少女に向かって放った。相手は反射的にそれを受け止める。
「……! レイナ様、この剣……」
 ナコが息を呑んだ。この剣がどんなものか知っているのだろう。
 だとするとレイナ・ディの名は、そんな未来まで語り伝えられているということか。喜ぶことでもないが、忘れ去られるよりはいい。
「私にはもう必要ない。だが、これからのお前には、これが必要になるだろう。わざわざ遠くから来てくれたんだ。持っていくがいい」
 レイナは優しく笑った。若い頃には、決して見せることのなかった表情だ。
「レイナ様、あ、あの……」
「遙かな未来を担う、異界の戦士の行く末に光のあらんことを……」
「――っ!」
 一瞬、ナコの表情が強張る。
 こちらが向こうの素性を知っていることが意外なのだろうか。だとしたらずいぶんと見くびられたものだ。
「レ、レイナ様……」
 レイナはナコの言葉を遮ってナコの肩に手を掛けると、額に軽くキスをした。
「自分を信じて、正しいと思う道を行きなさい」
 優しく、耳元で囁く。
 ナコの姿が、消えかかっていた。すぅっと、透き通るように薄くなっていく。
「ナコ……か」
 ふっと、笑いがこぼれた。
 その名は、決して忘れない。
 未来を託する者。
 今の自分にはできなかったことを、あの少女に託すのだから。



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