一章 漁火の海


「アルが言っていたわ。あなたは、怒っている時が一番魅力的だって」
 アィアリスは、笑って言った。
 恐怖に顔を引きつらせて小さく震えている、ユクフェの肩に手を置いて。
 金属めいた光沢を持つ赤銅色の瞳を、微かに細める。
「知ってるわよ、ナコ。こうするとあなたは、もっと私を楽しませてくれる」
 彼女が何をしようとしているのか、奈子にはわかっていた。にも関わらず、指一本動かすことができずにいる。
 唯一動くのは口だけで、奈子にできるのは悲鳴を上げることだけだった。
「やめてっ! アリス! お願いっ!」
 バンッ!
 泣き叫ぶ奈子の耳に、大きな風船が破裂するような音が届いた。
 ほんの一瞬のことだった。
 そこにはもう、ユクフェの姿はなくて。
 花火のように広がっていく紅い飛沫が、奈子の顔を汚した。
 一瞬前までユクフェであった肉片が、ばらばらと飛び散っている。
「……っ、…………っ!」
 叫ぼうとした。
 声が出ない。
 まるで、重い鉛の球で喉を塞がれているようだった。
 アィアリスは、紅く染まった掌を奈子に向けて笑っていた。
「まだまだ、お楽しみはこれからよ。もっと楽しくなるわ」



 赤茶けた荒野。
 その中にぽつんと建つ、王国時代の神殿風の建造物。
 聖跡、だ。
 これまでに何度か訪れたことがある。
 聖跡の上空を、二頭の紅い竜が舞っていた。入れ替わり、地上に立つ二つの人影を攻撃している。
 鋼をも溶かす灼熱の竜の炎が、夜空を照らす。
 それでも、竜と闘う二人の女性は笑みすら浮かべていた。
 クレイン・ファ・トーム。
 ファーリッジ・ルゥ・レイシャ。
 生身で竜と闘うことのできる力を持つ、数少ない存在だった。
 地上から放たれた白い光が、竜の身体を貫く。墜落する間もなく、その巨体は霧散した。
「さすが聖跡の番人、強いわね。だけど、こうしたら?」
 アィアリスの手の中に、ぽつんと、小さな輝点が現れた。
 針の先よりも小さな、それでいて直視できないほどに目映い光。
「だめっ! やめてっ!」
 奈子は、その光を掴もうと手を伸ばす。
 僅かに、間に合わなかった。
 その瞬間、突き上げるような激しい揺れと、網膜が焼き付くような閃光が一帯を襲う。
 光は一瞬で消えた。
 後には、何もなかった。
 千数百年間……いや、もっともっと長い時を越えて存在し続けた聖跡が、跡形もなく消滅していた。
「さよなら、ナコ……」
 ファージの姿はどこにも見当たらなくて。
 声だけが奈子の耳に届いた。



「どう? 本気を出す気になった?」
 アィアリスが、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「それとも、もっと大切な人じゃないとダメなのかしら?」
 その腕の中に、由維が抱きかかえられていた。由維の大きな瞳が、恐怖の色に染まっている。
「やめてぇっ! お願い!」
「いいわね。その声を、もっと聞きたいの」
 うっとりと言うアィアリスは、至福の笑みを浮かべていた。
「奈子先輩、助けて!」
「由維っ!」
「最高ね。アンコールができないのが残念だわ」
 アィアリスの手に、剣が握られていた。
 漆黒の刃。
 限りない禍々しさを内に秘めた刃が、高く掲げられる。
「やめてっ! やめてぇっ! お願いっ! いやぁぁっ!」
 奈子の悲鳴を伴奏にして、剣は優雅に振り下ろされた。
「奈子先輩っ!」 
「由維ぃぃっっっ!」
 その血は、これまでに見た中でもっとも綺麗な色をしていた。



「――――っっっ!」
 奈子は、汗びっしょりで目を覚ました。
 荒い呼吸に合わせて、胸が大きく上下している。鼓動は痛いくらいに激しくて、心臓が今にも破裂しそうだ。
 部屋の中は真っ暗だった。
 物音ひとつしない。
 何も見えない。
 背中の下に、冷たく濡れたシーツの感触だけを感じる。
 エアコンをつけたままで寝たはずなのに、ひどい汗だった。
「ゆ……め……?」
 頭を動かして、枕元の時計を見る。
 午前二時十五分、まだ真夜中だ。
 奈子は一人で寝ていた。別に珍しいことではない。由維がしょっちゅう泊まっていくとはいっても、それは週の半分ほどでしかないのだから。
 なのに今夜に限って、不自然なくらいにベッドが広く感じられた。
 一人で暗闇の中にいることに耐えられなかった。
 起きあがって明かりをつけ、机の上に放り出してあった携帯電話を手に取った。登録リストの先頭の名前にカーソルを合わせて、発信ボタンを押す。
 一回、二回、三回……。
 呼出音が数を重ねるごとに、不安が増していく。
 五回、六回……。
 不安のあまり叫び出しそうになったところで、呼び出し音が途切れた。眠そうな声が聞こえてくる。
『ふぁい……奈子先輩?』
 普段となにも変わらない、由維の声。
 奈子は、はぁーっと大きく息を吐き出した。
「由維……寝てた?」
『当たり前じゃないですかぁ。……どうしたんです、こんな夜中に』
「え? えっと……」
 返答に困った。そういえば、どうしてこんな時刻に電話なんてしたのだろう。由維が眠っているのはわかっていたはずなのに。
「……いや、なんでもない。ごめん、ちょっと声が聞きたかっただけ」
『ひとり寝が寂しいんですか? これから行きましょうか?』
 不機嫌そうだった電話の向こうの声が、心なしか弾んでいる。
「……いや、いいよ。もう遅いし……おやすみ」
 通話を終えて電話を放り投げると、奈子は頭を抱えるようにしてベッドの端に腰を下ろした。
「は……は……。何やってんだ、アタシは……」
 馬鹿みたいだ。
 本当に、馬鹿みたいだ。
 あれからもう、二ヶ月も経つのに。
 自分が情けなくて、それが可笑しくて、馬鹿馬鹿しくて。
 涙が滲んできた。



 バシィッ!
 重量が百キロ近くもあるサンドバッグが、中段の回し蹴りでくの字に折れ曲がる。
 生身の人間がこの蹴りをまともに受けたら、大人であっても肋骨を折られてしまうだろう。
 しかし。
「気合いが入ってないな。なんだ、その腑抜けた蹴りは」
 声の主は、吐き捨てるように言った。
 額の汗を手の甲で拭って、奈子は振り返る。
 奈子よりも少し小柄な女性が、松葉杖をついて立っていた。表情から察するに、あまり機嫌はよろしくないようだ。
「……美樹さん」
 何を怒っているのか。言われるまでもなくわかっている。だから、奈子は黙っていた。
「全然、気持ちが入っていない。ただ惰性で身体を動かしているだけ。そんな稽古、何時間続けたって無意味だ。やめちまえよ」
「…………」
 言い返そうにも、まったくその通りだから何も言えない。
 何も言い返せない。ファージの死から逃げ出して、何もできずに落ち込んで、嫌なことを忘れるためだけに肉体を疲労させている自分には。
 目の前にいるのは、父親を殺されても闘うことから逃げなかった北原美樹なのだ。
 奈子は一瞬だけ美樹の目を見て、すぐに視線を逸らした。真っ直ぐに美樹を見ることができなかった。
「は……」
 呆れたような、失望したような。
 そんな、小さな溜息が聞こえた。
 二人きりでがらんとした道場が、気まずい空気に包まれる。
 そこへ。
「こんにちはー。奈子いますかー?」
 場違いな明るい声が飛び込んできた。
「……亜依?」
 意外に思いながらその名を呼んだ。奈子の追っかけのような亜依ではあるが、極闘流の道場にまで顔を出すのは珍しい。
「こんなとこまで何しに来たの?」
「ん? ちょっと、デートのお誘い……って、ええっ! うそっ、北原美樹さんっ?」
 亜依は急に大きな声を出すと、靴を脱ぐのももどかしげに道場に飛び込んできた。美樹の前で顔を真っ赤にして、頭から湯気を立てている。
「うわーっ、すごいラッキー! こんなところで美樹さんに会えるなんて! あ、あのっ! 握手していただけますかっ」
 差しだされた美樹の右手を、亜依は両手でぎゅっと包み込んだ。
「あの、ルーシャ・チェルネンコとの試合、武道館で応援してました! もう、すっごい感動しちゃって……。ずっと大きな男の人を相手に、ぼろぼろになっても一歩も引かずに闘って。最後の膝固め、完璧に極まってもうダメだと思ったのに、あそこから抜け出してチョークスリーパーで逆転しちゃって……。もう、すっごい感動しました」
「……ありがと」
 夢中でしゃべり続ける亜依に、美樹も苦笑している。とはいえ彼女は、こんなファンの相手は慣れている。
「あ、あのっ、膝は大丈夫なんですか?」
「ああ。ちょっと時間かかるけど、十二月の『L―ファイト』には間に合うよ」
「よかった。次も頑張ってくださいね。もちろん応援に行きますから。あ、後でサインしてください」
「ああ、ありがと」
 美樹の手が、亜依の頭を乱暴に撫でる。髪をくしゃくしゃにされても、亜依は嬉しそうだった。
 六月末に行われた「世界最強の格闘家」ルーシャ・チェルネンコと北原美樹の世紀の一戦。美樹から余分にチケットをもらった奈子は亜依も誘ったのだが、以来彼女は美樹の大ファンになっている。
「……で、あんたは何しに来たワケ?」
 完璧に存在を忘れ去られていた奈子が口を挟んだ。亜依は、おやっという顔で振り返る。
「……奈子、いたの?」
「あんたねぇ!」
「だって奈子、最近影が薄いんだもの」
「うぅ……」
 また、何も言い返せない。今は、亜依の問答無用パワーに対抗する元気がない。
「なーんて、冗談よ。奈子、来週ヒマ? みんなで海に行かない?」
「海?」
「そう、由維ちゃんとかも誘って。泊まりがけで」
「海……ねぇ」
 今はとても、夏の海で楽しく遊ぼうなんて心境にはなれない。
 しかし亜依は、そんな奈子の気持ちなどお構いなしだ。この話はそれで終わりとばかりに、また美樹に向き直ってTシャツにサインをしてもらっている。
「海……か」
 気は進まなかったが、行った方がいいのかもしれない。少なくとも、家に閉じこもって悩んでいるよりははるかに健康的だろう。



 夏の日本海は本当に穏やかで。
 七月末の強い陽差しを水面で反射して、きらきらと輝いている。一年のうちでもっとも力強い生命力に溢れた季節を象徴するかのように。
 しかし――
「アタシは、クラゲになりたい……」
 ゴムボートをふた回りくらい小さくしたような楕円形の浮き輪に仰向けに寝そべって、奈子はぼんやりと空を見上げていた。
 その目には、生命力のかけらも感じられない。
 言葉の通り、クラゲのようにただ波間に浮かんでいる。一定のリズムで上下を繰り返す小さな波に、身体を委ねていた。
 頭上には、雲ひとつない真っ青な空が広がっている。
 怖いくらいに、深い青。
 こうして仰向けに寝ていると、周囲の風景はまったく視界に入らない。大洋のまっただ中を漂流しているような気分になる。
 本当にそうだったらいいのに、と心のどこかで思っていた。このまま沖に流されて、海の藻屑になってしまえばいい。泡となって波間に消えた人魚姫のように。
 ――と。
「クラゲにはクラゲの苦労があると思うよ。マンボウやウミガメに食べられたりさ」
 そんな声と同時に、浮き輪がぐらりと傾いた。バランスを崩した奈子は海に放り出される。
 水に落ちる直前、浮き輪につかまって笑っている亜依と目が合った。しかしそれも一瞬のこと。瞬きひとつした後には、奈子は澄んだ水の中にいた。
 青と碧と茶色の、ぼやけた視界が広がる。奈子は額の上の水中メガネを下ろし、鼻から息を吐き出して水を抜いた。
 水中メガネの中に空気が満たされるにつれて、鮮明な水中の風景が映し出される。
 水深は三メートルちょっと。
 下の岩が見えないくらいに昆布が密生している。
 その上に文字通り囓りついているのはエゾバフンウニ。
 横にいるのは、赤と青のコントラストが美しい、ブローチのようなイトマキヒトデ。
 わずかに見える岩の上には、大きなムラサキヒトデが五本の腕を伸ばしている。
 海藻の間では、小さなエゾメバルやウミタナゴの幼魚が群れを作って泳いでいた。
 水はどこまでも澄んでいて、信じられないくらい遠くまで見渡せる。ずっと遠くで蒼く染まって終わる景色は、怖いくらいに美しい。
 札幌の近くの砂浜とは、まるで違う光景が広がっている。
 息が苦しくなるまで海中の風景を楽しんでから水面に戻ると、亜依が、先刻まで奈子が寝ていた浮き輪を占領していた。
「せっかく海に来たのに、奈子ってば寝てばっかり」
 奈子は無言で、先刻のお返しとばかりに浮き輪の片側に体重をかけた。亜依が転がり落ちて小さな飛沫が上がる。
 ここは札幌から車で三時間弱くらいのところにある、積丹半島の先端部。
 亜依に誘われて、由維や、他に仲のいいクラスメイト数人と遊びに来ているのだ。この海岸では、亜依の親戚が民宿を経営しているのだという。
 水面から顔を出した亜依は、ぷぅっと水を噴き出すと、浮き輪の代わりに奈子に掴まってきた。背中に当たる柔らかな感触に、奈子は気付かないふりをする。
「ぼんやりして、どうしたの? 奈子ってば、最近輪をかけてヘン」
「そんな、前から変だったみたいな言い方……」
「自覚ないんだ?」
「あのねぇ!」
「私は、元気な奈子が好きだよ」
 耳たぶに唇が触れている。奈子は振り払おうともせず、立ち泳ぎしながら黙って前を向いていた。
「私だけじゃない、他のみんなも」
「……わかってる」
 わかってる。
 それは、わかっている。
 このままでいいと思っているわけではない。
「……でも、ゴメン。もう少し。そのうち、立ち直るから」
 今は、まだ駄目。
 もう少し時間が必要だった。
 深い傷は、癒えるのにそれだけ時間がかかる。
 そして――
 治ったとしても痕はいつまでも残るのだ。



 夕食の後。
 夏の海の夜といえばこれが定番、と民宿の前の海岸で花火に興じていた面々は、ふと、人数が足りないことに気付いた。
「奈子と由維ちゃんは?」
 全員が揃って、辺りをきょろきょろと見回す。見える範囲に二人の姿はない。
「先刻二人で、どこか行ったみたい」
「逢い引き? こんなに早くから? みんなが寝るまで待てなかったのかねぇ」
 小さな笑い声が起こるが、それは花火のように一瞬で消える。
「……やっぱり、二人とも変だよね」
 なんとなく沈んだ表情で亜依がつぶやくと、全員がうなずいた。
 奈子も由維も、傍目にはっきりとわかるくらい元気がない。
 みんな、気付いていた。
「喧嘩でもしたんじゃないの?」
「それなら私にはチャンスだけど、……そういう雰囲気じゃないんだよね」
 あの二人が騒いでいないと、なんだか盛り上がらない。亜依は寂しげにつぶやいた。


 奈子と由維は、少し離れた海岸を歩いていた。
 ごつごつとした岩が連なる海岸を、小さな懐中電灯の明かりだけを頼りに足を運ぶ。
 二人とも無言だった。
 ただ手をつないで、足元に気を配りながらゆっくりと歩いて行く。
 海の方に目を向けると、水平線上に点々と白い灯りが並んでいる。
 イカ釣り漁船の漁火。夏の海の風物詩だ。
 今夜は月は出ていないが、無数に並んだ漁火がぼんやりと空を照らしている。
 ザザ……、ザザ……。
 静かに寄せる波音だけが響く。
 波間で時折、小さな青い光が瞬いている。夜光虫は、まるで海に映った星のようだ。
 民宿の灯りが見えなくなるところまで歩いて、奈子は大きな岩の上に腰を下ろした。黒い岩肌に触れると、まだ微かに日中の温もりを残しているように感じられた。
 由維も隣に座る。
 岩の上に置かれた奈子の手の上に、手を重ねてくる。
「奈子先輩、元気ないですよ」
「…………由維だって」
 またしばらく、無言の時間が過ぎる。
 二人はじっと、暗い汀を見つめていた。
「そういえば、さ」
 しばらく経って、奈子がぽつりと言った。
「去年の夏休みも、二人で海に行ったっけ」
「そういえば」
 由維もうなずく。
「オホーツクの。同じ夏でも、こことは全然風景が違いますね」
 八月上旬だというのに、オホーツク海は冬の日本海のような鉛色をしていた。
 強い風が吹きつけて。
 波が荒くて。
 びっくりするほど大きなクラゲが、防波堤に打ち寄せられていた。
 穏やかな夏の日本海とは、ひとつも似ていない光景を想い出す。
「だけど……」
 心はあの時の方が温かかった。こんな、抜け殻のような心じゃなかった。
 気温はどんなに低くても、二人で寄り添っていれば寒くなかった。
 なのに今は。
 穏やかな夏の日本海。
 日中の暑さはやわらいで、風はほどよい暖かさを保っている。
 なのに、ひどく寒く感じる。
 心が、あまりにも空虚だった。
 胸にぽっかりと、大きな穴が開いている。
 二人で寄り添っていても、塞ぐことのできない大きな穴が。
 オホーツクの海を訪れた去年のキャンプから一年。
 この一年、いろいろなことがありすぎた。
 心も、身体も、耐えられる限界を超えるほどに。
「……本当に……もう、行かないの?」
 独り言のように、由維がつぶやいた。奈子は由維の肩に腕を回して抱き寄せる。
「行かない……行けないよ。そうでしょ?」
 二人の頭が、こつんとぶつかる。
「……向こうでは、アタシの大切な人がみんな死んでいく。ファージも、フェイリアも、アタシの赤ちゃんも、ユクフェもクレインも……。この次は本当に由維かもしれない。だから、もう、……行けない」
 由維には話していない。
 ファージとの別れ以来、毎夜のように見る夢。
 もしもあれが現実になったら、もう生きてはいけない。
 これ以上、好きな人が死ぬところなんて見たくない。何があろうと、絶対に。
「もう……忘れた。何もかも。異世界の事なんて、夢とおんなじ。これからはただの女子高生」
「そう……だね。このまんまじゃ、いけないよね。いつまでも引きずってちゃ……」
「うん……アタシたち二人とも、あれからずっと抜け殻みたい。落ち込んでいたって、ファージは生き返るわけじゃないのに」
「……うん」
「終わったこと、なんだ。よその世界のこと。そう思うしか、ないんだよね」
 だけど。
 ずっと、心の奥底に引っかかっていることがある。
 だから、忘れられない。
 それがなんであるか、本当はわかっている。わかっていて、気付かないふりをしている。
 逃げ出したことに。
 そう、逃げたのだ。
 アィアリスに負けて、あの世界の友人も大切な想い出もすべて捨てて、尻尾を捲いて逃げ出してしまった負け犬だ。
 それがどんなことであろうと、相手が誰であろうと、負けることは大嫌いだったはずなのに。
(……それでも、いいや)
 心の奥に刺さった棘。そのちくちくとした痛みに気付かないふりをして、自分を正当化する。勝てない相手から逃げ出すのは当然だ、と。
 まだ、やらなければならないことがある。それはわかっているけれど。
 死にたくない。
 由維が死ぬところも、見たくない。
 だから、逃げ出した。
 逃げ出して、しかも、そのことを忘れようとしている。
 忘れられるはずはないのに。
 ただ、忘れたふりをすることしかできないのに。
 だけど、今はそれが精一杯。他にできることもない。
 欺瞞でもなんでもいい。嫌なことを忘れられるなら。忘れたふりができるなら。
「……気分転換に、旅行でも行こっか? 久しぶりにこっちの世界の旅行」
 ふと思いついたことを、そのまま口にする。由維が顔をこちらに向ける。
「二人だけで?」
「そう」
「……いいですね。どこ行きます?」
 奈子はまっすぐに海を見つめていた。水平線上に、漁火が等間隔に並んでいる。
 夏の風物詩、イカ漁の灯り。
 イカといえば……。
 一つの地名が頭に浮かんだ。
「函館、なんてどう?」
「朝市でイカそうめん?」
「うん」
「いいですね、行きましょう」
 二人の口元に微かな笑みが浮かぶ。ただしそれは、心からの笑顔ではなかった。



 珍しく月の出ていない、暗い夜。
 入り乱れて飛び交う無数の光だけが、夜空を照らしていた。
 何千、何万という数の魔法の矢。
 その下で、敵味方合わせて万単位の軍勢が刃を交えている。
 爆炎の下に、アルトゥル王国の紋章を染め抜いた赤い旗が浮かび上がる。戦場に翻るのは、強大な軍事力を誇るアルトゥル王国でも一、二を争う精鋭、赤旗軍の旗印だ。
 その精鋭と激戦を繰り広げているのは、中原十カ国の連合軍。すなわち、トカイ・ラーナ教会の軍勢である。
 アルトゥル王国と教会の戦いは、日に日に激しさを増していた。
 先に仕掛けたのは、アルトゥル王国の方だった。最初は、中枢であるアルンシルを失って教会の勢力が弱体化し、中原各国の連携が弱まったところに一気に攻め込もうとしていたのだが、しかしアィアリスが素速く権力を掌握して教会を再建してしまったため、その機会を失っていた。
 そこに、あの事件が起こった。
 大陸でも有数の大都市、ハシュハルドの消滅。
 それに教会が関わっているとなっては、他国は静観していられない。
 このまま教会を野放しにしておくことに恐怖を覚え、これ以上勢力を伸ばさないうちに、今のうちに叩かなくてはと考えた。今ならまだ、教会の勢力はアルンシル消滅以前の水準まで回復していない。
 そうして、戦争が始まった。
「……ここは、勝ったな」
 赤旗軍を率いるアルトゥル王国の将軍サイファー・ディン・セイルガートは、愛馬の背の上で満足そうにつぶやいた。
 激しい戦闘が続いているが、彼の軍は徐々に敵の陣形を突き崩しつつある。
 兵数はほぼ互角。であれば、練度の低い教会の兵が、大陸有数の力を誇るこの赤旗軍に勝てるはずがない。
 個々の兵の能力も、軍隊としての連携も、指揮官の能力も、すべてが上回っている。加えてこの戦場はアルトゥル王国の砦に近く、地の利はこちらにある。
 負ける要素はなかった。
 これでも、敵は主力を送り込んでいるのだ。だからここで勝利を収めれば、戦況は一気にアルトゥル有利に傾く。
 しかし。
「機嫌が悪いようだな、エル」
 サイファーは隣を見て、愉快そうに笑った。「戦場の舞姫」の異名を持つ美しい少女が、戦況は有利であるにも関わらず不機嫌そうに唇を尖らせている。
 エリシュエル・ディン・セイルガート。
 サイファーの妹である。
 父の再婚相手の連れ子ということで、血のつながりはない。しかし実の兄妹といってもわからないくらい、二人は雰囲気がよく似ていた。それに、エリシュエルの優れた剣技も魔法も、すべてサイファーが教えたものだ。
「どうした? せっかくの勝ち戦なのに、その仏頂面は」
 わかっていながら、意地悪く訊く。
 たとえ血はつながっていなくとも、子供の頃から一緒に暮らしているのだ。妹の考えていることなど手に取るようにわかる。
「わかっているくせに。兄様は性格が悪いです」
 エリシュエルは拗ねたように言う。こんな表情はまだまだ子供っぽい。
 彼女は、自分が最前線に立っていないことが不満なのだ。
 アルトゥル王国の女性騎士で最強の名を恣にしている彼女は、兄以上に好戦的な性格である。それなのに後方でじっとしていることに耐えられないのだ。
 なまじ有利な戦況だけに、自分の手で敵にとどめを刺したいと思っているのだろう。しかしサイファーは、それを許すつもりはなかった。
 エリシュエルは確かに、白兵戦においては優れた騎士だ。サイファーの教育の賜物である。
 だがセイルガート家の娘としては、それだけで満足されては困る。真に優れた騎士は、優秀な戦士であると同時に、優秀な指揮官であらねばならないのだ。
「勝ち戦では、指揮官が前線に立つ必要はない」
 サイファーは言った。
「そうしなくても勝てる戦では、手柄は部下に与えるべきだ」
「……兄様の言葉とは思えませんわね。自分はしょっちゅう陣頭に立って、敵を蹴散らしているくせに」
 エリシュエルはつんと横を向いた。指揮能力の重要性は本人もわかってはいるのだろうが、好戦的な性格を抑えきれないのだ。
「そうだ。そうしなければ勝てない戦では、指揮官は命を捨てても自ら最前線で闘わなければならない。しかし、それでも勝てない戦なら……」
「なら?」
「さっさと逃げろ」
「……は?」
 意外な言葉に、不審な目でサイファーを見る。口ではどう言っても実際には兄を信頼しているが、誇り高きアルトゥル王国の騎士に向かって「逃げろ」とは何事か。
「勝てない戦で兵を無駄に死なせてはならない。可能な限り損害を少なくして退却し、次のチャンスを待つんだ」
「勝てそうにない戦をなんとかしてこそ、アルトゥルの騎士ではありませんか」
「戦の勝敗は、兵の練度や指揮官の能力だけで決まるものではない。いかに戦略、戦術を駆使しても、流れを変えられない運気というものがある。それを無視して負け戦を続けるのは、愚か者のすること。待てば、必ず自分に運気が向く時がある。そこを逃さず決戦を挑むのが優れた将だ」
 どんなことにも、場の勢い、流れというものがある。それを正しく見極めることこそ、指揮官に求められる能力だ、とサイファーは考えていた。そうすれば判断を誤ることはない。
「さて……」
 サイファーはもう一度戦場を見渡した。夜であっても、飛び交う魔法の様子で状況は掴める。
「エル、お前ならこの後どう攻める?」
「……右翼に兵力を集め、左の湿地に敵を追い込みます」
「うむ」
 模範解答だった。左手に広がる湿地帯は足場が悪い。土地勘のない敵をそこに追い込めば、行動を大幅に制限することができる。
 しかも湿地帯を抜ける道は狭い。そこで敵を挟撃すれば、一方的に有利な闘いを展開できるだろう。
「では、別働隊を編成して敵を挟み撃ちにするか?」
「いいえ」
 エリシュエルは首を振る。
「あの隘路で挟撃すれば、退路を失った敵は死に物狂いで反撃してくるでしょう。後方からじわじわと包囲を狭めて追撃するだけで十分です」
「よし、合格だ」
 妹の解答に、サイファーは満足げにうなずいた。
 死を前にした時、人は思わぬ力を発揮することがある。敵をそんな状況に追い込むのは得策ではない。
 逃げ道は残しておくべきだ。狭く危険な道とはいえ一つでも退路が残されていれば、敵は決死の反撃などせずにそこへ殺到し、結果、大混乱に陥るだろう。混乱がさらなる混乱を呼び、放っておいても敵は「軍」として機能しなくなる。
 戦わずして勝てるのであれば、それに越したことはない。
「では、敵を追撃するとしようか。ただし、お前は前には出るなよ」
 妹にもう一度釘を刺してから、サイファーは馬を進めようとした。
 その時――
 戦場が突然、日中よりも明るく照らし出された。直視できないほどの光が、地上に無数の長い影を描き出す。
「――――っ?」
 恐怖に嘶く馬を抑え、手で顔を覆って目を庇いながら背後を振り返る。
 自軍の砦があったはずの場所が、半球形の白い光に覆われていた。
 一瞬の後、叩きつけるような突風が襲ってくる。サイファーもエリシュエルも、馬から投げ出された。
「あれは――っ!」
 地面に伏せたまま、サイファーは叫んだ。
 あの光には、見覚えがあった。
 彼は、あのハシュハルドの消滅を間近で見ている。ちょうど街を出たところで、危ういところで巻き込まれずに済んだのだ。
「アィアリス・ヌィかっ?」
 こんなことができるのは、一人しかいない。
 あの「中原の紅き魔女」アィアリス・ヌィ・クロミネルしか。
「……まずいな」
 言葉を失っている妹を後目に、サイファーはすぐに冷静さを取り戻し、状況を判断していた。
 全軍に動揺が走り、兵が浮き足立っている。ここで敵が反撃に出てきたらひとたまりもない。
「これは……勝てんな」
 この戦場にアィアリスがいるのは計算外だった。ハレイトン王国との国境付近にいるとの情報を得ていたのだが。
 力の差がありすぎる。しかも、その力をもっとも効果的に使われてしまった。
 ほとんどの兵は出陣して、砦に残っていたのはわずかでしかないが、人的被害よりも精神的なダメージが大きい。サイファー自身はともかく、他の兵たちが戦いを続けるのは不可能だろう。
「……仕方ない、逃げるか」
 サイファーは悩むことなく、先刻エリシュエルに言った通りのことを実践することにした。



 マイカラスの王都に、魔術師ラムヘメス・サハの屋敷がある。
 タルコプの自分の屋敷を引き払って以来、ソレアはリューリィと共にここに滞在していた。ラムヘメスとは長い付き合いであり、気を遣う必要もない。
 ここで、特に何をしているというわけでもない。考えるべき事はいくらでもあったが、実際になにか行動を起こせるかとなると、できることはほとんどなかった。
 これからどうすればいいのか。
 ソレア自身、途方に暮れていたといってもいい。
 黒剣の支配者となったアィアリスに対して、ソレアができることなど何もない。圧倒的な黒剣の力に、どう対抗すればいいというのだろう。
 黒の剣を封じること。墓守は本来、そのために存在していたというのに。
 クレインも、ファージもいない。フェイリアもいない。奈子もいない。
 千年間続いた歴史の大きな転換期にあって、ソレア一人でいったい何ができるというのか。
「……もう、終わったのかもしれないわね」
 聖跡は失われた。
 無銘の剣を受け継ぐ騎士もいなくなった。
 まだ、最後の切り札がないわけではないが、それをもってしても黒の剣に対抗できるかどうかは甚だ疑問というしかない。
 聖跡の消滅後、マイカラスへの直接的な攻撃がないのが救いといえば救いだった。
 アルトゥル王国が、トカイ・ラーナ教会に戦いを仕掛けたから。そしてハレイトン王国も、教会に対して不穏な動きを見せているから。
 教会にしてみれば、マイカラスのような小国など相手にしている場合ではないのだろう。
 しかし、それも時間の問題だった。途中の経過はどうあれ、最終的な勝者が誰であるかは火を見るよりも明らかだ。
 アルトゥルやハレイトンとの戦いが終わり、アィアリスが再びマイカラスの地を踏めば……。
 それで、終わりだ。
 ソレア一人では、アィアリスを倒すことなど叶わない。
 それにしても何故、教会は……いやアィアリスは、マイカラスに興味を示すのだろう。
 教会との最初の関わりは、もう二年近く前になる。
 アィアリスの弟のアルワライェが、城の地下に保管されている王国時代の古い書物を調べるために、ハルティを狙う暗殺者を囮にして忍び込んだのだ。
 それはまだ納得できる。古い歴史を持ち、大きな戦火に巻き込まれたことのないマイカラスには、ソレアの目から見ても貴重な資料が残っている。
 しかしその後、サラート王国に手を貸してこの国に攻め込んだのは何故だろう。
 自分を傷つけた奈子やファージに対する復讐のつもりだろうか。
 それならばなにも、戦争を起こす必要はない。一人で来ればいいのだ。自分の力に絶対の自信を持っていたアルワライェなのだから。
 ギアサラス地方の割譲、というアィアリスの要求にヒントがありそうだった。
 普通に考えれば利用価値のない砂漠。わざわざそんなものを要求するからには、なんらかの理由があるはずだ。
 なんの面白味もないだだっ広い荒野。乾いた灰色の土と、いくつかの小さなオアシス。
 唯一変わったものがあるとすれば、トリニアの時代以前の神殿の遺跡くらいだ。
 以前、エイクサム・ハルが利用しようとした古い遺跡。しかしあればファージの手で完全に破壊され、封印されたはず。今さら、なんの役にも立たない。
 単なる、奈子に対する嫌がらせだろうか。そんなはずはあるまい。
 アィアリスがギアサラス地方の割譲を求めていると聞いた時の、奈子の表情。
 奈子は、何かを知っている。
 何かあるのだ。あの地には。
 大陸最強の力、黒の剣を手にしたアィアリスでさえ無視できない何かが。
「ソレア、お客様よ」
 物思いにふけっていたソレアは、扉がノックされる音で我に返った。
「客……私に?」
 意外だった。
 ファージも、フェイリアも、そして奈子もいない今、自分を訪ねてくる者がいるとは。エイシスならば、わざわざ取り次ぎを求めたりはしない。
「誰?」
「それが……。自分の目で見た方が、いいと思う」
 困惑したような様子のラムヘメスを訝りながら、ソレアは応接間の扉を開いた。そのまま立ち止まり、口を小さくOの字に開く。
 美しい顔立ちの、三十歳くらいの男性だった。長く伸ばした金髪は、顔にかかって片目を隠している。
 会うのは久しぶりだが、よく知っている男だった。だからこそ、ここにいることが驚きでもあった。
「お久しぶりです、ソレア・サハ」
「エイクサム・ハル……?」
 人違いであるはずがないのに、語尾が疑問形になる。
 エイクサム・ハル・カイアン。
 強い力を持つ魔術師で、大陸の古い歴史を研究する学者でもある。
 かつてファージを殺し、王国時代の失われた力を現代に甦らせようとしていた。二年前の、マイカラスのクーデターの黒幕でもある。
 それが何故、ここにいるのだろう。以前、トカイ・ラーナ教会の本拠地トゥラシで、奈子を助けたことは聞いていたが。
「どうして、あなたがここに?」
「ファーリッジ・ルゥがいなくなりましたから。ようやくあなた方の前にも顔を出せるように」
「なんの用事で、と訊いているの」
 ソレアは怒気を含んだ強い口調で言った。相手の意図が読めないことが腹立たしい。
 エイクサムはその怒りに気付いていないかのような静かな口調で、しかし重要な事実を告げた。
「昨夜、アルトゥル王国が敗れました」
「……、そう」
 別に、驚きはしなかった。時間の問題と思っていた。
 それでも、目の前に突きつけられた事実に一瞬言葉を失った。
「教会の軍勢は、今朝には王都まで侵入しています。まだ、知らなかったでしょう?」
「……そうね、知らなかったわ。まあ、いずれそうなるとは思っていたけれど」
「アィアリスが、黒剣の力を使いました。アルトゥル王国の三つの砦が一夜にして消滅、死者は数万人に達するでしょう」
 それも、予想の範疇だった。客観的に見れば、現在のトカイ・ラーナ教会よりもアルトゥル王国の方が戦力的には上だ。それを覆すことができる存在は一人しかいない。
 予想していたこと。それでもソレアは、ぎゅっと唇を噛んだ。
「……次は、ハレイトンね」
 そしてその次はマイカラス……という台詞は、声に出さずに呑み込んだ。
 ティルディア王国が滅び、アルトゥル王国も敗れたとなると、教会に対抗できる勢力は、現存する大陸最古の王国ハレイトンだけだろう。
「この次は、もっとひどいことになります。ハレイトンは亜竜を使いますよ」
「――っ」
 ソレアの眉間に、微かなしわが寄る。
「まだ……持っていたの? ヴェスティアを襲った時に、使い果たしたと思っていた」
「それから二十年近くが過ぎています。いくらでも再生できるでしょう。教会が保有する竜は?」
「すぐ使えるのは、おそらくアィアリスの一頭だけ。もしかしたらもう一頭」
 本来はもっと多くの竜がいたのだが、奈子とクレインによって倒されている。
「それが何を意味するか、わかりますね?」
 もちろん、ソレアにもわかっている。その事実の重みが。
 竜や亜竜が、戦場に投入される。
 千年ぶりに。
 王国時代末期の戦争、この大陸を滅ぼしかけた戦争の再現だ。しかし、それを認めたくはない。
「……でも、そこまでひどいことにはならないでしょう? 竜の数も、騎士の数も、当時とはまったく違う」
「ただし、攻められる側の力も比較にならない。今の時代、竜が一頭いれば国が滅びます。そして大陸の人口も王国時代とはまるで違う。もしも千年前と同じ数の死者が出れば、世界は終わりです」
「……それで、私にどうしろと?」
「最悪の事態を防ぐために、あなた方がいるのでしょう? 墓守とは本来、そのための存在ではないですか」
「あなた方……ね。もう私一人だけよ。何ができるって?」
 ソレアは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「ナコ・ウェルは?」
「いない。あの子はもういないの」
「……帰った、のですか?」
「え?」
 一瞬、身体が強張った。
 驚きに目を見開くソレアに向かって、エイクサムがもう一度訊く。
「帰ったのですか? 自分の世界へ」
「知ってる……の?」
「おおよそのところは」
 何故、知っているのだろう。奈子の素性を知る者は、今ではソレアだけのはず。
 ソレアは誰にも話していない。ファージが言うはずもないし、クレインもフェイリアも今はもういない。
「私の勝手な推測……ですけどね。あの子が以前、自分でぽろっと口を滑らせたことがありまして」
「……そう」
 小さく息を吐いて、ソレアは身体の力を抜いた。
 考えてみれば、今さら慌てる必要もないことだ。
 奈子はもう、いないのだから。
「あの子には見捨てられたわ。戦いばかりで、どんどん人が死んでいくだけのこの世界は、見捨てられたの」
「戻ってきますよ、きっと。あの子は……ナコ・ウェルこそ、アール・ファーラーナです。レイナ・ディ・デューンやユウナ・ヴィ・ラーナ、そしてエモン・レーナの遺志を継ぐ者です」
「あなたは、何を知っているの?」
「知っている? 私が? いいえ。私はただ、期待しているだけです」
 エイクサムは静かな笑みを浮かべて言った。



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