松宮奈子はこの春、高校生になった。
もっとも、これまで通っていた私立白岩学園の中等部から高等部に移っただけなので、通学路はなにも変わらない。
朝六時に起きた奈子は、トレーニングウェアに着替えて、近くにある公園までジョギングする。
そこで軽く柔軟体操をした後、突きや蹴りといった、空手の基本動作の稽古をはじめる。
奈子は中学時代、実戦空手・北原極闘流の中学女子チャンピオンだった。
高校生になったいまでも、奈子と互角以上に闘える相手は全国でも五人とはいまい。
ただし、そのうちの一人が同じ札幌市内にいるので、奈子が北海道大会で優勝するのは難しい。
奈子は、それが悔しくて仕方がない。
奈子の身長は百六十二センチ、体重は…一応年頃の女の子なので秘密。
高校一年生にしては発育の良い胸を除くと、無駄な脂肪がないために痩せて見える。
しかしよく見れば、その身体は鍛えられた筋肉に覆われていることがわかる。
それは、筋力トレーニングで不自然に作り上げたものではなく、ネコ科の肉食獣のような、しなやかでばねのある筋肉だ。
髪はショートカットだが、前髪だけは目にかかるくらいまで伸ばしている。
ややきつい目を隠すためなのだが、それはかえって野性味を増す効果を与えている。
それでも、奈子はそれなりに美人である。
どちらかというと、美少年顔という方が正しいのだが。
そのためか、男子よりもむしろ女子にモテる。
本人はことあるごとに「アタシはノーマルだ!」と言い張っている。
ただし、周囲の者は誰ひとりとして信じてはいない。
無論、そう思われるのにはそれだけの理由がある。
軽いトレーニングを済ませた奈子は、七時過ぎに家に戻る。
シャワーを浴びて制服に着替え、髪にさっとブラシをかけた頃、階下から美味しそうな朝食の匂いがただよってくる。
それに惹かれるように食堂へ行くと、セーラー服の上にエプロンをつけた小柄な女の子が、朝食の用意をしている。
「おはよう、奈子先輩」
フライパンの中のオムレツを器用にひっくり返しながら、その女の子はにっこりと微笑む。
今日の朝食は、チーズをのせて軽く焼いたフランスパンに、野菜入りのオムレツ。
そしてコーンスープとコーヒーが湯気を立てている。
テーブルについた奈子のおなかが、ぐぅ、と鳴った。
奈子の家には両親がいない。
「奈子には両親がいない」のではなくて、「家にはいない」だけである。
両親は仕事の都合で東京に行っていて、札幌にあるこの家にはたまにしか帰らない。
奈子はひとりっ子だから、そうなると必然的にひとり暮らしということになるはずなのだが、その実態はこの少女とのふたり暮らしに近い。
少女の名は、宮本由維。
奈子より二歳年下で、ものごころつく前からの幼なじみ。
家も近所なので、いつも奈子の家に入りびたっている。
奈子がそういうことに才能がないので、奈子の家の家事全般は由維の仕事だ。
二人の関係をひとことで言い表すのは難しい。
幼なじみ、親友、先輩後輩、姉妹、そして…恋人。
だから、奈子の「アタシはノーマルだ!」という台詞には説得力がない。
一応まだ、キスまでの関係である。
朝食が終わると、奈子は居間のソファに座って新聞を読む。
ただし、TV欄とスポーツ欄以外はざっと目を通すだけだ。
由維は、食器を洗っている。
食器洗い機のスイッチを入れるだけのことなのだが。
その後、由維と奈子はしばらく居間でじゃれ合っている。
時計が八時を指す頃、家を出て学校に向かう。
奈子が通う高等部と、由維が通う中等部の校舎は隣同士だ。
だから、いつもふたりで一緒に歩いていく。
道を歩くとき、ふたりは腕を組んでいる。
女の子同士の場合、それでも変な目で見られることはない。
男同士だったらこうはいかない。
その点、女の子は少しだけ恵まれている。
いろいろと普通ではない奈子だが、いちばん普通でないのは休日の過ごし方だ。
昨年の夏頃から、休日は家にいないことが多い。
どこでなにをしているのか、訊かれたときは曖昧に言葉を濁す。
まさか、『剣と魔法の支配する異世界』で遊んでいるなどとは言えない。
休日の前日、夜になると奈子はそっと家を抜け出し、近くの公園へ行く。
周囲に人気がないことを確認して、ポケットから一枚のカードを取り出し、小声で呪文を唱える。
奈子の身体は白い光に包まれ、その光が消えたとき、そこに奈子の姿はない。
奈子が異世界へ行くようになったきっかけ、そして、そこでどんな冒険を繰り広げてきたのかは、他の話を読んでもらえればわかる。
奈子の世界から異世界への転移は、非常に微妙な魔法だ。
ちょっとしたきっかけで、意図していたのとは違う場所に出てしまう。
生まれたときから魔法に慣れ親しんでいる向こうの世界の者にとってさえ、転移魔法は極めて高度な術だ。
奈子が、三回に一回はミスしてしまうのも当然といえなくもない。
例えば今回、出現したのは崖の上だった。
それも、崖っぷちぎりぎりだった。
だから。
身体が実体化するのと同時に、奈子は、足を滑らせた。
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