最初に目に入ったのは、光だった。
わずかに黄色みを帯びた、白い光。
それが、周囲を照らしている。
何が光っている、というわけではない。
ただ、純粋な光がそこにあった。
そのことに、かすかな違和感を覚える。
光に目が慣れてくると、天井の木目が見えてきた。
横になったまま、首をほんの少し巡らせて周囲を見回す。
やや古びてはいるが、掃除の行き届いた部屋だった。
自分の部屋ではない。
それはわかる。
では、ここはどこだろう。
身体を起こそうとして、背中に走った痛みにうっと声を上げる。
そのときになって気付いた。
腕に包帯が巻かれていることに。
いや、腕だけではない。
頭にも、包帯が巻かれていた。
かすかに頭痛がするのはそのためだろうか。
(どうして怪我なんて…。試合か、稽古のときにでも…?)
試合?
稽古?
いったい何の?
なんだろう。
なにか、大きな間違いを犯しているような気がする。
この違和感はなんだろう。
その答えを見つける前に部屋の扉が開いたため、思考はそこで中断する。
入ってきたのは、十七〜八歳の少女だった。
エプロンをつけて、手には水差しを乗せた盆を持っている。
少女はこちらを見ると、にこっと微笑んだ。
「エ・ク リワィケ ヤ・エ?」
「え…?」
聞き慣れない言葉だった。
かすかに首を傾げて考え、ようやくその意味を理解する。
なんのことはない、「具合はどうか?」と訊かれただけだ。
(…ちょっと待てよ、いったいコレ、どこの言葉だ? それに、なんでアタシはこんな言葉を知っているんだ?)
なにか、大切なことを忘れているような気がする。
戸惑いながらも身体を起こそうとして、再び痛みのために小さく声を上げる。
「無理しちゃダメよ。今日は寝ていた方がいいわ。明日になれば痛みも引くはずだから」
無理に起きあがろうとするのを、手で軽く制して少女は言う。
察するに、怪我の手当をしてくれたのはこの少女なのだろうか。
少女の顔には、まったく見覚えはなかった。
「ここは、いったい…? アタシは、なんでこんなところに…?」
自分にとっていちばん自然な言葉ではなく、少女が口にするのと同じ言葉で訊いた。
その言葉が、自分の口からすらすらと出てくるのも意外だった。
「ここは、あたしの家よ。おじいちゃんが山であなたを見つけて連れてきたの。足を滑らせて谷底に落ちたらしいって言ってたわ」
谷底に落ちて…?
なるほど、この怪我はそのためか。
だけど…、
山?
谷底?
いったいどこの?
家の近くの山に、そんな、落ちて怪我をするような場所があったっけ?
問いかけるような表情で少女を見る。
その視線の意味を勘違いしたらしい。
「あ、あたしはチャイカ・クラよ」
別に、そんなことを訊きたかったわけではなかったが。
(…変な名前だな…いったい、どこの国の人間だ?)
そうは思ったが口には出さない。
「ね、あなたの名前は?」
少女が訊く。
もっともな質問だった。
向こうが名乗ったのだから、こちらもそれに倣うのが礼儀だろう。
「あ、アタシは…」
そこで、言葉がとぎれた。
口をつぐんで考え込む。
そうして――
やっと、これまでの違和感の原因がはっきりした。
しかし、それがわかったところで、なんの解決にもならなかった。
「アタシは…いったい、誰なんだ?」
とたんに、チャイカが大きく目を見開く。
困惑混じりの笑みを浮かべて、奈子は言った。
「…ゴメン、なにも思い出せないんだ」
チャイカと名乗った少女の言葉通り、翌朝には傷の痛みも起きあがれる程度まで治まっていた。
しかし、気分は相変わらず重い。
朝になっても、記憶は少しも戻っていなかった。
昨夜――
なにか、身元を知る手がかりはないかと、チャイカと二人で持ち物を調べてみた。
二振りの、大型の短剣。
五本の投げナイフ。
手の中に収まるくらいの、小さな固い紙の札が十数枚。
チャイカがその札を手にしてなにやら小声でつぶやくと、突然、机の上にいくつかの品物が現れた。
奈子は驚きの声を上げる。
いったい、どういう手品なのだろう…と。
札の中から現れた物は、
数着の着替え。
甘い飲み物の入った容器。
携帯食らしい焼き菓子。
厚手のマント。
ロープや、その他こまごまとした品が少し。
それと、合わせて百枚以上の金貨と銀貨。
チャイカの様子から察するに、それは相当な金額であるらしい。
奈子には、その貨幣がどのくらいの価値を持つのかすらわからなかった。
そして、なにが入っているのか、チャイカにはわからない札が一枚残った。
持ち主本人でなければ取り出せないように封印された、よほど大切な物なのだろうとチャイカは言う。
だとすると、あの金貨よりも貴重なものだというのだろうか。
奈子には、まったく心当たりがない。
あとは、身につけていたアクセサリ。
左の耳につけていた、紅い宝石のピアス。
左手にはめていた、銀の腕輪。
その腕輪のおかげで、ひとつだけわかったことがある。
ナコ・ウェル・マツミヤ。
そんな名前が彫られていた。
この場合、持ち主の名前と考えるのが自然だろう。
もっとも、それが自分の名だという実感は湧かなかった。
「とりあえず名前だけでもわかって良かったわ。でも…なんだか変わった名ね?」
チャイカは言う。
しかし奈子の印象としては、チャイカの名の方が変わっている。
とはいえ、ナコ・ウェルという名に違和感を感じたのも事実だった。
これは本当に自分の名だろうか、何か違う気がする――と。
ベッドから出て服を着替えた奈子は、部屋を出て一階へと下りた。
チャイカの家は小さな宿屋を営んでいるそうで、一階は食堂になっていた。
「おはよう、ナコ」
チャイカが元気に声をかけてくる。
「なにか、思い出した?」
奈子は無言で、力無く首を振った。
「気を落とさないで。そのうちきっと思い出すわ」
テーブルに、奈子の朝食を並べながらチャイカは言う。
奈子はうなずいて席に着いた。
朝食の時間には少し遅いので、食堂には他に誰もいない。
もっともチャイカの話では、もともと今の季節はあまり客がいないのだそうだが。
だから、傷が癒えて記憶が戻るまでここにいればいい――とチャイカは言った。
奈子としてはその言葉に従うしかない。
他にどこにも、行くあてなどないのだから。
幸いお金はあるので、この家に迷惑をかけることもないだろう。
そうしている間に少しでも記憶が戻れば…そんな期待を抱いていた。
しかし、目の前に並べられた料理を見て、奈子はまたショックを受ける。
なんということだろう。
料理の名前すら思い出せないなんて。
テーブルの上の皿には、見覚えのない料理が盛られていた。
恐る恐る口を付けてみるが、味は悪くない。
この味、どこかで食べたことがあるだろうか…奈子は記憶を探る。
以前に食べたことがあるような気もする。
しかし、いつ、どこでなのかはわからない。
ひょっとすると、気のせいなのかもしれない。
(いくら記憶喪失だからって…自分の名前はおろか、こんな…身のまわりの一般常識まで忘れてしまうものなのか…?)
料理の味は悪くないのだが、奈子はさっぱり食欲がわかなかった。
「仮説そのいち〜」
朝食の後片付けを終えたチャイカは、テーブルを挟んで奈子の前に座ると、人差し指を立てて言った。
「ナコは実はどこかの国のお姫様で〜、敵国との戦に敗れて逃げる途中、供の者とはぐれてしまった…なんてどぉ?」
なんだか妙に楽しそうだ。
「それはないんじゃないかなぁ?」
奈子は苦笑する。
「最近この近くで、そんな戦争なんてあったの?」
「言われてみれば…ないね」
少なくとも、この近隣ではここ数年、戦争は起きていないという。
「お姫様の足で、戦争の噂が伝わってこないほど遠くから逃げてくるのは無理でしょ? 第一、アタシはそんな柄じゃない」
「それもそ〜ね」
「いや、そうはっきり納得されると…」
奈子はほんの少し傷ついた。
それを見たチャイカは自分の失言に気付き、あわててフォローを入れる。
「え? いや、そ〜ゆ〜意味じゃなくて、奈子って変に気取ってなくて親しみやすいというか…ね?」
「…まぁ、いいや」
奈子の口元がわずかにほころぶ。
「それに、この短剣…」
持っていた短剣を鞘から抜いて、テーブルの上に置いた。
便宜上短剣と呼んでいるが、実際のところそれは短剣と呼ぶにはやや大き過ぎ、その刃はかなり肉厚だった。
こんな、かなり物騒な武器を、二振りも腰のベルトに差していたのだ。
「これはどう見ても、お姫様の懐刀なんかじゃない。実戦で使うための武器だよ」
なぜ、こんな武器を持っているのだろう。
いくら考えても思い出せない。
しかも、柄を握ると妙にしっくりと手になじむ。
間違いなく、自分のものだ。
「じゃあ…仮説その二」
『亡国のお姫様説』をあきらめたチャイカがVサインを出す。
「どこかの国の騎士見習いで…」
「それもナシ」
間髪入れずに奈子は否定する。
「だったら、短剣じゃなくてちゃんとした剣を持っているはずでしょう?」
奈子の持ち物の中に普通の剣はなかったし、そんなものを持っていた形跡も見当たらなかった。
「…仮説その三」
チャイカはなかなか懲りない性格のようで、騎士説が否定されるやいなや三本目の指を突き出す。
「実は凄腕の盗賊で、あのお金を盗んで逃げる途中に崖から足を滑らせた」
「まさか!」
とんでもないチャイカの意見に、奈子は思わず大声を上げる。
そんなはずがない。
しかし…それは妙に説得力があった。
殺傷力がありながら長剣ほどはかさばらない武器を持っていて、身元が分かるような品を持っておらず、そしてあの金貨は、奈子のような少女が持つにはやや不自然な大金だった。
「まさか…」
青ざめた奈子の顔を見て、チャイカはくすくすと笑う。
「冗談よ。ナコは、悪人には見えないわ」
「ありがと。そういってもらえると助かる…」
奈子は力無く笑った。
妙な仮説もそこでネタ切れになったのか、チャイカは立ち上がると、物置から丸めた大きな紙を持ってきた。
テーブルの上に広げられたそれは、大きな大陸の東半分が描かれた地図だった。
地図の中心からやや南東寄りの山地を指差す。
「この、ウェンタラの村はこの辺りよ。ね、ナコがどの辺りに住んでいたのか、ちょっとでも覚えていない?」
奈子はしばらくの間、戸惑いを隠して地図を見つめていたが、やがて首を左右に振る。
「…わかんない」
わからないどころか…
これを言ってもいいものだろうか。
どこに住んでいたのか思い出すどころか、そもそもこんな形の大陸には見覚えがないということを。
自分が、外国人なのだろうとは思っていた。
チャイカの知らない言葉を知っていること。
食べ物や、チャイカをはじめこの村の人たちの衣服に違和感を感じること。
遠い異国から来たのだと考えればつじつまは合う。
しかし、世界地図にもまったく見覚えがないとは…。
それだけではない。
頭の中にぼんやりと浮かぶのは、この地図に描かれているのとは似ても似つかない大陸や島の形だった。
(いったい、どうなっているんだ…)
いくら記憶喪失とはいえ、こうまできれいさっぱり、何もかも忘れてしまうものだろうか。
いや、正確にはそうではない。
何もかも忘れてしまった、というのとは少し違う。
ただ、ときおり頭に浮かぶ記憶の断片が、周囲の風景とまるでつながらないのだ。
建物の造り、人々の服装、食べ物、言葉。
そして…この地図。
何もかもが、頭に残るかすかな記憶とは違いすぎる。
だからなおさら、記憶を取り戻すのが難しい。
(どうしちゃったんだ、アタシ…)
頭を打ったショックで、おかしくなってしまったのではないか、
そんな気すらしてくる。
地図を見つめたまま深刻な表情をしていると、チャイカが熱いお茶を淹れて持ってきてくれた。
なにも言わず、ぽんぽんと軽く奈子の背中を叩いて慰めてくれる。
「ありがと…」
奈子は小さな声で言った。
翌朝、チャイカは奈子を誘って外出した。
行く先は、村からそれほど離れていない山の中。
奈子が倒れていたという場所である。
そこに、なにか手掛かりが残っていないかと考えたのだ。
そのころにはもう傷の痛みはほとんどなくなっていたので、奈子はもちろん賛成だった。
少しでも可能性があるのであれば、なんでも試してみるつもりだった。
「ね、あれ…なに?」
村の中を歩いていて、奈子は奇妙な物に気づいた。
どの家も、戸口の前に人の背丈ほどの木の棒が立ててある。
「ナコ…知らないの?」
チャイカは信じられないといった表情を見せる。
「あれは、アプシの樹。こうしておくと魔除けになるのよ」
「魔除けって…」
「最近、村はずれで家畜が魔物に襲われたりしてるらしいから、みんな神経質になってんのよ」
チャイカはごく当たり前のことのように言ったが、奈子はひどく驚いていた。
魔除け?
魔物?
いったい、なにを言っているのだろう。
もちろん、言葉の意味は分かる。
しかし、何故いまどきそんな迷信じみたこと…。
迷信じみた?
いまどき…って…?
あれ? 変だな。
ちょっと待てよ…。
「ナコ、どうしたの? ぼ〜としちゃって」
チャイカが、頭が混乱していつの間にか立ち止まっていた奈子の手を引く。
「え? ああ、いや、なんでもない」
奈子は曖昧にごまかして歩き出す。
心の奥に、わだかまりを残したまま。
「特に、なにもないね〜」
チャイカの祖父が、倒れている奈子を見つけたという谷川のほとりをしばらく歩き回ってみたのだが、特に手掛かりになるような物は見つからなかった。
「でも、運がいいよね。こんなところに倒れていて、偶然近くを人が通りかかるなんて、滅多にあることじゃないよ」
なんでも、チャイカの祖父は猟師をしていて、村にいるよりも山の中で過ごす時間の方が長いほどだという。
一度山に入ると、山小屋に寝泊まりして何日も帰らないのだそうだ。
その山小屋がこの近くにあるとはいえ、崖から落ちて河原に倒れていた奈子が発見されたのは、大きな幸運というほかはない。
「無駄足…だったかなぁ」
崖の上で奈子が足を滑らせた跡を見つけた以外、特にこれといったものはない。
「でも、こんなところで何やってたんだろうね?」
チャイカが首を傾げる。
村からそれほど離れているわけではないが、周囲は深い森に覆われ、猟師が使う獣道のような小径のほかは、近くに人の通る道もない。
どう考えても、十代半ばの女の子が一人で来るような場所ではない。
奈子は、自分が足を滑らせたらしい跡をじっと見つめていた。
チャイカは気づいていないようだが、奈子にはその不自然さがわかった。
周囲に、人の通った跡がないのである。
やぶをかきわけた跡、踏みつぶされた下草。
そういったものがまったく見あたらなかった。
まるで、ここまで空を飛んででも来たかのように。
結局、なんの手掛かりも見つけられずに二人は帰途についた。
昼食に遅れるからと、やや急いでいたチャイカがふと足を止める。
「あ、ヒリアウの実。ラッキー!」
そう言って、道を外れてがさがさとやぶの中に入っていく。
見ると、チャイカが目指している樹の幹にからみついた蔦状の植物に、子供の握りこぶしほどの赤い果実がたわわに実っている。
「ひょっとしてナコは知らないかな? 甘くて美味しいんだよ」
ちらりとこちらを振り返って言った。
そういうことなら…と、チャイカの後を追おうとした奈子だったが、一歩足を踏み出したところで動きを止める。
なにか、いやな気配がした。
なんだろう…と訝しげな表情で、頭上に覆いかぶさるように茂っている樹々の梢を見上げる。
特に、なにが見えるというわけでもない。
しかし奈子は、ぴりぴりとした緊張した空気を感じ取っていた。
額に冷や汗がにじむ。
「どうしたの、ナコ?」
不穏な様子に気づいたチャイカが振り返った瞬間、奈子は無意識のうちに叫んでいた。
「チャイカ! 戻って!」
「えっ?」
奈子の叫びとほぼ同時に、チャイカの頭上から黒い影が襲いかかってきた。
奈子の声に驚いたチャイカが、バランスを崩してよろけたのは幸運だった。
そのため、チャイカを狙った鋭い爪は間一髪のところで空を切る。
それは、大きな獣だった。
奈子たちよりもひとまわり…いや、どう見てもふたまわりは大きい。
鋭い、金色に光る目。
長く、そして太い牙と爪。
(豹…? いや、ちょっと違うか…)
いずれにせよ、凶暴な肉食獣であることに違いはない。
考えるよりも先に、身体が動いていた。
奇襲に失敗して着地した獣が、転んだチャイカに襲いかかろうとしている。
奈子は腰の短剣を、抜くと同時に投げつけた。
獣は大きく飛び退いてそれをかわす。
その間に、チャイカを庇うように獣の前に立ちふさがった。
もう一振りの短剣を左手で抜き、顔の前で構える。
なにも考える必要はなかった。
頭で考えるまでもなく、無意識のうちに身体が動いている。
獣が奈子に飛びかかるのと同時に、奈子は右手を振った。
手の中から、三本の投げナイフが飛び出す。
青い光に包まれたナイフに身体を貫かれて、体勢を崩しながらも、獣は奈子に飛びかかって地面に押し倒す。
「ナコッ!」
チャイカが悲鳴を上げる。
奈子に覆い被さった獣の身体が、ビクッと震えた。
一瞬動きを止め、そして、ゆっくりと崩れ落ちる。
獣は、そのまま動かなくなった。
まだ、四肢がかすかに痙攣している。
「ナコ…?」
青ざめた表情で駆け寄ってきたチャイカは、獣の身体の下から這い出してきた奈子を見て悲鳴を上げた。
奈子の顔から胸にかけて、血で真っ赤に染まっている。
「ナコ…それ…?」
「ああ、大丈夫。アタシの血じゃないから」
奈子は笑みを浮かべて言った。
地面に横たわっている獣を見おろす。
その喉には、奈子の短剣が深々と突き刺さっていた。
「ホントに? 怪我はない?」
いまだ緊張の醒めぬ顔で、チャイカは訊く。
「ん、ぜんぜん平気。腕をちょっと擦りむいただけだよ」
わざと気楽に応えると、チャイカはようやくほっと息をついた。
「ところで、こいつはいったい何?」
さぁ…、とチャイカは首を傾げる。
「そういえば、最近村はずれの農場で、家畜が魔物に襲われてるって言ってたっけ。これも、そのうちの一頭なのかな? こっちの、北の山に出たなんて話は聞かないけど」
「魔物…ねぇ…」
奈子は曖昧につぶやいた。
「仮説その四、今度こそ間違いなし!」
やや遅めの昼食の席で、胸を張って宣言するチャイカを奈子はやや醒めた目で見ていた。
これまでの例からいっても、あまりまともな意見とも思えなかったからだ。
「で、今度はなに?」
手でちぎったパンを口に運びながら、それでも一応先をうながした。
「とぼけてもダメよっ!」
ビシッ、と奈子を指差す。
「ナコの正体は、実は、アール・ファーラーナでしょう?」
「…なに、それ?」
一人で妙に盛り上がっていたチャイカは、奈子のあまりにも冷静すぎる反応に気合いをそがれた様子で、立ち直るまでには少しばかりの時間が必要だった。
その間に、奈子はチャイカの言葉を反芻する。
(…アール・ファー…ラーナ?)
なんだ、それ。
それが、最初の感想だった。
…どこかで聞いたことあるような…ないような…。
いや、やっぱりないか。
「アール・ファーラーナはファレイアの神々の一人、太陽神トゥチュの娘で、戦いと勝利の女神よ。トリニアの時代には、王国に危機が訪れると、女神が人間の姿で降臨して国を救うと信じられていたの」
「…で、なんでそれがアタシ?」
奈子にはさっぱりわけが分からない。
「だって、ナコってとっても強いんだもの」
「…それだけ?」
椅子からずり落ちながら、奈子は訊く。
その目が、かなり本気で呆れている。
「記憶を失っている…んじゃなくて、そもそも、神々の世界の住人だから人間界のことをよく知らないのよ。そう考えればつじつまが合うし」
(そ〜ゆ〜ものか?)
「そして正体を隠すために、女神としての記憶は封印されているんだわ。うん、間違いない。ああ、なんて素敵なんでしょう!」
一人、自分の世界に入り込んで盛り上がっているチャイカを放っておいて、奈子は呆れ顔で食後のお茶を飲んでいた。
女神…だって?
やれやれ…
ひとりごとのように、ぽつりとつぶやく。
「まだ、『亡国のお姫様説』の方がリアリティがあるよ…」
大きな剣を背負った体格の良い男が宿に入ってきたのは、ちょうどそのときだった。
彼は、傭兵だった。
十代の頃から、いくつもの戦場を歩いてきた。
戦場以外でも、腕っぷしで片のつく仕事なら、大抵のことはやっている。
用心棒、隊商の護衛、ときには暗殺すら。
駆け出しの頃は、仕事を選んでいる余裕などなかった。
しかし、十年以上もこの世界で生きてきて、腕の立つ傭兵として知られるようになった現在では事情は違う。
彼には、よりやりがいのある仕事、より儲けのいい仕事を選ぶだけの選択権があった。
その点でいけば、今回の仕事はそのどちらにも該当しない。
田舎の小さな村で、人や家畜を襲っている魔物を退治してほしいという。
大きな村ではない。
ということはつまり、報酬も大した金にはならないということだ。
もちろん、敵も大したものではない。
話を聞いた限りでは、普通の人間にとっては脅威かもしれないが、彼ほどの腕があればそれほどの苦労なしに片づけられると思われた。
それでも、彼はこの仕事を引き受けた。
そうするだけの理由があった。
彼の故郷は深い山の中にある寒村だったが、彼が子供の頃、村が魔物に襲われて何十人もの被害者が出たことがあった。
彼のたった一人の肉親だった兄も、そのうちの一人だった。
だから――
二度とこんな悲劇が起こることは許さないと、
エイシス・コット・シルカーニは、子供心にそう誓ったのだった。
かなり長いこと山道を歩いて、変化のない風景にもそろそろ飽きてきた頃、ようやく目的の村が見えてきた。
彼の故郷に比べればずいぶんと大きいとはいえ、世間一般の基準からすれば、山間の盆地に拓かれた小さな村だ。
「さて…と」
村に入ってすぐのところに、小さな宿屋を見つけた。
ちょうどいい。
もう昼を過ぎていることだし、ここで食事をするついでに、依頼主である農場の場所を訊ねるとしよう。
村を襲っている魔物は夜行性らしいから、特に急ぐ必要もない――そう考えて宿に入る。
入口をくぐるとそこは小さな食堂になっていて、十代後半くらいの少女が二人、テーブルを挟んで座っていた。
そのうちの一人――おそらくこの宿の娘だろう――が彼の姿を認めて立ち上がる。
「いらっしゃいませ」
にっこりと微笑んだその姿は、美人というほどではないが、まあそれなりに愛嬌があって可愛らしい。
そしてもう一人、入口に背を向けて座っていた、濃い茶色の髪をした少女がこちらを振り返る。
エイシスは小さく驚きの声を上げた。
それは、まったく意外な、こんなところで会うとは思いもしなかった人物だった。
「…こんなところで何やってんだ、ナコ?」
その少女も、驚きと戸惑いの入り混じった表情を見せた。
無理もない、とエイシスは思う。
向こうだって、こんなところで再会するとは夢にも思わなかったろう。
しかし、戸惑いながら口を開いた少女の言葉は、まったく予想外のものだった。
「…あなた…誰? アタシのこと、知ってるの? あなた、アタシの何?」
「記憶喪失…だって?」
エイシスが訊き返すと、二人の少女はそろってうなずいた。
「自分が誰なのかも、なぜこんなところにいるのかもわからない、と?」
奈子とチャイカは、もう一度同じ動作を繰り返す。
「なんと、まぁ…」
驚いたような、呆れたような。
そんな口調だった。
「ね、あなた、アタシのこと知ってるの? アタシはいったい誰? そしてあなたは? お願い、教えて」
真剣な表情でうったえる奈子を見ながら、エイシスは考えていた。
崖から落ちて頭を打ったショックで記憶喪失…か。
多分、ソレア・サハの元へ連れていけばなんとかなるだろう。
彼女の治癒の魔法でなら、失われた記憶を取り戻すことも難しくはないはずだ。
しかし…
ただそれだけじゃあ、面白くないぞ、と。
ちょっとした悪戯を思いついた。
思わず口元がにやけそうになるのを必死にこらえて、
「記憶喪失か…なんてこった…」
無理矢理、沈痛そうな表情を作る。
「本当に、俺のこともわからないのか? エイシス・コットの名前も?」
奈子が申し訳なさそうにうなずくと、エイシスはひどいショックを受けたふうを装った。
「やれやれ…久しぶりに会えたと思ったら、恋人の顔すら憶えていないなんて…」
奈子がその言葉の意味を理解するのには、数瞬の時間が必要だった。
きょとんとした表情でエイシスの顔を見つめ…
そして、叫んだ。
「え、え、えぇぇぇ〜っ?」
恋人…?
(こ、恋人って…、恋人って…つまり…)
「恋人って…あなたと、アタシが…?」
小さくうなずくエイシス。
チャイカも驚いて、奈子と、エイシスの顔を交互に見る。
「恋人って…アタシに、そんな人がいたなんて…」
奈子は、もう一度エイシスをよく観察した。
見上げるほどの長身。
奈子より頭ひとつ分以上高い。
厚い胸板。
鍛え上げられた太い腕。
驚くほど大きな剣を背負っているあたり、明らかに戦うことを生業とする男だ。
(うん…確かにけっこう好みかも…。でも、顔はもうちょっときりっとした感じの方がいいかなぁ)
真剣な表情をしていればそれなりにハンサムなのだろうが、なんとなく人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべているため、やや軽そうな印象を受ける。
しかし、まあ、恋人だからといって必ずしも理想通りの男性とは限らないだろう。
とりあえず第一印象としては、十分に許容範囲内だった。
奈子としてはすぐにでも、もっと詳しい話を聞きたかったのだが、エイシスは先に仕事の話を片付けてくると言って、仕事の依頼主である農場への道をチャイカに訊くと、宿を出ていった。
農場を荒らしている魔物の退治を頼まれたと聞いて、奈子は納得する。
やはり、そういう職業だったのか、と。
宿を出ていくエイシスの後ろ姿を、奈子はやや戸惑いの表情で、そしてチャイカは妙に嬉しそうに見送っていた。
「良かったね、ナコ」
チャイカが笑いながら言う。
「え?」
「知り合いに会えて、さ」
「え…ああ、そうだね…」
奈子は曖昧にうなずく。
まだ、自分に恋人がいたという驚きから醒めていない様子だ。
「しかもそれが、あんな素敵な恋人なんて」
チャイカはどことなくうっとりとした表情をしている。
「素敵…かなぁ?」
「え〜、素敵じゃない。あの鍛え抜かれた身体。魔物退治のために雇われたってことは、かなり強いんだろうし、顔もなかなかじゃない?」
「それはちょっと褒め過ぎって気がする…」
自分の恋人を、人前であまり褒めるのもどうかなぁ…と、奈子はわざと醒めた反応をした。
そんな様子がチャイカには不満だったらしい。
「も〜、そんなに照れなくてもいいって!」
そう言って奈子の背中をパンパンと叩く。
どうやら、チャイカにとってはモロ好みのタイプのようだ。
「恋人と会って、何か思いだした?」
「ううん、特になにも。でも、確かに、知ってる人のような気がするな…」
エイシスが出ていった宿の入口に目をやって、奈子はつぶやいた。
「…アタシ、ちょっと行ってくる」
エイシスの後を追って、奈子も外に出た。
背後でチャイカが、がんばってね、と手を振っていた。
「…一緒に行っても、いい?」
エイシスが宿を出てまもなく、背後からためらいがちな声が聞こえてきた。
振り向くと、彼を追ってきた少女がそこに立っている。
「ああ、いいよ」
エイシスが口の端を軽く上げて笑みを浮かべると、奈子は頬を赤らめてうつむいた。
(うん、脈アリだな。しかし、これはなかなか…)
新鮮な反応だった。
彼が見慣れているのは、挨拶がわりにいきなり蹴りを入れてくるような奈子である。
こうしていれば、けっこう女らしく見えるもんだな…と、普段の奈子に聞かれたら問答無用で張り倒されそうな感想を抱いた。
二人はそのまま、並んで歩いていく。
奈子がちらちらと、、こちらを見ているのに気がついた。
「なにか?」
「え? ん…いや、アタシのことを知ってる人がいて良かったなぁって、思ったの」
奈子は照れたような表情で言った。
ずっと、不安だったんだ…と。
誰も知っている人がいなくて。
身の回りのものが、知らないものだらけで。
自分のことが思い出せないばかりでなく。
なにもわからない。
地理も、歴史も。
食べ物や飲み物の名前も…。
「なんだか、すごく違和感があるの」
奈子は言った。
「まるで、まったく知らない世界にいきなり投げ出されたような…」
エイシスは、そんなの奈子の様子を不思議そうに見ていたが、やがて、奈子の頭の上にぽんと手を置いた。
「ま、気にすることはないさ。俺がついているんだし、いずれ思い出すだろ」
「ありがと…
奈子ははにかみながら、そっとエイシスと腕を組んだ。
その太い腕に、頬をすり寄せる。
「…あなたに会えて良かった」
「ここで会えたのも、運命ってヤツかな」
エイシスが言うと、奈子の顔がよりいっそう赤くなった。
「ところで…エイシス…さん?」
「エイシス、でいいよ。そんな他人行儀な」
そう言われて、奈子はちょっと照れくさそうに言いなおす。
「…じゃあ…エイシス。アタシたちって、どこでどうやって知り合ったのかな?」
「先刻も言ったけど、俺は傭兵なんだ。去年、ここよりずっと東にあるマイカラス王国でクーデターがあって、そこで俺たちは一緒に戦ったんだよ」
これは本当のことだ。
「それじゃ…アタシも、傭兵なの?」
「…ま、そんなところだな」
奈子の疑問に、エイシスは曖昧に答えた。
答えながら、ひとつの疑問が沸き起こる。
(そういえば、こいつっていったい何者なんだ?)
どこの出身なのか。
職業はなんなのか。
考えてみると、ソレア・サハやファーリッジ・ルゥの知り合いであるということ以外、奈子のことはろくに知らないのだ。
まだ十代半ばの少女でありながら、戦闘能力は一流の騎士にも匹敵し、かなり強い魔力を持つくせに、魔法の知識や技術は子供にも劣る。
『地理や歴史のことがなにも思い出せない』と言ったが、奈子はもともと、信じられないくらいこの大陸の地理や歴史には疎い。
(なんか、ヘンだぞ…)
今まで深く考えたこともないが、初めて会ったときからずっと、彼女には奇妙なところが多すぎる。
(いったい…?)
ふと、先ほどの奈子の言葉がよみがえる。
『まったく知らない世界にいきなり投げ出されたような…』
(まさか…な)
エイシスは苦笑した。
そこは、かなり大きな農場だった。
エイシスが中で話をしている間、奈子は周囲を見て回っていた。
見える範囲内だけでも、何十頭という牛(?)が、草をはんでいる。
目に鮮やかな、一面の緑の絨毯の上に、ところどころ焼け焦げたような痕がある。
よく見ると、周囲の柵や、納屋の壁などにも同様の傷跡が見つかった。
(これが、魔物の襲撃の跡なのかな…)
かすかに湿った柔らかな地面の上に、蹄の跡に混じって、鋭い肉食獣の足跡もあった。
それと、ここの家畜のものと思われる骨のかけら。
(これは…)
「…思ったより、数が多いな」
不意の背後からの声に、あわてて振り返る。
いつの間にやら、そこにエイシスが立っていた。
急に、奈子の心臓の鼓動が速くなる。
それは、いきなり声をかけられて驚いたためだけではない。
「あ、えと…、話はもう終わったの?」
(もう、どうしてこんなにどきどきすんのよ!)
奈子はできるだけなにげないふうを装う。
「こんな足跡だけで、相手の数までわかるの?」
「だいたいはな。炎豹はあまり大きな群を作らないのが普通なんだが、この様子だと二十頭以上はいるか?」
「…大丈夫?」
エイシスは不安げな奈子の頭を軽く小突いた。
「お前、誰に向かって言ってるんだ? こんな雑魚が二十や三十集まったところで、俺が手こずるとでも思ってんのか?」
奈子が見る限り、エイシスには少しも不安な様子はない。
この程度の敵など、ものの数ではないといった態度だ。
それは決して虚勢や自惚れではなく、実力に裏付けされた自信であると、奈子は感じた。
(そうだな…。この人、すごく強い…それはわかる。きっと、大丈夫だよね)
奈子は小さくうなずく。
「つまらん心配してないで、宿に戻って昼飯にしようぜ。どうせ連中、昼間は出てこないんだ」
宿に戻った奈子は、ずっと自分の部屋でエイシスと話をしていた。
自分のことやエイシスのことをいろいろと教えてもらい、ふと気がついたときにはもう夜になっていた。
「そういえばエイシス、宿はどうするの?」
「ここ」
エイシスがにやっと笑う。
「ここ…?」
「そう、ここ」
そんな台詞と同時に、奈子はいきなりベッドに押し倒された。
エイシスの大きな体が覆いかぶさってくる。
「え、ちょ…ちょっと待ってよ!」
狼狽した奈子はエイシスを押しのけようとするが、倍近い体重のある相手はびくともしない。
「いいだろ、別に。今さらなに恥ずかしがってんだ」
「いまさらって…」
そうか…、そう言われて気付く。
恋人、なんだよなぁ。
アタシとエイシスって、いつもこんなコトしてたのかな?
確かに…アタシ…バージンじゃない…ような記憶があるけど…。
…うん、初めてではないな。
でも…う〜ん、
いいのかなぁ。
「イヤか?」
エイシスが訊いてくる。
どうだろう?
たとえ恋人だとしても、記憶をなくした奈子にとっては今日初めて会った相手に等しい。
(でも…イヤ…じゃない、よね?)
こうして、ベッドの上で抱きしめられていても、嫌悪感は少しもない。
むしろ…
――そのことを素直に認めるのは幾分抵抗があったが――
これから起こることを、心の奥底で期待している。
「別に、イヤってわけじゃ…。ただ、ちょっとびっくりして…」
「ならいいだろ。久しぶりに会えたのに、おあずけはひどすぎるぜ?」
エイシスが唇を重ねてくる。
奈子はかすかに身じろぎしたが、それ以上抵抗せずに受け入れた。
「ん…」
キスしながら、エイシスの身体に腕をまわす。
(この感触、なんとなく覚えがあるよう…な? でも、やっぱり恥ずかしいな…。まだ、心の準備が…)
だけど――
別に、イヤってわけじゃない。
はっきりとした記憶はない。だけど、こうして男の腕に抱かれるのは初めてではない…ような気がする。
身体が、その感覚を憶えている。
その相手が本当にエイシスだったのかどうかまでは思い出せないが、きっと、そうだろう。
この、大きな、たくましい身体には覚えがある。
(男の人とセックスするのって、どんな感じなんだろう。憶えてないや…)
ひどく、緊張している。
以前の記憶がないから、まるで、初めてのように。
「あ…」
エイシスの手が、服の中へと滑り込んでくる。
奈子は小さく声を上げた。
「もぉ…エイシスのエッチ」
唇をとがらせて抗議するが、鼻にかかった甘ったるい声は、その言葉が決して本心ではないことを物語っていた。
「や…ぁん」
十五歳という年齢の割にはかなり発育の良い奈子の胸を、エイシスの大きな手がすっぽりと包み込む。
「あ…ん」
奈子は、エイシスの背中に腕をまわしてギュと抱きしめると、今度は自分から唇を重ねた。
二人の舌が絡み合う。
(やっぱり…恥ずかしいなぁ…でも…ちょっと、気持ちいいかも…)
エイシスの手は、胸への愛撫を続けている。
時折、奈子の口からかすかな声が漏れた。
ちょっぴりくすぐったくて、そして…
(気持ちいい…)
最初のうちは少し抵抗もあったが、奈子ははっきりとそのことを自覚していた。
身体の芯がポッと熱くなるような感覚。
もっと、してほしいと思う。
奈子は、エイシスの手の動きに全神経を集中する。
異性に身体を触られるなんて――
冷静に考えれば、とても恥ずかしい。
だけど、この人になら、そんな恥ずかしいことをされてもいい…と。
やがて、奈子の胸のところにあった手がゆっくりと下に動いていく。
奈子のベルトをはずして、服を脱がせる。
「あ…や、ダメッ」
下着の中に滑り込もうとした手を奈子はあわてて押さえるが、エイシスはそんな抵抗を無視する。
「あっ、ん…」
いちばん敏感な部分に指が触れた瞬間、奈子は声を上げた。
エイシスの口元が、かすかにほころんだような気がした。
(やだ…バレた…かな。胸だけで、こんなに濡れちゃったこと…)
エッチな女の子だと思われたんじゃないか…と、いらぬ心配をする。
(どうしてだろう、自分でしたって、こんなに感じることないのに。やっぱり、この人のことが好きだから…?)
「うぅ…んっ!」
やがて、指が中に入ってくる。
自分の指よりもずっと太いその感触に、奈子は下唇を噛んでうめき声を上げた。
鈍い痛みと、えもいわれぬ快感の入り混じった不思議な感覚。
少しずつ、少しずつ、奥へと進んでくる。
「ぁん…あ…ぅん…」
奈子は身体をよじらせてその指から逃れようとするが、それは自分自身により強い刺激を与えるだけだった。
中で指が動くたびに、どんなに抑えようとしても声が漏れてしまう。
指の動きがだんだん速く、激しくなるにつれて、その声は悲鳴に近いものとなる。
知らず知らずのうちに、指の動きに合わせて自分でも身体を動かしていた。
恥ずかしくて相手の顔も見られないのに、身体は勝手に、より強い快楽を求めてしまう。
(ヤダ…ヤダ…恥ずかしい! なのに…止まらないよぉ…)
気持ちいい。
もっとして欲しい。
そんな思いが、奈子を支配する。
「あぁっ…あんっ…ああ…ん」
不意に、乳首を強く吸われた。
エイシスの指が与えてくれる快感に意識を集中していた奈子は、この突然の刺激に、大きく体をのけぞらせる。
(イイ…気持ちイイ…もう…イッちゃう…)
もう、すぐにでも達してしまいそうだった。
必死にそれをこらえて、エイシスを抱く腕に力を込める。
「来てっ! もう、我慢できないっ」
思わず、叫んでしまった。
言ってしまってから、恥ずかしくなって顔をそむける。
(ヤダ…アタシってば、女の子の方からこんなこと言うなんて…)
自分が、ひどくいやらしい女のように思えて、エイシスに軽蔑されたのではないかと心配になった。
恐る恐るエイシスの顔を見る。
杞憂だった。
エイシスは面白そうに、奈子の耳元でささやいた。
「欲しい?」
「欲しい…、ね…して」
もう、恥も外聞もなかった。
エイシスが、エッチな女の子が嫌いでないのなら、なにも気にする必要はない。
「ねぇ…お願い、じらさないでぇ…」
自分にこんな声が出せたのかと、びっくりするくらいの甘えた声でおねだりする。
エイシスは身体をずらすと、奈子の下着を脱がし、脚を大きく開かせた。
「あ…やだぁっ!」
こんな恥ずかしい格好を、男の人の目に晒すなんて…。
奈子は真っ赤になって、両手で顔を覆った。
と、その瞬間、
宿の建物が、大きく揺れた。
一瞬遅れて、激しい爆発音が響く。
「な、なに?」
ベッドから転げ落ちそうになりながら、奈子は身体を起こす。
エイシスは素早い動きで窓際に駆け寄ると、窓をわずかに開けて外を見た。
まだそれほど遅い時刻ではないので、あちこちの建物に明かりが灯っている。
少し離れたところに、ひときわ大きなオレンジ色の明かりが見えた。
昼間行った、農場の辺りだ。
エイシスが小さく舌打ちをする。
「どうしたの? ね、なにがあったの?」
奈子が訊くと、エイシスは振り返って言った。
「どうやら俺の仕事らしい。炎豹はふつう、真夜中過ぎてから活動するもんなんだがな。気の早い連中だ。人の楽しみの邪魔しやがって」
台詞の最後の部分に、奈子は顔を赤らめる。
エイシスは文句を言いながらも、手早く服を身につけて剣を手に取った。
ベッドの上に座ったまま、その様子をぼんやりと見ていた奈子だったが、はっと我に返ったようにベッドから降りる。
「あ、アタシも行く。いいでしょ?」
ちょうど部屋から出ようとしていたエイシスは、一瞬意外そうな表情を見せたが、すぐに、普段通りの笑いを浮かべる。
「ああ。だが、服は着てくれよ。俺の気が散るから」
言われて、奈子は自分の身体を見おろす。
まだ、全裸のままだった。
慌てて傍らの服をつかんで身体を隠し、真っ赤になって叫んだ。
「当たり前でしょ、バカ!」
二人が農場に着くと、あちこちで火の手が上がっていた。
宿の窓から見えたのは、干し草を入れた大きな納屋が燃える炎らしい。
その炎に照らされてちらちらと、農場の牛とは違う、四つ足の獣の姿が見える。
山でチャイカを襲ったのと同じものだ。
「あれが、炎豹?」
「ああ、奴らは炎の魔法を使う。油断するなよ」
奈子はうなずくと、腰の短剣を抜いて逆手に握った。
記憶が戻らないままの戦いには不安もあったが、それでも、戦い方は身体が覚えている…。
そんな気がした。
「天と地の狭間にあるもの、炎を司る者たちよ…」
エイシスは剣を地面に突き立て、低い声で呪文を唱える。
突然、周囲が明るくなった。
広い牧草地が、炎の壁で囲まれている。
驚いたのか、あちこちで獣の咆吼が上がった。
エイシスがにやっと笑う。
「これで、連中は逃げられない。最後の一頭まで始末するぞ」
驚いた様子で炎を見ていた奈子は、緊張した面持ちでうなずいた。
(魔法…か)
声に出さずにつぶやく。
どうして、自分以外の者は皆、この、魔法とやらを使えるのだろう。
戦いのためだけではなく、生活の中でも魔法は利用されている。
照明や、暖房や。
チャイカが魔法の助けを借りて、複数の料理を同時に作っていく様は見物だった。
(普通の人間が、こんな能力を持っているものなのか…?)
それは、奈子の常識とは相容れなかった。
しかし…
「今は、そんなことを考えている場合じゃないか」
戦いの場において、よけいなことに気を取られるのは命取りになる。
奈子はとりあえず、疑問を頭から追い払った。
そのことは、あとで考えればいい。
奈子にとってはどんなに違和感があったとしても、その力は現実に存在しているのだから。
そして、それは人間だけの力ではない。
魔物の一頭が、少し離れたところで奈子を睨んでいた。
その目を見た瞬間、奈子は感じた。
不可視の『力』が自分に向かってくる。
それを避けて、横に飛んだ。
一瞬前まで奈子が立っていた場所で、炎が上がる。
炎をかわされたのを見て、炎豹は直接飛びかかってきた。
五メートル以上あった距離を、獣の跳躍力で一気に詰める。
奈子は獣に劣らぬ反射神経で、半歩後ろに下がってその爪をかわすと、間髪入れず、獣の喉を狙って両手の短剣を立て続けに振った。
喉をざっくりと切られて、炎豹は地面に倒れる。
ふぅっと息をついた瞬間、エイシスの声がした。
「後ろだ!」
あわてて振り向く。
すぐ目の前で、魔物の牙が光った。
間に合わない…。
そう思った瞬間、一筋の光が炎豹の身体を貫いた。
短い絶叫を残して、魔物は息絶える。
奈子は、光の起点に目をやった。
「怪我なんかすんなよ。こいつらを片付けたら、お楽しみが待ってんだから」
エイシスが笑っている。
「もぉ、バカ」
奈子は、照れたような表情で拳を軽く振り上げた。
そんなことをしてる間にも、残りの魔物たちが距離を詰めてくる。
仲間が一頭や二頭やられたところで、まったくひるむ様子を見せない。
奈子に見える範囲だけでも、十頭以上の炎豹の姿があった。
「どうして、こんなにうじゃうじゃいやがるんだ。まったく…」
ぶつぶつと不平を言いながら、エイシスがその大きな剣を振っている。
そのたびに、彼に襲いかかった炎豹の死体が増えていく。
エイシスにしてみれば、一頭一頭はたいして手こずる相手でもない。
ただ、とにかく数が多い。
人気のない山中や荒野でなら、強力な魔法で一気に殲滅することもできるのかもしれない。
しかし、人家の近いこの場所でそんなわけにはいかなかった。
奈子も、必死に戦い続ける。
この調子では、エイシスもそうそう奈子をサポートする余裕もないだろうし、なにより、彼の足手まといになるのはいやだった。
長い剣を持たない奈子は、炎豹の攻撃をぎりぎりでかわしながら、相手の急所を短剣で狙う。
人間離れしたスピードと反射神経だった。
エイシスのハイペースにはとてもかなわないが、それでも、奈子の周囲に魔物の死体が増えていく。
やがて相手が手強いと悟ったのか、炎豹たちは奈子と距離をとって、最初のように無闇やたらと襲いかかってこなくなった。
(怖じ気づいたのか…?)
そんなことを思った瞬間、前にいた三頭の魔物の瞳が光った。
まずい…と思ったときには既に遅い。
目の前で起こった爆発をかわしきれず、奈子は爆風で吹き飛ばされた。
両手で顔をかばうのが精一杯だった。
背後にあった木製の柵に叩きつけられる。
肩と頭をしたたかに打って、意識がもうろうとしたところに炎豹が襲いかかってくる。
地面を転がってその攻撃を辛うじてかわし、手に持っていた短剣を投げつけた。
目に短剣を受けて、炎豹は短く叫ぶ。
その隙に立ち上がった奈子は、右足から大きく踏み込むと同時に、右の拳を魔物の顎を狙って叩き込んだ。
骨の砕ける感触が、手に伝わってくる。
そのまま相手に突き刺さっている短剣を抜くと、真一文字に振り抜く。
一瞬遅れて、炎豹の喉から血が噴き出し、崩れるように倒れた。
しかし、その陰からすぐにもう一頭の魔物が現れる。
「ったく、ホントにきりがないな!」
奈子は顔を狙って飛びかかってくる炎豹を身を沈めてかわすと、無防備な腹にアッパーカットを打ち込んだ。
奈子よりも大きな炎豹が、地面に転がって苦しげな声を上げる。
すかさず短剣でとどめを刺そうとした奈子だったが、倒れた炎豹の向こうに、さらに二頭の魔物の姿を認めて足を止めた。
魔物の目が、妖しく光る。
奈子めがけて一直線に放たれた炎の魔法を横に飛んでかわし、すぐさま向きを変えると、魔法を放った炎豹に向かった。
魔物は、低いうなり声を上げる。
殺気を感じた奈子は、大きく飛び上がった。
同時に、奈子の足下の地面が炎を上げる。
「エクシ・アフィ・ネ!」
空中で、奈子は叫ぶ。
炎を飛び越えた奈子の手に、一振りの剣が現れた。
落下の勢いも利用して、奈子はそのまま剣を振り下ろす。
その剣は、溶けたバターを切るほどの手応えも感じさせずに、炎豹の頭を切断した。
魔物の血が滴る剣を構えて、奈子は周囲の炎豹を睨めつける。
「ふふ…さぁ、次はどいつだ? まだ夜は長いんだ、最後の一匹まで相手になってやるよ」
唇の端をかすかに上げて、奈子は殺気のこもった笑みを浮かべた。
魔物の最後の一頭がエイシスの剣に貫かれたときには、すでに東の空が白み始めていた。
その様子を見届けた奈子は、地面に座り込んで大きく息を吐き出した。
もう、立っているのも辛いくらい疲れ切っている。
なにしろ、一晩中闘っていたのだ。
長い夜だった。
二人の周りには、三十頭以上の魔物の死骸が転がっている。
魔物だけではない。
二人が来る前に餌食となったらしい、家畜の死体も見える。
しかし、農場の人たちはエイシスに言われて屋内に閉じこもっていたはずだから、被害はないだろう。
奈子は、手も、顔も、服も血塗れだった。
その中には少しばかり自分の血も混じっているが、大きな怪我はない。
奈子に比べれば、エイシスの様子はまだましだった。
短剣で接近戦を挑む奈子は、どうしても相手の返り血を浴びるし、自分も傷を受けやすい。
エイシスも疲れた様子で、地面に突き立てた剣に寄りかかるようにして立っていた。
もしかすると、エイシス一人の方が楽だったのかもしれない…奈子は、そんなことを考えた。
エイシスは常に奈子の方に注意を払い、何度も危ないところを救ってくれたのだから。
「さて、帰るとするか」
相変わらずの気楽な口調でエイシスが言う。
「まさか、これから先刻の続きをするなんて言わないよね?」
疲れきった顔にかすかな笑みを浮かべ、奈子は訊いた。
血と、汗と、泥にまみれた自分の身体を見おろす。
「アタシ、とにかくぐっすり眠りたいよ。お風呂にも入りたいし…」
「そうだな。ゆっくり休んで、万全のコンディションでお楽しみといくか。今晩も徹夜を覚悟しとけよ」
「もぉ、そんなことしか考えられないの?」
呆れたような口調で言いながら立ち上がった奈子は、エイシスの腕につかまって小さく笑った。
宿に戻って、死んだように眠っていた奈子が目を覚ましたのは、もう陽が沈んでからだった。
エイシスの姿はない。
階下に降りてチャイカに訊ねると、雇い主のところへ報酬の後金を受け取りに行ったらしい。
奈子はその間に熱い湯で身体を洗い、食堂で食事を摂った。
部屋に戻るとベッドにごろりと横になり、天井を見つめてなにかを考えている。
やがて、階段を上ってくる足音に気づき、奈子は上体を起こした。
エイシスが部屋の扉を開けると、ベッドの上に座った奈子がこちらを見つめていた。
口元には、かすかな笑みを浮かべている。
そして、意志の強さを感じさせる瞳。
それが彼のお気に入りだった。
考えてみると、フェイリア・ルゥもリューリィ・リンも、気の強さという点では共通している。
おとなしい素直な女性よりも、じゃじゃ馬を乗りこなす方が彼の好みに合っているのだ。
そして、じゃじゃ馬ということなら、この娘はとびきりだった。
初めて会ったときから、かなり気に入っていた。
これまで手を出すチャンスがなかっただけだ。
彼はどちらかといえば奈子に嫌われているらしく、とても手を出すどころの話ではなかった。
だからこれは、神が与えてくれたチャンスだ…と都合よく解釈する。
報酬は安いし、割に合わない仕事だと思ったが、やはり人助けはするものだ…と。
奈子をソレアのところへ連れていって、記憶が戻った後はどうなるか、深く考えないところがエイシスらしい。
奈子はリューリィよりも一つ年下だから、少々若すぎるという気がしないでもないが、彼は、女性の年齢に関してはかなり守備範囲が広いのだった。
「お帰り」
奈子がにこっと笑う。
エイシスはまっすぐ奈子の隣に座って肩を抱いた。
奈子の顎に手をかけ、唇を重ねる。
彼女は小さく身じろぎしただけで、エイシスが服のボタンを外しはじめても抵抗はしない。
弾力のある奈子の胸を手に包み込むと、かすかに、心臓の鼓動が伝わってきた。
やはり、緊張しているのだろう。
奈子の鼓動はずいぶんと速い。
ゆっくりと手を動かすと、奈子の唇から小さな吐息が漏れた。
肩が、小さく震えている。
エイシスは、指と舌で時間をかけて奈子の胸を愛撫する。
少しずつ、奈子の呼吸が荒くなる。
肌が紅潮して、汗ばんでくる。
奈子の乳首を口に含んだまま、エイシスは手を下へ移動させていった。
「あ、ヤダ…」
下着を脱がすと、奈子は恥ずかしそうに身をよじらせた。
エイシスの指が触れると、びくっと身体を震わせる。
「ぁ…ん…、ダメ…ェ…」
そんな抗議の声には耳を貸さずに指を動かす。
奈子は、その動きに合わせるかのように切なげな声を漏らす。
(いい反応するよな、こいつ…)
それほど男性経験が豊富なようには見えない。
もともと、敏感な体質なのだろう。
指を中に入れる。
「…やだ、ダメ!」
エイシスの手を押さえようとしたが、間に合わなかった。
「やぁっ、あ――っ」
悲鳴に近い声を上げて、奈子は身体をのけぞらせた。
「やぁ…ヤダぁ…あ…ん…ぁ!」
エイシスは、中をかき混ぜるように大きく指を動かす。
奈子は口から出る言葉とは裏腹に、その動きに合わせるように腰をくねらす。
「やっ…ダメ…あぁっ、そんな…ぁ…ヤダ…ぁ」
切なげな声の間隔が、だんだんと短くなってくる。
エイシスは笑みを浮かべた。
もうすっかり、彼を受け入れる準備はできていた。
はじめのうち、やや固さの感じられたそこは、柔らかくほぐれてエイシスの指を包み込んでいる。
「エイシス…アタシ…もう…」
奈子が目を開く。
顔は上気し、その瞳は熱く潤んでいた。
「じゃ、いくぞ」
エイシスは奈子の膝のあたりを押さえて、脚を開かせる。
「あん…待って…」
普段の奈子からは想像もできないような、甘ったるい声で言う。
耳まで真っ赤に染めて。
「…あの…ね、アタシが上になっても…いい?」
言ってから恥ずかしくなったのか、両手で顔を覆う。
エイシスは小さく笑った。
意外と、いったん火がつけば激しく燃えるタイプらしい、と。
そういう女は嫌いではなかった。
「ああ、好きなようにしな」
笑って応えると、奈子と身体の上下を入れ替え、ベッドの上に仰向けになった。
「…ねえ、エイシス…」
エイシスの上に乗った奈子は、甘えた声で彼の名を呼ぶ。
しかし次の瞬間、不意にその口調が変わった。
「…いったい、誰が誰の恋人だって?」
はっとして奈子の顔を見たエイシスは、急に、部屋の温度が氷点下まで下がったかのように感じた。
奈子が、冷たい目で彼を見おろしていた。
ひどく危険な目つきだった。
前に一度だけ見たことがある。
本気で、彼を殺そうとしている目。
その理由はすぐに思い当たった。
「まさか…お前…記憶が…?」
「人がなにも憶えていないのをいいことに、ずいぶんと好き勝手やってくれたじゃない?」
(まずい…)
どっと、冷や汗が吹き出す。
彼は、自分が人生最大の危機に瀕していることを悟った。
大きな誤算だった。
ソレアの元へ連れていく前に、記憶が戻るなんて…。
「記憶喪失の女の子をだまして弄ぼうなんて…。いや、アンタが悪党なのはわかってるつもりだったけどね、まさかここまで外道だったとは…」
やっぱりさっさととどめを刺しておくべきだった…と奈子がつぶやく。
記憶が戻ればこうなることは予想できたから、エイシスとしてはその前に手の届かない場所まで逃げておくつもりだった。
こんなところで記憶が戻るとは…。
いや、まさか、いまいきなり記憶が戻ったわけではあるまい。
いったいいつの間に…
ふと、思い出す。
昨夜の戦いの最中、爆発に巻き込まれて頭を打ったとき…。
それしか考えられない。
だとしたら、なぜ、いままで黙っていたのだろう。
記憶が戻ってなお、彼に抱かれていた理由は…?
その理由に思い当たったエイシスは、奈子が正真正銘、本気であると理解した。
いまの体勢、セックスならばいわゆる騎乗位である。
しかし、ちょっと見方を変えると、それは格闘技でいうところのマウントポジションだった。
上の者が圧倒的有利の体勢。
怒りを気取られずに、確実に彼を仕留めることのできるチャンスを待っていたのだ。
絶体絶命のピンチだった。
エイシスの手の届くところに武器はないし、素手の奈子がどれほど強いかは良く知っている。
「…え〜と…その…別に悪気があったわけじゃ…軽いジョークのつもりで…な、落ち着いて話し合おうじゃないか?」
やや引きつった表情で、それでも、なんとか笑みを浮かべる。
しかし、奈子の反応は冷たい。
「話し合う? なにを?」
開いた右手の指を、一本ずつゆっくりと曲げて拳を握る。
それは、死刑執行への秒読みだった。
「なにか、遺言は?」
ドライアイスよりも冷たい声で訊ねる。
エイシスは、あきらめたような表情を浮かべて苦笑した。
「…せめて、やるコトやってからにしてくれないか?」
「…っっ!」
そんなふざけた台詞を最後まで言わせずに――
奈子は、そのにやけた顔に必殺の拳を叩きつけた。
一階にある、チャイカの部屋で――
彼女は寝間着に着替えながら、ちらりと天井を見上げた。
かすかに、天井がギシギシと軋んでいる。
「あの二人ってば、ずいぶんと激しいのね…」
頬を赤く染めてつぶやいた。
とんでもない勘違いであった。
翌朝、朝食の時間になっても二人は姿を見せなかったが、チャイカは起こしに行ったりはしなかった。
気を利かせたつもりだった。
さすがに昼近くになって様子を見に行ってみて――
小さく悲鳴を上げた。
そこで見たものは、ベッドの上で血塗れになって気を失っている、エイシスの姿だった。
エピローグ
それから十日ほど後のこと――
「そういえば、最近エイシスが姿を見せないわね」
午後のお茶の時間の、他愛ない世間話の中で。
ソレアはごく何気ない調子で言った。
奈子の手の中で、ティーカップが耳障りな音を立てる。
ソレアはわずかに首をかしげた。
「…ナコちゃん?」
「し、知らないよ、あんなヤツ。どこかでのたれ死んでんでしょ、きっと」
妙にあわてている奈子を、疑わしげに見る。
意味ありげな笑みを浮かべて。
「…ナコちゃん〜?」
「し、知らないって言ってるっしょ! アタシ、ホントに何も知らないんだから!」
「…ま、そういうことにしておいてあげてもいいけどね」
ソレアはすべてを見透かしているような表情で、小さく肩をすくめた。
その頃、エイシスは――
まだ全身包帯だらけのまま、あの村の宿屋で寝ていたりする。
しかし意外と元気そうだ。
看病してくれているチャイカにちょっかいを出しているところを見ると、これっぽっちも反省はしていないらしい。
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