彼――エイシス・コット・シルカーニは、生命の危機を感じていた。
生まれ育った村を出て、傭兵を生業とするようになって十五年以上になる。その間、危険とは常に隣り合わせの人生だったといってもいい。それでも、いま彼が置かれているほどの危機は、そうそうなかった。
彼は、追いつめられていた。
目の前に、ひとりの女性が立っている。
美しい女性だった。そして、静かな笑みを浮かべている。
まともに戦っても勝てない…本能的にそう感じていた。
あるいは、魔法の助けを借りればなんとかなるかもしれない――
口の中で、呪文を唱える。
四大精霊の魔法。
自然界に存在する精霊だけではなく、それ以上の数の精霊を強制的に召喚してより大きな力を行使する、きわめて珍しい魔法。
エイシスは、大陸中でも数十人しかいないといわれる、その魔法の使い手の一人だった。
呼びかけに応えて、精霊たちが集まってくる。エイシスに、力をもたらす。
しかし――
「天と地の精霊、力を司る者たちよ。我の呼びかけに応えよ…」
女が口を開いた。澄んだ美しい声が、その唇から発せられる。
それは、精霊たちを魅了する不思議な力を秘めた声だった。
一瞬のうちに、エイシスが召喚した精霊はすべて奪われていた。彼の元に届けられるはずだった魔力が、その女へと注がれてゆく。
「あなたの、精霊に対する支配力ってこの程度? つまらないわね。観客もいるんだから、もっと抵抗して見せなさいよ」
嘲る声すら、美しかった。
それは、限りない危険を秘めた美しさだった――
ハシュハルドは、陸路と水路、ふたつの大きな交易路が交わる土地に発展した、大陸でも有数の都市だった。大陸中から集まってくる商人たちや、その護衛の傭兵たち。街はいつも大勢の人間で賑わっている。
そんな街の中の、それほど大きくもない通り。そこにある一軒の小さな酒場は、まだ陽も高い時刻だというのに、ずいぶんと大勢の客が入っていた。
客層は基本的に若い男が多い。他の店なら、こんな時間から飲んでいるのは大半が隠居した年寄りと相場が決まっているのだが。
実は彼らの目当ては、この店で働いている娘だった。
店の主人ウェイズ・アル・セイシェルの養女で、今年十六歳になったリューリィ・リン。長い金髪と深い緑の瞳を持ったこの少女は、ハシュハルド一ともいわれる評判の美少女だった。そのくせ明るく気さくな性格で、親しみやすい。外見に似合わず少々気が強くはあったが、とにかくハシュハルドの若い男たちの憧れの的なのだ。
しかし今日は、少し様子が違っていた。いつもならリューリィに見とれてデレ〜としている男たちの目が、妙に嶮しい。
その嫉妬まじりの視線は、席について酒をあおっている一人の大男に注がれていた。
その赤毛の大男は、時々この店に姿を見せる。
リューリィはその男の顔を見るたびに喧嘩腰で突っかかっていくが、しかし、彼女が相手のことを憎からず思っていることは誰もが知っていることだった。
その上、リューリィの純潔を奪ったとも噂されている。間違いなく、今のハシュハルドにおいてもっとも大勢の恨みを買っている人物だった。
しかし最近では、彼に喧嘩を売る人間もほとんどいない。その男は傭兵を生業としており、ひとたび剣を抜けば、このあたりの荒くれ共を歯牙にもかけない実力の持ち主だったから。
何年か前には、この街に攻め込もうとしていたアルトゥル王国の精鋭一万騎以上を相手にたった一人で立ち向かい、ついには敵将を討ち取ってその軍勢を追い返したとさえいわれている。
噂には尾鰭がつきものだから、どこまで信用していいのかわからないが、「ひょっとしたら事実かも」と思わせるほどの強さを持っていることは確かだった。
だから、リューリィの取り巻きたちにできることといえば、その男を恨めしそうに睨みつけながらヤケ酒をあおるくらいのものだった。
エイシスは上機嫌で、ビールを口に運んでいた。
最近いろいろとごたごたしていて、この店を訪れるのも久しぶりだった。だから、今夜のことを考えるとつい顔がにやけてしまう。
リューリィはまだ十六歳だが、会うたびに女らしく、そして美しくなっていく。十歳の頃から彼女を知っているだけに、感無量だった。大人になったら結構な美女になるとは思っていたが、正直ここまでとは予想していなかった。うれしい誤算だ。子供の頃に唾を付けておいて本当によかった。
かなり気の強いところがあるので、素直に彼に甘えたり媚びたりすることはない。が、そんなところがかえって可愛い。彼はむしろ、じゃじゃ馬の方が好みなのだ。
エイシスは自他共に認める女好きだが、これまでに手を出してきた無数の女たちの中でも、リューリィは間違いなく三本の指に入る「お気に入り」だった。
ちなみに、お気に入りのうちのもう一人も、いま同じテーブルに着いている。
長い銀髪を伸ばした美しい女性。意志の強さを感じさせる凛とした瞳が魅力的だった。
フェイリア・ルゥ・ティーナ。今年二十七歳になるエイシスよりも年上だが、外見はどう見ても二十代半ばでしかない。彼女とはエイシスが十三歳の頃からの知り合いで、彼の初恋の相手でもあった。
フェイリアとリューリィは、エイシスがリューリィと出会う以前からの知り合いである。リューリィの実の両親がまだ健在だった頃、一時期彼女の家に滞在して家庭教師のようなことをしていたそうで、今でも仲がいい。
ある意味、恋敵といえないこともないはずなのだが、そんな様子は微塵もない。だから、この店で三人が顔を会わせることも、さほど珍しいことではなかった。
エイシスが
(これは、今夜は三人でお楽しみ…か?)
などとふざけたことを考えているのを知ってか知らずか、二人は楽しそうに談笑していた。
エイシスの楽しいひとときは、一人の客が店に入ってきたことによって終わりを告げた。
「あら?」
たまたま入口の方を向いていたフェイリアの口から、小さく驚きの声が漏れる。エイシスがその視線を追って背後に顔を向けようとした瞬間、
「死ぃねぇぇぇっっっっっ!」
裂帛の気合いとともに、剣が振り下ろされた。彼が着いていたテーブルがまっぷたつになる。
「な…っ?」
反射的に身をかわしたから辛うじて助かったのだ。でなければ、両断されていたのはテーブルではなくエイシスのはずだった。
慌てて立ち上がったエイシスの前に、一人の少女の姿があった。
鮮やかな、濃い金色の髪が揺れる。
珍しい金色の瞳には、怒りの炎が燃えさかっていた。
手には、赤い光を放つ剣を握っている。それは、魔力が刃の形に結晶化したもので、それを持つ者の卓越した力の証明だった。
「ファーリッジ・ルゥ…?」
その名をつぶやく。
ファーリッジ・ルゥ・レイシャ。外見はリューリィと同世代の年齢の少女でしかないが、この大陸でも最高の力を持った魔術師の一人だ。
その彼女が、全身から怒りのオーラを発してエイシスを睨め付けている。
「殺してやる…、殺してやる!」
目つきが、尋常ではなかった。
エイシスはすぐに、ファージの怒りの原因に思い当たった。そして同時に、彼女が紛れもなく本気であることを悟った。
彼は一瞬の躊躇もなく、即座に逃げ出した。王国時代の竜騎士にも匹敵する力を持つといわれるこの少女と、まともに戦うつもりはなかった。しかし、ファージの動きはエイシスのそれを遙かに凌駕していた。たちまち追いつかれ、赤い剣がうなりを上げる。エイシスは死を覚悟した。
キィンッ!
硬い金属がぶつかり合う、鋭い音が響いた。
そのままであればまっぷたつにされていたはずの身体は、傷を負ってはいなかった。
まるで磁器を思わせる真白い刃が、ファージの赤い剣を受け止めている。それは、フェイリアの持つ『竜の剣』だった。
「…邪魔する気?」
低い声でファージが言う。
「ちょっと、ファーリッジ・ルゥ。いったいどういうつもり?」
額に冷や汗を浮かべたフェイリアが訊く。
「どうもこうもあるかっ! こいつを殺してやるっ!」
常人よりも長い犬歯をむき出しにして、ファージが叫んだ。
「理由を説明しなさい! でなければ、私が相手よ」
「理由? 決まってるじゃない!」
吐き捨てるように言うと、床に尻餅をついているエイシスを剣で指した。
「この外道が、私のナコを慰み物にしたんだっ!」
しん…
その場が、静寂に包まれた。
時が凍りついたかのような静けさ。
最初に復活したのは、フェイリアだった。
「…慰み物?」
「そうさ。傷ついたナコの心につけ込んで、さんざん弄んだんだ! 嫌がるナコを無理やり、一晩中犯し続けたんだから!」
ぴくっ。
フェイリアの眉が微かに動く。唇が小さく開かれた。
「…そう」
やっと聞こえるくらいの声で呟くと同時に
ヒュン!
その、白い刃が風を斬った。フェイリアの後ろに隠れるようにしていたエイシスの胸が浅く切られる。
「フェ、フェア…!」
「エイシス、あなたとは長い付き合いだし、あなたのことはよく知っているつもりだったけど…」
フェイリアは、静かな微笑みを浮かべていた。
ただしその笑みは、氷よりも冷たい。
「エイシス! あなた、女好きにもほどがあるわ! そりゃあ、ナコを気に入ってたのは知ってる。でもまさか、あんな状態のナコに手を出すほどの鬼畜だったとは…」
氷の微笑は、たちまち悪鬼の如き形相に変わる。
竜の角から削り出したといわれる竜騎士の魔剣が、容赦なくエイシスを襲った。
「ま、待て! 話せばわかる! 落ち着いて話し合おうじゃないか!」
間一髪で刃をかわしたエイシスが、片手を上げてフェイリアを制止する。
「話し合う? なにを? いっぺん死んできなさい。話ならその後で聞くわ」
冷たい声だった。なんとなく、内部に燃えさかる溶岩を封じ込めた氷の塊、といった雰囲気をただよわせている。
目が、本気だった。
外見は確かにはっとするほどの美女だが、怒らせたときの怖さでは、間違いなく大陸中でも五指に入る。
(こ、殺される…)
エイシスは、全身から脂汗が噴きだすのを感じていた。
ファーリッジ・ルゥ・レイシャとフェイリア・ルゥ・ティーナ。どちらか片方だけでも、敵に回すには危険すぎる相手だ。大陸でも最高クラスの魔術師二人が、彼の命を狙っていた。いくらエイシスが凄腕の傭兵でも、これではあまりにも分が悪すぎる。
(に、逃げ道は…)
緊張した面持ちで、店内に視線を走らせる。
店の入口側に立つのはファージ。裏口側にはフェイリア。
逃げ道はなかった。
(かくなる上は…自力で逃げ道を作るしかない!)
魔法で壁をぶち破って。
そう考えて、口の中で静かに呪文を唱える。
四大精霊の魔法。精霊を召喚するための呪文。
エイシスがやろうとしていることに気付いたフェイリアの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「天と地の精霊、力を司る者たちよ。我の呼びかけに応えよ…」
フェイリアが口を開いた。澄んだ、美しい声がその唇から発せられる。
それは、精霊たちを魅了する不思議な力を秘めた声だった。
一瞬のうちに、エイシスが召喚した精霊はすべて奪われていた。彼の元に届けられるはずだった魔力が、フェイリアへと注がれてゆく。
「あなたの、精霊に対する支配力ってこの程度?」
嘲る声すら、美しかった。
それは、限りない危険を秘めた、美しさだった。
フェイリアは、精霊魔法に関しては大陸最高の使い手だった。エイシスの魔法も、彼女から学んだものなのだ。かなうわけがない。
「つまらないわね。観客もいるんだから、もっと抵抗して見せなさいよ」
フェイリアがちらりと視線を移す。
店の隅では、他の客たちがテーブルの陰に隠れながら様子をうかがっていた。
エイシスがちょっかいを出した女が店に乗り込んできて、騒ぎになるのは日常茶飯事だった。常連たちは慣れたもので、騒動が始まると同時にテーブルの陰に隠れて見物している。手には相変わらず酒の器を持ったままだ。
ハシュハルドのアイドルを奪った憎き男が困る様を見物するというのは、最高の酒の肴だった。
エイシスは、孤立無援だった。
絶体絶命の危機に置かれていた。
逃げ道はなく、魔法で逃げ出す術も奪われた。
全身に殺気をみなぎらせたファージとフェイリアが、じりじりと間合いを詰めてくる。
エイシスは冷や汗を浮かべながら、同じ分だけ後ずさる。
どん!
背中が、なにかにぶつかった。
振り返ると、ファージが入ってきたときには厨房にいたはずのリューリィが立っている。
「傭兵…」
大きな、深い緑の瞳が彼を見つめている。
「…リュー、助けてくれ」
エイシスが珍しく弱音を吐いた。リューリィが取りなしてくれれば、ファージはともかくフェイリアは怒りを収めるはずだった。
「ねぇ、傭兵…」
リューリィがにこと微笑む。
ハシュハルドの男たちを魅了する、天使の笑顔だった。
「…ねぇ傭兵。ナコって誰?」
エイシスの顔から血の気が引いた。リューリィの手の中にあるものが視界に入る。
リューリィは、すっと手を上げた。首に刃が突きつけられる。
それは、リューリィのような美少女が持つにはあまりにも不釣り合いで物騒な代物、プロの剣士が持つ両手用の長剣だった。
「リ…リ、リュー…」
「そりゃあ、フェア姉のことは仕方ないと思ってるよ。あたしと知り合う以前からの関係なんだから。でも、ナコって誰? 今度はどこで引っかけた女よっ?」
剣を握る手に力が入り、切っ先が喉に触れる。
「あなた、最近ちょっと調子に乗ってるみたいだし。すこ〜し、お仕置きが必要みたいね?」
背後から聞こえたそんな台詞と同時に、フェイリアの柔らかな手がエイシスの肩に置かれた。
買い物から帰ったこの店の主人、ウェイズが見たものは――
原型を留めぬほどに荒れ果てた、彼の店だった。
テーブルも椅子もボロボロ。壁は穴だらけで、あちこちに焼け焦げも見える。
ただひとつ無事なテーブルの周りに三つの椅子を並べて、三人の美しい女性が、不機嫌そうな顔でお茶をすすっている。うち一人は、彼の知らない人物だった。
その足元に、全身血まみれの大男が横たわっている。
「…ふむ」
ウェイズは一目でおおよその事情を察した。
もともと寡黙なウェイズは、これくらいで取り乱すようなことはない。それに、こんなことはよくあることだ。まあ、普段よりも少しだけ、店と、そしてエイシスのダメージが大きめだというだけのこと。
生死不明の状態で床に倒れている男に向かって、
「修理代はお前にツケておくぞ」
とだけ言うと、ウェイズは店の奥へ消えていった。
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