三章


 カムィは、街へ戻る道を無言で歩いていた。
 不自然に早足で歩くその姿は、まるでコンルとラウネから逃げるかのようだった。
 カンナは、少し距離を空けて後をついていく。
 あまり近寄らないように気をつけていた。
 機嫌が良くないのは一目瞭然だ。こんな時、近づきすぎるとカムィはいっそう不機嫌になる。
 人間の心情には疎い魔物とはいえ、カムィとは昨日今日の付き合いではない。長い経験でわかっている。
 魔物を狩った後に『ご褒美』をねだった時のような、口先だけで怒っている時。
 カンナが他の人間をつまみ食いしようとした時のような、心底怒っている時。
 以前はわからなかったその違いが、感じ取れるようになってきている。
 そして、今のカムィは後者だった。
「……カンナ」
 前を歩いているカムィが口を開く。
 真っ直ぐに前を見たまま、後ろのカンナには視線を向けずに。
「お前、あの竜と戦って……勝てるか?」
「え?」
 立ち止まってゆっくりと振り返るカムィ。
 難しい表情をしている。
 機嫌がよくないのは明らかだが、かといってあからさまに怒りを表に出しているわけでもない。なにか考え込んでいるようにも見える。
「……勝てるよな?」
 もう一度、既定の事実を確認するように訊いてくる。
「そりゃあ……」
 カンナもゆっくりと答える。
 魔物同士、彼我の力の差は実際に戦わずともおおよそのところは感じ取れる。そしてカンナは、今の自分がラウネよりも格段に強いことを確信していた。
 竜族に限らず、魔物は一般に年長者の方が身体も大きく力が強い。しかし、カムィの血を毎日のように受けている今のカンナを凌駕する魔物など、竜族であってもそうはいない。
 ラウネも優れた魅魔師であるコンルの血を受けてはいるが、カンナがカムィと出会ってからの方が期間も長く、与えられる血の量も多い。
 なにより、カムィの血はコンルとは違う。
 同じ魅魔師であっても。
 従姉妹同士であっても。
 その血は別格だ。
 カムィの血は、コンルよりもはるかに純粋なものだった。
 いつも味わっているカンナにはよくわかる。その違いは、当人たちが思っているよりも大きなものなのだ。
「……そりゃあ、勝てるけど」
 カンナは慎重に答えた。
「だったら……」
「殺すの? あいつを?」
 先回りして、カンナの方からカムィの言葉を遮って訊いた。
「だったら」の続きをカムィに言わせるわけにはいかない。カムィに先に言われてしまったら――魅魔の言霊を込めて言われてしまったら、もう逆らえない。
 だから、カンナの方から先に訊く。
 言わんとしていた台詞を先取りされたカムィは、口をつぐんで不愉快そうにカンナを見つめた。
「……殺すの? どうして?」
「…………あいつは、魔物だ。……それ以上の理由がいるのか?」
 もちろん、ただの魔物であればそれだけで十分だ。なにしろカムィは、この世のすべての魔物を憎んでいるのだから。
 しかしそれだけではラウネを殺す理由にはならない。
「どうして殺す必要があるの? カムィの……イトコだっけ? あの子のツレだよ?」
「コンルはあの竜に魅了されて操られているだけだ! そうじゃなければ、あんな……」
 あんなこと、できるわけがない。
 先刻の光景が、脳裏に鮮やかに蘇ってくる。
 ひとつに重なる男女の身体。
 子供と思っていた従妹が、一人前の女として竜と交わる姿。
 吐き気をもよおすほどの生々しさで脳裏に浮かんでしまう。
 胃液が逆流してきて、カムィは慌てて口を押さえた。
「魔物に魅了されて、操られてる? どうしてそう思うの?」
 そう問われて、カムィは意外そうな視線をカンナに向けた。
「どうして……だと?」
 こくん、とうなずくカンナ。
「どうしてかわかんないよ。だってあの二人、愛し合ってるだけじゃん」
 その言葉に、カムィが目を見開く。その目は血走っていて、腕には鳥肌が立っていた。
「あ……ありえないだろう! 愛し合う、だと? 人間が、魅魔師が、魔物と……」
「…………ふぅん?」
 一歩、二歩。カンナが後退る。
「あり得ない? ……そう、思うんだ?」
 その顔には、自嘲めいた苦笑が浮かんでいた。
 カムィと少し距離を空けたところで、ゆっくりと両腕を広げる。
 背中に淡い光が生まれ、左右に広がって翼の形になる。
「……カンナ?」
 ふわり、とカンナの身体が浮かんだ。
「あたし、今夜は外で寝るから。……じゃあね」
 それだけ言うと、カンナは高度を上げていった。
 ――カムィの声の届かないところまで。



「……逃げたな」
 唐突な行動で離れていったカンナの姿が見えなくなるまで茫然と見送ったカムィは、唇を噛んで忌々しげにつぶやいた。
 間違いなく、カンナは『逃げた』のだろう。ラウネを殺すように命じられる前に。
 あのまま傍にいればそれを命じられると悟って、カムィから離れたのだ。
 命じられないために。
 逆に言えば、カムィがそれを命じずに済むように。
 こんなカンナは初めてだった。今日のカンナは普段と様子が違っていた。
 なんだかんだ言っても、カンナは素直にカムィに付き従ってきた。
 あんな、カムィを問いつめるようなことを言ったり、命じられることを嫌って逃げたり、今まではなかったことだ。
「……くそ」
 不愉快ではあるが、結果的に救われたのかもしれない。
 ラウネを殺さずに済んだ。
 カンナはそのためにカムィから離れていったのだろう。

 しかし、どうしてだろうか。
 先刻のカンナが、まるで泣いているかのように見えたのは。



 カンナは、カムィの力が及ばないところまで飛んでいった。
 ふと下を見ると、先ほどの泉の中にひとつの人影がある。
 カンナはそれを目指して降りていった。

 その人影はコンルだった。泉で水浴びをしていて、長い髪から滴が落ちている。
 コンルが背中を向けている岸辺に音もなく降りる。それでもコンルは気づいて、視線をこちらに向けた。
 そこにカンナがいることを不思議に思うような表情で、微かに首を傾げる。
 冷たい清水の中にいるのに頬は上気して、熱っぽい、潤んだ瞳をしている。そんな表情は実際の年齢以上に大人っぽく、そして艶っぽかった。
 カムィの従妹だけあって綺麗な子だ、とカンナは思った。
 そして、美味しそうでもある。
 周囲には甘い匂いが充満していた。ラウネによって全身に刻まれた細かな傷には、まだ塞がりきっていないものもある。
 魔物にとってはえもいわれぬ芳香だ。カムィの血を存分に味わっているカンナでなければ、この香りに我を忘れて襲いかかっていたことだろう。
「……あいつは?」
 なにか言いかけたコンルに対して、カンナの方が先に口を開いた。
「先に街に戻ってるわ」
「一緒じゃなかったんだ?」
「わたしは、少し頭を冷やしてからじゃなきゃ眠れないもの」
 苦笑しつつ答えるコンル。
「……だろうね」
 カンナも納得顔でうなずく。
 もっともな話だ。
 竜族と交わるなど、普通の人間に耐えられる行為ではない。竜に与えられる快楽は、人間が受け入れられる限界をはるかに超えたもので、ほとんどの場合は発狂して死に至る。運よく生き長らえられたとしても、正気を保っていられる者は皆無だ。
 コンルが極めて運のいい人間であり、かつ魅魔の血によって竜族の力に抵抗力があるとしても、行為の後ですんなりと眠れるわけがない。その身体には快楽の余韻が残り、すぐには火照りが治まらないはずだ。
 落ちついて水浴びをしていられるだけでもたいしたものだろう。普通ならば発狂している。
「ラウネを殺しに来たの?」
 今度はコンルが訊いてきた。
「……カムィ姉様に命じられて」
 先刻のコンルと同様に、カンナも相手の質問に苦笑で応えた。
 さすがは一緒に暮らしてきた従妹というべきか、カムィの性格はお見通しらしい。
「貴女たち、見ていたのでしょう? 姉様のことだもの、きっと逆上していることでしょうね」
「まあね」
 カンナは再び苦笑する。
 自分と同じ年頃のこの少女、見た目はカムィよりもずっと子供だけれど、今のカムィよりはずっと冷静だ。
「……だから、逃げてきた。命令されたら逆らえないもの」
 その言葉に、コンルの口元が綻ぶ。
「それはつまり、貴女としては殺したくない、と受け取っていいのかしら?」
「殺す理由がない、って言うべきだよね。……たぶん、カムィにとっても」
「……そうね」
 どこか安堵したような声音でコンルがうなずく。
 彼女は本気で心配していたのだろうか。
 カムィがラウネを殺そうとすることに。
 そして、そうなったら勝ち目はないということに。
「貴女が話のわかる竜でよかった。いくらなんでも貴女と姉様の二人が相手じゃ、わたしたちには荷が重いもの」
「あたしにはやる理由がないからね。あいつを殺したって、カムィがご褒美をくれるとは思えないもん」
 それは、なんとなく想像できる。
 ラウネと戦うことは、普段の魔物狩りとはまったく事情が違う。もしもカムィが命じる通りにラウネを殺したとしても、カムィはけっして悦ばないだろう。もちろん、ご褒美なんてもらえるはずがない。
 それは、なんとなくわかる。
 以前はまるでわからなかった、人間の……いや、カムィのそうした心の動きが、なんとなくではあるが理解できるようになっていた。
「……そうね」
 コンルがうなずく。
「でも、逆らえないっていうのは嘘でしょう?」
「え?」
「貴女の力、並の竜族とは思えないわ。昼間、初めて見た時には全身に鳥肌が立ったくらい。姉様の魅魔の力は素晴らしいものだけれど、それでも貴女ほどの竜を完全に支配できるとは思えない」
「そぉ?」
 訝しげな表情で問うコンル。それに対して、カンナは普段通りの悪戯な笑みを浮かべる。
「それって、カムィの力を過小評価してると思うよ? 確かにね、自分でも、今のあたしはこの世で最強の竜なんじゃないかと思うこともあるけれど、それはカムィの血のおかげだもの。カムィの血には、それだけの力がある。魅魔師であっても、ニンゲンにはきっとわかんないよ。あの血があたしたちにとって、どれほど素晴らしいものなのか」
「……わたしと姉様とでは、そんなに違う?」
 コンルの表情が曇る。どことなく不機嫌そうな口調になる。
「わたしの母はサスィ様の妹よ。姉様と私とで、その身体に流れる血がそんなに違う?」
 カンナは少し考えて、それが『嫉妬』という感情だと思い当たった。
 真っ直ぐにコンルを見つめる。黄金色の目を見開いて、面白そうににぃっと笑った。
「魅魔師って、みんなそんな風にやきもち妬きなのかな?」
「え?」
「カムィも、子供の頃は自分の力が劣っていると思い込んで、双子のお姉さんに嫉妬していたらしいじゃない? 魅魔師って、みんな、そう?」
 気まずそうに口をつぐむコンル。
「そんなに、力が欲しい? どうして?」
 返事は返ってこない。困ったような表情を浮かべている。
 人はどうして力を求めるのだろう。十分な力を持ちながら、いや、持っている者ほど、さらなる力を求める。
 そう考えたところで、あることを思い出してかすかに苦笑した。
 それは人間に限った話ではない。魔物だってそうだ。
 生まれつき、人間などよりもはるかに強い力を持つ存在――魔物。それでも、さらなる力を求める者は少なくない。
 そして、その多くは過ぎたる欲のために己の身を滅ぼしてきた。
「カムィの力は……特別なんだ。あんたが劣るわけじゃなく、カムィが特別。それはきっと、羨むようなことじゃないよ。むしろ……」
 そこで一呼吸の間をとって、なにかを考えるような表情になると、
「……逆じゃないかな、ニンゲンにとっては」
 意味深な笑みを浮かべて言った。
「……」
 コンルが不思議そうに見つめている。
「貴女って……子供っぽく見えて、実は全然そうじゃないのね」
「お互い様じゃん?」
「え?」
 今度は逆に子供っぽい笑みを浮かべるカンナ。あるいはわざとそうしたのかもしれない。
「あんただって、見た目はカムィよりもずっと子供だけど、ある意味ずっとオトナじゃん?」
 一瞬、驚きの表情を浮かべるコンル。しかしすぐに納得顔になる。
「よくわかるのね……って、魔物の嗅覚なら当然かしら」
「そゆこと」
 機嫌のいい猫のように目を細めてうなずく。
「だから、あまりカラダを冷やしすぎない方がいいんじゃない? いくらなんでも、もう火照りも治まったっしょ?」
「……そうね」
 そういえば、といった表情でコンルは水から上がった。カンナとの会話に夢中になっている間に、身体はかなり冷えていた。これ以上冷たい水に浸かっていては、風邪をひいてしまうかもしれない。
 手早く身体を拭いて衣服を身に着ける。
「…………貴女って、本当に不思議な魔物ね。赤の他人の、しかも人間の身体を気遣う竜なんて見たことないわ。ラウネはわたしには優しいけれど、それでも魔物は魔物、わたしが止めない限り、他の人間なんて狩りの獲物としか見ていないのに」
 なるほど、言われてみればそうかもしれない。カンナとしては、特に気遣っているという意識もなかったのだが。
 少し考えて、その理由に思い当たった。
「……ニンゲンは、あたしにとってはもうエサじゃないから」
「え?」
「カムィが怒るからね、もうニンゲンは食べないの。それに……」
 鋭い牙を覗かせながらも無邪気に笑う。
「どうせ、カムィ以外のニンゲンの血じゃ、もうオナカいっぱいにならないし」
「……貴女って…………」
 帯を結ぶ手を止めて、コンルは不思議そうにカンナを見つめていた。



 翌朝――
 
 宿を出たカムィは、まずコンルの姿を探した。
 ひどく、不機嫌そうな表情で。
 その作業自体は難しいことではなかった。あてもなく一人の人間を捜すには少々大きすぎる街ではあるが、簡単な解決法がある。
 魔物の気配を辿ればいい。
 本気で気配を消していない限り、竜族の気配などかなりの距離があっても感じとることができる。昨夜でこの街から魔物の気配が一掃されているのだからなおさらだ。
 気配はすぐに見つかった。早足でその場所へ向かう。
 それが目的の相手である確率は二分の一。もしかしたら、昨夜は結局戻ってこなかったカンナの可能性もある。
 しかし、無駄足にはならなかった。近づくと、竜族の気配はふたつあることがはっきりする。当然、コンルもその場に一緒にいた。
 いつでも出発できるように支度を調えた状態で、街外れの広場で佇んでいた。もしかしたら、カムィが来るのを予期して待っていたのかもしれない。
 幾分警戒しているような表情ですぐ傍に立っているラウネ。そして、少し距離を空けて気まずそうな苦笑を浮かべているカンナ。
 その二人は無視して、カムィは真っ直ぐにコンルに向かった。出発する前に、どうしても言わなければならないことがある。
「おはよう、カムィ姉様」
 コンルの口調は、相変わらずどこか挑発的だった。
「お前、魔物に魅了されてるんじゃないのか?」
 挨拶も返さずに問いつめるカムィに対し、コンルは不思議そうに首を傾げた。
「ふぅん、姉様の目にはそう映るんだ?」
「他になにがあると?」
 コンルの顔から挑発的な笑みが消えた。真剣な表情でまっすぐにカムィの目を見る。
「わたしと彼は愛し合ってるの。ただそれだけ。余計な口出しはしないで欲しいわ」
 絶句するカムィ。
「…………あ……い……? な、なにを莫迦なことを!」
「莫迦なこと? どうして?」
「愛し合ってる、だと? 人間が、魔物と……しかも魅魔師が!」
 ありえない。
 そんなことありえない。信じられない。
 ――カムィにとっては。
「……竜族は、人間の敵だ」
「そう? なぜ竜を愛してはいけないの? 竜が人間を喰うから?」
「……そうだ」
「でも、人間にだって人間を殺す者がいる。だからといってすべての人間を愛しちゃいけないなんてことはないでしょう? ラウネはわたしの味方で、わたしの仕事を手伝ってくれるわ」
「…………お前、故郷の村がどんな目に遭ったか憶えてないのか?」
 カムィはけっして忘れない。魔物に滅ぼされた魅魔師の里の光景を。
 折り重なる死体。
 血に染まった地面。
 竜と相討ちになって死んだ母。
 そして、無惨に喰い殺された、自分の半身。
 ――シルカ。
 一面紅く染まった光景。
 けっして忘れない。忘れられるわけがない。
 カムィもコンルも、魅魔の里の数少ない生き残りだ。それなのに魔物と、それもよりによって竜族と心を許し合うなんて、あっていいことではない。
「……魅魔の里は、竜族に滅ぼされたんだ」
「でも、ラウネがやったわけではない」
 コンルはきっぱりと言い返した。
「魔物が憎くないわけではない。だけど、ラウネを憎む理由はないわ。……確かに、両親や兄様が無事だった分、姉様ほど魔物を憎む気持ちは強くないのかもしれないけれど」
「…………」
 カムィは言葉を失っていた。コンルの言うことは正論かもしれない。しかしカムィにとっては到底受け入れられることではない。
 絶対に許さない。
 許せるわけがない。
 同じ血を分けた半身を殺した魔物を。
 確かに、それをしたのはカンナではない、ラウネではない。だからといって、竜族が人間の敵であるという認識を改めることはできなかった。
「姉様は、自分が竜を連れているくせに、わたしが同じことをするのには文句を言うの?」
「問題は、お前があの竜に魅了されているということだ!」
「わたしの目には、姉様こそあの娘に魅了されているように見えるわ」
「どこがっ!」
 ――冗談じゃない。
 カムィは頭を振った。
 いったいどこをどう見れば、そんな勘違いができるというのだ。
「昨夜、彼女と話をする機会があったの。興味深かったわ。誰よりも竜族を憎んでいるはずの姉様が、その竜族を連れているだなんて、それこそ驚きだもの」
「……なにを、話したって?」
「命乞いする彼女を殺さなかったこととか、死にかけていた彼女を命懸けで助けたこととか?」
「――っ!」
 いきなり急所を衝かれて言葉を失った。
 あれは、自分でも説明のつかない行動、説明のつかない感情だった。
 そもそもコンルの言うとおり、カムィが竜を連れていること自体、説明が難しい行動だ。
 確かにカンナは魔物を狩るのに役に立つが、どうしても必要な存在というわけではない。カムィの力であれば、自分ひとりでも魔物を狩るのにさほど不自由はない。むしろ、力のある魔物を支配し続けていることの方が負担が大きいくらいだ。
 そしてカムィは、その気になればいつでもカンナを殺せる。たった一言ですべて片が付く。カンナの身体には、常時それだけの量の魅魔の血が流れているのだ。
 いつでも殺せる。なのに、生かして連れている。
 カムィにとって、それは大いなる矛盾だった。
「あの竜を大切に想っているのではないと言い張るのなら、竜の力に魅了されて、操られているとしか思えないわね。わたしははっきりと言える、ラウネを愛しているわ」
「……っ」
 なにも反論できなかった。
 なにを言っても、根拠のない口先だけの言い訳になってしまいそうだ。
 黙り込んだカムィに対して、コンルはさらに衝撃的な、そして決定的な言葉を投げかけた。
「それに、今さら姉様が反対しても無駄。わたしは彼を愛しているし、これからずっと彼と一緒に暮らす。わたしのお腹には、彼の子供がいるの」
「――っ!」
 まず、自分の耳を疑った。
 耳に入った言葉が理解できない。理解することを頭が拒絶している。
 それくらい、想像を超えた言葉だった。
「な……、ん……だって?」
「聞こえなかった? わたし、彼の子を身籠もっているの」
 言い聞かせるように、一語一語ゆっくりと繰り返す。
 思い切り殴られたような衝撃だった。
 その言葉の意味を理解し、飲み込むには、しばらくの時間を必要とした。
 ――身籠もっている?
 ――妊娠?
 ――竜の仔を?
 なんだって?
 なにを言っている?
 そんな、ばかな。
「な……いや、ちょっと待て。…………身籠もっている、だって? そいつの仔を?」
 笑みを浮かべてうなずくコンル。その幸せそうな表情に思わず総毛立った。
 ありえない。
 ありえない。
 あっていいことではない。
「その……それは……なんなんだ? お腹の中にいるのは」
 コンルの腹を指さす。その指が小刻みに震えていた。
 目眩がする。視界がぐらぐらと揺れる。
「ここにいるのは、わたしと彼の愛の結晶」
 コンルはそっと自分の腹に触れ、幸せそうに答える。
「魔物か、人間か、と訊いているんだ!」
「どちらでも構わない。関係ないわ。どちらであっても、わたしたちの子よ」
 心底そう思っているらしいコンルの表情を見て、カムィは話す相手を変えた。コンルからは聞きたい答えは聞けそうにない。
 これまで会話に加わらずにいたラウネに視線を移し、目で問いかける。
 ラウネは小さく肩をすくめた。
「オレに聞かれても知らんよ。お前のツレと違って育ちがよくないからな。オレとコンルの子、オレにわかるのはそれだけだ」
 そう言って、少し距離を空けて立っていたカンナを顎で指す。
 その動作につられるように視線を移す。
 いきなり話を振られて困惑したような表情のカンナが視界に入る。
 カムィは首を傾げた。
 育ちがいい? カンナが? このおてんばが?
 ……いや。
 確かに、そうだ。
 これまで、あまり深く考えたこともなかったが、雷の神を意味する『カンナ』という名は、竜族の中では最上級のもののひとつだ。竜族だからといって誰でもおいそれと名乗れるものではない。
 相手の目を見るカムィ。
 さりげなく視線を逸らすカンナ。
「……お前は、知っているのか?」
「……なにを?」
 カンナは白々しくとぼける。見え透いた演技だ。無理に浮かべた笑顔が引きつっている。
「魔物に犯された人間が、身籠もって子を産むことがあるのか?」
 さらに怒気を強めた口調で問う。
 魔物に犯される人間の例は珍しくはない。魔物の多くは人間の血肉を常食とするが、その中でも快楽に狂った人間の血こそが魔物にとっては最高の美味だからだ。
 しかしカムィは、人間が魔物の仔を産んだ話など聞いたことがなかった。
 そもそも魔物に襲われた人間は、男女問わずその場で喰い殺されるのが普通だ。運よく生き延びたとしても、ほとんどの場合は快楽のあまり発狂して死ぬ。
 ごく稀に身籠もることもあると聞くが、それもカムィの知る限り、流産、死産という結果になるはずだった。
 しかし――
 カンナを見る。
 気まずそうな、困惑したような表情。いつも脳天気なカンナには珍しい。
 それはつまり「言いたくはない。が、知っている」ということだ。
「答えろ、カンナ」
 声に力を込める。
 瞳が熱を帯びるのを感じる。血の色をした瞳がカンナを捉えている。
「……あるよ」
 渋々、といった風にカンナはうなずいた。魅魔の言霊には逆らえない。
「稀に……ホントにごく稀に、あるよ。……ずっと昔から、あったことだよ。ニンゲンが、竜の仔を産むことは」
「……なん……だって?」
 その態度から半ば予想していたこととはいえ、衝撃のあまり、一瞬、足元がふらつきそうになった。
 カンナが言葉を続ける。
「竜と交わったニンゲンは、ほとんどの場合、喰い殺される。そうじゃなければ発狂して死ぬ。でも、それがすべてじゃない。ホントに万に一つの可能性だけど、運に恵まれれば、そのニンゲンが死なず、子供も生きたまま産まれてくることが……ある」
「……な……」
 唇が、舌が、固まったように動かなかった。それでもなんとか言葉を絞り出す。
「……なにが…………産まれてくるんだ?」
 本音をいえば、聞きたくはなかった。
 人間が魔物の仔を産み落とすだなんて、考えるだけでもおぞましい話だ。カムィの感覚では、生命に対する冒涜といってもいい。
 だけど、聞かなければならない。
 カンナも躊躇いつつ話し続ける。
「ニンゲンと、竜族の子……その子の二人に一人は、竜の力を受け継いで産まれてくる」
 竜の力を受け継ぐ者。
 つまりは竜族、正真正銘の魔物ということだ。
「二人に一人……じゃあ、残りの半数は?」
 緊張のあまり、喉がからからだった。
 聞いてはいけない、そんな気がする。
 しかしここまで来た以上、最後まで聞かなければならない。
「半数は竜族。……なら、残りの半数は……人間、か?」
 それは予想というよりも希望だった。そうであって欲しいという願いを込めて訊く。
 しかしカンナは首を左右に振った。何故か、ひどく哀しそうな表情に見えた。
「じゃあ…………なんだ?」
「……見た目は、ニンゲンの姿で生まれてくる。ただ一点を除いて、完全な、ニンゲンの姿で」
 こんなに真剣な、こんなに哀しそうな表情のカンナなど見たことがない。あの、カムィと初めて会って殺されそうになった時以来だろうか。
 あの頃よりも、ずっと大人っぽい表情。あれからまだ半年ほどしか経っていないのに。
 これまで、こんな表情を見せたことはなかった。
「見た目は、ニンゲン……」
 うつむき加減で言う。カムィと目を合わせないようにしている。
「だけどその子は……ニンゲンじゃない。竜族すら殺せる力を持った、ニンゲンだけどニンゲンじゃない存在になる」
「――っ!」
 人間の姿をしていて、だけど人間ではなく、竜族でもなく。
 そして、竜族を殺せる力を持つもの。
 そんな存在、いない。
 そんな存在、知らない。
 ……ただひとつの例外を除いて。
「ニンゲンと違うのは……」
 カンナの唇が動き続ける。
 耳を塞ぎたかった。
 叫びたかった。
 聞きたくない。
 聞きたくない。
 だけど、身体は動かない。
 目はまっすぐにカンナを見つめている。
 カンナが顔を上げると、真正面から視線がぶつかった。
 黄金色のカンナの瞳と、血の色をしたカムィの瞳。
「ニンゲンと違うのは……瞳。血の色をした、魔物を支配する瞳。そして…………魔物を魅了する、甘い、甘ぁい……血」
「う……嘘だっ!」
 反射的に叫ぶ。
 衝撃的な告白に、コンルとラウネも小さく息を呑んでいたが、そちらを見ている余裕はカムィにはなかった。
「魅魔の力を持つニンゲン同士の間に生まれた子は、多かれ少なかれ、魅魔の力を持つ。じゃあ最初は? いちばん最初の魅魔師は、どこから生まれてきたんだろう? 竜族に勝るとも劣らない、魅了の力を持つニンゲンが」
「――っ! そんなっ!」
 言わんとしていることは理解できる。
 しかし、理解したくはない。
「…………この世で最初の魅魔師が生まれたのは、遠い遠い昔のこと。最初の竜族が生まれたのと同じ、遠い遠い昔のこと。まだ、大いなる存在が滅びていなかった時代。最初の魅魔師は、そして最初の竜族は、正真正銘の竜と、ニンゲンの女の間に生まれたんだ」
「そ……ん、な……」
「今の魅魔師、今の竜族はその末裔。だから今でも、魅魔の血を得た竜族は、他の魔物を圧倒する力を得る。魅魔の一族に竜族の血が混じれば、その力は飛躍的に強くなる。それは、血がより濃くなるから。より、偉大なる竜に近づくから」
 カンナはまるで村の古老たちのように、古い歴史を淀みなく語っていく。
「魅魔師と竜族の間に生まれたニンゲンは、圧倒的な魅魔の力を持つ。他のニンゲンには絶対にあり得ない、強い、強い力。すべての魔物を魅了する力を」
 大きな黄金色の瞳が、まっすぐにカムィに向けられていた。
 その光が強くなる。
 一度閉じた淡い紅色の唇が、また、ゆっくりと開かれていく。
 カムィは叫びたかった。「嘘だ」と。
 命じたかった。「黙れ」と。
 しかし、できなかった。
 感じていたから。
 本能的に、感じていたから。
 カンナが語る言葉が、すべて真実だと。
 どうしてカンナはそんなことを知っていたのだろう。それはわからない。
 ただひとつ確かなのは、カンナは真実を知っていたということだ。
 カムィが知らなかった魅魔の力の真相を。
「……ねぇ、カムィ?」
 唇の端を微かに上げ、引きつった笑みを浮かべてカムィの名を呼ぶ。
 その一言が、それこそがもっとも怖れていた言葉だと、言われて気がついた。
「い……」
 言うな、と。
 そう、叫ぼうとした。しかし唇は、舌は、喉は、そんなカムィの理性に逆らった。
「……イトコ同士なのに、どうしてカムィの力はコンルよりもずっと強いの?」
「――っ!」

 カムィには、知らないことがあった。
 大切なことを、知らなかった。
 ずっと、知らずに育ってきた。
 母も、祖父母も、そして叔父や叔母も教えてはくれなかった。
 幼少の頃からずっと疑問に思いつつも、カムィ自身、積極的に知ろうとはしなかった。
 そこには、訊いてはいけない雰囲気が漂っていた。
 
 それは、ある人のこと。
 当然知っていなければならないはずの、ある人のこと。
 
 顔も、名前も、どんな人間だったのかも知らない。
 
 それは――父親のこと。
 カムィとシルカが生まれる前に死んだとだけ聞かされていた、父親のこと。
 
 顔も、名前も、どんな人間だったのかも知らない。
 
 そもそも、それが人間であったのかどうかすらも――。


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