四章


 夜が明ける少し前に目を覚ますと、カンナは一人だった。
 隣に寝ていたはずのカムィの姿がない。
 昨日は一日中ずっと、カムィは茫然としていた。本来ならば北へ向けて出発する予定だったが、とてもそんな状態ではなかった。
 カンナの告白を聞いて以来、心ここにあらずといった表情で、無言のままずっと一人で座っていた。
 そして――
 
 夜の間に姿を消した。

「やっぱり……行っちゃったんだ」
 特に驚いたような様子もなく、カンナはつぶやいた。
 諦めたように、小さな溜息をつく。
 こうなるだろうと思っていた。
 魅魔の力の真相を、自分の出生の秘密を、知ってしまったカムィが取るであろう行動など、予想することは難しくない。
 空になった寝床に目を向ける。
 多分、そんなに時間は経っていまい。昨夜、床について眠ったところまでは確認している。こっそりと起き出して宿を発ったのは、つい先刻のはずだ。
 まだ遠くに行ってはいないだろう。その気になればすぐに追いつくことができる距離。
 だけど、追えない。
 追いたくても、追うことはできない。
『ついてくるな』
 カムィの言葉が耳に残っていた。
 眠っている間に、耳元で囁いていった言葉。
 魅魔の力を込めて囁いて、部屋を出て行った。
 だから、追えない。
 少なくとも、この身の中にある魅魔の血が薄れるまでは。
 もっとも、カンナとしても無理に追うつもりはなかった。カムィの傍にいたいのは確かだが、今それを望むのは無謀というものだ。下手をすれば殺されかねない。
 カムィにとっては、これ以上はない衝撃だっただろう。
 今なら、カンナにもそうした心理が多少は理解できる。
 魔物によって家族を殺され、故郷を滅ぼされ、あらゆる魔物、特に竜族を心底憎み続けてきたカムィ。
 なのに――
 魅魔の力は竜に由来すると知ってしまった。
 自分の父親が竜族だと知ってしまった。
 自分の身体に流れる血の半分以上が魔物のものだと知ってしまった。
 我慢がならないだろう。
 カンナと行動を共にする気にもなれないだろう。
 なにより、認めたくないだろう。
 だから一人、旅の進路を変えたのだ。
 カンナの言葉を確かめるために。
 カムィがどこに向かったかは、おおよそ見当はつく。その具体的な場所は、コンルに訊けば教えてくれるだろう。
 だけど、追えない。
 追わない。
 今は、まだ。
「父親……か」
 溜息混じりにつぶやく。
「……ニンゲンって、どうしてそんなことを気にするんだろう。どうでもいいことなのに」
 魔物だって親から生まれてくる。カンナはひとりっ子だが、兄弟姉妹を持つ者も少なくはない。しかしそうした肉親とのつながりは、人間に比べればずっと希薄だった。
 だから、実感できない。
 カムィの、殺された祖父母や、母親や、姉、そして父親へのこだわり。
 頭では理解できるが、実感はできない。
 それでも以前のまったく理解できなかった頃に比べれば、進歩したといえなくもない。
「父親、かぁ……」
 カンナにだって親はいる。もっとも、もう何年も会ってはいないが。
 数年前に親元を離れて以来、ずっと一人で生きてきた。魔物は、特に強い力を持つ魔物ほど、それが普通だ。親離れは人間よりもずっと早く、つがいを作る時以外は単独で暮らす。
 数年前のカンナでも、人間など歯牙にもかけない力を持っていた。外見は子供であっても、一人で人間を狩って生きていくことに問題はない。
 それに、カンナが物心ついた頃には、両親はもう一緒に暮らしてはいなかった。カンナは独り立ちできるまで母親に育てられ、その間、父親とは数えるほどしか会ったことがない。
「一度、会わなきゃダメかなぁ、やっぱり」
 もう一度溜息をつく。
 それはカンナにとって、少々気の重い話だった。



 それは、遠い遠い昔の話――
 
 何百年も、あるいは何千年も昔のこと。
 まだ、偉大なる竜が世界を支配していた時代。
 人間は魔物に抗う術を持たず、ただ怯えて暮らしていた時代。
 
 今では知られていない場所に、高い山があった。
 そこは、竜が棲む神聖な地。
 人間はもちろん、竜以外の魔物も立ち入ることのできない禁忌の地。
 
 しかし、一人の人間の娘がその山に登った。
 迷い込んだのではない。
 両親の、故郷の村の、そしてなにより自分の意志で禁忌の山に入った。
 竜の、生贄となるために。
 魔物の襲撃に怯える村を救うために。
 
 誰も入ったことのない、奥深い山。
 深い森、険しい岩山。
 そこは異質な空間だった。
 人間も、獣も、そして魔物の気配もない。
 静寂だけが存在する空間。
 しかし娘は、常に大きな存在を感じていた。
 
 山の頂近くにある大きな洞窟。
 娘は直感する。
 これこそが竜の住処だと。
 その前で、偉大なる竜神に向かって呼びかける。
 故郷の村を救って欲しい、魔物に怯えずに暮らせるようにして欲しい。
 その代償としてこの身を捧げる、と。
 
 突如として雷鳴が轟き、大きな飆が巻くと同時に、娘の眼前に巨大な竜が姿を現した。
 それは見とれるほどに美しく、神々しい存在だった。
 竜も魔物である。
 人間を喰うこともある。
 それでも他の魔物とは別格の存在であり、雨と風と雷を司る神だった。
 
 巨大な竜は、次の瞬間姿を変えていた。
 見目麗しい人間の青年の姿となって、娘の前に立っていた。
 そして、人間の言葉で語りかけた。

『人間の娘よ。お前の願い、聞き届けてもよい。
 しかしお前にその覚悟はあるか?
 魔物に抗う力が欲しいのならば、私と契ればよい。
 しかしそれは、お前の死を意味する。
 竜と交わった人間は、発狂して死ぬ。
 しかしお前の覚悟が本物で、運にも恵まれれば、お前は竜の子を身籠もるだろう。
 その子は、あらゆる魔物を支配する力を持つ』

 人間の姿をした竜が、娘に向かって腕を上げる。
 触れられてもいないのに、ただそれだけで着物が切り刻まれて地面に落ち、娘は一糸まとわぬ姿となった。
 
 娘は一瞬震えたものの、気丈にも悲鳴すら上げず、怯えた表情を隠して真っ直ぐに竜を見据えた。
 人間の姿をしていても、それは人間にしては美しすぎた。
 一目見ただけで心が囚われてしまいそうなほどに美しかった。
 しかし、本能的な恐怖を覚える。
 圧倒的な気を放って目の前に立っている青年は、人間など足元にも及ばない偉大な存在、魔物を超越した神なのだ。
 
 それでも娘はうなずいた。
 勇気を振り絞り、強い意志を持って竜が差し伸べた手を取った。


 数ヶ月後、村に戻ってきた娘の姿を見て、村人たちは一様に驚いた。
 生贄となって竜の山に向かった娘。
 とうに、竜に喰われたものと思われていたのだ。
 竜の山でなにがあったのか、娘はすっかり正気を失っていた。
 そして、子を身籠もっていた。
 
 やがて――
 双子の女の子が生まれた。

 黄金色の髪、黄金色の瞳の女の子。
 漆黒の髪、深紅の瞳の女の子。
 

 それは、遠い遠い昔の話――
 魅魔の里が滅びてしまった現在では、それを知る古老たちもほとんど残ってはいない、忘れられた昔話だった。



「……俺が親父から訊かされたのは、こんな話だ」
 カムィの前に座った青年が、静かな口調で言う。
 それはカムィの従兄で、コンルの兄であるタシロだった。カムィにとっては、家族を失って叔父に引き取られて以来、兄のような存在である。
 もっとも、周囲はそうは見ていない。
 優れた魅魔師、魅魔剣士であり、魅魔の血を色濃く継ぐ若者同士ということで、周囲からは許婚と認識されていた。当人たちもその事を否定してはいない。
 カンナと別れた後、カムィはまっすぐにタシロの許に向かった。魅魔の里の古老たちが残っていない現在、古い言い伝えや魅魔の里の歴史についてもっとも詳しいのは叔父のライケ――タシロの父――であり、その知識を受け継いでいるタシロであるはずだった。
 カンナの言葉を疑っていたわけではないが、やはり、信頼できる人間に確かめずにはいられなかった。
 否定して欲しかったのか、それとも肯定して欲しかったのか。自分でもそれはわからない。
 しかしタシロの言葉は――肯定だった。
 気は進まない様子であったが、古い伝承を教えてくれた。
 魅魔の里が滅ぼされる以前でも、その力の由来について知る者はほんの一握りしかないなかったという。
 真実を知る皆が、極力、隠そうとしていたのだろう。
 その理由はわかる。
 魔物を狩るのが生業である魅魔師が魔物の末裔であるなんて、世間に知られるわけにはいかない。魅魔師に対する信頼も揺らいでしまうだろう。
 タシロも、父親からこのことを聞かされたのは成人してからだという。
「……それにしても、突然訪ねてきたと思ったらこんな昔話を聞きたがるなんて……、なにかあったのか?」
 もっともな質問だ。しかし答えを口にするには少々躊躇いがあった。
 しばらく間を置いて、ゆっくりと口を開く。
「……コンルに……会った」
 タシロが微かに眉を上げる。どことなく気まずそうな、複雑な表情を浮かべる。
 それでカムィにもわかった。
「……知ってたんだ?」
「少し前に、な。訪ねてきたんだ、……二人で」
「…………子供……の、ことも?」
「……ああ」
 カムィの眉がきっと吊り上がる。
「それで、兄さんはどうして平然としていられるんだっ?」
「仕方ないだろ、あいつが決めたことだ。俺がとやかく言うことじゃない」
 いくぶん不愉快そうではあったが、それでもタシロは落ち着いていた。妹が竜の仔を身籠もっているなどというとんでもない出来事を、冷静に受け入れているように見える。
「仕方ない? 相手は魔物なのにっ?」
「竜と契っても、あいつは発狂することもなかった。きっと、子供も無事に生まれてくるだろう。そして…………こうしたことは初めてじゃない」
 最後の言葉を口にするのに、ずいぶんと躊躇していた。その理由は想像できる。
「兄さんは……知っていたのか? 私の……父親の、ことを」
 タシロは微かに首を左右に振った。
「いや……。親父も、長老たちも、知っていたわけではないらしい。魔物狩りの旅から戻ったサスィ様は身籠もっていたけれど、その相手のことについては頑に口を閉ざしていたそうだ」
「……そうだろうな」
 言えるわけがない。最高の魅魔師が、竜の仔を身籠もっただなんて。
「だけどその態度で、長老たちには想像がついた。生まれたのが双子で、サスィ様の血を引いていることを考えても非常に美しく、そして特にシルカが幼少の頃から極めて強い魅魔の力を発現させていたことで、それは確信となった。しかしサスィ様は、自分の口からはなにも言わないまま亡くなったらしい。親父はそう言っていた」
 ライケは、サスィの妹の夫である。その彼が知らなかったというのなら、魅魔の里に真相を知る者は誰もいなかったに違いない。
 そこで、ふと、疑問を覚えた。
 カンナはどうして知っていたのだろう。
 人間に比べれば、魔物は家族や仲間といった個々の結びつきが希薄だ。魔物は人間と違って、他者と力を合わせなくても十分すぎるほどに強力な存在だから。人間に限らず、獣も、鳥も、魚も、弱い生き物ほど群れて暮らすものだ。
 なのに、カンナは知っていた。自分とは直接関係ないはずの、サスィの相手、カムィの父親について。
 竜族と契って仔を生んだ魅魔師の女――それは魔物たちの間でも噂になっていたのだろうか。
 今さらのように、カンナのことをなにも知らないと気がついた。
 カムィは自分のこともほとんど話してはいないが、それでもカンナはカムィの父親のことを知っていた。それとも単に、竜族の嗅覚でカムィの血に混じる魔物の気配を感じ取っただけなのだろうか。
 そういえば、今頃なにをしているのだろう。
 別れてから四日、そろそろカンナの中の魅魔の血も、その力を失いはじめる頃だ。
 本当は、いいことじゃない。
 竜族を野放しにするなんて。
 無邪気な少女の姿はかりそめのもの。カンナはその気になれば、一人で国ひとつを滅ぼすことすらできる最強の魔物なのだ。
 そんなカンナを抑えていられるのは、今のところカムィの血だけだ。本来ならば片時も目を離さず、常に魅魔の血の支配下に置いておかなければならない。
 しかし。
 今は、カンナの傍にいるのが辛かった。
 カンナの顔を見るのが辛かった。
 竜族の少女。
 その顔を見れば意識せずにはいられない。
 自分の身体に、この魔物と同じ血が流れていることを。
 そんなこと、我慢がならない。
 思い出してしまう。
 考えまいとするほどに、記憶が甦ってきてしまう。
 無惨に喰い殺された、自分の半身。
 口のまわりを真っ赤に染めて、シルカの身体を貪り喰っていた魔物。
 血塗れになって息絶えていてもなお美しかった母親。
 折り重なる無数の死体。
 それはすべて、竜族の仕業。
 なのに、この身に同じ血が流れている――。
 それはあまりにもおぞましい事実だった。
 全身に鳥肌が立つ。手が震える。
 自分という存在さえ許せない。短剣を自分の喉に突き立てたい衝動に駆られてしまう。
 今、手元に短剣があったらそれを実行していたかもしれない。
 この家を訪れた時、旅の荷物と一緒に武器も置いていてよかった。まさかタシロもこのことを予見して武器も置かせたわけではないだろうが。
 頭が痛い。
 胸が痛い。
 もう、どうしていいのかわからない。
 五歳のあの日以来、すべての魔物を滅ぼすためだけに生きてきたというのに、自分の中に、その魔物の血が流れているだなんて。
 それも、よりによって仇である竜族の血が。
 もう、どうしていいのかわからない。
 どうすればこの呪われた呪縛から解放されるのだろう。
「……カムィ、カムィ! なにやってる!」
「……え?」
 切羽詰まったタシロの声で我に返り、それからようやく激しい腕の痛みに気がついた。
 ずきん、ずきん。
 両方の二の腕に、灼けるような痛みがある。
 気がつくと、自分の身体を抱きしめるようにして、腕に爪を立てていた。爪は肌に喰い込み、血が流れ出している。
 紅い色彩。
 甘い芳香。
 魔物を狂わせる、神秘の血。
 カムィのたったひとつの武器。
 人間が魔物に抗うたったひとつの武器。
 貴重な魅魔の血。
 自分の支えであった血が、しかし今は呪わしい。
 そこには、もっとも忌まわしい魔物の血が混じっている。
 呪われた血。
 滅ぼされるべき血。
 すべて流れ出てしまえばいい。
 すべて流し出してしまえばいい。
 忌まわしい魔物の血を、この身からすべて。
 手に力がこもる。爪がさらに深く肉に喰い込んでいく。
 深紅の液体が、肌の上に曲線を描いていく。カムィの肌が白すぎるために、それはあまりにも美しく、そして禍々しい光景だった。
「……カムィっ!」
 タシロの手がカムィの手首を掴む。力いっぱい、骨が軋むほどに力が込められている。
 鍛えられたタシロの腕力でようやく、腕に喰い込んだ爪を引き剥がした。
 それでもカムィの腕は、抗おうとしている。再び自分を傷つけようとしている。
 剣を使うことを生業とする逞しい腕が、それを許さずに抑えつけていた。
 しばらく無言の争いを続ける二対の腕。しかし勝敗は最初から決まっている。
 やがて、カムィの腕から力が抜ける。同時に、太い腕がカムィの身体に回された。
 力いっぱい抱きしめられている。
 身動きできないほどに。
 苦しいほどに。
 なのに、伝わってくる。
 タシロの温もり。
 優しい想い。
「どうして……抱きしめて、くれるんだ? こんな……魔物同然の身体を」
 引きつった笑みを浮かべつつも、カムィの目から涙がこぼれる。
「それを言ったら、魅魔の血を受け継ぐ者は全員がそうだ」
「でも……違う。私は……」
 母サスィでさえ、魅魔の里でもっとも濃い血を受け継いでいた。それに加えて父親が竜族である。
「私の血は……半分以上、魔物の血だ。私の身体は人間よりも……魔物に、近い」
「それがどうした? コンルの連れ合いは正真正銘の竜族だ。それに比べたら、俺の嫁が竜の血を色濃く受け継いでいるからといってなんの不都合がある」
「兄さん……」
「もうそろそろ『兄さん』は卒業したいところだな」
 そう。
 ずっと兄妹同然に暮らしてきたが、周囲の大人たちは二人を昔から『許婚』と見ていた。その影響か、恋愛や結婚といったことには興味のないカムィも、いずれはタシロと結婚することになるのだろうと自然に受け入れていた。
「に……じゃなかった。…………くそっ、改まって呼ぶとなると難しいな」
 名前で呼ぼうとしても、意識するとうまく口が回らない。
 だからカムィは言葉の代わりに、タシロの厚い胸にそっと腕を回した。



 まだ、早朝と呼ぶにも少々早すぎる時刻――
 カムィは音を立てないようにそっとタシロの家を出た。
 見上げると東の空が微かに白みはじめているが、まだ早起きの小鳥も目覚めてはいない。
 当然、村人たちの姿もない。
 カムィは静かに歩き出した。
 夜明け前の冷たい風が頬を撫でる。
 長い髪が揺れて広がる。
 風の冷たさが、今は心地よかった。寝不足と疲労で重い身体を少しでも目覚めさせてくれる。
 カムィは普段通りの旅支度だった。タシロが住む村を出て、北に進路を取る。
 北へ――
 魔物が支配するという地へ向かって。
 
 昨夜はほとんど眠っていなかった。
 ずっと、タシロの腕の中に抱かれていた。
 ずっと、タシロの身体を抱きしめていた。
 二人とも全裸で。
 それは生まれて初めての経験だった。
 人間との、そして男性との交わり。
(……いけない)
 カムィは頭を振った。
 想い出すな。
 考えるな。
 あの甘美な行為は、明るい光の下で考えるべきことではない。
 そう自分に言い聞かせても、しかし、考えまいとするほどに想い出してしまう。
 まだ、身体が覚えている。全身に感覚が残っている。
 タシロの力強い腕。
 心安らぐ温もり。
 そして――幸せな快楽。
 そっと、下腹部に手を当てる。
 ここに、残っている。タシロの精が、この胎内に。
 それはとても甘くて、心地よく、幸せで、そして気持ちのいい行為だった。
 タシロとひとつにつながり、その精を胎内に受けとめること。
 それは新たな生命を宿す行為。
 この身に流れる呪われた血を、少しでも薄める行為。
 気持ちよくて、幸福で、充実感に溢れていた。
(……兄さんに、はしたない娘と思われなかっただろうか…………)
 恥ずかしいことではあったが、カムィの方から求めてしまった。
 何度も、何度も。
 本当に幸せだった。
 全身の肌でタシロの温もりを感じ、身体のいちばん深い部分で熱さを感じる。
 幸福な、満たされるような快楽。
 初めての体験だった。
 これまでカムィに男性経験はない。自慰の経験すらなかったカムィにとって、性的な経験といえば、魔物に――カンナやイメルに犯されたことだけだ。
 その暴力的な、身体中の神経が灼き尽くされて発狂してしまいそうな激しい快楽とは違う。
 同じ性的な快楽であっても、もっと優しくて、本能的な幸福感を覚える。
 これこそ、人間の身の丈に合った快楽というものだろう。
 漠然と、いつかはこうなると思っていた。恋愛とか縁談といった話題には興味のないカムィだったが、歳が近い若者の中で最も優れた魅魔の血を受け継ぐ者同士。本人たちより先に、周囲の大人たちが二人を許婚として扱っていた。
 もちろん、タシロに対して好意は抱いている。しかしこれまで、それは異性に対してというよりも、肉親に対する愛情のようなものだと思っていた。家族を亡くして叔父の家に引き取られて以来、タシロ、カムィ、コンルは実の兄妹のように育てられてきたのだ。
 しかし、魅魔の血を絶やさぬために、タシロと結婚して子を産むことになるのだろうと思っていた。カムィにとっては現実感のある話ではなかったが、いつかはそうなると漠然と考えていた。いずれにしても復讐を終えてからのことだ、とも思っていた。
 今回のことは、まったく予想外の出来事だった。
 成り行きでタシロに抱かれてしまった、ともいえる。
 しかし今のカムィにとって、それは必要なことだった。
 カムィの正気を保つために。
 カムィが人間でいるために。
 今のカムィは、少なくともタシロに会う前に比べれば心も安定していた。
「これで……よかったんだよな」
 自分自身に確認するかのように、小さな声でつぶやく。
 そうだ。
 これでよかった。
 それは間違いない。
 
 ……はず。
 
 なのに……。
 
 なにかが違う――心の奥底で、そんな声がする。
 なにかが、足りない。
 けっして、タシロが与えてくれる快楽が物足りなかったわけではない。この身体は十分すぎるほどに感じていて、ついには力尽きて気を失うように眠ってしまったほどなのだ。
 なのに。
 ――なにかが違う。
 心の奥底で、そんな声がする。
 なにかが、違う。
 なにかが、足りない。
 あるべきなにかが、ない。
 タシロの愛撫に身をゆだねている時でも、いや、タシロとの行為で快楽の波に包まれれば包まれるほど、脳裏に浮かぶものがある。
 想い出してしまう。
 
 想い出してはいけない。考えてはいけない。
 そう思えば思うほど、より強く想い出してしまう。
 
 深い黄金色の瞳を。
 
 柔らかな黄金色の髪を。
 
 その鋭い爪が、その長い舌がもたらす、気が狂うほどの快楽を。


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