今頃、どこにいるのだろう。
今頃、なにをしているのだろう。
なぜだろう。
逢いたい、などと想うのは。
認めない。
認めたくない。
そんなの、思い違いだ。なにかの勘違いだ。
そうに決まっている。
たった五日、離れていただけなのに。
――カンナを求めているなんて。
認めない。
ありえない。
認めたくない。
タシロが住む村を後にしたカムィは、北に向かっていた。
今は深い山の中の道を歩いている。
目指すは、魔物が支配しているという北の地。
その原因を突き止め、魔物を滅ぼすために。
行かなければならない。
これまでもそう思っていたが、その理由はさらに大きくなっていた。
魔物を憎むこと。
魔物を滅ぼすこと。
そうすることが、自分が人間であることの証となる。
だから、やらなければならない。
自分の中の、魔物の血を否定するために。
自分が人間であるために。
魔物を狩らなければならない。
すべての魔物を滅ぼさなければならない。
人間に害を為す魔物はもちろんのこと、最終的にはラウネも、カンナも。
すべての魔物が滅びれば、カムィは人間でいられる。
「殺す……? カンナを?」
その考えに、軽い目眩を覚えた。
どうしてだろう。
何故いまさら、その事に躊躇いを感じるのだろう。
元々、そうしようとしていたのではないか。
憎き竜族の一員。
自分を汚した、憎むべき魔物。
殺しても殺し足りない相手ではないか。
そもそも、これまで生かしておいたことの方がおかしい。
どうして、一緒に行動してきたのだろう。
どうして、様々なわがままを許してきたのだろう。
「…………」
想い出してはいけない。
そう思えば思うほど、想い出してしまう。
黄金色の瞳。
柔らかな黄金色の髪。
その鋭い爪が、その長い舌がもたらす、気が狂うほどの快楽。
何故だろう。
忌まわしいはずのその記憶が、甘美な想い出のように感じられるのは。
「…………」
内心、気づいていた。
逃げるようにカンナの許を離れた真の理由。
ただ、認めたくなかっただけだ。
今の精神状態では、いつ発作的にカンナを殺してしまうかわからない。
だから、離れた。
それは、つまり。
――カンナを殺したくないから。
「……なにを、いまさら…………」
自嘲めいた笑みが浮かぶ。口元が微かに震えている。
いまさら、だ。
ずっと前からわかっていたことではないか。
最初に出逢った時、確実にとどめを刺せた状況で、殺さなかったこと。
イメルとの戦いの後、傷ついて瀕死の状態だったカンナを助けたこと。
――殺せない。
自分には、あの竜は殺せない。
あの、黄金の瞳。
あの、無邪気な笑み。
この手で壊すことなどできはしない。
「…………」
拳を握りしめる。
唇を噛む。
「くそっ」
血の混じった唾を吐き捨てて叫んだ。
「……なにをぐずぐずしている! さっさと追いついてこいっ!」
誰も聞く者はいない深い山の中で、カムィの叫びがこだまする。
数羽の小鳥が驚いて飛び立つ。
「……はは……は……」
こだまが消えるに従って、カムィの身体からも力が抜けていく。乾いた笑いが漏れる。
力尽きたように、その場にうずくまって手をついた。
「…………いったい、どうしてしまったんだ……私は」
乾いた土の上に、一滴の涙が落ちた。
しばらくしてからまた歩き出したカムィだったが、様々な想いに気を取られていたためだろう、周囲の気配の変化に気づくのが遅れた。
滅多に通る者もいない山道。もちろんカムィは一人きりだ。
しかしいつの間にか、付近に人の気配があった。
獣や魔物ではない。
(……いや)
微かに、ごく微かにだが、魔物の気配もある。
どこだろう。近くではないようだ。近くの気配は間違いなく人間のものだった。
魔物の方は非常に遠くにいるか、よほどうまく気配を殺しているか、あるいは過去の残滓だろう。この微かな気配では、そのどれかまでは判別できない。
人間の気配は少なくともふたつ、あるいはそれ以上。カムィの行く手にあり、明らかにこちらに意識を向けている。
「なにか用か?」
姿が見える前に、森の中へと問いかけた。それに応えるように、道端の藪から二人の男がカムィの行く手を遮るように姿を現す。
山賊、追いはぎの類だろうか。お世辞にも柄がいいとは言えない風貌で、まだ抜いてはいないが腰に剣を佩き、手には剣よりやや長い棒を持っている。
「…………なにか用か? 魅魔の里のこの私に」
二人はなにも応えない。表情も変えない。
そして明らかに、カムィに危害を加えようとする意志が感じられた。
本来、ありえないことだ。
若く美しい娘のひとり旅。それは普通に考えれば魔物の存在がなくとも危険なことであるが、カムィはそうした普通の娘が懸念すべき危険とは無縁だった。魔物との戦い以外で危険な目に遭ったことなどない。
もちろん魅魔の血の力は人間には通じないが、一応の体術も身につけている。魅魔の血で魔物と戦う際、敵の攻撃を捌かなければならない場面は少なくない。正規兵や手練れの傭兵ならともかく、単なる追いはぎや女に悪さをしようと考えるごろつき程度なら容易にあしらえる。
それに血の効力はなくとも、魅魔の『名前』が持つ力は人間にも十分すぎるほどに通用する。
魅魔師は、魔物と対等以上に戦える唯一の存在だ。
人間にとって魅魔師は、天敵である魔物に対抗できる唯一の力であり、自分たちを護ってくれるという心の支えである。
尊敬と畏怖の対象である魅魔師に対して、害を為そうなどと考える人間はいない。魅魔の血の秘密を知らない人間にとって、魅魔師とは『魔物を凌駕する恐ろしい力』を持った存在なのだ。
魔物よりも強い力を持った人間――誰がそんな相手に戦いを挑もうなどと考えるだろう。魅魔の力が魔物以外には無力だと知る人間は皆無だ。
だからこれまで、カムィやコンルのような見目麗しい年頃の娘であっても、人間の中では安全に旅することができた。
しかし目の前の男たちは、明らかにカムィに害意を持って距離を詰めてきている。
「……私が魅魔の里の者と知ってのことか?」
やはり応えはない。にやにやと、含みのある下品な笑みを顔に貼り付けている。
カムィは微かに目を細めた。
あまりいい状況とはいえない。相手の意図はわからないが、カムィに危害を加えるつもりなのは間違いない。
まともに争うのは賢明ではない、と判断した。一対一ならまだしも、二対一では分が悪い。
くるりと踵を返す。
旅慣れているとはいえ、はたして女の脚で逃げ切れるものかどうか。それでも刃を交えるよりは望みがあるだろう。
しかし――
相手は二人だけではなかった。
後ろからも二人、退路を断つように両脇の森から姿を現す。
「…………」
カムィはゆっくりと四人を見回した。
「お前たち、なにが目的だ?」
答えの代わりに、一人の男が飛び出してきた。手にした棒を剣のように構え、カムィの胴を薙ぐように振る。
カムィは大きく後ろに飛び退いた。同時に短剣を投げようとしたが、その前に背後に殺気を感じた。
はっとして振り返る。しかしもう間に合わない。
後ろに回り込んできた男に肩から体当たりされて大きくよろめいた。女としては長身とはいえ、屈強な男との体格差は一目瞭然だ。
体勢を立て直す時間は与えられず、男が手にした棒が鳩尾に突き入れられる。
「――っ!」
まともに喰らってしまった。
呼吸が止まる。
身体から力が抜ける。
吐き気が込み上げてきて、唇の端から胃液の混じった唾液がこぼれた。
前屈みにうずくまったところで、背中に棒が叩きつけられる。
一瞬、意識が遠くなる。
身体が痺れて力が入らず、カムィはその場にくずおれた。
男の一人がカムィに馬乗りになり、手から短剣を奪い取る。
そのまま腕を押さえつけられ、別の男に両手首を縛り上げられた。
「……凄腕の魅魔師と聞かされていたが、簡単だったな」
カムィに最初の一撃を入れた男が、手で棒をくるくると回しながら笑う。他の男たちが応える。
「けっして油断するなと念を押されていたが、どう見てもただの小娘だよな」
「こんな奴が本当に魔物よりも強いのか? 信じられんな」
笑い声が上がる。
恐ろしい魔物を狩る魅魔師といえども、人間相手ではただの人でしかない。しかしそのことを知る人間はほとんどいない。
(……くそっ)
カムィは己の迂闊さを呪った。
どうして気づかなかったのだろう。
ここまで接近すればはっきりと感じ取れる。微かな魔物の気配。魅魔師であれば感じとることができる、微かな魔物の『匂い』。
間違いなく、この四人の男たちから漂ってくる。
先刻感じた魔物の気配はこれだったのだ。
ごく微かなものだが、こうして静止して密着している状態では間違えようもない。
とはいえ、この男たちは紛れもなく人間だった。それも間違いない。
そこから導き出される答えはひとつ。
彼らはごく最近、魔物と接触しているのだ。
普通ならば、残り香が移るほどに魔物と接近した人間が無傷でいられるわけがない。しかし何事にも例外というものはある。
「…………くそっ」
唇の端から声が漏れる。
油断した。
まさか、こんな手で来るなんて。
まったく予想外だった。
彼らは確かに人間で、そして人間が魅魔師を襲うことなどありえない。
――ただしそれは、「自分の意志では」という注釈つきの話だ。
この男たちは、自分の意志で行動したのではない。
魔物に魅了され、操られているのだ。
一般に、魔物に魅了された人間は、魔物に与えられる快楽を貪り、その身を餌として差し出すだけの存在に成り下がる。
しかしそれは、通常、魔物が人間を襲う理由が餌とするためだからだ。もちろんそれ以外のことであっても、命じられれば全身全霊で事に任る。
もっとも、現実にはそんな例はほとんど聞かない。
魔物にとって人間は餌でしかなく、小細工など必要としない絶対的な力の差がある。人間を狩るために余計な手間をかける必要はない。
そして彼我の力関係が逆転する魅魔師に対しては、自ら進んで戦いを挑む魔物など皆無だ。狩られれば反撃するしかないが、そうでなければ魅魔師とは関わらないことが最良の選択だということを知っている。
だからカムィにとっても、この展開は予想外だった。
この魔物は策を弄して、魅魔師と……いや、カムィと事を構えようとしている。
そんなことをする魔物がいるだろうか。
(……これは?)
この『匂い』には覚えがあった。
よく知っている『匂い』だ。これまでに接した個体数は片手で数えられるほどでしかないが、もっともなじみ深い魔物といってもいい。
こんな希少な魔物と、これほど頻繁に関わることになるとは。
これも呪われた血の宿命なのだろうか。
――そう。
竜……竜族だ。
竜族が、人間を操ってカムィを襲わせたのだ。
いったい何者だろう。「魅魔師を狙っていた」のではなく、「カムィを狙っていた」のは間違いない。
通る者など滅多にいないこんな辺鄙な場所で待ち伏せなど、偶然のはずがない。カムィを監視し、一人になる機会を窺っていたに違いない。カンナやタシロが一緒であれば、この程度の男たちなど敵ではないのだから。
カムィのことを知っている竜族となると、心当たりは多くない。
まずカンナ。
そしてコンルの連れのラウネ。
現存する者ではそれしかいないはずだ。
しかしどちらも直情型で、こんな搦め手を使う性格ではない。カンナが今さらカムィを襲う理由もない。
もちろんラウネというのも考えにくい。コンルが魅了されているのは間違いないとしても、しかしただ盲目的に操られているわけではない。認めたくはないが、二人の間には確かに精神的な絆が感じられた。コンルが正気を保っている以上、カムィに害を為すなど考えられない。
それでは、いったい何者だろう。
もっとも、向こうがこちらを知っていても、こちらも相手を知っているとは限らない。イメルのような例もあったではないか。
(……イメル?)
ふと、引っかかるものを感じた。
この『匂い』、イメルのものに似てはいないだろうか。
そういえばイメルは、カンナを操ってカムィを襲おうとした。操る相手が魔物か人間かの違いはあれ、今回の件と奇妙な共通点がある。
しかし残念ながら、その点をゆっくりと考える時間は与えられなかった。
「それじゃ、運ぶとするか」
男がカムィの身体を担ぎ上げようとする。黒幕である魔物の処へ連れて行こうというのだろうか。
そこまでどのくらいの距離があるのだろう。途中で逃げ出す隙はあるだろうか。
後を追って来ているに違いないタシロが追いついてくれれば事は簡単だが、男たちの目的地が北でなければそれも難しいだろう。
では、カンナだったらどうだろう。カンナなら、かなりの距離があってもカムィの気配を感じ取れるはずだ。
そう考えて、急に不愉快な気分になった。カンナの助けを期待するなんて、冗談じゃない。
第一、カンナが追ってくるとは限らない。おそらくカンナも感じているだろう。今のカムィに下手に近づけば、殺されかねないということを。
しかしカンナのことを考えたおかげで、うまい手を思いついた。
男たちに気づかれないように、口の中を噛む。出血するくらいに強く。
一滴、二滴。
唇の端から血が滴る。
男たちは、倒れた時に切ったとしか思わないだろう。先ほどの会話から察するに、魅魔の血の秘密を知らないことは間違いなさそうだ。
これでいい。
血の匂いが届く範囲に魔物がいれば、必ず惹き寄せられてくる。どんな下等な魔物であっても、この四人が相手ならお釣りが来るほど十分な戦力になる。
結局は魔物を頼りにすることになるが、カンナに頼るよりは百倍ましだ。
多少の運があれば、そう遠からずに魔物が罠に引っかかってくるだろう。
しかし――
場の空気は、カムィが予想していなかった不穏な方向へと変化しつつあった。
「待てよ、そんなに慌てる必要もないだろ」
男の一人が、カムィをかついだ男の腕を押さえる。
「なんだ?」
「あの御方は、殺さず、できるだけ傷を負わせずに捕らえてこいとは言われたが、それ以外のことは特に命じられてないぞ」
「……ふむ」
男たちの目が怪しい光を帯びる。それはどことなく、カムィを襲おうとする下等な魔物の姿と重なる雰囲気があった。
「確かに、滅多にいない上玉だよな」
地面に下ろされ、仰向けにされる。男たちが上から覗き込む。
「見ろよこの胸、たまんねーな」
男の手が着物の胸の部分にかかり、生地が一気に引き裂かれた。
露わになった胸を乱暴に掴まれる。弾力に富んだ大きな膨らみに、男の指が喰い込む。
「胸だけじゃねーぞ。いい腰してるじゃねーか」
下半身を覆っていた布も破かれ、放り捨てられた。ほぼ全裸と変わらない姿にさせられる。
抗おうにも、腕力で敵うわけがない。屈強な男たち四人に手脚を押さえられていてはどうしようもない。
男たちは嫌らしい笑みを浮かべ、汚らわしい手でカムィの身体を――胸を、腰を、そしてもっと大切な部分を――撫で回している。
頭に血が昇り、顔がかぁっと熱くなる。
許せない。
許せない。
こんな汚らわしい連中に弄ばれるだなんて。
そして、こんな連中に為す術もなく陵辱されている自分も許せない。
こんな、魔物にも劣る、汚らわしい、唾棄すべき者たちに。
その手が肌に触れてくる感覚はおぞましいだけで、これならばまだ魔物の方がましだと思った。少なくとも魔物は快楽を――それが受け入れがたい快楽であっても――与えてくれる。
ただただ不快なだけの、愛撫とも呼べない接触。
許せない。
許せない!
許さない!
血が昂る。
熱い。顔が、そして瞳が。
瞳の色が変わるのを感じる。上半身を押さえてカムィの顔を覗き込んでいだ男の目に、紅い光が反射していた。
「……っ!」
瞳に意識を集中する。
カムィの顔を正面から見た男が、不意に動きを止めた。目の焦点が合わなくなっている。
「……放せ」
声に力を込める。男はぼんやりとした様子でその言葉に従った。
上体を起こして首を巡らせ、他の三人にも力のこもった視線を向ける。
最初の男と同じように、三人も目の焦点がぼやける。のろのろとした動作でカムィから離れる。
「お前たち、よくも……」
怒りに声を震わせながら、カムィは立ちあがった。曝け出された裸体を隠そうともしない。そんなことまで気が回っていない。
怒りの感情だけがカムィを支配していた。頭の中は、自分を汚そうとした男たちへの怒りと憎しみに満たされている。
身体が火照り、中心から力が湧きあがってくるような感覚。
まるで、魅魔の力を行使する時のように。
おかしい、そんなはずはない――心の片隅で、小さな声がする。
相手は紛れもなく人間だ。
そして魅魔の力は、魔物にしかその効力を発揮しない。
なのに……感じる。
目の前の相手を支配する感覚。相手の精神を、肉体を、手中に収め、思うままに操れるという確信。
これは間違いなく、魅魔の力で魔物を支配した時と同じ感覚だった。
おかしい、こんなはずはない――心の片隅で声がする。
しかし怒りに我を忘れたカムィは、その小さな声を無視した。
「……」
ある言葉が、喉をついて出そうになる。
言ってはならない、と止める自分。
言ってしまえ、とけしかける自分。
頭の中で二人の自分が争っている。
それを言ってしまえば、それをしてしまえば、人間ではいられない。
そう諫める声。
なにを躊躇う必要がある。
自分を汚した相手。こんな連中と同類であるというのなら、人間である必要などない。
そう反論する声。
こんな連中を守るために人間でなければならないのなら、人間でなくてもいい。
魅魔師は、竜と人の混血。純粋な意味での人間ではない。
人間ではない。
人間では……
それならば……
「――」
カムィは一言、短い言葉を発した。
これまで幾度となく、魔物相手に発してきた言葉。
人間に向けてはならなかった言葉。
その一言で、カムィに支配された男たちの目から、生命の光が失われた。
「…………なんだ、これは」
目から涙が溢れ、全身が震えている。
胃液が逆流し、吐き気が込み上げてくる。
カムィの目の前には、四つの骸が横たわっていた。
身体には傷ひとつない、苦しんだ様子もない、しかし生命の火が消えた肉体。
「これ、が……」
これが人間の仕業だろうか。
これでも人間だというのだろうか。
この、力。
これは人間のものではない。魅魔師のものでもない。
これは、魔物の力だ。
魅魔の血すら使わずに、その瞳と言霊だけで人間を支配し、操り、そして――
――殺した。
人の力ではない。魅魔の力でもない。
これは魔物の――竜族の力だ。相手が魅魔師であっても支配できる、竜族の魅了の力だ。
魅魔の力は、魔物を倒すための力。魔物と戦い、人間を護るための力――そう信じてきた。
しかし――
その力の源は、竜の力だった。
竜族と源を同じくする、魔物の力だった。
この身には、竜に連なる血が流れている。
この血がもたらす力は、あらゆる魔物を支配し、殺すことができる。
しかしその血はまた、人間を殺す力も持っていた。
瞳が熱い。
瞳が、強い光を放っているのを感じる。
――怖い。
見るのが怖い。
今、瞳は何色をしているのだろう。
魅魔の一族の証である血の色であればいい。しかし、竜族と同じ金色であったら――
「私は……ニンゲン、なのか……?」
違う、違う。
人間ではない。
これは、人間の力ではない。
人間が持っていていい力ではない。
人間を支配し、操る力。
魔物の力。
タシロだって、この光景を目の当たりにしたら今のカムィを人間とは認めてくれないのではないだろうか。
「違う……私は、人間だ……」
自分に言い聞かせるようにつぶやく言葉は、虚しく響いた。
空々しい。
違う。こんなの、人間ではない。
違う。私は人間だ。
人間だ。
そうでなければならない。
竜の血が流れていようとも、自分は人間だ。
人間でありたい。
人間でなければならない。
そうでなければ、これまでの自分を、自分の存在そのものを、否定することになる。
だから、人間でなければならない。
人間であるためには……
「…………魔物を、殺せばいい」
自分が人間であるために。
人間であることを証明するために。
そのためには、魔物を一体残らず狩り尽くせばいい。
魔物は、魔物を狩らない。餌を巡って争うことはあっても、同族を狩ることはない。
人間だから、魅魔師だから、魔物を狩る。
自分が人間である証として。
――そうだ。
唇の端が微かに吊り上がり、歪んだ笑みを浮かべる。
魔物を狩ればいい。
まずは手始めに……
「……いつまで隠れている? こそこそせずに姿を見せたらどうだ?」
森の中に呼びかける。
それに応えるように、突然、今までなかった気配が周囲の空間を満たした。
色濃い魔物の気配。それも、最上級の魔物の気配だ。
ずっと、すぐ近くにいたのに、この瞬間まで完璧に気配を消していた。それは、気配の主が極めて強い力の持ち主であることを表している。
カムィでも、以前は感じ取れなかったであろう微かな気配。しかし感じとることができた。今はかつてないほどに感覚が鋭敏になっていた。
これも、人間のものではない力に目覚めたためなのだろうか。
そうだとしても、今は好都合だった。この魔物を殺すのに役立つのであれば大歓迎だ。
顔を上げ、視線を空に向ける。
周囲で最も高い樹の梢に、人の姿があった。
いや、人ではない。魔物だ。ただし、見た目は人間とまったく区別がつかない姿をしている。
目に映る姿は、カムィよりもいくぶん年長の、美しい女性だった。ただしまとう気配は人間とはまったく違う。
「貴様……?」
その姿を肉眼で認めたカムィは、不審げに片方の眉を上げた。一瞬、自分の目を疑った。
この気配は間違いなく、竜族のものだ。それも、かなり強い力の持ち主と思われる。
そのことに問題はない。しかし、それが見知った顔で、しかも絶対に会うはずのない相手というのは予想外だった。
見覚えのある、そして、絶対に忘れられない顔。
しかし、二度と見ることは絶対になかったはずの顔。
「…………イメル?」
自然と、問いかけるような口調になる。
その姿は間違いなくイメルだった。
半年ほど前に遭った、強い力を持った竜族。かつてないほどに苦戦させられ、カンナも瀕死の重傷を負わされたが、二人がかりでやっとの思いで倒した相手だ。
「……何者だ、貴様?」
本人のはずがない。
イメルは間違いなく、カムィの目の前で死んだ。カンナが放った雷でずたずたに引き裂かれて息絶えた死体をこの目で確認した。
しかし、その姿は紛れもなくイメルのものだった。
明るい朱色の髪。
赤銅色に輝く瞳。
魔物の力がなくとも人間の男などたちまち魅了してしまうであろう妖艶な肢体。
どれを取ってもイメルに違いない。
その魔物はにやりと笑うと、風に舞う羽根のような軽い動作で地面に降りてきた。倒れている男の背中を踏みつけて、カムィの前に立つ。
そんな仕草もイメルそのものだった。
「意外と役に立たなかったわね。魅魔師相手には、人間の方が向いているかと思ったのに」
こいつが男たちを操っていたのは間違いない。男たちから微かに感じたものと同じ気配をまとっている。
「……でも、竜族相手じゃニンゲンの力は役に立たないか」
からかうような口調で言いながら、視線を足の下の死体からカムィに移した。意味深な笑みを浮かべている。
はっとした。この相手は知っているのだ。
魅魔師の血の秘密を。
カムィの出生の秘密を。
「貴様は、何者だ?」
もう一度訊く。魔物はもったいつけることなくその答えを返してきた。
「イメルは、私の姉よ」
笑みを浮かべた口。微かに開いた唇の隙間から、長く鋭い牙が覗く。
「姉……?」
なるほど。それですべての謎が解けた。
双子の姉妹であれば、これだけ瓜二つなのも、カムィのことを知っているのももっともだ。イメルは襲ってくる前から、カムィとカンナのことを知っていた。ならば妹がカムィのことを知っていても不思議ではない。似た策を用いることも納得できる。
「そして、私の名は……」
「姉だろうと妹だろうと関係ない。貴様の名前にも興味はない。どうせ、すぐに名前など必要のない『魔物の死体』に変わるんだからな」
カムィは相手の言葉を遮った。
殺したはずの魔物が蘇ってくるなどという前代未聞の事態ではないことさえわかればそれで十分だった。必要もないのに魔物と会話するなど不愉快でしかない。
そんなカムィの態度が可笑しかったのか、魔物はふっと小さく笑った。
カムィは男たちに奪われた短剣を拾い上げると、刃の上で指先を滑らせた。銀色に輝く刃先に、微かに紅い筋が残る。
その切っ先を突きつけて言う。
「その顔は不愉快だ。さっさと消えろ」
カムィにとっては、これ以上はないというくらいに不愉快だった。イメルには、正気を失いかけるほどに犯され、嬲られた。そんな、かつてない屈辱を味わわされた相手とまったく同じ顔は、カムィの神経を強く逆なでした。
「ふふっ」
女が微かに笑うと、カムィの周りで風が騒いだ。
小さな旋風が起こるのと同時に、手に鋭い痛みが走る。
「っ!?」
突然のことに驚いて、思わず短剣を落とした。手の甲に、鋭い刃物で切られたような傷ができていた。滲んだ血が紅い筋となって浮かび上がってくる。
「せっかちな娘ね。せっかく自己紹介しようとしてるんだから、聞いてくれてもいいんじゃない? 私の名は、マウエ」
「……なるほど」
カムィは納得顔で小さくうなずいた。
マウエ――それは風を意味する言葉だ。
「風が貴様の武器というわけか。しかし、魅魔の血と戦うには向かない武器だな。これでは自分の首を絞めることになるぞ」
カムィは自分の傷に爪を突き立てると、乱暴に引っ掻いた。うっすらと滲んでいた血が、本格的な出血となる。
魅魔の血の芳香が広がる。
それは、あらゆる魔物を魅了してやまない甘い香り。
魅魔の血の誘惑に抗える魔物はいない。そしてカムィの血は、他のどんな魅魔師の血よりも強く魔物を惹きつける。
下等な魔物であれば香りだけでも操れる。一滴でも口にすれば、その血は竜族であっても支配する。
魔物が魅魔師を倒そうとするなら、「いかに血を流させないか」に腐心しなければならないはずだ。イメルはその点、気を遣っていた。なのにマウエは、離れたところから魅魔師を切り刻む技とは。
イメルよりも考えが浅い奴だ、とほくそ笑む。
落ち着いた動作で落とした短剣を拾うと、傷ついた手を差し伸べてマウエを誘った。
マウエは無言で歩を進め、カムィの前に立った。ゆっくりとした動作で差し出された手を取ろうとする。
――その瞬間。
突然、マウエの動きが加速した。カムィの手首をしっかりと掴むと、拳を握ったもう一方の手を脇腹に叩きこんだ。
「っっ!」
あばらが折れる鈍い音が響く。激痛に息が止まる。
さらにもう一撃、鳩尾に拳が打ち込まれた。逆流した胃液が口から溢れる。
全身から力が抜け、その場に頽れそうになったマウエはカムィの首を掴むと、そのまま片腕で吊り上げた。
指が喉に喰い込み、頸動脈が締めつけられる。
「ぅ……あ、が……」
「甘いわね。私の目的はあなたの血ではない」
マウエは目を細めて言った。
「いくら魅惑的な血であろうと、見境なしに喰らいつくほど飢えてもいない。まともに喰らえばともかく、匂いだけなら少しくらいは我慢できるわ」
――そんな、莫迦な。
愕然とする。
確かに、可能性としてはないわけではない。コンルの血を充分に喰らっていたラウネが、見境なしにカムィを襲ったりはしないように。
しかしそれは、コンルの血だからこそできたこと。カムィに次ぐ、もっとも純粋な魅魔の血筋に連なるコンルの血を受けていたからこそ、だ。それでもカムィが本気でラウネを魅了しようとすれば、事情は違ったはず。
なのにマウエは、本気になったカムィの誘惑を撥ね退けている。
それは、不自然な状況だった。人間の血はもちろん、並の魅魔師の血で満腹していたとしても、カムィの血の誘惑に抗えるはずがない。
いったい何者がマウエに血を与えたというのだろう。
最近、それだけの力がある魅魔師が竜に殺されたという話は聞かない。そもそもコンルを除けば、現在、それだけ力のある魅魔師が残っているだろうか。
まさかこの数日の間に、コンルがこの魔物の犠牲になったとは考えられない。コンルにはラウネがついている。マウエは確かに力のある魔物のようだが、コンルの血を受けたあの竜が簡単に倒されるはずがない。年長の分、ラウネの力はカムィと行動を共にしはじめた頃のカンナよりも強いのだ。
もしもマウエがコンルとラウネを襲い、コンルに万が一のことがあったのだとしたら、マウエが無傷でいられるはずがない。魔物の回復力を持ってしても、この数日では癒しきれない深手を負うはずだ。
ならば、マウエに血を与えたのは誰だろう。
ひとつだけ、思い当たる可能性があった。
――竜。
竜だ。竜族の血だ。
魅魔の血には及ばないが、力のある竜族の血は、同族の『渇き』をある程度は潤すことができるという話をカンナから聞いたことがある。
力のある竜族――イメルよりもカンナよりも強い竜族。そんなものが存在するとしたら、その血は竜族の空腹を満たし渇きを潤し、短時間ならカムィの血の誘惑に抗える抵抗力をもたらすかもしれない。
誘惑に抵抗するのはほんの短い時間でいい。竜族がその気になれば、その短い時間でカムィの戦闘力を奪うことは簡単だ。
今、マウエがしているように。
マウエの指が喉に喰い込んでくる。
呼吸と血流が妨げられ、頭が重くなる。視界が暗くなってくる。
――まずい。
意識を失ってしまったら、そこで終わりだ。
カムィは口の中で舌を噛んだ。血が流れ出すほどに強く犬歯を突き立てる。
錆びた鉄の味が口中に広がる。
その行動には痛みで意識を保つということの他に、もうひとつの目的があった。
「――っ!」
マウエの目を狙って、血の混じった唾を吹く。
幼い頃に、母に教わった技のひとつだった。こうした危機的状況に対処するための、己の勝利を確信した魔物の不意をつくための技。
ところがマウエは、まるでカムィの手の内を読んでいたかのようにそれをかわした。血の混じった唾の塊は、頬をかすめただけで地面に落ちた。
「惜しいわね、その手は知ってるわ」
「な……っ?」
この魔物は、以前に魅魔師と戦ったことがあるのだろうか。カムィが知る限り、近年、竜族と戦った魅魔師はカムィとコンルくらいのはずだが。
「主の処に連れていくまで、しばらく眠っていなさい」
首を掴む手に力が込められる。頸椎が嫌な音を立てて軋む。
「我々の主が、お前の血を望んでいる」
「……ある……じ…………?」
「竜族の王、すなわちすべての魔物の王。そして、この世の王。この世で最強の、あらゆるものを支配する存在」
「な、に……もの……だ?」
「今は知る必要もない。すぐに会える」
視界が暗くなる。
意識が遠くなる。
もう限界だ――そう思ったその時、
「カムィから手を離せっ!」
叫び声がカムィの意識を現実に引き戻した。
鋭い風切り音。それに続く短い呻き声。
首を掴んでいた手が離れ、カムィの身体は地面に落ちた。
「……っ?」
咳き込みながら顔を上げると、マウエの腕に一本の矢が突き刺さっているのが目に入った。
その、鑢のような細かい溝が刻まれた特徴的な鏃には見覚えがある。魅魔の血を塗って使用する、魅魔剣士の武器だ。
再び、細い風切り音が近くをかすめる。しかし今度は、マウエは自分を狙って飛来する矢を無造作に払い落とした。
カムィは矢が飛んできた方向に首を巡らせる。
「……兄さんっ?」
他にありえないとわかっていても、思わず叫んでしまう。
そこには、矢筒から次の矢を抜き取って番えるタシロの姿があった。
矢が放たれる。余裕のある動作でその矢も払い落とそうとしたマウエだったが、はっとした表情で身を翻した。
一瞬前まで彼女がいた空間を矢が貫くのとほぼ同時に、彼女を狙っていた爪が空を切った。マウエが矢だけに意識を向けてその場に立っていたら、身体を引き裂いたであろう鋭い爪。
「……ラウネ?」
間違いない。その姿は確かにコンルの竜だ。
もう一度タシロに視線を向ける。その少し後ろにコンルが姿を現した。手には愛用の剣を握り、その瞳は紅い光を放っている。手の甲の真新しい傷からは血が滲んでいる。
「まったく、姉様ったら。一人で勝手に行動するからこんな目に遭うのよ」
呆れたような、からかうような、しかし内心の安堵を押し隠しているような表情でコンルが苦笑する。
「ほらよ」
マウエに攻撃をかわされたラウネは、素早くカムィの短剣を拾い上げて放って寄こした。
カムィは短剣を受け取ると、頭をひと振りして意識をはっきりさせてから立ち上がった。短剣の刃を、マウエに切られた傷に当ててから構える。
その間に、弓を捨てたタシロが剣を抜いて駆け寄ってきた。全裸同然のカムィに自分の外套を羽織らせると、片手で剣を構え、もう一方の手でカムィを庇うような体勢になる。
「……ありがとう、兄さん」
自然と口元がほころぶ。
「ありがとう兄さん、じゃないだろうが!」
笑みを浮かべるカムィとは対照的に、タシロの声には怒気がこもっている。
「どうして、黙って出て行ったんだ」
「…………ごめんなさい」
どうして、と問われても返答に困る。あの想いを言葉にして説明するのは難しい。
「まあいい……その話はこいつを倒した後だ」
緊張した面持ちで言う。タシロも竜族と戦うのは初めてのはずだ。タシロは魅魔剣士として当代きっての使い手だが、それでも竜族に太刀打ちできるかとなると心許ない。
並の竜族でさえ、最高の魅魔師にとっても極めて危険な相手なのだ。ましてやマウエの力は並ではない。
「兄さん、気をつけて」
その言葉に小さく手を振って応えると、タシロは地面を蹴った。
一瞬でマウエとの間合いを詰め、手にした剣で斬りかかる。右から、と見せかけた剣の軌道が瞬時に変化して、左下から襲いかかる。タシロの血で濡れた刃がマウエに叩きつけられる。
さすがは剣を生業とする魅魔剣士だ。重い肉厚の長剣でありながら、マウエにさえ避ける隙を与えない。血の力に頼るカムィやコンルには真似のできない技だ。
しかし、
「――っ!」
硬い巨木の幹を斬りつけたような鈍い音が響く。
マウエの右腕は、鋭い刃をいとも簡単に受けとめていた。確かに普通の武器で竜族を傷つけることはできないが、魅魔剣士の血を塗った刃は、魔物に対して有効な武器になるはずなのに。
不利を悟ったタシロが飛び退くのと同時に、鋭い爪を伸ばした左手が翻る。間一髪のところで直撃はかわしたが、額が浅く裂けて血飛沫が散った。
タシロの体勢が崩れたところに追撃が来る。二撃目はラウネが割り込んで逸らしたが、同時に繰り出した爪の反撃は、これもいとも簡単にかわされてしまった。
余裕の笑みを浮かべ、マウエが目を細める。その視線が、赤銅色の瞳が、タシロに向けられる。
――いけない!
「兄さんっ!」
慌てて駆け寄るカムィ。タシロの顔を押さえて自分の方を向かせ、強引に唇を重ねた。まだ口の中に血の味が残っている。その唾液をタシロの口中に送り込む。
口づけていたのはごく短い時間だ。唇を離し、真っ直ぐにタシロの目を見る。
「カムィ……」
かすかな苦笑。大丈夫。いつも通り強い意志の力を感じる瞳だ。タシロの意識ははっきりしている。マウエの影響は受けていない。
危ないところだった。魅魔師は一般に魔物の魅了の力に対して抵抗力があるが、それはあくまで「常人に比べて」でしかない。
力のある竜族は、カムィすら――もっとも純粋な魅魔の血を受け継いでいて、かつ同性であるカムィすら――魅了できる。異性のタシロともなれば、魅魔剣士としては優れた血の持ち主とはいえ、マウエの力に抵抗できるとは思えない。
「大丈夫だ。カムィ以外の女に心を奪われるはずがないだろ」
タシロが冗談交じりに言う。
「どうだか。兄さんは昔から女の子に優しかったし」
カムィも微かに笑みを浮かべる。
剣を握ったタシロの手を取って、その刃の上に自分の腕を滑らせた。皮膚が浅く切れて、紅い筋が濃くなってくる。滲み出た血の上に、もう一度刃を押しつける。
「残念だが、兄さんの血では無理だ」
マウエほどの相手に傷を負わせるためには、魅魔剣士としてはもっとも濃い血を引いているタシロであっても、血の力が弱すぎる。しかしカムィの血であれば話は別だ。
人間の胴を両断できるほどの重く強靱な刃にカムィの血が加われば、最強の竜族にも対抗できる武器になる。
「コンル、お前もだ」
後ろに控えていたコンルが、一瞬、えっという表情になる。
「こいつを相手にするには、お前の相棒でも心許ないぞ。素のままでは、な」
それだけで理解したようだ。すぐに納得顔になり、ラウネに駆け寄った。
ラウネも事情を理解し、鋭い爪でコンルの腕を撫でる。白い肌に紅い筋が浮かぶ。
魅魔の血を塗った竜族の爪。魔物に対してこれほど強力な武器は他にない。
「兄さん、あいつは風を操る。気をつけて」
あの技は気をつけなければならない。カムィに対してはかすり傷しか負わせなかったが、その気になれば長剣並みの切れ味でもっと深手も負わせられるのかもしれない。その可能性は常に頭に入れておかなければならない。
風の刃。それは武器や体術では防げない。
おそらく、カムィやコンルに対してはあまり深手を負わせることはしないだろう。いくら耐性があるとはいえ、必要以上に魅魔の血を流させることは自分の首を絞めることになる。
しかし魔物のラウネや、血の力が弱いタシロに対しては、遠慮なしに力を発揮する可能性がある。
「俺の剣は風より速いよ」
タシロは剣を構え、まずは慎重に間合いを詰めていく。ラウネもそれに続く。
カムィはコンルを庇うような位置に移動していく。いちばん年下で、しかも身籠もっているコンル。危ない目には遭わせられない。
「貴様ら……」
マウエの顔から余裕の笑みが消えた。
ざわ……
風が騒ぎはじめる。
最初に動いたのはラウネだった。魔物ならではの跳躍力で一気に飛びかかる。
小さな飆が、ラウネの進路を塞ぐように襲いかかった。ラウネは顔や腕を浅く切られて血飛沫が舞うが、その小さな飆に彼の突進を止めるほどの力はない。
飆を正面から突破して、ラウネが腕を振りかぶる。その手指に生えた爪はマウエのそれよりも太く、長く、鋭く、まるで槍の穂先が並んでいるようだ。
一瞬で懐に飛び込んだラウネ。その爪はマウエを切り裂くはずだった。
その瞬間、彼の背後で飆が突然に勢いを増した。風が音を立てて渦巻き、周囲のあらゆるものを吸い込もうとする。
飆の範囲はごく狭いものだが、ラウネはちょうどその圏内にいた。彼の前に立つマウエはぎりぎりその外だ。
巻き込む風は、ラウネにとっては激しい向かい風となった。突進の勢いがわずかに削がれる。
それは、ほんのわずかな差だ。距離にすれば指一本分の長さほどにしかならないだろう。しかし魔物同士の戦いでは、そのわずかな差が致命的な違いとなった。
ラウネの爪はマウエには届かず、なびいた前髪が数本千切られて宙に舞った。こうなることを読んでいたマウエは、ラウネより一瞬遅れて踏み込むと、鋭い爪を振るった。
深紅の飛沫が飛び散る。
あばらを砕き、胸を深く斬り裂いた傷。人間であれば致命傷だったろう。強靱な生命力を誇る竜族である以上は簡単に死ぬことはないだろうが、相当な深手であることは間違いない。
ラウネの膝が落ちる。
とどめを刺そうと追撃をかけるマウエ。
そこに、銀色の光が奔った。
それはタシロの剣だ。マウエの意識がラウネだけに向けられた一瞬の隙に間合いを詰め、剣を振るった。
さすがにマウエはぎりぎりのところで気づいて体をかわそうとしたが、わずかに遅かった。
剣先がかすめる。
マウエの手の甲に紅い筋が走る。
「――っ!」
「よしっ!」
タシロの、カムィの、そしてコンルの口元が弛む。三人は勝利を確信した。
それは、見た目にはほんのかすり傷でしかない。しかし刃にはカムィの血がたっぷりと塗られている。この程度の傷でも、相手が竜族でも、とりあえず動きを封じるには十分だ。そして動きを封じてしまえば、後はどうにでも料理できる。
しかし――
傷を負った瞬間、マウエは一切の躊躇なしに、鋭い刃のような飆を自分の腕の周囲に巻き起こした。
飛び散る血飛沫。
軽い音を立てて地面になにかが落ちる。
「な……っ!」
それは、手だった。
鋭い爪の生えた竜族の手。
そう、マウエの手だ。
手首のところで、すっぱりと斬り落とされている。
予想外の光景に、タシロの反応が遅れた。
前に出たマウエが、無傷な方の腕を振るう。鋭い爪はタシロの利き腕を切り裂いた。鮮血が飛び散り、剣が弾き飛ばされる。
さらに自分で斬り落とした方の腕を、タシロの頭部に横殴りに叩きつけた。
見た目は女の細腕でも、竜族の力だ。丸太で殴られたような衝撃だろう。タシロの身体は地面に転がり、そのまま動かなくなった。
「ラウネっ!」
「兄さんっ」
ふたつの悲鳴が重なる。
しかし、案ずる相手に駆け寄ることはできなかった。マウエの鋭い視線が二人を貫いている。一瞬でも隙を見せたら命取りになる。
「くっ……」
まさか、あんな手でカムィの力に対抗するとは――。
血が全身に廻る前にその部位を斬り落とせば、魅魔の力に支配されることはない。
これで、状況はカムィたちに不利になった。カムィの血をもってしても、マウエを倒すためには胴体や頭部に血を送り込まなければならない。手足の末端を傷つけても、また同じ手を使われるだけだ。
手を斬り落とすなど、人間であれば重傷だが、魔物にとっては致命傷にはなりえない。事実、いま斬り落としたばかりのマウエの腕は既に出血が止まり、切り口の肉が盛り上がりはじめている。
これが魔物の生命力だった。再生を妨げる魅魔の力による傷でない限り、たちまち回復してしまう。
マウエを倒すためには、胴や頭を深く傷つけなければならない。しかし動きでもタシロやラウネを凌駕する相手と、カムィやコンルの体術でどう戦えばいいというのだろう。
「…………」
カムィは唇を噛んだ。
どれほど困難な状況であっても、こうなった以上はやるしかない。
愛用の短剣を構え、コンルを背後に庇う。
「お前は下がっていろ」
「でも、カムィ姉様……」
コンルの顔には、さすがに怯えたような表情が浮かんでいる。
「お前だと殺される。しかしあいつは、私はすぐには殺さないだろう。どうやら目当ては私らしい」
小さな声で囁き、一歩前に出た。
自分の腕に短剣を突き立て、血を流す。
一か八か、これしかない。
マウエが、カムィの血の誘惑にどれだけ耐えられるか。
甘い血の芳香が強くなる。これだけ濃密になれば、同族の血で耐性を得ているとしても、そういつまでも我慢できるとは思えない。
魅魔の血に気を取られて一瞬でも隙を見せれば、勝機が生まれる。
甘い、甘い、血の芳香が広がっていく。
魔物を魅了してやまない、至高の血。
一歩、距離を詰める。
タシロが羽織らせてくれた外套を脱ぎ捨てる。
腕から滴る血をもう一方の掌で受け、顔と、そして身体に塗る。首、肩、腕、そして胸や腹へと、古代の戦士たちが戦いに際して施した化粧のように、自らの肌を紅く塗っていく。
これでマウエは、カムィの身体に触れることもできなくなった。直接触れることなしにカムィを傷つける技を持っているマウエだが、それをすればさらに血の香りを濃くすることになる。
カムィはゆっくりと足を進めていく。一歩ずつ、慎重に。
一分の隙も見せてはならない。マウエの隙を見逃してはならない。
マウエはふっと笑みを浮かべると、無傷の腕を水平に持ち上げた。彼女の周囲で、また風が騒ぎはじめる。
「私の名はマウエ。私の武器は風。魅魔の血と戦うには向かない武器……あなたはそう言ったわね? でも、こうした使い方もあるのよ」
風が、マウエの周囲を舞っている。大きな、ゆっくりとしたつむじ風がマウエを中心にして回っていた。
「……っ!」
それは、風の壁だった。外からの空気が内部に侵入することを阻んでいた。これではカムィがどれほど血を流しても、その芳香はマウエに届かない。
「くっ……」
カムィは、一気に間合いを詰めて力ずくで風の壁を突き破ろうかと考えた。しかし、踏み出しかけた足を慌てて止める。
「……そして、こんな使い方もあるわ」
カムィの鼻先に、新たな風の壁が出現していた。それはマウエを包んでいるようなゆっくりとした空気の流れではない。触れたら切れそうな、刃の鋭さをもった飆だ。最初にカムィの手を傷つけた風以上の鋭さを持ち、しかも何十倍も大きい飆。
それが、カムィとコンルを包んでいた。
――まずい。
動きを封じられた。
しかも、徐々に狭まってくる。範囲が狭くなるに連れて、風はさらに勢いを増していく。人間の皮膚など、一瞬触れただけでずたずたに切り裂かれそうだ。
飆が迫ってくるのに合わせて、カムィとコンルは身を寄せ合う。もう、逃げ場はどこにもない。
やはりマウエは、魅魔師の技を知っている。魅魔師との戦い方を知っている。明らかに、力のある魅魔師との戦い方に長けている。
どうしてだろう。
いったい何者だろう。
近年、竜と戦った魅魔師はカムィとコンル以外にはいないはず。そもそも、竜族が警戒しなければならないほどの魅魔師はもう他にいない。
魅魔の里が滅ぼされる以前なら話は別だが、マウエが見た目通りの年齢であるなら、当時はまだ子供だったろう。
いったい誰から、魅魔の力との戦い方を学んだのだろうか。
「このまま斬り裂いてもいいのだけれど、それはさすがに賭けよね。こんな美味しそうな血、我慢できるかしら」
「……試してみたらどうだ?」
挑発するように言う。カムィにとっても賭けだが、乗ってくるなら勝機はある。
「……でもね?」
イメルが面白そうに言った。
「そんな賭けをしなくても、私の風にはこんな使い方もあるのよ」
「……?」
カムィたちを包んでいた風の動きが微妙に変化する。しかし見た目にはなにが起こっているのか判断できない。
「外から内、内から外。風はすべて私の思うがまま」
歌うようなマウエの声。
最初に気づいたのは、傷から噴き出す血の勢いが増していることだった。それから、なんとなく息が苦しいことに気がついた。
二人を包み込んでいる風の音が小さくなってくる。しかし見る限り、風の勢いが弱まっているようには思えない。
そして、妙に肌寒い。
「――っ!」
そこでようやく気づいた。
――外から内、内から外。
普通のつむじ風は、周囲のものを吸い込むように吹く。しかしこの風は逆だった。内から外に風が吹き出している。
呼吸ができない。口を開けても空気が流れ込んでこない。視界が暗くなってくる。
「私は、ただ待てばいいだけ」
マウエはこれ見よがしに、近くの岩に腰かける。
――まずい。
呼吸ができなければ、人間はたちまち意識を失ってしまう。そうなればマウエの思うままだ。
これはもう、命懸けでこの飆の壁を突破するしかないだろうか。全身を斬り刻まれても、生きていればなんとかなる。しかし、腕や脚、あるいは胴を両断される可能性もまったくないとは言い切れない。
それでも、やるしかない。
カムィは覚悟を決めて、腕で顔を庇って飛び出そうとした。
その瞬間――
マウエが、はっとした表情で空を見上げた。
慌てて立ち上がろうとする。
しかし――間に合わなかった。
突然、青白い閃光が周囲を包み込んだ。視界が真っ白になり、なにも見えなくなる。
爆発音が痛いくらいに鼓膜を震わせる。
カムィとコンルは思わず耳を押さえた。
風が吹きつけてくる。いや、叩きつけてくるといった方が相応しい。
体勢を崩された二人は地面に転がる。
急に呼吸ができるようになって、勢いよく肺に流れ込む空気にカムィは咳き込んだ。
目も眩むような光は一瞬で消えた。
地面に手をついたまま、顔を上げる。
そこにはもう、マウエの姿はなかった。
腰かけていた岩もない。
周囲には粉々に砕けた岩の欠片が散らばって、燃えさかる石炭のように朱く輝いていた。その周辺の青草が煙を上げている。
散らばった欠片の中心にあるのは、焼け爛れて原形を留めていない魔物の死体だった。
気配を感じて視線を空に向ける。
カムィの視線の先には――
黄金の翼、
黄金の髪、
そして黄金の瞳をもった少女の姿があった。
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