六章


 空を見上げたカムィの視線の先にあったもの。
 それは――
 黄金の翼、
 黄金の髪、
 そして黄金の瞳。
 空から、ゆっくりと舞い降りてくる。
「カ……」
 カンナ。
 そうだ。他にありえないではないか。あの風の力に対抗できるものなんて。
 マウエの力は手強いものだが、カンナには通用しない。
 カンナ――それは雷を意味する名。
 雷の神とは、古来、竜を表す言葉だった。現在でも、雷を操ることができるのは最上級の竜族だけだ。
 風では、雷を防ぐことはできない。
 マウエの力は、カンナの前ではなんの意味もなさないものだった。

 ゆっくりと降りてきたカンナが地面に降り立つ。ほぼ同時にカムィも立ち上がる。
「カンナ……」
 数日ぶりに、その名を口にする。
 なんだろう。この、込み上げてくる想いは。
 思わず叫びだしてしまいそうだ。
 鼓動が速くなっている。
 ……嬉しい?
 ……喜んでいる?
 なにを?
 この魔物に逢えたことを?
 なんだろう、この感覚は。
 足りなかったなにかが、欠けていたなにかが、満たされるような感覚だった。
 カムィの前に立ったカンナは、複雑な表情を浮かべていた。
 怒っているような。
 泣いているような。
 そのどちらとも取れるような、複雑で曖昧な表情。
 じっと、カムィを見つめている。
 その、大きな黄金色の瞳で。
 なんだろう。この、込み上げてくる想いは。
 微笑んでしまいそうな、抱きしめてしまいそうな、衝動。
 それをぐっと堪え、無理に抑えた声で言う。
「……遅いぞ」
「…………」
 カンナは無言で一歩前に出る。カムィのすぐ目の前に来る。
 同時に腕が動いた。
 ぱーんと乾いた音が響く。
 衝撃がカムィの頬を襲う。
「…………え?」
 あまりにも予想外の出来事に、なにが起こったのか理解できなかった。
 頬が熱くなる。じんじんと痺れたような感覚が強くなってくる。
 ――殴られた?
 ――カンナに?
 ――何故?
 頬を抑えて愕然とする。なにも言葉が出てこなかった。
 それほど力が入っていたわけではない。魔物の力ではなく、普通に人間の女の子に殴られたのと変わらない。イメルやマウエ、あの四人の男たち、あるいは普段の魔物との戦いに比べれば、痛みとも呼べない程度の痛みだ。
 しかし、心に受けた衝撃はその何百倍も大きかった。
 カンナに殴られた。
 カンナがカムィに向かって手を上げるだなんて。
 本当の意味でカンナがカムィに危害を加えたのは、初めて出会った時、カムィの血を狙って襲ってきたあの一度きりだ。普段の「ご褒美」から始まる暴走を「危害」と呼ぶのは難しい。カンナに悪意はないのだから。
 いつも無邪気に笑って、甘えん坊の仔犬のようにつきまとってくるカンナに殴られた。
 信じられない。
 ありえない。
 かぁっと頭に血が昇る。
「な……っ」
 文句を言うために開きかける口。しかしカンナの方が先に動いた。
 さらに近づいてくる。不穏な気配を感じて、反射的に庇うように腕を上げた。その腕を掴まれ、大きく開かせられる。
 カンナがにぃっと笑う。唇から鋭い牙が覗く。
 それは、いつもの無邪気な笑みではない。カムィを小馬鹿にしたような、悪意の感じられる危険な笑みだった。
「なぁに、その格好?」
「え?」
「あたしを誘ってンの?」
 言われて気がついた。すっかり忘れていた、今の自分の姿に。
 男たちに衣類を剥ぎ取られてほぼ全裸だ。その上、マウエと戦うために身体中に自分の血を塗りつけている。
 カンナにしてみれば、極上の蜂蜜をたっぷりとかけた甘い焼き菓子も同然の姿だった。
「ち、違うっ! これは……」
 言い訳する隙も与えられなかった。
 手首を掴んだまま、カンナが胸に唇を押しつけてくる。
 軽く触れただけなのに、痛みにも似た鋭い衝撃が走った。鞭で打たれたような、熱さを伴う痛みだった。
 なのに――
 それはカムィにとって、けっして不快な感覚ではなかった。
 カンナが体重をかけてくる。そのまま押し倒されてしまう。
「ひっ……ぅぁあっ!」
 魔物特有の長い舌が押しつけられ、肌に塗った血を舐め取っていく。
 最初のひと舐めで達してしまいそうになった。秘所を愛撫されたのと変わらないほどの快感だった。
「ばっ……莫迦! 今はっ……それどころじゃ」
 慌てて抵抗しようとするカムィ。そこにコンルの声が割り込んでくる。
「……こっちはわたしがやっておくわ。大丈夫。ラウネも兄様も、命には別状ないみたい」
 いつの間にか、コンルは傷ついたラウネとタシロを介抱していた。竜族のラウネはそう簡単には死なないだろうし、気を失っているタシロも大事には至らないということで少し安堵する。
 そうなると、危機的状況にあるのはカムィの方だった。
 カンナの愛撫が激しさを増してくる。
「コ……ンル! 先に、こいつを、なんとか……あぁっ!」
「やぁよ。姉様の血でも縛りきれない竜なんて、恐ろしくて近寄ることもできないわ」
 無情にも、肩をすくめて首を左右に振る。しかしその白々しい台詞は本心ではあるまい。むしろからかっているような調子が感じられる。
「コンルは素直でいい子だねー。誰かさんとは大違い。ラウネがいなかったらコンルも可愛がってあげるのに」
 カンナはそう言いながら、舌を、指を、カムィの肌に滑らせることを止めない。
 首筋や乳房を舐められただけでも悲鳴が上がった。どうしてだろう、全身がひどく敏感になっている。胸の突起を長い舌で擦り上げるように舐められた時には、もう悲鳴も上げられなかった。
 癲癇の発作のように、全身が大きく痙攣する。
「やっ……めろっ! カ、ン……ナ……莫迦……あぁぁっ!」
 しかしカンナは愛撫を止めない。
 絶え間ない刺激。
 全身に擦り込まれるような快楽。
 理性の糸が焼き切れてしまいそうだ。精神集中などできるはずもない。魅魔の言霊を使うどころではない。
「カ……やぁぁっ! やっ……め……っ」
 それでもなんとか命じようと足掻くカムィの顔を、カンナは正面から覗き込んだ。
「うるさい、黙れ」
「……っ」
 乱暴な口調。普段、けっしてカムィに向けられることはない言葉。
『力』を行使されたわけではない。竜族の魅了の力で強制されたわけではない。
 なのに、身体から力が抜けていく。抗う意志が削がれてしまう。
 言葉を紡ぐことを止めた口に、カンナの唇が重ねられる。長い舌が唇を割って侵入してくる。
「ん……んぅ……むっ、んん――っ!」
 口の中をかき混ぜる長い舌が、カムィの舌に絡みつく。
 さらに奥へ侵入して喉を塞ぐ。
 それさえも気持ちよかった。
 口が、性器と同じくらいに敏感になっていた。まるで、胎内深くに舌を挿入されて犯された時のような感覚だった。
「――――っ!」
 目の前が真っ白になる。
 一瞬、体重がなくなったかのような浮遊間に包まれる。
「ぁ……あ、ぁ…………」
 ――達してしまった。
 口づけだけで、快楽の頂に達してしまった。
 女の部分が溢れるほどに濡れているのが自分でもわかる。
 しかし、カンナの愛撫はまだ終わらない。
 顔中を舐め回し、塗られた血をすべて舐め取っていく。
 ただそれだけのことで快感を覚えた。
 耳、首、肩、腕、鎖骨、胸、腹、脇腹。
 カンナの舌は全身を這い、徐々に下へと移動していく。
「や……あぁぁ――っ! あっ……ぐ、ぅぅ……、あぁぁぁ――っ!」
 気持ちいい、などという表現では生ぬるい。性器にはまだ触れられてもいないのに、何度も、何度も達してしまった。
「や……め…………ひぃぃっ! いやぁぁっ!」
 何度達しても、愛撫は止まらない。暴力的な快楽が無理矢理押しつけられてくる。
 いっそ、気を失うことができれば楽になれるのに。
 しかし激しすぎる刺激は、それを許してはくれなかった。剥き出しの神経を愛撫されるような衝撃は、どんな気付け薬よりも強烈にカムィの意識を覚醒させた。
 臍の下あたりの下腹部を舐めていた舌が、さらに下に移動していく。
 太腿を撫で回していた手が、上へ移動してくる。
 そのふたつが出会う場所は――
「や……ぁ、めて…………そこ……は…………」
 かつてない恐怖を覚えた。全身に鳥肌が立つ。
 肌への愛撫だけでも、こんなに、発狂しそうなほどに感じてしまっている。いっそ死んだ方が楽なのではないかと思うほどだ。
 この状態で――
 そこは、普段から気が狂うほどの快楽を得られる部分。
 今のこの状態でそこに触れられたら、そこを舐められたら、どうなってしまうのだろう。
 その泉は、既に幾度となく熱い蜜を噴き出している。
 そこを、さらに愛撫されてしまったら――
 死んでしまう。
 今度こそ死んでしまう。
 幾度となく達して、その度にそう思った。
 なのに、回を重ねる毎に快楽はより激しいものになっていく。
「い……っ、……やぁぁぁぁ――――っっっ!」
 指が一気に突き入れられた。そこには微塵の優しさもない。
 なのに、感じてしまう。
 身体が内部から破裂してしまいそうなほどの快感が襲ってきた。
「――――――っっっ!」
 長い爪に中を引っ掻かれる。
 その痛みが快楽へと昇華する。
 今のカムィの身体は、すべての痛みを快楽として受けとめていた。
 指が動く度に上がる悲鳴はもう声にならず、白い泡となって唇から溢れ出す。
 二度、三度と爪は粘膜に突き立てられ、胎内を傷つけていく。
 その度にカムィはより高い快楽の頂へと突き上げられてしまう。本人の意志を無視して激しく痙攣する筋肉は、その力で自らの骨を軋ませる。
「…………ぁ……ん……な、ぁ……」
 熱い液体が、新鮮な血の混じった快楽の蜜が、湧き出してくる。
 長い舌が胎内に挿入され、蜜を一滴残らず啜ろうとする。その刺激は、啜った以上の蜜を溢れ出させる。
「……っ!」
 自分のものではない熱い液体が注ぎ込まれるのを感じた。啜り取った蜜の埋め合わせをするかのようにカンナの唾液が注ぎ込まれ、カムィの胎内を満たしていく。
 ――熱い!
 それは、身体の中から灼かれるような感覚だった。酸を浴びせられたかのような灼熱の痛みが全身を駆けめぐる。
「――――っっ!」
 死にそうなほどの、熱さと痛み。しかしそれは、至上の快楽でもあった。
 身体が破裂するような感覚。
 胎内の奥深くで快楽の爆発が起こる。
 それは一度や二度で治まることはなく、何度も、何度も、数え切れないほどに繰り返した。
 もう、本当に死んでしまいそう。発狂してしまいそう。
 なのに、カンナの愛撫は止まらない。
「…………っ、……っっ、…………」
 喉はひゅうひゅうと鳴るばかりで、もう声も出せない。息をするのも苦しい。心臓が狂ったように脈打っている。
 身体が動かない。
 もう、なにも考えられない。
 なにも、
 なにも……
 
 それでもカンナは、いつまでもカムィを犯し続けていた。



 いったい、どれほどの時間が過ぎたのだろう。
 気を失っていたのだろうか。いつの間にか拷問のような陵辱は終わっていた。意識はまだ幾分朦朧としてはいるが、それでもなんとかものを考えることができた。
 身体は泥にでもなってしまったかのようで、下半身の感覚がなかった。腕も脚もまるで力が入らない。
 気がついた時、カムィは裸のまま横たわっていたが、身体には着物がかけられていた。
「……ぅっ」
 呻き声を上げながら、なんとか上体を起こした。しかしまだしばらく立つことはできそうにない。
 脱力して草の上に座ったまま、自分の身体を見おろす。全身に無数に刻まれた小さな傷は、どれも塞がって血は固まっていた。そのほとんどがマウエとの戦いによるものではなく、その後につけられたものだった。
 周囲を見回す。
 カンナは不機嫌そうな顔で近くに座っていた。
 それよりも数歩分ほど離れたところにコンルとラウネが寄り添って座っている。その傍らに横になっているタシロはまだ意識が戻っていないようだが、顔色を見る限り大事はなさそうだ。
「……」
 タシロが意識を失っていたことは、不幸中の幸いかもしれない。しかしコンルとラウネにあの痴態の一部始終を見られていたと思うと、あまり救いにはならなかった。そもそも、誰にも見られていなかったとしても、カムィにとっては一生忘れられない恥辱、屈辱だ。
 視線をカンナに戻す。
「……どういうつもりだ、カンナ」
 視線を真っ直ぐこちらに向けているカンナも、不機嫌そうな声で応えた。
「あたしを殺す? 今なら、一言で殺せるよね」
 ――そうだ。
 今、カンナの体内には、かつてないほど大量の魅魔の血が存在している。言霊で操るどころか、その肉体を一瞬で滅ぼすことも思いのままだ。
 以前のカムィであれば、激情に駆られて殺していたかもしれない。
 しかし今日に限っては、そうした衝動が起こらなかった。
 どういうことだろう。
 こんなにも不愉快なのに。
 これ以上はないくらいに激怒しているのに。
 自分の口調が意外と冷静で、衝動的にカンナを殺さずにいるのは、激怒しすぎているせいだと思った。あまりにも大きすぎる怒り故に、身体の外に出ようにも出られずにいる――そんな感覚だった。
「何故、あんなことをした?」
 もう一度訊く。
「冗談では済まないぞ。運が悪ければ死ぬか、よくても発狂するところだった」
 むしろ、今こうして正気を保っていることの方が奇跡に近い。
 カンナは表情を変えずに言った。向こうも、怒りを内に秘めているが故の無表情だった。
「……あたしも、怒ってるんだよ?」
「なんだと?」
「……あたしを置いていったこと」
「そんなこと……」
「……あの男と交わったこと」
「……っ、そ、それは……」
 まったく予想もしていなかった指摘に、言葉に詰まった。
 どうして知っているのだろう。
 コンルに聞いたのだろうか。タシロは、コンルになら話したかもしれない。
 責めるような視線をコンルに向ける。カムィとカンナのやりとりを面白そうに見ていたコンルは、しかしこの件に関しては初耳だったようで、驚きの表情を浮かべていた。
 だとすると、魔物の嗅覚によるものだろうか。まったく油断がならない。
「……危ないところだったのに、あたしを呼ばなかったこと」
 カムィは無言で唇を噛んだ。なにも言えなかった。
「……そして、気持ちいいくせにいつも素直にならないこと」
「なっ……」
「どうしてあたしにだけ、もっととか、もう一度とか、言ってくれないの?」
「…………」
 カンナにだけ。
 ――そう。
 タシロには、言ってしまった。イメルに犯されて正気を失いかけた時さえ、言ってしまった。しかしもちろんカンナに対して言ったことはない。
「殺すつもりはなかったけど、別に、狂っちゃってもいいかなって思った。そうすればカムィはいつもあたしを求めてくれる。あたしだけを求めてくれる。あたし、カムィを独占できる」
「な……」
 カンナに、ふざけた様子はなかった。
 本気、だった。本心を語っていた。
 怒りを押し殺したような表情で。だけどどこか泣いて異様な表情で。
「な……なにを考えているんだ、お前はっ!」
 本当はわかっている。
 以前からわかっていた。
 カンナがなにを考えているのか。
 カンナがなにを言いたいのか。
 しかしカムィにはまだ、それを素直に認めることはできなかった。
 そこへコンルの声が割り込んでくる。
「……お二人さん、痴話喧嘩もいいけれど、そろそろ切り上げないと兄様が目を覚ましそうよ?」
 カムィははっとして口をつぐむと、肩に羽織っていただけの着物に慌てて袖を通す。
 しかしまだ立つことはできそうになかった。



「……それでカムィ、これからどうするんだ?」
 気を失っていた間のことを手短に説明されたタシロが訊いてくる。
 頭に巻かれた包帯には血が滲んでいるものの、意識ははっきりしており、樹の幹に寄りかかるようにして立っているが足元がふらつく様子もない。
 外傷はマウエの爪で剔られたラウネの方が重傷だったが、こちらは竜族の快復力で既に傷は塞がりかけていた。魅魔の血を与えるコンルが傍にいる以上、ラウネが死ぬことなどまずありえない。深手を負ってもすぐに癒すことができる。
「……北へ」
 カムィはぽつりと答えた。
「北?」
「マウエが言っていた、魔物の王。そいつがいるのが、北の地だ。そう考えれば辻褄が合う」
「なるほど。最近、北の地で魔物の勢力が増しているというのはそのためか」
「おそらく」
 これまでになかったような魔物たちの行動。それも、これまでいなかった『王』という存在が現われたためだとしたら説明はつく。
「本当はマウエに道案内させられたらよかったんだが、まあ、魔物の被害の多い土地を辿って北へ向かえば、王とやらの処へ着けるだろう」
「そうだな……よし、決まりだ」
 そこでタシロは視線をコンルに向ける。
「コンル。お前たちはここまでだ。ラウネと一緒に村へ戻った方がいい」
「そうだな」
 カムィもうなずく。
 コンルはこの中で最年少の上、身重なのだ。危険な目には遭わせられない。この先の旅路がこれまでよりも安全になることはありえない。
 しかしカムィは、コンルを気遣う心境になったことが自分でも意外だった。コンルの胎内で育まれているのは、魔物の仔なのに。
 その時、
「……あんたも、だよ」
 それまで黙っていたカンナが、初めて口を開いた。
 全員の視線がカンナに集中する。
「あんたも、足手まとい」
 タシロに向かって簡潔に言う。タシロの表情が強張る。
「もしもカムィとあたしで太刀打ちできない相手だったら、あと何人いても一緒。あんたも足手まとい」
「なに……」
「あんたがいた方が、カムィが危険になる」
「…………」
 タシロはひどく険しい表情をしていたが、なにも言わなかった。
 認めることには抵抗はあっても、本人もわかっているのだろう。カンナの言うことが正しいことに。
「……兄さんは、コンルについていた方がいい」
 カムィも、ここから先はカンナと二人だけで行くつもりだった。
 タシロは優れた魅魔剣士で、普通ならば頼りになる戦力だ。精神的にも、兄のように慕ってきたタシロの存在は心強い。
 しかし、そのタシロの力もマウエには通用しなかった。いや、タシロだけではない。コンルも、ラウネも、そしてカムィでさえもマウエに太刀打ちできなかった。
 これが現実なのだ。
 最上級の竜族に対しては、魅魔師であってもひどく無力な存在だった。
 そんなマウエを――不意をついたとはいえ――カンナは一撃で屠った。
 圧倒的な力だった。出会った頃のカンナは確かに強い力は持っていたが、ここまでではなかったはずだ。このところ、カンナの力が飛躍的に力が増しているような気がする。
『王』がマウエよりも強い力を持っているとしたら、それに対抗できるのはカンナだけだ。そのカンナに力を与えられるのも、操れるのも、カムィしかいない。
 それにカムィの血なら、相手がどれほど力のある竜族であっても支配できる。マウエの場合同様、簡単なことではないだろうが、どれほど不利な状況であっても、相手の体内に血を送り込むことさえできれば形勢はたちどころに逆転する。
 しかし、タシロを危険に曝すことはできない。
 カムィとしては、タシロが足手まといとは思わない。一緒にいてくれれば心強いことこの上ない。
 しかし大切な人間だからこそ、マウエよりも危険な魔物との戦いに巻き込むわけにはいかなかった。
 頼みの綱であるカンナは、カムィ以外の人間を護るために行動するとは思えない。
 だから、タシロを付き合わせるわけにはいかない。
 もう、大切な人間が魔物に殺されるところなど見たくはなかった。
 そして……
 本来なら、タシロの存在は心強い。戦力としてはカンナがいれば十分だとしても、カムィにとって精神的な支えという意味ではタシロの方が頼りになる。
 しかし今は、タシロと一緒にいることに後ろめたさがあった。
 うまく言葉にはできないが、気まずさを覚える。
 あの四人の男たちのこと。
 カンナのこと。
 タシロの存在は確かに心強いが、しかし今はあまり一緒にいたくないという想いがあった。
 もう少し、自分の心が整理できるまでは。
「カムィ……」
「兄さんは、コンルについていた方がいい。叔父さまや叔母さまは知ってるのか? コンルのことを」
「……いいや、さすがにまだ話してない」
 タシロと、そしてコンルも首を左右に振った。
「だったらなおさらだ。コンルよりも兄さんから事情を話した方がいい」
「それは、まあ……俺もそう思うが」
「大切な娘が竜に孕ませられたなんて聞いたら、叔父さまが逆上する。ラウネの話なんて聞いてもらえまい。頼りになる味方が必要だ」
「……それは……そうだ、が」
 タシロはまだ納得した様子ではない。
「……私のことは大丈夫、心配しなくてもいい。気に入らないけれど、こいつは最強の竜だ。それに兄さんの力は、今はコンルにこそ必要だ」
「え?」
「マウエが言っていた『主』とやらは、今度はコンルやその子を狙うかもしれない。奴が求めているのは私ではなく、単に力のある魅魔の血だ。コンルの血が私より薄いとしても、その子はどうだろう?」
 力のある魅魔師と、竜族の間に生まれた子。コンルの子は、カムィと同じ立場になる。
「竜の血が混じった魅魔の血。しかも無力な赤子となれば他の魔物にも狙われるかもしれない。万が一のことを考えたら、ラウネだけでは不安が残る」
「……しかし」
 タシロも頭ではわかっているのだろう。しかしカムィを想う感情が納得していない。その気持ちはわからなくもない。
「……心配いらない。事が終わったら真っ先に兄さんに会いに行く。多分、そんなに時間はかからないだろう」
「…………わかった」
 ようやくタシロが折れる。
 カンナが微かに表情を曇らせたが、カムィはわざと気づかないふりをしていた。



「……また、二人になったな」
 カムィはぽつりと言った。
「…………そうだね」
 隣に座っているカンナもその一言だけを返す。
 二人きりになった後、会話らしい会話はほとんどしていない。
 タシロたちと別れた後、カムィはすぐに出発しようとはしなかった。
 まだ、カンナに犯された後遺症から立ち直りきってはいなかった。脚に力が入らず、長い距離を歩くのは辛い。
 カンナは自分から口を開くことはなく、表情も表に出していない。今はいったいなにを考えているのだろう。
「…………この前みたいに、抱いていってあげようか?」
「……いや、いい」
 少しでも先に進んでおいた方がいいかとも考えたが、やっぱり止めておいた。自分で歩けるようになるまでは休んでいた方がいい。
「あんなことがあったばかりで、お前に身体を触れさせると思うか?」
 まだ、身体の奥に小さな熾火が残っているような気がする。いま触れられたら、また感覚がぶり返してしまいそうだ。それは避けたい。
 カンナが微かに頬を膨らませ、不満そうに唇を尖らせる。
「ねえ、カムィ?」
 カムィの方を見ずにカンナが言う。
「なんだ?」
「あの男のこと……好きなの?」
「…………もちろん。ずっと、家族のように暮らしてきたんだ」
「じゃあ、さ…………ケッコン、するの?」
「…………」
 その問いには、少し考えてから口を開いた。
「いずれはそうなる。魅魔の血を絶やさないために、そうしなければならない。そして、他にそうしたい男など思い当たらない」
 そこまで言って、短い間を取る。続く言葉を頭の中で整理する。
「……つい最近まで、そう思っていた。今は……正直なところ、わからない」
「わからない?」
「…………、私の血を受け継ぐ子なんて、産んでいいのか?」
 限りなく魔物に近い、呪われた血。
 そんな血を受け継ぐ子をこの世に送り出すのが、いいことなのだろうか。
 むしろ、こんな血は絶やしてしまった方がいいのではないだろうか。
 魅魔の血の真相を、自分の血の真相を知って以来、ずっとそんな想いがつきまとっている。
 そもそも、たとえ我が子であっても、魔物の血を引く子を愛することなどできるだろうか。
 自分の血の半分以上が魔物のものであると知った今でも、魔物に対する憎しみは薄れていない。むしろ、よりいっそう憎んでいるといってもいいほどだ。
「それに……コンルを見ていて思ったんだ。私がタシロと結婚して身籠もったとして……、あいつのように心の底から幸せそうな顔ができるだろうか」
 カンナが顔をこちらに向ける。なにか言いたげな表情だが、しかし唇は閉じたままだ。
「兄さんのことは好きだが、それは本物の家族に対する愛情とどう違うんだろう? 兄さんと結婚して子を産むことは、私がそうしたいと望んでいるというよりも、ずっと、そうすることが義務だと思って疑問も持たなかったが……、愛しているから結婚したい、子を産みたい、と思うのとはなにか違うような気がする」
 タシロに対する親愛の情を別にすれば、これまで男性に恋愛感情めいたものを抱いたことはない。タシロと暮らすようになったのは家族を亡くした後だから、その感情が家族愛なのか恋愛なのか、比較対象がなくて判断がつかなかった。
 そもそも、最近までその事を深く考えたこともない。十年以上、魔物を狩ることだけを考えて生きてきたのだ。
「…………あたしには難しいコトわかんないよ。ニンゲンじゃないもん」
「当然だ。私自身がわからないのに、お前にわかってたまるか」
 また、カンナが頬を膨らませる。
「……とにかく、まだしばらくはお前と一緒にいることになるな。『王』を狩らなければならい。そいつを倒しても、魔物との戦いがそれで終わるわけでもない」
「…………そだね」
 カンナの表情が少しだけ緩む。微かに笑みを浮かべたように見えたのは気のせいだろうか。
「…………さて、そろそろ出発するか」
 カムィは地面に手を着いて立ちあがった。大丈夫、急がなければ歩けそうだ。
 カンナも立ちあがろうとする。
 その瞬間、ふと、悪戯を思いついた。
 どうしてだろう。そんなこと、これまで一度も考えたことがないのに。
「カンナ、足元に気をつけろ。躓いて転ばないように」
「え……、――っ!?」
 脚をもつれさせて転んだカンナが、顔から地面に突っ込んだ。
 もちろん、カンナが不注意で躓いたわけではない。魅魔の言霊で、一瞬だけ脚の動きを封じたのだ。
 仕掛けたカムィ自身、これほど見事に引っかかるとは思わなかった。
 思わずぷっと吹き出す。
「カームーイー?」
 眉を吊り上げて声を低くするカンナ。しかし額と鼻の頭に土を付けていては、迫力もなにもあったものではない。
 カムィは堪えきれなくなって、その場にうずくまって声を上げて笑い出した。


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