七章


 その森は、昼間だというのに不自然な薄暗さに覆われていた。
 もちろん実際にはそんなはずはないのだが、頭上から降り注ぐ陽の光さえ、他の土地よりも弱まっているような気がする。
 本来あるべき獣や鳥の気配もないことが、この森の不気味さをいや増していた。
 
 そんな黒々とした森の中心を貫く一筋の街道を、カムィとカンナが歩いていた。以前はそれなりに利用されていたと思われる道だが、伸び放題の雑草がこの地の現状を物語っている。
 ここは、北の辺境の地。
 この森を抜ければ街がある。この地方の中心となる、辺りでは唯一の大きな街が。
 それこそが噂に聞いた、魔物に支配されているという街だった。

 大きな街ひとつがまるごと魔物の支配下にある――カムィにとっては初めての経験だった。
 もちろん竜族の力を考えれば、街ひとつはおろか国だって支配することは不可能ではない。単にこれまでは、そんなことをする魔物がいなかっただけのことだ。
 それだけのことが可能な力を持った魔物と人間とでは、力の差があり過ぎる。だからこそ、支配する必要などなかった。
 竜族のような力のある魔物にとって、普通の人間をどれほど動員して防備を固めていたところで意味はない。街を護る結界など気休めにもならず、たとえ王宮の中であっても好きなように入り込んで、望む相手の血肉を思うままに喰らうことができる。
 わざわざ支配していると明示せずとも、現実は変わらない。だから本当に力のある魔物は、人間がなにをしようと気にもとめない。人間だって、取るに足らない虫けらをいちいち征服して支配しようなどとは考えない。それと同じだ。
 しかし、この土地だけは例外だった。
 ここに来るまでに聞いた話をまとめると、力のある魔物が支配者として君臨し、多くの魔物を配下として一帯を固めているようだ。
 もっとも、最新の情報は他の街では得られなかった。最近ではどの街も、この北の地との交流がほぼ途絶えている。
 魔物に封鎖されているのだ。
 内部の人間は、誰も逃げ出すことができない。
 外部の人間は、誰も入り込むことができない。
 街の南に広がる森と、その中を通る街道は、すべて魔物の勢力下にあった。街から出ようとする者、外の街からやってくる者、すべてが魔物の餌食となる。
 しばらく前、この辺りの魔物の被害が尋常ではない状況になり始めた当時、王国の正規軍が派遣されたが、千をはるかに超える軍勢のうち、生きて戻った者はほんの一握りであったという。「魔物に支配された土地」の噂は、主としてその生存者たちから広まったものらしい。
「……確かに、な。この辺りにはかなりの数の魔物が棲みついている」
 カムィは独り言のように言った。
 感覚を研ぎ澄ます必要すらない。コンルと会った街のことが子供だましに思えるほど、色濃い魔物の気配が充満している。
 これほどの数の魔物が一カ所に集まるなど、まさしく前代未聞だ。
「出迎えがあるかな?」
「ある、だろうね」
 カムィも、それに答えるカンナも、声に緊張感はない。その口調は、普段の雑談となんら変わるところがなかった。
「できれば、雑魚の相手などしたくないところだな」
 五匹十匹といった数ではない。そのほとんどはカムィとカンナにとっては雑魚でしかないが、これだけの数となると狩るにもそれなりの手間はかかる。
「らしくないこと言うね?」
「なんだ?」
「カムィなら、雑魚だろうとなんだろうと、一匹でも多くの魔物を殺せる方が嬉しいって言う方が『らしい』と思うけど?」
 からかうような口調に、なんとなく不愉快な気分になる。カンナに心を見透かされているというのは面白いことではない。
 しかしそれは真実であるから、口先だけで否定することもできなかった。
「……確かに、な」
 不承不承うなずく。
「しかし、まずはここの親玉が先だろう? これだけの数の相手、一匹ずつ狩るならともかく組織だって来られたら多少は面倒だ。疲れた身体で親玉の相手をするのはあまり好ましくない」
 そしてもうひとつの理由は――そちらがむしろ重要なのだが――いちばん美味しそうな獲物を放っておくことなどできないということだ。
 カムィは好きなものから先に食べる性格だった。素晴らしいご馳走が目に見えているのに、どうして不味いものをつまみ食いする気になるだろう。
「本当にやらなくていいの? だったら、あたしもそのつもりでいるけど」
「どういう意味だ?」
 答えが返ってくるよりも先に、周囲の様子が変化した。
 魔物の気配が強くなる。
 近づいてくる。
 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……。二桁に達したところで数えるのを止めた。
 周囲の森の中から、道の向こうから、次々と姿を現してくる。いずれも一応は人の姿をとっているが、その正体が別物であるのは一目瞭然だ。
 先頭の、周囲より一回り身体の大きな魔物が口を開く。
「ニンゲン……いや、我らを狩ることを生業とする者か。しかし、小娘ふたりでなにができる?」
 カムィは小さく嘆息した。こちらの力を見抜けないような雑魚をいちいち相手にするほど暇ではない。
 カンナが耳元で囁いてくる。
「やっぱり、こいつら無視してさっさと進む方がいい?」
「……ああ」
 その返事を聞いたカンナは小さくうなずくと、一歩前に出た。
「あんたたちみたいな底辺の雑魚どもが、このあたしに刃向かう気? あんたたち、誰の前に立っているかわかってるの?」
 よく通る声で言うのと同時に、抑えていた気配を解き放った。
 ここまで完全に人間の姿、人間の気配をまとっていたカンナが、魔物の、竜族の本性を顕わにする。
 亜麻色の髪が輝くような黄金色に変わる。
 大きな瞳も爛々と黄金色に輝く。
 爪が、肉食獣のように長く鋭く伸びる。
 そうした見た目の変化に合わせて、圧倒的な『気』が放たれる。実際に空気が流れているわけではないのに、カンナを中心に、周囲に強い風が吹き出しているような感覚だった。
 前に立ち塞がった魔物たちの表情が変化する。
 戸惑い。困惑。そして、恐怖。
「お前、は……?」
「あたしたちは、この先の街にいるバカに用があるの。通してよ。それとも、あんたたちがあたしたちに用があるの? だったら相手してあげようか? ひとり残らず」
 ぴりぴりと、肌を刺すような感覚が強くなるのをカムィは感じた。
 腕の産毛が逆立つ。
 そして、空が暗くなる。
 見上げると、頭上の雲が見る間に厚みを増していく。ごろごろと遠雷の音が響いてくる。
 これはカンナがやっているのだ。雷を操るカンナの力だ。
「相手して欲しいなら、他の仲間も全員呼んでおいでよ。その方が手間が省けるから」
 魔物たちは一様に困惑している。
 カンナの態度が本気なのか、それともはったりなのか、判断がつきかねている様子だ。
 もちろんカムィには、本気だとわかっていた。
 カンナはやる気だ。この魔物たちが素直に道を空けないなら、一撃で屠って進もうとしている。
 
 ――今のカンナなら、できる。
 
 特に根拠はないが、そう感じた。
 竜族以外の魔物など、その数が十でも百でも、今のカンナにとってはなんの違いもないだろう。
 魔物たちは態度を決めかねている様子で、互いに顔を見合わせている。こそこそと小声で話している者たちもいる。
「おい、どうする……?」
「竜が相手とはいえ、数はこっちの方が」
「しかし、あの娘は……」
「なぜニンゲンの味方を……」
 こうして見る限り、士気は低そうだ。遠慮なしに竜族の気を放っているカンナに刃向かおうというほど骨のある奴、力のある奴は見あたらない。
 ――マウエと『主』以外は雑魚か。
 カムィはそう判断した。
 普通の人間、並の魅魔師にとっては十分すぎるほどに脅威だろうが、カムィとカンナが警戒するほどの相手はいない。マウエほどの相手が複数いたら面倒なことになると警戒していたが、どうやら杞憂だったらしい。
 考えてみればそれも道理だ。力のある魔物がそう簡単に他者に従うわけがない。この『魔物の支配地』の勢力がもっと増せば状況は変わるだろうが、今はまだ、本当に力のある魔物たちは様子見といったところなのだろう。
 今なら、まだ間に合う。カムィとカンナでここの『主』を倒せば、集まっている魔物たちは散り散りになるだろう。魔物の勢力が必要以上に強まることはない。
 雷鳴が近づいてくる。
 空は夕暮れのように暗くなり、時折、雲の中で閃光が閃く。
 そうなると、魔物たちは態度を決めなければならない。
 結局、戦いにはならなかった。
 カンナに気圧されてお互いの出方を窺っていた魔物たちは、やがてじりじりと後退しはじめ、一匹また一匹と森の中へ姿を消していった。
「腰抜けばっかり」
 カンナがつまらなそうに肩をすくめる。
 頭上を厚く覆っていた雲が散り、空は急速に明るさを取り戻しはじめる。
「……そうだな」
 平静を装ってうなずきながらも、カムィは驚いていた。
 この竜はいつの間に、こんなに強くなったのだろう。
 出逢った当時は、まだ文字通り小娘だったはずだ。強い力を持っているといってもそれは他種の魔物と比べての話であり、竜族としてはまだ本当に子供だった。
 イメルと戦った時も、危うく命を落とすところだった。カムィが魅魔の血を費やして助けなければ、間違いなく死んでいただろう。
 それが今ではどうだ。
 姉に劣らぬ力を持っていたはずのマウエを歯牙にもかけず一撃で倒し、何十匹という魔物を直に手を下すこともなく退散させた。
 その差に、この半年での変化に、戸惑ってしまう。
 これはカムィの血によるものなのだろうか。それともカンナ自身にその素地があったのだろうか。
 そして、この変化は今後も続くのだろうか。
 魔物は人間以上に大人と子供の力の差が大きく、そしてカンナはまだまだ成竜とは呼べない。
 カンナの力がさらに増すとしたら、それはあまりにも危険なことだ。
 はたして今、コンルの血でカンナを抑えられるだろうか。カムィの血が、カムィにしか抑えられない魔物を生み出してしまったのではないだろうか。
 いや、カンナがこれ以上強くなったら、カムィにも抑えられなくなってしまうかもしれない。
(望ましいのは、カンナが『主』とやらと相討ちになってくれることか……)
 ふと、そんな考えが頭をよぎる。
 そして、不愉快になる。
 そんなことを考える自分に嫌気が差した。
 頭を振ってその考えを振り払うと、カムィはまた歩き出した。



 ――この街の人間は、家畜の目をしている。
 そう感じた。
 柵の中の牛や馬と同じ、いや、それ以下だ。生気の感じられない、ただ生きているだけの存在。
 街の規模を見るに、辺境といえども以前はこの地方の中心として賑わっていたのだろう。しかし今では見る影もない。街の中心部もしんと静まりかえっていて、まるで廃墟のような空気に包まれていた。
 かといって、人が住んでいないわけではない。むしろ、その静けさからは考えられないほど多くの人間が生き残っている。
 しかしそれを、生きている人間と呼んでもいいものだろうか。ある意味、死人と変わらない存在といえる。
 ここは、魔物に支配された街だった。
 この街の人間たちは、家畜だ。
 魔物の餌として生かされ、街から出ることは許されない。
 ただ魔物に喰われる時を待つだけの日々。
 喰われるために生かされている存在。
 たまに通りで出会う住民たちは、街に入ったカムィたちに不思議なものを見るような視線を向け、遠巻きにしていた。
 その目からは常に、諦めと微かな怯えの色が見てとれる。喰われるために飼われていることを日常として受け入れてしまった家畜の目だ。
 カムィとカンナの姿を目にしても、目立った反応はない。もう、助けが来たなどとは思えないのだろう。
 長らく魔物によって封鎖されていた街。街の警備兵はもちろん、王国から派遣された軍勢も壊滅した。
 最初の頃は、かなりの抵抗も行われたらしい。森を抜けて街に入るまでの間で、白骨化した死体や錆びた武具などは数え切れないほど目にしてきた。
 しかしやがて、抵抗は無駄だと思い知らされたのだろう。下級の魔物の一匹や二匹ならまとまった軍勢がいれば倒せないこともないが、あれだけの数の魔物がいて、しかもそれを統率するのが極めて力の強い竜族となれば、人間の軍勢など蟷螂の斧以下のものでしかない。
 その気になれば、マウエ一人でこの街の人間をすべて殺すこともできただろう。上級の魔物を倒すことができるのは、それ以上の力を持つ魔物か、あるいは力のある魅魔師だけなのだ。
 抵抗がすべて無駄と悟り、やがて街は諦めの感情に包まれたに違いない。諦めずに刃向かい続けた者は真っ先に殺され、自分の意志で生きることを放棄した者だけが生き残った。
 おとなしくしていれば、すぐには殺されない。しばらくは生きていられる。
 しかしその生に意味はあるのだろうか。
 毎日、少しずつ人が減っていく街。
 なにもできずにただ存在しているだけ。
 その先に待つのは確実な死。
「…………」
 カムィはふと、タシロから聞かされた魅魔の伝承を想い出した。
 あの、最初の魅魔師を生み出した村も、こんな状況だったのだろうか。絶望の中から、あの勇敢な娘は立ちあがったのだろうか。
 この街には、そんな勇敢な人間は残っていないようだ。カムィたちが街の外からやってきた人間であることは一目でわかるだろうに、近寄ってくる者もいない。
 遠くからこっそりと見ているだけだ。関わり合いになって魔物の不興を買いたくないというところだろうか。
 そもそも、外に出歩いている者が極端に少ない。多くは建物の中で息を潜めているのだろう。
 カムィは周囲を見回して言った。
「しかし、こうした例も珍しいな」
「え?」
「魔物のくせに、多くの魔物を従えて人間の街を支配し、人間を餌として飼って……。これはまるで…………」
 まるで、人間のような行動だ。人間を餌とすることを除けば、やっていることは人間の支配者と大差ない。
 魔物は一般に、こうした社会性は希薄だ。ほとんどの魔物は単独行動を常とする。
 たいした力のない下級の魔物であれば、多数の人間を襲う際に同族と協力することもあるが、多くてもせいぜい数匹で、それもその時だけの一時的な連携だ。
 こうした、恒久的な大きな組織を作る例など聞いたことがない。
 それは、魔物が強力な存在だから。
 本来、群れを作るのは弱い――単独では弱い存在だ。
 だから、小魚や小鳥、草食動物は群れを作る。
 同様に、人間が集団で暮らすのは、人間が弱い生き物だから。
 確かに、相手が獣なら人間は強い。しかしそれも、人間が集団で行動するからこそだ。
 一人の人間では、猛獣に立ち向かうことも難しい。
 特に、素手ではなおさらのこと。
 そして剣や鑓、弩のような強力な武器も、複数の人間の力で造られる。
 そう考えると、人間は一人では本当に無力だ。これほど繁栄していることが不思議なくらい、無力な生き物だった。
 それに対して魔物は、単独でも、素手でも、極めて強力な存在だ。
 群れて暮らす必要はなく、故に、人間に比べると社会性は希薄になる。
 だから、この土地は例外的だった。
「こんな例は、初めて見る」
 ひとつの村が『滅ぼされた』例なら実際に何度も目にしている。故郷の村、魅魔の里もその一例だ。
 しかし、魔物の支配下に置かれた土地なんて見たことはない。
「んー、まあね」
 カンナもカムィの意見に同意する。
「でも、まったくなかった話じゃないよ。ここまで大規模じゃないけれど、たまにはあること。最後にあったのはあたしやカムィが生まれるよりもずっと前らしいけど」
「そうなのか?」
「うん。たまーに、そーゆー魔物らしくない奴が現われるみたい。ま、ひと口に竜族といっても、いろんなヤツがいるってこと。人間だってそうでしょ」
「……そうだな」
 カンナ、ラウネ、イメル、マウエ。
 考えてみれば、同じ竜族であってもその性格はそれぞれ違う。
 人間とは不思議なもので、自分以外の生物は。種によってその性質をひとくくりに考えてしまう。
 身近に接してみれば、家畜の馬や犬はもちろん、野生の羆にだって個性があることがわかる。ならば人間に劣らぬ知能を持つ魔物が、より大きな個性をもっていても不思議ではない。魔物は、ただ人間を襲って喰うことだけを考えて生きる存在ではないのだ。
「――で?」
「ん?」
「知ってるのか?」
「……なにを?」
 カムィの問いには主語も目的語もなかったが、カンナの反応はそれを確認するためではなかった。明らかに、カムィの言いたいことはわかっていながら白々しくとぼけている。
「ここの親玉が、どんなヤツなのか、知っているのか?」
 カムィもわざとらしく、一語一語区切って、強い口調で言い直す。
「知っているんだろう?」
「あー、ん……えーと……」
 答えはすぐには返ってこない。
 カンナは困ったような表情で、引きつった笑みを浮かべていた。
 その間も、二人は寂れた大通りを歩いていく。
 向かう先は、この先の、やや小高い位置にあるひときわ大きな建物だった。おそらく、この地方の領主の屋敷だったものだろう。この地を支配している魔物の『主』は、そこにいるに違いない。
 二人を遮る者はいない。魔物は気配こそ感じるもののあれ以来姿を見せないし、街の住人たちは遠巻きに見て見ぬ振りをしているだけだ。
 話ができるほど近くに寄ってくる者はいない。もっとも、今さらこの街の住人から有益な情報が得られるとも思えないので別に構わないのだが。
 カムィは唯一気になっていたのは、マウエ並みの力の持ち主が他にもいるのかどうかという点だけだった。しかし、その心配もなさそうだ。
『主』の他にもマウエに匹敵する力のある魔物がいるのなら、もうとっくに姿を見せてることだろう。それがないということは、『主』の他は並の力しか持たない雑魚である可能性が高い。
 もっとも、街の住人である普通の人間には、力のある竜族と下級の雑魚の区別もつかないだろう。魔物と人間の間には、そのくらい大きな力の差がある。地を這う蟻にとっては、拳大の石ころもひと抱えもある岩も、等しく『巨岩』としか感じられないのと同じことだ。
 実際のところ、この辺りにいる魔物の数はそれほど多いわけではないのだろう。いや、先刻の数だけでも一国を大混乱に陥れることができるほどの大群といってもいいが、今の二人にとっては気にする必要のある相手ではなかった。その気になれば、カンナ一人で全員を始末できるのだ。
 気にしなければならないのは、カンナの手に余る相手がいるのかどうか、『主』がどれほどの力を持っているのか、という点だけだった。
 しかし冷静に振り返ってみると、カンナはここに来るのが気乗りしない様子だった気がする。
 それはどうしてだろう。
 カンナは、ここの主に心当たりがあるのだろうか。
 それが手強いと知っているのだろうか。
「……で?」
 しばらく待っても返事が返ってこないので、カムィはもう一度訊いた。
 望んだ答えが返ってくるまで諦めるつもりはない。無言の圧力をかけ続けていると、カンナは渋々といった様子で口を開いた。
「……ライエ」
 カムィの方を見ずに、独り言のようにつぶやく。
「え?」
「…………名前は、ライエ。ここの親玉の名前。こんなこと考えるヤツ、他に心当たりはない」
「……ふん、不吉な名だな」
 ライエ――それは死を意味する言葉。
 本能的に、生理的に、嫌悪感を覚える。
「どんな奴だ? 強いのか?」
「……強いよ。竜族の中でも凄く強くて、それ以上に自尊心が高くて、なんでも自分が一番じゃないと気が済まない性格」
「ふむ」
「だけど、彼には兄がいて、あらゆる点でその兄には敵わなかった。その上、兄は魅魔の血を得て最強の竜族となった。当然、弟の方は……兄に嫉妬した」
 カンナはそこで一旦言葉を切った。ふと、なにかを思いついたようにカムィを見る。
「……力を持っている者ほど、嫉妬深いのかな? 十分な力を持っている者ほど、さらなる力を求める」
 問うような視線。
 意味深な表情。
 黄金色の瞳がカムィに向けられる。
「……私のことを言っているのか?」
 カムィは不機嫌そうに言った。
「あと、コンルもね」
「…………私の場合は事情が違う。単なる姉妹ではない。まったく同じ姿で、同じ親から同時に生まれた双子だったんだ! なのに……」
 なのに姉のシルカは、カムィが到底及ばないほどの力を持っていた。
 当然、幼少のカムィはシルカに嫉妬していた。
 いや、本当は今でも嫉妬しているのかもしれない。カムィは、今の自分の力は、本来自分のものではなかったと思っている。シルカが殺された時に、その力を受け継いだものだ――と。
 カンナの口元に微かな笑みが浮かぶ。
 普段の無邪気な笑みとも、からかうような笑みとも違う。妙に優しげで、そして儚げな笑みだった。
「……ゴメン。想い出させるつもりはなかった」
 珍しいことに、素直に謝ってくる。
 シルカのことは、カムィにとってはあまり想い出したくない記憶だった。想い出せば考えずにはいられない。
 たとえばあの時、自分がシルカに嫉妬などせずに村に残っていたなら、なにか変わったのだろうか。シルカと力を合わせれば、どちらも命を落とすことなしに魔物を倒せたのだろうか。それとも、子供の死体がひとつ増えただけなのだろうか。
 いずれにせよ、その後の歴史は大きく変わったことだろう。
「……どうでもいい。それより、話の続きだ」
 忌まわしい記憶を振り払うように、カムィは強い口調で言った。
「ん……。嫉妬したライエは仲間を誘って、三人がかりで兄を襲った。一対一じゃとても勝ち目はなかったから、三対一の、しかも不意打ちで。そして、殺した兄の血で新たな力を得た」
「…………反吐が出るな」
 また、忌まわしい記憶が蘇る。
 自分がシルカを殺したわけではない。しかし、シルカの力はカムィに受け継がれている。カムィはそう思っていた。
 シルカに大きく劣っていたはずの自分が、シルカの死と同時に姉を超える力を持つようになった。それがシルカの死と無関係とはもちろん思っていない。
 姉の死が引き金だった。
 シルカの死があったからこそ、今のカムィの力がある。
 姉の死を踏み台にして、今の自分がある。
 ――そう、思っていた。
「でも、ライエはそれだけじゃ満足しなかった。だから、さらなる力を得ようとして……」
 そこで一度言葉を切って立ち止まるカンナ。惰性でそのまま数歩進んだカムィは、はっとして立ち止まった。慌ててカンナを振り返る。
「まさか…………」
 魅魔の血を得た同族の血から、力を手に入れた竜族。
 それがさらなる力を求めた場合、いったいなにが必要となるだろう。いったいどうしようとするだろう。
 その答えは、ひとつしかありえない。
 カムィがそのことに気づくのと同時に、カンナは答えを口にした。
「さらなる力を得るために、ライエは…………魅魔の里を襲った」
「――っ!」

 ざわ……

 全身の毛が逆立つ。
 身体中の血液が沸騰するような感覚を覚える。
 そうだ。竜族に力を与える最高の血は、魅魔の血だ。
 それも、できるだけ純粋な魅魔の血。
 それは、どこで手に入る?
 ひとつしかない。
 
 そして――
 
 カムィが知る限り、歴史上、魅魔の里が魔物に襲われたことなど一度しかない。

「それは、つまり……」
「三人がかりなら、魅魔の里を滅ぼして、好きなだけ血を手に入れられると思ったんだろうね。だけど奴らは魅魔師の力を甘く見すぎていたんだ。一人は、魅魔師の長にあっさりと返り討ちにあった。もう一人は、その長の幼い娘に殺された」
 言うまでもない。その娘とはカムィのことだ。
「……そしてライエ自身は、長と刺し違えるようにして重傷を負った。なんとか命は取り留めたものの、己の命を賭した魅魔師の言霊で、その後十年近くも力の大半を封じられていた」
 本来、魅魔の血による束縛は、その血の主が死ねば失われる。しかし強力すぎるその力は、死んでもなお十年にわたって魔物を縛り続けたのだという。
「……っっ!」
 大声で叫びたい衝動に駆られる。
 全身から噴き出しそうな想い。
 熱い。
 身体が熱い。
 それはまるで燃えさかる炎のようだった。
 
 ついに、見つけた。
 ついに、辿り着いた。
 ――仇。
 母の、祖父母の、そしてシルカの仇。
 ようやく、巡り会えた。
 ようやく、ここまで来た。
 仇を討てる。憎き相手を、この手で殺せる。
 全身から歓喜が湧き上がってくる。
 
 しかしカムィは興奮のあまり、不自然に戸惑ったようなカンナの態度は見落としていた。

「……最近になってようやくその封印の力が弱まり、ライエはまた好き勝手を始めたところ。その結果がこの街、この屋敷」
 目的の屋敷の前に着いたところで、カンナは大きな門を見上げた。
「ここに……いるのか」
 声が震えてしまう。
 叫び出したい、走り出したい。そんな衝動を抑えるのが苦しいほどだった。
 閉ざされている門扉。ここで時間をかけるのももどかしい。カンナに命じて、雷で門ごと吹き飛ばしてしまおうか。
 そんなことを考えていると、門が内側から開かれた。しかしそこに竜の気配はない。
 二人を出迎えたのは、紛れもなく人間だった。この屋敷の使用人とおぼしき若い女性だ。おそらく、魔物に支配される以前からここの使用人だった人間ではないだろうか。
 もちろん正気ではない。竜に魅了され、操られている。それは気配でわかる。
 女は、二人の前に立って深々と頭を下げた。
「いらっしゃいませ、カムィ様。主がお待ちです。ご案内いたします」
「……ふん、最初からそうしていれば手間が省けたものを」
 どうやら、カムィが街に入ったことは最初からわかっていたらしい。あるいは、以前から監視の目があったのかもしれない。
 今になって思えば、イメルもライエと無関係ではなかったのではないだろうか。
 ライエは、カムィの血を求めている。
 カムィは現存する最高の魅魔師で、もっとも純粋な魅魔の血の持ち主だ。もともと力のある竜族がその血を得れば、間違いなく最強の竜族、最強の魔物となれる。
 最強の魔物。それはすなわちこの世で最強の存在ということだ。
 ちらりとカンナを見る。
 出逢った当時と比べて、カンナの力は飛躍的に増している。
 それが、カムィの血によるものだとしたら。
 そして、ライエの力がもともとカンナよりも強いのだとしたら。
 カムィの血を得たライエは、間違いなく最強の存在になるだろう。人間はもちろん、他の竜族が何人集まっても敵うまい。
「……しかし、それはありえない話だな」
 ――ライエは今日、ここで死ぬのだから。
 喉の奥でくっくと笑う。どうしても笑いが込み上げてきてしまう。嬉しくて仕方がない。
 案内の女に続いて、門の中に足を踏み入れる。そこで、カンナがついてきていないことに気づいた。
「なにしてる? 行くぞ」
「う……、うん」
 うなずきはしたものの、カンナはなかなか歩き出さない。門の外で、なにやら躊躇しているように見える。
「……カンナ?」
「…………か、カムィ……、あの、ね?」
 ぎこちない笑みを浮かべて、困ったように頭を掻いている。
「なんだ、先刻から。……まさか、怖いのか?」
 普通に考えれば、この状況で怖がらないカムィの方が不自然だ。これから、自分を狙っている最強の竜族と対峙しようというのだから。
 しかし、どうしてだろう。恐怖心がまるで湧いてこなかった。
 復讐できる悦びが勝っているためか。
 それとも、負けない自信があるためか。
 本来、それも不自然だった。マウエにも後れをとったのに、さらに強いと思われるライエに苦戦しないはずがない。
 なのに、明確な根拠もないのにどういうわけか自信があった。
 マウエと戦った時と、いったいなにが違うというのだろう。
 ひとつだけ、ある。
 はっきりとした違い。
 今回は、最初からカンナが一緒にいる。
 もっとも、だから恐怖心がないのだと認めるのは癪な話だった。
「……あたしは……怖い、よ。でも、カムィが考えていることとは違う」
「え?」
「あいつと戦うことは怖くない。でも……このまま進んで、あいつと会うことは怖い」
「なにが言いたいのか、わからないんだが?」
「…………カムィに、嫌われたくない。ここからはあたし一人で行くんじゃだめ?」
「私が行かなければ意味がない」
 仇は自分の手で討たなければならない。それに、向こうも用があるのはカンナではなくカムィだろう。
 使用人の女にちらりと視線を向ける。肯定の意味か、女は微かにうなずいた。
「第一、お前ひとりで勝てるのか?」
「……わかんない。勝てる、かもしれない」
 相変わらず、歯切れの悪い言葉。
「いったい、なにを躊躇っている? なにを隠している?」
「……」
 問いの後しばらく間を置くが、答えは返ってこない。
 カムィは大きく息を吸い込んだ。
「答えろ、カンナ。自分の意志で」
 真っ直ぐにカンナの目を見て、強い口調で言う。
 しかし、声に力は――魅魔の力は込めない。これはカンナが自分の意志で答える必要がある、と感じていた。
 答えは返ってこない。
 カムィもそれ以上問いつめることもなく、黙ってカンナを見つめている。
 どこか寂しそうな、そして哀しそうな表情のカンナ。
 やがてカムィに向けていた目を伏せると、無言のままゆっくりと歩き出した。
 カムィたちに追いついたところで、カムィも、使用人も歩き出し、屋敷の中へと入っていく。
 かなり大きな屋敷だ。造りの階段を上り、豪華な広い廊下を進んでいく。やがて正面に大きな扉が現われた。
 その時不意に、小さな声が発せられる。
「…………あたし、コンルと同じなんだ」
 カンナの声だった。唇が微かに動いている。
 しかし言わんとしていることは、カムィには理解できなかった。
 コンルと同じ? いったい、なにが同じだというのだろう。
 それを訊ねようとする前に、大きな扉がゆっくりと開かれた。
 隙間から見る限り、中は大広間らしい――と思った瞬間。

「――――っ!」

 突然の閃光。
 扉の向こうから溢れ出す光に、視界が真っ白になる。
 短い破裂音と、叩きつけられるような衝撃。
 それは紛れもなく、最強の竜族が放つ雷の力。
 そして――
 カンナの身体が床に転がった。
 扉の向こうから放たれた雷はカムィの脇をかすめて、斜め後ろにいたカンナの身体を貫いていた。
 カムィは一瞬そちらを追った視線を、すぐに雷の源へと向けた。
 同時に、素早い動作で腰の短剣に手をかけて、それを抜こうと――
 
 ――したところで、動きを止めた。

「早めに処分しておかないと、カンナは強くなりすぎたようだからな」
 雷を放った人影が、ゆっくりと口を開く。
「な……っ」
 その姿を目にして、言葉を失った。
 広間の中心に立っているのは、相当な力を持った竜族だ。
 竜族の証である、遠目にも目立つ黄金色の髪、黄金色の瞳。
 彼を中心にして風が吹き出してくるような錯覚を覚える。それほどに強い気を放っている。
 見た目は、想像していたよりも若かった。人間でいえば二十代の後半くらい、三十歳にはなっていまい。
 予想外だった。なんとなく、もっと年長だと想像していた。カムィの父親と兄弟であるならその方が自然だ。
 もっとも、成熟した魔物の年齢は必ずしも見た目通りとは限らないし、カムィの父とどれだけ歳が離れていたのかもわからない。
 それよりも問題は、この気配だ。
 ひと口に竜族の気配といっても、個体によってはっきりとした差がある。曖昧な『残り香』ならともかく、こうして面と向かっていれば、目を閉じていても個体を識別できるほどだ。
 なのに――
 どうして――
 
 どうして、精一杯に感覚を研ぎ澄まさなければ、区別がつかないのだろう。
 
 どうして――
 
 どうしてこの魔物は――
 
 ――カンナと同じ気を放っているのだろう。
 
 同じ色の髪。
 同じ色の瞳。
 顔つきにも、どことなく面影がある。
 
「…………何者だ、貴様――?」
「私が何者か……か。言うまでもない。王、だ」
「……」
 それはカムィが期待した答えではない。しかしもうひとつの答えが返ってくるより先に、天啓のように閃いた。

 カンナが先に進むことを渋っていた理由。
 この扉を開ける前の言葉。
『あたし、コンルと同じなんだ』
 そう、言った。

 この竜は、カムィの父親の弟。
 カムィの母親の妹は、コンルの母親。
 コンルはカムィの従妹。
 そのコンルと同じだというカンナ。
「貴様……カンナの……?」
 力いっぱいに拳を握りしめる。掌が汗で濡れている。
「お前が望んでいる答えを言うなら、その娘の父親ということになる」
「――っ!」
 カンナの、父親――?
 この竜が――?
 それにしては歳が若い気もするが、魔物の年齢は外見だけでは計れない。それに考えてみれば、カムィの母の力で十年も封じられていた存在なのだ。十年分歳をとった姿を想像すれば、なるほど、カンナの父親として妥当だろう。
 この竜は間違いなく、カンナの父親。
 そして、カムィの父親の弟。
 つまり、カムィとカンナは――
 
 ――従妹同士なのだ。

「――――くっ!」
 どくん、どくん。
 鼓動が大きくなる。
 胸が詰まって、息が苦しくなる。

 予想外だった。
 考えもしなかった。
 しかしこれで、カンナの煮え切らない態度も理解できた。
『あいつと戦うことは怖くない。でも……このまま進んで、あいつと会うことは怖い』
 どんな強敵と戦うことも恐怖しないカンナにとって、この状況で怖いこととはなんだろう。
 考えるまでもない。
 ひとつしかありえない。

 ――カムィに嫌われることだ。

 カムィが魔物を、竜族を、母親と姉の仇を、どれほど強く憎んでいるかはカンナが一番よく知っている。
 なのに、自分がその仇の娘だなんて。
 カムィに竜族の従妹がいるだなんて。
 カンナにしてみれば、知られたくないと思って当然だ。
「…………」
 この竜がカンナの父。
 シルカの、母の、祖父母の、魅魔の里の仇。
 カンナは、いくら憎んでも足りない仇の、娘。
 カムィは、仇の娘とここまで一緒に旅をしてきたことになる。
 もう一度、ライエに視線を向ける。
 燃えるように鮮やかな黄金色の髪、深い黄金色の瞳。
 どちらもカンナとまったく同じ色だった。
 思わずまじまじと見つめてしまう。
 頭が混乱し、張りつめていた心に隙が生じる。
 無防備に魔物の目を凝視するなんて――特に、強い魅了の力を持つ竜族相手には――絶対にやってはいけないことなのに。

「理解できたか、魅魔の娘?」
 竜族の『気』が放出される。
 突風のような質感を伴ってカムィに叩きつけられる。
 その圧力に、思わず二、三歩後退った。

 まさか、これほどのものとは――

 警戒はしていた。
 心構えはできていた。
 そのはずなのに……
 
 力が抜けていく。
 手から、そして全身から。
 短剣の柄を掴みかけていた手が、だらりと垂れさがる。
 カンナと同じ色の瞳がカムィを捉え、その心を捕らえていた。
 ライエの顔に浮かんでいるのは、無邪気なカンナとはあまり似ていない、気障な笑み。
 なのに、心奪われるほどに麗しく、神々しい。
 見つめていると、身体が熱くなってくる。
 身体の芯が、熱く火照ってくる。
 心の奥底から湧き上がってくる衝動がある。
 一歩、二歩。
 足が勝手に前に出て行く。

 ――いけない。
 
 ――このままではいけない。
 
 心の片隅で、そう叫ぶ声がある。
 しかしその声はあまりにも小さく、逆の衝動はどんどん強く、大きく、膨らんでいく。
 惹きつけられてしまう。
 湧き上がる強い想い。
 この身を、あの魔物の前に投げ出したい。
 この身を、あの魔物に捧げたい。
 そんな想いがどんどん膨らんでいく。
 そのためにここへ来たのだ――と。
 
「傍に来い」
 ライエが手を差し伸べてくる。
 それに促されるように、カムィはゆっくりと足を進めていく。
 一歩、また一歩。
「母親によく似ているな。あの、忌々しくも美しい女に。兄の面影がないのは幸いだ」
 その声は、カムィの耳にはとろけるような甘い囁きとして届いた。
「あの女は素晴らしい血の持ち主だったが、死にかけながらこの俺を魅魔の力で縛りやがった。その呪縛から逃れるのに、十年、かかった」
 恨み言であるはずのその言葉は、しかし、今のカムィにとっては美しい歌声であり、甘美な愛の囁きだった。
「だからお前の血を得て、今度こそ俺は王となる。すべての魔物と人間を支配する、この世界の万物の王に」
 ライエの言葉を聞きながら、カムィはゆっくりと歩いていく。

 どうして――

 目の前の相手は、憎き仇なのに。
 カムィの半身を、母を、故郷の村を、そして父を、奪った仇なのに。
 なのにどうして、こんなにも強大で、美しく、魅惑的なのだろう。
 鼓動が速くなる。
 呼吸が荒くなる。
 熱い。
 高熱にうなされている時のように、頭が朦朧とする。

 ――いけない。
 このままでは、いけない。
 竜族の魅了の力に、捉えられてしまっている。
 心を支配されかけている。
 それはわかっているのに――
 
 ――抗えない。
 
 この状態が心地よい。
 この感覚。
 心を鷲掴みにされる感覚。
 心を支配される感覚。
 心を陵辱される感覚。
 身体が熱い。
 火照って仕方がない。
 カムィの女の部分が、熱く濡れている。
 快楽を求めている。
 魔物が――目の前の魔物が与えてくれるであろう至上の快楽を。
 手が、自分の着物の帯にかかり、それを解く。
 解けた帯が滑り落ちる。重ねていた着物が一枚ずつ床に落ちていく。

 そして、一糸まとわぬ姿を曝す。

 着ているものを脱ぎ捨てたのに、さらに熱くなってくる。
 肌が露出した分、全身で直にライエの気を感じてしまう。
「あ……ぁ……」
 熱い。
 身体の内にこもった熱によって、体内から灼かれるような感覚。
 その熱を帯びた蜜が、胎内から溢れだして内腿を濡らす。
 止めどもなく溢れ続け、くるぶしまで滴り落ちる熱い蜜。しかしそれでも体内の熱を冷ますことはできない。
 燃え上がりそうなほどに火照る身体。
 この火照りを静めるためには――
 
 ――そう。
 
 この身を、捧げればいい。
 目の前にいる魔物に。
 それですべてが解決する。
 
 ――違う!
 
 心の片隅で、そう叫ぶ声がある。
 ほんの小さな声。
 耳を澄ましていなければ聞き逃してしまいそうな、小さな声。
 
 ――そんな声、どうでもいい。
 
 無視して、一刻も早く、この身を竜に捧げればいい。
 そうするのが当然ではないか。
 一歩、また一歩、ゆっくりと脚を進める。
 
 違う。
 違う。
 違う!
 
 ――いいや、違わない。
 
 元は竜から別れた血。
 それはひとつに戻るのが道理ではないか。
 だからこの身を、この魅惑的な魔物に捧げるべきなのだ。
 
 違う!
 違う!
 違う!
 ――そうすべき相手は、こいつじゃない!
 
「…………」
 なんだろう。
 なにか忘れている。
 なにか見落としている。
 大切ななにか。
 
 一番、大切ななにか――
 
 それは――
 
「…………カンナ!」

 突然、口から出た言葉。
 意識したものではなくて、勝手に口から飛び出した言葉。

「…………カンナっ!」

 なにを叫んでいるのか、自分でもわからない。
 なのに、その言葉が口をついて出てくる。
 先刻から心の中で叫び続けていた小さな声が、口を操っている。

「カンナっ!」
 突然、身体に腕が回された。
 背後から抱きしめられている。
 カムィを掴まえ、その歩みを止めた腕。
 血まみれの腕がカムィの身体に回され、しっかりと抱きかかえていた。
 背中に押しつけられている温もり。
 それが誰のものであるか、振り返るまでもない。
「カンナ……」
 触れられた瞬間、わかっている。
 それはカムィにとって、一番なじみ深い温もり。
 首を回すと、焦点の合わない黄金色の瞳が目に入った。普段の輝きが感じられない、生気の失せた死んだ魚のような瞳だ。
 足取りもおぼつかない。カムィを抱きしめているというよりも、カムィに縋ってようやく立っているような状態だった。
 ライエに撃たれた傷から、鮮血がごぼごぼと溢れ出している。
「……莫迦が」
 口の中に、鉄錆の味が広がっている。
 いつの間にか、舌を噛んでいたらしい。
 何故?
 なんのために?
 ――考えるまでもない。
 上体を捻って、カムィもカンナの身体に腕を回した。唇を重ねて舌を伸ばす。
 カンナの舌が、それ自体が意志を持った生き物のように絡みついてくる。
 滲み出る魅魔の血を啜っている。
 カムィはその長い舌に噛みついた。
 カンナの舌からも血が滲み出す。
 どうしてだろう。
 その血が、甘く感じるなんて。
 甘い。甘ぁい。
 温かい……いや、熱い。
 口の中が灼けるような、熱い血。
 なのに、身体を支配していた不自然な火照りが冷めていく。
 代わって込み上げてくるのは、もっと、もっと、熱い想い。
 意識が――自分の意志が、戻ってくる。
 そして――
「カンナ……」
 カムィを抱いている腕に、力が戻ってくる。
 唇に微かな笑みが浮かぶ。
 瞳に、強い光が戻ってくる。爛々と黄金色の輝きを放っている。
 カンナはカムィを放すと、背後に庇うような体勢になった。
 ライエの雷に貫かれた胸の傷を押さえる。傷からはまだ鮮血が溢れており、手が深紅に染まる。
「クソ親父……」
 長い舌を伸ばして自分の手をひと舐めする。
「確かにあたしは強くなったよ……強くなりすぎたよ」
 言うと同時に、脚が床を蹴った。
 目にもとまらぬ速さでライエに飛びかかる。
 血に染まった長い爪を振りおろす。ライエも腕を振る。
 二人は交錯した瞬間に素速く離れた。
 顔を庇ったライエの腕に、浅い傷が刻まれていた。じわりと血が滲む。
「……クソ親父を八つ裂きにできるくらいには、ね」
「少しばかり力をつけたからといって思い上がりおって。手負いで父親に刃向かうのか?」
 ライエの顔から余裕の表情は消えていない。
 今度はライエから動いた。
 先刻のカンナも凌駕するような、人間の目では追えない速度。
 しかしカンナは正確に迎え撃つ。
 剣と剣がぶつかったような、甲高い金属音が響いた。鋼よりも硬い竜の爪がぶつかり合った音だ。
 また一撃で離れる。
 その一瞬の間に二人とも新たな傷が増えていたが、カンナの方が深手だった。
 頬を浅く斬られただけのライエに対し、カンナは右肩から胸にかけてざっくりと剔られ、鮮血が噴き出している。
「誰が、誰を八つ裂きにできるだと? 人間の手先となって雑魚を狩っていたくらいでいい気になるな。お前如きの力、この俺には通用せんぞ」
 相変わらずの、上から見おろすような物言い。
 勝ち誇った笑み。
 しかし、カンナの顔にも笑みが浮かんでいた。強敵と相対しているというのに、不自然なくらいに穏やかな笑みだった。
「そう、あたしはカムィと一緒に魔物を狩ってきた。あたしは、半年以上ずぅっとカムィと一緒にいた。ほとんど毎日のようにカムィの血をご褒美にもらっていた。カムィは他のどの魅魔師よりも狩りに熱心だからね。日に一度も魔物を狩らなければ、欲求不満で不機嫌になるくらい」
 ぴくり、とライエの眉が動く。
 ずっと笑みを浮かべていた顔が、ここで初めて微かに曇る。
「わかる? あたしの身体には、カムィの血がたっぷりと流れてるんだよ?」
 カンナが右手を掲げる。
 地肌が見えないくらい、真っ赤に染まった手。傷を押さえていたために、そのほとんどは返り血ではなく自分の傷から流れ出たものだ。
 そして、その手でライエに傷を負わせた。
 はっとした表情でカムィを振り返るライエ。そこで動きを止めた。
 カムィの瞳が、深紅の輝きを放っている。
 血の色の瞳で、ぞっとするような危険な笑みを浮かべている。
「そうだ。貴様が好き勝手できるのも、もう終わりだ」
 いっさいの手加減なしに、魅魔の力を解放する。
 カムィの言葉が、ライエの身体を縛った。
 カンナの血は、すなわちカムィの血。
 カンナの血に含まれる、ほんのわずかな魅魔の血。
 しかし、カムィにとってはそれで十分だった。
 生まれた時から、その半分以上が竜に由来していたという、もっとも純粋な魅魔の血。
 そこに、さらにカンナの血が混じっている。
 爪先のほんの一滴でも、竜族を支配することができる血だった。
 凍りついたように動かないライエに歩み寄り、短剣を抜く。
 腕の上で刃を滑らせる。
 刃先に残った紅い筋。これだけで、小さな短剣は魔物にとって最凶の武器に変わる。
 カムィは両手で柄を握ると、体重を乗せてライエの胸に突き立てた。
 ライエの目が見開かれる。
 人間の武器の前では鋼よりも硬いはずの竜の皮膚が、熟れすぎた果実のように易々と貫かれていた。
 辛うじて急所は外れているが、強靱な生命力を誇る竜族であっても無視できない深手だった。魅魔の血による傷には、竜族の治癒能力も働かない。むしろ、わずかな血でさえいつまでも組織を侵し続ける。
 動きを封じられたライエは、悲鳴を上げることすら許されなかった。顔に脂汗が噴き出してくる。
「簡単に死んでもらっては困る。そう簡単に楽にはさせんぞ?」
 カムィはライエに突き刺した短剣から手を放すと、もう一本の短剣を抜いて自分の掌を深々と貫いた。
 掌を貫通した刃を抜くのと同時に、鮮血が溢れだしてくる。その手を、ライエの胸に突き刺さっている短剣の上に掲げた。
 一筋の紅い糸となって滴り落ちる血は、刃を伝ってライエの体内に流れ込んでいく。
 ライエの身体が小刻みに痙攣している。
「痛いか? 痛いだろう? 苦しいか? 苦しいだろう? お前は、もっと苦しまなければならない」
 カムィが口を開くたびに、耐え難い激痛がライエの身体を襲う。
 しかし、もがき苦しむことも、悲鳴を上げることも、封じられている。
 ほんの一滴でも魔物の生命を思うままに操ることのできる血が、途切れることなく注ぎ込まれ、ライエの身体を苦痛で支配していく。
「シルカは、母様は、魅魔の里のみんなは、もっと苦しんだんだ。簡単には殺さない。そんなことは許さない」
 その光景は、今でもはっきりと覚えている。
 けっして忘れることのできない、瞼に焼き付いた光景。
 生きたまま魔物に引き裂かれ、喰い千切られ、紅く濡れた肉片と化していったシルカの身体。
 その姿は、その痛みは、カムィの記憶に永遠に刻み込まれている。
 その光景を、その感覚を、そのままライエの身体に伝える。
 ライエの顔は苦痛と恐怖に歪み、全身が痙攣している。
 動きを封じられた身体は、悲鳴を上げることも、苦しみ悶えることもできなかった。なのに全身が引き裂かれるような激痛が絶え間なく襲ってくる。
 人間であれば、苦痛のあまりたちまち発狂していたことだろう。この状況では、それも一つの救いかもしれない。しかし魔物の強靱さ故に、狂うことすらライエには許されなかった。
「苦しいだろう?」
 突き立てた短剣に血を滴らせながらカムィは囁く。
 ライエの顔がさらに歪む。脂汗が滝のように噴き出してくる。
「お前は、苦しまなければならない」
 もっと。
 もっと。
 もっと、苦しまなければならない。
 どんなに苦しんでも、足りない。
 簡単に死なせはしない。
 この血が尽きるまで、苦しめてやる――そんな想いを込めて、カムィは血を流し続けていた。
 カムィが呪詛の言葉を唱えるたびに、ライエの身体が震える。苦痛のあまり反射的に収縮しようとする筋肉。しかし魅魔の血でその動きは封じられていて、ふたつの力がせめぎ合う。
 動きを封じられていなければ、ライエの身体はとっくに自身の筋肉によってずたずたに引き裂かれていたことだろう。
 しかしカムィは、ライエに死という救いを与えなかった。
 全身が八つ裂きにされる痛み。
 けっして終わらない苦しみ。
 身体中の組織が、言葉にならない苦痛に襲われ続けていた。
 そこへ――

「……あの……カムィ?」
 背後からひとつの声が割り込んでくる。カムィははっと振り返った。
 すっかり失念していたが、カンナが後ろに立っていた。
「…………気持ちはわかるけどさ。そんなんでも、一応、あたしの親だしさ」
 困ったような表情で、無理に笑おうとしているのかもしれないが、口元が不自然に引きつっていた。
「…………」
「もちろん、あたしはカムィの味方だよ? でも、さ……。できれば、あまり時間をかけずに終わらせてくれると嬉しいかなぁ、って。……ちょっと、思った」
 カムィは黙ってカンナを見つめた。
 カンナもそれだけ言うと、後は口をつぐんで困惑したようなぎこちない笑みを顔に貼り付けている。
 二度、三度。
 カムィは大きく深呼吸した。

 ――そして、考える。

 カンナが、今、なにを考えているのか。
 カンナが、今、どんな想いでいるのか。

 カンナから視線を逸らし、またライエを睨みつける。
 目の前にいるのは、魅魔の里を襲った張本人。
 自分の分身といってもいいシルカの仇。
 母親と、故郷の村の多くの人たちの仇。
 そして――父親の仇。
 
 殺さなければならない。
 死ななければならない。
 死をもって、己の罪を償わなければならない。
 償わせなければならない。
 だけど――
 しかし――
 この魔物は、カンナの父親だ。
 
 ――だからなんだというんだ?
 ――そんなの、どうでもいいことだろう。
 ――そう、どうでもいい。
 ――気にすることじゃない。
 
 そう、思うのに。
 なのに、カンナの存在を無視できない。
 
 視線をカンナに戻す。
 戸惑っているような表情。どことなく哀しそうな表情にも見えるのは気のせいだろうか。
 こんな表情のカンナは見たことがない。
 
 もう一度、ライエを見る。
「…………」
 血が滲むほどに唇を噛む。
 
 ――そうだ、終わりにしよう。
 
 もう一度、短剣を腕に突き立てた。
 太い血管が切断され、新たな血が噴き出してくる。
 その血を、ライエの傷口に注ぐ。
 これだけの血を注ぎ込めば、どんな魔物であろうとたちどころに殺せる。
 
 意識を集中する。
 言葉に『力』を乗せて、
「…………」
 ゆっくりと唇を開いた。


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