五章 雨の日の諍い


 しかしどうやら、レイア様の心配は杞憂に終わりそうだった。
 翌日の放課後からフィーニはあのお店に通っていて、レイア様の言いつけ通りにミュシカも付き添ってはいたが、今のところこれといって問題はない。
 アルバイトとはいっても、骨董品屋で女学生が手伝えることなんてたかがしれている。店内の掃除とか、倉庫の整理とか、セルタさんが接客中にお茶を入れたりとか、その程度のことだ。
 仕事は週に四日。夜も寄宿舎の夕食に間に合うように帰れるし、特に大変なことはない。そもそも、そんなにお客さんの多いお店でもないのだから、仕事をしている時間よりも三人でお茶を飲んでいる時間の方がずっと長いくらいだ。
 なんだか、茶飲み友達として雇われたみたい……というのがミュシカの感想だった。
 そんなある日のこと。


 その週末は、セルタさんが用事があって留守にするというので、お店は休みだった。
 久々にのんびりしようと思っていたミュシカだったがそうは問屋が卸さず、またフィーニに街へと引っ張り出されてしまった。引っ越してきてからそれなりの日数になるが、まだまだ都会に飽きる様子はないらしい。
 有無をいわさずに買い物やシネマやカフェに付き合わされるという生活が、ミュシカの日常の一部になりはじめていた。無理に断ろうものならフィーニはレイア様に言いつけて、ミュシカは「まだこの街のことがよくわかっていないフィーニちゃんに付き合ってあげるのも、お姉様の務めでしょう?」とたしなめられることになってしまう。
 まあ、フィーニの傍若無人な態度を除けば、カフェやシネマに付き合うのは決して不快ではない。しかしフィーニと同室になって以来、一人でゆっくりと読書したりする時間が減ったのは事実だった。なにしろ自分の部屋にいても、フィーニ目当てという口実で遊びに来る二、三年生がずいぶんと増えてしまったから。
 そのことを歓迎しているわけではないが、決して不快に感じていない自分に気付いて、ミュシカは少し驚いた。フィーニが一緒にいるためか、以前のようなミュシカに対する不自然な気遣いが感じられなくなり、その分、かえって気が楽になった。
 ある意味、フィーニのおかげといえないこともない。
 カフェの窓際の席で、ミュシカは目の前に座っている少女の顔を見た。
 口いっぱいにケーキを頬張って、頬袋にナッツを詰め込んだリスのように幸せそうな表情をしている。
 ミュシカの口元が微かにほころんだ。



 外は、どんよりと曇っていた。
 この分では、もうじき雨になりそうだ。傘は持ってきていないし、早めに寄宿舎に帰った方がいいかもしれない。
 しかしフィーニは、泣き出しそうな空の様子などまるで気にも留めていないようだ。
「あー、美味しかった」
 幸せいっぱいの表情で、お腹を押さえている。
「あのケーキ、おみやげに買ってくればよかったかなぁ。レイアお姉様たちもお呼びして、今夜はみんなでお茶会とか」
「あんた、まだ食べる気?」
 ミュシカが呆れ顔でつぶやいたのも無理はない。たった今、三つのケーキを平らげたばかりだというのに。
「そういえば、お姉様といえば……」
 ふと思い付いてミュシカは訊いた。
「あんた、お姉様の部屋には戻らないの?」
 本来、レイア様が留守にする数日間だけという約束で、フィーニはミュシカの部屋に来たのだ。それがいつの間にか、そこにいるのが当たり前のような顔で居座っている。
 別に、今さら本気で追い出したいと思っていたわけではない。ただなんとなく訊いてみただけだ。
 しかし。
「……あたしのことが、邪魔?」
「え?」
「傍にいると、迷惑?」
 フィーニの声は、いつになく真剣だった。いつものようにふざけた口調なら、こちらも調子を合わせて「ああ、邪魔邪魔」とでも言えたのに。
 無機的な、表情のない顔でミュシカを見ているフィーニは、まるで別人のような雰囲気を漂わせている。初めて見る一面だった。
「わ……私は、一人で静かにしているのが好きなの!」
 あまりにも異質なフィーニの様子に戸惑って、つい大きな声を上げてしまった。間髪入れず、フィーニが言い放つ。
「嘘つき」
「……嘘?」
 訊き返す声が緊張していた。胸の鼓動が速くなる。
 二人の間に、ぴんと張りつめた、重苦しい空気が漂っていた。
 フィーニが、ゆっくりと口を開く。
「一人が好き? 誰かと一緒にいるのが怖い、の間違いでしょ」
「……」
「怖いんでしょ。誰かが傍にいること、誰かと仲良くすること、誰かに慕われることが」
 ミュシカは、何も応えられなかった。フィーニがいったい何を言わんとしているのか、気がついている筈なのに、気付かない振りをしていた。
 フィーニの口元に微かな笑みが浮かんだ。普段の愛らしい無邪気な笑顔ではなく、どこか皮肉めいた、癇に障る笑い方だった。
「あたしは、死んだりしないよ」
「――っ!」
 瞬間、顔の筋肉が引きつって表情が凍り付いた。全身に鳥肌が立つ。
 フィーニは言葉を続けた。ミュシカが絶対に聞きたくない言葉を。
「あんたに一方的に片想いしてふられた一年生が、自殺しようとしたんだってね?」
 叫びたかった。フィーニの声をかき消すように悲鳴を上げて、この場から逃げ出したかった。なのに脚は縛り付けられているかのように動こうとしない。
「以来一匹狼を気取ってるってわけ? 誰にも好かれないように? いかにも女ったらし向きの顔してるくせに、気が弱いこと」
「……うるさいっ!」
 これ以上、聞いていられなかった。いたたまれなくなって叫ぶのと同時に、右手を振り上げた。
 頬を打つ、乾いた音。
 初めてだった。
 女の子をひっぱたいたのなんて。
 まともに殴られたはずのフィーニは、それでも真っ直ぐにミュシカを見つめていた。また、先刻と同じ無表情な顔に戻っている。打たれた頬が赤くなっていることだけが違いだった。
「弱虫。臆病者」
 もう、限界だった。これ以上、フィーニの声を聞くことはできなかった。
 回れ右して走り出す。
 ミュシカの頬に、雨の最初の一滴がぽつりと当たった。



 雨が、降っている。
 寄宿舎に着く少し前から土砂降りになった雨が、窓ガラスを激しく叩いている。
 ミュシカは窓際に椅子を寄せ、窓枠に頬杖をついて、濡れたガラスを通して歪んだ外の景色をぼんやりと眺めていた。
 雨は、嫌いだった。
 昔はそうではなかった。読書が好きなミュシカにとって、雨はむしろ絶好の読書日和といえた。
 だけど今年の春から、雨は嫌いになった。
 嫌なことを思い出すから。辛いことを思い出すから。
 この部屋からいなくなった、愛らしい一年生のことを。
 フィーニみたいな生意気な子とは全然違う。素直で、無邪気で、ミュシカのことを実の姉のように慕ってくれていた。
 もちろんミュシカも、その子のことを可愛がっていた。同室の上級生として、親身になって面倒を見てやっていた。
 それが、あんなことになるなんて。
 あの日も休日で、やっぱり雨だった。
 その日ミュシカは、一人で出かけていた。前の日に、ちょっと部屋に居づらくなることがあったから。
 夕方、部屋に戻ったミュシカが見たのものは、不自然な格好でベッドに横になっている少女と、机の上に置かれた空の薬瓶と、ミュシカに宛てた手紙。
 その後は混乱していて、細部はよく憶えていない。
 とにかくすぐに医者を呼んで、大事には至らなかったこと。
 その子は退院後、一度も寄宿舎に顔を見せずに転校していったこと。
 以来ずっと、この部屋で一人で暮らしていたこと。
 それが、この半年間の記憶のすべて。あとは毎日同じことの繰り返しだ。学校へ行って、帰ってきて、勉強して、眠って。
 詳しい事情を知っているのはごく一部の二、三年生だけだ。それでも、みんなうすうすは察していたのだろう、急に無口になって他人を避けるようになったミュシカを、この半年間、そっとしておいてくれていた。
 例外は二人だけだ。ミュシカが引いた一線を越えて近付いてきたのは、レイア様と、そして――
「ミュシカ、入ってもいい?」
 部屋の扉が静かにノックされた。
 ミュシカは、はっと顔を上げる。
 返事をせずに黙っていたが、それでも扉は開かれた。この部屋でそんなことができるのは、寄宿舎に一人しかいない。フィーニならばノックもせずに入ってくる。
「ちょっとだけ、お邪魔するわね」
 口ぶりの割には遠慮のない動作で、レイア様が入ってくる。目を合わせるのが辛くて、ミュシカはまた窓の外に顔を向けた。
 背後で、レイア様の足音が止まる。肩に、そっと手が置かれた。
「泣いているの?」
「……いいえ」
 なんとか、それだけを答えた。口を開いたら、本当に泣き出してしまいそうだった。
「フィーニちゃんは?」
「……さあ」
「一緒に出かけたのでしょう?」
「途中で別れましたから」
 何か含むところのあるようなレイア様の口調だった。どうしてだろう、何もかも見透かされているような気がする。
「どうして? フィーニちゃんを放って帰ってきたの?」
「……」
 その質問には答えられなかった。ただ黙って、窓の外を見ていた。いや、実際にはガラスに映ったレイア様の顔を見ていた。
「ミュシカ、こちらをお向きなさい」
 その声は優しいのに、有無をいわせない力があった。渋々、立ち上がって振り返る。
 一瞬だけレイア様と目が合って、すぐに視線を逸らした。
「何があったの?」
 怒っているような口調だった。聞くまでもなく、わかっているのではないかという気がする。レイア様に隠し事はできないし、ミュシカのことはなにもかも見透されているのだ。
「……お姉さまですね。フィーニに話したのは」
「ええ、そうよ」
 とぼける素振りすら見せず、あっさりと認めた。レイア様に非があるわけではないのだから当然だろう。
「どうしてですか?」
「一緒に暮らすのなら、知っていた方がいいでしょう」
「だから、どうしてフィーニを私の部屋へ寄越したんですか?」
 いつしか、ミュシカは涙声になっていた。その言葉と同時に、一筋の涙が頬を伝い落ちる。
「……一人でいる方が、楽だったのに」
「あなたには、あの子が必要だと思ったからよ」
 レイア様の手が、ミュシカの頬に当てられる。ミュシカの方が背が高いために少しだけ上を向く形で、真っ直ぐにこちらを見ている。
 顔を押さえられて、今度は視線を逸らすこともできなかった。
 やがて、その手が下がっていく。頬から首へ、首から肩へ。
「いつまで、そうやって生きていくの? 他人と接することを怖がって。人は、一人じゃ生きていけないのよ」
 レイア様が半歩近付いてくる。身体がほとんど密着した状態になった。手が背中に回され、ミュシカの身体を抱きしめる形になる。
 柔らかくて、暖かい身体。心地よい香りが鼻腔をくすぐる。レイア様が愛用しているシャンプーの香りだった。
「どう?」
「え?」
「こうして近付かれたら、私のことも怖い?」
「……お姉様は特別です」
「これでも?」
 顔が近付いてきた。唇が触れそうなほどの距離だ。
「そういう冗談はやめてください」
 ミュシカは、背中がじっとりと汗ばんでくるのを感じた。逃げ出したい。なのに身体が動かない。
「冗談じゃなかったら? 私のことも拒むの? 好意を寄せてくれるすべての相手を遠ざけて、それであなたは生きていけるの?」
「……」
「私は知っているわ。あなたは本来、とても優しくて、とても寂しがりやよ。この半年間、見ていて痛々しいほどに無理をしていた。もう、止めにしない?」
 なにも、答えられなかった。応えようがない。自分自身、どうしたらよいのかわからないのだから。
「私のことは……」
 放っておいてください。そう、言おうとした。
 だけど、言えなかった。
「私は、あなたの何?」
 先に、そう言われてしまったから。
「……お姉様、です」
「だったら、あなたのことを気にかけるのは当然でしょう? あなたの力になってあげたい。そう思うのはいけないこと?」
 やっぱり、答えられない。
 わかっているから。
 レイア様が正しい。間違っているのは自分。
 それが、わかっているから。
「あなたを助けてあげたい。だけど、私がここにいられる時間はあと半年もない」
「あ……」
 そういえば、そうだ。
 レイア様は三年生。来年の春にはこの学園を卒業してしまう。
 急に、切なくなった。
 これまで考えたこともなかった。レイア様がいなくなってしまうだなんて。ミュシカが入学した時からずっと、傍にいてくれた人なのに。
 レイア様が、少し背伸びをした。
 唇が触れる。軽く、ほんの一瞬だけ。
「だから、ね。ミュシカにはあの子が必要なのよ。あの子にあなたが必要なように、ね」
「え?」
 ミュシカの身体に回していた腕を解いて、レイア様は言う。一歩下がって、にこっと子供っぽい笑みを浮かべた。
「だから、これは命令。迎えに行ってらっしゃい」
「え、でも……」
「傘も持っていってないのでしょう? どこかで一人ずぶ濡れになって、心細い思いをしてるんじゃないかしら。ああ、可哀想なフィーニちゃん」
「うぅ……」
 まただ、レイア様の得意技。芝居がかった口調で、ミュシカの罪悪感を煽る。
「……お姉様、一緒に来ていただけませんか?」
 一人で迎えに行くなんて、とてもできそうにない。あんなことがあった後で、いったいどんな顔をしてフィーニに会えばいいのだろう。
 だけど、レイア様は甘くなかった。
「二年生にもなって、いつまでもお姉さまを頼らないの」
 ちょんと、人差し指でミュシカのおでこを突つく。
「こういうことは当事者だけで解決しないとね。一人で行ってらっしゃい。大丈夫、フィーニちゃんは怒ってなんかいないから」
「でも……」
 決して、納得したわけではないけれど。
 でも、レイア様には逆らえない。ミュシカは仕方なく、フィーニの分の傘を持って寄宿舎を出た。
 正確には、レイア様に追い出されたというのが正しいのだが。



「……さて」
 どこへ行けばいいのだろう。
 傘を持って寄宿舎を出たはいいけれど、肝心のフィーニはいったいどこにいるのやら。
 薄暗くなりはじめた夕方の街。
 黒っぽく濡れた道路。
 雨は先刻までよりも幾分小降りになっているが、まだ傘なしで外を歩けるほどではない。
 フィーニもどこかで雨宿りしているのだろうか。
 でも、どこで?
 どこかのカフェ? いや、その可能性は低そうだ。昼間、美味しいけれども決して安くはないケーキを三つも食べて、手持ちのお小遣いは底をついている筈。お小遣いには不自由していないフィーニだが、普段の外出時に持ち歩いている額などたかがしれている。
 しばらく考えて、ふと気づいた。
 フィーニと別れた場所からなら、セルタさんのお店が近い。今日はセルタさんは留守だけれど、フィーニは合鍵を持っていた筈だ。
「ふぅ」
 思わず、小さな溜息が漏れた。行き先を思いつかなければ「探したけれど見つからなかった」と言って寄宿舎に戻れたものを。
 気づいてしまった以上、行くしかあるまい。気は進まないけれど、向きを変えて歩き出した。いっそのこと、着くまでの間に雨が止んでくれればと願ったが、あいにくここからお店までは、それほど時間もかからない。
 雨のためか、通りにはほとんど人通りがなかった。静かな雨の音と、ミュシカの足音だけが聞こえてくる。
 ほどなく、セルタさんのお店が見えてきた。予想通り、セルタさんは留守の筈なのにぽつんと明かりが灯っている。入口の扉に手をかけると、やはり鍵はかかっていない。
 小さく息を吸い込んで静かに扉を開け、そっと中を覗き込んだ。
 店内には小さな明かりが灯っているが、フィーニの姿は見当たらなかった。しかし、彼女のセーラー服がハンガーに掛けて吊してある。フィーニは奥の倉庫の方にでもいるのだろうか。
 なんとなく、足音を殺して中に入った。吊してあるセーラー服に触れてみると、しっとりと湿っている。かなり雨に濡れてしまったらしい。ミュシカと別れてから雨が本降りになるまでの間、いったい何をしていたのだろう。
 小さな丸テーブルの上には、お茶のカップとポットが置かれていた。しかしカップは綺麗なままで、ポットの中のお茶もすっかり冷めていた。
「……?」
 フィーニはどこにいるのだろう。
 倉庫? お手洗い?
 どちらにしても、せっかく淹れたお茶にまったく手をつけないままでいるなんて、妙な話ではないだろうか。
 嫌な予感がする。
 その時。
「いい加減にしてよね! 風邪でも引いたらどしてくれるのよ!」
 唐突にフィーニの声が聞こえた。
 倉庫の方からだ。
 このお店には、半地下になった広い倉庫があって、一見するとがらくたとしか思えないような品々が詰め込まれている。時々荷馬車で運ばれてくる荷物は倉庫に直結した裏口から搬入されて、それを整理して目録を作るのは主にフィーニの仕事だった。
 だから、フィーニが倉庫にいるのはごく当たり前のことではある。
 だけど、今の声は?
 フィーニの台詞に続いてなにやら不明瞭な男性の声が聞こえてきて、ミュシカは跳び上がるほど驚いた。
 濡れた制服はここに干してある。ということは、今のフィーニは下着姿の筈。それなのに男性が一緒にいるというのはただごとではない。
 息を殺して、倉庫へ続く扉をそっと開いた。階段を途中まで下りて様子を伺う。
 倉庫には明かりが灯っていた。複数の人の気配がする。
 気づかれないよう慎重に覗いてみて、はっと息を呑んだ。
 下着姿のフィーニが、ロープで後ろ手に縛られて床に座っている。そして男が三人、倉庫に積まれたがらくたの山をあさっていた。
 この光景から考えられる状況といえば、一つしかない。
(……泥棒?)
 セルタさんの留守を狙って忍び込んだ泥棒と、雨宿りに来たフィーニが鉢合わせしたのではないだろうか。濡れた身体を暖めるためにお茶の支度をしている最中に、倉庫の物音に気づいて、様子を見に来たところを捕まったに違いない。
「だいたいねぇ、女の子を下着姿のままで縛っておくなんてどういうことよ! あんたって、アブナイ趣味の持ち主?」
 フィーニが元気に叫んでいる。どうやら怪我などはないようだ。
 こんな危機的な状況下でも、フィーニの減らず口は相変わらずだった。それはそれで聞いてて痛快ではあるが、泥棒を怒らせるような発言は慎むべきではないだろうか。
「誰がアブナイ趣味だ!」
 案の定、男の一人が気を悪くした様子でフィーニを睨みつけた。
 まだ若い男だった。二十歳を少し過ぎているくらいだろうか。ひょろりと背が高くて痩せている。埃っぽい倉庫をあさるには不釣り合いな、洒落た麻のスーツを着ていて、仕草はどことなく気障っぽかった。
「これがアブナイ趣味でなくてなんなのよ! エッチ! 変態!」
「誰がっ! 俺はロリコンじゃねーぞ。ガキなんか相手にするか!」
 男が律儀に反論する。フィーニの言うことなんて放っておけばいいのに、案外、精神年齢が変わらないのかもしれない。
 フィーニがさらに言い返す。
「誰がガキよ! あたし、これでも十六歳なんだから!」
 実年齢の割に外見が子供っぽいフィーニの、ささやかな見栄だろう。ほんの少しサバを読んでいる。彼女はまだ誕生日を迎えていない。正確には十五歳と八ヶ月ほどだ。
 しかし、この発言は少々まずいのではないだろうか。
「十六歳だって? それなら守備範囲だな」
 ミュシカの不安は的中し、男の目の色が微妙に変化した。がらくたの山から離れてフィーニの近くに来る。
(あンの、馬鹿……)
 ミュシカは心の中で呻いた。自分から墓穴を掘ってどうする。黙っていれば、子供と思われて見逃してもらえただろうに。
 女の子の十六歳は、早い子ならば結婚話が出てきてもおかしくない。つまり〈女の子〉ではなく〈女〉として扱われこともある年齢ということだ。
 強盗が入った家に、若い女性が一人でいたら何をされるか。お嬢様学校に通うミュシカだって、そのくらいは知っている。
(……フィーニ!)
 男が、フィーニの胸に手を伸ばした。痩せた身体がびくっと震える。
「……」
 どことなくいやらしい笑みを浮かべていた男が、そこで困惑した様子を見せた。フィーニの胸に触れた自分の手を見て、なにやら考え込んでいる。
「……どこが十六歳だって。嘘だろ? つまらない見栄を張るなよ」
 思わず吹きだしそうになって、ミュシカは慌てて口を押さえた。
 失礼なことを言う男だ。しかし事実ではある。
 フィーニは同じ学年の少女たちの中でも、かなり小柄で痩せている。下着姿になればそれは一目瞭然だ。女性らしい柔らかな丸みに欠けるその身体は、まだ〈女〉ではなくて〈子供〉のものだった。
 胸の発育はお世辞にも良くはない。フィーニがそのことを密かに気にしていることも、ミュシカは知っていた。
 どうやら子供には興味がないらしい。ぷくっと膨れるフィーニを無視して、男はがらくたの山の発掘に戻った。いったい、何を探しているのやら。
 ミュシカはとりあえず安堵の息をついた。危ないところだったが、とりあえず最悪の事態は避けられたようだ。
 さて、これからどうしたものだろう。
 今すぐフィーニの身に危険が及ぶことはなさそうだから、今のうちにここを抜け出して警察を呼ぶべきだろうか。しかしわずかな時間とはいえ、捕まっているフィーニから目を離すのも不安だった。
 かといって、ミュシカ一人で三人の大人相手に何ができるだろう。やっぱり、急いで警察に駆け込むのが最善の策のように思われる。
 しかし、事態はそれを許さない方向へ急展開していった。
「リンディードの日記なら、そこにはないよ。見当違いのとこばかり捜して、ホント馬鹿なんだから」
 自分が気にしていることを指摘されて、よほど腹を立てていたのだろう。フィーニは男の背中に向かって嘲るように言った。一瞬、男たちの動きが止まる。
「なんだと……?」
 先刻の男が振り返る。
「お前、何か知ってるのか?」
「さあ、ね」
「このガキ……」
 男の表情が違っていた。先刻はどこかふざけた雰囲気があったが、今は目が真剣だ。
「知ってることはさっさと話した方が身のためだぞ?」
「さあ、なんのことかしら?」
 フィーニはしれっとした表情でとぼけている。しかし、この状況はかなり危険だった。
 男たちが探しているものについて、フィーニはなにやら心当たりがあるようだ。考えてみればそれも当然。この倉庫はフィーニの仕事場だ。ここにあるものについては誰よりも詳しい。
 それにしても、どうしていつもああやって挑発的な物言いをするのだろう。こんなところで地の性格を出さずに、レイア様たちの前のように猫をかぶっていればいいものを。わざわざ、相手を怒らせるような真似をするのだから。
「なんなら、身体に訊いてやろうか?」
 男の手がフィーニの胸元に伸びる。
 短い悲鳴と、絹のスリップが裂ける音が重なった。
 危うく、ミュシカも悲鳴を上げるところだった。
 大変だ。どうしたらいいのだろう。もう、警察へ行っている時間もない。
 かといって相手は大人、しかも男が三人だ。ここでミュシカが飛び出していったところで、ミイラ取りがミイラになるのが目に見えている。
(ああ、もう!)
 今さらながら、ミュシカは後悔した。
 こんなことなら、杖を置いてくるのではなかった。
 魔術師の杖。杖があれば魔法が使える。一人二人ならやっつけられるかもしれないし、相手の気を逸らした隙にフィーニを縛っているロープを切ることもできる。騎士剣術の腕は確かなフィーニのことだ、身体が自由であれば、大人一人くらいはなんとかできるだろう。
 杖。杖さえあれば。
 いつもは肌身離さず持ち歩いているのに、今日は天気が悪いし、二本の傘で手が塞がるからと、部屋に置いてきてしまった。まさかそれが必要になるなんて、夢にも思わなかった。
 魔法が使えなければ、ミュシカはただの女学生。この状況下ではどうすることもできない。
 かといって、このままではフィーニが危険だ。殺されることはないにしても、女の子にとっては同じくらいにひどい目に遭うことは目に見えている。ミュシカも、それがわからないほどには子供ではない。
 本当に、どうすればいいのだろう。ミュシカの背中を冷たい汗が流れ落ちた。
「結婚できないような身体にされたくなければ、素直になることだな」
 男が言う。破り取ったスリップを、手の中で丸めてぽいっと放り投げる。
 フィーニは気丈にも、唇を噛んで、無言で男を睨みつけていた。
「それとも、ここでストリップを披露してくれるのかな? この貧相な胸じゃあ、見ても面白くはないだろうが」
 あまり必要があるとも思えないフィーニのブラジャーに、男が手を伸ばした。指がストラップに引っ掛かる。微かに引きつるフィーニの表情を楽しむように、軽く引っ張っている。
「さあ? 俺は気が短いんだよ」
「……」
「そうか。まあ、別に構わないけどね。楽しませてもらった後で、もう一度訊くとしようか。大抵の女は、その方が口が軽くなるし」
「――っ!」
 一気に、ブラジャーが剥ぎ取られた。控え目なふくらみが露わにされる。手を身体の後ろで縛られているから、隠すこともできない。
 それが、限界だった。
「いやぁ――っ! いやぁっ! 誰かっ!」
 フィーニが叫んだ。涙がぼろぼろとこぼれ、顔中くしゃくしゃにして泣き叫んでいる。
 いくら強がっていてもしょせんは十五歳の女の子、屈強な男たちに襲われそうになって、いつまでも平然としていられるわけがない。
 しかしその反応は、むしろ男たちを楽しませているようだった。からかうようにフィーニの身体に手を伸ばす。男たちの手が触れるたびに、短い悲鳴が上がる。
「やだっ! いやぁっ、やめてっ!」
 甲高い悲鳴が、鋭い刃物のようにミュシカの胸を貫いた。
 なんとかしなければ。
 どんなに気に入らなくたって、自分はフィーニの〈お姉様〉なのだ。いざという時に力になってやれなくてどうする。
 今、ここにいるのはミュシカだけだ。フィーニの味方は他に誰もいない。
(ああ、もう! ここに杖さえあれば……)
 そうすれば、なんとかなるものを。
 そこで、天啓のように閃いた。
 杖なら、ある。そのことを思い出した。
 音を立てないように気をつけて、そっと後ずさった。フィーニの短い悲鳴が、ミュシカの足音を隠してくれた。
 一階のお店へと戻る。
 魔術師の杖はあるのだ。このお店に。
 杖は魔術を学ぶ者にとっては必需品だが、それ以外の者にとっても、古い時代の杖は骨董としての価値がある。大抵の骨董品屋には、王国時代の魔術師の杖が飾られているものだ。
 ほら。
 ミュシカは、壁に掛けられていた杖を手に取った。ずっしりと重く、金属のように黒光りして風格がある。おそらくは五百年以上前の品だろう。
 しかも、ミュシカが持っているアプシの樹の杖ではない。奇妙な瘤が並んだこの杖の材質は、今は絶滅に瀕して伐採が禁止されている貴重品、オルディカの樹だ。魔力を増幅する効果は、アプシの数倍といわれている。
(これなら……)
 杖を手にしたミュシカは、急いで、しかし足音を立てないように気をつけて倉庫へ戻った。
(天と地の狭間にあるもの、力を司るものたちよ――)
 口の中で、声には出さずに魔法の呪文を唱える。
 魔術の行使には、必ずしも言葉は必要ない。呪文は純粋に自分の意識を高め、精神を集中させるためのものだ。
 人間の言葉ではなく、心で直に精霊たちに呼びかける。
 精霊。それは実体を持たず〈魔力〉を操る不可思議な存在の総称だった。人間の精神活動に反応する性質があり、それを利用して人間が魔力を操るのがいわゆる精霊魔法だ。
 何百年も昔には、精霊を介さずに人間が直接魔力を制御する、もっと強力な〈上位魔法〉というものが存在したというが、それが失われた現在では、精霊魔法だけが唯一無二の魔法体系だった。
 本来、街の中というのはあまり精霊魔法に向いた場所ではない。精霊の存在密度が希薄なためで、一般に、人の手が入っていない自然の水辺や森の中がもっとも効果が高い。
 しかし、何事にも例外はある。
 よく、古い建物や古い品物には精霊が宿るといわれていた。その表現が正しいかどうかはともかくとして、新築のビルと古い廃屋とでは精霊魔法の効果が違うのは事実だった。人間の手によるものであっても、何百年も存在していればそれは自然の一部と見なされるのかもしれない。
 幸い、このお店の建物はかなり古い、その上、古い骨董品が山のようにある。その多くは魔法が盛んだった王国時代の品で、精霊との親和性は極めて高い。
 そのためだろうか、あるいは高価なオルディカの杖を持っているためだろうか、精霊の反応はすこぶるよかった。かつてないほどの強い魔力の流れを感じる。
 これなら……。
「……我が言葉に従い、彼の者たちに災いを為せ!」
 ミュシカは、呪文の最後の一節だけ小さく声に出した。純粋に気分の問題だ。
 同時に。

 ゴワ〜ンッ!  

 気の抜けたシンバルのような金属音と、奇妙な呻き声が響いた。
「……は?」
 一瞬遅れて、同じく気の抜けたような三つの声。フィーニと二人の男のものだ。
 驚いていたのはミュシカも同様だった。
 なにしろ、大きな金ダライがどこからともなく降ってきて、フィーニに手を出そうとしていた男の頭を真上から直撃したのだ。
「……ふざけた精霊だこと」
 ミュシカが意図的にそうしようとしたわけではない。だとすればこれは精霊がやったと考えるしかない。
 まるで、いま人気の喜劇シネマの一シーンではないか。あの金ダライはいったいどこから出現したものやら。
 しかし、天井の高いこの部屋での大きな金ダライは、かなり本気で痛かったらしい。男は頭を押さえてうずくまっている。あるいは精神的なダメージかもしれないが、男が動けないのであればどちらでも構わない。
「ミュシカっ?」
「な、なんだっ、てめえはっ?」
 フィーニと残り二人の男が、階段の上のミュシカに気づいた。ミュシカは再び杖を掲げる。
「彼の者たちに災いを!」
 また、ひしゃげた金属音。そして水音。
 つくづく冗談好きの精霊らしい。今回降ってきたのは、一斗缶と、水の入ったバケツだった。精霊に人間のようなユーモア感覚があるのかどうかは不明だが、とにかく役には立ったのだからよしとする。
「彼女の戒めを解き放て」
 杖を掲げてさらに唱える。
 倉庫のがらくたの山から一振りの短剣が飛び出して、フィーニの背後に落ちた。手を縛っていたロープが切れる。
 フィーニはばねが弾けるように立ち上がると、ふらふらと立ち上がりかけていた金ダライ男の腹を蹴った。男は転がってがらくたの山に突っ込む。
「乙女の玉の肌にただで触れた代償は安くないよ!」
 床に刺さっていた短剣を抜いて、それを構える。フィーニの背後には、怒りの炎が燃えさかっていた。
「そうかい。じゃあ今度からは金を払って触るよ」
 蹴られた男は、ふざけた調子で言って身を起こした。ついでに、がらくたの山から錆びた剣を引き抜く。
 フィーニが、低い姿勢で飛び込んでいった。構える隙すら与えずに、相手の剣の柄に短剣を叩きつけた。
 男の手から剣が弾き飛ばされる。同時に、フィーニの脚が跳ね上がる。
 顎を蹴り上げられた男は、一回転してひっくり返った。ようやく立ち上がった二人が目を丸くする。
「こりゃ形勢不利だなぁ。こんなおてんばだったとは……おい、逃げるぞ」
 顎を押さえながらなんとか立ち上がった男は、言うが早いか一人で回れ右して走り出した。見捨てられた残る二人も慌てて後に続き、荷物搬入用の裏口からばたばたと逃げ出していった。
 フィーニが大きく息を吐きだす。
 ミュシカは階段を下りていった。
 こちらを振り返ったフィーニは、まだ怒ったような表情のままだった。むっとした顔でミュシカを睨んでいる。
「もっと早くに助けに来なさいよ! まったく、何やってたのよ!」
 第一声がこれである。思わず力が抜けた。
 助けてもらった立場でずいぶんと偉そうではないか。普通ならここで言う台詞は「危ないところを助けてくれてありがとう」だろうに。
「もっと、早く……」
 握りしめていた短剣が、手から落ちて床に刺さった。ちょうどフィーニの台詞が途切れたところで、トンッという小さな音が響いた。
「……怖かったんだから」
 突然、フィーニの顔がくしゃくしゃになる。と同時に、ミュシカにしがみついてきた。
「……怖かったんだから……怖かったんだからぁっ!」
 力いっぱいミュシカにしがみついて、胸のあたりに顔を押し付けるようにして、わんわんと泣き出した。その肩に触れると、微かに震えている。
 本当に怖かったのだろう。
 考えてみれば当たり前だ。
 女の子が三人の男たちに半裸で縛り上げられて、怖くないはずがない。いくら傍若無人なフィーニとはいえ、まだ十五歳の女の子。ミュシカよりも年下なのだから。
 泣きじゃくるフィーニの身体にそっと腕を回した。優しく背中を叩いて、なだめるように耳元でささやく。
「ごめんね。もう、大丈夫だから」
 フィーニは無言で泣き続けている。
 しばらく経って少し落ち着いてきたのか、号泣はいつしかか細い啜り泣きに変わってきた。やがてそれも止んで、倉庫の中はしんと静まりかえる。
 二人の微かな呼吸だけが聞こえていた。
 ミュシカの腕にすっぽりと包まれて、フィーニはただじっとしていた。もう、震えてはいない。それでもミュシカは腕を解かなかった。裸の小さな身体を温めてやるかのように、しっかりと抱きしめていた。
 そのまま、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
「あら、あなたたち。こんなところにいたの?」
 不意に、頭上から声が聞こえた。
 顔を上げると、いつのまに帰ってきたのか、階段の上にセルタさんの姿があった。
 外出のためか、普段よりも少しお洒落に着飾っている。何故か、顔を赤らめてこちらを見下ろしていた。
「……あ、ごめんなさい。邪魔しました? まさかこんなところで、そんなことをしてるなんて思わないから……」
「え?」
 意味不明の発言に首を傾げて、それから今の自分たちの状態に気がついた。
 フィーニはミュシカにしがみついて、胸のあたりに顔を押し付けるような体勢で、ミュシカの腕はフィーニの身体を包み込むように抱きしめている。
 極めつけは、フィーニは下着一枚で裸同然の姿なのだ。
 見ようによっては、とんでもない誤解を招きかねない光景かもしれない。
「でも、もっとムードのあるところですればいいのに」
「ちっ、違うんです! これはっ、そのっ……」
 慌ててフィーニから離れながら、ミュシカはしどろもどろに説明しようとした。だけど色々なことがありすぎて、言葉がうまくまとまらない。
 慌てちゃいけない、と自分に言い聞かせる。ここで変に狼狽えたら、本当に「いけないこと」をしているところを見られたみたいではないか。しかしこの状況下では、慌てるなという方が無理がある。
「急に雨に降られたんで、濡れた服を乾かしていたんですよ」
 泣きやんだフィーニがにっこりと微笑んで顔を上げ、慌てふためいているミュシカをフォローする。さすが、いい度胸をしている。
 しかし、その後がいけない。
「そしたら、あたしの下着姿に欲情したミュシカが突然抱きついてきて……」
「いきなり裏切るなあぁぁぁっっ!」
 先刻までのしおらしさはどこへ行ったのやら。助けてもらった恩も忘れて、掌を返すように普段のフィーニに戻ってしまった。
「二階の寝室、使ってもいいですけど?」
「じゃあお言葉に甘えて……」
「使いませんっ!」
 力いっぱい叫んでから、ミュシカは肩を落として大きな溜息をついた。
 寄宿舎に帰るのが怖い。
 今日の出来事はフィーニの口から、かなり歪んだ形でレイア様たちに伝わることは間違いなかった。



(なんだか、大変な一日だったなぁ……)
 夜。
 自分のベッドの中で、ミュシカはようやく解放された気分になった。
 色々なことがあった日。
 フィーニと喧嘩して。
 レイア様に叱られて。
 強盗騒ぎがあって。
 セルタさんにとんでもない勘違いをされて、なんとかその誤解を解いて。
 警察やなんかといった面倒なことはセルタさんに任せて帰ってきたものの、それでも寄宿舎の夕食の時刻には遅れてまた怒られて。
 お風呂に入った後はもう疲れ果てていて、早々にベッドに入った。
 本当に、大変な一日だった。昼間のフィーニとの喧嘩なんて、もう遠い昔のことのように思えてしまう。
 結局、昼間のことはそのままうやむやになっていた。フィーニはもうすっかり普段通りだ。ミュシカにしがみついて泣いたことなんて、本当に憶えていないかもしれない。
 そのフィーニは、いつも通りミュシカの傍らで寝息を立てている。この部屋に来た翌日からずっと、そこがフィーニの定位置になっていた。なにが楽しいのか、いくら言っても自分のベッドに戻ろうとはしない。最近ではミュシカも諦めていた。
「……ミュシカ」
 不意に、フィーニの声がした。眠っていると思い込んでいたので、少し驚いた。
「起きてたの?」
「うん」
 もぞもぞとすり寄ってくる気配がする。暗いからお互いの顔は見えないが、顔に息がかかる。女の子らしい、いい匂いがした。愛用のシャンプーの香りだろうか。慣れている香りの筈なのに、何故かドキドキした。
「……ありがとう」
「え?」
 突然のことに、何を言われたのか一瞬わからなかった。フィーニの口からは聞き慣れない言葉だった。
「助けてくれて、ありがとう」
「あ、ああ……」
 フィーニがミュシカにお礼を言うなんて、初めてではないだろうか。ああ、いや。対面の時、道案内をしてあげた時にはちゃんとお礼を言っていたっけ。
「これは、お礼」
 いきなり、柔らかな感触が唇に押し付けられた。暗闇の中でもそれがフィーニの唇だとわかったのは、これが二度目だから。
「な、なにすんのよっ、いきなり!」
「感謝の気持ちを、素直に態度で表したんだけど?」
 とんでもないことをしておいて、あっけらかんと言う。どうも、からかわれているのではないかという気がする。
「やめなさい!」
「普通は喜んでくれるんだけどなぁ」
 そりゃあ、男性なら嬉しいだろう。フィーニは、少なくとも外見だけなら可憐な美少女なのだから。女嫌いの同性愛者でもない限り、キスされて嬉しくない男なんているわけがない。
 それにしても。
「あんた、いつもこんなことしてるの?」
 そういえば、初対面の時も道案内のお礼と言ってキスしていった。この「お礼」はフィーニの癖なのだろうか。
「うん、そう。レイアお姉様もアイリーお姉様も喜んでくれたよ。どうしてミュシカは嬉しくないの?」
「お姉様にまでっ?」
 予想外の台詞に、思わず大きな声を出してしまう。まさかレイア様やアイリーにまで同じことをしていたなんて。私のお姉様になんてことを、と叫びそうになるのを慌てて堪えた。
「やきもち?」
「そんなんじゃない!」
 だったらどうして不愉快なのかと訊かれても、うまく答えることはできない。やっぱり、やきもちなのだろうか。だけどそれは、誰に対するやきもちなのだろう。
 フィーニがくすくすと笑っている。
「ミュシカってば、もてもてだね。レイアお姉様もアイリーお姉様も、それにあたしのクラスメイトたちも、みんなミュシカのことが大好きなんだよ。なのにミュシカってば、冷たいんだもの」
「……仕方ないじゃない。昼間、あんたが言った通りだよ。怖いんだよ、私は」
「あたしは、死んだりしないよ」
「……そんなこと、わかってるよ」
 また触れられたくない話題になって、ミュシカの口調は自然と少し乱暴になった。
「あんたは殺したって死にやしない。たまに、私の手で首を締めてやりたくなるけどね」
「素手の喧嘩なら、あたしの方が強いと思うけど」
「だから実行しないっしょ」
 体格的にはミュシカの方がずっと大きいとはいえ、格闘術を身に付けているフィーニに勝てる筈がない。
「……お姉さまがあんたを寄越した理由が、少しわかるよ。私はダメなんだな。優しいつもりでいて、自分では意識せずに近くにいる人を傷つけている。あんたみたいに図太い人間じゃなきゃダメなんだ」
「ミュシカは優しいよ。とっても。優しい人間って、結局自分が傷つくんだよね。……まだ、痛いの?」
「え?」
「ここの、傷」
「傷?」
 フィーニの手が、ミュシカの左胸に触れた。ちょうど心臓の上に優しく置かれる。
 小さな手。だけど暖かい。寝間着の薄く柔らかい生地を通して、フィーニの温もりが伝わってくる。
 傷。それは心の傷という意味だろう。
「まだ……ね、触れられると痛いよ。だから……さ」
 私のことは放っておいて。
 そう言おうとした。
 だけど、言えなかった。
「誰も、ミュシカの傷を剔ろうなんて思ってない。自分からそうやって殻に閉じこもって、自分で、治りかけた傷のかさぶたを剥がしてるんだ」
「……っ」
 ここで言い返せば、また言い争いになるところだろう。だけどミュシカは何も言わなかった。
 フィーニの方が正しい、自分でもそれがわかっている。フィーニの口調も強かったが、昼間の嘲るような調子はない。
 だから、何も言い返せなかった。
 ただ、一言。
「……ごめん」
 ただ、それだけをつぶやいた。
 胸に触れているフィーニの手が、とても熱く感じる。
 ――と。
 また、フィーニがくすっと笑いを漏らした。
「……ミュシカって、意外と着やせするんだ?」
「うわぁぁぁぁっっ!」
 ミュシカは悲鳴を上げると、横になったまま、跳ねるエビのような動作で壁際まで後退った。
 胸を包み込んでいたフィーニの手が、いつの間にか、ふにふにと怪しげな動きをしていたのだ。



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