七章 賢者の宝物


 翌日から、山歩きの毎日が始まった。
 リンディードの日記と、ここに来る前に買ってきたこの山の地図を手に、脚が棒になるまで山の中を歩き回る。しかし当然のことながら、王国時代の財宝など、そう簡単に見つかるものではなかった。
 肝心の日記も、通った道とか周囲の特徴的な地形については書かれているが、全体的な地図がないために、買ってきた地図と照らし合わせてもなかなかリンディードが通った経路が見つからない。
 どうやらフィーニは、もっと簡単に見つかるものと思っていたらしいが。
「だってさぁ、他に考えようがある?」
 山中の河原で休憩している時にフィーニが言った。
「日記に書かれている川は、これとしか考えられないよね。『三段の滝の上より河原を遡る。二ノ沢に入りて一刻、滝の裏に洞窟を発見せり』。間違えようがないじゃない」
「でも、肝心の二ノ沢の滝が見つからないよね。一刻どころか、二刻以上も沢を遡ったのに」
 三段になった滝はすぐに見つかった。そこから川に沿って遡って、本流に流れ込んでいる沢へ入ったのだが、肝心の滝や洞窟は見つからなかった。
「二ノ沢を間違えてるのかなぁ。三段の滝から数えて二番目、って解釈が普通だと思うけど」
「でも、あれだけ探して滝と呼べるものが一つもなかったんだから、やっぱり違うんだよ。違う沢を探してみる?」
「そうだね。じゃあ隣の沢から順に……」
 小さな沢の一つ一つには、地図にもちゃんとした名前など書かれていない。こうなったら、付近の沢をしらみ潰しに探してみるしかないだろうか。
 色々と考えて少しずつ捜索範囲を広げていくが、それでも宝が隠されているという洞窟は見つからない。四日目にもなると、ミュシカはほとんど諦めかけていた。
「もう諦めて、湖に泳ぎに行くってのはどう?」
 河原でお弁当を食べている時にミュシカは言った。しかしフィーニの方は、宝探しにかける情熱を失っていないようだ。
「なに言ってるの!」
 冗談じゃない、とばかりに大きな声を上げる。
「たった四日で諦めるなんて。王国時代の宝が、そんな簡単に見つかると思ってンの?」
 思っていない。思っていないからこそ、諦めているのだ。
「簡単に見つからないものなら、素人の女学生二人が新年休暇を丸ごと使ったって、見つかるとは思えないけど」
 至極もっともな指摘に、フィーニはぷぅっと膨れた。
「ミュシカは、つまらない?」
「え?」
「あたしに強引に連れてこられて、迷惑だった?」
 そう訊くフィーニの口調が、微妙に変化し始めていた。この前喧嘩した時、「あたしのことが、邪魔?」と訊いた時と同じ声音だ。
 大きな瞳が、真っ直ぐにミュシカを見つめている。普段ふざけてばかりいるだけに、たまにこうして真剣な表情をされると戸惑ってしまう。下手な受け答えはできない雰囲気だった。
「べ、別に、迷惑なんかじゃないよ。家にいたって退屈なだけだし、休暇中は寄宿舎も人が少ないしね」
「……ホントに?」
「そりゃあ、宝なんて簡単に見つかるとは思ってないけどさ。いい暇つぶしになるし、ここに来たおかげで、ジェイクトさんにもお会いできたんだし……楽しいよ」
「そう、よかった」
 フィーニがにこっと笑う。本当に、くるくると表情がよく変わる娘だ。
「ホントはねぇ……ミュシカと、一緒にいたかったんだ。休み中ずっと会えないんじゃ、寂しいもんね」
「え?」
 一瞬、心臓が大きく脈打った。
 ふざけているのかと思った。いつもの冗談なのかと。しかしそんな雰囲気ではない。同じ笑顔でも、ふざけて冗談を言っている時とは微妙に違う、どことなく儚げな笑みを浮かべていた。
 急に、鼓動が速くなるのを感じた。ミュシカは慌てて話題を変える。
「と、ところで、宝って、具体的にどんなものなんだろうね」
「さぁ……。でも、素敵なものに違いないよ。リンディードがなんて書いていたか、憶えてる?」
 ミュシカは首を左右に振った。フィーニは日記の内容がすっかり頭に入っているのか、すらすらと暗唱してみせる。
「狭い洞窟を手探りで進むこと一刻半、我、光の王国の至宝を発見せり。現在の大陸において、恐らくは唯一無二の存在なり。世間に知らしめることなど思いもよらず、我の胸の内に秘め置くことを誓いて洞窟を後にす――リンディードがこうまで書いているんだもの」
「きっと、ものすごく価値のある、素晴らしいものに違いないだろうね」
「え?」
 最後の台詞は、二人が発したものではなかった。男の声だ。慌てて、声がした方を振り返る。
「――っ!」
「あぁ――っ!」
 二人は同時に叫び声を上げた。
 話に夢中になっている間に近くへ来たのか、三人の男が立っている。セルタさんの店に泥棒に入った、あの男たちだった。
「この間の、フィーニを脱がした変態ロリコン野郎!」
「誰がロリコンだっ!」
 本気で怒ったのか、先頭の男が顔を真っ赤にして怒鳴り返してくる。
「それは冗談として、セルタさんの店で会ったこそ泥ども」
「こそ泥とは失礼な」
 男は気障な動作で、目にかかる前髪をさっと手で払った。こんな山の中なのに相変わらず、お店であった時と同じようにお洒落な麻のスーツに身を包んでいる。ミュシカは感心するより先に呆れてしまった。後ろの二人の男は、普通に登山者風の恰好をしている。
「僕はただ、王国時代の浪漫を追い求めているだけさ。そのためなら、君らの素性を調べてここまで追ってくる苦労もなんのその」
「浪漫……ねぇ」
 男の口から聞くと、歯の浮くような、聞いてて背中が痒くなる単語だ。
「……要するに、遺跡荒らしってわけね」
 大陸中に点在する古代王国時代の遺跡を盗掘し、金目のものを見つけては売りさばく連中だ。昨今は世界中で遺跡の保存が叫ばれており、こうした盗掘者の存在が問題になっている。
「遺跡荒らしだなんて」
 男は、気分を害した様子で言った。
「そんな、野暮ったい呼び方はやめてくれたまえ。もっとスマートに……。例えば、トレジャーハンターとか」
「とれじゃあはんたぁ?」
 フィーニとミュシカは声を揃えた。心の底から胡散臭そうな目で男を見る。気障なんだかただの馬鹿なんだか、よくわからない人物だった。
「ちなみに、本名はアイク・アル・セディ。以後お見知りおきを」
 泥棒のくせに名前を名乗るとは、やはり馬鹿だろうか。
「じゃあ、そこの自称トレジャーハンター」
「自称、は余計だ!」
 こうしたやりとりに、後ろの二人の男たちも呆れているような様子だ。彼らはまともな感性の持ち主ということだろう。
「まあとにかく、ここまで追ってくるのは骨が折れたよ。日記を渡してもらおうかな」
「やだ!」
 フィーニが即答する。
「あれは、あたしのだもん!」
「実際にはセルタさんのものでしょうが」
 ミュシカが小声で突っ込むが、フィーニに無視される。
「だけど、今から僕のものになる。女の子相手に、手荒な真似はしたくないんだけどな」
 先頭の男――アイクの手の中に、黒光りする金属の塊が現れた。拳銃だ。
 同時に、フィーニが跳ねるように立ち上がった。傍らに置いてあった登山用のステッキを掴み、アイクの手に叩きつける。弾き飛ばされた拳銃が、水飛沫を上げて川の中に落ちた。
「今のうちに逃げるよ」
 フィーニがミュシカの手を取る。二人は走り出した。
 大きな石がごろごろしている河原をよろけながらも走り抜け、沢づたいに崖の上の登山道へ戻る。ちらっと後ろを振り返ると、男たちは拳銃を拾って追いかけてこようとしているところだ。
「あんたも、拳銃なんか持ってる相手にいきなり危ないことするんじゃないの!」
 前を走るフィーニの背中に向かって叫ぶ。腕に自信があるのかもしれないが、傍目には危なっかしいことこの上ない。
「あ、心配してくれるんだ?」
「暴発して私に当たったら困る」
「ぶー」
 本来、無駄口を叩いている場合ではないのだが、そうでもしなければ緊迫感に耐えられない。二人とも運動神経にはそれなりに自信はあるが、どちらかといえば短距離型である。大の男三人相手に、持久力で勝てるかどうかとなると少々辛いものがある。
「村まで逃げ切れると思う?」
「無理だね」
 きっぱりと断言する。登山道を抜けて村に出るまでは何キロもある。とてもこのペースで走り切れるものではない。
「捕まったら、どうなると思う?」
「……」
 正直言って、考えたくない。
「少なくとも、もう日記を渡せば見逃してもらえるって雰囲気じゃないよねぇ」
 目撃者もいない山の中。三人の男と、年頃の女学生が一人、そして外見お子様が一人。当然、予想される展開はひとつ。
「それって、私が一番危ないじゃない!」
「わかんないよ。まだ、あいつのロリコン疑惑が晴れたわけじゃないし」
「ふざけてる場合じゃないって!」
「緊迫した空気を和らげようかと」
「時と場合を考えなさい!」
 傍から見たら漫才のような掛け合いを続けながら、それでも二人は必死に山道を走り下っていく。が、どうも形勢は不利な様子だ。
(まずいなぁ……このままじゃ)
 追いつかれるのは時間の問題だ。かといって、どこかに隠れてやり過ごすほどの時間的余裕もあるかどうかわからない。隠れる場所を探している途中で追いつかれたりしたら一巻の終わりだ。
 ミュシカが絶望的な気分に浸っていると。
「ミュシカ、ストップ!」
 いきなり、フィーニに脚を引っ掛けられた。まともに転んで鼻の頭をすりむいてしまう。
「な、なにすんのよっ! こんな時に!」
 追っ手がすぐ後ろまで迫っているというのに、ふざけている場合ではない。しかし冷静になって見ると、フィーニもふざけているわけではなさそうだ。
「あれ、あれ!」
 山道の脇の茂みを指差す。草むらの中に生えた数本の灌木に、見覚えのある樹があった。
「……あ」
 高さはミュシカの背丈ほどの、細い樹だった。枝がほとんどなくて、杖のように真っ直ぐに伸びている。その幹には無数の鋭い棘が生えていて、先端にわずかばかりの葉を付けている。
「あ、アプシの樹!」
 思わず叫んだ。
 古くから魔よけとして用いられてきたその樹には、魔力を集中、増幅する性質があり、魔術師の杖の素材として珍重されている。ミュシカが普段使っている杖も、アプシの樹でできていた。
「これがあれば……」
 魔法が使える。ただ闇雲に逃げる以外の選択肢が生まれることになる。
「でね、あそこ」
 フィーニが、いま走ってきた道を指差した。川が長い年月をかけて削った谷の斜面に刻まれた山道は、片側が草も生えない急な崖になっていて、赤い土が剥き出しになっている。
「……なるほどね」
 ミュシカは足元から角張った石をひとつ拾うと、アプシの樹の幹にびっしりと生えている棘を十センチほど削り落とした。その部分を片手でしっかりと握る。
「大地を支える者たちよ、我が呼びかけに応えよ……」
 意識を一点に集中し、呪文を詠唱する。急いでいるのでかなり略式ではあるが、精霊の反応はすこぶるよい。自然そのままの山の中であることと、そこに自生していたアプシの樹を杖として使っているためだろう。
 大地が、樹々が、風が、ミュシカの声に応える。
 ほどなく、追ってくる男たちの足音が聞こえてきた。ミュシカは慎重にタイミングを計る。
 追っ手が、ちょうど崖の一番急な部分にさしかかる直前。
「今よっ!」
 フィーニが叫ぶ。その声に合わせて、ミュシカは魔力を崖の一点に叩きつけた。
 小さな爆発でも起こしたように、いきなり崖が崩れ落ちる。赤茶けた土埃をもうもうと上げ、大きな岩がごろごろと谷底へ転がり落ち、細い山道を十メートル以上に渡って完全に埋めてしまう。
 土埃が立ちこめていて向こうは見えないが、男たちが崖崩れに巻き込まれなかったとしても、ここを通り抜けるのは容易ではないだろう。崩落した斜面はもろくなって、下手に通ろうとしたらまた崩れかねない。
 これで、かなり時間を稼ぐことができた。
「さ、今のうち」
「うん。ありがとう。ごめんね、棘を削ったりして」
 命の恩人、もとい恩木であるアプシに一言謝って、また二人は走り出した。今度は幾分ゆっくりとしたペースで。
 村へ帰り着くまで、追っ手の気配は感じられなかった。



「どうしたんだい? そんなに汗だくになって」
 息を切らして帰り着いた二人を迎えたのは、ジェイクトさんの呑気な声だった。中庭の椅子で読書をしていたらしい。
 ずっと走り詰めだった二人はぜぇはぁと肩で荒い息をしていて、すぐには答えられない。
「いや……なんと……言ったら……いいか……」
「とにかく……み……水……」
 二人はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
 ジェイクトさんは怪訝そうな顔をしながらも、飲み物を取りに母屋へ入っていく。そのついでに、二人の荷物も運んでいってくれた。
 すぐに、冷たい水で薄めた果汁を満たした水差しと、二つのグラスを持って戻ってくる。二人は一気にそれを飲み干して、ようやく一息つくことができた。
「で、何があったんだい? 熊にでも追いかけられたのかな」
 面白そうに聞いてくる。
「……そう。ロリコンの熊にね」
 疲れ切った顔に笑みを浮かべてフィーニが答える。
 ――と。
「誰がロリコンだっ!」
 背後から、聞き覚えのある声が響いてきた。おや、という表情でジェイクトさんが顔を上げる。二人は恐る恐る振り返った。
 そこにはあの男――アイクが、二人以上に汗だくになって立っていた。麻のスーツが汗と赤土でまだらに汚れ、しわくちゃになっている。
 後の二人は遅れているのか、それとも崖崩れに巻き込まれたのか、姿が見えない。
「……たく……手間……かけさせやがって……日記を……渡して……もらおうか」
 ぜいぜいと苦しそうに息をしながら、それでもアイクはポケットから拳銃を取り出した。銃口を向けられた二人が硬直する。ミュシカの杖もフィーニの剣も部屋の中、手元に武器はない。
「なにやら、物騒なことになってるね。いったい何事だい?」
 こんな状況下でも、ジェイクトさんの声はまったく普段通り、どことなく面白がっている調子だ。剛胆というよりは無神経というべきだろうか。いずれにしても、芸術家の頭の中などミュシカには伺い知ることはできない。
「こいつ、悪い奴なのよ!」
 アイクを指差してフィーニが言う。
「それは見ればわかるが」
 そりゃあわかるだろう。女の子に拳銃を突きつけているのだから。
「ついでにロリコンで」
「それも見ればわかる」
「わかるかっ!」
 アイクが叫ぶ。どうもこの話題には敏感に反応するようだ。もしかしたら後ろ暗いところがあるのかもしれない。
「えっと……」
 フィーニに任せておくとさっぱり話が進まないような気がしたので、ミュシカが後を継いで説明した。
「……この人は、王国時代の財宝を狙っている遺跡荒らしらしいです」
「トレジャーハンターと呼べと言ったろう!」
 細かいことにこだわる男だ。ついでに怒りっぽい。
「なるほど。で、日記って?」
「あの、リンディード・ドゥ・マーヤの直筆の日記で……、この山のどこかに隠された財宝の在処が記されて……」
「ふむ」
 ようやくジェイクトさんが納得顔になる。
「リンディードの日記? それを君たちが持っていて、彼が奪い取ろうとしている、と?」
「そういうことです」
「わかったら、さっさと日記を出しやがれ!」
「……そうだね」
「叔父さん!」
「ジェイクトさん」
 ジェイクトさんはあっさりとうなずいた。フィーニとミュシカは不平混じりの声を上げる。せっかくこれだけ苦労したのに、はいそうですかと日記を渡すのは癪だ。
「相手は銃を持っているんだ。ここは大人しく従った方がいい」
「なかなか聞き分けがいいな。年の功ってやつかい? このじゃじゃ馬どもとは大違いだ」
 じゃじゃ馬扱いされたフィーニがべーっと舌を出す。しかし年の功なんて言っているが、ジェイクトさんとアイクの年齢は、十歳も違わないだろう。
「じゃ、日記を取ってくるよ。待っていたまえ」
 ジェイクトさんが回れ右をする。
「ちょっと待て!」
 その背中にアイクは銃口を向けた。
「妙に素直だと思ったが、さては家の中に武器を隠しているな? 俺もついていく。ほら、お前らもだ」
 二人に銃口を向けて、立ち上がるように促す。二度も痛い目に遭っているせいか、フィーニとは微妙な距離を空けている。これではフィーニも手出しはできないようだ。渋々、アイクの言葉に従う。
「あんたが先頭を行きな。妙な真似したら、小娘どもの命はないぞ」
 先頭にジェイクトさん、その後ろにフィーニとミュシカ、アイクは一番後ろでミュシカの背中に銃口を突きつけている。
「わかってるよ。ご心配なく」
 ジェイクトさんは従順そうに歩き出した。しかし二、三歩進んだところで、ミュシカはおかしなことに気がついた。ゆっくりと表情を観察している余裕もないが、フィーニもなにか変だと感じている様子だ。
 日記は、フィーニの鞄の中に入っている。その鞄は、先刻ジェイクトさんが母屋の中へ運んでいった。しかし今、ジェイクトさんはアトリエへ向かっている。
 単なる勘違いか、それとも何か企んでいるのだろうか。
 ゆっくりと進んで、アトリエの奥の、あのがらくただらけの部屋へと向かう。
「見ての通り散らかっていてね。ええと、どこにしまったかな」
 妙な動きをしていないことを見せつけるためだろうか。ジェイクトさんはゆっくりとした動作で、がらくたの山をかき回している。
 一体、どういうつもりなのだろう。まさか、このがらくたの中に拳銃か何かを隠しているというわけではあるまい。工具の中に刃物くらいはありそうな気もするが、それで拳銃に立ち向かうつもりとも思えない。
 それとも、適当な本を渡して誤魔化すつもりだろうか。しかしジェイクトさんは日記の実物を見ていない。どんなものを渡せば偽物とばれないか、わからないだろう。
「それにしても汚ねぇ部屋だな」
 アイクが呆れたように室内を見回している。正直なところ、こればかりはミュシカも同意見だ。
「あまり、その辺のものに触れないようにね。落ちている金属片とかで怪我するかもしれない」
 ジェイクトさんはがらくたの山の発掘を続けながら、相変わらず呑気な声で言う。こんな状況なのにまるで緊張している様子がないのは、ある意味頼もしいかもしれない。
「なんだ、このネズミ獲りの化け物は?」
 やはり、この部屋で一番の大作は目を引くらしい。アイクが怪訝そうに訊く。『竜捕獲機』に対しては、どうやらフィーニたちと同じ印象を受けたようだ。
「竜捕獲機の二十分の一模型さ」
「ゲージツ家って奴は、なに考えてるのかわかんねーな。この部屋なら、ネズミ獲りの方がよっぽど必要だろうによ」
「確かにね」
 ジェイクトさんも苦笑する。
「そいつはでかすぎて、ネズミは獲れないからなぁ。大は小を兼ねるってのは場合によりけりだね。あ、こんなとこに」
「あったのか?」
 アイクの目が輝く。
「いや。確かに、ネズミ獲りが必要なようだ」
 振り返ったジェイクトさんは、その手に持っていたものを掲げて見せた。灰色の、古い汚れたモップのようなそれは、手の中でじたばたと暴れている。
 ネズミ、しかもやたらと大きなネズミだった。
「きゃあっ!」
 鼻先にネズミを突きつけられた女の子に相応しい反応として、ミュシカは悲鳴を上げて跳び上がった。一歩後ろに飛び退いて、背中からアイクに体当たりするような形になってしまう。
 バランスを崩してよろけたアイクは、反射的に近くにあった金属パイプに掴まろうと手を伸ばした。
 そして――
 バキィィンッ!
「うわぁぁっっ?」
 金属がぶつかり合う大きな音と、男の悲鳴が重なる。
 アイクが、竜捕獲機の金属パイプに挟み込まれていた。強力なスプリングに押さえつけられているその姿は、まさにネズミ獲りにかかったネズミそのものだった。手から拳銃が飛び出して床に転がる。
 じたばたと手足を振り回して暴れているが、頑丈な竜捕獲機はびくともしない。
「くそっ、なんだこりゃっ?」
「だから言ったろう。下手に触ると怪我するって」
「てめえっ、謀りやがったな!」
「偶然だよ、偶然」
 ジェイクトさんは笑って応えると、掴まえていたネズミを床に放してやる。
「ありがとう、サイファー。君のおかげで助かったよ」
 ネズミは一瞬で物陰に走り去っていった。
「まさか……ペット、ですか?」
「まさか。勝手に住みついてるんだけど、なんだか情が移ってね」
「で、名前まで付けてるんですか? サイファーって、昔のアルトゥル王国の、有名な騎士の名ですよね」
 高名な騎士の名をよりによってネズミに付けるなんて。本人が聞いたら化けて出てくるかもしれない。やっぱりジェイクトさんって変わり者だ。
「で、叔父さん。これ、どうするの?」
 落ちた拳銃を拾い上げたフィーニが、まだもがいているアイクを指差す。
「このまま警察に引き渡せばいいんじゃないかな?」
 ジェイクトさんはそう答えた後で、腕を組んでなにやら考え込んだ。
「……これ、警察で買ってくれないかな。凶悪犯の拘束用に」
 もちろん冗談だろうとミュシカは思ったのだが、ジェイクトさんの目は真剣だった。



 三人はアトリエを後にした。
 警察に通報するにしてもまずは一息ついてから……と、背後から聞こえてくるアイクの罵声はとりあえず無視だ。
 ところが――
 中庭に出たところで、また銃口を突きつけられた。
 アイクと一緒にいた筈の二人の男だ。アイク以上に全身泥まみれになっている。
「一人じゃなかったのかい?」
 両手を上げながら、ジェイクトさんがちらりとフィーニを見る。
「言わなかったっけ?」
「うん、言ってない」
 ミュシカもうなずいた。なにしろ詳しい事情を説明する間もなしにいろいろあったから。
「叔父さん、また何かうまい手で切り抜けられない?」
「残念ながら、僕は今のところタネ切れだね」
 その割には呑気そうな口調で肩をすくめる。のんびりしたその態度が癇に障ったのか、男たちが声を荒げた。
「さっさとブツを出しやがれ!」
「さもないと土手っ腹に風穴が開くぜ」
「使い古された台詞だなぁ。いまいち、新鮮味がないというかなんというか」
「うるせぇ!」
 本当に、物事に動じない人だ。まる四日、一緒に暮らしているが、これまで一度も慌てふためいたり怒ったりしているところを見たことがない。
「君らのお仲間は中で捕まってるが、彼を連れておとなしく帰る気は?」
「ここまで来て手ぶらで帰れるか!」
「それがお互いのためだと思うんだが」
 そう言うと、ジェイクトさんは何故かちらりと腕時計を見た。
「勝手なことぬかすな!」
「不幸な結果になっても責任は持てないよ」
「てめぇ、やる気か?」
「こいつが目に入らないのか?」
 男たちは、これ見よがしに拳銃を突きつける。
「僕はやらないよ。だけど、まあ、なんて言うかな……」
 ここでミュシカはふと気づいた。ジェイクトさんは、時間稼ぎをしているのではないだろうか。
 でも、なんのために?
 ただでさえ人通りの少ない田舎の村。その中でももっとも山側の、他の民家からぽつんと一軒だけ離れたジェイクトさんの家。十分かそこら時間を稼いだところで、偶然誰かが近くを通りかかる、なんていう期待はあまり高くない。
 だけどなんの根拠もなしに、あんなに落ち着いていられるものだろうか。
「僕はやらないけど……やる気満々の人が着いてしまったようだ」
「なんだと?」
「え」「あ」
 男の疑問符付きの台詞と、フィーニとミュシカの驚きの声が重なった。そして。
「こんにちはー……って、お取り込み中でしたか?」
 それは、若い女性の声だった。しかも、聞き覚えのある声だ。
 二人の男の背後に、大きな旅行鞄を持った女性が立っている。昔の女性の騎士のような、深いスリットの入ったスカートをはいていて、そのスリットから覗く脚はビロードのように滑らかな褐色の肌をしていた。視線を上へ移すと、亜麻色の髪とはしばみの瞳、そして溜め息が出るほど美しい笑顔が目に入った。
「セ、セルタさんっ?」
「どうして、ここに……」
 紛れもない、フィーニがアルバイトしている骨董品屋の店長さんだ。
 男たちも振り返る。
「珍しいですね。この家に、こんなにお客様がいるなんて」
「うち二人は招かれざる客だけどね」
「どの二人が……と訊く必要はなさそうですね。可愛い女の子のお客さんなら、ジェイクはいつでも大歓迎の筈ですもの」
 突然現れたセルタさんは、そう言ってくすっと笑った。重そうな鞄を足元に置く。
 それと同時に。
 セルタさんの姿が一瞬消えた……ように見えた。
 短い悲鳴と、呻き声。
 瞬きひとつの間に、男たちの数メートル後ろにいたはずのセルタさんが、ミュシカたちの目の前にいた。一瞬で五メートルほどの距離を移動したことになる。
 拳銃が地面に落ちた。男たちが腕を押さえて、その場にうずくまる。
 ゆっくりと振り返るセルタさんの手に、いつの間に抜いたものか、短剣が握られていた。
「こうなるとわかっていたら、長剣を持ってくるべきでしたね。もっと恰好いいところを見せられましたのに」
 優雅な動作で刃に付いた血糊を拭い、腰の後ろに結びつけていた鞘に短剣を収めた。
「騎士……剣術?」
 フィーニが、信じられないといった口調でつぶやく。
「え?」
「トリニア流の、短剣術だ……」
 ということは、あの一瞬の間に短剣を抜き、男たちの拳銃を持った手を斬りつけたというのだろうか。ミュシカの目には見えなかった。フィーニの剣術の稽古を見た時にも人間離れした速い動きだと思ったものだが、それ以上だ。
 普段はどことなくおっとりとした印象を受けるセルタさんなのに、信じられない。それに第一、どうしてセルタさんがここにいるのだろう。
「相変わらず見事なものだね、セルタ」
「え?」
 ジェイクトさんは相変わらず呑気に拍手なんかしている。フィーニとミュシカはオルゴール人形のように揃った動きで、交互にジェイクトさんとセルタさんの顔を見た。
「お知り合い……なんですか?」
「話しませんでしたっけ? 新年休暇には、遠くに住んでいる恋人のところへ旅行する、と」
「それは聞いたけどぉ……、って、え、え……」
 休み前にセルタさんが言っていたこと。そして今、セルタさんがここにいるという事実。
 それが意味するところはただひとつ。
「え……えぇぇぇぇっっっ!」
 フィーニとミュシカは揃って大声を上げた。



「まさか、叔父さんとセルタさんが恋人だったなんて……」
「偶然ってすごいわ」
 突然判明した事実。一晩過ぎても、まだ驚きは薄れない。
「でも、セルタさんは最初から知っていたんでしょう?」
 リースリングなんて、どこにでもある姓ではない。ましてやソーウシベツでは。ジェイクトさんはリースリング姓ではないが、まさかリースリングの一族であることを知らなかった筈はあるまい
 最初にフィーニの名前を聞いた時から、自分の恋人の親戚であることは気づいていたに違いないのだ。
「どうして黙っていたんですか?」
「私の口から説明するよりも、こうして何かの拍子に突然わかった方がびっくりするでしょう? その方が面白いじゃない」
「まあ、ねぇ……」
「面白いどころの騒ぎじゃなかったけど」
「それにしても、セルタさんも騎士剣術の使い手なんて……」
 昨日は本当に、いろいろあって驚くことばかりだった。あの男たちも警察に引き渡して、その後でジェイクトさんとセルタさんから詳しい事情を説明してもらって。
「ジェイクトさん、ちょうどセルタさんが着く時刻だって知ってたんですね?」
 だから時計を気にしたり、無駄話で時間稼ぎをしたりしていたのだ。
「まあね。セルタがうちに来る時はいつも同じ汽車だから、着く時刻もだいたい同じ」
「叔父さんも、前もって教えてくれればよかったのに」
「だから、いきなり会った方が面白いだろう?」
「それにしたって……」
 フィーニとミュシカにしてみれば、いまいち面白くない。これでは、大人二人にいいようにからかわれたみたいではないか。
「君たちだって内緒にしていたくせに。まさか、宝探しに来てたとは思わなかったよ」
「あぅ……」
 それを言われると立場が弱い。
「毎日山歩きだなんて、今どきの女学生にしては渋い趣味と思っていたが」
「ジェイクが日記を送るって言ってたのに、いつまでたっても届かないからおかしいと思っていたのよね」
「うぅ……」
 昨夜、例の日記についても二人が知らなかった事実を知らされた。
 あれは元々、ジェイクトさんがこの村の旧家の倉から見つけたもので、しばらく手元に置いていたものを、他の荷物のついでにセルタさんのところへ送ったのだそうだ。
「僕に一言いってくれれば、何日も無駄に山の中を彷徨わなくても済んだのに」
「だって、こーゆーことは秘密にしなきゃ面白くないもん」
「でも君らだけじゃ、休暇を全部費やしても見つけられなかっただろうな」
 四人は今、並んで山道を歩いている。当然、リンディードが日記に記した〈宝〉のところへと向かっているのだ。
 ところが先頭を歩いていたジェイクトさんは、ミュシカたちが目印にしていた〈三段の滝〉まで来ても、河原へ降りずにそのまま通り過ぎようとする。
「え……?」
「やっぱり間違えていたか。日記に書かれている〈三段の滝〉はここじゃないんだ。よく見てごらん。段差は低いけれど、一番下にもう一段あるだろう? ここは〈四段の滝〉なんだよ」
「え、嘘?」
 フィーニとミュシカはもう一度滝をよく観察した。それぞれ二・五〜四メートルほどの落差の、ちゃんとした滝が三段。しかし見ようによっては、その下に三十センチほどの小さな段差が見えなくもない。
「……詐欺だよ、それ」
「いや、リンディードの時代には、四段目も二メートル近い落差があったらしい。川の地形は、百年もあればずいぶん変わってしまうから」
「じゃあ、〈三段の滝〉は……?」
「本物は、ここから二キロくらい上流なんだけどね」
「その辺りまでなら、私たちも遡ってみましたけど?」
 どれが本物の〈二ノ沢〉か悩んでいて、うろうろと歩き回っていた時に。しかし、そんな滝は見当たらなかった。
「実は百五十年ほど前の大水で谷が崩れて、滝は埋まってしまったのさ」
「えーっ」
 それは知らなかった。それでは、本物の〈三段の滝〉も〈二ノ沢〉も見つけられる筈がない。二人はこれまで、まるっきり無駄骨を折っていたことになる。
「もっとも、滝が残っていたとしてもあなたたちが〈二ノ沢〉を見つけられたかどうかは疑問ですけどね」
「どうして?」
「季節の問題さ。二ノ沢は、雨期の終わりにだけ現れる涸れ沢だ。今の季節は乾ききって、落ち葉に埋もれている。日記の日付を見てごらん」
「……あぅ」
 慌てて日記を開いたフィーニが呻き声を上げる。リンディードが宝を見つけた日と今とでは、約半年季節がずれていた。彼がここへ来たのは、ちょうど雨期の頃なのだ。
「さらに言うと……」
「まだあるの?」
 フィーニがうんざりと言った。これでは、宝など見つかるわけがない。
「百五十年前の大水の時に、〈二ノ沢〉の滝も崩れてしまった。リンディードが記した洞窟の入り口は、今はもう存在しないというわけだ」
「えぇーっ、じゃあ……」
 もう、宝は見つけられないのだろうか。せっかくここまで来たというのに。
「そこで僕とセルタは、別な入口を見つけ出した。三ヶ月ほど前のことさ」
「えぇっ!」
「じゃ、じゃあ、た、た、宝は見つかったんですかっ?」
 二人は興奮して叫んだ。焦っているので言葉がうまく出てこない。
「もちろん。今もそこにあるよ」
「うわっ、うわぁ……。じゃあじゃあ、叔父さんって億万長者?」
 リンシードが「この世に二つとない」と書き残した王国時代の宝。一体、どれほどの価値になるのだろう。
 しかし二人の興奮をよそに、ジェイクトさんもセルタさんものんびりとしている。
「その気があれば億万長者にもなれるかもしれないが……君たち、王国時代の宝って、なんだと思ってたんだ?」
「そりゃあ、山ほどの金貨とか宝石とか」
 とフィーニ。
 ジェイクトさんは首を振った。
「夢がないねぇ」
「……特別な魔道書とか、竜騎士の魔剣とか?」
「だったら、リンディードが持ち出していただろうな」
「じゃあ?」
「それは見てのお楽しみ、だ」
 ジェイクトさんは意地の悪い笑みを浮かべて、それ以上なにも話してはくれなかった。



 洞窟の中は真っ暗で、ずいぶんと狭いようだった。
 奥から、ひんやりと冷たい風が静かに吹き出してくる。
 ミュシカがアプシの杖を構えるより早く、セルタさんが呪文を唱えて魔法の明かりを灯した。セルタさんは剣術ばかりでなく、魔法もたしなむらしい。本当に多芸な人だ。
 ところどころ地下水が滴っている狭い洞窟の中を、四人は一列になって進んでいく。先頭はセルタさん、その後ろにミュシカとフィーニ、そして最後尾がジェイクトさん。
 入口付近の狭さの割には、ずいぶんと奥が深いようだ。歩いても歩いても行き止まりにならない。どこまでも続いているように思えてくる。
 奥へ進むと、空気が痛いくらいに冷たくなってきた。吐く息が真っ白だ。洞窟がいくらか広くなったのをいいことに、フィーニが腕にしがみついてくる。
 進むに従って気温は下がり、しまいには滴る地下水が凍りついて、大きな氷柱になっていた。フィーニとミュシカは暖を採るために、抱き合うようにして歩いていく。
 セルタさんやジェイクトさんが、外の気温の割にはずいぶんと厚着をしていた理由がようやく理解できた。それならば先に教えておいてくれればいいものを。
「さあ、着きましたよ」
 どのくらい歩いただろう。寒さばかり気にしていて、いつの間にか時間の感覚がなくなっていた。
 セルタさんの声と同時に、急に洞窟が広くなる。さらに数歩進むと、もう左右の壁も天井も見えなくなった。
 これまでの狭い通路が嘘のような、大きな地下の洞窟だった。小さな魔法の明かりではなにも見えず、周囲は闇に包まれている。
「はい、深呼吸して。心の準備はいい?」
 二人は大きく深呼吸してから、セルタさんの言葉にうなずいた。それでも心臓はどきどきしている。一体、何があるというのだろう。
 急に、周囲が明るくなった。セルタさんが明かりを強くしたのだ。
 巨大な洞窟の内部が照らし出された。その広さは学校の体育館ほどもある。
 そして、その中にあるものを二人は目の当たりにした。
「――――っ!」
 悲鳴すら、上げられなかった。フィーニもミュシカも、言葉を失って息を呑んだ。
 ぎゅうっと、痛いくらいに強くフィーニが抱きついてくる。ミュシカの手にも力が込められる。
 洞窟の中には、二人が想像していたようなものは何もなかった。
 山のような財宝も、王国時代の魔法の品々も。
 目の前には予想よりも遙かに大きなものが横たわっていた。見上げるほどの、小山のような大きさだ。
「……まさか……そんな……」
「う、そ……」
 そこにあるのは、実は単なる大きな岩ではないか。見間違いなのではないか。
 無理やり、そう思い込もうとした。
 しかし何度瞬きを繰り返しても、その光景は変わらない。
 それは、巨大な生き物だった。
 眠っているかのように、丸まってうずくまっている。
 これまでに見たことのある、どんな動物よりも大きかった。
 象なんか問題にならない。鯨ですらこれには及ばない。
「…………竜」
 フィーニが、震える声でつぶやいた。
 全身が、金属めいた光沢のあるコバルトブルーの美しい鱗に覆われている。光を反射して、無数の星のようにきらきらと瞬いていた。
 長い首。
 頭部に生えた鋭い角。
 口の端から覗く、大きな短剣のような牙。
 背中でたたまれている翼。
 まさに、昔話に出てくる竜そのままの姿だった。
 身体を丸めてはいるが、伸ばせば頭から尻尾の先まで、優に三十メートルは超えるだろう。
 何百年も前に滅びた筈の、偉大な存在。
 この星で、最大最強の生物。
 トリニア王国の、青竜。
「すごい……すごい!」
「こんなところで氷漬けに……? まるで、生きているみたい」
 本当にそれは、死体とは思えない瑞々しさを保っていた。今にも目を覚まして動き出しそうに見える。
 そんな筈はないのに……とミュシカは苦笑したが、ジェイクトさんがとんでもないことを口にした。
「生きてるよ」
「え、ええぇっ?」
「こいつは、生きているんだ。仮死状態というか……一種の冬眠状態かな。古い魔法の力も働いているらしい」
「だって……、何百年も?」
 最後に竜が確認されたのは、今から五百年以上も前のナコ・ウェルの時代。マイカラス王国とトカイ・ラーナ教会の、存亡を賭けた最後の戦争の時だ。
「竜の寿命は人間には計り知れないほど長いという。この何百年の眠りも、彼にとっては「ちょっと寝過ごした」程度のことなのかもしれないな」
「そんな……」
「これが、リンディードが見つけた〈宝〉。素晴らしいでしょう?」
「……、うん」
 ミュシカはうなずいた。そしてフィーニも。
 これは、この星に生まれた最強にして至高の存在。
 何千年という歴史を記憶している者。様々な伝説に包まれた王国時代の生き証人。
 そして、何よりも美しい生物。
 その、最後の一頭だった。
 フィーニもミュシカも、無言で竜を見上げていた。何も言葉が出てこない。胸がいっぱいだ。
 じっと見つめていると、魂が吸い込まれるように感じる。怖いくらいに美しく、偉大で、あまりにも人間を超越した存在だった。
 ミュシカにしがみついているフィーニの腕が、微かに震えている。ミュシカも同じように震えていた。
 二人はいつまでもその場に立ちつくし、竜を見つめていた。
 気がつくと、涙が頬を濡らしていた。



<<前章に戻る
次章に進む>>
目次に戻る

(C)Copyright 2002 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.