二 異世界の少女


 きっかり三十秒間、彩樹はぽかんと口を開けたまま窓の外を見ていた。
 それからふと気付いて横を見ると、早苗と一姫も同じような表情をしていたので少し安心する。
 眼前の光景が、彼女だけの幻覚ではないとわかったから。
 みんな同じ思いだったのだろうか、しばらく黙って顔を見合わせていた三人は、また窓の外に視線を移す。
「お城…ですわね」
 独り言のように一姫がつぶやく。
 そう、確かに城だった。
 古い時代のヨーロッパの城を思わせる様式の、しかしそれよりも遙かに大きな石造りの建造物群。
 一行は、その中でも一番高い塔の中にいるらしい。
 城門の前には、城下町が広がっているのが見える。
 一姫は、昨年の夏に家族で行ったスペイン・アンダルシア地方の街並みに少し似ているように感じた。
 反対側の窓に目を移すと城の背後には建物はなく、見渡す限りの深い森が広がっている。
「どう考えても、札幌市内の雑居ビルの二階から見た風景じゃないよね?」
 そう言うのは早苗。
 ほんの数分前まで彼女達は、豊平区にある五階建ての雑居ビルの二階、株式会社MPSの会議室にいたはずなのだ。
 会議室には中近東を思わせる奇妙な衣装を着た男女がいて、知内から男性がシサーク、女性がフィフィールという名だと紹介された。
 そして、女性の方が外国語らしい奇妙な言葉をつぶやいて…。
 次の瞬間、彼女たちはここにいたのだ。
「これはいったい何なんだよ、おっさん!」
 やや遅れて我に返った彩樹が、知内の襟首につかみかかる。
「誰がおっさんだ! 三十歳前の男性をおっさんと呼んではいけないと、学校で習わなかったのか?」
「んなもん習うかっ! さっさとこの状況を説明しろよっ!」
 手に力を込める彩樹。
 早苗がその手を押さえる。
「彩ちゃん、そんなに力を入れてたら説明できないよ?」
「あ、あやちゃん…?」
 彩樹はこれまで、親にもそんな呼ばれ方をされたことはない。
 どうやら早苗はずいぶん馴れ馴れしい性格のようだ。
 慣れない呼称に驚いて手を離すと、知内はそのままずるずると床に崩れ落ちた。
「やべ、絞めすぎたか」
 知内の襟をつかんだ手が、無意識のうちに柔道でいう『十字絞め』の形になって、絞め落としてしまったらしい。
「彩ちゃんて空手やってるって聞いたけど、柔道もできるんだ?」
「ウチの流派は組技アリなんだよ」
 彩樹はとりあえず失神している知内を放っておいて、これまで黙っていた二人、シサークとフィフィールの方を向き、
「…で?」
 ちょっと気弱な人間ならたちまち逃げ出してしまいそうな目つきで二人を睨む。
 二人は一瞬目線を交わし、そしてフィフィールが口を開いた。
「ここは、あなた方が暮らしていたのとはまったく別の世界です。私の魔法でここへ移動してきたのです」
 その言葉の意味を理解するのに、最短でも一姫の三十二秒、最長で彩樹の二分四十五秒が必要だった。
 三人はお互い顔を見合わせ、次に無言で足元でのびている知内を見、窓の外の異質な風景を見下ろし、そうしてフィフィールに視線を戻す。
 それぞれ、何か言おうと口を開くのだが、どうにも言葉が出てこない。
 文字通り唖然としている三人に向かって、それまで一言も口をきかなかったシサークが重々しい口調で言った。
「あなた方に、この国…マウンマン王国の王女、アリアーナ様を護っていただきたいのです」
 少し免疫ができたのか、今度の台詞は彩樹でも三十秒ほどで理解することができた。
 ただし、理解するのと納得するのとはまた別の話である。



「魔法でやってきた異世界? 王女様? ふざけるのもいい加減にしろっ!」
 彩樹はそんなことを叫びながら、一人で暴れている。
 幸いここは頑強な石造りの塔の中の部屋だし、床に奇妙な魔法陣が描いてある他はなんの家具も置かれていないから、いくら暴れたところで壊れるものもない。
 それにしても、石の壁を力いっぱい殴っているはずなのに痛そうな素振りも見せないのは大したものだ。
 実戦空手、北原極闘流の中学チャンピオンの肩書きは伊達ではない。
 彩樹が一人で先に暴れ出してしまったので、早苗と一姫はなんとなくパニックに陥るタイミングを逃してしまい、(少なくとも表面上は)落ち着いた様子で顔を見合わせている。
「なんと言ったらいいか…なんだか、面白そうだね?」
「ヒロイックファンタジーの世界ですわね。わたくし、こういうシチュエーションは大好きですの」
 そんなことを言って、にこと微笑む。
「お前ら何でそう落ち着いてんのっ? こんな、出来の悪い小説みたいな話をあっさり信じるのか?」
 彩樹は怒りの矛先を呑気な二人に向ける。
「ですが、今こうして見ているものは現実ですわ」
「彩ちゃん、若いのに頭堅いよ。現実はあるがまま受け入れないと」
「簡単に納得するなっ! お前らこそ、何の疑いもなくこんな非常識な話を受け入れられるのか?」
「何の疑いもなくってわけじゃないケドね…」
 ねぇ? と早苗はフィフィールたちに問いかける。
「王女様を護るって…ボディガードでしょ。普通そういうのって屈強な男の人がやるもんじゃないの? どうしてウチらみたいな子供に?」
 その問いに対するシサークの答えは簡単だった。
 そういうしきたりだから、と。
 ――王家の娘は、男性を側に置いてはならない。
 ――王女の身近に仕えるのは、同じ年頃の乙女でなければならない。
「無論、我が国の精鋭たちが姫をお護りしてはおりますが、そういったわけで四六時中姫のお側に、というわけにはいかないのです」
 シサークは沈痛な表情で言った。
「同じ年頃の乙女…って…」
「つまり、生娘でなくてはいけませんの?」
「いっちゃんって古くさい言葉知ってるね?」
 三人は微かに頬を赤らめ、お互いの顔を見た。
 そうか、それでか…。
 彩樹はやっと理解できた。
 どうして知内が初対面でいきなりあんなことを訊いたのか。
 それにしても…
「そんなうざったいしきたり作るなっ!」
 彩樹が叫ぶ。
 先刻もいったが、理解することと納得することは別問題なのだ。
「なにしろ昔からそう決まっていること、いまとなってはその理由もわかりません」
「それでは仕方ありませんわね」
「だ〜か〜ら〜、あっさり納得するなって!」
「彩ちゃんてば先刻から怒ってばっかり」
「好きで怒ってるんじゃないっ! だいたいどうしてわざわざ大仰な魔法なんか使って、よその世界からボディーガードを雇わなければならないんだ! てめ〜らの国内で調達しろよ!」
 まあ、それは言えてるかも…と早苗も頷く。
「理由は二つある」
 シサークが指を二本立てて答えた。
「ひとつは、異世界からやってきた者は一般に、この世界で非常に優れた能力を発揮すること」
 また、三人は顔を見合わせる。
 自分達と、この世界の住人であるシサークやフィフィールと、どこか違うのだろうか?
 見る限り、身体的な能力に大きな差はないように感じるが。
「何故ですの?」
 今度は一姫が訊ねる。
 それに答えたのはフィフィールだ。
「それは魔法理論のもっとも高度な分野の問題になりますが…。例えば、より高いところにある物体は、地上に置かれた物体よりも大きな位置エネルギーを持つように、次元的な距離においても同じことが言えるのです。
 あなた方は、この世界の存在ではないというだけで、大きなエネルギーを秘めていることになるのです」
 わかったようなわかっていないような曖昧な表情で三人はうなずく。
「ふたつ目の理由というのは?」
「残念ながら、こちら側で本当に信頼できる人間がそう多くはないということです。絶対に敵と通じていないと言いきれる者でなくてはなりませんから」
「…敵?」
 彩樹は訝しげに眉をひそめた。


 ここ、マウンマン王国には二人の王子と一人の王女がいる。
 第一王子、サルカンド。
 第二王子、シルラート。
 そしてただ一人の娘、末の妹がアリアーナだ。
 このうち正妃の子はサルカンド一人で、シルラートとアリアーナはそれぞれ異なる側室の子だ。
 普通に考えればサルカンドが王位を継ぐことで問題はないはずだったが、先月急な病に倒れた先王は、なんと末子のアリアーナを跡継ぎとする遺言を遺していたのだ。
 当然サルカンドもその側近たちも、そんなことは受け入れられない。
 シルラート派の者たちにしても、跡継ぎがサルカンドなら仕方ないと諦めたかもしれないが、末子でしかも女であるアリアーナでは納得できない。
 もともと、人物としてはサルカンドよりシルラートの方が上という意見も多いのだ。
 しかし、王の正式な遺言ということであれば、誰も表だって異を唱えるわけにもいかない。
 ではどうするか。
 裏で、いろいろと良からぬことを企むしかない。
 具体的にいうと、邪魔者は消してしまえばいい、と。


「このような状況では、姫様のお命は風前の灯火。正式に即位するまで、護衛の者は何人いても多すぎるということはないのです」
 シサークはぐっと拳を握りしめて力説した。
 目にはうっすらと涙すら浮かべている。
「はぁ…」
 彩樹が曖昧に返事をする。
 状況はだいたいわかった、わかったが…
「そ〜ゆ〜ことだったんだ」
 早苗が大きくうなずく。
「でも…彩ちゃんを選ぶのはわかるよ。実戦空手の中学チャンピオン、多分日本で一番強い女子中学生だもんね。でも、どうしてウチら…?」
「それは僕から説明しよう」
 いつの間に復活したのか、知内が立ち上がってスーツの埃をぱんぱんとはらいながら言う。
「鹿追くんは銃マニアで、サバイバルゲームが好きで、南区の女ゴルゴ13とまで呼ばれてるそうじゃないか」
「この世界に銃があるの?」
 早苗は目を輝かせて訊いた。
 彩樹と一姫は、驚いたように目を見開く。
 ここはてっきり『剣と魔法の世界』だと思っていたのだ。
「ありますよ。あなた方の世界とは違って魔法技術を応用した物ですが、扱いはそう変わらないと思います」
 それなら納得はいく。
 アメリカならいざ知らず、日本で銃を扱える女子中学生はそういないだろう。
 だが、早苗なら適任だった。
「じゃあいっちゃんは…? あんまり闘いとかには向いてないように思うんだけど?」
 彩樹と早苗の視線が一姫に集まる。
 三人の中では一人だけ歳下の中学二年生で(しかも早生まれだから、六月生まれの彩樹とは二歳近く違う)、かつ身長も体重も平均をかなり下回る。
 どこかおっとりとした雰囲気を漂わせていて、悪く言えば少しばかり『鈍い』ようにも見えるのだ。
「僕が依頼されたのは三人。一人は格闘技や剣術など、白兵戦技に秀でた者。一人は銃器の扱いに長けた者。そしてもう一人は…」
 知内はいたずらな笑いを浮かべて片目をつぶる。
「魔法の才能がある者、だ」
「魔法?」
 彩樹と早苗の声がハモる。
「そりゃ、この世界には魔法使いが実在するんだろうけど、ウチらの世界でどうやって…」
 早苗は一姫を振り返った。
「いっちゃん、実は超能力者とか? それとも、黒魔術とか、ブードゥとかやってる?」
 ふるふる…
 一姫は首を左右に振る。
「フィフィールさんの話では、頭が良くて、魔法というものを素直に受け入れられて、想像力の豊かな人が向いているそうだ。
 鵡川くんは学年一の秀才で、ファンタジー小説が好きで、自身も作家志望だそうだね?」
「ど…どうしてそんなことまで知ってるんですの?」
「僕に調べられないことなんかないさ。君らの学校の、文芸部の会誌を入手した」
「そこまでするか?」
「ウチらのこともどうやって調べたのやら…ほとんどストーカーだね」
「まあ、やっぱりそうでしたの」
 得意そうに胸を張って答えた知内だったが、彼を見る少女たちの目は冷たかった。



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