五 宵の街の少女


 山陰に沈みかけている西陽が、大きな窓から射し込んでいる株式会社MPSのオフィス。
 知内は、特に何をするというわけでもなく、ただうろうろと事務所の中を歩き回っていた。
 秘書の雨竜玲子(うりゅう れいこ)が、コーヒーをトレイに載せて運んでくる。
「部長、もっと落ち着いてくださいな。そこでうろうろしていても、なんの解決にもなりませんよ」
「ん? ああ…」
 心ここにあらずといった様子でコーヒーカップを手に取った知内は、相変わらず歩き回りながらカップを口に運ぶ。
 と、その時、
「ただいま戻りました〜」
「あ〜、なんかすごく久しぶりって感じ」
「へぇ、ホントにこっちじゃ半日もたってないんだ。向こうにはまる一日以上いたってのに」
 会議室に通じているドアが開いて、三人の少女たちが入ってくる。
 女という字を三つ書いて『姦しい』か…、昔の人はうまいことを思い付くものだな。
 知内はほっと胸をなで下ろしながらも、そんなことを考える。
「とりあえず初日は無事だったみたいだな?」
「いまさらなに言ってンだよ。人をだまして売り飛ばした張本人が」
「売り飛ばすって…人聞きの悪いことを言うな!」
「でも、知らない人が見たらそうですよね。何も知らない純真な女子中学生をたぶらかして、外国で働かせて大儲けしているようなものですもの」
「あのな…」
 知内は反論しようとしたが、しかし、一姫の言葉もあながち嘘とは言い切れない。
 三人の少女たちに対する報酬が破格であるのと同時に、MPSが受け取る手数料も、この件だけで昨年の半期分の売り上げに相当するのだから。
「それで、向こうではうまくやってるの?」
 言葉を失った知内に代わって、玲子が言葉を挟む。
「え? ん〜、ま〜ね」
 早苗と一姫は顔を見合わせると、お互い曖昧な笑みを浮かべる。
「明日の朝、またフィフィールさんが迎えに来るって」
「でもその間、向こうでは三十分もたっていないんですよね? 移動の時の時差の計算がややこしくて混乱しますわ」
「そういや、こっちももう夜か。そう思うと腹が減ったな」
「久しぶりにあっさりした和食がいいね。向こうの食事も悪くないけど、ちょっと油っこくって…オリーブオイルなのかな?」
「今日はなんとなく、寿司って気分だな」
「それはいいですわね」
 三人はうなずくと、そろって知内を見た。
 その無言の圧力に、思わず一〜二歩後ずさる知内。
「…わかったよ。玲子くん、彼女たちに出前を取ってやって。もちろん経費で」
「当然、特上だろうな?」
 彩樹の言葉は、確認ではなくて脅迫だった。
 知内は、彩樹の調査書に書いてあった『食い意地が張っている』の一文を思い出す。
「玲子くん、特上握りを…ついでに僕たちの分も」
 そう言いながら、心の中で大きな溜息をついていた。



「あ〜、すっかり暗くなっちゃったね〜」
 三人が西野台駅で地下鉄を降りて外に出ると、もうすっかり暗くなっていた。
 今夜はよく晴れていて、天の川がくっきりと見える。
「じゃ、また明日ね」
 一人だけ方角が違う早苗が、手を振って歩いていく。
「それでは、また明日」
「じゃ、な」
 一姫と彩樹も小さく手を振ると、並んで歩き出した。
「そういえば、一姫ン家ってどの辺だ?」
「二丁目の十八番地ですわ」
「じゃあ意外と近くなんだ、ウチは一丁目だから。家まで送ってやるよ」
「ありがとうございます。彩樹さんが一緒なら、途中で痴漢とかに遭っても怖くありませんわね」
 一姫はくすくすと笑う。
 まだそれほど遅い時刻ではないが、郊外の住宅地である奏珠別の街はもう人通りも少ない。
 灯りに集まってきた大きな蛾が、街灯の支柱にぶつかってぱたぱたと音を立てている。
「彩樹さん、そんな薄着で寒くありませんの?」
「ん? 全然」
 七月末といえば北海道も夏真っ盛り。
 日中はそれなりに暑くなるが、それでも、夜になれば気温はぐっと下がる。
 薄いタンクトップ一枚の彩樹は、傍目にはちょっと肌寒そうに見えるのだが、本人はまるで気にしていないらしい。
(やっぱり、鍛え方が違いますのね…)
 やせて見える彩樹だが、よく見るとその身体は無駄なく鍛えられた筋肉に覆われている。
 よけいな脂肪がないことと胸がないことで、実際以上にやせて見えるのだ。
 まるでネコ科の肉食獣ですわ…。
 一姫は心の中でつぶやく。
 そう、彩樹はまるで豹のようだ。
 樹の上から、鋭い目で獲物を狙う美しい獣。
 彩樹のきつい目で真っ直ぐ見つめられると、背筋がぞくぞくしてくる。
「どした? なに見てるんだ?」
「え? あ、えっと…なんでもありませんわ」
 自分でもそれと気付かないうちに、彩樹に見とれてしまっていた。
 一姫はあわてて話題をそらす。
「あ、わ、わたくしの家、ここですの」
「へぇ…」
 彩樹は少し驚いたような、感心したような声をもらす。
「立派なお屋敷じゃん。変な奴だと思ってたら、本物のお嬢様か」
 立派な門の中に見えるその家は、まあお屋敷と呼んでも差し支えないものだった。
 敷地も五百坪は下らないだろう。
 いくらこの辺りが札幌市内としては土地が安いといっても、普通のサラリーマンの家ではないことは一目瞭然だった。
「お屋敷だなんて…それほどでもありませんわ。彩樹さん、今日は送っていただいてありがとうございました」
「な〜に、いいってことさ。じゃ、おやすみ」
 彩樹は一姫の顎の下に手を当てて上を向かせると、ちょん、と軽く唇を重ねた。
 瞬きを三回する間、きょとんとしていた一姫だったが、いきなり顔を真っ赤にして叫ぶ。
「さ、さ、彩樹さんっ! いきなりなにをっ?」
 声が少し裏返っていた。
 そんな一姫の様子を見て、一瞬「しまった」という表情でぺろっと舌を出す彩樹。
「あ、悪い。ついいつものクセで…」
 あはは〜、と笑ってごまかす。
「いつものクセって…彩樹さん、いつもこんなことしてますの?」
「ん」
「とりまきの女の子たちと?」
「ん」
 彩樹は少し照れたように小さくうなずく。
「もう、彩樹さんてば…」
「ごめんごめん、悪かったよ。じゃ、また明日な」
 小さく手を上げると、軽い足取りで走っていく。
 一姫はその後ろ姿が見えなくなるまで、門の前に立って見送っていた。
「もう、彩樹さんて意外と手癖が悪いんですのね。わたくしのファーストキスを…」
 唇を尖らせてつぶやき、そして、今さらながら大変なことに気が付いた。
「…ファーストキス、だったんだ…」
 急に顔が火照って、膝が震えだす。
 心臓の鼓動が、手を当てなくてもわかるくらい激しくなっている。
「彩樹さんてば…どうしましょう」
 ぽ〜っと赤く染まった頬を、両手で押さえる。
 自分の部屋に入っても動悸は収まらず、一姫はこの夜いつまでも寝付けなかった。



「んっふっふ〜。あ〜ゆ〜ウブな反応はいいね〜やっぱり」
 純情な一姫にどれほどのショックを与えたかも考えずに、彩樹は自分の家の玄関を開けた。
 彩樹には父親はいないし母親は夜の仕事だから、いま家には誰もいない。
「このバイトが終わったら、マジで喰っちゃおうかな?」
 そんな、とんでもないことを口走りながら、居間の明かりを点ける。
 残念ながら、バイトが終わるまではお預けだ。
 なにしろ「処女」であることがこの仕事の条件なのだから。
「ま、夏休みが終わるまでにはいくらでもチャンスはあるか」
 肝心の一姫の気持ちは無視である。
 そんなものはどうにでもなる、と考えている。
 冷蔵庫を開けてスポーツドリンクを取り出したところで、彩樹は留守番電話にメッセージが入っているのに気付いた。
 一・五リットルのペットボトルに直接口をつけてラッパ飲みしながら、再生のボタンを押す。
『静内先輩、あゆみです。土曜日、一緒に海に行きませんか? 今日、新しい水着買ったの。えへへ〜今度はビキニなんですよ。先輩に最初に見てほしいの』
『彩樹ぃ、あたし。夏休みの宿題、どうせやってないんでしょ? 明日ヒマ? キスひとつと引き替えに写させてあげるよ〜』
『えっと…日高です。彩樹さん、もしよかったら、明日うちに遊びに来ませんか? えと…あの…明日、家に誰もいないの…だから…』
 順に、空手道場の後輩、小学校からのクラスメイト、そして同じ中学の二年生、だった。
 彩樹は心底残念そうに、ひとりひとりに「しばらくバイトで忙しいから」と断りの電話を入れる。
 つまり、まあ、なんといったらいいか…。
 困った性格ではあるが、静内彩樹とはこういう人間なのである。



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