七 泉の中の少女


 早苗が塔の上からシルラート王子を狙撃しようとしていた頃。
 彩樹は執務中のアリアーナの護衛についていた。
 朝のうちは机の上に山積みになっていた書類も昼過ぎにはあらかた片付いた。
 シサークが書類の束を持って出ていくと、アリアーナは大きく伸びをする。
「やれやれ、こんなことばかりやってると肩がこるな」
 彩樹は何も応えなかったが、実のところ、内心アリアーナを少し見直していた。
 もし彩樹がこんな書類の山を前にしたら、三分で投げ出してしまうことだろう。
 気に入らない相手ではあるが、頭はいいし勤勉だ。
 それは間違いない。
「毎日こんなことばかりでは息が詰まっていかん。出かけるぞ、ついてこい」
「出かける? どこへ?」
 彩樹が訊き返したときにはもうアリアーナは部屋の外に出てしまっていた。
 彩樹はあわててそのあとをを追った。


 この城の裏手には、広大な森が広がっている。
 人目を盗んで裏門から外に出たアリアーナは、その森の中へと入っていった。
 もちろん彩樹も後に続く。
 森は樹が密生していて、百メートルと行かないうちにもうどちらから来たのかわからなくなるほどだ。
 彩樹の目にはなんの目印も見えないが、アリアーナには道がわかっているのだろうか。
 昼でも薄暗い森の中を早足に歩いて行く。
(それにしても、命を狙われている状況で城を抜け出してこんなところに…、なんてわがままな)
 そうは思ったが、それでも黙ってついていくしかない。
 アリアーナは一言も口をきかずに歩き続ける。
 草を踏んで歩く二人の足音、
 鳥のさえずり、
 キツツキ(と思われる鳥)が、樹の幹を叩く音。
 他になにも聞こえない。
 しばらく歩いて、やがて二人は森の中の小さな池のほとりに出た。
 湧き水なのだろうか、澄んだ水が小川となって流れ出している。
 水面がきらきらと陽の光を反射する様は、まるで森の中の宝石だ。
 睡蓮に似た花が水面を彩り、そのまわりを小さな水色の蝶が飛び回っている。
 透明な羽をきらめかせたトンボが、空中静止を繰り返しながら岸に沿って池を周回する。
 澄みきった水の中では水草が揺れ、その陰にメダカより一回り大きいくらいの小魚が群れている。
 湖底は、砂や泥ではなくて礫らしい。
 だから、水がまったく濁らないのだろう。
「森の中に、こんなところがあったのか…」
 その風景に見とれ、呆然とした様子で彩樹がつぶやいた。
「でも、こんな時に城から離れて危険じゃないのか?」
「そのためにサイキがいるのだろう?」
 アリアーナが即答する。
「ここは、わたしの秘密の場所なんだ。執務や勉強に飽きたらここに来ることにしている。ここならうるさいじいにも見つからないからな」
 彩樹は息を殺し、周囲の様子を探る。
 なにも、危険な気配はない。
 ここに来るまでも、誰かにつけられている様子はなかった。
(まあ、少しくらいはいいか)
 確かに、いつ襲われるかと心配しながら城にこもって仕事や勉強ばかりでは神経がまいってしまうだろう。
 それにしても、この性悪女も人並みに息抜きが必要とは…。
 彩樹は思わず吹き出しそうになる。
「少しくらいならいいけど、あまり長居はできないぞ。万が一こんな場所で刺客に…、な…?」
 言いかけてアリアーナの方を振り返った彩樹は、途中で凍りついたように動きを止める。
 目に入ったものを理解するには、数秒の間が必要だった。
「な…なにやってんだ、お前…?」
 彩樹が驚いたのも無理はない。
 そこには、服を脱いで全裸になったアリアーナが立っていた。
「仮にも次期女王に向かって『お前』はないだろう。まったく、どういう躾を受けてるんだ?」
 アリアーナはまったく動じる様子もない。
「躾って…それはこっちのセリフだ! こんなところで裸になる奴に言われたくないぞ!」
「水浴びをするのに服を脱ぐのは当たり前だろう? サイキの国の習慣は違うのか?」
 彩樹の前に平然と裸体をさらして、アリアーナは池に足を入れる。
 真っ白い肌。
 すらりと伸びた足の長さと腰の高さが日本人とはまるで違う。
 そして、服の上から想像するよりも豊かな胸。
 彩樹が思わず嫉妬し、また見とれてしまうほどのプロポーションだった。
 それは、少女の可憐さと女の美しさの端境にある、ほんの短い時期だけに許される容姿。
 はぁ…
 彩樹の口からかすかに溜息が漏れる。
 膝くらいの深さまで水に入ったところで、アリアーナはいきなり池に飛び込んだ。
 水面に、アリアーナが作りだした大きな波紋だけが残る。
 水飛沫をかぶった彩樹は、腕で顔を拭うと、肩をすくめてその場に座り込んだ。
(なんなんだこの女…、羞恥心ってものはないのか?)
 波のおさまった水面を、アメンボが滑っていく。
(まあ、オレらと同い歳なのに毎日城で難しい政治の話ばかりじゃストレスも溜まるか)
 たまには、羽目を外すのもいいのかもしれない。
 彩樹など、側について見ているだけで相当ストレスが溜まっているのだ。
 確かにここは、精神のリフレッシュにはいいところだ。
 深く深く息を吸い込むと、樹々と、草と、土と、水のにおいがする。
 彩樹は何度も深呼吸を繰り返した。
(オレも少し水に入ろうかな…。気持ちよさそうだし)
 と、のんびりとそんなことを考えていた彩樹は、やがて大変なことに気付いた。
(…! あいつが飛び込んでから何分たった?)
 アリアーナが浮いてこない。
 なにかあった…?
 まさか泉の中に刺客がいることもないだろうが、泉の水は湧き水で夏でも冷たい。
 準備運動もなしに飛び込んで、心臓麻痺を起こさないとも限らないのだ。
(まさか…!)
 彩樹は服を着たまま、靴だけを脱いで飛び込んだ。
 泉の水は、想像していたよりもさらに冷たかった。
 ぞくり、と鳥肌が立つ。
 ただしそれは水の冷たさのためではなく、言い様のない不安のためだ。 
(どこにいる…?)
 岸から少し離れると、池は急深になっていて、この澄んだ水の中でさえ底が見えないほどだった。
 彩樹は周囲を見回しながら真っ直ぐに潜っていく。
 水底には背の高い水草の茂みや大きな岩が点在していて、アリアーナがそれらの陰にいるとしたら見つけるのは難しそうだった。
 急がなければ…
 しかし、焦る気持ちとは裏腹に、服を着たままの身体は水中では思うように動かない。
 そろそろ息が苦しくなってきた。
 一度水面に戻らなければ、と思いながらも、もう少し先に行けばアリアーナが見つかるような気がしてなかなか引き返せない。
 もうこれ以上は無理…
 そう思ったとき、彩樹は大きな岩の陰に探していた少女の姿を見つけた。
 彩樹が一瞬見せた安堵の表情は、しかし、次の瞬間怒りの形相に変わる。
 アリアーナは溺れていたわけではなかった。
 両手で水草につかまって、普段無表情な彼女にしては珍しく、彩樹を見て笑っている。
 その笑みを見て、彩樹は理解した。
 自分は、からかわれたのだと。
 肺に残った最後の空気を吐き出しながら必死で水面に向かった彩樹は、最後の一メートルのところで水を飲んでしまい、激しく咳き込んだ。
 その横に、まだまだ余裕のある様子でアリアーナも浮いてくる。
「こうも簡単に引っかかるとは思わなかった。なかなか見事なあわてぶりだったな」
 這うようにして岸に戻った彩樹は、そんなアリアーナを睨み付ける。
 彩樹の倍以上の時間水に潜っていたにもかかわらず、息もほとんど乱れていない。
 濡れて顔にまとわりつく長い金髪を両手でかき上げると、水滴がきらきらと飛び散った。
 彩樹は無言で、着ていたタンクトップとジーンズを脱いで絞る。
 アリアーナのように、人前で下着までは脱げなかった。
「怒ったのか?」
 不思議そうな表情で、アリアーナが当たり前のことを訊く。
 彩樹が何も言わないのは、怒りのあまり言葉も出てこないからだ。
 アリアーナだけではなく、自分にも腹が立った。
 こんな女を、つい本気で心配してしまった自分に。
 まだ濡れたままの服を着て、彩樹はアリアーナに向き直る。
 ぱんっ
 アリアーナの頬が鳴った。
 驚いたように、自分の頬を押さえている。
 続いてもう一方の頬にも、彩樹の平手が飛んだ。
 先日のように拳でも蹴りでもなく、掌で。
 彩樹は本気で怒っていた。
 ここで拳を使ったら、自分を押さえられる自信がなかった。
 アリアーナは裸のまま、そこに立ちつくしている。
「…さっさと服を着ろ。遊びはもういいだろ。戻るぞ」
 来るときと同様、二人は一言も口をきかずに城に戻っていった。



 晩餐を終えたシルラート・シリオヌマン――この国の第二王子――が自室に戻ると、本来、誰もいるはずのない部屋で一人の少女が彼を待っていた。
 その背後のカーテンが風でかすかに揺れている。
 最初に目にとまったのは、この地方では珍しい茶色の髪に、大きな瞳。
 そして、歳の割に大きな胸。
 少女が手に持っている物に気付いたのはその後だった。
 奇妙な形の、銃――
 反射的に、壁に掛けた剣に手を伸ばしたシルラートだったが、彼の指が柄に触れる直前、バンッという音と共に剣は砕け散った。
 数秒間、壁に手を伸ばしたままの姿勢で動きを止め、それからゆっくりと振り返る。
 少女の瞳と、腰だめに構えた銃の銃口が真っ直ぐにシルラートを見つめていた。
「警備の者がいたはずだが?」
「少しの間、寝てもらってる」
「お前、アリアーナが雇った新しい護衛だな? あいつの命令で私を殺しに来たか?」
「いいや」
 早苗は小さく首を振った。
「ウチが勝手に来ただけ。いつ来るかわからない刺客を待つなんて効率的じゃないもの。戦いは先手必勝、こっちから仕掛けば、たった二人殺すだけで全て丸くおさまるのよね?」
 気負いの感じられない口調で早苗は言った。
 内心それほど落ち着いていたわけではないのだが、それを気取られるわけにはいかない。
 シルラートの鋭い目は真っ直ぐ早苗を見つめているようで、実は油断なく周囲を見回し、反撃の隙をうかがっている。
 伸ばした前髪が、その目を半ば隠していた。
 近くで見ると、誰かに似てる…
 早苗はすぐにそれが誰か思い出した。
 目つきの鋭さと髪型、そして漆黒の髪の色が彩樹と似ているのだ。
(…てことは、やっぱり彩ちゃんて女にしとくのはもったいないくらいハンサムなんだな)
 本人の前でそんなことを言ったら、ほぼ五十パーセントの確率で殴り倒されるだろうが。
 さもなくば蹴り倒されるか、投げ飛ばされるか。
 いずれにしても無傷ではいられない。
(いや、そんな馬鹿なこと考えてる場合じゃないな…)
 絶体絶命のピンチにも関わらず、シルラートは少なくとも表向きは落ち着いているように見える。
 怯えてうろたえるような相手ならやりやすかったのに――
 早苗は心の中で舌打ちをし、グリップを握った手の親指の位置にある小さなスイッチを押した。
 銃口のすぐ上に、小さな赤い光が灯る。
 そして、シルラートの左胸にも同じようにぽつんと赤い光の点が現れる。
 シルラートは不思議そうに自分の左胸を見下ろしているが、その様子が、先刻よりもほんの少し緊張しているように見える。
 レーザー照準器などという物を知らなくとも、この状況ではそれが何を意味しているのかは見当がついているはずだった。
 引き金に掛けた早苗の人差し指がかすかに震える。
(このまま引き金を引けば、一瞬でカタが付く。これ以上彩ちゃんにばかり負担をかけることもなく…)
 だけど
 自分に、人を殺せるのか?
 引き金を引くことはできる。
 でも、その行為が引き起こす結果は?
 自分が撃ち殺した死体を前にして、平静でいられるのか…
 …無理だろうな。
 狂ってしまうかもしれない。
 一人の人間のこれまでの人生を全て無に還してしまうことの意味。
 自分に、そんなことができないのはわかっている。
 彩樹とは違う。
 だから、お願い。
 抵抗はせずに、このままおとなしくしていて――。
 もしここでシルラートが妙な素振りを見せたら、撃たなきゃならない。
 でも、そんなことはできない。
 ――だから、お願い…
 早苗の額に汗がにじむ。
 ――ダメ、もう限界…
「今すぐは殺さないわ。今日は警告に来ただけ。これ以上姫様に手を出さないこと。わかった?」
 じっと早苗を見ているシルラートは、否とも応とも答えない。
(これ以上こうしていたら、見透かされてしまう)
 ここにいるヒットマンは、実は人を殺せないのだ。
 そのことがバレる前に立ち去らないと…。
「警告は一度だけよ。次はないからね」
 そう言い捨てて、早苗は入ってきたのと同じ窓から外に飛び出す。
「…考えておこう」
 背後から、そんなシルラートの声が聞こえたような気がした。


「やれやれ…何年か寿命が縮んだな」
 早苗が出ていくと、シルラートはふぅっと息を吐き出して椅子に腰を下ろした。
 腕組みをしてしばらくなにか考えていたが、やがてテーブルの上に置いてあった書類に手を伸ばす。
「…こいつか。サナエ・シカオイ、十五歳。出身不詳、経歴不詳…?」
 大して役に立つことは書いていない書類を机に戻した。
 ちょうどその時、開いたままの窓から風が吹き込み、書類が床に散らばる。
 シルラートは立ち上がり、窓と、カーテンを閉める。
「…不思議な娘だな」
 ほとんど聞き取れないほどの小さな声で、そうつぶやいた。



 夜更けの、アリアーナの寝室。
 今、アリアーナの側にいるのは一姫ただ一人だけだ。
 椅子に座ってずっと読書をしていたアリアーナは本を閉じると、カップの底に残ったお茶を飲み干してから一姫の方を見た。
「そういえば、サイキはどうした?」
「…寝てるみたいです」
 一姫は事実だけを答えた。
「そうか」
 アリアーナがそう言ったきり、しばらく無言の時が流れる。
「あの…姫様…?」
 一姫はためらいがちに口を開いた。
「昼間から、なんだか彩樹さん怒ってるみたいなんですけれど…理由をご存じではありませんか?」
「何故私に訊く?」
「昼間、ご一緒に外へ行ってらしたでしょう?」
 アリアーナはすぐにはそれに答えず、膝の上に置いた本の表紙を見つめていた。
「…先刻は悪いことをしたと、そう伝えておいてくれ」
「あの…差し出がましいようですけど…そういうことって直接言わなければいけないと思いますの」
 アリアーナがそれに対して何も答えないので、怒らせてしまったのではないかと一姫が気にしだした頃になってやっと、
「…そうだな、そうしよう」
 アリアーナは立ち上がって本を書架に戻した。
 一姫は魔術師の杖を手にして、アリアーナと一緒に部屋を出る。
 無言で歩くアリアーナの斜め後ろを、ちょこちょことついていく。
(どうして、お二人は仲が悪いのかしら…)
 彩樹をいつも怒らせるアリアーナの皮肉も、他の者に向けられることはない。
 アリアーナに対する彩樹は、普段以上に無愛想だ。
 特に理由があるとも思えない。
 単に、ウマが合わないということなのだろうか。
 アリアーナは一姫を彩樹の寝室の前で待たせ、一人で中に入った。
 室内は暗い。
 わずかに開かれたカーテンの隙間から月明かりが差し込んでいるだけだ。
 足音を殺し、そぅっと彩樹が眠っているベッドに近寄る。
 広いベッドの端で仔犬のように丸まって寝息を立てている彩樹を見て、アリアーナはいたずら心を起こした。
 彩樹に向かってそぅっと指を伸ばす。
 人差し指が彩樹の鼻に触れる寸前、
 アリアーナはいきなりその手首をつかまれ、ベッドに引き倒された。
 彩樹は倒れるアリアーナと体を入れ代えてその上に馬乗りになると、身体の下に隠してあった短剣をアリアーナの首筋に突きつける。
 冷たい鋼の刃の感触に、アリアーナの顔から血の気が引く。
 怯えた表情のアリアーナを、ちょっと意外そうに見下ろす彩樹。
「なんだ、お前か。いったいどういうつもりだ?」
「そ、そ、それはこっちのセリフだっ! わたしを殺す気かっ?」
 珍しく感情的な口調でアリアーナは叫ぶ。
 その声がいくぶん震えている。
 一瞬とはいえ彩樹に本気の殺気を向けられたことがよほど怖かったのだろう。
「人が寝てるとこに、ノックもなしに忍び込んでくる方が悪い。てっきり刺客かと思った」
「眠ってなんかいなかったくせに」
「寝てたさ。それでも人が近付けばわかる」
「どうでもいいが、いつまでわたしの上に乗っているつもりだ? さっさと降りろ、重いぞ」
 最後の一言が余計だった。
 少なくとも、思春期の女の子に対する言葉としては。
 彩樹は、アリアーナの首に押し当てていた短剣を頭の上にかざすと、力いっぱい振り下ろした。
 アリアーナの口から、「ひっ」とかすかな声が漏れる。
 頬をかすめるようにして枕に突き刺さった短剣を横目で見るアリアーナの目には涙が浮かんでいた。
「いい加減にしないと、オレも本気で怒るぞ」
「まるで今までは本気じゃなかったような言い方だな」
「本気なら、こんなものじゃ済まない」
「どうなるんだ?」
「試してみるか? 自分の身体で」
 彩樹の口元に、危険な笑みが浮かんでいる。
 アリアーナはあわてて首を左右に振った。
 彼女にとっては、兄たちが差し向ける刺客よりも、このボディガードの方がよっぽど危険な存在だった。



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