「やっぱり、ファンタジーの基本は竜退治だと思いますの」
一姫は、必要以上に嬉しそうな表情でそう言った。
「物語の中の英雄たちの多くも、竜を倒してはじめて一人前の英雄となったのですわ」
「一人前も何も…半人前じゃ英雄にはなれないだろ?」
はしゃいでいる一姫とは対照的に彩樹はどことなく緊張した面持ちで、気のせいか顔色も良くないようだ。
「でも、ロールプレイングゲームの主人公なんて、レベル1の頃から自ら『勇者』と名乗っている者も少なくありませんわ。おかしな話ですけど」
「そういえばそ〜ね。レベル1の戦士なんて、要は新兵でしょ? そんなのが『魔王を倒して世界を救う!』なんてね〜。ホントにそんな奴がいたら、周囲から『なに寝言言ってんだこのバカ』って思われるのがオチだよね」
RPG談義を始めた一姫と早苗を無視して、彩樹は腕を組んで目をつぶる。
自分の置かれている状況が何もかも気に入らない。
竜退治に行く、という今回の目的も、いま自分が乗っている『乗物』も――。
「おい、あとどれくらいで着くんだ?」
彩樹は目を開けると、前の席で手綱を取っているアリアーナに訊ねた。
「もうあと二刻もかからん」
アリアーナは振り返りもせず答える。
彩樹はウンザリした表情になる。
あと三時間近くもこのままなのか、と。
この『乗物』は彩樹にとっては精神的な消耗が大きかった。
なにしろ、今いるのは大きな翼竜の背で、地面は百メートル以上も下にあるのだ。
翼竜は竜ではない。
文字通りの翼竜だ。
外観は、大昔に栄えたプテラノドンなどに似ているが、この世界の翼竜は爬虫類よりもむしろ哺乳類に近い生物らしい。
その恐ろしげな姿とは裏腹に知能が高くて人に馴れるので、一部の地方では騎乗用に飼い慣らしているのだ。
もっとも翼竜は数が少ないので、それを所有できるのは裕福な王族や貴族に限られる。
彩樹たち四人が乗っているのは、マウンマン王国が所有する翼竜の一頭だった。
彩樹はずきずきと痛む頭を抱える。
(もともとこの仕事は非常識だが…)
それにしても全長二十メートルもある翼竜に乗って、凶悪な竜を退治に行くなんてあんまりだ、と。
この国には伝説があった。
天上界からやってきた三人の天使と共に、国を荒らす竜を退治した王の伝説。
伝説は真実であり、代々の王は竜の封印を護り続けてきた。
王だけが、竜を封印する力を持っていた。
竜を封印する力のある者だけが、王と認められた。
王位を継ぐ者は、同時に封印の守護者の任も受け継ぐことになる。
だが、先王の死はあまりにも急であり、
そして…
封印は破られた。
「それにしても、四人だけで…」
相変わらず不機嫌そうに彩樹はつぶやいた。
「竜が相手では、何人いようと大きな違いはない。全てはわたしが竜を封印できるかどうかにかかっている。
失敗したら、四人だろうと千人だろうと全滅することに変わりはないのだから、犠牲は少ない方が良かろう」
「それにオレたちを巻き込むなっ!」
まるで人ごとのように淡々と語るアリアーナは、彩樹がどれほど怒鳴ろうとも気にもとめない。
「サイキたちは竜を見たことがあるまい? いい話のタネになるぞ」
「そんなもん、一生見たくなかったわっ!」
「え〜、面白そうじゃない」
「そうですわ。生きている本物の竜なんて、こんな機会でもなければ見ることはできませんもの」
「どうしておまえらはいつもそうなんだっ!」
「彩ちゃんてば怒ってばっかり」
「カルシウムが不足すると、怒りっぽくなりそうですわ。それとも、あの日…」
早苗と一姫の頭をどついてから、彩樹はまたアリアーナの方を向いた。
「だいたい、シサークの爺さんとかもなに考えてるんだよ? ただでさえ大変なときに…」
お家騒動を片付けるのが先ではないか、というのが彩樹の意見だ。
城内がごたごたしているときに、どうしてわざわざ竜を退治しに行かなければならないのか。
それでなくともアリアーナの身は危険だというのに。
「じいが言うには、こんな時だからこそ、だそうだ」
王はすなわち、竜を封印する者。
竜を封じることができれば、誰もアリアーナが王位を継ぐことに反対できなくなる、と。
(そりゃあ確かに…)
表だって反対はできないかもしれないが、かえって陰で狙われるだけでないのか…。
彩樹はそう思ったが、肝心のアリアーナが納得しているのだからどうしようもない。
「第一、お前が竜を倒せなかったらどうするんだよ?」
「大丈夫だ。わたしにできなければ、サルカンドやシルラートにもできるはずがない」
大丈夫どころか、それはそれでかえって大変なのではないか。
とは思ったが彩樹は口には出さずにいた。
「それに、辺境の村々が竜の被害に遭っているのも事実だ。王宮内がごたごたしているからといって、いつまでも放っておくわけにもいくまい」
「それにしても…」
「そういえば、出がけにサルカンドがわたしのところに顔を見せに来たぞ。――伝説の通り、天上界からやってきた三人の天使を引き連れての竜退治か。上手くいけばいいのだがね――と、皮肉たっぷりに。
確かに、なるほど、伝説にある天上界の天使とは、実はサイキたちのように異世界からやってきた者達を指しているのかもしれん。だとしたら、きっと上手くいく」
「ま、天使ですか? わたくしが? なんだか照れますわね」
頬に両手を当てた一姫が顔を赤らめ、彩樹は溜息をついた。
「オレはもう知らんぞ」
そう言ってごろりと横になる。
「ところでサイキ…」
翼竜の手綱を握っているため、ずっとこちらに背を向けてしゃべっていたアリアーナが肩越しに振り返って言った。
「サイキ、お前…先刻から顔が青くないか?」
ほとんどこっちを見てなかったくせに、どうしてわかるのか…。
彩樹がわずかにあわてたのは、早苗や一姫にもわかった。
「いや、別に…」
口ではそう言うが、確かに様子がおかしい。
怯えている…?
早苗と一姫は首をかしげた。
まさか竜退治が怖いわけではあるまい。
口ではなんと言おうと、竜はおろかゴジラが相手だって怯むような彩樹ではないのだ。
ではいったい…?
少し考えて、早苗はひとつ思い当たることがあった。
「…彩ちゃん、まさか、もしかして…」
え〜、うっそ〜、信じらんな〜い!
早苗がそんな表情で言う。
「彩ちゃんて、高所恐怖症?」
今度こそはっきりと、彩樹の顔色が変わるのがわかった。
早苗と一姫は驚いたように顔を見合わせる。
「ま、まさか、そんなわけないだろ…」
声が震えている。
もう一度顔を見合わせた早苗と一姫は、やがてぷっと吹き出した。
「あ、あ、彩ちゃんが、高所恐怖症ぉ?」
「それで、不機嫌そうな素振りをしていたんですのね」
彩樹としてはなにか言い返したかったが、この状況では何を言っても墓穴を掘ることになりそうだった。
それにしても…
早苗や一姫に笑われること、これはまあいい。
しかし、
こちらに背を向けている、アリアーナの肩がかすかに震えている。
これだけが彩樹には我慢がならなかった。
まばらに樹の生えた、小高い丘の上。
アリアーナはここに翼竜を降ろし、少し休憩することにした。
彩樹の容態が、そろそろ限界と思われたのだ。
なにしろ飛行機も苦手な彩樹である。
どうしても飛行機に乗らなければならないときは前夜に徹夜して離陸前に眠ってしまうことにしていたが、それでも、飛行機を降りてから数時間は具合が悪いのだ。
しかも、翼竜の背の上というのは、旅客機と比べてお世辞にも乗り心地の良いものではない。
地面に降りるなり彩樹は地面にひっくり返った。
早苗と一姫は楽しそうに翼竜と戯れている。
「これは意外だったな」
そばに座ったアリアーナが、普段どおり抑揚のない声でつぶやく。
彩樹はなにも言い返す気力もない。
いま望むことはただ一つ。
揺れない地面の上でゆっくりと眠ること。
彩樹はすぐに、静かな寝息を立て始めた。
何故か、夏休みに入ってからほとんど顔を合わせていない母親が夢に出てきた。
一時間くらいは眠ったのだろうか。
彩樹が目を覚ましたときは、すいぶんと気分も良くなっていた。
(あれ…なんか花の香り…)
半分だけ覚醒した意識の中で考える。
たしか周囲は一面の草原だったはず、花なんて咲いていたっけ――と。
こうして眠っているのが気持ちよくて、起きるのがなんだかもったいない。
ふわふわの草のベッドも、柔らかな枕も…。
枕――?
目を開けて、自分の頭の下にあるものを確認した彩樹は、あわてて飛び起きた。
「な、な、なんでお前が…」
「目が覚めたか。いくらか気分は良くなったか?」
花の香りと思ったのは香水。
いつの間にか彩樹は、アリアーナの膝枕で寝ていたのだ。
(ちょ、ちょっと待てよ。なんでオレが…)
何故、アリアーナの膝で寝ているのか。
一姫や早苗ならまだしも…。
戸惑う彩樹をよそに、アリアーナは相変わらず無表情で、その顔からはなんの感情も読みとれない。
立ち上がったアリアーナは、スカートに付いた草を両手で払って言った。
「具合が悪くないのなら、そろそろ行くとしよう。できれば今日中に片付けたいからな」
「あ、ああ…」
彩樹も立ち上がり、少し離れたところで横になっている翼竜へと歩いていく。
一姫と早苗が、翼竜の背に乗って遊んでいた。
マウンマン王国の北の端に連なる山脈の谷間に、ぽつんとひとつ、蒼い宝石のような水を湛えた小さな湖がある。
針葉樹の森に囲まれ、深い緑と、深い藍色のコントラストが美しい。
今日は、水面を乱す風もなく、まさに鏡のような水面に対岸の樹々ががくっきりと映っている。
それがあまりにも鮮明なので、どこまでが本物の森でどこからが水面に映った像なのかもわからないほどだ。
ここが――四人の目的地だった。
「ここが、竜が封印されていた湖だ」
「すっご〜い、きれ〜い。カメラ持ってくれば良かった」
「すてき…ですわね…」
風景に見とれた一姫がほぅっと小さく溜息をつく。
「どうでもいいけど…」
自分の身体を抱くようにして、彩樹が言った。
「ここ、少し寒くないか?」
「そういえば…」
ここは王宮よりも何百キロか北に位置するし標高もいくぶん高いが、それにしても極端な気温差だ。
タンクトップ一枚の彩樹の腕には鳥肌が立っている。
試しに水の中に手を入れてみた早苗は、あわてて手を引っ込めた。
「つ、冷った〜い!」
「当然だな。ここはつい最近まで凍りついていたから」
「凍って…? でも…」
三人は一様に訝しげな顔になる。
なにしろいまは真夏なのだ。
マウンマン王国の夏は、彼女らが住む札幌よりも暑い。
「竜を封印していたと言ったろう? 竜は、凍った湖の中に封じ込められていたんだ」
その頃、この湖の周囲は一年中冬のような光景だったという。
湖岸が石だらけで草が生えていないのもその名残なのだろう。
封印が破れると同時に氷は解けたが、湖の水温が上がるにはまだ時間が足りず、周囲の空気もこの冷たい水に冷やされているのだ。
「氷の湖に眠る竜…んん〜すてき! これぞファンタジー、って感じですわね」
「で、その肝心の竜とやらはどこにいるんだよ?」
「どこかその辺にいるだろう」
アリアーナがそう言い終わらないうちに、まるで陽が陰ったかのように周囲が薄暗くなった。
四人が空を見上げる。
「へぇ〜」
「まぁ…」
「ふむ」
「う、うわわわ〜っ!」
予想に違わず、巨大な竜が彼女たちに覆い被さるようにしていた。
早苗はぽかんと口を開けて見ているし、一姫は初めて見る竜に感動している。
アリアーナは普段どおり落ち着いていて、たぶん彩樹がもっとも常識的な反応を示していただろう。
彼女たちが乗ってきた翼竜でさえ、ちょっと気の弱い人間なら直視できないほど恐ろしげな姿をしているというのに、この竜は翼竜よりもふたまわり以上大きな身体で、姿はさらに兇悪だ。
「り、り、りゅ…竜っ?」
「そのくらい見てわからんか?」
慌てふためく彩樹も、決して怖いわけではない。
しかし、こういうことに関しては三人の中でいちばん常識人である彩樹にとって、目の前に全長三十メートル以上の竜が存在するという現実はそう簡単に受け入れられるものではなかった。
「姫様…あの竜、なんだかわたくしたちのことを睨んでいるみたいですわ」
「当然だな。若い人間の娘は竜の好物だ」
「それを早く言え〜っ!」
「見かけによらずグルメですのね」
「よ〜し、それなら先手必勝!」
早苗は愛用のMP5のセレクターレバーをフルオートにセットして引き金を引いた。
一姫が魔術師の杖を高く掲げる。
その先端にはめ込まれた魔光石の結晶から一抱えほどもある赤紫色の火球が飛び出し、竜の鼻つらで炸裂する。
「で、オレらはどうすりゃいいんだ?」
接近戦専門の彩樹が、途方に暮れたようにアリアーナを見る。
「そうだな、とりあえず逃げるか?」
アリアーナは彩樹の手を引いてその場を離れた。
「お、おい! 二人を置いて逃げてる場合じゃないだろ?」
「冗談だ。封印の準備ができるまで二人に時間稼ぎをしてもらう。サイキは私の側にいるといい」
百メートルちょっと離れたところでアリアーナは立ち止まり、どこからか十数本の短剣を取り出した。
柄の部分が美しい彫刻と宝石で装飾された短剣の一本を足元の地面に刺すと、そこからまるで歩測をするプロゴルファーのように正確に、きっかり三十五歩進んだ。
そして、三十六歩目の地面に二本目の短剣を刺す。
そこから今度は向きを変え、十七歩目で第三の短剣を刺した。
「おい…何やってんだ?」
「竜を封じるための結界を作っている。これは二百年以上も前から我が国に伝わる、由緒正しい魔法の短剣だ」
距離と角度を正確に計っては短剣を地面に刺す、という動作を続けながらアリアーナは彩樹の質問に答える。
「お前も…魔術師なのか?」
「一応、そういうことになるか。フィフィールやイツキのような一般的な魔術師とは、少し違う系統の力なのだが」
「どうでもいいけど、早くしろよ! あの二人だけじゃいつまでももたないぞ!」
竜との戦闘を続けている早苗と一姫の方を心配そうに見ながら、彩樹はアリアーナを急かした。
早苗は最初、いつも持ち歩いているMP5を使っていたのだが、人を殺さないようにわざと威力を落としてあるこの銃では竜に対して効果がないと悟ったのか、ライフルケースに入れて持ってきていた機関銃・M60に持ち替えていた。
本来ならスタローンかシュワルツネッガーのようなマッチョに似合いそうなごつい銃を、百五十九センチ四十八キロの早苗が平然と振り回している。
(ただの巨乳女ではなかったか…)
彩樹が妙な感心をする。
一姫はもっぱら攻撃を早苗に任せて防御に専念していた。
フィフィールから最初に習った魔法の盾を何枚も鱗のように重ねて出し、竜の炎の攻撃を防いでいる。
この数日間の練習によりフィフィールの最強の攻撃魔法すらも跳ね返せるようになった一姫の防御魔法であるが、竜の炎の直撃を受けるとわずか数秒ほどで蒸発してしまう。
「急げよ、アリアーナ!」
彩樹が叫ぶ。
「友達思いなのだな、サイキは」
「別にそんなんじゃね〜よ! あいつらがやられたら今度はこっちに来るだろ〜が!」
「そうか、わたしのことを心配してくれているのか」
「ち、違うっ!」
「まあ、そう心配することもない。あの二人は大したものだぞ。並の兵士なら三十人がかりだってとっくにやられているだろうな」
「いいからさっさとしろっ!」
あまりにも冷静なアリアーナの態度が、彩樹の癇にさわる。
実際にはアリアーナも精一杯急いではいるのだが、なにしろあまりにも冷静なので、とても急いでいるように見えないのだ。
「あまり急かすな。この結界は精度が大切なんだ。竜の封印に失敗したら元も子もないだろう…と、できた」
アリアーナは最後の短剣を地面に刺すと、小声でなにやら呪文を唱えはじめる。
やがて、短剣の柄にはめ込まれた魔光石が輝きだし、そこから放たれたレーザーのような光線が短剣同士を結んで、地面に複雑な幾何学模様を描き出す。
「よし、準備完了」
満足そうにうなずいたアリアーナは、結界のすぐ脇の地面に、直径一メートルほどの円を描いた。
「サイキはここに立っているんだ」
彩樹がその言葉に従うと、アリアーナの手の中に一振りの長剣が出現する。
白銀色の刃をした、女の子には不釣り合いな大きな剣だ。
「これを持って」
剣を彩樹に手渡す。
それは彩樹の肩を越すほどの長さがあって刃の幅も広い、まさに「だんびら」だったが、持ってみると意外なほどに軽い。
柄の部分に大きな魔光石の結晶がはめ込まれている。
「サイキは何があってもそこを動くなよ」
アリアーナが真剣な口調で言うので、彩樹も緊張した面持ちでうなずく。
「右手で剣を持って、真っ直ぐに竜に向かって突きつけろ」
彩樹が言うとおりにすると、アリアーナは彩樹の後ろ十メートルくらいのところに移動した。
「柄の親指に当たる部分に、小さなボタンがあるだろう?」
「ああ、あるな」
「それを押せ」
カチッ
それが何を意味するのか、深く考えずに彩樹がボタンを押すと、突然剣が大きなフラッシュでもたいたように発光し、その光は丸太ほどもある太いビームとなって百メートルほど向こうにいた竜の後頭部を直撃した。
「な、な、なんだよ、これっ?」
予想外の展開に狼狽し、彩樹は手の中の剣を見つめる。
「いまから二百年以上前の時代の大魔術師エトゥピルカンが作りだした、我が国で最高の魔剣だ。大したものだろう?」
「魔剣って…こりゃ飛び道具じゃね〜か! 剣の形をしている必然性がどこにあるんだっ!」
「なんとなく。その方が格好いいからな」
「あのな〜!」
「なに、その気になれば剣として使うこともできる」
アリアーナは平然と言う。
「それより、奴が来るぞ」
「え?」
見ると、それまで早苗を追い回していた竜は、その標的を切り替えたようだ。
その双眸が怒りに燃えているところを見ると、先ほどのビームは相当痛かったらしい。
しかし残念なことに、それは「痛かった」以上のダメージを与えてはいなかったらしく、単に竜の怒りに油を注ぐ結果となっていた。
「お、おい…」
こちらに向かって疾走してくる竜に、彩樹がたじろぐ。
「動くなと言ったろう」
あくまでも冷静なアリアーナ。
「そんな…」
全長三十メートル強、体重も数十〜数百トンはあると思われる竜が、こちらに全力で突っ込んでくる。
それは、想像を絶する光景だった。
彩樹がその場を動かなかったのは、別にアリアーナの言いつけに従ったわけではない。
単に、恐怖のあまり足がすくんでしまっただけだ。
怒りに我を忘れた竜には、彩樹以外のものは見えていなかった。
彩樹の後ろに立つアリアーナにも、自分の足元に広がる結界にも。
彩樹の目の前まで来た竜は後ろ足で立ち上がる。
彩樹の視点からはまるで巨大な崖のようにしか見えない。
立ち上がった竜は前足を広げて、そのまま彩樹を踏み潰そうとした。
彩樹が思わず目をつぶったその瞬間、
アリアーナの作った結界が、目も眩むばかりの純白の光を放つ。
竜は後ろ足で立ち上がったまま動きを止め、その巨体を光が包み込む。
それは彩樹には何分ものことに思えたが、実際にはせいぜい十秒ちょっとのことだろう。
やがて、霧が風に吹き払われるかのように光が消え去ると、そこには巨大な氷塊に包み込まれた竜の姿があった。
怒りの形相で立ち上がったそのままの姿で凍りついている。
周囲の空気が急激に冷やされて薄いもやとなり、ドライアイスの煙のように周囲を漂っている。
結界の周囲の地面も、真っ白に凍りついていた。
「どうだ、すごいものだろう?」
アリアーナが、これも凍りついたかのように立ち尽くしていた彩樹の肩にぽんと手を置く。
彩樹はそのまま数秒間じっと竜を見つめていたが、いきなり振り向いて叫んだ。
「こ…怖かったじゃねーか! バカ野郎っ!」
その目がわずかに涙ぐんでいるのに気付いて、珍しくアリアーナは口元に笑みを浮かべて言った。
「この間の夜のお返しだ」
「ふわぁ…すご〜い」
「なんだか、幻想的ですわね」
早苗と一姫が凍りついた竜を見上げている。
「あとはこいつを湖に沈めて、湖全体を氷に閉じこめてしまえば封印は完成だ」
そう言ってアリアーナは魔術師の杖を取り出す。
「それにしても…、こうしてあらためて見ると、ホント大きいね〜。こんなすごい奴をウチらが退治したなんて、なんか信じらンない」
「これも、サイキの活躍のおかげだな」
「てめえ、オレを囮にしただろ!」
いまだ竜に対して恐怖感があるのか、彩樹は竜や早苗たちから数メートル離れて立っている。
「一番向いていると思ったのだが」
「誰がっ!」
アリアーナを睨み付けて、さらに文句を言おうとした彩樹の表情が一瞬凍りついた。
その視線は、アリアーナの背後に注がれている。
「あ…危ないっ!」
彩樹はアリアーナに覆い被さるようにして地面に押し倒した。
そして、次の瞬間…
無数の銃声が、竜の湖を囲む山々にこだました。
<< | 前章に戻る | |
次章に進む | >> | |
目次に戻る |
(C)Copyright 1998 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.