九 怒れる少女


 それは、実際にはほんの数秒間のことだったのだが、アリアーナにはまるで時間がゆっくりと流れているかのように見えた。
 アリアーナを押し倒し、覆い被さるようにして庇う彩樹。
 周囲の丘の上に並んだ、銃を持った何十人もの兵士。
 鏡のような湖面に響き渡る銃声。
 腕に、焼かれたような痛みが走り、彩樹の身体から血飛沫が飛び散る。
 なにか叫びながら、早苗が銃の引き金を引いている。
 兵士たちの幾人かはその銃弾に撃ち倒され、残った者の多くはフルオートで撃ち込まれる魔光弾に怯えて地面に伏せる。
 勇敢な、あるいは無謀なほんの数人が怯まずに第二射を撃ってくるが、これは一姫が作りだした魔法の盾にはじかれる。
 一姫が高く掲げた杖の先から放たれた純白の光線は、彼女たちを狙っていた兵士の一人を貫く。
 早苗はまだ引き金から指を離さず、射線上にいた数人の兵士が銃を放り出して物陰に隠れる。
 彩樹の下敷きとなったアリアーナの目には、これらの光景は妙にゆっくりと映っていた。
 やがて、彩樹が地面に両手をついて身体を起こす。
「怪我はないか?」
「大丈夫…かすり傷だ」
 彩樹の問いに、アリアーナはそう答える。
 先ほど腕に痛みが走ったが、それは銃弾がかすめただけで直撃ではない。
「そうか…良かった…」
 口元に微かな笑みを浮かべて、起きあがろうとする彩樹。
 その口の端から、一筋の血が流れる。
「サイキ…?」
 まるでスイッチが切れるかのように、彩樹の身体からふっと力が抜け、そのままうつ伏せに倒れた。
「さ…サイキ!」
 アリアーナはあわてて身を起こした。
 彩樹の背中はべっとりと血で濡れていて、服はボロボロになっている。
「サイキ! おい、サイキ!」
 悲鳴のようなアリアーナの呼びかけにも応えない。
 傷口と口から流れだした血が、ゆっくりと地面に広がっていた。
「彩ちゃん…?」
 銃を撃つのをやめた早苗が、呆けたような表情で振り返る。
「イツキ! すぐにサイキの手当を!」
「はい! …あ、でも…盾が…」
 治癒の魔法も学んでいた一姫だが、それに集中するためには同時に魔法の盾を展開することはできない。
 この状況で盾を解除することは自殺行為だった。
 しかし、
「そんなもの放っておけ! 早くしろ! サイキが死んでしまう!」
 アリアーナの叫びに促され、一姫は彩樹の元へ駆け寄る。
 一目その容態を見ただけで、一姫の顔から血の気が引いた。
「…彩樹さん!」
 命に関わる怪我…それは一姫にもすぐにわかった。
 泣きそうな表情でアリアーナと早苗を見る。
「サイキ…?」
 力のない声でつぶやくと、アリアーナは背後の丘を振り返った。
 丘の上の兵士たちを睨み付ける。
 まったく無防備なアリアーナを見て、また兵士たちが銃を構えた。
「姫様、危ない!」
 アリアーナの腕を掴んで物陰へ連れていこうとした早苗は、びくっとその手を引っ込めた。
 いつも無表情なアリアーナの顔が怒りで歪んでいた。
「サナエは下がっていろ。あいつらはわたしが許さん」
 喉の奥から絞り出すような低い声でつぶやく。
「貴様ら、よくもサイキを…」
 アリアーナの背後で、崖崩れでも起きたかのような音が響いた。
 銃を構えてアリアーナに照準を定めていた兵士たちは驚きの表情を浮かべ、思わず引き金から指を離す。
 アリアーナの背後で、巨大な影が動き出していた。
 粉々に砕け、崩れ落ちた氷塊の中から、竜がその姿を現した。


 すぐさま逃げ出した兵士は一番賢かったと言えるだろう。
 しかし、幾人かは新しい目標に向かって反射的に引き金を引いてしまい、自分達が敵であることを竜に知らしめる結果となった。
 竜が怒りの咆哮を上げる。
 もう、アリアーナたちを護る盾は必要なかった。
 彼女たちに構っている余裕のある者など残ってはいない。
 ただ、死にものぐるいに逃げるだけ。
 アリアーナたちは竜の足元にいたために、かえって竜の視界から外れる結果となった。
 竜は足元の少女たちに気付かず、少し離れて彼を取り巻いていた兵士たちに襲いかかった。
 クモの子を散らすように逃げまどう兵士たち。
 もう誰も反撃などしない。
 何もかも放り出して、ただ一目散に逃げるだけ。
 この世界の者にとって、竜とはそれほど圧倒的な存在なのだ。
 五分後にはもう、見える範囲で動くものはいなかった。
 竜も、逃げた兵士たちを追ってどこかへ行ってしまった。
 あとに残ったのは、湖のほとりの四人の少女だけ。
 早苗は、この光景を呆然と見つめていた。
 アリアーナの瞳は、さきほどまでの竜と同じくらい怒りに燃えている。
 これほど感情をあらわにしたアリアーナを見るのは初めてだった。
「…サイキの様子は?」
 ふと我に返ったように、アリアーナが一姫に訊く。
 一姫は泣き顔で首を振った。
「一応、手当はしましたけど…、こんなひどい怪我、わたくしの魔法ではとても治せませんの。すぐにもフィフィールさんか、ちゃんとしたお医者様に診ていただきませんと…」
「そんな…彩ちゃん…」
 絶望したような声で早苗がつぶやく。
 彼女たちが乗ってきた翼竜は、竜と戦っていたときの騒ぎでいずこかへ飛び去ってしまっていた。
 兵士たちが乗ってきた馬がまだそのあたりに残っているかもしれないが、馬ではこの森を抜けて一番近い大きな街まで、一日や二日では辿り着けない。
 アリアーナは唇を噛んで、意識のない彩樹を見下ろしている。
「…ひとつだけ、心当たりがないわけでもない」
「どこです?」
 アリアーナはそれには答えず、おとがいに手を当ててなにか考え込んでいる。
「…とにかくまず、馬を探そう。私たちだけではサイキを運べないからな」



 森の中の細い道を、二頭の馬が連なってい歩いている。
 前の馬に、アリアーナと意識のない彩樹。
 後ろの馬に、早苗と一姫。
 誰も、口をきかない。
 ただ、ひづめの音だけが規則正しく響く。
 夕陽が、西の山陰に隠れる頃、森が切れて小さな砦が見えてきた。
「姫様、あれは…?」
「このあたりの森はシルラートの猟場なんだ。あの砦は、まあ別荘代わりだな。普段は留守を守る者が数人いるだけだが、いまはシルラート本人が来ているはずだ」
 その言葉に、早苗と一姫は目を丸くする。
「どうして…」
「わたしが竜の湖に来ているからな。必ず様子を見に来ているはずだ」
 アリアーナは後ろを振り返りもせずに答える。
「じゃあ…先刻の兵たちもシルラート様の…?」
「それはどうか知らん。確率は二分の一だな、シルラートかサルカンドか…。いや、二人が共謀して、ということも考えられるか」
「そんなところに行くつもりなんですか? 殺されますよ! 向こうは姫様の命を狙っているのに、自分から相手の手の中に飛び込むような真似…」
 早苗は思わず大きな声を出す。
 しかし、アリアーナは平然と答える。
「だが、そこなら医者か正規の魔術師がいるだろう。他に、今日のうちに辿り着けるところでサイキの手当てができるところはない」
「だからって…」
「大丈夫だ。心配はいらん」
 アリアーナはそう言うと、馬を降りて門の前に立った。
 その建物は、古い砦を普段の生活向きに改装したものらしい。
 周囲には小さな堀があるが、門の前の跳ね橋は降りたままだ。
 アリアーナの顔を見た門番は、ひどく驚いた様子で伝令を出す。
 アリアーナは平然と進んで行くが、早苗と一姫は緊張で身体を固くしていた。
 この砦、小さいとはいっても数百人の兵を収容することはできる。
 もしもシルラートが良からぬ考えを持っていれば、二人だけでアリアーナを護ることは不可能だ。
 しかし、砦の中に入ったアリアーナを出迎えたのは、武器を構えた兵士の列ではなく、彼女の兄、シルラート・シリオヌマン本人だった。
 普段着のままで、武器を身に付けている様子はない。
 口元には微かに笑みを浮かべているが、その目つきは鋭く、どちらかといえば精悍な顔つきだ。
 黒髪で、前髪を目にかかるくらい長く垂らしているところなど、少し彩樹に似ている。
 シルラートは早苗を見て一瞬眉をひそめたようだったが、何事もなかったかのようにアリアーナに向き直る。
「君の方から私を訪ねてくるとは珍しいな、アリアーナ。どうしたのかな」
「しらばっくれるな。どうせみんな知っているのだろう?」
 静かな口調でゆっくりと話すシルラートに対し、アリアーナはやや怒ったように早口で言う。
「命を狙われて、護衛の一人が重傷を負った。その治療をして欲しい…と?」
「そこまでわかっているなら話は早い。用心深い兄上のことだ、医者くらい連れてきているのだろう? 今すぐサイキの手当をしろ」
 たたみかけるように言うアリアーナに向かって、シルラートはわずかに肩をすくめてみせる。
「どうして私が? 私やサルカンドにとっては、君の護衛が一人減る…それも一番手強い相手が…、それは好都合なことだとは思わないか?」
 その言葉に、早苗と一姫がぴくりと反応した。
 やはり、この男の差し金だったのか…。
 どうすればいい?
 どうすればこの状況でアリアーナを護れる?
 こんな時、彩樹ならどうする…?
 早苗は前に出てアリアーナを庇おうとしたが、アリアーナは手でそれを制する。
「ただでとは言わん。わたしと取引しないか?」
「取引?」
 意外そうにシルラートが聞き返す。
「サイキの命と、王位を引き替えというのはどうだ?」
 アリアーナを除く、その場の全員が仰天した。
 早苗も、一姫も。
 いつもポーカーフェイスのシルラートですら、驚きを隠しきれずにいる。
「…いったいどういう…、いや、落ち着いた場所で話をしよう。怪我をした娘は中へ運ぶといい。とりあえず手当はさせる」


「…で、いったいどういうつもりだ、アリアーナ?」
 応接室で二人きりになったところで、シルラートが先に口を開いた。
 早苗はアリアーナに付いてきたがったが、アリアーナはそれを許さずに彩樹のそばに付き添うように命じていた。
 シルラートも誰も同室させようとはせず、お茶を運んできた侍女が下がった後は二人きりになった。
「どうもこうも、先刻言ったとおりだ。サイキを助けてくれたら、兄上に王位を譲ってもいい」
 アリアーナは静かに言った。
 シルラートはこの妹の真意を計りかねて、ティーカップを口に運んで時間稼ぎをし、次に言うべき言葉を探した。
「…そうまでしてあの娘を助けたいと?」
「そうだ」
「しかしそれでは、あの娘が身を挺してアリアーナを助けたことが無駄にはならないか?」
「無駄? 何を馬鹿なことを」
 お茶を一口すすると、アリアーナは言葉を続けた。
「サイキが護ろうとしたのはわたしの生命であって、私の地位ではない」
 その言葉にシルラートははっとした表情を見せる。
「なるほど、そう言う考えもあるか…。もう一度確認するが、そうまでして助けたいのか? たかが護衛の娘一人のために、王位を投げ出すと?」
「そうだ。兄上もいちいち刺客を送る手間が省けるだろう?」
 そう言うアリアーナの表情には、少しも深刻な雰囲気はなかった。
 その後、しばらく沈黙が続いた。
 アリアーナが何を考えているのかはわからなかったが、シルラートにはいろいろと考えなければならないことがあった。
 考えて、考えて、カップが空になる頃やっと結論が出た。
「君らの友情には感服するが…」
 カップをテーブルに置きながら、シルラートは言った。
「いらん」
「は?」
 今度は、アリアーナが驚く番だった。
 一瞬、自分の耳を疑う。
「王位などいらない。少なくとも、今のところはな」
 シルラートはそう言うと、さきほどまでとは少し違った、子供っぽい笑いを浮かべた。
「王位を譲られて、今度は私がサルカンドの刺客に狙われるのか? 自分だけではなく、大切な者の生命まで危険にさらして…。私はごめんだね。その役は君に任せる」
「それじゃあ…」
 アリアーナは戸惑っていた。
 今のところ、彼女は他に取引の材料を持ってはいないのだ。
「王位はしばらく君に預けておく。しかしあの娘は助けるし、君たちも城まで安全に送ってやろう」
 シルラートの表情はどことなく、いたずらを思い付いた子供のように見えた。
 それが、アリアーナには不安だった。
 この兄は、こういうときこそなにかとんでもないことを企んでいるのだ。
「…いったい何を企んでいる?」
「さあ、ね」
「では、ひとつ教えてほしい。あれは、兄上が命じたのか?」 
「信じるかどうかは君の勝手だが、私じゃない…少なくとも今回はね。ちょっと用事を思い出した。すぐ戻るから待っていてくれ」
 シルラートはそう言って席を立つ。
 警戒しながらも、アリアーナは小さくうなずいた。
 なんの代償もなしに、彩樹を手当てし、彼女たちを城まで送ってくれるという。
 彼女の知る兄は、そんなにお人好しではないはずだった。
 アリアーナが見る限り、シルラートは絶対に何かを企んでいる。
 それがアリアーナにとって害になることかどうかはわからなかったが。



 彩樹は眠っていた。
 呼吸もずいぶん落ち着いている。
 手当てをしたシルラートの従医の話では、もう命の心配はないということだった。
 しかし、付き添っている早苗と一姫の顔には安堵の色は見られない。
 まだ、アリアーナが戻っていないからだ。
 サイキを助けれくれたら王位を譲ってもいい――そんなアリアーナの言葉は二人にとっても意外なものだった。
 これまで、彩樹とアリアーナの間にはどう見ても友好的な雰囲気はなかったのだから。
 それを言ったら、彩樹が命懸けでアリアーナを護ったのも意外といえば意外だったが。
「でも、そんなところが彩樹さんらしいんですよね」
「実は、ウチらが思っているほど仲悪くないのかもね、この二人」
 そう言うと、早苗は立ち上がった。
 アリアーナの戻りが遅すぎるので、様子を見に行くつもりだった。
 一姫を彩樹のそばに残して廊下に出る。
 見たところ、見張りなどもいないようだ。
 勝手が分からないので周囲に気を配りながらそろそろと進んでいくが、人の気配はほとんどない。
 どうやら、砦の中は思ったより人が少ないらしい。
(だとすると、先刻の兵たちはここにいるわけじゃないのかな…。まさかみんな竜にやられたわけじゃないだろうし)
 そんなことを考えながら角を曲がったところで、いきなり一人の男性と出くわした。
「あ! え…。あ、あなたは…」
「おや、こんなところで何を…。ああ、アリアーナが心配で様子を見に来たのか?」
 そこにいたのは、アリアーナと一緒にいるはずのシルラートだった。
 早苗は思わず、反射的に銃を構えようとして、それを部屋に置いてきてしまったことを思い出す。
「あ、あ、あの…」
「アリアーナは向こうの部屋にいる。心配しなくても、なにも危害を加えたりはしていないよ」
 シルラートは口元に笑みを浮かべて言った。
「それより、あの娘の容態はどうなんだい?」
「え、えと…あの、と、とりあえず、命の心配はない、と…」
 早苗は緊張のあまりどもりながら答える。
「そうか、それは良かった」
 どこまでシルラートの本心かわからないが、少なくとも表面上は敵意は感じられない。
 それが逆に、早苗の不信感を煽った。
「あの…、え〜と…その…」
「君は…サナエ、だったな。そんなに警戒することはない」
 シルラートは早苗を安心させるためか、そう言いながら小さく両手を広げて見せた。
「私はアリアーナに危害を加える気はない。怪我をした娘が起き上がれるようになったら、君たち四人を城に送ってあげよう。それに、王位はいまでもアリアーナのものだ。私はそれを奪うつもりはない」
「え…? あ、あの…、でも…」
 シルラートの発言はあまりにも予想外のもので、早苗はすぐには意味を理解できなかった。
 頭の中で何度も、シルラートの言葉を反芻する。
 姫様に危害は加えない?
 彩ちゃんの手当てをしてくれて、起き上がれるようになったらウチらを城まで送ってくれる?
 姫様から王位を奪う気はない?
 それはつまり…
 そんなバカな――?
 早苗の認識では、アリアーナの兄、サルカンドとシルラートは敵であるはずだった。
 自分達を差し置いて後継者に選ばれた妹を亡き者にして、王位を奪おうとしている、と。
 だからこそ、早苗は塔の上から狙撃しようとしたり、シルラートに銃を突きつけて脅したりもしたのだ。
 しかしいまの発言は…?
 アリアーナの護衛である早苗たちを謀るために口から出まかせを言っているという可能性もあったが、早苗にはそうは思えなかった。
 精悍な、悪く言えばきつい顔立ちのシルラートだが、いまは精一杯の優しげな笑みを浮かべている。
「あの…、シルラート殿下は、姫様の敵だと思ってました…」
 戸惑いがちに早苗は言う。
「そんなことはない」
 シルラートは、さも心外だといった風に首を振る。
「私にはこれっぽっちもそんなつもりはない。しかし…側近の中には、私を王位につけたがっている、あるいは私が王位につきたがっているのではと誤解している者がいるかも知れない。その者たちが先走ってアリアーナや君たちに迷惑をかけていたら申し訳ないが」
(ウチら…姫様も含めて、みんな誤解してた? シルラート様って、実はいい人じゃん。実際、彩ちゃんは手当てしてくれたんだし…)
 シルラートは真っ直ぐに早苗を見ている。
 早苗には、嘘偽りを言っているようには見えなかった。
「えっと…、じゃあ、ホントに?」
「もちろんだとも。私がいまさら良からぬことを企むはずがないだろう。第一、君に釘を刺されたばかりじゃないか」
 それを聞いて早苗は思わず赤くなった。
 そうだ、シルラート様が姫様の敵と信じて、銃を突きつけて「姫様に手を出すな」と脅したんだっけ。
 こんないい人にそんなことをしたなんて…。
 思い出すと、恥ずかしくて穴があったら入りたくなる。
 穴がなければ、いっそ自分で掘って埋まってしまいたい。
「あ、あ、あのっ、すみませんでした!」
「いいさ。君の立場を考えれば仕方のないことだ」
 シルラートは笑って応える。
「私がサナエを怒らせたり、悲しませたりするようなことをするわけがないじゃないか。君は怒っている顔も魅力的だが、笑っている顔はその何倍も素敵だ」
 シルラートは早苗の肩にそっと手を置き、耳元で囁くように言った。
 早苗の頬が朱に染まる。
「私にとっては、王位などよりサナエの笑顔の方がずっと価値がある」
「あ、あ、あの…それって…」
 これまた予想外の展開に、早苗はなんと言ったらよいかわからなかった。
 早苗の恋愛感情は、彩樹などとは違って比較的ノーマルだし、よく考えてみればシルラートはなかなかの美形なのだ。
 男子にはけっこうモテる早苗だが、美形の、しかも王子様に口説かれるなどというのはもちろん初めての経験だった。
 足が地に着かない気持ちで、ぽ〜っとした表情でシルラートを見つめている。
 そんな早苗を正気に戻したのは、シルラートの背後から聞こえてきた冷静な声だった。
「なるほど…それが狙いだったか」
 そこに、相変わらずの無表情で、腕を組んだアリアーナが立っている。
「姫様っ!」
「アリアーナ、部屋で待っているようにと言っただろう」
 シルラートが忌々しげに言いながら振り向く。
「なに、兄上が何を企んでいるのかわかったのでな。急いで追ってきた」
「企むって…姫様?」
「実はなサナエ、兄上は…」
 アリアーナは早苗に向き直って言った。
「ものすごい、女たらしなんだ」
「…!」
 十数秒間、沈黙がその場を支配した。
 目を白黒している早苗がアリアーナの言わんとするところをある程度理解したところで、彼女は言葉を続けた。
「王位はいらない、サイキは手当てしてくれる――今日に限って妙に親切だと思ったが、物わかりのいい親切な男の振りをして、サナエをたらし込もうとは…。相変わらずガールハントには手段を選ばない男だな」
 やや皮肉めいたアリアーナの台詞に、シルラートは小さく舌打ちをする。
「父上が、兄上を跡継ぎに選ばなかった理由がこれだ」
 アリアーナはさらに言葉を続けた。
 早苗はなにも言えずに呆然としているだけだ。
「女好きはまあいいとしても、兄上にとっては国のことや国民のことよりも、一人の女性を口説くことの方が大切なんだ。そんな人物に国を任せるわけには行くまい? まあ、『王位などよりサナエの笑顔の方がずっと価値がある』という台詞はその点、あながち嘘ではないな。しかし、ジゴロにはいいかもしれんが、国王向きの性格ではない」
「あの…、それじゃあ…」
 自分は騙されていたのか?
 いや、別にシルラートは嘘は言っていない。
 しかし…
 先刻は一瞬、誠実そうに見えたのに実はものすごい女たらし?
 そんなぁ…
「兄上には気をつけた方がいいぞ、サナエ。
この顔と台詞に騙されてうっとりしていると、次の瞬間にはベッドに連れ込まれているからな」
「人聞きの悪いことを言うな! それにしてもどうして私の狙いがサナエだとわかったんだ?」
「わからいでか。兄上の好みくらい」
 そう言うとアリアーナは早苗の顔を見た。
 その視線をちょっと下にずらして、それから意味深な笑みを浮かべてまた早苗の顔を見る。
 その動作で早苗にもわかった。
 ズバリと核心をつく。
「つまり、シルラート様は巨乳好きなんですね?」
 半ば呆れたような早苗の口調だった。



「やっぱり、ちょっと悪いことしたかなぁ?」
 独り言のように早苗はつぶやいた。
「思わず、ひっぱたいちゃったもんなぁ」
「な〜に、あの女たらしにはいい薬だ」
 翼竜の手綱を取っているアリアーナが応える。
 あれから三日、ようやく彩樹が起き上がれるようになったので、四人はシルラートが用意してくれた翼竜で城に帰るところだった。
「でも、ちょっともったいないですわね。玉の輿じゃありませんの」
「ん〜、やっぱり、もったいなかったかな」
「でも、もうキスはしたんですよね?」
「え? いや、でも、あれは…ほら…、竜を封印するために、シルラート様の助けが必要だったし…」
 アリアーナは城に帰る前に、彼女が解き放ってしまった竜を再び封印しなければならなかった。
 まだ動けない彩樹に代わって、アリアーナの手助けをしたのがシルラートだ。
 彼もまた王家の血を引く者であり、アリアーナほど強いものではないにしろ、『封印の力』を受け継いでいたから。
 二人の力により竜の湖は再び氷に閉ざされたのだが、シルラートは力を貸すにあたってひとつの交換条件を提示していた。
 つまりそれが『早苗のキス』なのである。
「仕方ないじゃない? あの場合…」
「仕方ないという割には、さほど嫌そうではなかったな」
「そんなことありませんってば!」
 早苗の大声に、それまで眠っていた彩樹が目を覚ましかけて寝返りをうつ。
 早苗はあわてて口を押さえた。
 彩樹はまだ完調ではなく、翼竜に乗っての長距離の移動も負担が大きいのだ。
 一姫が人差し指を唇に当てる。
「それにしても、あの時のシルラートの驚き様は見物だったな」
「え? なんの話ですの?」
 その場にいなかった一姫が首をかしげる。
「サナエが、この世界の人間ではないと知ったときだ。シルラートが仰天したところなど、そうそう見れるものではない。あれは傑作だった」
「姫様がいけないんですよ。そんな大事なことを秘密にしているなんて。驚くのが当たり前じゃないですか」
「大事なことだからこそ秘密にしているのだ。サイキたちの素性を知っているのは、わたしの他、じいとフィフィールくらいのもの…」
 アリアーナはそこまで言って、不意に口をつぐんだ。
「姫様、どうしましたの?」
 そう訊ねる声にもすぐに応えず、なにか考えている。
「…いや、なんでもない。城が見えてきたぞ」
 アリアーナが指差す方向にぽつんと、王宮の真白い建物が見えてきていた。



 アリアーナは翼竜を巧みに操って城の中庭に着地させた。
 翼竜の背から降り立った四人を、城の人々が出迎える。
 早苗が彩樹に肩を貸しているので、早苗がいつも肩から下げている銃は代わりにアリアーナが持っていた。
「姫様、よくぞご無事で…」
 フィフィールと共に人波の先頭にいたシサークがそう言いかけた瞬間、中庭に銃声が響いた。
 突然の出来事にあちこちで悲鳴が上がる。
 頬をかすめた魔光弾に肝をつぶしたシサークは、一瞬遅れて腰を抜かしたように尻餅をつく。
 彩樹たち三人も驚いていた。
 アリアーナが突然、持っていた早苗のMP5をシサークに突きつけて引き金を引いたのだ。
 平然としているのは二人だけ。
 アリアーナ本人と、シサークの横に立っていたフィフィールだ。
「竜にわたしを殺させるという当てが外れて残念だったろう、じい?」
 相変わらず感情の感じられない口調でそう言うと、アリアーナはもう一度引き金を引いた。
 地面についたシサークの手の横で銃弾が弾ける。
 シサークはあわててその手を引っ込めた。
「アリアーナ、お前何を…その爺さんはお前の…」
 お前の側近だろう?
 そう言って止めに入ろうとした彩樹を、アリアーナは片手を上げて制する。
「姫様、いったい何を…。私に銃を向けるなどと…」
 そう言うシサークの声はいくぶん震えていた。
「将来、王位を巡るライバルとなるかもしれない相手の元に、いざというときに備えて何年も前から自分の手の者を送り込んでおく…ずいぶんと気の長い計画だな」
「い、いったい何を言っておられるのです、姫様…?」
「わたしの護衛に、異界の者を雇うことを提案したのはじいだったな」
 アリアーナの言葉のあとを、フィフィールが継ぐ。
「一応、理屈は通りますよね。異界から来た者は一般に、優れた能力を持ちますから。
 でも、普通に考えれば、この状況で一番大切な資質は姫様に対する忠誠心でしょう? 国はおろか、住む世界すら違う者にそれを期待するのですか?」
「しかし…」
 普段はどちらかといえばおっとりとした雰囲気のあるフィフィールが、いつになく厳しい目をして言った。
「大変な今の時期に、竜を封印することを提案したのもシサーク殿でしたね。確かに、凶暴な竜をいつまでも野放しにしておくことはできませんが、少人数で辺境にある竜の湖まで赴けば、どうぞ襲ってくださいと言っているようなものでしょう?」
「サイキたちが思いのほか有能で城での襲撃に失敗したから、大人数をけしかけられる場所へ誘い出したというわけだ」
 そう言うとアリアーナはもう一度発砲した。
 今度はシサークの足の間で銃弾が弾け、シサークは尻餅をついたままずるずると後ずさった。
「ご、誤解です。私はいつも姫様のためを思って…」
 泣きそうな表情で弁解するシサークを鼻で笑って、アリアーナは周囲を見回した。
 周囲の者は、彩樹たちも含めてただ呆然と三人を見つめている。
「サルカンドが見当たらんな? どこへ行った?」
「さ、さあ、それは…」
 シサークの額から、一筋の汗が流れ落ちる。
「サイキたちが異世界から来たと知っているのは誰だ? わたしと、じいと、フィフィールだけのはずだ。他の者にはサイキたちの素性は秘密にしていた」
「そ、その通りです」
「だったら…」
 アリアーナはすっと目を細めた。
 親指で、銃のセレクターレバーを「フルオート」に切り替える。
「何故、サルカンドがそれを知っていた? わたしが見ていないところで、じいが誰と会い、何を話していたか、わたしが知らぬとでも思ったか? なんのために、わたしがフィフィールを竜の湖に連れていかなかったか、考えなかったようだな」
 一瞬のことだったが、シサークの顔にはっきりと「しまった」という表情が浮かんだのは、彩樹たちにも見て取れた。
 アリアーナの表情が、やや厳しいものになる。
「今までは、まあ目をつむってきた。サルカンドもいずれ諦めると思っていたからな。だが、わたし以外の者にまで危害が及ぶとなれば、見過ごすことはできんぞ」
 そう言うなり、アリアーナは引き金を引いた。
 周囲で立て続けに銃弾が弾け、シサークは小さく悲鳴を上げながら頭を抱えて丸くなる。
 単発の銃しかないこの世界で、早苗が改造した電動フルオート魔光銃は人々を怯えさせるには十分すぎる威力を持っていた。
 弾倉に収められた二百発以上のの魔光石の結晶が、毎秒十六発ずつのエネルギー弾と化して撃ち出される。
 アリアーナは引き金を離さない。
 わざと外しているのか、単に狙いが下手なだけなのか、シサークに直撃した魔光弾は一発もないが、何発かは腕や足をかすめたものもあるようだった。
 その度にシサークは大げさにびくりと身体を震わせ、情けない悲鳴を上げる。
 アリアーナは銃を撃ち続ける。
 口元に、かすかな笑みを浮かべながら。

 やがて弾倉が空になり、アリアーナはようやく引き金から指を離した。
 シサークは特に怪我もしていないはずだが、その顔色は死人並に血の気がない。
 その周囲の地面はまるで蜂の巣だ。
 銃声が止んで、中庭は静寂に包まれる。
 アリアーナは銃を下ろし、熱っぽい瞳で、感極まったように小さくほぅっと溜息をついた。
「カ・イ・カ・ン…」
「てめ〜は、昔の薬師丸ひろこかぁぁっっっ!」
 衆人環視の前で、思わずこの国の次期女王にツッコミの飛び蹴りを入れてしまう彩樹だった。



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