十 少女たちの微笑み


 カラン…
 アイスカフェ・オレが半分くらい残っているグラスの中で、氷が小さな音を立てる。
 彩樹は頬杖をついて、窓の外を見つめていた。
 特に何を見ているというわけではない。
 ただ、ぼんやりとしているだけ。
 今日もよく晴れていて強い陽射しが照りつけているが、屋内は冷房が効いているし、内と外とを隔てているガラスは濃い色付きのうえ二重になっているから、外の暑さも彩樹には関係がない。
 視線を移すと、この喫茶店のマスターである晶が、カウンターに座って本を読んでいた。
 彩樹の他に、客は誰もいない。
 ここは、彩樹の家の近くにある喫茶店『みそさざい』。
 彩樹は時々ここにコーヒーを飲みに来るのだが、いつ来ても客がいるときの方が少ないほどで、よくこれで商売が成り立つものだと人ごとながら心配になる。
 しんとした店内には、古い振り子時計の音だけが静かに響いていた。
 この店の中はなんとなく時間がゆっくりと流れているような雰囲気があって、彩樹はそれが気に入っている。
「彩樹ちゃん、お代わり、いる?」
 本から顔を上げて晶が訊ねる。
 彩樹は小さくうなずいた。
 他に客がいないとき、晶はよくこうしてお代わりをサービスしてくれる。
 本当に、これでどうしてやっていけるのか不思議だったが、彩樹が小学生の頃からずっとこんな調子なのだから、まあ何とかなっているのだろう。
「はい、どうぞ」
 晶が新しいグラスをテーブルに置く。
「ありがと」
「そういえば彩樹ちゃん、夏休みに入ってからずっと顔を見せてなかったわね。なにやってたの?」
「ん…ちょっと、バイト」
 ストローをくわえたまま彩樹は答える。
「アルバイト? なんの?」
「お姫様のボディガード」
 一瞬、怪訝そうな顔をした晶だったが、
「彩樹ちゃんにぴったりね」
 冗談だと思ったのだろう。
 ふふっと笑うと、またカウンターに戻って読書の続きをはじめた。
(そういえば、外に出るのも久しぶりだな…)
 こちらに戻ってから何日間か、彩樹は家でぼ〜っと過ごしていた。
 怪我はもうすっかり治っているし、魔法を用いた治療のおかげで傷跡も残っていないのだが、なんとなく身体がだるくて、出歩く気になれなかったのだ。
 あるいは、向こうにいる間ずっと精神を張りつめていた反動かもしれない。
 なんの緊張もなしにのんびり過ごせるというのはいいものだ。
 彩樹がこのまま昼寝でもしようかと思ったとき、
「あ、彩ちゃん。こんなところにいた〜!」
「まあ、探してしまいましたわ」
 そんな声を上げながら、店内に入ってきた二人の少女がいた。
「も〜、探したよ。家に電話しても出ないしさ〜」
 早苗が口を尖らせる。
「なんか用か?」
「わたくしたち、彩樹さんをお誘いに参ったんですの」
「誘いに…って?」
「予定がなければさ、一緒に遊びに行かない?」
 考えてみれば、この二人に会うのも仕事が終わってからは初めてだ。
 今日ものんびり一人で過ごすつもりだったが、まあ、付き合ってもいいかもしれない。
「そうだな、付き合ってやるか」
 彩樹はグラスに残ったアイスカフェ・オレを飲み干して立ち上がる。
「で、どこ行くんだ? カラオケ? ゲーセン? それともファクトリーにでも行くか? まさかこれから海とか言わないよな?」
「もっと面白いところ。ちゃんと考えてあるよ」
 早苗と一姫の間では既に話がまとまっているのだろう。
 二人は目くばせをしてふふっと笑った。


 二人は、彩樹を『みそさざい』の前にある公園に連れていった。
 真夏の炎天下ということで、他に人影はない。
 と、いきなり一姫の手の中に杖が現れる。
 向こうで使っていた、魔術師の杖。
 一姫は杖の先で、公園の地面になにやら紋章を描き始める。
 その図形には、彩樹も見覚えがあった。
 株式会社MPSの会議室と、王宮の塔の中にも同じものがあった。
「おい、一姫…これって…」
 転移魔法のための魔法陣。
「こっそり、憶えておいたんですの。わたくしたちだけでも向こうに遊びに行けるように」
「一週間以上も『剣と魔法の幻想世界』に行ってたのに、結局、王宮と竜の湖以外ほとんどなにも見てないじゃない。きっと、他にも色々面白いものがあるよ」
「つまり、向こうに遊びに行く、と?」
 その言葉に、早苗と一姫はにっこりと笑ってうなずいた。
「実は、知内さんもお誘いしようと思ったんですけどね」
 一姫が言う。
「先ほど会社にお電話しましたら、急に入院されたそうですわ。玲子さんのお話では急性の胃潰瘍とか…」
 それを聞いて彩樹は思わず吹き出した。
 無理もない――こちらに帰ってきたときのことを思いだして納得する。
 彩樹の怪我などのために四日も続けて向こうに行っていたので、こちらに戻ったときには転移の際の時差を最大限に利用しても、もう夜中近くになっていた。
 何事もなければ夕方前には帰れるはずなのだから、その間、知内がどれほど心配したかは容易に想像できるというものだ。
 そういえば、あの時もなんだか胃のあたりを押さえていたっけ…。
 知内はその時、何故か『北の国から』のテーマ曲を口ずさんでいたのだが、彩樹たちはその理由を知らない。
(ま、あのおっさんのことはどうでもいいとして…)
「よし、行くか」
 彩樹はうなずいた。
 一姫が、杖を掲げて呪文を唱えはじめる。



 三人がマウンマン王国の王宮を訪れたとき――
 城の中はちょっとした騒ぎになっていた。
 アリアーナが、失踪していたのだ。
 いや、失踪というのは少し大げさだろう。
 しかし、行方がわからなくなってからほんの小一時間程度とはいえ、一国の女王が姿を消す時間としては十分すぎるほどのものだ。
 とにかく、三人も手分けして捜索を手伝うことにした。
 サルカンドたち、アリアーナの命を狙っていた者は全て捕らえられたとはいえ、全ての危険がなくなった保証はどこにもないのだ。


 早苗たちと別れた彩樹は、ちょっと考えてから城の裏門を抜け、城の背後に広がる森の中へと入っていった。
 外は強い陽射しが照りつけているのだが、樹々が密集した森の中はひんやりと涼しい。
 どこからか、鳥の声が聞こえてくる。
 彩樹は、大きく深呼吸をした。
 樹の匂いが、体の中に染みわたる。
 樹々の茂った森の中を、道に迷いながらも二十分ほど歩いて、彩樹はようやく目的地にたどり着いた。
 深い森の中にある、青い宝石のような泉。
 水面で反射した木洩れ日が、きらきらと輝く。
 この場所は一度来たことがあるだけだが、彩樹はとても気に入っていた。
 ここにいると、とてもゆったりとした気分になれる。
 ゆっくりとした時間が流れる場所。
(ま、その点だけはあいつに共感できるな…)
 彩樹は心の中でつぶやいた。
 泉のほとりに一人の少女の後ろ姿が見える。
 かすかに苦笑しながら、ゆっくりと近付いていった。
 その足音に気付いたアリアーナがこちらを振り返る。
 彩樹と目が合ってほんの一瞬驚いたような表情を見せて…
 口を開いたのは、ほとんど同時だった。
「…久しぶり?」
 二人の口元に、微笑みが浮かんでいた。

― 終わり ―


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