一.〜翠〜


 六月のある晴れた日曜日の午後。
 気持ちのよい陽射しが降りそそぎ、樹々は日増しにその緑を濃くしている。
 その日彩樹は、一人で家の近くの喫茶店『みそさざい』でくつろいでいた。
 一番奥の席に座って、時折、アイスカフェ・オレのグラスを口に運ぶ。
 店の中は静かで、古い振り子時計の音だけが響いている。
 他に客はいない。
 カウンターに、金髪に赤いメッシュという派手な髪をした、女子大生風の女の子が座っている。この店のバイトのウェイトレス、柊由奈だ。
 時々、マスターの晶さんを相手に下品な冗談を披露して笑っているが、それとて店内の静寂を破るほどのものではない。
 彩樹は、中学の頃からこの店がお気に入りだった。
 いつ来てもあまり客がいなくて。
 静かで。
 なんとなく、時間がゆっくりと流れているようにすら感じる。
 この空間は、空気が濃密で、時が希薄だ――以前誰かが、そんなことを言っていたような気がする。
 たしかにそうかもしれない。
 いつも殺伐としている彩樹が身も心もリラックスできる場所など、そうそうあるものではない。
 彩樹は静かに目を伏せた。
 こんな時の彩樹が、なにを考えているのかは誰も知らない。多分なにも考えていないだろうというのが彩樹を知る者たちの大方の意見だった。


 グラスが空になるまでに、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
 そろそろ帰ろうか、と立ち上がりかけた彩樹は、先刻まではいなかった一人の客に気付いた。
 不思議そうな表情で、かすかに眉を上げる。いつからそこにいたのだろう。
 彩樹と同じくらいの年頃の少女だ。
 最近では珍しい長いストレートの黒髪は、腰に届くほどの長さがある。しかし顔立ちはどちらかといえば西洋的な雰囲気があって、思わず見とれるほどの美少女だった。
 あまり派手さはない。物静かな空気をまとった、良家のお嬢様とでもいった感じだろうか。
 同じお嬢様でも、やや天然ボケの一姫とはずいぶん違う。もっとも、天然入っているキャラクターも嫌いではない。特に、一姫のようにそれが似合っている場合はなおさらだ。
 その少女は、紅茶のカップを静かに口に運んでいる。その動作のひとつひとつが、完璧な優雅さを備えていた。現実にはあり得ない、画家のキャンバスの中にしか存在し得ないような美しさがそこにあった。
 彩樹は、そんな少女の姿を何故か少し驚いたような表情で見つめていた。
 女好きで面食いの彩樹が黙って見過ごせる状況ではないのはいつものことだが、それにしても少し様子が違う。
 レジに向かった足を止めて、数秒間じっと少女の顔を見つめて。
 それから彩樹は、少女が着いているテーブルの、正面の椅子を引いて腰を下ろした。
 少女が顔を上げて彩樹を見る。
「ここ、座ってもいいかな?」
 既に座っているくせに、そう訊いた。少女が小さく微笑む。
「他にも、席は空いていますよ?」
 別に拒絶している様子ではない。ただ冷静に事実を述べただけのようだ。いま店内にいる客は、彩樹とこの少女だけなのだから。
「オレは、この席がいいんだ」
 生まれついてのジゴロ――と早苗に言われる笑みを浮かべた彩樹が言うと、少女はゆっくりとうなずいた。
「ではどうぞお好きなように。わたしは構いませんから」
 妙に丁寧な言葉遣いだった。本当に、どこか良家の令嬢なのかもしれない。
「ああ、好きにさせてもらうよ」
 そう言ってもう一杯アイスカフェ・オレを注文する。彩樹のことをよく知っている晶さんは別になにも言わず、棚から新しいグラスを取り出して氷を入れた。もしかしたら少しばかり、呆れた表情を浮かべていたかもしれないが。



「あれ、彩樹さんじゃありませんこと?」
 五十メートルほど先の通りを横断している二つの人影を指差して、一姫が言う。早苗も、その方向に目をやった。
 黒のシャツに麻のジャケット、下は洗い晒しのジーンズ。いつもの彩樹の姿だ。しかし、その隣にいる黒髪の少女は…知らない人物のようだ。
 綺麗な子だった。
 彩樹のガールフレンドなんてそれこそ数え切れないほどの人数だが、その大半は同じ白岩学園の生徒だ。名前は知らなくとも、顔に見覚えくらいはあってもいいはずだ。しかもあれほどの美人となればなおさらのこと、一度見たら忘れるはずもない。
「誰だろ、あれ。きれいな子だね〜」
 早苗は素直な感想を口にした。
 年齢は彩樹や早苗とあまり変わらないだろう。身長は早苗と同じくらいだろうか。しかし雰囲気はずっと大人っぽい。早苗は胸こそ大きいが、どちらかといえば童顔だ。
 横目でちらりと、隣の一姫を見る。案の定、不機嫌そうに頬を膨らませていた。
 女好きな彩樹の性格はよくわかっていても、やはり面白くないのだろう。しかもその女性が自分よりも美人で、しかもずっと大人っぽいとなればなおさらのこと。一姫もなかなかの美少女ではあるが、その外見は常に実年齢よりも下に見られる。そして一姫本人は、そのことを気にしているのだった。
「彩樹さんてば、ホント、見境ないんですのね」
 むっとした口調で一姫が言う。早苗は小さく首を傾げた。
「やっぱり…あの女の子、どこかで見たことがあるような…?」
「誰ですのっ?」
 一姫が大きな声で訊いてくる。が、すぐには思い出せない。
 それほどよく知っている相手ではないのだろう。しかし、たしかに覚えがある…ような気がする。同一人物かどうかは自信がないが、よく似た感じの女性に。
 人の顔に関してはかなり記憶力のいい早苗は、腕組みをして考える。
 考えて…
「…あっ!」
 ようやくその答えにたどり着いたときには、思わず声を上げてしまった。
 それは失敗だった。答えを見つけたことを、一姫に知らせてしまったから。
「誰ですの?」
「…いや、人違いだった」
 早苗は素っ気なく言った。その言葉は事実だった。嘘をついたわけではない。
 彩樹と一緒にいる少女が、早苗の記憶にあるのと同一人物でないことはたしかだった。彼女は雰囲気こそ大人っぽいが、早苗たちと同年代だ。しかし「似ている」と思ったその女性は、彩樹よりも三歳くらい年上だったはず。
 それになにより…
「で、いったい誰ですの?」
 一姫が訊いてくる。好奇心旺盛な性格だ。「人違い」の一言で納得するはずもない。その上、早苗の様子になにやら不審なものを感じ取っているのだろう。
「いや…あの、えっと…」
「誰ですの?」
 一姫には珍しくきつい口調だ。曖昧に誤魔化す、というわけにもいかないだろう。ここでなにも言わなければ、きっと後で彩樹に直接訊くに違いない。それは出来れば避けたい。
「…あの子、彩ちゃんのお姉さんに似てるんだよ」
 仕方なく、白状した。
 以前、早苗が一人で彩樹の家に遊びに行ったとき、偶然目に入ったアルバムの中の写真。彩樹とはあまり似ていない、物静かで女らしい雰囲気の人だった。ちょうど今の彩樹と同じくらいの年齢の写真だったのだろうか。小学校高学年と思しき彩樹が一緒に写っていた。
「じゃああの方、彩樹さんのお姉さまですの?」
「…違う」
「どうして、そう言いきれるんです?」
「それは…」
 言いかけた早苗は、一呼吸分の間をおいて言葉を選ぶ。
「だってあの子、ウチらと同じくらいの歳じゃん? 彩ちゃんのお姉さんは、たしか三つ年上だし」
 あれが彩樹の姉ではない本当の理由は言わない。彩樹に口止めされているし、そうでなくてもあまり言いたくない。
「でも、彩樹さんにお姉さまがいらっしゃったなんて初耳ですわ。綺麗な方ですのね。ぜひ今度、紹介していただきましょう」
「ダメ! 彩ちゃんに、お姉さんの話はしちゃダメだよ!」
 反射的に、大声を出してしまっていた。その後で口を押さえてももう遅い。
「何故ですの?」
 一姫が訊いてくる。
 もう、誤魔化すわけにはいかない。
 それに、一姫だって彩樹の友人なのだ。知っておいた方がいいのかもしれない。知らずに、無神経な発言をするよりは。
「彩ちゃんには、ウチから聞いたなんて言わないでよ」
 最初に釘を刺しておく。
「…彩ちゃんのお姉さんは、何年も前に亡くなってるの!」
 早苗は、真相を白状した。
 正確には、彼女が知っている事実の半分だけを。



 彩樹たちが住む奏珠別の街の南側に、大きな公園が広がっている。緑の多い、静かな場所だ。
 時刻は、もう夕方になっている。とはいえ六月の北海道は陽の沈むのが遅い。暗くなるのはまだまだ先だろう。
 地面の上に、ふたつの影が長く伸びている。
 彩樹と、そして名も知らぬ少女。
 そう、結局ここまで名前も教えてくれなかった。別に彩樹といることを嫌がっている様子ではないのだが、あまり、自分のことを話したがらない。
「わたし、そろそろ帰らないと」
 少女が言った。少しだけ、名残惜しそうな口調に思えたのは、彩樹の自惚れだろうか。
「まだ、いいじゃん」
 彩樹は当然引き止める。今どきの高校生が帰るには早すぎる時間だ。
「門限が厳しいんです。わたしの家は」
「それじゃあ、電話番号教えてくれよ」
 彩樹はしつこく食い下がる。ガールフレンドには不自由しない彩樹だが、この少女は『特別』だった。このまま逃がすわけにはいかない。
「…縁があれば、また会えますよ」
「縁なんて、実力で作るもんさ」
 彩樹は少女の肩を抱き、強引に唇を奪おうとする。完全に不意をついた動作のはずだったが、少女は予想していたかのように、彩樹の唇に人差し指を当ててそれを制した。
「だめですよ、いきなりそんなこと。あなた、声をかけた女の子にいつもこんなことするの?」
 怒っている口調ではない。口元には相変わらず静かな笑みを浮かべている。
「いつもなんて…特別に気に入った相手にだけさ」
「あなたの言う『特別』って、いったい何人いるのかしら」
 そう言うと、声に出してくすくすと笑った。
 まるで、全てを見透かされているようだった。
 実際のところ、彩樹の『お気に入り』の女の子の数なんて、アドレス帳を見なければ本人でも即答できない。
「とにかく、今日はだめ。そういう強引なところも嫌いじゃないけど…また、そのうち会えますよ、きっと」
 彩樹の肩に軽く手を触れると、少女は長い髪をなびかせながら身を翻した。近くの地下鉄駅の方へと向かう。後を追おうと思った彩樹だったが、何故か足が動かない。
 少女の姿が見えなくなるまで、彩樹は黙って、その後ろ姿を見送っていた。




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