「彩樹くんのお姉さんのこと?」
雨竜玲子は、小さな声で訊き返した。一姫がうなずく。
「それが訊きたくて、一人で私のところに来たの?」
そこは、札幌で人材派遣・紹介業を営む株式会社MPSのオフィス。営業部長、知内祐人の秘書――もとい、有能な美人秘書(自称)を務める玲子の席だ。今日、知内は外出していて社内にはいない。
「考えてみると、わたくし、彩樹さんのことをほとんど知らないんですもの。彩樹さんに直接お尋ねしていいことかどうかわかりませんし…。玲子さんならいろいろご存じかと思って」
玲子は一姫の顔を見つめ、少し考えてから口を開いた。
「それって、彩樹くんのプライバシーでしょう? たとえ知っていても、おいそれと人に話すわけにはいかないのよ」
一姫のがっかりしたような顔を見ながら言った。
たしかに、彼女が知りたがっているようなことは全部知っている。そしてそれは、できれば知らない方がいいことだった。
(彩樹くん、か…)
帰宅ラッシュの地下鉄南北線の中で、玲子はぼんやりと昼間のことを考えていた。
まあ、一姫が彩樹に興味を持つのもわからなくもない。彩樹ほど魅力的な個性の持ち主は、職業柄多くの人間と会う玲子でも他に知らない。どうして彩樹のような人間が出来上がったのか、興味があった。だから、本人だけではなく、家庭環境についても調べてみた。
そしてその結果は…
(…ん?)
玲子の思考は、お尻のあたりで動く手の感触で中断された。夕方の混んだ電車の中、彼女の身体はドアに押しつけられるような体勢になっている。
(やだ…痴漢?)
偶然触れてしまった、という感じではない。明確な意志を感じる手の動きだ。
不自由な態勢のまま、なんとか逃れようと身体を動かすが、その手はしつこくついてくる。
(やだなぁ…どうしよう)
大きな声を出すのも恥ずかしい。かといっていつまでも触られているのも癪だ。
どうしたものかと頭を悩ませていると、不意に手の動きが止まった。どうしたのかと訝しむ間もなく。
「なにやってんだよ、このスケベオヤジ!」
すぐ後ろで、聞き覚えのある声がした。その声の正体に気付くよりも先に、なにか、硬いものが砕けるような音、そして、どさりという音とともに、背後で人が倒れる気配がした。
慌てて、後ろを振り返る。
顎を手で押さえた中年男性がうずくまっていた。ぼたぼたと赤い染みが床に落ちる。そしてその横には、獣の気配をまとった見覚えのある人物が…。
「さ…、彩樹くん?」
「よ、お久しぶり」
拳を見せて、彩樹が笑っていた。
玲子がそれ以上なにも言えずにいるうちに、電車はすすきの駅へと到着する。ドアが開く直前、彩樹はうずくまっている男の後頭部に拳を叩き下ろした。
「さ、行こう」
完全に意識を失っている男にはそれ以上興味を示さず、彩樹は玲子の手を取って電車を降りた。
「あ、えっと…ありがとう」
「どういたしまして」
彩樹は笑うと、一見なんの関係もないことを口にした。
「ちょうど、腹が減っていたからね」
数秒間、その言葉の意味を考える。彩樹の性格はよくわかっているから、すぐに答えにたどり着いた。
「…お礼に晩ごはんをご馳走しろってこと?」
なるほど、それでススキノで電車を降りたのだろう。夕食ということであれば、この周辺がいちばん店の選択肢は多い。
もちろん、夕食をおごるくらいはいっこうに構わない。が、彩樹は高校生のくせになかなかのグルメだ。食事といっても、ファーストフードやファミレスでは納得しまい。
「今日はステーキが食いたいな。輸入牛はヤダよ。松阪牛とまではいわないけど、せめて十勝牛か白老牛」
案の定、図々しいことを言っている。玲子は小さくため息をついた。
「…まあ、いいとしましょう」
そう言って、彩樹と並んで歩き出す。
地下鉄駅から地上に出て、信号をひとつ越えたところにあるホテルへと向かった。その地下に、ステーキとチーズフォンデュを売り物にしている店があるのだ。
「彩樹くん。あなた、ワインは飲める?」
席に案内されて、ソムリエールが持ってきたワインリストを開きながら玲子は訊いた。彩樹の答えは予想できたことだが、やはり、当たり前だと言いたげな顔でうなずいた。
「…どんなワインが好きかしら?」
そう訊いたのは、ちょっとした意地悪のつもりだった。いくらなんでも、高校生がワインの銘柄に詳しいとは思えない。
「やっぱりブルゴーニュかな。ニュイの赤ワインがいいや」
「…ずいぶん贅沢なことね」
即座に答える彩樹を見て、訊いたことを後悔した。チリやアルゼンチンの安ワインとは言わないが、せめてスペインかブルガリアあたりの手頃な価格のもので満足してくれればいいのに、と。よりによってコート・ド・ニュイとは。
「マルサネでいい?」
リストの初めの方にある、コート・ド・ニュイ地区の村名ワインとしては、比較的お手頃価格のワインの名を挙げる。
「そうだね…」
それでいいよ、と言いかけたように見えたのだが。
「あ、この店、ルイ・ジャドのジュヴレ・シャンベルタンがあるんだ。これにしよう」
彩樹が目を輝かせ、玲子の顔が引きつる。
ジュヴレ・シャンベルタンは、ヴォーヌ・ロマネやシャンボル・ミュジニーと並んで、コート・ド・ニュイ地区を代表する村のひとつ。玲子のような普通のOLに手が出ないほど高価というわけではないが、かといって安いものでもない。この店での価格は、同じ会社のマルサネと比べて倍以上だ。
諦め顔でうなずきながら、玲子は「会社の名前で領収書をもらおう」と考えていた。彩樹の機嫌をとるため、ということであれば、知内も文句は言えまい。
それにしても…
「あなたどうして、高校生のくせにそんなにワインに詳しいの?」
ステーキとチーズフォンデュのセット、そしてワインを注文した後で、周囲には聞こえないように小声で訊いた。
「カエルの子はカエル…ってヤツ?」
彩樹は平然と答える。それだけで玲子には通じた。
彩樹の母親は、ススキノでクラブやバーを経営している。その影響で、彩樹もお酒には詳しいのだろう。
その時ワインが来たので、それ以上年齢について追求するのはやめにした。黙っていれば彩樹は大学生くらいに見えるから、なんの問題もない。
「テイスティングはなさいますか?」
ソムリエールが訊いてくる。玲子は首を横に振った。この店は何度か来たことがあるが、おかしなワインに当たったことはない。
大きなワイングラスに、わずかな濁りもない真紅の液体が注がれる。それは、深い、深い、紅玉の色。魂が吸い込まれるような紅。
グラスを手にとって、彩樹のグラスと軽く触れ合わせる。チン、と澄んだ音がした。
「さて…」
デザートまで平らげて店を出たところで、彩樹は大きく伸びをした。
「どっかで、軽く飲んでく?」
当たり前のように訊いてくる。玲子はまるで、同世代の男性とでもデートしているような気になった。
「…なに言ってんの。高校生のくせに、飲み過ぎよ」
そうは言ったが、実際のところ、ワインをボトル半分空けたにもかかわらず、彩樹の様子は普段とまるで変わりない。むしろ玲子の方が朱い顔をしている。
「そんな台詞を言うようじゃ、玲子さんもオバさんだね〜」
「だ、誰がオバさんですって?」
玲子は今年二十五歳、年齢の話題にはちょっと敏感なお年頃だ。
「ま、いいじゃん。もう少しくらい飲んだって」
彩樹は強引に玲子の肩を抱くと、少し歩いたところにあるビルへと連れていった。エレベータに乗って、少しも迷わずにボタンを押す。彩樹の年齢からいって、若者向けのショットバーかなにかかと思っていたのだが、連れて行かれた店には、もっと高級感が漂っていた。訪れたことはないが、その店名には覚えがある。そこは、彩樹の母親が経営する店のうちのひとつだった。
「あ、彩樹くんだ。いらっしゃ〜い!」
二人を出迎えたバニーガールが喚声を上げる。その見事なプロポーションに、玲子は少し嫉妬した。
「え、彩樹くん?」
「わ〜い、久しぶり〜!」
この店の女の子たちは、全員バニー姿らしい。彩樹はずいぶんと人気者のようで、みんなが声をかけてくる。
(だけど…)
この子たちは、彩樹が実は女の子だと知っているのだろうか。なんとなく、性別を誤解しているのではないかという気がした。
席に着くと、彩樹の名前が書かれたボトルが運ばれてきた。隣に座ったバニー姿の女の子が、慣れた手つきで水割りを作る。
「こちら、彩樹くんの彼女?」
グラスに口をつけていた玲子は、思わず吹き出しそうになった。たしかに、なんの説明もなければそう見えないこともない。彩樹がいかにも肯定と受け取れるような笑みを浮かべているので、玲子もあからさまに否定することができない。
「彩樹くんって年上が好きだったの? それならそうと言ってくれれば…」
彩樹に抱きついて、今にも唇が触れそうな距離で甘い声を出しているバニーに、玲子はちょっと腹が立った。しかし、それではまるでやきもちを妬いているみたいだと気づき、慌てて頭を振ってその感情を追い出そうとする。
二十五年間まっとうに生きてきたのだ。どうしていまさら、同性に特別な感情を抱くことがあるのだ、と。
「うぅ…」
かなり陽が高くなってから目を覚ました玲子は、呻き声を上げた。
「…やっちゃった…」
そこは自分のマンションの、自分のベッド。
ただし彼女は全裸で、しかも隣に寝ている人物がいる。
絶望的な気持ちで上体を起こした。宿酔いで頭が痛い。胃がむかむかする。
それでも徐々に、記憶が甦ってきた。できれば忘れたままでいたかった記憶だったが。
なんてことだろう。二十五年間まっとうに生きてきたというのに。
同性の、それも年下の子に犯されてしまったなんて。
自分の手首を見る。
縛られた痕が、まだうっすらと残っている。
無理やり、こんな乱暴なことをされたというのに。
なのに、それで感じてしまった。これまで関係を持ったことのある男たちの誰よりも。
前の彼とは半年以上前に別れて、最近ご無沙汰だったからかもしれない。とはいえ…認めがたいことだった。
玲子が落ち込んでいると、いつの間にか、眠っていたはずの彩樹が目を開けて、こちらを見上げている。
「おはよ」
「…おはよう」
『不思議の国のアリス』に登場するチェシャー猫のようににやにやと笑っている。その余裕の表情がなんだか悔しい。
「なに笑ってるのよ」
「いや、昨夜の玲子さん、すごかったなぁって。すっごい激しいんだもの」
かぁっと、玲子の顔が真っ赤になる。どうリアクションしていいものやら見当もつかず、その台詞を無視してベッドから降りた。
「…朝ごはん、食べる?」
床に落ちている下着を拾いながら、できるだけ平静を装って訊いた。ベッドの上で頬杖をついた彩樹がうなずく。
「うん。メニューはなんでもいい」
「じゃあ、できたら呼ぶから」
玲子は、逃げ出すように寝室から出ていった。
「…やれやれ」
朝食を作りながら、玲子は昨夜のことを思い出していた。夜中過ぎまで飲んでいて、ここへ帰ってきたときにはかなり酔っていた。ススキノからタクシーに乗ったことは辛うじて憶えている。その後の記憶は、ベッドの中まで飛んでいた。
かなり手荒な、しかしそれが気持ちいい彩樹の愛撫。
『女の子の泣き顔が、いちばん興奮するんだ――』
そう言っていた。
そう言って、何度も玲子を泣かせた。
泣いていたのは、痛みのためだけではない。
「…根っからのサドよね、あの子」
どうして、あんな性格に育ったのだろう。
普通ではない。どこか、歪んでいる。
…あるいは、狂っていると言ってもいいかもしれない。
実を言うと、その原因には心当たりがないわけでもない。親友の早苗や一姫も知らないであろう彩樹の過去を、しかし玲子は知っていた。
去年の夏。アリアーナ姫の護衛として彩樹たちをスカウトしたとき。
仕事の関係上、スカウトする人間は入念に身元を調査するのが普通だ。しかしあの時は急ぎだったし、いろいろと特殊な状況だったので、それが後回しになってしまった。
だから、部長の知内も知らないことだ。
アリアーナの件が一段落した後で、ふと思い出して三人娘の詳しい調査をしてみたのだ。
早苗と一姫については、特に問題となるようなことはなかった。
ごく普通の公務員の家庭に生まれた早苗。成績は中の上。家族は両親と四歳上の兄が一人いて、関係は良好。
いくつものホテルや飲食店を経営している鵡川観光グループの会長の孫娘である一姫は、家庭環境についてはやや特殊といえたが、本人は、本が好きで少しおっとりした女の子でしかない。
これが彩樹になると、そもそも外見からして普通ではない。そして特技も、趣味も。
どうしてこんな子ができあがったのか興味が湧いて、少し詳しく調べてみた。
家庭環境にも問題がないわけではない。
まず、彩樹には父親がいない。そもそも彩樹の母親、縁に結婚歴はない。父親が誰なのかすら、わからないらしい。
縁は旭川の高校を中退した後、家出同然に札幌に出てきて、ススキノで働いていた。一時期、身体を売って生活していたこともあったようだ。
彩樹も、そして三年半くらい前に亡くなった彩樹の姉の翠も、その頃に産まれた子供で、父親が誰なのかはわからない。少なくとも翠と彩樹の父親が違うのは、外見からも一目瞭然だ。
普通ならば、中絶を選ぶところではないだろうか。どうして産む気になったのか、そこまではわからない。そんな状況で幼い子供を育てることには、並々ならぬ苦労があっただろうに。
現在、縁は自分の店を持ち、かなり成功しているといえる。今の静内家は、少なくとも経済的には裕福な部類だろう。
母娘の仲も決して悪くない。縁もけっこうきつい性格で、よく喧嘩もしているらしいが、それは言いたいことを言い合える関係であることの証ともいえる。
しかしそれでも、長女・翠の死が、三年以上経った今でも影を落としていることは間違いない。
翠の死因を調べるのは、多少手間がかかった。警察と、新聞社に勤めている知り合いのコネを使って。
表向きの死因はすぐにわかった。
自殺、だ。
当時住んでいた、札幌市手稲区のマンションから飛び降りて。
これは複数の目撃者もおり、不審な点はない。しかしその原因が問題だった。
自殺というのは、その多くが間接的な殺人である。翠が死を選ばなければならなかった理由…。玲子は、それを知ったことを少し後悔した。こんなこと、知らなければよかった、と。
そして彩樹は、姉の死の責任が自分にあると、そう思っているらしかった。
おそらく、三年以上経った今でも。
それが事実なのか、それとも単なる彩樹の思い込みに過ぎないのか、翠が死んだ今となっては本当のところはわからない。
彩樹がちょうど小学校から帰ってきたときに飛び降りたのも、意図的にやったことなのか、たまたま偶然そうなったのか。いずれにせよ、姉が目の前で無惨な肉片と化したというその事実が、彩樹の肉体的、精神的な変化の直接的な原因に違いなかった。
「手が、止まってるぞ?」
もの思いにふけっていた玲子は、そんな声でふと我に返った。
いつの間にか、彩樹がキッチンに来ている。
「なに、考えてた?」
意味ありげな笑みを浮かべて、彩樹が訊く。
「べ、別に…」
玲子は曖昧に誤魔化したが、なにもかも見透かされているような、そんな笑みだった。
「過剰な好奇心は、時として身を滅ぼすこともあるよな」
「…それって、脅迫?」
彩樹の目を真っ直ぐに見ることが出来ず、玲子はキッチンの入口に立つ彩樹に背を向けて、包丁を持った手を動かした。
「別に。ただ、誰にだって知られたくないことはあるって話」
なにげない口調で、彩樹は言う。
「そうかしら。誰かに、知ってもらいたいんじゃないの、本音は?」
怒らせるかもしれない…そう思いながら訊いてみる。
彩樹は黙って、なにか考えている様子だった。十数秒後、再び口を開く。
「…たとえそうだとして、誰が受けとめられるっていうんだ?」
今度は、玲子が黙る番だった。
彩樹の言う通りだ。それは多分、彼女と同年代の普通の少女たちには重すぎ事実だろう。それを知った後でも、以前と同じように彩樹と付き合えるかどうか。その可能性は低いと思う。
「誰かに、話したか?」
少しきつい口調で彩樹が訊いた。玲子は首を横に振る。
「…いいえ。部長だって知らないわ」
少しだけ、嘘をついた。
知内に話していないというのは本当のことだ。彩樹だって、特に男性には知られたくないことだろう。
知内にしても、自分が大チョンボをしでかしたことなど知らないままの方が幸せだ。だから、言わなかった。だから彼は、彩樹が「アリアーナ姫の護衛を務めるための条件」を満たしていないことを知らない。
あとでそれがばれた場合に会社の信用問題になるかもしれないが、実際のところ「王女の身近に仕えるのは、同じ年頃の乙女でなければならない」というのは、古くからの伝統であるという以外、特に意味のあることでもないのだ。彩樹がバージンでないからといって、いまさらそれがなんだというのだろう。
しかし「誰にも話していない」というのは、実は嘘だった。
ひとりだけ、玲子が知っていることを伝えた相手がいる。実際には直接話したのではなく、報告書の形にまとめて渡したので、それを呼んだ相手がどんな反応を示したのかは玲子も知らない。
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