六.〜アリアーナ〜


 翌日も、いい天気だった。気温は前日よりもやや高めかもしれない。
 今回の武闘大会は、三日に分けて行われる。
 一日目は、一回戦と二回戦。
 二日目は、三回戦と準々決勝、そして準決勝。
 最終日の三日目は、決勝一試合と表彰式、そして勝者を讃えての宴という予定だ。
 大会の二日目、彩樹は三回戦も準々決勝も順当に勝ち進んだ。
 圧倒的な強さだった。これには彩樹の強さはよく知っているつもりの早苗たちも驚く。簡単に負けるとは思っていないが、かといって男性…それも大人相手にこれほど優位に試合を進めるとは予想外だった。
 そして、準決勝の相手の名ははタンジュート・サキル。彩樹もその力を認めた棒術使いだ。彼もここまで、危なげなく勝ち進んでいた。



 試合が始まると同時に、試合場はこれまでにない緊張に包まれた。
 彩樹とタンジュート、二人が武器を構えて対峙している。タンジュートの棍が届かない、ぎりぎりの間合いで。
 二人とも動かない。
 少なくとも、傍目にはそう見えた。
 しかし実際にはわずかずつ、ミリ単位で移動している。それによって少しでも自分に有利な間合いを取ろうとし、かつ相手の隙を誘う。
 二人の間でどれほどの駆け引きが行われているのか、観客たちにはわからない。ただ、咳をするのもはばかられるような緊張感が、その場を支配していた。
 一姫も早苗も息を呑んで、手をぎゅっと握りしめて、その光景を見つめていた。これまでの試合、すべて開始から一分以内に一方的な攻勢で勝利を収めている彩樹が、本気になっている。それだけでも、タンジュートの力がわかるというものだ。
 突然、彩樹が弾けるように間合いを詰めた。
 鋭い、風を切る音が響く。
 彩樹の突進が止まった。棍が、頬を掠めている。
 下がろうとする彩樹を、今度はタンジュートが追った。棍を、機関銃のように立て続けに突き出す。
 彩樹は無数の突きをすべてぎりぎりで見切ってかわした…はずだったが、腹部に突然の衝撃を感じた。
 バランスを崩しながらも、後ろに大きく飛んで間合いを開ける。タンジュートはさらに追い打ちをかける。棍の先端が触れた部分の服が裂けたが、それでもなんとか彩樹はタンジュートの間合いから逃れた。
 彩樹は少しだけ戸惑っていた。
 なんだったのだろう。突きはすべてぎりぎりでかわしたつもりなのに。
 しかし、すぐにその正体に気付いた。
 残像が残るほどの無数の突き、それはみなフェイントでだった。その中にひとつだけ、踏み込みの深い一撃が混じっていた。彩樹は、それを見落としたのだ。
「…やるじゃん」
 腹に受けた突きの痛みに耐えながらも、彩樹は唇の端を上げて笑った。


「ああん! 彩樹さん、頑張って!」
 今にも泣き出しそうな顔をした一姫が、隣の早苗に訊く。
「彩樹さん、勝てますよね?」
 腕組みをした早苗は、難しい表情をしていた。
「…どうだろう。危ないかも」
 ゆっくりと、低い声でつぶやく。
「そんな、まさか!」
「…いずれにしても、このままじゃ彩ちゃんが不利だよ」
「トンファーよりも棍の方が長いからですの?」
「そ〜ゆ〜問題じゃない」
 素人考えでは、リーチの長い武器の方が有利に思える。しかし、現実は必ずしもそうではない。
 武器にはそれぞれ、適切な間合いというものがある。それより遠くても近くても、本来の力は発揮できない。
 武器に精通するというのは、間合いを広げることではない。うまく自分に有利な間合いに持ち込むことこそが、武器の種類を問わず、闘いの神髄だ。
 その点、タンジュートの闘い方は満点に近い。小刻みな突きを主体とした小さな動きで彩樹を牽制し、棍の間合いの内側への侵入を許さない。決して大振りせず、彩樹につけ込む隙を与えない。
 その間合いを保っている限り、棍の先端の速度は人間に見切れる限界を超える。超人的な動体視力と反射神経を持つ彩樹だって例外ではない。
「でも…彩樹さんならきっとなんとかしてくれますわ。彩樹さんだって素手じゃないんだし」
 自分自身に言い聞かせるように、一姫はつぶやいた。今回、彩樹はまたトンファーを持って試合に臨んでいる。
 しかし早苗の顔色は相変わらず冴えない。
「だから、彩ちゃんに不利なんだよ」
「何故ですの?」
「北原極闘流には、こうした武器を使う技の体系もあるし、彩ちゃんのトンファーの扱いは悪くないと思うけど…。でも、専門じゃないもの。彩ちゃんは本来、徒手格闘が専門だもの」
「でも…」
「技量が互角の二人がいたとして、片方は自分のいちばん得意な技で闘っている。もう一人は、専門外の技を使っているとする。どっちが勝つと思う?」
「それは…」
 考えるまでもない。格闘技に関してはずぶの素人である一姫にだって、それくらいはわかる。
「実際、どっちの実力が上かはわからないけどね。少なくとも、武器を使った闘いなら向こうの方が強いよ」


 早苗の言う通りだった。
 彩樹は自分が有効打を打てる間合いに入れずにいる。しかも、向こうの攻撃はなんとか見切ってはいるものの、全くの無傷というわけにはいかない。
 時間が経つに従って傷と痣が増えていく身体を、彩樹は忌々しげに見おろした。
 相手はひどく冷静だ。落ちついて、感情を表に出さず、隙を見せず。正確に攻撃してくる。
 矢継ぎ早に繰り出される突きに、下がるのがわずかに遅れた。衝撃が骨まで響く。それでも次の攻撃をサイドステップでかわしながら、棍をトンファーで打ち払おうとした。
 しかし、一瞬早く棍は引き戻され、空振りした彩樹の身体はバランスを崩して前のめりになる。その隙を逃さず、鋭い突きが右肩に打ち込まれた。
 それは、これまでのような牽制の攻撃とは違う、狙い澄ました一撃。
 彩樹は、自分の鎖骨が砕かれる音を聞いた。右腕がだらりと垂れ下がり、手から落ちたトンファーが乾いた音を立てる。痛みを感じたのはその後だ。
 タンジュートが、初めて棍を大きく振りかぶった。肩を負傷してガードできなくなった、右の側頭部を狙う。彩樹は左手のトンファーで、振り下ろされる棍を受け止めようとした。
 ミシィッ!
 それは、枯れた枝を数本まとめて折ったような音だった。がら空きになった左の脇腹に叩き込まれた棍。どこでどう軌道を変えたのか、彩樹にも見えなかった。
 衝撃が全身を貫く。呼吸が止まる。
 間違いなく、肋骨が数本折れていた。
 痛みは感じなかった。ただ、全身が痺れたように感じ、意識が遠のいていくだけだ。
 彩樹の身体がぐらりと傾く。そのまま、前に倒れそうになる。
 遠くで、甲高い悲鳴が聞こえたような気がした。あの声は一姫だろうか。
(ば〜か…オレが…負けるわけないだろうが…)
 薄れゆく意識の中で、彩樹はつぶやいた。
 視界の隅に、タンジュートの顔が見えた。
 珍しく、感情が顔に現れている。勝利を喜ぶ、静かな笑いが。
(…バカが…笑うのは早いって…オレは…まだ倒れちゃいない)
 そうだ。このまま倒れるわけにはいかない。
 ここで倒れてしまったら負けだ。もう立ち上がる余力はないだろう。
 そして、負けるということは…。
 無意識のうちに、足が地面を蹴った。前に倒れそうになる勢いを利用して、そのまま空中で一回転する。
 タンジュートも、まさかこの状態の彩樹が反撃できるとは思っていなかったのだろう。一瞬、反応が遅れた。
 無理もない。彼にとってあれは完璧な一撃だったのだ。
 ガードの間に合わないタンジュートの顔面に、浴びせ蹴りを叩き込む。
 …彩樹に意識があったのは、そこまでだった。



 …
 ……
 目を開ける。
 最初に目に入ったのは、白い天井だった。
 やがて、自分が柔らかなベッドに寝かされているのだと理解した。
 誰かが、顔をのぞき込んでいる。美しい金髪と、深い紫の瞳が特徴的だ。
「あ…?」
 ようやく、目の焦点が合った。それが誰かを認識する。
「…なんだ、お前か」
 彩樹は身体を起こそうとして、全身を貫く痛みに呻き声を上げた。
「まだ動かない方がいい。魔法で治療したとはいえ、数日は安静だ」
 アリアーナは、ベッドの傍らに置いた椅子に腰を下ろしている。彩樹は、一番気がかりな事を訊いた。本音を言えば、聞きたくはなかった。聞くのが、怖かった。
「…試合は、どうなった…?」
「憶えていないのか?」
 驚いたような声に、彩樹は無言でうなずいた。
 数秒間、無言で彩樹の顔を見つめていたアリアーナは、やがて口元にかすかな笑みを浮かべる。
「サイキの勝ちだ。もしかしてあの時、意識がないまま立っていたのか? 呆れた執念だな」
「…憶えていないんだから、そうなんだろう」
 彩樹はもう一度、身体を起こそうとする。傷に響かないようにゆっくりと。
「痛ぅ…」
 それでもやっぱり痛みが身体を貫く。小さく顔をしかめた彩樹は、起きることを諦めてまた横になった。
「…やっぱり、こんなこと引き受けるんじゃなかった」
 恨みがましく言う。
「…だったら、明日の決勝は棄権してもいいぞ。フィフィールの魔法治療でも、一日で完治する怪我ではないしな」
 彩樹は驚いてアリアーナの顔を見た。相変わらず、あまり感情を表に出さない人形めいた表情。いつも通りだ。
 アリアーナは淡々と、言葉を続ける。
「ただしその場合、わたしは好きでもない男と結婚させられ、その男の子供を産むことになる。それでも良ければ…だが?」
「……どういう意味だよ?」
 むっとした口調で、彩樹は訊く。
「別に、言った通りの意味だ」
 それは、なんということのない台詞のようで。
 しかし、深い意味が込められている言葉だった。
 彩樹は、アリアーナを睨みつけた。アリアーナも真っ直ぐに彩樹を見つめ返す。
「どうする?」
 アリアーナが訊く。その答えがひとつしかあり得ないことを知っていて訊くのだから、性格が悪い。
「…最後までやるさ。別にお前のためじゃない。たとえ不戦敗だって、負けるのは嫌いなんだ」
「そう言うと思っていた。サイキなら」
「なにが可笑しい?」
 相変わらず無表情なアリアーナだが、なんとなく、笑いをかみ殺しているように見えた。
「そうか、笑っているように見えるか?」
 そう言うと、今度こそはっきりと笑みを浮かべた。
「試合の前から、わかっていたんだろう?」
「なにが?」
「あの男が、サイキよりも強いということが」
 それまでアリアーナを睨んでいた彩樹が、さりげなく視線を逸らした。
「…オレの方が強いさ。だから、勝った」
「まあ、そういうことにしておいてもいいが」
 静かな笑みを浮かべたまま、アリアーナは寝室を後にした。




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