そして、決勝戦の日を迎えた。
決勝の相手は彩樹の予想通り、あの仮面の騎士だった。
それほど恵まれた体躯ではない。背はやや高めだが、どちらかといえばスラリとした体型だ。顔は隠しているが、仮面の下からのぞく口元を見る限りでは、かなり整った顔立ちのようだ。
しかし、その剣技の素晴らしさは万人が認めた。まったく無駄な動きがなく、疾く、鋭く。並みいる他の優勝候補たちを退け、決勝まで上りつめていた。
その男の名前も、出身もわからない。大会の進行役も困って、単に『無名の騎士』と呼んでいたが、考えてみるとこれは奇妙なことだ。有力な貴族の推薦がなければ、この大会には出場できない。誰かが、隠しているのだろう。
「どうして、素性を隠しているのでしょう?」
観客席の最前列に陣取った一姫が、隣にいる早苗を見る。
「さあ…。いろいろと事情があるんだろうけど」
「よく見れば、けっこうハンサムな方ではありませんか?」
「…かもね。あの仮面を見てると、タキシード着て薔薇でも投げるのが似合いそうな気がしない?」
「そういえばそうですわね」
二人は声を揃えてくすくすと笑う。が、一姫はすぐに真剣な表情に戻った。
彩樹が、試合場に入ってきたのだ。一姫は小さく声を上げた。相手は剣士だというのに、今日の彩樹は素手だったのだ。早苗も目を見開く。
「彩樹さん、大丈夫でしょうか? 怪我の具合は…」
「本人は平気だって言ってたけどね。フィフィールさんの話では、完治はしてないって。いくらなんでも一晩じゃ無理だよね」
「そんな…」
一姫は泣きそうな顔で、彩樹の背中を見つめた。
その時、アリアーナもフィフィールとともに試合場を見つめていた。
「サイキの決勝の相手、あれは誰なんだ?」
試合場から目を離さずに訊く。アリアーナにとっても、その仮面の騎士は謎の人物だった。
「私も存じません」
フィフィールが素っ気なく応える。それに対するアリアーナの声もいくぶん不機嫌になる。
「どこの馬の骨とも分からん相手と、結婚させようというのか?」
「馬の骨だって、女の子が優勝するよりはマシです」
フィフィールは、彩樹の出場を快く思っていない。彼女は結婚推進派の急先鋒だ。アリアーナのわがままを聞いて武闘大会まで開催したのに、女の子が優勝したのでは元も子もない。
本音を言えばアリアーナは、仮面の騎士はフィフィールの差し金ではないかと思っていた。大会の実行委員であるフィフィールが、出場者の素性を知らぬはずがない。彼女の関係者で、剣の使い手をあれこれと思い出す。しかしその中に、該当しそうな人物は見当たらなかった。
彩樹は、無名の騎士と正面から対峙した。相手は、余裕を感じさせる笑みを浮かべている。
「いいのか? 昨日の怪我は治ってはいまい」
「大きなお世話だ。てめ〜にはちょうどいいハンデだよ」
実際のところ、まだ右肩も肋骨もかなりの痛みがあったが、そんなことは微塵も感じさせないそぶりで彩樹は応えた。
「では、遠慮なくいこう」
言うと同時に無名の騎士は間合いを詰めてきた。剣がうなりを上げる。彩樹はぎりぎりのところで下がってかわした。そして剣が通りすぎた後に吸い込まれるように前に出る。
剣が戻ってくるより一瞬早く、相手の膝を蹴った。バランスを崩したところを掴まえて腹への膝蹴りを狙ったのだが、無名の騎士はその意図を悟って、捕まえに来た彩樹の手を払うと、大きく後ろに飛んで距離を取った。
その距離は剣の間合いだ。下がるべきか前に出るべきか、彩樹は躊躇しなかった。下がれば攻撃を受けることはないが、こちらの攻撃も届かない。迷わずに前へ出て、蹴りの間合いに入ろうとする。
相手はその分後ろに下がった。下がりながら、剣を袈裟斬りに振り下ろす。彩樹は身を低く沈めて剣をかわしながら、相手の脚を払うように蹴った。それをかわすために相手が大きく下がった隙に、立ち上がって構えをとる。
二人の動きが止まった。
どちらの攻撃もぎりぎり届かない距離で睨み合う。
「なかなかやるな。怪我人のくせに」
「この程度、ウォーミングアップみたいなもんさ」
彩樹が笑う。
もちろんはったりだ。激しい動きのせいで、傷の痛みが増している。このままでは、闘いが長引けば長引くほど、動きは鈍ってくるに違いない。
だから、それ以上動くのをやめた。構えも解いて、無防備な姿をさらす。
無名の騎士は、反射的に斬りかかっていた。それが罠だと考える余裕すらなかった。考えなくとも身体が反射で動くようになるまで鍛練を積んだことが裏目に出て、稽古で何百回何千回と繰り返した動きを再現してしまっていた。
彩樹は、そうなることに賭けていた。そして、賭けに勝った。
予想通りの軌道を描いてきた刃を、彩樹の両手が、がっちりと挟んで止めていた。
場内が沸いた。真剣白刃取りなど、実際に見たことのある者などいない。
早苗も、驚きに目を見開いていた。怪我が完治していない状態でどれだけ動けるのかと心配していたが、どうやら杞憂だったらしい。彩樹が剣を両手で挟んで止めたところで、ふぅっと大きく息を吐き出した。
それにしても、無名の騎士の正体はいったい誰なのだろう。なぜ、素性を隠す必要があるのだろうか。
ふと、以前どこかで読んだ物語を思い出した。御前試合に勝てば、王から直々に褒美を賜ることができる。王に恨みを持つ若者がそのことを知って、王を暗殺するためにその試合に参加するというものだ。
(まさか…)
考えてみれば、昨年アリアーナの命を狙った第一王子のサルカンドは、辺境で隠居させられているだけで、まだ生きている。アリアーナに復讐しようと企んでいてもおかしくはない。今でも、サルカンドが動かせる人間はいくらか残っているだろう。
「まさか…」
早苗はもう一度まじまじと、無名の騎士を見つめた。今は彩樹に剣を押さえられて、力比べを続けている状態だ。動きが止まっているので細部を観察するには都合がいい。
背は、平均的な男性よりもやや高い程度。一見、すらりとした体格だ。それでもよく見れば、無駄なく鍛えられた筋肉の存在がわかる。
髪は黒く、瞳も黒い。仮面で隠しているのでよくわからないが、目つきは結構鋭そうだ。
(…ん?)
なんだか、知っている人間のような気がする。これらの特徴に該当する人物…。
「あ、あ、あぁぁ〜っっっっ!」
突然、答えが閃いた。その瞬間、思わず大声で叫んでしまっていた。
その声は、せめぎ合いを続けていた二人の耳にも届いた。彩樹はすぐに、それが早苗の声であることに気付く。
一瞬、目の前の男が動揺したように見えた。瞳に狼狽の色が浮かんでいる。
それで、彩樹にもわかった。目の前にいる男――無名の騎士がいったい何者なのか。
男の手から、わずかに力が抜けた。それを見逃す彩樹ではない。力ずくで剣を奪い取ると同時に、相手の膝を蹴った。その脚を地面に下ろさず、続けて腹を蹴る。無名の騎士はよろけて二、三歩後ろに下がった。彩樹は追撃の手を緩めず、さらにもう一発、脇腹へ回し蹴りを叩き込んだ。
それでも一度は踏みとどまるかに見えた無名の騎士だったが、やがて力尽きたようにその場に座り込んだ。
彩樹は、戦意を失った男をきつい目で見下ろす。
「まだ、やるか?」
「いや…」
無名の騎士は、苦笑しながら応えた。
「剣を奪われては、勝ち目はないだろう。君の勝ちだ、サイキ」
その言葉と同時に、観客席が沸く。闘技場全体から歓声が上がり、あちこちで彩樹の名を呼んでいる。
その中で、しかし一姫はひとり首を傾げていた。
これまでの試合、彩樹は相手が意識を失うまで、攻撃の手を緩めたことがない。男相手にはまったく容赦しない彩樹だ。相手が降参したって、聞こえなかったふりをして殴り続けることも珍しくない。なぜ今回に限って大人しく攻撃を止めたのだろう。
ちょっと鈍いところのある一姫は、まだ無名の騎士の正体に気付いていなかった。そして、彩樹がとどめを刺さなかったことに、早苗とアリアーナがほっと胸をなで下ろしていたことにも。
「どういうことなんです?」
周囲に人がいないことを注意深く確認してから、早苗は口を開いた。彼女の前には、あの無名の騎士が立っている。
ばつの悪そうな笑みを浮かべたその男は、ゆっくりと仮面を外した。それは、早苗がよく知っている人物だった。
「自分の部下を出場させる、とか言ってませんでしたか? シルラート様」
「そのつもりだったんだけどね」
そう。無名の騎士の正体はアリアーナの兄、第二王子のシルラートだった。彼の推薦ならば、大会に出場するのになんの問題もない。
「私の配下に、サイキに勝てそうな適当な人材が見当たらなかった。だから正体を隠して出場して、試合が終わったら部下の中で背格好の似た奴と入れ替わるつもりだったんだ」
まったく悪びれた様子もなく、シルラートは笑いながら白状する。
「それにしても、よく私だと気がついたな」
「そりゃあ、わかりますよ」
「私たちは愛の絆で結ばれているから?」
「いや、そういう訳じゃ…」
語尾がだんだん小さくなる。素直に肯定することはできなかったが、頭から否定するのも悪い気がした。知らず知らずのうちに顔が赤くなる。油断のならない相手だが、どうにも憎めない。
「…残念でしたね。企みがうまくいかなくて」
「まあ、仕方あるまい」
そう言うシルラートの顔は、しかしそれほど残念そうには見えなかった。
早苗は、含みのある笑みを浮かべる。シルラートが大会に出場した理由は、他にあったのではないかと思っているのだ。
「今回の候補者たちの中に、姫様に相応しそうな殿方はいました?」
「いいや。どれもイマイチだったな。第一、どいつもこいつも弱すぎる。サイキに負けているようでは話にならん」
「シルラート様も負けたじゃないですか」
「サナエが大声を出すからだ。あれで気が散った」
「ごめんなさい。でも…」
早苗は屈託なく笑いながら謝った。
「シルラート様って、実は、シスコン?」
実はシルラートも、アリアーナの結婚を快く思っていなかったのではないか。そんな気がした。もちろんシルラートは、この問いにはなにも答えなかった。
表彰式でも、その後の宴の席でも、フィフィールはずっと不機嫌そうだった。
しかしそれも無理はない。アリアーナの結婚相手を捜すために開いた大会なのに、結局彩樹が優勝してしまったのだから。
「…ま、いいでしょう。サイキさんはたしかに実力で勝利したのですし。ええ、認めますよ」
宴の後、お茶を飲んでいたアリアーナと三人娘たちの前で、フィフィールは言った。もちろん納得している様子ではないが、仕方ないということなのだろう。
「では、姫様の結婚話は延期ということですのね?」
「いいえ。結婚はちゃんとしていただきます」
「え? だって…」
なにか言いたげな四人の少女たちを無視して、フィフィールは魔術師の杖を掲げた。なにやら呪文を唱える。
彩樹の周囲を光が包み込んだ。それは形を変えて、光で描かれた複雑な魔法陣となる。一瞬、目を開けていられないほどの眩い光が閃き、次の瞬間にはすべてが消え去った。
四人とも、なにが起こったのかわからずにきょとんとしている。一人フィフィールだけが、満足げな笑みを浮かべていた。
「これで、問題はありませんね。では、私はこれで」
小さく頭を下げて、その場から逃げるようにそそくさと立ち去る。
「なんですの、今の…?」
早苗とアリアーナは、ほとんど同時に気が付いた。はっとした表情で顔を見合わせ、それから彩樹を見た。なぜか彩樹は、無言で青い顔をしている。
もう一度、二人は顔を見合わせた。気は進まなかったが、早苗が代表して今ここで起こったことを確認する。
恐る恐る手を伸ばして、彩樹の胸に触れた。彩樹の身体がびくりと震える。それから、手を下腹部へと滑らせていく。
いきなり、早苗の顔から血の気が引いた。全身から冷や汗が噴き出す。
一瞬後、早苗の悲鳴が城内に響いた。
「いや〜っっ! なにコレ? なにコレ? なんで、彩ちゃんが男になってるのぉぉっっっ?」
早苗の台詞の後半は、彩樹の叫び声でかき消された。彩樹は肺の中の空気をすべて絞り出して悲鳴を上げ、そして、気を失った。
…
……
目を開ける。
最初に目に入ったのは、白い天井だった。
やがて、自分が柔らかなベッドに寝かされているのだと理解した。
誰かが、顔をのぞき込んでいる。美しい金髪と、深い紫の瞳が特徴的だ。
「あ…?」
意識の戻った彩樹が真っ先にしたのは、自分の身体を触ってみることだった。やがて、大きな安堵の息をつく。
「大丈夫だ。もう元に戻っている」
相変わらず抑揚のない口調でアリアーナが言った。
「あれは、フィフィールの冗談…というか、わたしたちに対する嫌がらせだな」
「わたしたち?」
彩樹はベッドの上で上体を起こすと、アリアーナを睨みつけた。
「元はといえばお前のせいだろう。だいたい、お前は家臣にど〜ゆ〜教育をしてるんだ?」
「私が教育したわけではない。むしろ、その逆だ」
フィフィールは、もともとアリアーナの教育係だったのだ。
「…なるほど、お前の性格の悪さはあの女ゆずりか」
「いや、これは生まれつきだ」
「よけい悪い! それにしても、なに考えてるんだあの女は…」
「いや、しかし…。あれはあれで面白かったと思うぞ」
アリアーナは珍しく、クックと小さな声を上げて笑った。その頭を彩樹が小突く。それでもアリアーナの笑いは止まらない。
「…少し、残念な気もするな」
笑いながらつぶやいた声は、頭に血が上っている彩樹の耳には届いていなかった。
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