「……彩樹、彩樹」
自分の名を呼ぶ声に、彩樹はゆっくりと目を開けた。
聞き覚えのある声。いや、覚えがあるどころか、とてもなじみ深い声のはずだったが、声の主の名前がすぐに出てこない。
目の焦点が合うと、髪の長い美しい女性が上から顔を覗き込んでいた。目を細め、優しげな笑みを浮かべている。
「彩樹ったら、いつまで寝ているの? もう、お昼近いわよ」
「……ああ、ゴメン。お姉ちゃん」
頭をポリポリとかきながら、のろのろと身体を起こした。
「今日はとてもいい天気よ。お弁当持って、公園で昼食にしない?」
既に用意はできているのだろう。手には大きな籐製のバスケットを持っている。
「いいね」
彩樹も同意した。立ち上がって、顔を洗うために洗面所へと向かう。
洗面所の鏡には、まだ半分寝ぼけたような自分の顔が映っている。それでも冷たい水とスクラブ入りの男性用洗顔料で顔を洗うと、頭もいくらかすっきりしてきた。
タオルで乱暴に顔を拭くと、水に濡れた長い前髪が目にかかった。ヘアブラシとドライヤーを取り出して、適当に髪を乾かす。
(よし、これでいいか)
鏡の裏にある棚にドライヤーをしまう。いちいち髪のセットなどしない。整髪料を使うのは、ひどい寝癖があるときだけだ。
(あんまり、翠を待たせちゃ悪いしな)
声に出さずにそうつぶやいて。
それから、ふと気付いた。
(ちょっと待て。誰が待ってるって?)
先刻、自分を起こした女性の顔を思い出す。彩樹よりも少し年上で、髪の長い、物静かな雰囲気の。
彩樹とは外見も性格も似ても似つかないが、姉の翠だ。
(翠……だって?)
確かに自分は先刻、その女性を「お姉ちゃん」と呼んだ。
だが。
(何故、お姉ちゃんがここにいるんだ? おい、今はいったい何年で、オレは何歳だ?)
もう一度、まじまじと鏡を見る。そこに映った自分の姿は毎日見慣れたものだ。どこも不自然なことろはない。
(オレは静内彩樹、白岩学園高等部の二年生……だよな?)
なのに、何故。
「彩樹、準備はできた?」
居間の方から、姉の呼ぶ声がする。
「……ああ、いま行くよ」
濡れたタオルを洗濯籠に放り込みながら、彩樹は応えた。その口元に、静かな笑みが浮かぶ。
どうも、変な夢を見ていたらしい。
ばかばかしい。姉が、何年も前に死んだなんて。
翠はちゃんとここにいて、仕事であまり家にいない母親の代わりに、妹である彩樹の面倒を見てくれているのではないか。
早足で翠に追いついて、バスケットを奪い取る。力仕事は彩樹の受け持ちだ。
「いい天気ね。気持ちいい」
外に出ると、初夏の爽やかな風が翠の髪を揺らした。
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