『ギャン!』
そんな、甲高い声が響いた。
まるで、石をぶつけられた仔犬かなにかのような。
その声で、我に返った。
小さな動物が、外へ飛び出していく。不思議なことにそれは、通りに面した大きな窓を通り抜けていったように見えた。
日差しと紫外線をさえぎる黒い偏光ガラスの上に、いくつかの紅い斑点が残っている。
「……え?」
早苗は、驚いたように顔を上げた。テーブルを挟んだ正面に、同じような表情をしている一姫の姿がある。テーブルには背の高いガラスの器がふたつ置かれていて、半ば溶けかかったフルーツパフェが三分の一くらい残っていた。
「何やってるの、あなたたち?」
声は、高い位置から聞こえた。顔を上げると、二十代半ばくらいの髪の長い女性がテーブルの脇に立っている。
それで、思い出した。
今いるのは、家の近くにある喫茶店『みそさざい』。彩樹のお気に入りの店ということで、早苗や一姫もいつしか通うようになった店。そしてこの女性はマスターの晶だ。
晶は何故か、手にフルーツナイフを持っていた。その刃が紅い液体で汚れていることに、早苗は気付いていた。
「まったく、何やってるのよ。あんなヘンなものに取り憑かれて」
幾分呆れたような調子で言う晶だが、早苗も一姫も、状況がまるで飲み込めていない。きょとんと、お互いに顔を見合わせた。
「……ウチら……なにやってたっけ?」
「え? えーと……」
記憶がはっきりしない。だけどつい先刻まで、他の人物がすぐ傍にいたような気がする。
「えっと……彩ちゃん、は……?」
「……あの、確か、先刻家に電話したら、留守だったんですわ……」
「だよね?」
それで、二人でこの店に来たはずなのだ。お気に入りのパフェを頼んで、その後は……。
「居眠りして、夢でも見てた?」
「二人揃って……ですの?」
助けを求めるように、二人は晶を見た。
「取り憑かれて……て言った?」
「違うの? 私にはそう見えたけど」
「いったい何の……」
いったい何のこと――そう言いかけたところで、入口の扉が開いた。
ちりん、と澄んだ鈴の音と共に、三つの人影が店に入ってくる。
「いいところで会った。おかげで少し、手間が省けたな」
妙に大人びた抑揚のない口調でそう言ったのは、早苗たちと同世代の美しい少女だった。腰まで届く淡い色の金髪に白い肌、そして紫の瞳。どう見ても日本人ではない。
「ひ……」
「姫様っ?」
早苗と一姫は声を揃えて叫んだ。即位してもう一年近く経つのに「姫」と呼ぶのは正しくないが、二年近く前、彼女がまだ王女だった頃からの癖だから仕方がない。
それは、ここにいるはずのない人物。
異世界にあるマウンマン王国の女王、アリアーナ・シリオヌマンだった。
その後ろに付き従う、二人の女性がいた。こちらも見覚えのある顔だった。近衛騎士団の中でももっとも若い二人、スピカとメルアだ。
一応三人とも、Tシャツやジーンズなどこちら側の服をまとってはいるが、明らかに日本人ではない美少女三人連れということで、周囲に異彩を放っている。
「ど、どうして姫様がこっちに……?」
早苗が戸惑いがちに訊く。アリアーナは魔術師としての力を持つから、この世界への転移もできるのだろう。しかし、仮にも一国の女王である。そう気軽に外出などできないはずだ。
これまでにも、アリアーナがこちらに来たことがないわけではない。しかしその時は前もって連絡があったし、彩樹、早苗、一姫の三人で、転移用魔法陣のある株式会社MPSのオフィスまで迎えに行った。連絡もなしに向こうからやってくるなど、いったいどうしたわけだろう。
「少しばかり、困ったことになってな。緊急事態だ」
内容の割にはずいぶんと落ちついた口調で、アリアーナは淡々と言った。これはいつものことで、早苗も一姫も、彼女が取り乱したり、声を荒げたりするところなど見たことがない。あの、目の前で彩樹が撃たれた一件を除いては。
「き、緊急事態って……?」
「これです」
スピカが、手に持っていたものを二人に見せた。それは、イタチよりも少し大きいくらいの小動物だった。淡い褐色の毛皮が血で汚れていて、ぴくりとも動かない。死んでいるのだろう。
それは、先刻窓から飛び出していった動物と同じもののように思えた。
「それは?」
「こちらの言葉で言えば……。そうだな、夢魔の一種だ」
「……夢魔?」
ナイトメア。人の夢を操る魔物。
「ちょっと、抱いていたイメージと違いますわね……」
ファンタジー小説が好きな一姫がつぶやく。こんなネズミかイタチみたいな姿をしているなんて、考えもしなかった、と。
アリアーナは苦笑して、詳しい説明をはじめた。晶が席に着くようにと勧め、人数分の紅茶を淹れてくれる。
説明によると、これは外見通りに哺乳動物の一種なのだが、ある種の魔法の能力を持っていて、人間に幻覚を見せてその隙に襲いかかる肉食獣なのだそうだ。
もちろん、この世界の生き物ではない。どんなルートでかは不明だが、アリアーナたちの世界から、何匹かがこちらへ紛れ込んできたらしい。
「肉食獣って……。じゃあ、ウチら……」
「私たち、あのままでいたら食べられていたってことですの?」
「そういうことになるな」
冷や汗を浮かべて青ざめている二人とは対照的にアリアーナはあっさりと言うと、湯気の立つティーカップを口に運んだ。
「ちょうどこの前を通りかかった時、中からこいつが飛び出してきたんです。手負いだったので、簡単に捕らえることができました」
スピカが説明する。
「こ、怖ぁ……」
今さらながら、汗がどっと噴き出してくる。まさに危機一髪だったのだ。それを救ってくれたのは……。
「あ、ありがとう、晶さん」
「いいえ、どういたしまして。お得意さんを減らすわけにはいかないからね。最近は喫茶店も経営が苦しいから」
カウンターの中で、晶が平然と笑っている。
「ホント、危ないところだった……」
と、そう言いかけて。
ふと気付いた。
早苗と一姫が、顔を見合わせる。そして同時に、もう一度晶の方を見た。
「あ、晶さん。どうしてそんなに平然としてるのっ?」
こんな、非日常的な出来事があったというのに。
「あら」
晶はいつものように、静かな笑みを浮かべてグラスを拭いている。
「二十二年間も生きていれば、いろいろなことがあるものよ。ちょっとくらいのことでは動じなくなるわ」
「二十二って、それは大ウソ……。ああ、いや、そんなことじゃなくて!」
「それよりあなたたち、変わった友達がいるのね?」
「え?」
晶の視線を追って、アリアーナたち三人を見る。
その意味するところに気付いて、早苗と一姫の顔からさぁっと血の気が引いた。
「あああ――っ!」
「どうしましょう! 向こうのこと、喋っちゃいましたわ!」
まったくはばかることなく『向こう』の世界のことについて話していたのだ。店内に他に客はいないが、晶はしっかりと聞いていたに違いない。
スピカとメルアも困ったように顔を見合わせたが、一人アリアーナは平然としている。
「別に、こちらの人間に知られてはいけないとは、フィフィールも言ってなかった」
「陛下、それは『いちいち言うまでもなく』ということでは……」
「だったらお前たちがフィフィールに黙っていれば済むことだ。それにこちらが言うまでもなく、あの者は最初から、ずいぶんと事情通なようだぞ?」
「え?」
「さあ、どうかしらね」
晶は目を細めて、いつものように笑っていた。
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