アユミは、いつになく緊張していた。
今日の相手は、おそらくこれまでで一番の強敵だ。
ルミネ・シーン。
まだ二十歳になるかならないかという年齢のはずだが、闘奴としてデビューしたのはアユミよりも若い頃ということで、キャリアは長い。
これだけ長く闘奴を続けていられるということは、相応の実力があるということだ。この世界、力のない者は簡単に淘汰されてしまう。
それになにより、ルミネは容姿が素晴らしい。ややきつい顔立ちの美人で、背が高くスタイルも見事だ。おそらく、上位ランクの闘奴の中では一番の美女だろう。
長い黒髪をなびかせ、髪の色と同じ黒のマントで登場する姿は観客にも大人気だ。
格下の相手を執拗にいたぶる趣味があることと、勝つためには汚い手も使うらしいということで、闘奴の中には嫌う者も多いが、観客にとっては適度なダーティさも魅力のひとつである。
明らかに、アユミがこれまで闘ってきたよりもワンランク上の相手だった。
緊張する。
相手は格上の人気闘奴。もしもこの試合に勝てれば、アユミの評価もぐんと高まる。
アユミは何度も深呼吸した。喉が渇いて、水を口に含む。
格上の相手と闘ったことは何度もあるが、これほど緊張するのは初めてだ。試合前に緊張するのはいつものこととはいえ、こんなにも激しい動悸は経験したことがない。
大丈夫、大丈夫。
何度も、自分に言い聞かせる。
ルミネの試合は、何度か見たことがある。
確かに強いが、決して勝ち目がないわけではない。自分が学んだ技は、十分に通用するはずだ。
胸の上に手を当てる。
激しい鼓動が、はっきりと伝わってくる。
(大丈夫……落ち着いて……)
何度も言い聞かせる。
どうしてだろう。こんなにも、なにかが起こりそうな予感がするのは。
試合場に出ると、そこにルミネがいた。
意外だった。普通は、格上の者が後から入場することが多いのだが。
それまで観客の声援を一身に受けていたルミネが、見下したような笑みを浮かべてこちらに顔を向けた。
突き刺すような鋭い眼光に気圧されてしまう。それでもやっぱり、間近で見るルミネは美しかった。
すらりとした見事なプロポーション。それでも必要充分な筋肉はまとっている。アユミのようにか弱い印象を与える細さではなく、力強い生命力を感じさせる美しさだ。これまでの戦績と人気による自信が、その外見に表れていた。
「さあ、かかってらっしゃい。可愛い子猫ちゃん」
試合が始まると同時に、ルミネは挑発するように言った。もちろん、充分に大きな声で。観客席からわっと歓声が上がる。この尊大な態度こそが、ルミネの魅力なのだ。
アユミは油断なく顔の前で拳を構え、じりじりと間合いを詰めていった。二メートルほどの距離まで近付くと、低い姿勢から一気に相手の間合いに飛び込んだ。
ルミネが、右の拳を打ち下ろすように殴りかかってくる。それを腕で払うように受け流し、懐にもぐり込む。
「ちっ」
間をおかずにルミネは左の拳を繰り出してくるが、アユミの方が一瞬速かった。
「はぁっ!」
右足を前に大きく踏み出す。同時に、中段の順突きをルミネの胸に打ち込んだ。
ずしりと重い手応えが伝わってくる。その拳を引きながら、すかさず左の正拳突き。そしてもう一度右。
一息で三発の中段突きを叩き込んだ。
ルミネの体勢が大きく崩れる。その脚を狙って下段蹴りを放ったが、相手は大きく後ろへ跳んでこれをかわした。
「あんた、やるじゃない。ただのちびじゃないんだ」
余裕のあるところを見せようとしたのか、ルミネは笑みを浮かべて言う。しかし幾分苦しそうだ。今の攻撃は間違いなく効いている。
回復する隙を与えず、アユミは再び間合いを詰めた。相手が先手を取って蹴りかかってくる。半身になって蹴りをかわし、体重の残っている軸足に下段蹴りを入れた。
ルミネはよろめきながらも、アユミの顔面を殴りつける。しかし体勢が崩れていたせいで、さしたるダメージはない。
無理な反撃でさらに体勢を崩した隙を見逃さずに追撃する。
腹を狙っての二連突き。あえてまだ顔は狙わない。身長差があるから、もっとダメージを与えてからでなければ反撃を受けずに頭部を狙うのは難しい。
ヒット・アンド・アウェイに徹するアユミが離れると、ルミネはその場に片膝を着いた。
(……大丈夫、勝てる)
まだ動悸の治まらない心臓をなだめるように、アユミはつぶやく。
勝てる相手だ、と。
スピードでは完全にルミネを凌駕している。相手の動きは完璧に見えている。無理な深追いをしない限り、大きな反撃を喰らうことはないはずだ。
非力なアユミにはルミネを一撃でKOする力はないが、ボディを狙ってダメージを蓄積させ、頭が下がったところで上段回し蹴りのような大技を決めればいい。
ルミネの顔から余裕の笑みが消えていた。アユミの攻撃が効いている証拠だ。怒りの表情を浮かべて睨め付けてくる。
客席は、異様なほどに盛り上がっていた。これまでの実績を考えれば、試合前の予想は圧倒的にルミネ有利だったのだろう。なのにアユミが攻勢だから、ルミネのファンは悲鳴を上げているし、アユミに賭けていた者は喉が潰れそうな声で声援を送っている。
「この……」
口元を歪ませて、ルミネが立ち上がる。ひどく悔しそうだ。
彼女の性格からすると、格下のアユミに押されていることもあるだろうが、それ以上に観客を取られていることが我慢ならないのだろう。
初めて、向こうから仕掛けてきた。
前へ踏み込みながらの右フック。しかし距離が遠い。アユミはほんの数センチ頭を下げるだけでよかった。頭に血が昇っているのだろうか、無駄な大振りだ。
空振りしたところで、がら空きになった脇腹を回し蹴りで狙おうとした。
しかし次の瞬間。
「――っ!」
両目に鋭い痛みが走った。突然の激痛に目を開けていられなくなる。
「な……っ?」
わけがわからずにいるうちに、頭部に激しい衝撃が加えられる。殴られたのだ。
さらに一発、二発。立て続けに殴られる。一発がまともに鼻に当たって鼻血が流れ出した。
アユミは目を閉じたまま、腕を上げて顔面をガードする。すると今度は腹を蹴られた。細い身体が枯れ草のように折れ曲がる。
この時になってようやく、目に砂を投げつけられたのだと気がついた。あの、大振りの右フックの時に。
最初からそれを狙っていたのだろう。勝つためには汚い手も平気で使う、というルミネの噂を思い出した。
形勢は一気に逆転した。
目を開けていられないアユミは、いいように殴られ、蹴られてしまう。見えなくてはガードもままならない。
顔を殴られて、額か瞼を切ったらしい。今度は、血が目の中に流れ込んできた。これではまったく相手を捉えられない。
見えていれば、拳が当たる瞬間にほんの数センチ身体を動かしたり筋肉を硬直させるだけでも衝撃はずいぶんと軽減できるのだが、まったく心構えのできていないところを殴られた時のダメージは遙かに大きい。数発で、アユミの意識は朦朧とし始めた。
もう、相手の気配も感じられない。
突然、背後から首に腕を回された。掴まれたまま、側頭部や脇腹をいいように殴られる。アユミの身体から、力が抜けていく。
気付いた時には、胸を覆っていた布が剥ぎ取られていた。客席が沸く。
なんとか逃れようとしても、ルミネの長い腕は細い首をぎりぎりと締め上げてくる。もう一方の手が、アユミの未熟な乳房に爪を立てた。
「あんた、すごい人気じゃない。もっと客を喜ばせてやりたい? なんなら下も剥いてやろうか?」
耳元で嘲るような声がする。
「このまま締め落とすのは簡単だけどね、それじゃ面白くない。その可愛い顔がふた目と見られないようになったら、それでも客はあんたを応援するかな?」
背筋が凍るような、サディスティックな声音だった。
同時に、身体が自由になる。首を絞めていた腕が離れたのだ。
突然のことに戸惑ってふらついたところを、また殴られた。体重の乗った、重いパンチだった。
二発、三発。
なんとか距離を取ろうとしても逃げられず、執拗に顔面を殴られる。
口の中いっぱいに、血の味がした。
脚から力が抜け、その場に崩れ落ちる。しかし俯せになったところで髪を掴まれ、無理やり立たされた。
「まだまだ、もっと客を楽しませなさい」
また、殴られる。
髪を掴まれて、腹に膝蹴りを入れられる。
何発も、何発も。
ルミネが手を放すと、アユミはその場にうずくまった。胃液が逆流して口から溢れ出す。
また、髪を掴まれて引き起こされる。
顔面に、膝蹴りを叩き込まれる。
一発。二発。
三発目で、意識が遠くなった。
ざらざらとした固いものが、顔に押しつけられている。
なんだろう。
ぼんやりとした頭で答えに辿り着くには、ずいぶん時間がかかってしまった。
砂、だ。固い地面の感触だ。
(あたし……倒れてるんだ……)
いつ倒れたのだろう。どのくらい倒れていたのだろう。
試合はもう終わったのだろうか。もう、殴られなくてもいいのだろうか。
その問の答えは、髪を乱暴に引っ張る手だった。
力ずくで引き起こされる。
顔に衝撃が走る。
意識が飛ぶ。
また、起こされる。
何度も何度も繰り返される。
血と砂が混じり合って、顔はどろどろだ。口の中もじゃりじゃりする。
「……お願い……もう……ゆるして……」
「そんな小さい声じゃ、聞こえないわね」
頭を地面に叩きつけられた。
「勘弁して欲しければ、土下座してもっと大きな声で許しを請いなさい。ちゃんと、お客さんに聞こえるように」
「……っ」
脇腹に、さらに激しい衝撃が加えられる。蹴られたのだろうか。アユミの身体が地面を転がる。
ルミネはアユミをなぶり続けている。もう、勝敗は誰の目にも明らかなのに。
彼女のプライドを傷つけた報いがこれだった。
(……土下座?)
闘技場の中で。大勢の観客の前で。
闘奴にとって、これ以上の屈辱はない。
(……それでも……いいや)
そう思った。
もう、殴られたくない。
痛い思いをしたくない。
これ以上痛めつけられたら、本当に死んでしまう。
(もう……立てないよ……立ちたくない……もうやだ……)
このまま、倒れていたいのに。
このまま倒れていれば、もう殴られなくてもいいのに。
ルミネはそれを許してはくれず、何度でも無理やり引き起こされ、殴られ続ける。
いつになったら、終わるのだろう。
どれだけ我慢すれば、止めてくれるのだろう。
「さあ、泣いて許しを請いなさい」
甲高い声が頭に響く。
(……もう……いいや)
もう、終わりにしよう。
こんなこと。
もう一度殴られたら、死ぬかもしれない。
一度じゃ無理でも、二度なら。
死ぬことができるかもしれない。
その方がいい。
そうすれば、もう痛い思いをしなくてもいい。
もう、二度と。
たとえこの試合が終わったって、いずれまた闘わなきゃならない。
また、同じ目に遭うかもしれない。
結局、今置かれている状況から逃れるには『死』という手段しかないのではないだろうか。
(……もう……いいよね……)
これだけ痛い思いをしたんだから。
そろそろ、解放されてもいいはずだ。
あとほんの少しだけ我慢すれば、楽になれる。
そう思ったアユミは、最後の力を振り絞ってよろよろと立ち上がった。
「……あ……あたし……謝ったりなんか……しないもん」
歯が何本か折れていてうまく喋れなかったが、それでも相手には伝わったようだ。ルミネの表情が一変する。
「……っ、じゃあ、死にな!」
これ以上はないという怒気を、無理やり押さえつけている声。
激怒している。
来る。
今度こそ、殺す気で。
これで、終わり。
(早く……来て……あたしを解放して)
一心にただそれだけを願っていたアユミの意識に、突然ひとつの声が割り込んできた。
場内を埋め尽くした歓声に混じって、たったひとつの声が何故かはっきりと聞こえる。
『バカ野郎っ! 頭下げろ、右だっ!』
どうしてだろう。
アユミの身体は、反射的にその声に従っていた。その声は、従わなければならないもののように思えた。
微かに頭を傾ける。こめかみをルミネの拳が掠めていった。
『今だっ、極めろ!』
また、身体が勝手に動いてしまう。
ルミネの腕を掴んだ。目が見えなくても、身体が触れてさえいれば組技は使える。
腕をしっかりと掴まえて、ぶら下がるように体重をかけながら地面を蹴る。
振り上げた脚が、相手の首と胴に絡みつく。
飛びつき腕ひしぎ十字固め。昔、何度も何度も練習させられた技。
相手に体重を預けて倒れ込みながら、二人分の体重を利用する。腕力のないアユミでも、決定的なダメージを与えることができる。
『折れ! 躊躇すんなっ!』
どこかから聞こえてくる声の、最後の指示。
アユミの身体はやっぱり、その声に素直に従っていた。
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