夕食の後、メイドたちを下がらせて全員が居間に集まっていた。
 くつろいでいるという雰囲気ではない。
 特に彩樹が、全身から危険な怒りのオーラを発していた。彩樹の反応が怖くて、早苗も一姫も口をきけずにいる。
「……事情はわかった。だったら、なぜさっさと助けない?」
 重い口調で彩樹が言った。アリアーナを睨みつけている。
「こちらにもいろいろと事情というものがある。調べなければならないことも多い」
 今にも怒りを爆発させそうな彩樹を前に、アリアーアナの口調はいつも通りだ。
「……歩美をそのままに、なにも気付いていない振りをしておいて、黒幕を探っている……ってわけか?」
「……そうだ」
 そう答えるのと同時に、彩樹の拳がアリアーナの顔に叩きつけられた。
 アリアーナが倒れるよりも早く、顔と腹に連続で突きを叩き込む。さらに、鳩尾に前蹴りが突き刺さった。
 糸の切れた操り人形のように、アリアーナが倒れる。顔を歪めた苦悶の表情で、食べたばかりの夕食が胃液に混じって口から溢れ出す。
 彩樹が、冷たい瞳で見下ろしていた。
「……あ、彩ちゃんっ!」
「彩樹さんっ!」
 早苗と一姫の叫びも聞こえていないようだ。身体を痙攣させて嘔吐し続けているアリアーナの傍らにしゃがみ、乱暴に髪を掴んで、絨毯を汚している吐瀉物の上に顔を押し付ける。
「歩美が、毎日をどんな思いで生きているか。殴られることの痛み、恐怖。自分の身体で味わってみろよ! 女王として、なにひとつ不自由ない暮らしをしているお前にはわからんだろ!」
「彩ちゃん、やめ……っ」
 背後から止めに入ろうとした早苗は、いきなり裏拳で殴られた。倒れたところを、シルラートが助け起こしてくれる。
「シルラート様、彩ちゃんを止めて!」
 早苗は叫んだ。この場で、腕力で彩樹に対抗できるのは一人しかない。しかしシルラートは首を左右に振った。
「サイキが怒るのは予想していた。彼女の立場なら当然のことだ」
 早苗を立たせ、一姫も促して居間を出ようとする。
「我々はここにいない方がいい。あとは二人の問題だ」
「だってっ! 姫様、殺されちゃうよ!」
 怒りに身を任せている彩樹は、ひどく危険な存在だ。付き合いの長い早苗はよくわかっている。
 彩樹は時々自分の感情を抑えられなくなって、衝動のままに暴力を振るってしまう。その気になれば素手で人を殺す力を持った彩樹が、である。
 しかしシルラートは、もう一度彩樹を止めようとする早苗をしっかりと掴まえた。
「ここにいない方がいい。アリアーナは大丈夫だから」
 続けて、小さな声で耳元でささやく。
「君らがここにいると、サイキは怒りを収められない」
 早苗は仕方なく、シルラートの言葉に従った。



 早苗たちが出ていってアリアーナと二人きりになると、彩樹はソファにどっかと腰を下ろした。
 相変わらずの怒りの表情で、横たわるアリアーナを見下ろしている。
「う……く……」
 苦しそうに呻き声を漏らしながらも、アリアーナが身体を起こそうとする。震える身体で立ち上がろうとして、バランスを崩してまた床に倒れた。
 片手で口を押さえる。大量の血が混じって赤黒く染まった胃液が、指の隙間から溢れ出す。
 それでも腕の力で這うように進んで、彩樹が座っているソファに這い上がると、クッションに寄りかかって大きく息をついた。
 苦しそうに荒い息をしながら、彩樹に顔を向ける。額に脂汗が滲んで、口の周りは血と吐瀉物で汚れているが、表情は意外と落ち着いていた。
 それでも、息をする度に微かに顔が歪んでいる。深呼吸することができずに、浅い呼吸を繰り返している。
 おそらく、殴られた肋骨が折れているのだろう。
「……謝らねーぞ」
 アリアーナから目を逸らすと、彩樹はぽつりと言った。
「……謝らなければならないのは……、わたしの方……なのだろうな」
 数秒の間の後、ゆっくりと一語ずつ区切るようにアリアーナが応える。声を出すのも苦痛らしい。
 彩樹は立ち上がると、アリアーナの前に立った。
「…………そうだ。だけど、オレにじゃない」
 低い声でそう答えて、ぎゅっと拳を握る。
 そのまま黙って、アリアーナを見下ろしていた。
 室内がしんと静まりかえる。アリアーナの苦しそうな呼吸だけが聞こえてくる。
 やがて、彩樹はゆっくりとその場に膝をついた。
 アリアーナのドレスをぎゅっと握って、しがみつくようにして膝のあたりに顔を埋める。
「サイキ……」
 感情のこもらない紫の瞳が、自分に縋りついている彩樹を見つめる。彩樹の肩が、小刻みに震えている。
「……なあ、頼むよ。あいつを助けてやってくれよ」
 それは、涙声だった。
「……あんなこと、できる奴じゃないんだ。あんな奴じゃないんだよ。どうして歩美があんな悲しい目をしなきゃならないんだ。あいつはもっと……すごく、可愛い顔して笑うんだ。まだぜんぜんウブで、甘えん坊でさ……」
 アリアーナはじっと彩樹を見つめていた。彩樹が顔を押し付けている膝のあたりが、熱く濡れていた。
「こんなところ……あいつがいていい場所じゃない。あいつがいるべき場所じゃないんだ。……頼むよ、なあ……頼む」
「サイキが……助ければいい」
 その言葉に、彩樹の肩の震えがぴたりと止まった。
「……いいのか?」
 涙で濡れた顔を上げる。
「オレのやり方でやるぞ。いいのか?」
「そのためにサイキを連れてきた」
 アリアーナはゆっくりと、しかし大きくうなずいた。
「歩美の……次の試合は?」
「今回はしばらく間があるだろう。少なくとも、怪我が治るまでは。すぐ数日後、ということはないはずだ」
「……ならいい」
 彩樹は勢いよく立ち上がった。手の甲で涙を拭ってアリアーナを見ると、彼女も汚れた口の周りを拭いている。
「……やせ我慢しやがって。まだ立ち上がれないくらい苦しいんだろ?」
「そうだ。サイキに頼める義理ではないのかもしれんが、寝室まで連れて行ってはくれないか?」
「ふん」
 彩樹は乱暴にアリアーナを肩に担ぎ上げた。そのまま軽々とアリアーナの寝室まで歩いていき、ベッドの上に放り投げる。
「……医者を呼ぶか? 歩美を助ける前に死なれちゃ困るからな」
「いや、大丈夫だ」
 アリアーナの口調は相変わらずだったが、横になったためかいくらか楽そうに呼吸をしている。
 しばらくベッドの脇に立ってそんな様子を見下ろしていた彩樹の口元に、微かな笑みが浮かんだ。おもむろにベッドに上がると、アリアーナの上にのしかかった。
 一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべたアリアーナの胸元に手をかける。少し力を入れると、薄い絹の生地はあっさりと裂けた。
 おそらくはかなり上等なものであろうドレスを簡単に破り捨てた彩樹は、続けて下着に手を伸ばす。たちまちのうちに、それもただの破れた布に姿を変えた。



「……いつの間に?」
 ふと気付くと、早苗はシルラートの寝室に連れ込まれていた。
 ベッドに押し倒されて、顔中にキスの雨を降らされて、服を脱がされているところ。一瞬前まで廊下を歩いていたと思ったのに、彩樹に勝るとも劣らない早業だ。
「……って、何してるんですか! シルラート様!」
「することは一つしかないだろう。久しぶりに会って」
「こんなことしてる場合じゃないでしょお?」
 早苗は抵抗する。別にシルラートと一夜を共にするのが嫌なわけではない。が、彩樹とアリアーナが大変なことになっているというのに、それどころではない。
「姫様と彩ちゃん、あのままじゃ……」
「心配ない」
「でも……彩ちゃんがついているからこそ、危ない気がするんだけど」
 彩樹は時折、自分を抑えられなくなって衝動的に暴力を振るってしまうことがある。そんな時には、まったく手加減ができなくなるのだ。
 あれだけ激怒している彩樹を見るのは早苗も初めてだった。ひとつ間違えば、取り返しのつかないことになりかねない。
「大丈夫だ。私を信じろ」
「でも……」
 まったく心配していない様子のシルラート。この自信の根拠はいったい何なのだろう。彩樹のことは、早苗の方がずっとよく知っているはずなのに。
「後は、彼女たち二人の問題だ。こっちはこっちで楽しもうじゃないか」
「やぁ……ん……もぉ……」
 露わにされた胸に唇を押しつけられて、早苗は身悶える。この感覚は嫌いじゃない。
 シルラートとのこうした関係にも、ずいぶんと慣れてきた。
 彩樹には女の子同士の良さを教わって、シルラートには男の良さを教えられて。
 共通点は、どちらもたまらなく気持ちいいということだった。彩樹のことはもちろん好きだけれど、シルラートも捨てがたい。
(彩ちゃんは浮気し放題なんだから。ウチだってちょっとくらい……ねぇ?)
 シルラートはハンサムだし、身分は高いし、なにより男だし。
 彩樹と『初体験』してしまった以上、彼を拒む理由もないではないか。
「んっ……あっ、ぁんっ!」
 シルラートが胎内に入ってくる。微かな不安とその何倍もの悦びを感じながら、早苗は彼を受け入れていた。



 全裸になると、アリアーナの肌の白さがいっそう際立っていた。
 鳩尾と脇腹が赤く腫れ上がっている。
 彩樹はアリアーナの上に馬乗りになると、細身な割には豊かな彼女の胸を鷲掴みにした。柔らかなゴムボールのように変形する乳房に、爪が深々と喰い込んでいく。
「……サイキ?」
「女の闘奴は、こーゆーこともされるんだろ?」
「自分の身体で味わってみろ……ということか」
 このような状況でも、アリアーナは顔色ひとつ変えない。まだ傷が痛むのか額に汗が滲んではいるが、そのポーカーフェイスは相変わらずだ。
「……それで気が済むのなら、わたしは構わないが」
「…………」
 彩樹は無言で、アリアーナの顔をじっと見下ろした。
 そのまま数分間が過ぎる。
「……くそっ」
 しばらく経ってようやく手を放した彩樹は、舌打ちしながらアリアーナの上から降りた。ベッドの端に腰掛ける。
「少しはビビってみせろって。どんな冷静な女だってなぁ、レイプされそうになったらもっと取り乱すもんだぞ」
「すまない。そういう感情表現は得意ではないんだ」
「それは知ってるけどよ。少しは期待するじゃねーか」
 彩樹はつまらなそうに小さな溜息をついた。アリアーナがゆっくりと上体を起こす。
「……なあ、歩美のこと、いつから気付いてたんだ?」
「弁解するつもりはないが、それほど前のことではない。この間、夢魔騒ぎがあったろう」
「ああ」
「あれがどこから迷い込んだものか調べさせていたのだが、どうやら、わたしたち以外にもサイキたちの世界とここを行き来している者がいるらしいとわかった。ちょうど同じ頃に兄上が、奇妙な闘奴がいる、と言ってきたんだ」
「それが歩美か」
「そうだ」
 アリアーナがうなずく。
「三日前、兄上に連れられて初めてこの街に来た。一目見てすぐに気がついた。あれはサイキと同じ技だ。キョクトウリュウ……とかいったか」
「当たり前だ。歩美はオレが鍛えたんだ」
「それで、サイキたちを呼んだ」
「……そうか」
 彩樹はぼんやりと天井を見上げた。アリアーナを殴ったのは、少し早まったかもしれない。別に、知っていて放っておいたわけではないのだ。とはいえ、素直に謝る気になれないのも事実だった。
 立ち上がって、ベッドの脇に置いてあった水差しを手に取った。一口水を飲んで、それからアリアーナにグラスを差し出す。アリアーナはゆっくりと水を口に含んだ。
 彩樹は腕組みして壁に寄りかかり、そんな様子を見つめていた。アリアーナは全裸のままなのに、羞恥心を感じている様子はこれっぽっちもない。もっともそれは今に始まったことではなく、普段から彩樹の目を気にせずに水浴びをしたりしている。
「この間の夢魔といえば……」
 ふと思い出して、彩樹はつぶやいた。
「オレの前に現れた夢魔は、翠の……死んだ姉の姿をしていた」
「ほう?」
 相変わらず無表情なまま、しかし幾分興味ありげな口調でアリアーナがこちらを見る。彩樹は一歩近付いた。
 ゆっくりと手を伸ばし、アリアーナの喉に触れる。そのまま軽く押して、仰向けに押し倒した。
「次に、お前の姿になった。だからオレは殺そうとしたんだ。こうやって、な」
 少しずつ、体重をかけていく。アリアーナの細い首を締めつける手に力を込める。
「本気で、お前を殺すつもりだった。こうして首をへし折れば、どれだけ気持ちがいいだろう、って」
「どうして、わたしではないと気が付いた?」
「本気で怯えてたから、さ」
 彩樹は手を放した。白い首に赤く指の痕が残っている。相当の力が入っていた証拠だ。
「死ぬ直前まで、オレはそれがお前だと信じていた。信じていて、それでも止めなかった。自分の命が危なくなって、夢魔も慌てたんだろう。本気で怯え出したんで、何かおかしいと気がついた。本物のお前なら、首を折られるその瞬間まで顔色ひとつ変えないだろうにな」
 彩樹は手近にあった椅子を引き寄せると、逆向きに座った。背もたれに肘をついて顎を乗せる。
「なあ、どうすればそこまでポーカーフェイスになれるんだ?」
「…………まだ、子供の頃のことだ」
 アリアーナが口を開くまでには、しばらくの間があった。
「小さい頃は、普通の子供だった……と思う。好きなものは好き、楽しいことは楽しい、素直にそう言えた。その頃……好きな男の子がいたんだ」
 そこで一旦言葉を切って、反応を確かめるようにこちらを見た。しかし彩樹は表情を変えずに聞いていた。
「……しかしやがて、その想いを人前で口にしてはいけないんだと知った。誰かを特別扱いしてはいけない。考えていることを他人に知られてはいけない。自分が、そういう立場にいると知ってしまった」
 彩樹も微かにうなずいた。先王の三人の子、その誰が世継ぎになるかについて、ずいぶん前から王宮内でも様々な争いがあったことは知っている。子供たちの意志とは無関係の、大人たちの争いだ。
「一番好きな人に、その想いを伝えてはいけないんだ、と。気持ちを知られてはいけないんだ、と。だから、感情を表に出さないように気を付けてきた」
「向こうはとうにお前の気持ちなんか知っていると思ったけどな」
「おそらくは。しかし、他人に知られるのはまずかろう」
「なるほどね。そうして、この鉄面皮女の出来上がり、か」
 小さく肩をすくめて彩樹は立ち上がった。一度、大きく伸びをしてから寝室を出ていこうとする。
 その背中に、アリアーナの声が向けられる。
「私も知りたいものだな」
「ん?」
 ドアノブに手をかけて、彩樹が振り返る。
「サイキは、どうしてそのような性格になった?」
 二、三度、瞬きをして。
 彩樹は口元に微かな笑みを浮かべる。
「……知ってるくせに。玲子さんから聞いたんだろ?」
「気付いていたのか。だが、そのことであの者を責めないで欲しい」
「別にどうでもいいさ、今さら」
 それだけ答えて、彩樹はアリアーナの寝室を後にした。



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