歩美にとっては、久しぶりの試合だった。
これだけ試合間隔が空いたのは初めてではないだろうか。それだけ、前の試合による負傷がひどかったということでもある。
(……結局、闘い続けるしかないんだよね)
半ば諦めの気持ちで、そう考える。
他に選択肢はない。生きていたければ、闘うしかない。
一度は死を選びそうになったあの瞬間、結局自分は生きることを選択してしまったのだから。
今日の試合の相手、名前はまだ聞いていないがこれがデビュー戦だという。きっと向こうも緊張していることだろう。
それにしても珍しいことだった。新人の相手をするのは、普通はもっと格下の闘奴の役目である。華奢な身体に似合わぬ実力を認められ、人気も急上昇中の歩美に回ってくる仕事ではない。
考えられることは二つ。
その新人が、周囲も認めるかなりの実力を持っている――例えば、戦争で捕虜になった名のある戦士など――の場合。
もう一つは、主人が相当な有力者で、自分のお気に入りの新人に華々しいデビュー戦を飾らせたいと考えている場合。
もっとも後者の場合には、実績や知名度は十分であっても、実力的には既にピークを過ぎたベテランが相手をすることが多い。現在登り坂にある者が相手では、新人には荷が重いだろう。
いずれにせよ、歩美にとってはいいことかもしれない。相手がどんな経歴を持っているにせよ、闘技場での闘いに慣れている分こちらが有利だ。たとえ戦場での実戦経験があったとしても、観客に囲まれた闘技場の雰囲気はまた違ったもののはずだ。
(向こうが勝手を掴めずにいるうちに、一気に決める……しかないよね)
どんな事情で闘奴になったのかは知らないが、同情している余裕などない。自分が勝つことだけで精一杯だ。
だからむしろ、相手が手強い上位の闘奴ではなくて新人だというのは、ありがたいと思うべきだ。
そう考えて、歩美は闘技場へ入った。
対戦相手は既に入場していた。格下なのだから当然だ。
しかし、そこで自分の目を疑った。
信じられない。
信じられるわけがない。
それは自分がよく知っている顔であり、決してここにいるはずのない顔だった。
二、三度、瞬きを繰り返す。
見間違いではない。目の前の人物の顔はそのままだ。
日本人の女性としては長身で、無駄な脂肪などまったくないと思えるくらいに痩せている。髪は短く、前髪だけが目を隠すくらいに伸ばされている。
それでも隠しきれない鋭い瞳。唇の端を上げるやや皮肉めいた笑み。
「……彩樹……先輩?」
こうして目の当たりにしても、まだ信じられない。半信半疑でその名をつぶやいた。
忘れるはずがない。見間違えるはずがない。
密かに想いを寄せていた、憧れの先輩を。
だけど、どうしてこんなところにいるのだろう。そこで、はっと気付いた。
「……先輩も、さらわれてきたんですか?」
歩美と同じように。
彩樹がここにいる理由なんて、他に考えられないではないか。
しかし目の前の相手は、にやっと笑って小さく肩をすくめた。
「なんの話だ? お前、前にどこかで会ったか?」
その声。
そのぶっきらぼうな物言い。
間違いない。なのに。
馬鹿な。そんな馬鹿な。
彩樹は、嘘をついている。でも、どうして。
わからない。
わからない。
獲物を狙う肉食獣のような、あの鋭い瞳。半年前と、最後に会った時となにも変わっていない。
なのに、私のことなんて知らないと言う。
どうして――
歩美の困惑をよそに、彩樹はにやにやと笑って言った。
「お前、結構な人気者だそうじゃないか。オレの連れがな、お前のことを気に入ったとさ。オレに勝てたら、買い取って自由の身にしてやるってよ」
「え?」
一瞬、言われた意味が分からなかった。
今、なんて言った?
自由の身に?
自由……!
「自由、に……?」
「あくまでも、勝てたら……だ」
その口調は言外に、「過てっこない」と歩美を嘲っていた。
歩美は混乱していた。
一体、どういうことだろう。
彩樹はやっぱり、助けに来てくれたのだろうか。
でも、どうやって。
ここは、彩樹が住む世界とはまるで別の世界なのに。
それでも――
歩美は、ここにいる。彩樹が来られない理由があるだろうか。いや、まさか。
それにしても、あの台詞はどういう意味だろう。「オレに勝てたら、自由の身にしてやる」だなんて。
歩美が、彩樹に勝てるわけがないではないか。
まさか、わざと負けてくれるつもりだろうか。
いいや、そんなはずがない。あの彩樹に限って。
彩樹は歩美を助けに来てくれた、ということだけであれば「もしかしたら」と思わなくもない。しかし、勝負に関してはこれ以上はないというくらいに厳しい彩樹が、わざと負けるなどあり得ない。
では、本気で闘ったらその結果は?
考えるまでもない。あの静内彩樹に勝てる道理などあるはずがない。
……いや。
本当にそうだろうか。
ひょっとしたら、ひょっとするのではないだろうか。
歩美はこの半年間、無数の『実戦』をくぐり抜けてここにいる。「一日の実戦は百日の稽古に勝る」とも言うではないか。半年前の歩美とは比較にならない力をつけているはずだ。
彩樹に勝てる可能性だってあるかもしれない。
いや。勝たなければならないのだ。
彩樹はなんて言った? 「オレに勝てたら、自由の身にしてやる」と。
勝たなければならない。歩美が自由になるためには、それしかない。
彩樹に勝つしか。
(彩樹先輩に、勝つ?)
そんな無茶なこと、と思わなくもない。それでも、やってみるしかない。
気持ちを落ち着かせるために、大きく深呼吸した。そして、作戦を考える。
まともに正面から殴り合って勝てるはずがない。長身の彩樹と小柄な歩美とでは、リーチもパワーも違いすぎる。
ならば、向こうに先に仕掛けさせてカウンターを狙うべきか。
それも難しそうだ。彩樹の打撃のスピードはよく憶えている。半年前の歩美では、目で捉えることすらできなかった。今の歩美が当時より格段に強くなっているとしても、自信はない。
では、どうしたらいい?
試合開始と同時に、歩美はゆっくりと前に出た。
一歩、また一歩。じわじわと間合いを詰めていく。
間もなく、手足の長い彩樹の間合いに入る。
狙うのはその瞬間だ。
彩樹の性格から考えて、自分の間合いに入った瞬間に仕掛けてくる可能性が高い。だから、その一瞬前に行動を起こすのだ。
そこでは歩美の間合いにはまだ遠い。しかし、彩樹の方から距離を詰めてきてくれる。そこで素速くもう半歩前に出れば、彩樹の攻撃のタイミングを外してこちらの間合いに入ることができる。
彩樹の間合いを正確に計る。
あと五十センチ、三十センチ……。
彩樹が動いた。一瞬早く、歩美は行動を起こしていた。
脚を前に大きく踏み出し、低い姿勢から拳を突き出す。
彩樹の拳がこめかみを掠めていく。
確かな手応えが伝わってきた。歩美の拳が、彩樹の鳩尾に突き刺さっていた。
信じられない。だけど、それが現実。
彩樹の身体がくの字に曲がる。
このチャンスを逃すわけにはいかない。ここで決められなければ勝機はない。
下がった頭に続けて拳を叩き込んだ。フック気味に、顎とこめかみを狙って連打。
彩樹がよろける。バランスを取るために踏み出した足に、ローキックを叩きつける。
膝が落ちかけたところに、脇腹へ中段の回し蹴り。
蹴り足を地面に着けずに、続けて鳩尾への前蹴り。
いずれもクリーンヒットする。
効いている。確かに効いている。
彩樹だって人間だ。先手を取られてまともに攻撃をくらえばダメージは受ける。
歩美はぎりぎりまで踏み込んで、真下からアッパーカット風に拳を突き上げた。顎を直撃し、彩樹の身体が仰け反る。
がら空きになったボディに、中段突きの連打。さらに続けて、歩美の身体が独楽のように回転する。上段の後ろ回し蹴り。
彩樹の身体は大きくよろめいた。まだ倒れはしないが、相当なダメージがありそうだった。
(ここ……っ!)
とどめを刺すために、歩美は飛び込んだ。
半年前、彩樹に教わった技。
こちらに来てからも、密かに練習し続けていた。
彩樹を倒すとしたら、これしかない。
衝――
全体重を乗せた必倒必殺の突きを、彩樹の腹に叩きつけた……はずだった。
「……え?」
しかし。
あと数ミリのところで、拳は彩樹の身体に届いていなかった。
手首を掴まれていた。彩樹の手に。
彩樹がにやりと笑った。その唇の端に血が滲んでいた。
「残念。もうひと息だったな」
はっと我に返り、離れようとする。しかし彩樹の手にしっかりと手首を掴まれて、振りほどくことができない。
「でも、強くなったよ、歩美」
「――っ!」
空いている方の彩樹の手が、伸ばされた肘に叩きつけられる。
激痛が走った。
一瞬、意識が遠くなる。
ほんのコンマ何秒かのその隙が命取りだった。
(衝――)
低い姿勢から、彩樹の拳が叩きつけられる。
衝撃が身体を貫いた。まるで、腹に太い杭でも打ち込まれたかのようだった。
意識が粉々に砕け散る。
歩美の身体はその場に崩れ落ちた。
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