ようやく西の塔の最上階にたどり着いた時には、彩樹の傷もずいぶん増えていた。
 一姫がいなくても火力ではこちらの有利は動かなかったが、どうしても防御が甘くなることは否めない。
 彩樹は弾数にものをいわせてここまで進んできた。最後の仕上げに、大きな扉の前を固めていた十人ほどを薙ぎ倒し、そのまま扉を蹴破った。
「動くな! 銃を捨てろ!」
 中から響いてきたそんな声を、彩樹は無視した。意外と広い室内には七、八人ほどがいただろうか。
 なんの躊躇いもなしに、彩樹は機関銃を構えて発射した。右から左へ、銃爪を引きっぱなしで銃口を滑らせ、室内を掃射する。
「こ、こらっ!」
「こっちには人質が」
「待て、おい」
「人の話を」
 悲鳴の和音の中に混じって上がったいくつもの叫び声も、ひとつずつ消えていく。
 ずいぶんと金がかかっているらしい調度品がめちゃくちゃになったところで、ようやく銃声が止んだ。
 それでも彩樹はまだ銃爪を引いたままだった。弾も、いくらか残っている。機関部から一筋の煙が立ち上って、なにかが焦げたような匂いが鼻をついた。ここまでほとんど休みなしに撃ち続けてきたために、モーターが焼けてしまったらしい。
 彩樹は役目を終えた機関銃を床に落とした。もう、立っている者は彩樹の他に二人しかいない。あとの者たちは血を流して床に転がり、苦しそうな呻き声を漏らしている。
 立っているうちの一人は、後ろ手に縛られて、それでも普段通りに無表情なアリアーナ。
 もう一人は、その後ろに立って短銃を突きつけているサルカンドで、こちらは目に溢れんばかりの涙を浮かべて、拳銃を持った手が小刻みに震えている。
「こっ、こっ、こらっ! これが目に入らんのかっ!」
 裏返った声でサルカンドが叫ぶが、いちいち相手にする気にもなれなかった。
「サイキ……、わたしに当てるつもりだったろう?」
 アリアーナは相変わらず冷静な様子だったが、さすがに、いくぶん声が固いように感じた。それでも、機銃掃射にさらされてこの程度とはたいしたものだ。
「……意外と運がいいな、お前」
 彩樹は微かな苦笑を浮かべた。
 本気で当てるつもりだったわけではないが、「二、三発かすめるくらいは仕方がない。致命傷を与えなければいい」くらいのつもりで撃ったのは事実だ。
 こんな状況では普通、人質を取った敵は絶対的に優位な立場のつもりでいる。なにしろ人質は一国の女王なのだ。警告に耳も貸さずにいきなり発砲するとは夢にも思っていない。
 その油断を衝くのは、意外と有効な戦術だった。もちろん万が一のことを考えれば、彩樹のような性格でなければできることではないが。
 しかし、慣れない武器ではやはり完璧とはいかなかったようだ。できればアリアーナには当てないように、というつまらない遠慮のために、肝心のサルカンドも外してしまった。
 彩樹は小さく舌打ちをして、腰のホルスターの銃を抜いた。ベレッタM‐93R。拳銃としてはずいぶんと大きな、三連射が可能なマシンピストルだ。
 早苗から教わった通りに親指で安全装置を外して、セレクターレバーを単射から三連射に切り替える。
「ぶ、武器を捨てろ!」
 いくらか震えが治まったらしいサルカンドが、アリアーナに銃口を押しつけて叫んでいる。しかし、小さく縮こまってアリアーナの陰に隠れるような態度では、威厳も迫力もあったものではない。
 彩樹は醒めた瞳でサルカンドを見た。つくづく馬鹿な男だ。こんなことで王位を手に入れられると考えるところも馬鹿だし、アリアーナを人質にして脅せば彩樹が言うことを聞くと思っているところも馬鹿だ。
 どんなに脅したところで、サルカンドには人質を殺せない。アリアーナが死ねば自分の生命もないことくらい、いくら馬鹿でもわかっているだろう。
 だから、人質を殺すというのは脅しにはならない。少なくとも彩樹にとっては。
 サルカンドが優位に立てる要因など、ここには何ひとつ存在しないのだ。
「み、三つ数えるうちに銃を捨てろ!」
 いくら大きな声を出したところで、虚勢を張っているのは見え見えだ。サルカンドの言っていることなど、彩樹はいちいち聞いていなかった。
 黙って、銃を持った右手を上げる。真っ直ぐに、アリアーナを盾にしているサルカンドに向けた。
「お……俺は本気だぞ!」
「だったらどうした」
 三つどころか、最初のひとつを数える暇さえ与えずに彩樹は銃爪を引いた。なんの躊躇いもなかった。
 ひと続きになった三発の銃声。サルカンドの身体が仰け反り、血飛沫をまき散らして床に転がった。
 自由になったアリアーナは、倒れている兄の姿を確かめるように後ろを振り返る。
「サナエの腕ならば信用できるが、サイキに銃口を向けられると生きた心地がしないな」
「だったら、それらしい表情をして見せろよ」
 アリアーナの胸のふくらみに銃口を押しつけて、彩樹は鼻にしわを寄せた。
 言葉とは裏腹に、アリアーナは相変わらずの無表情だ。怯えていた気配など感じられない。
「ったく、こんなバカどもに捕まりやがって。このオレがわざわざ助けに来てやったんだからな、感謝しろよ。具体的に言うと、金貨ひと山分くらいの感謝だ」
 銃をホルスターにしまい、アリアーナの手首を縛っていたロープを切りながら彩樹は言う。
「考えておこう。こんな時、サイキが我が国の近衛騎士ではないのが悔やまれるな」
「ん?」
「近衛騎士であれば、こうした仕事も給料のうちなのだが」
「女王のくせに、しみったれたこと言ってンじゃねーよ」
「女王だからこそ、だ。君主に浪費癖があっては国民が大変だろう」
 実際のところ、マウンマン王国の国力を考えれば、アリアーナの生活はむしろ質素といってもいい。立場上必要とする以上のドレスや宝石にも興味を示さないし、特に美食家というわけでもない。
「なんか最近、報酬をうやむやに誤魔化されている気がするんだよなー」
「アユミの件は、サイキが自ら進んでやったことだろう?」
「……まあな、それはいいさ。でも、この間のアレは?」
 先日の、魔法学院での一件だ。
「ずいぶんと楽しんでいたようだから、それで十分かと」
「……」
 彩樹は小さく舌打ちをした。確かにあれは役得の多い仕事だったが、現金での報酬だって貰えるものなら貰っておきたい。
 どうも最近、アリアーナにうまく利用されているような気がする。
「ちっ……。とにかく、さっさと帰るぞ」
 一姫が怪我をした時と同じように、トランシーバーでメルアを呼ぼうとした。
 ところが、ポケットは空だった。どうやら、ここに来るまでの激しい戦闘の中で落としてしまったらしい。
 面倒なことになった、と彩樹は思った。
 来た道を戻るとなると、また敵兵と戦わなければならない。ここに来るまでに全員を倒してきたわけではないのだ。大きな城のこと、まだ相当数の兵が残っているに違いない。重火器なしでその中を突破するというのは、できれば避けたい。
「ここは?」
 彩樹は大きな窓を開けてバルコニーに出た。どこかでロープを調達すれば、ここから脱出できるかもしれない。
 しかし。
「そこは、あまりサイキ向きの逃げ道ではないと思うぞ」
 背後からアリアーナの声がする。
「……なるほど」
 彩樹も、下を見てうなずいた。
 下は、断崖絶壁だった。外から見た時から気づいてはいたが、この城は本当に崖っぷちぎりぎりに建てられているらしい。
 深い谷の底に、水量豊富な急流が渦を巻いているのが見える。水面までは数十メートルはあるだろうか。
 アリアーナが「サイキ向きではない」と言ったのももっともだ。高所恐怖症が治る前の彩樹だったら、一瞥しただけで貧血を起こしそうな光景だった。
「崖に面していない側へ移動しなきゃならんな」
 この窓からの脱出を諦めた彩樹が、室内を振り返る。
 そこへ。
「サイキ、危ない!」
 アリアーナの姿が目の前に飛び込んできた。その背後に、部屋の入口で銃を構えている兵士の姿がある。
 銃声が響いた。
 直後の短い叫び声は、狙いとは違う人物を撃ってしまった兵士のものだったのだろうか。
 アリアーナが、彩樹の身体を押しのけるようにぐらりと傾く。
 伸ばした手も、一瞬間に合わなかった。
 バルコニーの低い手すりを越えて、アリアーナの身体が宙に投げ出された。
「……あ、アリアーナ!」
 次の瞬間、彩樹は後先考えずに、アリアーナの後を追って飛んでいた。


 耳元で轟々と風が唸る。
 白く泡立つ水面が、ものすごい勢いで迫ってくる。
 それは水というよりも、堅いコンクリートにでも叩きつけられたような衝撃だった。一瞬後、周囲は水と泡に包まれ、彩樹は洗濯物の気分をたっぷりと味わうことになった。
 それでも、このとんでもないダイビングの衝撃を受け止めるだけの深さがあったのは幸いだった。彩樹は苦労して水面に顔を出すと、数メートル下流を流されていくアリアーナの姿を見つけた。
 追いつこうと、必死に水をかく。アリアーナは意識がないのか、急流に揉まれて浮き沈みしつつ、なんの抵抗も見せずに流されていく。
 関節が痛くなるほどに、限界まで腕を伸ばした。
 アリアーナの服に指先が触れる。
 掴まえた、と思った瞬間、岩に叩きつけられた。伸びきっていた肘に、悲鳴も上げられないほどの激痛が走る。衝撃と痛みで、一瞬、意識が遠くなった。
 それでも、握ったドレスの裾は放していなかった。力任せにたぐり寄せて、細い身体を片腕でしっかりと抱きかかえる。
 この急流をいつまでも流されているのは危険なので、もう一方の手で川岸の岩を掴もうとした。しかし水苔が滑って掴まえ損なう。
 流れの中に顔を出していた小さな岩を蹴って、勢いをつけてもう一度川岸に飛びつく。指先が、岩の窪みに引っ掛かった。また滑りそうになるのを、爪を立てて必死に堪える。生爪が剥がれそうだったが、それでもなんとか川岸の岩に這い上がることができた。
 肩で息をしながら、彩樹は周囲を確認した。
 両岸は切り立った崖で、人が歩けるような河原などどこにもない。とりあえず水から上がったはいいが、身動きはとれないようだ。
 次に、アリアーナの容態を見る。白いドレスの背中、右肩の下あたりに紅い染みが広がっていた。意識はないが、大きな傷はこの銃創だけで、あとは流されていた時についたものと思しき小さな切り傷、擦り傷がいくつかあるだけだ。
 彩樹は、ドレスの裾を包帯くらいの幅で裂いて、固く丸めてアリアーナの肩の傷に押し当てた。崖から、うすく板状に剥がれかかっていた石を割ってその上に当て、さらに裂いたドレスを包帯代わりにしてしっかりと縛る。
 これで、とりあえずの止血にはなるはずだ。体内で大きな血管が傷ついていなければ、しばらくは保つだろう。
 彩樹はアリアーナの顔を見た。
 もともと色白だが、今は出血のせいか、さらに血の気のない白い顔をしている。
 しかし、間違えようがない。
 どうして気付かなかったのだろう。
 いいや、違う。
 最初から、初対面の時から、きっと気付いてはいたのだ。なのに、無意識のうちに気付かないふりをしていただけだ。
 この美しい少女の、金色の髪と紫の瞳。
 これを黒く染めれば、彩樹にとって大切なある人物にそっくりだということに。
 だから、初めて会った時から平静ではいられなかったのだ。
「……身代わりじゃあない……か」
 ここに来る前に、シルラートが言っていたことを思い出す。
 アリアーナの兄によく似た彩樹。彩樹の姉によく似たアリアーナ。
 不思議な偶然だ。万に一つもない、天文学的な確率の出会い。
 それとも、出会うことが運命づけられていたのだろうか。
「……アリアーナ。おい、アリアーナ!」
 頬をぴたぴたと叩くと、やがてアリアーナはゆっくりと目を開いた。
 真っ直ぐに彩樹の顔を見上げ、口元に微かな笑みが浮かんだように見えた。
「初めて……だな」
「何がだ?」
「初めて、わたしの名前を呼んでくれた」
 彩樹の頬が、かぁっと赤くなった。
「……つまらねーこと言ってンじゃねーよ」
 わざと乱暴に言う。
 確かにその通りだ。知り合ったばかりの頃から、どうしてか名前で呼ぶことができなかった。
 彩樹の方こそ、アリアーナを身代わりにしていたのかもしれない。だから、その名前では呼べなかったのかもしれない。
 だけど、今なら名前を呼べる。それでも、そのことを当の本人から指摘されるのはなんだか面映ゆい。
 彩樹は話題を変えるために、目の前にそびえ立つ崖を見上げた。
 垂直というほどではないが、それにしてもかなり急だ。高さも二十、いや三十メートルほどはあるだろうか。岩の割れ目や露出した樹の根など、手がかりがないわけではないが、下半分は水飛沫で濡れて滑りそうだし、ここを登るのはかなり苦労しそうだった。
 彩樹ひとりなら、そして無傷であれば、ほぼ間違いなく登れるだろう。しかし彩樹は腕を怪我しているし、アリアーナは重傷で、自力で登ることなど不可能だ。
 怪我をした腕で、しかもアリアーナを背負って登れるだろうか。さすがに自信はない。
「……」
 彩樹は眉をひそめた。
「すぐ近くに、飛竜と、早苗たちがいるんだけどな」
 なのに、連絡を取る手段がない。今さらながら、トランシーバーをなくしたことが悔やまれる。
 川の上流、下流に目を向けても、ここより楽に登れそうな箇所は見あたらないし、そもそも川岸を歩いて移動することも不可能だ。
 どうあっても、ここを登るしかない。
「サイキひとりなら登れるか?」
「……多分な」
 彩樹は曖昧にうなずいた。
 あの魔術師にやられた傷に加え、アリアーナを助けようとした時に岩に叩きつけられた傷がある。肘はまだ痺れたような感覚があって、力が入らない。
 しかし、それは黙っていた。言ってもどうにもならないことだ。
「だったら、わたしはここで待っていよう。ひとりで登って、助けを呼んできてくれ」
「……」
 それは、彩樹も考えていた。
 いくら怪我をしていても、ひとりならなんとかなる。自分だけなら、片手でだって登ってみせる。それだけの鍛え方はしているのだ。
 しかし、深手を負っているアリアーナをひとり残していくのも不安だった。
 川の水流は激しいし、いま座っている岩もさほど大きなものではなく、飛沫に濡れてかなり滑る。もしもアリアーナが貧血でも起こしたら、間違いなく落ちてしまうだろう。
 それに、気のせいだろうか。先刻よりもほんの少し、水位が上がっているような気がする。
 よく見ると流れはかすかに濁っているし、落ち葉や小枝がずいぶんと混じっていた。
 空を見上げると、どんよりと曇っている。上流では雨が降っているのかもしれない。だとしたら、ここもいつまでも安全だという保証はない。
 アリアーナがひとりの時にこの急流に呑み込まれたら、絶対に助かるまい。やはり、ひとりで残していくことはできない。
「オレが背負ってくよ」
 彩樹は言った。
「てめーみたいな鈍いヤツ、危なっかしくてひとりで置いていけるか」
「……そうか」
 アリアーナがどう受け取ったのかはわからない。彼女はただ、いつものように無表情にうなずいただけだ。
 彩樹はまたアリアーナのドレスの裾を細く裂くと、寄り合わせて即席の短いロープを作った。アリアーナを背負い、その両手首をロープで縛る。こうすれば、アリアーナは腕にまったく力を入れずとも、彩樹に背負われていられる。いつまた気を失うかわからない今の状態では、必要な措置だった。
「しっかり掴まってろ」
 彩樹は立ち上がって、岩に手をかけた。
 わずかな窪み、割れ目、それに樹の根。
 垂直に近い崖であっても、利用できる手がかりは皆無ではない。ゆっくりと、慎重に登りはじめる。
 そしてすぐに、これは予想以上に辛い作業だと気がついた。
 怪我をした左腕に、まるで力が入らない。アリアーナの重量がなくても、左手の力で身体を支えるなど不可能だった。
「こんなことなら、フリークライミングの講習でも受けておくべきだったかな」
 わざと、冗談めかして言った。もちろん、高所恐怖症だった彩樹にそんなことができるはずもないのだが。
 テレビかなにかで見たわずかな知識と、野生の本能を総動員して、彩樹は崖に挑んでいく。
 ゆっくりと動くこと。
 同時にふたつのことをしようとしてはならない。
 片腕、片足ずつ。
 動かした手が、しっかりとした手がかりを掴んだことを確認してから、片足を持ち上げる。
 つま先が岩の窪みに間違いなく引っ掛かったら、もう一方の足を上げる。
 慌てず、欲張らず。
 数センチずつ、確実に。
 自分の体重プラス、四十キロの荷物。
 五メートルと登らないうちに、彩樹の額に汗が噴き出していた。
 片腕で崖を登るのが、これほど難しいこととは思わなかった。力の入らない左腕では、しっかりとした手掛かりがあっても掴まっていられる自信がない。一瞬でも力が抜けたら、それで終わりだ。
 仕方なく、左手の力はあてにしないことにした。とはいえ、片手をまったく使わずに崖を登れるはずもない。
 岩の割れ目を見つけたら、そこに指を差し込む。指一本がぎりぎり入る細い隙間に無理やり指を押し込めば、指先にほんの少し力を入れるだけで、指は決して抜けなくなる。肩や肘、あるいは指にどれだけダメージが残ろうとも、落ちることだけはなくなるのだ。
 そうして身体を支えておいて、右手を使ってほんの少し登り、また左手を少し上にある割れ目に差し込む。
 じりじりと、じりじりと。
 足が滑って何度も落ちそうになりながらも、なんとか持ちこたえて。
 時には、力の入らない左手の代わりに、樹の根に噛みついて顎の力で体重を支えて。
 少しずつ登っていく。
 十メートル。十五メートル。
 ようやく、これまで登ってきた距離よりも、これから登らなければならない距離の方が少なくなってくる。しかし、そこで行き詰まってしまった。
 進路上に、使えそうな手がかりが見あたらない。
 一メートルほど上に、かなりしっかりとした感じの岩の出っ張りと大きな割れ目があり、そこから先はいくぶん楽に登れそうだった。
 なのに、その一メートルを登るための手がかりがない。
 彩樹は唇を噛んだ。どうしたらいいのだろう。
 一度、少し下って別なルートを探すべきだろうか。
 しかし、もう、そんな回り道をする体力は残っていない。それにこの一メートルさえ越えてしまえば、その先はこのルートがもっとも登りやすいのだ。
 左右を見ても、使えそうな手がかり、足がかりはない。
 たった一メートル。それが、月までの距離よりも遠く感じた。
「サイキ……」
 耳元で、小さな声がする。
「黙ってろ。気が散る」
「しかし、大事なことを言い忘れていた」
「後にしろ」
「いま言っておかなければ、もう二度と言えないかもしれない」
「いいから、後にしろ」
 彩樹はアリアーナの言葉を遮った。
 今ここで、それを言わせてはいけない。そう感じた。
 アリアーナが突然こんなことを言い出したのは、最悪の事態を想定してのことだろう。
 だから、聞かなかった。
 危機においては、思い残すことがあった方がいい。そうすれば、簡単には死ねなくなる。
「……では、ここを乗り切る方法について考えてみよう」
「簡単に思いつくようなら、苦労はねーよ」
「彩樹の身体を足がかりにして、わたしがあそこまで登るというのはどうだ?」
「……」
 その案を、彩樹は三秒ほど真剣に考えてから却下した。確かにアイディアとしてはいいが、アリアーナの腕力と今の身体の状態を考えれば、あまりにも危険すぎる賭けだ。
 それに、アリアーナの手首はしっかりと縛ってあるため、この不安定な体勢でほどくのも難しい。
(縛って……そう、ロープかなにかあれば……)
 そこで、天啓のようにひらめいた。
 ロープの代わりになるものならあるではないか。
 思わず、口元に苦笑が浮かんだ。普通、こんな状況で思い出すことではない。
 女の子を縛って犯すのが好きな彩樹だが、ロープの用意がない時にそうした展開になることも珍しくない。そんなときに役に立つのが、ズボンのベルトだった。
 右手で岩に掴まったまま、片手でベルトを外す。端に、ホルスターに入れっぱなしだった拳銃を結びつけた。
 慎重に狙いを定めて上に放り投げる。二回目の試みで、拳銃は岩の割れ目に引っ掛かった。
 ベルトを強く引っ張って、体重を預けられることを確かめる。問題はなさそうだ。
 かすかな笑みを浮かべながら、彩樹は前進を再開した。



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