ようやく崖を登り切った時には、さすがの彩樹も体力を使い果たしていた。
 背負っていたアリアーナを落とすように地面に降ろすと、縛っていた手首をほどいてやるのも忘れて、仰向けになってしばらく荒い呼吸を繰り返した。
 掌や指は擦りむけて血が滲んでいるし、左腕の怪我はさらに悪化している。無理をしたせいで、薬指は脱臼してしまったようだ。
 満身創痍。それでもまた生き延びた。
 理由はよくわからないが、笑いが込み上げてきた。喉の奥から、くっくと笑い声が漏れる。
 生きることにこんなに真剣になったのは、初めてのような気がする。
 十分ほど横になって休憩してから、彩樹は身体を起こした。それからようやく、アリアーナの存在を思い出す。
「……おい」
「……大丈夫だ。生きている」
「ならいい」
 彩樹は笑ってうなずくと、向こうがそれについてなにも言わないのをいいことに、アリアーナの手首を縛っている紐は解かないことにした。
 とびっきりの美少女、それも高貴な身分の少女がぼろぼろの格好で縛られている姿。なんともそそられるではないか。
「ところで……」
 彩樹の視線に気付いたのか、アリアーナはなにか言いたげに縛られた両手を顔の前に上げた。あるいは「解いてくれ」と言おうとしたのかもしれないが、遠くの銃声がその言葉を遮った。
 二人揃って、銃声のした方に顔を向ける。
 数百メートル離れたところにあるサルカンドの城の上空を、二頭の飛竜が舞っていた。
 あれは早苗だろうか。飛竜の背から、城に向かって機関銃を撃ちまくっている。圧倒的な火力の前に、城からの反撃はほとんどなかった。
「派手にやってるな、あいつら」
 思わず口元が弛む。
 いつまでも彩樹からの連絡がないので、しびれを切らして強襲することにしたのだろう。向こうはまだ、二人が城を脱出したことは知らないのだ。
「さて、行くか」
 彩樹は再びアリアーナを背負って立ち上がった。
 少し休んだだけで、体力はずいぶんと回復していた。あの崖を登るときの苦労に比べれば、いくら怪我をして疲れ切っていても、平らな草地を歩くのはさほど苦にならない。
 早苗たちと合流するべく、城の方へと歩き出す。
「……で?」
 歩き出して間もなく、彩樹は訊いた。
「何がだ?」
「崖の途中で、何か言おうとしてただろ?」
「ああ……」
 背後でアリアーナがうなずいたようだったが、その後しばらく返事がない。
「言ってみろよ」
「怒らないか?」
「いいから、言ってみろよ」
「うん……」
 また少し間が空く。
 普段、彩樹を怒らせる発言を平気でしているアリアーナらしくない。
 しかしやがて。
「わたしは……、サイキのことが好きだぞ」
 いくぶん小さな声になって、ささやいた。
 彩樹が立ち止まると、アリアーナは付け加えた。
「……ずっと前から」
「……」
 彩樹は、黙っていた。
 何も応えずに、ただ黙ってアリアーナを背負ったまま立っていた。
 言いたいことはたくさんあるような気もする。だけど、実際になにか言うとなると、その言葉が浮かんでこない。
 なにを言っても、自分らしくない台詞になってしまいそうだった。
 だから結局、なにも応えずにまた歩き出した。
 ただ黙って、一分間ほどそのまま歩いて。
 そして。
「……知ってたさ」
 歩きながら、ぽつりと言った。
「知ってたよ。ずっと前から、な」



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