七章 戦う理由


 深夜のクリューカ基地の、食堂の片隅で。
 ソニアはいつものように、ワインを満たしたグラスを傾けていた。
 他に人の姿はない。起きている者は他にもいるのだろうが、みんな自室に戻っている。今のクリューカ基地には「女学校の休み時間のよう」と評された賑やかさはなかった。聞こえてくるのは、暖房用の熱い蒸気を通すパイプが軋む音だけだ。
 居心地の悪い静けさの中を近づいてくる足音に、ソニアは顔を上げた。
「……どうしてる?」
 相手が口を開く前に、それだけを訊く。サラーナは小さく肩をすくめた。
「相変わらず、ひどい落ち込みよう。目も当てられないわ」
「……だろうな」
 エリコとユーキは、クリューカ基地の最初の犠牲者となった。これまでの戦果を考えれば戦死二名という数字は奇跡といってよいほどに少ないが、だからといって戦友を失った悲しみが和らげられるものではない。
 隊員たちの多くが衝撃を受けていた。特に顕著なのはシェルシィで、見ていて痛々しいほどだった。ユーキとは同期で仲がよかったのだから無理もない。しかも同時にもう一人、友人を亡くしている。
 あの戦闘の翌日、ティアサーク基地から届いた報せ。それは、アルケイド・ダイアン中尉の戦死を伝えるものだった。
 親しい二人の相次ぐ死は、シェルシィをとことんまで打ちのめしていた。以来、すっかり鬱ぎ込んでしまっている。
 仕方ないのだろう。初めてのことなのだ。
 軍歴の長いソニアやサラーナは、戦友の死など数え切れないほど経験してきた。二人は「戦闘のあった日は紅い雨が降る」とまでいわれた、もっとも戦闘が激しかった時期の西部戦線の生き残りだ。当時の飛行隊員で、現在でも生きている者の方が少ない。
 仲間の死には慣れている。今さら、周囲の者が見てわかるほどに落ち込むこともない。ただ、胸がちくりと痛む想い出がひとつ増えるだけだ。
 人の死を悲しむという感覚が、麻痺してしまっていた。おそらくシェルシィの方が正常なのだろう。スワン01が撃墜された夜、ソニアはいつもよりほんの少し酒量が増えていた。ただそれだけで、翌朝には普段通りに任務に就いていた。
 自分たちは、悲しみも痛みも感じずに戦う機械のようなものだ、と思う。人間としては、シェルシィの反応の方が正しい。
 しかし戦場は、まともな感性を持つ人間にとって、ひどく辛い場所でしかないのだ。



 なにも、わかっていなかった。
 ここが、どこなのか。
 自分が、なにをしているのか。
 戦闘機とはその名の通り、戦うための機体だ。兵器、戦争の道具である。
 敵機を撃墜するため、つまりは敵のパイロットを殺すための存在。
 人を殺す者は、いずれ、自分が殺される番が来る。敵を殺し続け、いつかは自分が殺される。
 それが戦争だった。
 なにも、わかっていなかった。
 ただ、飛ぶことに夢中になっていた。
 しかし戦闘機にとっては、飛ぶことは目的ではない。それは敵機を撃墜するための手段なのだ。
 飛ぶのは、敵と戦うため、敵を殺すため。いつか自分が殺されるその瞬間まで、戦い続けるため。
 それなのに――
『バカ野郎! ぼけっとすんなっ!』
 耳が痛くなるほどの罵声で我に返った。ケツァルコアトルスの巨体が視界を塞いでいる。二連装の対空機銃がまっすぐにこちらを向いている。
 シェルシィは慌てて操縦桿を引く。
 一瞬、白い影が視界を横切る。
 オレンジ色に輝く曳光弾。
 飛び散る金属片。
 そして炎と煙。
「隊長っ!」
 被弾したのはソニアの機だった。敵が発砲する瞬間、シェルシィの前に割り込んで盾になったのだ。
 砕けたタービンの破片を排気口から撒き散らして、ソニアの機が降下していく。機体後部が炎に包まれ、黒い煙の尾を引いている。エンジンに致命的なダメージを受けているのは一目瞭然だった。飛行を続けることは不可能だ。
「隊長っ! 大丈夫ですかっ?」
 シェルシィは急いで後を追った。
『あー、ダメだな。こりゃ墜ちるわ』
 台詞の内容とはかけ離れた、呑気な声が返ってくる。
「ごめんなさい! あたし……あたし」
 なんということだろう。戦闘中に、他のことに気を取られるなんて。そのためにソニアが犠牲になるなんて。
『謝るのは後だ。シェル、先導して不時着できる場所を見つけろ』
「は、はいっ」
 死にかけている機体を、ソニアはうまく安定させていた。どうやら怪我はしていないらしい。外から見る限り、コクピット周辺に被弾した様子はない。
 シェルシィは急いで高度を下げると、安全に不時着できそうな平地を探した。機体のダメージを考えれば、あまり時間はかけられない。
 幸い、すぐに適当な場所が見つかった。十分な広さのあるなだらかな斜面は、過去に氷河で削り取られてできた地形だろうか。不時着の障害となる大きな岩や樹木は見あたらないし、積もった雪は衝撃を和らげてくれるだろう。
 しかし、ひとつだけ問題があった。
 先客がいる。
 斜面の端に、被弾して不時着したケツァルコアトルスの姿があった。主翼が根元から折れているが、爆発も炎上もしていない。
「……隊長、どうしましょう」
『仕方ない、あそこに降りるさ。他の場所を探してる余裕はなさそうだ。反対側から進入すりゃ大丈夫だろ』
 緩やかに旋回しながら、傷ついた竜姫が降りていく。着地した瞬間、雪が舞い上がって機体を隠した。まるで小規模な雪崩のような雪煙は、数百メートル進んだところで止まった。
「隊長! 無事ですか?」
『……ああ、アタシはね』
 普段と変わらない口調。シェルシィは大きく息を吐いた。
『でも、機体ははもうダメだな。ここじゃ回収もできねーだろうし、シェル、アタシが離れたらこいつを破壊しろ』
「え? ……あ、はい!」
 竜姫はマイカラス空軍の最新兵器、最高機密の塊だ。不時着した機体は可能な限り回収するし、それが不可能なら破壊しなければならない。
『じゃ、後のことは任せ……』
 一発の銃声が、ソニアの台詞を遮った。続けてもう一発、二発。
『……短気な奴がいるな。こりゃあやばそうだ、アタシは逃げるよ。後はよろしく』
 先に不時着していたケツァルコアトルスの乗員が、ソニアに向けて発砲したらしい。機体を離れて森の方へと走るソニアが、雪の上に点となって見えた。そこから数百メートル離れた敵の重爆の周囲に、いくつかの人影がある。不時着した竜姫へと向かっているようだ。
「隊長!」
 シェルシィは急いで高度を下げた。黒い点のように見えた敵兵が、人の形になる。ソニアを狙って小銃を構えている。
 重爆撃機ならば一○名前後の乗員がいるし、小銃や短機関銃も積んでいるだろう。しかしソニアは一人で、拳銃すら持っていない。
 他の飛行隊ではパイロットも護身用の拳銃を持つのが普通だが、ただでさえ狭い竜姫のコクピットに余計な荷物を積み込むのをソニアが嫌ったのだ。九○七飛行隊の作戦空域は自国の領空に限られていたので、これまで護身用武器を携行する必要はなかった。
 それにしても、敵の乗員たちはどうしてさっさと降伏しないのだろう。ここは辺境とはいえマイカラス領内であり、アルキアとの間には北極山脈が聳えていて、徒歩で逃げられるはずはない。
 竜姫の機体を調べようというのだろうか。それとも、これまでソニアに撃墜された多くの戦友たちの仇討ちのつもりだろうか。
「……っ、冗談じゃない!」
 自分の想像に鳥肌が立った。
 そんなこと、させるわけにはいかない。ソニアが殺されるだなんて。
 シェルシィは機を急旋回させると、ぎりぎりまで高度を下げた。
 不時着したケツァルコアトルスの巨体を照準器に捉えて距離を測り、わずかに操縦桿を動かす。小銃を構えた敵兵の姿が照準環の中心に収まり、ぐんぐん大きくなる。
 敵兵がこちらを向く。一瞬の驚愕の後、その顔は恐怖に凍りついた。
『シェルちゃんっ! やめなさい!』
 サラーナの声は、少しだけ遅かった。その時にはもう、指は機関砲のトリガーを引いていた。



 シェルシィはベッドに横になっていたが、眠ってはいなかった。
 あの日以来、ほとんど眠ってはいない。眠ることができない。眠れば、決まって同じ夢を見た。
 紅一色の夢。
 鮮血に染まった雪原。
 飛び散った肉片。
 一瞬前まで人の形をしていたそれは、今は原形をとどめない肉の塊だった。
 してはならないことを、してしまった。
 竜姫の大口径の機関砲は、敵機を撃墜するためのものだ。生身の人間を撃つためのものではない。
 直前までケツァルコアトルスと交戦していたので、シェルシィはそのまま三二ミリ砲を発砲した。巨大な重爆撃機を数発で撃墜し、戦車の上部装甲すら破壊する大口径弾が生身の人間を標的とすれば、それは凄惨としかいいようのない結果をもたらす。
 後に残ったのは、紅く染まった雪原だけだった。一瞬前まで恐怖に凍りついていた敵兵は、ただの肉片と化していた。
 やっていいことではなかった。戦闘機パイロットとして、絶対にやってはいけないことだった。
 乗機を失って地上に降りた敵は、もう攻撃対象ではない。戦場は空の上だけ、それが戦闘機乗りの誇りなのだ。
 次第に激しさを増し、罪もない民間人の犠牲が増えるこの大戦において、正々堂々の一騎打ちとか騎士道とか、そんな言葉がわずかなりとも残っている最後の戦場が大空だったはずだ。
 なのに、撃ってしまった。
 この手で、生身の人間を殺してしまった。
 だから、眠れなかった。自分が殺した人間の顔が、目に焼きついていた。
 そして、気づいてしまった。これまで自分がしてきたことに。
 敵機を撃墜するということは、その乗員を殺すことなのだ。
 初戦闘からこれまでに、いったい何人を殺してきたのだろう。ペリュトンの乗員は九人、ケツァルコアトルスなら一二人、グリフォンが二人でガーゴイルが一人。その全員が死んだわけではないだろうが、死者の数が一人二人ということもあるまい。北極山脈上空で撃墜されれば、無事に脱出できたとしても生きたまま救出される可能性は限りなく低い。
 今まで、そんなことを考えもしなかった。撃墜数が増える毎に、撃墜王に一歩近づいたとただ無邪気に喜んでいた。しかし撃墜数とは、自分が殺した――殺した可能性のある――人間の数なのだ。
 ベッドに仰向けになったまま、シェルシィは自分の右手を見た。
 操縦桿を握り、機関砲のトリガーを引くこの手は、いったい何人の人間を殺してきたのだろう。沈むことのない太陽の光がカーテンの隙間から射し込んでいる。朱い光の中で見る手は、血で真っ赤に染まっているような気がした。
 自分はどうしようもない馬鹿だ、と思った。
 なにも、わかっていなかった。
 ここは戦場なのだ。
 敵を殺すために空を飛ぶ場所。戦友が、自分が、殺されるかもしれない場所。敵を殺さなければならない場所。
 戦闘機は、戦うために生まれた存在だ。
 本当に、なにもわかっていなかった。ただ飛びたいという想いのためだけに空軍に入った。最新鋭機に乗っていい気になって、飛ぶことに夢中になっていた。その間、白い自分の手が、竜姫の翼が、血で紅く染まっていることにも気づかずにいた。
「あたし……バカだ……どうしようもない」
 涙が溢れてくる。
 シェルシィは枕に顔を埋めて、声を殺して泣いた。しんとした部屋に、静かな嗚咽だけが響いていた。
 そのまま、どのくらいの時間が過ぎただろう。眠っていたという自覚はなかったが、あるいはうとうとしていたのかもしれない。突然のサイレンにはっと我に返った。
 深夜の基地に響き渡るサイレン。敵襲を知らせる警報だ。三交代、二四時間態勢で哨戒飛行を続けている白鳥のレーダーが、接近する敵編隊を捉えたのだろう。
 スピーカーから流れる声が出撃を命じている。シェルシィは反射的に起き上がって部屋を飛び出した。
 格納庫に隣接した更衣室で飛行服に着替え、愛機へと向かう。整備員たちが慌ただしく出撃の準備をしている。
 チェックリストを受け取り、機体に立て掛けたタラップを掴んだ。
 その瞬間。
 手が、真っ赤に染まって見えた。明るい白灰色で塗装された竜姫の機体が、血まみれの肉片にべっとりと覆われていた。
 吐き気が込み上げてくる。シェルシィは口を押さえてその場にうずくまった。
 口中に、苦酸っぱい味が広がる。溢れ出た胃液が、指の隙間から滴り落ちる。
 固形物は含まれていなかった。ここ数日、食事らしい食事はしていない。胃の中は空っぽだ。それでも吐き気は治まらない。
 視界が真っ赤になる。
 うずくまって吐き続けるシェルシィの肩に、手が置かれる。下を向いていたので相手の足しか見えなかった。
「お前は無理だ。医務室で休んでろ」
 口を押さえたまま顔を上げる。ソニアが、首を小さく左右に振っていた。



 弱々しいノックの音に、ソニアは小さく溜息をついた。
 誰何するまでもない。ドアの向こうにいるのは一人しかあり得ない。昨夜の出撃から二四時間弱。思ったよりも時間がかかったな、というのが正直な感想だった。
「開いてる、入れよ」
 そういえば、前にも一度同じ台詞を口にしたことがある。しかし、状況はさらに深刻だ。
 ドアの向こうで、躊躇している気配が感じられる。ソニアは空になったグラスをテーブルに置くと、立ち上がって新しいグラスを持ってきた。
 今夜は多分、酔い潰れるまで飲むことになるだろう。飲まずにはいられない。ソニアにとっては毎晩のことだが、今夜は特にそうだ。
 ようやく、ドアが開かれた。予想していた通りの人物が、やつれた、泣きそうな表情で入ってくる。
 シェルシィ・リースリング。
 この春に空軍士官学校を卒業したばかりの新米少尉。ソニアにとっては鍛え甲斐のある可愛い部下。まるで戦闘機に乗るために生まれてきたかのような才能の持ち主。しかし、惜しむらくは心が優しすぎる。
 部屋にひとつしかない椅子はソニアが使っているので、ベッドに座るように促した。その手にグラスを押しつけて、ワインを注いだ。
「あの、隊長……」
「いいから、まず飲めよ」
 しばらく俯いて手の中のグラスを見おろしていたシェルシィは、やがて意を決したようにそれを飲み干した。
 それでいい。素面で、こんな話をしたくない。
 空になったグラスに、再び淡い金色の液体を満たす。それがまた空になる。
 シェルシィは何度か、大きく息を吸い込んで口を開きかけるという動作を繰り返した。しかし、なかなか言葉が出てこない。彼女が口にしようとしているのは、それくらい重大な決心が必要な言葉だった。
「辞めるのか?」
 ソニアの方から先回りして訊いた。あるいは、シェルシィの口からその台詞を聞きたくなかったのかもしれない。
 驚いたようにシェルシィが顔を上げる。目が合うと、また俯いて手の中のグラスに視線を落とした。
「あ……あたし、もう……、飛べません」
 涙が一滴、グラスの中に落ちる。金色の環が揺れる。
「あたし……、人を殺すことはできません」
 そう。戦争とは、命を懸けた戦い。敵兵を、敵国民を殺すことだ。
 口で言うのは簡単だが、人を殺すというのは、それほど容易なことではない。正気を保ったまま人を殺すのは難しい。
 人を殺すということは、人間の一生、この先送るはずだった何十年かの人生を一瞬にして奪うことだ。
 その何十年かの間に、その人はどんなことを成し遂げるのだろう。どんな人たちと関わり合うのだろう。
 そう考えれば、一人の人間から何十年の時間を奪うことが、どれほど重大なことかわかる。生命を奪うことの重みに気づくと、トリガーが重く感じるようになる。空軍の戦闘機乗りだろうと陸軍の歩兵だろうと、それは変わらない。
 地上で銃や大砲を撃ち合う陸軍に比べると、戦闘機の空中戦は航空機同士、機械同士の戦いだ。普段はあまり、人間を標的にしているという実感はないし、実際に死体を目にする機会も多くはない。しかし照準器の向こう、敵機のコクピットの中には、生きた人間が確かに存在するのだ。
 ソニアはしばらく黙っていた。
 なにを言えばいいのかわからなかった。シェルシィが訪ねてくることは予想できていても、どう対応するべきかは考えていなかった。
 こんな時、普通の飛行隊長ならどうするのだろう。
 空戦技術に関しては空軍でもトップクラスの腕前だと自負しているが、自分に指揮官としての資質があると思ったことはない。シェルシィが新米パイロットであるのと同様、ソニアも飛行隊長としては新米だ。しかも、空の上のこと以外の仕事の大半は、几帳面なサラーナに押しつけてきた。
 どうすればいいのだろう。なんて言えばいいのだろう。
 わからない。
 そもそも、自分はどうしたいのだろう。シェルシィが辞めた方がいいと思っているのか、それとも隊に残ってほしいのか。
 飛行隊長という立場でいえば、考えるまでもなく後者だ。定数ぎりぎり、一二人のパイロットしかいない飛行隊にとって、シェルシィは貴重な戦力だ。竜姫を乗りこなせるパイロットの後釜など、おいそれと見つかるものではない。
 しかし、本人のためを思えばどうだろう。
 世の中には、二種類の人間がいる。人を傷つけることができる者と、できない者。そしてシェルシィはおそらく後者だった。
 戦時に戦闘機パイロットでいる以上は、敵を殺さなければならない。そうしなければ自分が殺される。しかし敵を殺し続けることは、シェルシィの繊細な心を蝕んでいくだろう。そしていつか、彼女が殺される番が来る。人を殺すということは、自分が殺される可能性を享受するということなのだ。
 北方空域の戦闘は、今後さらに激しさを増すと予想されている。クリューカ基地と九○七飛行隊の危険も高まる。
 シェルシィには死んでほしくない――それが本音だった。
 軍を辞めれば死ぬこともない。なにしろ大富豪の一人娘だ。空軍に入ったのは空を飛びたいからであって、生活のためではない。家に戻れば平和な生活が保障されている。
 いずれ、リースリング家とつり合う名家の子息と結婚し、子供を産み、なんの不自由もない生活を送ることができる。
 しかし――
 果たしてそれが、彼女にとって幸せなことなのだろうか。
 いま軍を辞めたら、きっと、二度と操縦桿を握ることはないだろう。
 そんな生活が幸せだろうか。空を捨てられるというのだろうか。
 できっこない。そんなこと、できるわけがない。
 誰よりも、飛ぶことに魅せられている存在。
 その背に翼を持たずに生まれてきたことが、なにかの間違いではないかと思えるくらいに、空に在ることが当たり前の存在。
 シェルシィ・リースリングとは、そうした人間なのだ。自分も同類だからわかる。
 飛ぶことを捨てられるわけがない。事実、ソニアは今でもこうして飛び続けている。
 こんな時、なんて言ってあげればよいのだろう。
 ソニアは心の中で舌打ちした。これが映画や小説であれば、ベテランが新兵に対して、気の利いた台詞のひとつも口にする場面だろう。なのに自分はなにも思いつかない。
 そもそも、まだ自分の気持ちも決まっていない。辞めさせたいのか、引き留めたいのか。
 わからない。
 決められない。
 だとしたら――
 決めるのは、やっぱり本人しかいない。自分はただ手持ちのカードをすべてさらして見せて、その上でシェルシィ自身に判断させるしかないだろう。
「……アタシは別に、無理に引き留める気はないよ。決めるのはお前だ。ただ、今までしてきたことを否定してほしくはない。マイカラス空軍のエースパイロットであることを、誇りに思ってほしい。自分を否定する生き方なんて哀しすぎる」
「でも……」
 シェルシィは蚊の泣くような声で応えた。
「やっぱり、誇りなんて持てません。あたしは、パイロットとしてやってはいけないことをしてしまったんです」
「そうだな」
 ソニアも否定はしなかった。口先だけの慰めなんて、なんの役にも立ちはしない。
「確かに、あれはあまり褒められたことじゃない。やるべきじゃなかったかもしれない。それでも、忘れちゃいけないことがひとつだけある」
 それはおそらく、一番大切なことだ。だから、ソニアはこれまで軍人でいられた。
「シェル、お前は敵兵一人と引き替えに、アタシの命と、そして一人の女の子の未来を救ったんだ」
 シェルシィが無言で顔を上げる。泣き顔に、不思議そうな表情を浮かべてこちらを見ている。
「アタシは別に、死ぬことは怖くない。自分が戦死しても、それ以上の敵を道連れにできればそれでいい……白百合飛行隊では、ずっとそう思ってきた。でも今は、死ぬわけにはいかないんだ。なにがあっても、絶対に生きて帰らなきゃならない。実は……」
 一瞬、そこで口ごもった。他人に話すことなど滅多にないから、いまだに慣れていない。どうしても気恥ずかしさを覚えてしまう。
「娘が……いるんだ」
「え?」
 きょとんとした表情になったシェルシィは、数秒後、ただでさえ大きな目を真ん丸に見開いた。鼓膜が痛くなるほどの声が、狭い寝室に反響する。
「え……え、えぇぇぇっっ? む、娘って……た、隊長、結婚してたんですかっ?」
「いいや」
 その慌てぶりが可笑しくて、失笑が漏れた。まったく予想通りの反応だ。
「別に、結婚なんかしなくても、子供を持つことはできるだろ」
「そ、それは……そう、ですけど。養女……じゃ、ないですよね?」
「正真正銘、アタシがお腹を痛めて産んだ子」
 そう答えても、まだ納得できないという表情だ。無理もない。
 らしくない、と自分でも思う。未婚の母だなんて。
 だけど、普通に結婚して家事に明け暮れている生活は、きっとそれ以上に似合わないだろう。
「今は、アタシの母親に面倒みてもらってるけどね」
「いつの間に……。子供ってことは、その……相手の男性がいるんですよね?」
「もちろん? いくらアタシでも、処女受胎なんて無理だぞ」
 心底意外そうに訊かれて、初対面の時のことを反省した。
 いきなり唇を奪ったのはやり過ぎだったろうか。もしかすると、ずっと同性愛者だと思われていたのかもしれない。その気がまったくないわけではないが、あれは名家の箱入り娘をからかってやろうという、軽い悪戯のつもりだったのだが。
「えと、あの……」
 シェルシィは口ごもって、手の中のグラスをもてあそんでいる。いろいろと訊きたいことはあるのだろうが、プライバシーに関わることなので、質問を口にしてもいいのかどうか躊躇しているようだ。
 いつの間にか空になっていたグラスに、ソニアはおかわりを注いでやった。もっと酔っていてほしい。素面の相手に話すのは、やっぱり照れてしまう。朝になって目を覚ましたら、なにも覚えていないくらいに酔っていてほしい。
 ソニアは立ち上がると、シャツのボタンをひとつずつ外していった。ズボンを下ろし、シャツを脱ぎ捨て、そして、なんの躊躇いもなくブラジャーを外す。
「た、隊長、いきなりなにを……」
 アルコールのせいだけではなく真っ赤になった顔を、両手で覆い隠そうとするシェルシィ。その手が途中で止まった。驚愕を露わにして、目の前にさらけ出されたソニアの肢体に視線を向けている。
 驚くのは無理もないだろう。この姿を見せたことがあるのは、医者と看護婦、家族とサラーナ、そしてたった一人の男性だけだ。この基地では、隊員たちと入浴時間が重ならないようにしてきた。
 服の上からはかなりグラマーに見えるソニアだが、裸になると左の乳房がなかった。ブラジャーの中にはクッション状の詰め物がしてあり、胸の膨らみがあるべき部分には、ケロイド状に引きつった醜い傷痕が残されていた。それはまるで、肉を剔り取られた痕を、無理やり溶接してくっつけたようだった。右の太腿にも、同様の大きな傷痕がある。
「隊長……」
「昔、撃墜された時の傷だよ」
 自嘲めいた、引きつった笑みが口元に浮かぶ。この傷は、自分と、戦争というものの愚かさの証だ。
「旋回中に左上方から撃たれたんだ。ほとんどがエンジンに当たったけどな。逸れた一発が胸をかすめて、太腿を貫通したってわけだ。もう何センチかずれてたら、あるいは一二ミリじゃなくて二○ミリだったら、吹き飛ばされたのは胸じゃなくて心臓だったな」
「……」
 シェルシィは言葉を失っている。かなりショックを受けているようだ。確かに、年頃の女性の身体にあるには、あまりにも大きすぎる傷痕だった。
「報い……かな」
「え?」
「アタシも、やったんだ。お前と同じこと。生身の人間を撃ったことがある。それも、機体を捨ててパラシュートで脱出した相手を」
 小さく、息を呑む音が聞こえた。
 それはシェルシィがやったこと以上に、パイロットとしてやってはならない行為だった。白旗を掲げた相手を撃つのにも等しい。戦いは空の上だけ、愛機のコクピットに収まっている時だけ――それが、戦闘機パイロット同士の暗黙の了解なのだ。
「白百合飛行隊が事実上消滅した日だ。何倍もの敵に囲まれての激しい戦闘の中、炎に包まれて墜ちていく僚機が目に入った。アタシは頭に血が昇って、回りも見ずに相棒の仇に突っ込んだんだ。最初の斉射が命中して、敵パイロットは脱出した。だけど、それだけじゃ許せなかった。アタシの親友は死んだのに、それを殺した敵が生きているなんて……だから、撃った」
 今でもはっきりと覚えている。目を閉じれば、恐怖に凍りついた敵パイロットの顔が瞼の裏に浮かぶ。
「敵に包囲されている中で、我を忘れてそんなことやってたからな。仇を討った、と思った瞬間にコレさ」
 ソニアは左胸を指差して笑った。もう、笑うしかない心境だった。
「それでも高度が低かったおかげで、死にはしなかった。不時着時に骨を何本か折ったけど、運良く味方に回収されて病院送りってわけだ」
 ソニア本人は、撃たれた直後から病院のベッドで目覚めるまでの記憶はほとんどなかった。瀕死の重態だったのだ。命が助かっただけでも奇蹟だと、後から医者に言われた。
「で、いくらか回復してきた頃、隣の病室に入院していた男と親しくなったんだ」
 ソニアよりいくつか年上のその男性は、陸軍のお偉いさんの息子で、精鋭として名高い空挺部隊の中隊長だった。同じように、戦場で負傷して入院していた。
 他に同世代の患者がいなかったこともあって、暇を持て余した入院生活の間、よく話をした。
 当時は、さすがのソニアもひどく落ち込んでいた。
 白百合飛行隊の壊滅。尊敬していた隊長や、親友の戦死。親友の仇とはいえ、やってはならないことをした自責の念。そして、身体に残った大きな傷痕。
 一応は年頃の女性である。歩くこともままならない大きな傷は、さすがに堪えた。そんなソニアに彼は言ったのだ。「こんなかすり傷じゃ、君の魅力は少しも傷つかないよ」と。
 今にして思えば、歯の浮くような気障な台詞だ。しかし当時は今よりもうぶだったし、落ち込んでいた時に優しくされたことで、その男に心惹かれるようになっていった。
「笑っちゃうよな。医者や看護婦の目を盗んで、深夜の病院で男といちゃついてたんだぜ?」
「その人が……その、娘さんのお父さん?」
「ああ」
 ソニアはうなずいた。同時に、胸が締めつけられるように感じた。次に訊かれるであろうことは容易に想像できる。その答えを口にすることは、今でも少し辛かった。
「それで、あの……」
 シェルシィも、訊きにくそうにしている。薄々、予想がついているのかもしれない。先手を取って自分から言った。
「向こうの方が軽傷だったから、先に退院して前線に戻っていった。それからしばらくして、陸軍から一通の手紙が届いた。内容は……言うまでもないよな?」
 それは、空挺部隊の一隊が全滅したことを知らせる内容だった。輸送機が、アルキアの戦闘機に撃墜されたのだ。
 その後しばらく、毎日泣きながら浴びるように酒を飲んでいたソニアだったが、やがて自分の身体に起きた変化に気がついた。産婦人科の医師に事実を告げられた瞬間、少しも悩むことなく生むことを決めていた。
 空軍の設計局からの訪問者を迎えたのは、出産後まもなくのことだった。リカード・ブロックと名乗った男は、見たこともない斬新な新型機の設計図を手に、なんの前置きもなしに言った。『新型機を乗りこなせるテストパイロットを探している』と。
 最初は、引き受ける気はなかった。もう、戦争も空軍もうんざりだった。それでもソニアが今ここにいるのは、まだ、護るべきものがあるからだ。
『母親や子供、大切な家族の頭上に爆弾が投下されるのを、あなたは黙って見ているつもりですか?』
 リカードの言葉は簡潔だったが、的確に急所を突いていた。
『もう一度、飛びたくはありませんか? 大切なものを奪っていったこの空に、復讐したくはありませんか? 私は、あなたに新たな翼を持ってきました。それは紛れもなく世界最強の翼、大空の支配者です。あなたが操れば、の話ですけど』
 結局、ソニアは空に還ってきた。
 正直なところ、すべての迷いが吹っ切れたわけではない。リカードと出会ってから二年以上経った今でも、それは変わらない。
 それでも、大勢の仲間たちが空で命を落としていったのに、自分だけが地上でのうのうと生きていくことはできなかった。自分は、この空を飛ぶために生まれてきた。それに、戦いはまだ終わってはいないのだ。
「なあ。戦争すること、争うことは間違っている。平和こそが正しい……そう思うか?」
 自分でもまだ結論の出ていない疑問を、シェルシィにぶつけてみた。予想通りの答えが返ってくる。
「もちろんです」
「まあ、確かに。戦争がなけりゃ、軍人なんて仕事せずに給料もらえるようなもんだからな。アタシもその方がいいといえばいい」
 軽い口調で言うと、シェルシィは眉間に皺を寄せた。こんな話題で笑うソニアを、責めているような表情だった。
「でも……平和こそが正しいという、その大前提が間違っているとしたら?」
「え?」
「規模の大小を問わなければ、人間の社会は必ずどこかで争いが起こっている。個人の喧嘩をもっとも小規模な戦争と考えれば、なんの争いもない平和な時代なんてものは、有史以来一瞬たりとも存在したことはない。争いは、存在することが当たり前。なのに、それは間違っているのか?」
「でも、だって……」
「そもそも、動物ってのは争わなければならない生物なんだそうだ。何億年も昔、この星に最初に誕生した生命は、周囲の海水から有機物を取り込んで生命活動を維持していた。やがて、無機物から有機物を作り出す光合成の能力を持った植物が生まれた。しかし、その後誕生した動物は、他の生物を捕食する存在だ」
「で、でも、それと人間同士の戦争は……」
「同じことなんだよ」
 それは、ソニア自身の意見ではない。リカードからの受け売りだ。感情的に納得できない部分は多々あるが、しかし理屈としては間違っていない。
「人間同士が争うのは、それぞれの欲望がぶつかり合うからだ。それは動物として、生命としての本能なんだよ。生きようとすること、子孫を残そうとすることは、すべての生命に備わった本能で、それが争いのきっかけになる。よりよい餌や住処を得るため、より多くの子孫を残すため、そのためには競争相手と争わなければならない。人間の欲望だって、突き詰めればすべてそこに行き着くんだ」
 容姿や能力に優れた配偶者や、より多くの金銭を求めることも、それが人間社会において生存と繁栄に有利になるからだ。
 国家が領土を拡げようとするのも、野生動物の縄張り争いを大規模にしたものに過ぎない。より豊かな、より広い縄張りを持つことは、やはり生存競争で有利に働く。
 争いは、肉食動物だけに限ったことではない。普段はおとなしい草食動物だって、繁殖期には配偶者を巡って激しい争いを繰り広げる。それも、自分の子孫を残す上で有利になるからだ。
 動物とは、他の生物と争う存在だ。
 いや、植物でさえ争いと無関係ではない。昆虫を狩る食虫植物がある。根から分泌する化学物質で、他の植物を枯らす植物もある。
 それが、進化という長い歴史の結果だった。相手にうち勝つにしろ、うまく逃げ延びるにしろ、戦いを生き残ったものだけが次の時代にも存在を許される。
「口先だけで平和を唱えるのは、そうした生物の本質を見過ごしていると思わないか?」
 確かに、家族や親しい友人が死ぬのは辛い。しかしどんな生物であれ、いつかは必ず死ぬのだ。自然界においては、一年で枯れる植物を除けば、寿命をまっとうする個体の方が少数派だろう。
「アタシは別に、戦争を礼賛する気はないし、戦争せずに済むなら越したことはないとは思う。でも、現実に今は戦争中なんだ。シェルが空軍を辞めても、戦争は続く」
 さすがに酔いが回ってきたのだろうか。ソニアはいつになく饒舌になっていた。
「だけど、戦争で民間人が犠牲になるのは間違っているとは思う。そうだろ? そのための軍じゃないのか? 軍人ってのは、民間人に代わって、国を代表して戦うために給料をもらっているんじゃないのか?
 戦争も、スポーツの世界選手権みたいにすりゃいいんだよな。民間人の被害が出ない場所に各国の代表を集めて、決められたルールで戦わせて、その勝敗で戦争の決着をつけるんだ」
 未来の戦争は、徐々にではあってもそうした形になっていくだろうとリカードは語っていた。確かにそうかもしれない。中世に比べれば、現代の戦争は捕虜や民間人の扱いについて、国際法でいろいろと制限されている。必ずしも守られているとは限らないが、それでも一種のルールといえる。
「戦うことが生物の本質で、根本的になくすのが現実的ではないのなら、せめて理不尽な犠牲はなくなって欲しいよな……、と」
 気がつくと、シェルシィはベッドに横になって目を閉じていた。空になったグラスが転がっている。長話をしすぎただろうか。素面でいられると気恥ずかしいからと、速いペースで飲ませすぎたかもしれない。
 ソニアもグラスを置くと、シェルシィの身体に毛布を掛けてやった。そして、肩の上にそっと手を置く。
「最終的に決めるのは、シェル、お前自身だ。だけど、結論を急ぐ必要はない。ゆっくりと考えろ。自分で納得のできる答えが出るまで。……でも」
 普段なら、絶対にこんな台詞は吐かないだろう。酔っているから、相手が眠っているから、今だけは本音を言うことができた。
「飛行隊長としてじゃなく、アタシ個人のわがままとして言わせてもらえば、辞めてほしくないな。お前と一緒に飛ぶのは楽しいよ」
「あたしも……隊長と一緒に飛ぶのは好きですよぉ……」
 眠っていると思い込んでいたから、シェルシィの唇が小さく動いた時にはひどく驚いた。自分でも恥ずかしいような台詞を聞かれていたなんて。
 しかしよくよく見れば、意識があるわけではないらしい。半分寝ぼけた状態なのだろう。朝になって目を覚ました時には憶えていまい。
「でも……せめて実戦の時くらいはお酒飲まずに飛んでくれたら……もっと安心できるん……」
「それは仕方ないさ」
 シェルシィの頭に手を乗せる。柔らかな髪を乱暴に撫でてくしゃくしゃにする。
「アタシも……さ、素面で人を殺せるほどには強くないんだ」



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