第一夜


(どうして、こんなことになっちゃったかなぁ…?)
 西陽が射し込むキッチンで、さおりは声に出さずにつぶやいた。
 ここでさおりが問題にしているのは、今朝の羽根のことではない。
 背後を振り返ると、居間のテレビの前で、ゲームに興じている男の子の姿が見える。
 神山 徹(とおる)。
 さおりのクラスメイトだ。
 親が留守でひとりきりの家に彼氏を呼ぶなど、十四歳の女の子としてはあまりほめられたことではないだろうが、しかし、徹は別にさおりの恋人でもなんでもない。
 クラスメイト――特に仲がいいというわけでもない、ただのクラスメイトだ。
 なのにどうしてこの家にいて、さおりがふたり分の夕食の支度をしているのか。
 それは、こんな理由からだった。


 自分の背中に羽根が生えていることのショックで気を失い、意識を取り戻したときにはもう夕方近かった。
 そのときはもう、背中に羽根はなかった。
 しかし、
 絨毯の上に散らばった数枚の羽毛が、あのことが夢ではないと証明していた。
「これって…いったい…」
 呆けたようにつぶやき、頭を押さえながら立ち上がったとき、ぐぅ、とおなかが鳴った。
 自分のおなかを見おろす。
 考えてみれば、今日はまだなにも食べていない。
 いくらずっと寝て…いや、失神していたとはいえ、おなかが空くのも仕方がない。
「こんな時でもおなかが空くなんて、あたしって意外と神経ふといのね…」
 鏡の前でパジャマを脱ぎ、背中になんの痕跡も残っていないことを確認する。
「これなら、問題ないかな」
 そうして、夕食の材料を買いに近所のスーパーへ出かけたところで、偶然に徹と出会ったのだ。
 特に親しいというわけでもないが、顔を会わせれば挨拶くらいはする。
「月城(つきたち)、なにしてんの?」
「夕飯の買い物」
 そんな、ありきたりの会話までは問題なかった。
「もしかして、月城が自分で作んの?」
 という徹の言葉から、雲行きがあやしくなってきた。
 うなずいたさおりに向かって言った、
「へぇ、月城って料理できるんだ」
 という台詞にカチンとくる。
「あたし、こう見えても料理は得意なんだからね!」
 口をとがらせて言い返す。
 しかし、「こう見えても」と自分で言ってしまうあたりが悲しい。
 本人あまり自覚はないのだが、さおりの外見は、どことなく不器用そうな印象を与えるらしい。
 いまだって、徹はさおりの言葉をまるで信じていない様子だ。
 だから、ついムキになって言ってしまった。
「なによ、ウソだと思うなら自分の目で確かめればいいっしょ! 目の前で作ってあげるから、ウチに来なさいよ!」
 かくして、さおりはふたり分の夕食を作ることになったのである。
 けっして鈍くも不器用でもないさおりだったが、少々おっちょこちょいであることは自分でも否定できなかった。
(う〜ん、やっぱりマズイかなぁ)
 スパゲティを湯の中に入れながら、さおりは考える。
 ついついあんなことを言ってしまったが、考えてみると今夜は家にひとりきりなのだ。
 親のいない、女の子ひとりの家に、彼氏でもない男の子を上げるなんて…。
(いや、彼氏ならいいってワケでもないんだけど)
 ちなみに、彼氏いない歴十四年のさおりである。
(自意識過剰…考えすぎよね。神山だって、ぜんぜん気にしてないみたいだし)
 もう一度、居間を振り返る。
 ゲームに夢中になっている徹の姿は、どう見ても女の子の家に上がって緊張しているようには見えなかった。


「へぇ…」
 食卓についた徹が、驚きと感心の入り混じった声を上げる。
「思っていたより、ずっとウマイじゃん」
 結果からいうと、さおりの料理は好評だった。
 ちなみに今夜のメニューは、ベーコンとマッシュルームのスパゲティ、鶏肉と野菜のスープ、そしてポテトサラダ。
 デザートにはコーヒーゼリーを用意した。
 料理には自信があったが、念のため失敗の少ないメニューを選ぶあたり、意外と用心深い性格である。
 徹は、そんなさおりのしたたかさには気付かずに、旨い旨いと料理を平らげる。
 おかわりまで要求する徹の姿を見て、さおりはなんだか嬉しくなった。
 自分の作った料理を、美味しいと食べてくれる人がいる。
 そんな、考えようによっては当たり前のことが、さおりにとっては新鮮な経験だった。
 さおりが夕食を作ること自体は珍しいことではないが、そうしなければならないということは、つまり母親の仕事が忙しいということである。
 とても、今日のようにゆっくりと味わって食事をする雰囲気ではない。
 子供の頃からそれが当たり前だったので、別段気にもしていなかった。
 父親のいない家庭を不幸だと感じたこともない。
 だけど――
 今夜は、なんだかとても幸せな気分だった。
 食事が済むと、徹が食器を洗ってくれた。
 そんなことしなくてもいいと言ったのだが、「家の手伝いで慣れてるから」と、なかば強引にさおりの仕事を奪う。
 一見がさつそうに見える徹がそんなことをするとは、少し意外だった。
 徹の厚意に甘えて、その間居間でくつろいでいたさおりは、声を出さずに笑う。
 今日はひとりきりで羽がのばせると思ったけど、こうして、誰かが一緒にいてくれるのもいいかもしれない、と。
「さ〜終わった。セガラリー2≠フ対戦やろ〜ぜ?」
 洗い物を片付けて居間に戻った徹は、すぐさまゲーム機のスイッチを入れた。
 さおりはくすっと笑うと、床に置いてあったコントローラーを拾い上げ、ひとつを徹に渡す。
 さおりも人のことは言えないが、徹はかなりのゲーム好きらしい。
「言っとくけど、あたしゲームも上手いよ?」
「そんな台詞は、俺様の腕を見てから言うんだな」
 ふたりはすぐにゲームに熱中する。
 セガラリー2に始まって、バーチャファイター3、ぷよぷよ、そしてオラトリオ・タングラムとふたりの戦いは続く。
 勝率は六対四の割合でさおりが上だった。
 よほど自分の腕に自信があったのだろう、徹のあ然とした顔に、さおりはくすくすと笑う。
「あ、やべ。もうこんな時間か」
 そろそろゲームにも疲れてきた頃、徹が壁に掛けた時計を見上げた。
 既に、午後九時を回っている。
 健全な中学生が、女の子の家にいるにしては遅すぎる時刻だと思ったのかもしれない。
 あわてて立ち上がった。
「俺、そろそろ帰るわ」
「あ…うん」
 さおりも立ち上がって、玄関まで送っていく。
 楽しい時間が過ぎるのは、どうしてこんなに早いんだろう、と思いながら。
「ところで…」
 靴を履きながら、徹がふと気付いたように言う。
「月城の家って、なにか鳥を飼ってる?」
「え、ううん。どうして?」
 さおりが首を左右に振ると、徹は床を指差した。
(…!)
 一瞬、さおりは声を上げそうになる。
 徹の指の先には、一枚の羽毛が落ちていた。
 純白の羽根…。
 それがなんであるかは、一目瞭然だった。
 徹と遊んでる間に、すっかり忘れていたこと。
「あ、あ、え〜と…そう、お布団。羽毛布団がちょっとほころびてて、さ…」
 あわててその羽根を拾い上げ、冷や汗を隠しながら言い繕う。
 徹は別に気にしたふうでもなく、「それじゃ」と玄関を出ていった。
 扉が閉まると同時に、さおりはふぅっと大きく息を吐く。
 と同時に、
「あ、そうそう」
 閉まったばかりの扉が開いた。
 不意をつかれて、さおりは飛び上がらんばかりに驚く。
「な、な、なに?」
 声が裏返っている。
「メシ、うまかったよ。ごちそうさん」
 それだけ言うと、徹は扉を閉める。
 あとには、汗びっしょりで赤い顔をしたさおりが残された。



「あ〜、びっくりした。バレるかと思っちゃった」
 翼のことは、絶対に知られるわけにはいかない。
 たとえ母親にだって、相談できるようなことではない。
 自分の部屋に戻ったさおりは、鏡の前に立った。
 いつも通りの、見慣れた自分の姿が映っている。
 しかし、
 目を閉じて、背中に意識を集中する。
 今朝の、あの姿を思い浮かべる。
 すると…
 目を開けると、純白の翼を生やしたさおりがそこにいた。
(やっぱり、夢じゃなかった…)
 衣服の存在を無視したように現れる羽根が不思議だったので、振り返って背中を鏡に映してみる。
 それは間違いなくさおりの背中から生えているのだが、注意深く観察すると、翼の根本の一〜二センチくらいがすぅっと半透明に透けていて、服を素通りしているのがわかった。
 どうやらこの翼、さおりの背中と物理的につながっているわけではないらしい。
「不思議…。まるで魔法みたい」
 自分の意志で動かすことだってできるというのに。
 もっとも、部屋の中ではこの大きな翼をいっぱいに広げることもできない。
「もしかして、これ…飛べるのかな?」
 ふと、思いついた。
 でなければ、いったいなんのための羽根だというのか。
(消えて…)
 強く念じると、翼はまるで背中に吸い込まれるように消えていく。
 どうやら、さおりの思い通りに操ることが可能らしい。
 だとしたら、本当に飛べるのかもしれない。
 試してみても、損はない。
「…よし!」
 うなずいて、さおりは家を出た。


 さおりが住む奏珠別の街は、札幌の郊外にある比較的新しい住宅地である。
 山あいに拓かれた街のため、いまでも周囲は自然そのままの山々に囲まれていた。
 街外れにある奏珠別公園まで、さおりの家から歩いて十分くらいである。
 そこはハイキングコースや登山道の入口にもなっていて、少し登ると、街を見おろすことのできる小さな展望台があった。
 昼間はそれなりに訪れる人のいるこの場所も、夜にわざわざやってくる人はいない。
 だから、好都合だった。
 明るい月が出ていたので、夜道を歩くのに不自由はない。
 真円にはちょっと足りない月。
 多分、明日が満月だろう。
 さおりはひとりで、奏珠別公園の展望台へとやってきた。
 他に人はいない。
 無人のブランコや滑り台が、少し不気味だった。
 公園の柵に寄りかかって、さおりは街を見おろす。
 たまに散歩にくることもある場所だが、もちろんこんな時刻に訪れるのは初めてだ。
 思っていたよりも、街の夜景はきれいだった。
 背後に広がる深い森からは、梟かなにかの鳴き声と、たまに、キタキツネの叫び声が聞こえる。
 さおりはもう一度、用心深く周囲を見回した。
 誰もいない。
 間違いない。
 そのことを確認して、
 深く息を吸い込むと、目を閉じて両腕を広げた。
 バサッ
 軽い音を立てて、翼が現れる。
 純白の翼は月の光を反射して、まるで真珠のような光沢がある。
「きれい…」
 思わず、自分の羽根に見とれてしまう。
 初めて、いっぱいに翼を広げた。
 思っていたよりもずっと大きい。
 片側だけで五メートル以上の長さがある。
 これだけ大きなものなのに、重さはまったく感じなかった。
 それどころか、
 こうして翼を広げていると、なんだか身体が軽くなったように感じる。
(翔べる…)
 さおりは確信した。
 空で輝く月を見上げて。
 トン、と地面を蹴る。
 ふわり…
 まさに軽い羽毛のように、さおりの身体は宙に浮かんだ。
 恐る恐る、ゆっくりと羽ばたくと、すぅっと空に昇っていく。
(翔んでる…ホントに翔んでるよ、あたし…)
 墜ちる不安は感じなかった。
 羽ばたきの力で浮いているのではなく、この羽根を広げていると、まるで体重がなくなったかのように感じるのだ。
 十メートルくらい昇ったところで、水平飛行に移る。
 最初は、本当にゆっくりと。
 人が歩くくらいの速度で。
 そうして、旋回や上昇、下降を試してみる。
 思い通りに飛べることがわかって、徐々にスピードを上げていく。
 駆け足程度から、全力疾走並みに。
 慣れてくると、自転車を力一杯こぐよりもずっと早く飛べるとわかった。
 耳元で、風がヒュウヒュウと鳴る。
 とても、気持ちよかった。
 うんと高度を上げて、街の上空に出る。
 家の灯りや、道路の街灯。
 月が明るくてあまり星が見えない分、まるで足下に星空があるようだった。
「すごい…すごい…」
 空を飛ぶ――その初めての体験に、さおりは夢中になっていた。
 重力を無視して、自由に空を翔る。
 楽しくて仕方がない。
 飛びながら、さおりはくすくすと笑っていた。
 気持ちいい。
 月の光を全身に浴びながらの空中散歩。
 なんて、幻想的な光景だろう。
 さおりは夢中になって、月が西の空に傾くまで飛び続けた。
 明け方近くなってさすがに少し疲れてきて、それでようやく地面に降りる。
(…でも、この羽根っていったいなに? あたしって何者?)
 そんな疑問が浮かんだのは、家に帰ってからのことだった。



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