第二夜


 ピンポーン
「……」
 ピンポーン
「……ん…」
 ピンポーン
「ん〜、誰よ…こんな朝早くに…」
 玄関のチャイムの音で起こされたさおりは、不機嫌そうな声でつぶやいた。
 目をこすって枕元の時計を見る。
「…朝早く…じゃ、ないか…」
 もう、とっくに正午を過ぎていた。
 ベッドに入ったのが明け方近くだから仕方がない。
 さおりはベッドから降りると、壁に掛かっているインターホンの受話器を取った。
「ふぁい、どなた?」
 まだ半分眠っている声だったが、次の瞬間にはたちまち目が覚める。
『あ、俺。神山だけど…』
 インターホンからそんな声が聞こえてきたからだ。
「えっ? あ、あの、ちょっと待って!」
 受話器を置いたさおりは、大あわてでパジャマを着替える。
(え? え? どうして、神山が?)
 申し訳程度に顔を洗い、急いで玄関へ向かった。
 一度大きく深呼吸をして、心を落ち着けてから扉を開ける。
「なんだ、こんな時間まで寝てたのか」
 玄関の外では、徹が馬鹿にしたように笑っている。
「…どうしたの?」
 まだ状況が把握できていないさおりは、いきなり、紙の箱を手渡されて戸惑った。
 近所にある喫茶店の名前が入った箱。
「昨日の晩メシのお礼。みそさざいの手作りチョコレートケーキ」
「え、あ、ありがと」
 戸惑いを隠せずに手の中のケーキの箱を見ているさおりに向かって、徹は一枚のCD―ROMを突きつけた。
「で、こっちが本題。昨日のリターンマッチにきたぞ。今度は鉄拳3≠ナ勝負だ!」



 結論からいえば、やっぱりゲームはさおりの方が上手かった。
 夕方近くまで対戦を繰り返して、ようやく徹は敗北を認める。
「くっそ〜、勝てん!」
 コントローラーを放り出し、さおりが入れたコーヒーを手に取る。
 さおりは笑いながら、徹が持ってきたケーキを頬ばった。
「美味し。あたし、ここのケーキ大好き」
「そぉ? それはよかった」
 女の子の家に来るときの手みやげなんて、なにがいいかわかんないから…と徹は言った。
「そういえば…」
 コーヒーカップを口に運びながら、やや遠慮がちに訊いてくる。
「昨日から気になってたんだけど、月城の家って、家族は?」
 一日だけなら気にならなくても、二日続けてさおり一人きりとなれば、徹が不思議に思うのも当然だろう。
「ママは取材旅行だって。月に一度くらい出かけるの。まあ、半分遊びなんだけどね」
「取材?」
 さおりの方を見て聞き返した徹は、その背後にある本棚に気がついた。
 見覚えのある文庫本が、何冊も並んでいる。
 背表紙に書かれた著者名は…
「月城…?」
 徹も持っている本だった。
「月城のお母さんて、ひょっとして、小説家の月城みさと?」
 さおりがうなずく。
「え〜、マジ? マジ? 今度、サインもらってくれよ!」
「え、まさか…」
 少し驚いたような表情を見せるさおり。
「神山って、ママの小説のファン?」
 うんうんと、徹が大きく首を振る。
「男のくせに、こんなの読むの?」
 意外だった。
 月城みさとが書いているのはいわゆる少女小説、ジュニア向けのファンタジーが中心だ。
 男性読者が皆無とまではいわないが、読者の大半が女の子なのは間違いない。
「いい本は、性別に関係なくいいんだよ!」
 徹はむきになって反論する。
 やっぱり意外だった。
 どちらかといえば、あまり読書などするタイプには見えない。
 さおりの持っていた徹のイメージでは、ゲームをしているか、あるいは外でスポーツをしているのが似合っていた。
 さおりはもちろん母親の本はすべて読んでいるから、なおさら、月城みさとの小説と徹の間にはギャップを感じる。
「変なシュミ」
「いいじゃんか、別に」
 少し照れたように言い返してくる。
「ま、いいけどね…」
「そうか…月城みさとがこんな近所に住んでいたなんて知らなかったな〜。どうしてもっと早くに気付かなかったんだろう」
 月城なんてそう多い姓ではないし、月城みさとが札幌在住であることも知っていたのに。
 それが、クラスメイトの月城さおりと結びつくとは考えもしなかったのだ。
「お母さんが月城みさと…。で、お父さんは?」
「いない」
「え?」
「パパはいないの。あたしが生まれる前に離婚したらしいし、会ったこともない」
 内容の深刻さの割には、さおりはあっさりと答えた。
 しかし徹は、深く考えずに口にした質問が引き出した答えに思わずたじろぐ。
 もしかしたら、すごく悪いことを訊いてしまったのかもしれない、と。
 男くささがまるで感じられない家だということは、少し考えてみればわかることだったのに。
「あ…ゴメン」
「気にしなくていいよ、別に」
 実際、さおりはなにも気にしていない様子だった。
 ものごころついてからの離婚と違い、さおりは生まれてからずっと父親のいない環境で育ってきた。
 それが当たり前のことであり、父親というものの記憶がないから、自分の家庭環境について特に感傷的になったこともない。
 しかし徹はなんとなく居心地が悪くなったのか、わざとらしく時計を見ながら立ち上がった。
「あ、もう晩メシの時間だ。俺、帰らないと」
「あ…うん」
 なにか言いかけたさおりだったが、途中で口をつぐんで、徹を玄関まで送っていく。
 本当は、「晩ごはん食べていったら?」と言いたかったのだ。
 でも、言えなかった。
 なんだか恥ずかしかった。
「それじゃ、また」
 そういって出ていく徹を、少し残念そうに見送っていた。


 六月の北海道は、夜の訪れが遅い。
 夕食が済むと、暗くなるのを待って、さおりは昨夜と同じ奏珠別公園の展望台へ向かった。
 また、飛んでみるつもりだった。
 昨夜の空中散歩は、とても楽しかったから。
 今日もいい天気で、東の山の上に大きな月が昇っていた。
 今夜は、満月。
 公園内に他に誰もいないことを確認して、翼を広げる。
 昨日さんざん飛び回って、翼の扱いにも慣れた。
 最初の頃に比べると、ずいぶん思い通りに羽根を操ることができる。
 さおりは地面を蹴った。
 身体が宙に浮く。
 空を飛ぶことは、気持ちよかった。
 ゲームなんかより、何倍も楽しい。
 まるで、この夜空全部を独り占めしているようなものだ。
 たんぽぽの綿毛よりも軽やかに、そよ風の中を漂う。
 小一時間ほど夜空の散歩を楽しんで、小休止のために地面に降りた。
 念のため羽根をしまって、ベンチに腰掛ける。
 と突然、背後から声をかけられた。
「月城…? こんなとこでなにやってんの?」
 びくぅっ!
 一瞬身体が硬直し、それから弾かれたように振り返る。
 徹だった。
 大きなアイヌ犬をつれた徹がそこにいた。
「か、か、神山?」
 心臓がばくばくいっている。
 裏返りそうになる声を必死に抑えた。
「なにやってんの? こんな時間に、こんなトコで?」
「な、な、なにって、その…」
 なにか言い訳はないか、と周囲を見回し、最後にちらりと空を見た。
 大きな月が目に入った。
「あ、あ、あの、散歩よ。ほ、ほら、月がきれいだから…」
 どもりながらそう答えると、徹はぷっと吹き出す。
「月城って、意外とロマンチストなんだ」
「い、意外とはよけいよ! これでも、ファンタジー作家・月城みさとの娘よ?」
「はは、そうか」
 徹は軽く笑うとさおりに背を向けて、公園の中を走り回っている飼い犬の姿を追う。
 他に人がいないから、引き綱を外していたらしい。
(あ〜、びっくりした。心臓に悪いわ〜)
 さおりは安堵のため息をつく。
 緊張がとけると同時に、急に、鼻と背中がむずむずとした。
「…っくしゅん!」
 バサッ!
 くしゃみと同時に、羽根が飛び出す。
(え? わ〜、ダメッ! 戻って、早く!)
 さおりはあわてて羽根をしまう。
 間一髪のところで、徹が振り向くのに間に合った。
「いま、なにかバサッて音が…」
「き、き、きのせいよ、気のせい」
 無理に笑ってごまかす。
「月城、くしゃみなんかして…寒いんじゃないの?」
 六月とはいえ、北海道の夜はかなり涼しい。
「え、あ、そ…そうかもね。薄着だし…。じゃ、あたしそろそろ帰る…」
 なんとかごまかして、この場を立ち去ろうとした。
 しかし、徹に背を向けて歩き出そうとした瞬間、
(あ…ダメ! お願い…おさまって…)
 願いは通じなかった。
 口を押さえたり、鼻をつまんだりする余裕もなく、
「は…っくしゅん!」
 ぶぁさっ!
 二度目のくしゃみと同時に、また、羽根が広がった。
「え?」
 徹が不思議そうな声を上げる。
 さおりの動きが止まった。
(…見つかった! どうしよう、見られちゃった!)
 両手で顔を覆う。
 身体ががたがたと震えて、羽根をしまうことすらできなかった。
 大きな翼はいっぱいに広げられたまま、月明かりに白く浮かび上がる。
(…どうしよう、…どうしよう)
 頭がパニックになって、なにも考えられなかった。
(見られちゃった、見られちゃった)
 背中に羽根を生やした姿を。
 ふつう、羽根を生やした人間なんていない。
 それを見た徹がどんな反応をするか、容易に想像できた。
(どうしよう…どうしよう…どうすればいいの…)
 徹はなにも言わない。
 沈黙が、かえって怖かった。
 この沈黙が破られるときが。
 さおりは背を向けているので、徹がどんな顔をしているのか見ることができなかった。
 振り返ることもできなかった。
 徹の顔を、見るのが怖い。
 脚ががくがくと震え、膝に力が入らなくなって、さおりはその場にぺたんと座り込んだ。
 顔を覆った手はそのままに。
 血の気の失せた、真っ青な顔をしていることは自分でもわかった。
 背後から、足音が近づいてくる。
 一歩、二歩、三歩。
 さおりのすぐ後ろで止まる。
(どうしよう…やだ…どうしよう…)
 涙があふれそうだった。
 びくっ!
 翼になにかが触れて、さおりの身体が小さく痙攣する。
 一瞬遅れて、それが徹の手だと気付いた。
「す…」
 いっそう、震えが大きくなる。
 …と、
「すっげ〜! かっこいい!」
「…え?」
 パニックに陥っていたさおりは、一瞬、徹がなにを言っているのかわからなかった。
 それくらい、予想外の台詞だった。
「すげ〜! な、これ、ホンモノ? だよな? うわ〜、すげ〜なぁ…」
「…え?」
 なんだか、予想していたのとずいぶん違う反応…みたいな〜?
 妙にはしゃいだ徹の声が、まるで幻聴かと思われた。
「なぁ、なぁ、これ、ホンモノの羽根? これってホントに飛べんの?」
 好奇心に目を輝かせた徹が、さおりの前に移動してくる。
 それでも、さおりにはまだよくわかっていなかった。
(ふつう、こ〜ゆ〜状況って…)
 もっとこう、気味悪がったり、あたしのこと化け物扱いしたりしないかなぁ?
 徹の反応は、このどちらにも当てはまらない。
「な、な、飛べるんだろ、これ?」
「とべる…けど…」
「飛んで見せてくれよ!」
 顔全体、身体全体で期待を表して徹が言う。
 さおりはなんだかよくわからないまま、のろのろと立ち上がった。
 恐る恐る徹の顔を見て、それから、翼をいっぱいに広げた。
 月の光を反射して、羽毛がきらきらと輝く。
 ふわり…
 さおりの身体が宙に浮いた。
 ゆっくりと一回羽ばたいて、地面から二メートルくらいのところで止まる。
「うわ〜、すげ〜、ホントに浮いてるよ。なあ、こう、公園の周りをぐるっと一周してみてよ!」
 さおりはその言葉に従った。
 翼をはためかせ、展望台の周囲を一周して徹の前に着地する。
「すげぇ、すげ〜や!」
 徹は目を輝かせ、さおりの羽根と、空を交互に見る。
(なんて、無邪気な…)
 徹の反応に半ば呆れながらも、なんだか救われた思いのさおりだった。
 この羽根を見て、他になにか言うことないの?
 そう聞きたい気もしたけれど、しかし、羽根について聞かれたところで、さおりにもなにも答えられない。
 だから、少しほっとした。
「…あのさ…頼みがあるんだけど…」
 はしゃいでいた徹が、急に、言いにくそうな口調になる。
「なに?」
「その…え〜と、俺をかかえて飛べないかな? 空を飛ぶって、どんな感じなのかなぁって」
 やや照れたように、徹は言う。
「神山を? あたしが?」
「あ、やっぱりダメ? そうだな、重いもんな…」
 ちょっとがっかりしたような徹を見ながら、さおりは考える。
「きっと…飛べると思う。あれって、翼の揚力だけで飛んでいるわけじゃないみたいだから…」
 言いながら、徹の背後に回る。
「ん〜と、こう、かな?」
 背中側から徹の胴に腕を回し、腹の前でしっかりと指を組んだ。
「いくよ?」
「あ、ああ」
 翼が広がると、徹は身体が軽くなったように感じた。
 ふわふわと、
 海の中にでもいるような。
(ああ、なるほど…)
 それで、納得する。
 さおりの言った「翼の揚力だけで飛んでいるわけではない」とはこういうことか、と。
 翼がほんの少し動いただけで、ふたりの足は地面から離れた。
 風の中を漂うように。
 最初はゆっくりと、そして少しずつ速く昇っていく。
「うわぁ…」
 徹は歓声を上げた。
 気付いたときには、もう、地面から三十メートルほどの高さにいた。
 学校の屋上よりもずっと高い。
 しかし、不思議と恐怖感はなかった。
 身体がとても軽くなったようで、さおりに持ち上げられているというよりも、一緒に飛んでいるように思える。
 ゆっくりと高度を上げながら、さおりは公園の周囲を、円を描くように飛翔する。
 その円がだんだんと広がって、ついには奏珠別の街の上空に出る。
「すごい…や」
 徹は、なんとかそれだけを口に出した。
 驚きと感動で、他に言葉が思い浮かばなかった。
 風が、静かに頬をなでている。
 足下に、街の灯りが広がっている。
 空には、月と星。
 山の頂よりも高く昇っていたので、ここには、空を覆い隠すものはなにもない。
 建物も、樹も、山も。
 完璧な空が広がっていた。
「すごい…」
 もう一度つぶやく。
 さおりは、徐々に速度を上げていた。
 そうして、いきなりの急旋回や急降下、宙返りで徹を驚かす。
 徹の背後で、くすくすと笑う声がした。
「楽しい?」
「うん、すっごく!」
 答えながら、首を回して背後のさおりを見る。
 さおりの顔は、驚くほど近くにあった。
 それで気がつく。
 いままで、空を飛ぶという初めての体験に夢中になって、まったく意識していなかったことを。
 彼はいま、さおりに抱きかかえられている。
 女の子と密着しているのだ。
 どくん!
 急に、鼓動が速くなった。
 耳元に、さおりの息がかかる。
 そして、背中に感じる体温と、この柔らかな二つの感触は…。
(月城って、見た目よりも…。意外と、着やせする方?)
 そう思うと、顔がか〜っと熱くなる。
 女の子が、こんなに柔らかなものとは知らなかった。
 そして、こんなにいい匂いがするなんて。
 さおりの髪から漂うほのかなトリートメントの香りは、どんな香水よりも強く徹の鼻をくすぐる。
 背中を向けているため、さおりに顔を見られることがないのは幸いだった。
 さおりは、気づいていない。
 飛ぶことに夢中になっているようだ。
 しかし徹は、もう空からの眺めを楽しむどころではなかった。
 思春期の少年の全神経は、その背中に集中していた。
 同い年の女の子の柔らかな感触は、空を飛ぶことよりも刺激的だった。



 どのくらい飛んでいたのだろう。
 徹のぼうっとした頭には、時間の感覚はなかった。
 ふたりが出会ったときにはまだ東の空にあった丸い月は、もう天頂まで昇っている。
 ふと我に返ると、公園のベンチに座っていた。
 隣にさおりが座っている。
 ややうつむき加減に、自分の足先あたりの地面を見ている。
 その背に、もう翼の姿はない。
 さおりの横顔を、ぼんやりと見ていた。
 綺麗だ…と、そう思った。
 ずっと、こうしてさおりを見ていたい、と。
 不意に、さおりがこちらを向く。
 反射的に、徹は視線をそらした。
 足下で寝ている、彼の飼い犬を見る。
「遅くなっちゃったね。帰ろうか」
 静かな声でさおりは言って、立ち上がる。
 明るい十五夜の月がつくり出すさおりの影が、徹にかかった。
「え…あ、うん。そうだね…」
 徹はあわてて、ベンチの足に結んだ犬の鎖をほどく。
「あ…、月城!」
 あわてているので、なかなか鎖がほどけない。
 公園の出口に向かって歩き出していたさおりの背中に向かって言う。
 立ち止まったさおりが振り返った。
「家まで送ってくよ。もう遅いし」
「…うん」
 戸惑いがちに、それでもほんの少し嬉しそうな笑みを浮かべたように見えたのは、徹の気のせいだろうか。
 ふたりと一匹は、並んで歩き出した。
 公園の展望台からの下り路。
 公園からさおりの家までの、住宅街の中の路。
 ふたりは、ほとんど口をきかなかった。
 気まずい沈黙ではない。
 言葉を交わす必要を感じなかった。
 歩きながら、徹は横目でちらりとさおりを見る。
 視線に気付いたさおりが徹を見て、小さく微笑んだ。
 ふたりとも、それで十分だった。



「送ってくれてありがとう。おやすみなさい」
 家に入ろうとしたさおりは、そのときはじめて気付いた。
 徹と、手をつないで歩いていたことに。
 一瞬目があったふたりは、あわてて手を離す。
 ふたりとも、意識していなかった。
 いつの間にか、ごく自然にそうしていた。
 赤い顔をしたふたりは、気まずそうに視線をそらす。
「あ…ありがとう。おやすみ」
 真っ赤な顔で、うつむいたまま言って、さおりは玄関に向かう。
「あ、あのさ!」
 その背中に向かって、徹が声をかけた。
 一呼吸ぶんの間をおいてから、さおりは振り返る。
「…なに?」
「あの…さ、あ、明日…また遊びに来ても…いい、かなぁ?」
 照れながら、人差し指で頬をポリポリと掻く。
 ほんの一瞬、驚きと喜びが微妙にブレンドされた表情を見せたさおりは、すぐに微笑んでうなずいた。
「…うん、待ってる」
 徹の顔がほころんだ。



(手…つないじゃった…)
 自室に戻ったさおりは、ベッドの上にぽんと身体を投げ出すと、傍らにあった大きなクッションを抱きしめた。
 そのクッションに、顔を埋める。
 誰もいないのに、真っ赤な顔を隠そうとするかのように。
「神山と、手…つないじゃった」
 名前の部分にほんの少し力を込めてつぶやく。
 いつまでも、動機がおさまらない。
 小学生の頃ならともかく。
 異性を意識するようになってから、男の子と手をつないで道を歩いたことなんてない。
 いや、手をつなぐどころか。
「やだ…どうしよう…」
 手をつなぐどころか、徹との空中遊泳の間、ずっと彼のことを抱きしめていたのだ。
 気付いたのは、飛んでいる最中だった。
 徹は空を飛ぶという初めての体験に夢中になっていたし、急に降りるというのもなんだか不自然で、仕方なくそのまま何事もないふりをしていた。
 だけど、恥ずかしくて。
 徹の顔もまともに見れなくて。
 もしかしたら、胸が当たっていたかもしれない。
 そう思うと、顔から火が出るほど恥ずかしい。
(だ、大丈夫よね。あたし、それほど胸が大きい方じゃないし…。だけど…)
「どうしよう…明日、どんな顔をして会えばいいの…?」
 恥ずかしくて、徹と顔を合わせられない。
(…でも)
 でも…会いたい。
 心のどこかで、そう思っている。
 どうしてだろう。
(あたし、ひょっとして…)
 ひょっとして…。
「神山のこと…好き…?」
 声に出してみると、その確かな想いが胸を貫いた。
(そんな…まさか…)
 まだ、よくわからない。
 いままで、特に親しかったわけでもない。
 単なるクラスメイトのひとりだった。
 大勢のときならともかく、ふたりきりで親しく話したのはたぶん昨日が初めて。
 なのに、
(それなのに、いきなり好きになったりするかなぁ…?)
 わからない。
 わからない。
 十四歳の女の子らしい感情として、恋愛に憧れたり、すてきな恋人がいればいいなと思ったりはする。
 だけど、アイドルや映画俳優に憧れることはあっても、これまで、身近な異性に特別な感情を抱いたことはない。
 だから…。
 徹に対するこの感情が本当に恋なのか、さおりにはよくわからなかった。
(だけど…)
 徹と話をしたり、一緒にゲームをするのは楽しかった。
 それは間違いない。
 明日も遊びに来ると言ったとき、確かに嬉しいと感じた。
 それは間違いないことだった。


(月城って、かわいいな…)
 さおりの家からの帰り道。
 徹の足どりは、どことなくスキップでもしているようだった。
 知らず知らずのうちに、顔がにやけてしまう。
 いままで、気付かなかった。
 クラスの女子の一人、以上の認識を持ったことはなかい。
 成績はいい方、
 背はクラスの中では低め、
 どちらかといえば大人しい、あまり目立たない性格。
 それが、さおりに対する印象。
 それだけだった。
 だけど…
(なんだか、いままで思っていたよりもずっと可愛いや…)
 さおりとは一年生のときから同じクラスだったはずなのに。
 たった二日間で、いままで知らなかったたくさんのことに気がついた。
 よく笑う。
 笑うと、もともと細めの目が一本の線になる。
 そうして、口の左側にだけ小さなえくぼができる。
 料理が上手で、
 それ以上にゲームが上手くて、
 他に趣味は読書とビデオ鑑賞。
 好きな俳優はハリソン・フォードとブルース・ウィリス。
 話をするとき、口の前で両手を合わせて、首をほんの少し傾げるのが癖。
 それから…
(小柄で痩せて見えるわりには、けっこうグラマーなこととか…)
 先刻の、背中に当たった柔らかな感触を思い出して徹は赤面する。
 異性というものを意識するようになってから、同世代の女の子とあんなに接近したことはない。
 もちろん、手をつないで歩いたことも。
「へへ…」
 さおりの動作のひとつひとつを思い出すだけで、なんだか楽しくなってくる。
(月城って、可愛いな…)
 これまで、あまりは話もしたことがない相手なのに…。
 好きになってしまった。
 きっとそうだ。
 そうでなければ、こんなにも、頭の中がさおりのことでいっぱいになるはずがない。
 明日も会えることが、嬉しくて仕方がない。
「よーし、明日は見たがっていたビデオを持ってってやろ。あと新作のゲームも…」
 また、さおりの手料理を食べられたらいいな、と思う。
 そして、また一緒に空を飛べたら…
(空を…?)
(あれ?)
(ちょっと待てよ?)
 そのときになって、はじめて気付いた。
「んん〜?」
 腕を組んで、もう一度よく考えてみる。
 考えて、
 考えて…、
「月城って…」
 ようやく、妙なことに気がついた。
 そう、そのときはじめて気付いたのだ。
「なんで羽根なんか生えてるんだ…?」
 全日本のんき選手権、などというものがあったら、今夜の徹は間違いなく優勝したに違いない。
 しばらく腕を組んで考え込み、ようやく達した結論は、
「ま、いいか。かわいいし」だった。



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