第三夜


 鼻歌混じりに、徹は食器を洗っていた。
 さおりの家のキッチンで。
 徹は約束通り、昼過ぎにさおりの家を訪れた。
 今日はちゃんとさおりも起きていて、午後はずっとふたりでゲームをしたり、ビデオを見たりしていた。
 そして夕方近くになって、さおりがはにかみながら言った。
「よかったら…」
 ほんの少し、照れたように。
「…ごはん食べていかない?」
 もちろん、徹はうなずいた。
 ただし、最初からそれを期待していたとはおくびにも出さなかった。
(美味しかったなぁ、月城の手料理)
 今日のメインディッシュは、じっくり煮込んだビーフシチュー。
 もちろんレトルトではなく、手作りの。
 夕方になってから作り始めて間に合うメニューではない。
 つまり…
 徹が来る前から、用意していたということだ。
 ゲームの最中、何度か一時停止をかけてキッチンへ行っていたのはこのためだろう。
(俺のために作ってくれた料理…)
 そんなことを考えただけで、熱が上がりそうだった。
 もちろん、後片付けは自らすすんでやってることだ。
 ただし、さおりがわざわざ、洗い物の数が少ないメニューを選んだことまでは気付いていなかった。
(月城って、料理うまいよな。きっと、いい嫁さんになるな…)
 洗剤のついたスポンジと皿を手に持ったままそんなことを考え、そして、自分の考えに思わず赤面する。
(え〜い! 気が早い! 付き合ってもいないのに…)
 だけど、
 本当にそうなったらいいな、と。
 そんな妄想にひたっていたため、皿の数が少ない割には、洗い物が片づくまでにはずいぶん時間がかかってしまった。
「終わったぞ。さ〜続きを…あれ?」
 徹が居間に戻ると、ソファの上で横になって、静かに寝息を立てているさおりの姿があった。
「いけね、時間かかりすぎたか」
 ひとりでゲームをしているうちに眠ってしまったようだ。
 デモ画面が表示されたままで、手にはコントローラーを持っていた。
 昨夜遅くまで眠れなかった上に、今朝は早起きして料理の下ごしらえをしたために寝不足だったなどとは、もちろん徹は知らない。
(さて、どうしよう…かな)
 さおりは気持ちよさそうに眠っている。
 起こすのが悪い気がするくらい。
 だからすぐに起こすのは止め、徹は黙って座っていた。
 さおりの寝顔を、もう少し見ていたかったということもある。
 可愛い寝顔だな、と思った。
 同じ年頃の女の子の寝顔を見る機会なんて、そうそうあるものではない。
 なんだか、どきどきする。
 うたた寝している女の子の顔を黙って見ているなんて、あまりいいことじゃないのかもしれない。
 それでも、徹はさおりに見とれていた。
(きれいな脚だなぁ…、って、おい! 俺はなにを見てるんだっ!)
 いつの間にか顔ではなく、短めのスカートからのびたさおりの脚に目がいっていた。
 あわてて、さおりの寝顔に視線を戻す。
 かすかに開いた口の奥に、白い歯が見える。
 淡いピンク色の唇は、とても柔らかそうだだ。
 無意識のうちに、手を伸ばしていた。
 ちょっとだけ、触ってみたかった。
 恐る恐る、指を伸ばす。
 しかし、その指が唇に触れる寸前、
「ぅ…ん…」
 さおりが寝返りをうち、徹はあわてて指を引っ込めた。
 いままで横を向いて寝ていたさおりが、寝返りをうったことで仰向けになっていた。
 だから…
(あ…)
 それまで腕の陰に隠れていた胸の膨らみが、あらわになっていた。
 服の上からでもわかる、なめらかな曲線を描いている。
 ゴク…
 胸の鼓動が大きくなり、徹は唾を飲み込んだ。
 白いワンピースに、うっすらとブラジャーが透けていた。
(…こら! どこを見てる!)
 そんなとこ見ちゃいけない。
 そう思いつつも、目を離すことができなかった。
 どちらかといえば痩せ気味の、十四歳の女の子の胸など、実際のところそれほど大したものでもない。
 しかし、同じ十四歳の少年にとって、その膨らみは抗い難い魔力を秘めていた。
(おいっ! 俺のバカッ! 何をしようとしてる!)
 心の中で、自分を叱る声がする。
 それでも、止められなかった。
 ソファの横に座って、さおりの顔を間近からのぞき込む。
 大丈夫、間違いなく眠っている。
 手が、少しずつさおりの胸に近づいていく。
 そぅっと、そぅっと。
 どくん、どくん
 心臓の鼓動は、その音でさおりが目を覚ますのではないかと思うくらいに激しい。
(わ〜っ! やめろ〜! 大変なことになるぞ!)
(だけど…こんなチャンス滅多にない…)
(チャンスって…眠ってる女の子に、こんなことしていいと思ってンのかっ?)
(だけどホラ、こんなに可愛い寝顔してるし…)
(理由になってないぃっ!)
「あ…」
 心の中で激しい葛藤が繰り広げられている間にも、指は動きを止めない。
 指先が触れた。
 一瞬動きを止め、それから、軽く…とても軽く、押した。
(あ…柔らか…)
 手の動きは、それだけでは止まらなかった。
 いや、止められなかったと言うべきか。
 胸の膨らみを、掌ですっぽりと包み込む。
 初めての体験だった。
 赤ん坊の頃の、母親の胸を除けば。
(こんなに、柔らかいんだ…。そして、温かい…)
 こんなこと、しちゃいけない。
 もう止めなきゃいけない。
 そう思っても、既にそのきっかけを失っていた。
 胸に触れた手を、離すことができない。
 ――と、
「え……?」
 不意に、さおりが目を開いた。
 ほんの十センチほどの距離で、徹と正面から目が合う。
 徹は動けなかった。
 身体が凍り付いたかのように。
「…え?」
 そのままさおりは、きっかり五秒間、目を瞬き、
 そして――
「きゃあああぁぁぁっっっっ――――!」
 肺の中の空気をすべて吐き出した悲鳴が、徹の耳をつんざいた。
 その声で硬直を解かれ、徹はあわてて手を引っ込める。
 弾けるように起きあがったさおりは、部屋の隅まで飛び退くと、壁を背にして両手で胸を覆った。
「ちょ、ちょ…ちょっとっ! な、なにしてたのよっ!」
「な、な、なにって…べ、別に…その…」
 真っ青になったな徹の顔に、冷や汗が滲む。
「やだ! もうっ! …信じらンないっ!」
 目にいっぱいの涙を浮かべてさおりは叫ぶ。
 あふれた涙が一筋、頬を伝った。
 徹の胸を貫いたのは、さおりの怒りの声ではなく、その涙だった。
 さおりの涙を見て、自分のしたことの重大さを悟った。
 好きな女の子を泣かせることが、こんなにも辛いことだなんて。
「…いや…あの…俺は…その……」
 徹はしどろもどろに弁解を試みる。
 しかし、言い訳のしようなどあるはずもない。
「…ひどい! ひどいよ、こんな…信じンれない!」
 さおりの目から、涙が止めどもなくあふれる。
「…ごめん」
「スケベッ! 変態っ! …、大っ嫌いっっ!」
 力いっぱい叫ぶと、さおりは居間を飛び出した。
「あ…待って!」
 徹が制止する間もなく、
 バタンッ!
 玄関の扉を叩きつける音が聞こえた。
「月城!」
 徹はそのあとを追う。
 あわてていたので、靴を履くのに手間取ってしまった。
 さおりは靴も履かずに飛び出したらしい。
 ずいぶん遅れて外に出る。
 外はもう真っ暗で、さおりの姿は見あたらない。
「月城…? …まさか」
 周囲を見回していた徹は、はっと気付いて空を見上げる。
 一瞬、月と重なったシルエットが見えた。
 大きな翼の影が。
「月城!」
 さおりのあとを追って、徹は走り出した。



「たしか…こっちの方へ行ったように見えたんだけど…」
 息を切らした徹がたどり着いたのは、奏珠別公園の展望台。
 昨夜、さおりと会った場所だ。
 月明かりの下でかすかに見えた影は、ここへ向かっているように見えた。
 しかし、見える範囲にさおりの姿はない。
 昨夜同様、徹の他に人影は見当たらなかった。
 いや…
 かすかな、音が聞こえる。
 キィ…、キィ…
 かすかに聞こえる、金属のこすれ合う音。
 公園のブランコの音だ。
 徹は音の方へと走り出す。
 だが、そこにいたのはさおりではなかった。
 もっと小さな。
 小学生くらいの女の子が、ブランコを揺らしている。
 茶色がかったショートカットの、ややボーイッシュな女の子。
 住宅街からこの展望台まで、ちょっとした上り坂になっているためか、街の夜景を見下ろせる場所であるにもかかわらず、夜のこの公園に人がいるのは珍しい。
 それも、小学生の女の子がひとりきりでいるとなればなおさらのこと。
 とはいえ、いまの徹にはその不自然さに気付く余裕もなかった。
「ね…君」
 肩で息をしながら、その女の子に話しかける。
「こっちの方に、羽…いや、中学生くらいの女の子が来なかった?」
 一瞬、「羽根の生えた女の子が飛んでこなかった?」と聞きそうになったが、もちろんそんなことを言うわけにはいかない。
 少女は、なにも聞こえなかったかのように、そのままブランコに乗り続けている。
 何秒か待って、徹がもう一度訊ねようと口を開きかけた瞬間、少女はブランコの勢いを利用してぽーんと飛ぶと、徹の前に着地した。
 上目づかいに徹の顔を見て、
「中学生くらいの女の人? 見たかもしれない。どんな人?」
 にこっと笑いながら訊く。
 多分、十歳になるかならないかくらいかだろう。
 その割に、どことなく大人びた口調で話す。
「えと…髪がこのくらいで…白いワンピースを着ていて…そして…」
 身振り手振りをまじえて説明する。
 なにしろ、いちばん目立つ特徴は言うに言えないのだから。
「そして?」
 そんな徹の様子を見て、少女は悪戯な笑みを浮かべた。
「たとえば、背中にこんな羽根があるとか?」
「…!」
 いつの間にか、少女の顔は徹の目線と同じ高さにあった。
 そして、足は地面から離れている。
 月の光の下で真珠のように光る、さおりのものよりやや小振りな羽根を広げて。
 少女は、宙に浮いていた。
「き、き、君は…」
 あわてふためく徹を無視して、少女が片手を上げる。
 まっすぐに、徹の背後の森を指差した。
 街の南に連なる山々へと続いている森。
 徹は後ろを振り返る。
「さがしている女の人は、森のなかだよ」
 どことなく笑いをこらえているような様子で、少女がささやく。
「このまま、まっすぐいけばいいの」
 見ると、少女が指差す先には登山道のような細い道があった。
 その道を行けというのだろうか。
「よし! ありがと…」
 森に向かって駆けだそうとした徹は、しかしはたと立ち止まった。
「君は…? いったい…?」
 さおりの他にも羽根を持つ少女がいるということの重大さにようやく気付く。
 徹は振り返ったが、そこにはもう少女の姿はなかった。
 きょろきょろと周囲を見回していると、どこからともなく声だけが聞こえてくる。
 静かな声。
 森の中を吹き抜ける風を思わせる、優しい声。
「つれて帰るなら、いそがないとね…」
 直接、胸の中に響くような声。
「月がしずむまで…だよ」
 その声にはっとして、空を見上げる。
 月は既に、天頂まで昇っている。
「ほら、いそがないと…」
 その声に促されるように、徹は走り出した。
 森の中の小径へと入っていく。
 十六夜の月に照らされ、足元に不安はない。
 しかし――
 やはり、あわてていたのだろう。
 そうでなければ、気付いたはずだ。
 小さな子供の頃から、この公園にはしょっちゅう遊びに来ていたし、最近では飼い犬の散歩コースなのに。
 森の中へ入るこんな小径の存在を、徹は知らなかった。

 徹は、森の中を走り続ける。
 どこをどう走っているのかもわからず、ただ闇雲に。
 木の根や下草に足を取られて、何度も転ぶ。
 手や顔を擦りむいても、気にもとめずに。
 樹々がうっそうと繁った、深い森だった。
 しかし不思議なことに、月明かりは木の葉にさえぎられることもなく、森の中を照らしている。
 何十分か、それとも何時間かわからないが、森の中をさまよって、徹も気づきはじめていた。
 ここが、彼の知る普通の森ではないことに。
 奏珠別の近くの山では見ることのできない大木。
 見慣れない形の草木。
 月明かりの下で、淡い光を放つ不思議な花。
 そして…
 時折、周囲でなにかの気配がする。
 生き物の気配。
 獣や鳥ではない。
 そして、さおりでもない。
 なぜかそれだけはわかる。
 それは、小さな声。
『ほらほら、いそがないと間に合わないわよ』
 くすくすと笑う声。
『月が沈んじゃったら、手遅れだからね』
 からかうような声。
『それまでに彼女は見つかるかしら』
 いくつもの声。
『見つかっても、帰らないって言うかもよ』
 そんな声を無視して、聞こえないふりをして。
 徹は森の中をさまよっていた。
 ただひとりの相手を捜して。
 時折、樹々の間にちらちらと見える姿も無視して。
 それは、小さな少女たち。
 掌に乗るくらいの。
 カゲロウのような、透明な羽根を持った。
 森の中を漂うように飛ぶ、不思議な少女たち。
 徹の姿を見かけると、こちらを指差して仲間同士でくすくすと笑っている。
(なんだろう…あれは…)
 聞こえないふり、見えないふりをしていたが、もちろん、ちゃんと気付いていた。
 常識では考えられない、この、不思議な存在に。
(妖精…? 幻想の世界の住人…)
 そうして、はっと気付いた。
 普通の人間に、羽根なんて生えているはずもない。
 ブランコのところで会った少女も。
 この、カゲロウのような少女たちも。
 みな、徹が住むのとは別の世界の住人なのだ。
 ファンタジー小説が好きな徹は、容易にその考えを受け入れることができた。
 そして…
 さおりも?
 先刻の少女の言葉を思い出す。
『つれて帰るなら、いそがないとね…』
 連れて帰る…?
 どこから、どこへ?
『見つかっても、帰らないって言うかもよ』
 不意に、不吉な予感にとらわれる。
 もちろん、さおりが普通の人間であるはずがない。
 むしろこちら側≠フ存在なのかもしれない。
 この森こそが、さおりの世界なのかもしれない。
(まさか…)
 もう、戻らない…?
「冗談じゃない!」
 もうへとへとに疲れていたが、それでも徹は走り続ける。
 さおりを捜して。
 どのくらい走り回っただろう。
 すでに時間の感覚はない。
 そうして、さすがに力尽きかけた頃――

 ひときわ高い樹の、梢近くの枝に座っている少女の姿を見つけた。



 美しい羽根はそのままだった。
 淡い光を放っているようにすら見える。
 徹は、樹の下まで来て見上げる。
 大きく息を吸い込むと、
「…月城」
 恐る恐る、声をかけた。
 なんの反応もない。
 まっすぐに前を見ているだけ。
 徹に気付いた素振りすらない。
「月城…」
 徹は、がばっとその場に土下座した。
「ごめん! オレが悪かった! 謝るから!」
 さおりは無表情に、ただ前を見ている。
「ホントにごめん! あれはほんの出来心で…もうしないから!」
 さおりは、ただ黙って高い樹の枝に座っているだけ。
 徹の声などまったく聞こえていないかのように。
 月明かりの中に白く浮かび上がるその姿は、まるで、そのまま光の中に溶けこんでしまうかと思われるほどはかなげに見えた。
「ほんっと〜に悪かった! 頼むから、話を聞いてくれよ!」
 徹は必死に訴える。
 なんとしても、聞いてもらわなければならない。
 戻ってきてもらわなければならない。
 そうしなければ…
 もう二度とさおりに会えないのではないか――そんな気がした。
「悪かったよ! でも、月城の寝顔がすごく可愛くて…つい…」
 徹の顔が、ほのかに赤くなる。
「…だって、好きな女の子が目の前で無防備に寝てるんだもの。つい、いたずらしたくなって…、ゴメン、もうしない!」
 ぴくり
 はじめて、さおりが反応した。
 ゆっくりと顔を動かし、徹を見おろす。
「月城…」
 地面に両手をついたまま、徹は上を見る。
 月明かりの下だし、距離もあるので、さおりの表情はよくわからない。
 どことなく、怒っているようにも見えた。
「…神山って、あたしのこと好きなの?」
 あまり感情のこもらない声だった。
 あらたまって訊かれるとやっぱり恥ずかしく、徹の顔がいっそう赤みを増す。
 しかし、ここはきちんと言わなければならない。
 そう、決心する。
「好きだ。 俺、月城のことが好きだ。本当だよ!」
「どうして? あたしなんかを…?」
 どこか戸惑いがちな、小さな声。
「だって、月城ってとっても可愛いじゃないか」
「…うそ」
「嘘じゃないって! ホントに、月城ってすごく可愛くて、大好きだ! 一緒にいると楽しいし、料理も上手だし…。だから…こっちに戻ってきてくれよ!」
 さおりは、まっすぐに徹を見ていた。
 まだ、少し怒ったような表情をしている。
 それでも、その表情がいくぶんやわらいできたように見えるのは気のせいだろうか。
 不意に、三十メートルはありそうな樹の上から飛び降りる。
 翼をいっぱいに広げ、徹から五メートルほど離れた地面にふわりと着地した。
 美しい翼を閉じると、それはさおりの背に吸い込まれるかのように消える。
「月城!」
 駆け寄ろうとした徹を、手を上げて制止した。
 怒っている…わけではなさそうだが、けっして愛想のいい表情でもない。
「月城…」
「もう、エッチなことしないって、約束する?」
「もちろん! あ、いや…え〜と…」
 きっぱりと断言しかけて、しかし、語尾がだんだん小さくなる。
 口だけで約束するのは簡単だ。
 だけど、それは決して徹の本心ではない。
 許してもらわなければならない、しかし、だからといってさおりに嘘をつきたくなかった。
「あ…え〜と…その、そのときは月城の許可をもらうって約束する」
「…?」
 さおりは訝しげに首をかしげた。
「その…、エッチなことしたくないって言ったら嘘になる。でも、もうあんなことは絶対にしない。月城がいいって言わないかぎり、
絶対に変なことしない」
 やや警戒したように、さおりは一、二歩後ずさる。
「神山って…ひょっとしてすごくエッチなの?」
「え? いや、そんなことない…と思う」
 後半、なんだか自信なさげな台詞だ。
 それだけでは言葉が足りないと思い、なんとかフォローしようとする。
「普通…だと思う。ほら、好きな女の子を前にして、健康な男子ならちょっとくらいそ〜ゆ〜ことも考えるのが普通だろ? でも、信じて。絶対に月城がいやがることはしない!」
 身勝手な台詞かもしれない。
 それでも、徹は必死に訴える。
 さおりはそんな徹の様子をまだ怒ったように見ていたが、やがて、その必死なそぶりがおかしくなって、ぷっと小さく吹きだした。
「…言っとくけど、あたしまだ怒ってるんだからね」
 笑いをこらえつつ、無理に怒っているふりをする。
「いくら頼んだって、ぜったいにそんなこと許さないんだから」
「わかってる、ほんっと〜にごめんなさい!」
 徹はもう一度、地面にこすりつけるように頭を下げた。
「ホントに、あたしのこと好き?」
「好きだ! だから…その…正式に俺と付き合ってほしい!」
 これ以上はないというくらい真っ赤な顔で徹が言う。
 そして、さおりも同じくらい真っ赤になっていた。
 男の子から、こんな告白をされたのは初めてだったから。
 赤い顔を見られたくないかのように、さおりはそっぽを向いてわざと素っ気なく応えた。
「…考えとく。先刻のことは…今回だけ勘弁してあげる」
 徹の表情がぱっと明るくなった。
「は、早合点しないでよ。神山と付き合うって決めたわけじゃないからね。ただ、考えておくって言っただけなんだから」
 それでも、徹は安堵の息をついた。
 ふぅっと、大きく息を吐き出す。
「わかってるよ。でも、安心した。あのまま、もう戻ってこないんじゃないかって心配したんだ」
「戻ってこないって…どうして、そんなこと思うの?」
「だって…気付いてる? ここが、俺たちの知ってる奏朱別の裏山じゃないってこと…」
 徹は、さおりを捜している間に見たものの話をした。
 走り回っている間に何度も見かけた妖精たち。
 見たこともないほどの大木。
 月明かりの下で咲く不思議な花々。
 徹は確信していた。
 ここは、彼がいたのとは少し違う世界だ。
 塀の向こう側の世界――そんな、以前なにかの本で読んだ言葉を思い出す。
 それは、ごく身近にありながら、それでいてどこか違う空間。
 幻想の世界の住人たちが住む…
「…だから、月城ってホントはこの世界の住人なんじゃないのかなぁって」
「そうね、そうかもね…。あたしも見たよ。あたしと同じように、羽根を持った女の子。ひょっとしたら、ここの方があたしにはふさわしい場所なのかも…」
 どこか寂しげな口調に、徹ははっとしてさおりを見た。
「月城…」
「でもね」
 小さく微笑んで顔を上げるさおり。
「神山がどう考えてるのか知らないけど、あたしは、一昨日まで自分のことをごく普通の女の子だと思ってたのよ。あたしは、奏朱別で生まれ育ったんだもの。他に帰るところなんてないよ」
「そ、そうか…そうだよな」
 安心したよう巣で徹は立ち上がり、ジーンズについた土や草をはらい落とす。
「じゃ、帰ろうか」
「…で、街はどっち?」
「…」
 気まずい沈黙がその場をつつむ。
 ふたりは顔を見合わせた。
 周囲には同じような森が広がり、どこから来たのかもわからない。
「え〜と…」
「…ひょっとして…迷った?」
 額に冷や汗が浮かぶ。
「あ…ははは…」
「笑い事じゃないって!」
 笑ってごまかそうとした徹は、さおりにジト目で睨まれて口をつぐんだ。
 …が、
「そうだ!」
 不意に、ぽんと手を叩く。
「飛んでいきゃいいじゃん! 空からなら、街の方角もわかるだろ」
「そうか、神山って見かけによらず頭いいね」
「見かけによらず、は余計だよ」
 口をとがらせて反論する徹は無視して、さおりは上を向いた。
 目を閉じて、静かに両腕を広げる。
 そして…
「…あれ?」
「どうしたの?」
「羽根が…」
 さおりは自分の背中を振り返った。
「…出てこない」
 どうしたというのだろう。
 一昨日からずっと、意識して抑えていなければ勝手に出てくるほどだったのに。
 なにも難しいことはなかった。
 ただ、羽根が現れることを念じればいいだけだった。
 なのに…
「どうして?」
「…わかんない」
「てことは、飛べなくなったってこと?」
「…そう…みたい」
 心細げにさおりは言う。
「どうして急に…」
 なにげなしに空を見上げた徹は、はっと気付いた。
 公園にいた少女や、妖精たちの言葉を思い出す。
『つれて帰るなら、いそがないとね…。月がしずむまで…だよ』
『ほらほら、いそがないと間に合わないわよ』
『月が沈んじゃったら、手遅れだからね』
 空を見上げる。
 もう一度確かめるように、空を見渡す。
 月は、すっかり西の山陰に隠れていた。
 いつの間に、そんなに時間が過ぎてしまったのだろう。
「あ…なんてこった…」
 思わず、その場に座り込む。
「どうしたの?」
 さおりが隣にしゃがんで、徹の顔をのぞき込む。
 徹は説明した。
 さおりを見つけるまでに、見たもの、聞いたもののことを。
「…ここは、俺たちが住むのとはちょっと違う場所。きっと、月が出ている間だけ、道がつながるんじゃないのかな。ほら、月の光には魔力があるって、よく言うだろ」
「じゃあ…じゃあ…もう、帰れないの?」
「…かもね」
「そんな…」
 青ざめるさおりの目に、涙が浮かぶ。
 徹はあわてて立ち上がった。
「し、心配しなくてもいいよ。俺がついてるんだし…ふたりなら、少しは心強いだろ」
「だって…」
「大丈夫だって」
 実をいえば徹も不安ではあったが、それでもまだ、女の子の前でカッコつけようとするだけの余裕は残っていた。
 やせ我慢こそ男の美学! なのである。
「えっと…、あ、そうだ!」
 なんとかさおりを元気づけたい、必死に考える徹は、ひとつの希望を見つけた。
「もしかしたら、明日の夜にまた月が昇ったら、帰れるんじゃないかな?」
「もし、ダメだったら?」
 さおりが涙目で徹を見る。
「そのときはそのときさ。まだ可能性があるうちは、そんな悲観的な顔してちゃダメだよ」
 内心、「泣いている顔も可愛い」なんてことを思ってはいたが。
 でもやっぱり、さおりは笑っている顔がいちばんいい。
「神山は不安じゃないの? もしも、もう二度と家に帰れなかったら…って」
「どうしてかな、あんまり不安じゃない。きっと、月城と一緒にいるからかな」
 キザな台詞を口にしてしまった、と自分でも思う。
 さおりの頬がぽっと赤く染まった。
「あ、あたし、そんなに楽天的になれないよ」
「ま、いいさ。ちょっと休もうよ。俺、ずっと走り通しだったんだから」
 できるだけ気楽そうに言って、すぐそばの大木の根元に腰を下ろした。
 実際のところ、徹はもうくたくただった。
 体力的にも、そして精神的にもずいぶん消耗している。
 深刻に落ち込むだけの元気もなかったというのが正直なところだ。
 ひと眠りして頭がすっきりすれば、なにかいい考えが浮かぶかもしれない。
 そう考えた。
「また妖精たちに会ったら道を聞けるかもしれないし、きっと何とかなるよ」
 樹の幹に寄りかかって目をつぶった徹は、眠そうな声で言った。
「ん…」
 少し間を空けて、さおりも腰を下ろす。
 それほど疲れていたわけではなかったが、もう夜中どころか明け方が近い時刻だ。
 楽な姿勢になると、とたんに眠くなってくる。
 それでも、さおりは簡単には寝付けなかった。
「…帰れなかったら、どうしよう…」
「そんなこと考えちゃダメだって。とりあえず明るくなったら、道をさがしてみようよ。それがだめなら月が昇るのを待つさ。大丈夫、きっとなんとかなるよ」
「…うん…そうだね…」
 さおりも目を閉じる。
 しばらくそうしていて、しかし、また目を開けて徹を見た。
「…ホントに、いいの?」
 主語も目的語もなしに、いきなり訊く。
「なにが?」
 うとうとしかけていた徹は、何を訊かれたのかわからずに、目を閉じたまま訊き返す。
「ホントに、あたしなんかでいいの? 特別美人ってわけじゃないし、それに、こんな羽根の生えた、変な女の子でもいいの?」
 徹は目を開いてさおりを見た。
 思いのほか、真剣な表情をしていた。
 だから、わざとふざけた調子で応える。
「その羽根がいいんじゃないか」
「じゃあ羽根がなくなったら、なんの魅力もないってこと?」
 揚げ足をとられ、徹はあわてて言いなおす。
「そうじゃなくて! え〜と、そりゃあ、月城の羽根はすごく綺麗だけど、それだけじゃなくて、その…月城自身もとっても可愛くて、だから、羽根は単に月城の魅力の一部分だというだけで、羽根がなくなっても別に…その…俺、月城のことが好きだ」
 もともと徹はあまり口のうまい方ではない。
 ずいぶんとまだるっこし言い方になってしまったが、それでも言いたいことはなんとか通じただろうと思う。
「…ありがとう」
 頬を赤らめながらさおりが微笑んだので安心する。
 やっぱり、笑っている顔がいちばん可愛いや、と。
「ね、神山…。いいこと教えてあげようか?」
 やっと聞き取れるくらいの小さな声だった。
「…あのね、あたしも…神山のこと好きだよ…多分、ね」
 今度は徹が赤くなる番だった。



 朝の柔らかな光がカーテンの隙間から射しこみ、ベッドの上に光と陰のまだら模様をつくり出している。
「う…ん…」
 コーヒーの香りが、まだ半分眠っているさおりの意識をくすぐった。
 ぼんやりと目を開ける。
「ん…、あ…れ?」
 身体を起こしてまわりを見回す。
 自分の部屋だった。
 自分のベッドの上で、ちゃんと、自分のパジャマを着て寝ている。
「あれ…?」
 ぼうっとした頭で考える。
 なにか、不思議な夢を見ていた気がする…と。
 部屋の中を見回す。
 なにも変わったところはない。
 机の上の時計は、午前七時少し過ぎを指していた。
 さおりは起きあがると、パジャマのまま部屋を出る。
 居間には、ソファに座ってコーヒーカップを片手に新聞を広げている女性の姿があった。
「…ママ? いつ帰ってきたの?」
「おはよう、さおり。今朝の始発電車よ」
 さおりの母親、月城みさとがこちらを振り返る。
「千歳空港に着いたのは昨夜なんだけどね。千歳で友達と会う約束があったから、そのまま泊まってきたのよ」
「ふ…ぅん…」
「おみやげのハスカップのパイがあるから、朝ごはんに食べたら?」
「本州に旅行してたのに、どうして千歳空港でおみやげ買ってくるかなぁ…」
 いつものことなのでもう慣れっこだが、それでも少しばかり呆れたような口調で言う。
 みさとはひとりで旅行に行くことが多い。
 彼女は作家で、取材旅行という名目で出かけているのだが、さおりは単なる趣味だと思っている。
 行く先はそのときによってさまざまなのだが、なぜか、おみやげは北海道内のものが多い。
 旅先で買って持ってくるのは重いから、というのがみさとの言い分だった。
 それなら宅配便で送ればよさそうなものだが、旅行のおみやげは自分で持ってきて直接手渡すのが醍醐味なのだそうだ。
 それが、彼女のこだわりらしい。


 食堂のテーブルについたさおりは、自分のカップにコーヒーを注ぎ、ハスカップパイを一切れ皿に取る。
 パイを口に運びながら、考えていた。
 昨夜の出来事を。
(あれぇ…? 夢…? まさか…でも…)
 徹とふたり、森の中で迷って野宿していたはずなのに、どうして自分の家で寝ているのだろう。
 なにごともなかったかのように。
(夢でも見てた? でも…いや…、いったい、どこからどこまでが夢?)
 すべてが夢だった、と考えるのがいちばん自然だった。
 さおりの背には、羽根なんて生えていない。
 どうやっても、そんなもの出てこない。
 はじめから存在しなかったかのように。
 それが当たり前なのだ。
 背中に魔法の羽根が生えて、それで空を飛び回っていたなんて。
 常識で考えれば、そんなこと現実にあるはずがない。
(やっぱり、夢? でも…いや…う〜ん…)
 フォークを口にくわえたまま、さおりは考え込む。
 そこで、はたと気付いた。
 徹はどうしたのだろう?
 彼がなにか知っているのではないだろうか?
 ひょっとしたら、眠っているさおりを徹が家まで運んでくれたのかもしれない。
 可能性は低いが、あり得ない話ではない。
(学校に行ったら、訊いてみようか)
 でも、もしも…
 羽根のことも、なにもかも夢だったら。
 そんなことを訊いたら、変なヤツと思われるのがオチ。
(でも…う〜ん…)
 朝食の間も、学校の制服に着替えているときもずっと考え続けて、とりあえず普段より早めに家を出た。
 いつも通りの通学路。
 いつも通りの学校。
 特になにも変わったところはない。
 月曜の朝は、みんなどことなく眠そうだ。
 これも毎週のこと。
 さおりが教室に入ったとき、徹はまだ来ていなかった。
 教室の入口近くに立って、徹が登校してくるのを待つ。
 しかし徹はなかなか現れず、ようやく姿を見せたのは、もう朝のH・Rが始まる直前だった。
 教室に入ってきた徹と、一瞬目が合う。
「あ…えと、お、おはよう」
 昨夜のことを訊いてみたいけれど、どう切り出せばいいのかわからないので、とりあえず朝の挨拶だけ。
「あ…、おはよ…」
 やや戸惑った様子で、徹も挨拶を返す。
 それだけでは、なにもわからない。
 いきなり声をかけられて戸惑っただけかもしれない。
 少なくとも先週までは、徹とは特に親しかったわけでもないのだから、当然のことだろう。
(やっぱり、なにも知らないのかな…)
 そう考えると、もうなにも言えなくなる。
 だから、さおりはそのまま自分の席に戻った。


 その日は一日、特に何事もなく過ぎた。
 放課後、「街へ遊びに行こう」という友達の誘いを断って、さおりは帰路につく。
 とてもそんな気分ではない。
 さおりは結局、徹になにも言えなかったし、彼の方から話しかけてくることもなかった。
 授業中や休み時間に何度か目が合ったような気がしたが、それはさおりが徹の方を見ていたための偶然かもしれない。
(やっぱり…夢だったのかな…)
 あんなに真剣に、好きだと言ってくれたのに。
「…夢、だよね。ホントにそんなことあるわけないもの」
 落胆した表情で、声に出さずにつぶやいた。
 足どりも重い。
(こんなことなら…)
 みんなと一緒に遊びに行った方が、気が晴れたかな?
 そんなことを考えていたさおりは、校門の手前で足を止めた。
 ちらほらと下校する生徒が歩いている中にひとり、校門に寄りかかるようにして立っている男子生徒がいる。
 誰かを待っているかのように。
 さおりの胸の鼓動が速くなる。
 いま、周囲にさおりの知り合いはない。
 徹に昨夜のことを訊くなら、これが最後のチャンスだった。
(でも…)
 どうやって聞けばいいのだろう。
 時間が経つにつれて、あれは夢だったのでは、という思いが強くなっている。
 だとしたら、そんな馬鹿なことを聞くのは恥ずかしい。
(…偶然よね。きっと、誰か友達を待ってるんだわ)
 それでも校門が近づくにつれ、さおりの歩みはだんだん遅くなる。
 徹がちらりとこちらを見たような気がして、思わず立ち止まった。
 目が合ってしまう。
 頬が、か〜っと熱くなった。
「あ、あのね」
「…あのさ」
 ふたりが口を開いたのはほとんど同時だった。
 一瞬、えっという表情でお互いに顔を見合わす。
「え…と…、あたしに用?」
「俺になにか…?」
 また台詞がかぶって、ふたりそろって小さく吹き出す。
「神山から、言いなよ」
「月城から言えよ」
 一瞬の沈黙のあと、
「…じゃあ、一緒に言おう」
 さおりの言葉に徹もうなずく。
 一、二の三で、タイミングを合わせて、
「一緒に、帰らない?」
 ふたりで、同じことを言った。
 驚いたように相手を見つめる。
 赤い顔をして。
 十秒くらいそうしていて、
「…いいよ」
 やっぱり、ふたり同時に答えた。
 口元に、かすかな笑みを浮かべて。
「じゃ、行こっか」
 どちらからともなく言いだして、ふたりは並んで歩き出した。


 この日はちょっと寄り道をして、一緒にお茶を飲んで帰ったのだが、さおりは結局、昨日までのことはなにも訊かなかった。
 徹も、なにも言わなかった。
 でも、それでもいいと思う。
 徹と仲良くなれた、いまこうしていることは間違いなく現実だったから。



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