それから一月ほどが過ぎた、ある日の夕方。
学校帰りのさおりと徹は、奏珠別公園の展望台で寄り道をしていた。
街を見おろす高台にある小さな公園は、ふたりのお気に入りの場所だった。
急な坂を登らなければならないため、ここはいつ来ても人が少なく、だから、ふたりでいてもクラスメイトに冷やかされる心配もない。
今日も、いつもと同じように。
鬼ごっこをして遊んでいた小学生たちが帰ったあとは、公園にいるのはふたりだけになった。
陽が沈んであたりが薄暗くなりはじめた頃、東の山の陰から、ややオレンジ色がかった大きな月が顔を出す。
満月にはまだほんの少し足りない月。
ふたりは公園の柵に寄りかかって、昇ったばかりの大きな月と、灯りはじめた街の明かりを眺めていた。
こうして徹とふたり、他愛もない話をしている時間がさおりのお気に入りだった。
なんとなく、いい雰囲気で。
静かに流れる時間が。
ずっとこうしていられたらいいな、なんて思っていると、
「…あのさ、月城…」
ためらいがちに、徹が口を開いた。
「なに?」
「その…え…と…」
なんとなく、緊張している様子だった。
それが伝染して、さおりの鼓動も少し速くなる。
徹は大きく深呼吸して、言った。
「…キス、しても…いい?」
「…え」
どくん!
さおりの鼓動がひときわ大きくなる。
思わず、周囲を見回した。
公園の中には誰もいない。
さおりと徹の、二人だけ。
頬が、か〜っと赤くなる。
断る理由はなかった。
年頃の女の子の常として、さおりももちろん好きな男の子とのファーストキスには憧れがある。
たまに空想するその場面で、その相手はいま彼女の隣にいる少年だった。
付き合いはじめて一月という時間が長いのか短いのか、それはわからなかったが、それでも断る理由はなかった。
「ん…」
口ではっきり「いいよ」と答えるのもなんだか恥ずかしかったので、さおりは身体を徹に向けると、軽く上を向いて目を閉じた。
徹の手が肩に触れた瞬間、ぴくっと身体が震える。
徹の体温が近づいてくるのを感じる。
(うわぁ…、なんか、すごくドキドキする…)
特に理由のない不安が半分、そして期待が半分、といったところ。
しかし…
(あ、ヤダ、どうしよう…)
こんな大事な、素敵な場面で、おマヌケな話だったが。
くしゃみが出そうだった。
「くしゃみが出そうだから、ちょっと待って」なんて言えるはずがない。
せっかくのいい雰囲気が台なしだ。
(なんとか、我慢しないと…)
無駄な抵抗だった。
「…っ、くしゅんっ!」
びくっと、徹の動きが止まる。
あと数センチで唇が触れそうなところだったのに。
「…ご、ごめんなさい」
あわてて口を押さえながら、さおりは謝る。
どっちにしろ、いい雰囲気はぶちこわしに違いなかった。
徹は、驚いたように目を丸く見開いている。
「…あの、急に鼻がムズムズして…我慢しようとしたんだけど…。ごめんなさい! わざとじゃないからね!」
「いや…それはいいんだけど…」
徹に気を悪くした様子はない。
しかし、なんともいえない奇妙な表情でさおりのことを見ている。
「くしゃみはどうでもいいんだけど…さ、それ…?」
「え?」
さおりの背後を指差している。
首をめぐらして、徹が指差すものを見ようとして…。
驚きのあまり、息をのんだ。
「うそ…」
純白の、大きな翼が広がっていた。
一月前となにも変わらずに。
昇ったばかりの月の光を受けて、真珠色の輝きをまとっている。
さおりは両手で口を押さえて、徹に向き直った。
驚きと、戸惑いと、そして喜びの入り混じった表情。
二人そろって、そんな顔をしていた。
「これって…」
しばらく、そのままお互いを見つめ合って、
「はは…」
「ふふ…」
「あは…ははは…」
ふたりは同時に笑い出した。
はじめは遠慮がちに、やがて抑えきれなくなって、お腹を抱えて爆笑する。
目に涙すら浮かべながら。
他に誰もいない夜の公園に、二人の笑い声だけがいつまでも響いていた。
同じ頃、さおりの家では――
自称「ティーンの少女たちの間で大人気の小説家」月城みさとが仕事の手を休めて部屋の窓から月を眺めていた。
口元に、静かな笑みを浮かべている。
「きれいな月ね、…先月と一緒」
なにか面白いことを思いだしたかのようにくすくすと笑い、自分の手を見た。
彼女の指は、一枚の小さな羽毛をつまんでいた。
それは、月の光の中で真珠のような輝きを放つ、純白の羽根だった。
―おわり―
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