終章 おかえりなさい


 微かに目を開けると。
 見覚えのある、きれいな金髪と大きな金色の瞳が見えた。
 しかしそれは、本来そこにあるはずのないものだった。
(アタシ、死んだのか……?)
 また目を閉じて、ぼんやりとそんなことを考える。
 すると、ここは死後の世界に違いない。先に死んだ者がいるのだから。
「ナコ、起きて。ナコ」
 自分を呼ぶ声がする。
 その声にも聞き覚えがあった。
 それでも奈子はそのまま横になって、目を閉じていた。
 全身がだるい。
 身体を起こすのも、目を開けるのも、なんだか面倒くさい。
 こうして眠っているのが、とても心地良かった。
(急いで起きることもないでしょう? どうせ、時間はいくらでもあるんだから)
 しかし奈子を呼ぶ声は、それを許してはくれなかった。
「さっさと起きないと、目覚めのキスしちゃうぞ?」
 その言葉に、奈子は慌てて上体を起こす。
 何か考えがあってしたことではない、条件反射のようなものだ。
 起き上がった奈子のすぐ目の前に、金色の髪と、金色の瞳を持った少女がいた。
 その後ろに、静かに微笑んでいるソレア。
 さらに後ろに、幾分不安そうな表情のハルティとアイミィ。
 そして壁に寄り掛かって、いつものようににやにやと笑っているエイシス。
(みんな……死んだ? ……はずはないか)
 奈子はただ呆然として、言葉を失っていた。
「ナコちゃん、調子はどう? あなたは三日も眠り続けていたのよ」
「ダメ……みたい。先刻から、なんかヘンな幻覚が見えてる……」
「誰が幻覚だって?」
「……幻聴も聞こえるし……」
 ファージが掌で軽く、ぺしっと奈子の頭を叩いた。
「しっかりしてよナコ。私は、ここにいるよ。夢でも幻覚でもなく、ここにいるんだよ」
「ファー……ジ?」
 呟きながら、ソレアを見る。
 ソレアが小さく頷いた。
「うそ……、何故? だって、死んだじゃない、ファージ……」
「ま、危なかったのは事実だけどね」
 ファージが、あっけらかんと言った。
「すごく高度な、特殊な魔法があるの。ひどい怪我をして、自分の力では治せない時に使う魔法が。自分の身体を仮死状態にして、特別な宝石の中に封じ込めるという……」
 ファージが、自分の腕を見せた。
 そこにはサファイヤに似た、大きな宝石の付いた金の腕輪が填められていた。ファージは、殺された時にもそれをしていた。
 遺体が消えた時、奈子がそれを拾って……そして……。
 そう、ソレアに預けてあった。
「完全な死に至る直前に、そこで時間を止めたような感じかな。力のある魔術師なら、後で宝石に封じ込められた人を治療して、復活させることができるってワケ」
「じゃあ、何? ファージの身体が消えた時、実は、その腕輪の中に封じられて……っていうか、自分で自分の身体を封じたの?」
 ファージが頷く。
「じゃあ……、じゃあ、ソレアさんは知っていたの?」
 奈子の問いに、ソレアはばつが悪そうに、表情だけで肯定して見せる。
「ファージも……。それならそうと、どうしてはじめに教えてくれなかったの……?」
「それは……。この魔法の蘇生率が、百パーセントじゃないから……」
「じゃあ……じゃあ、もしアタシが、ファージが死んだと思い込んだアタシが、自分の世界に帰って、二度とこっちに戻らなかったら? どうするつもりだったの?」
 奈子の声は、怒気を含んでいた。
 ファージも気まずい表情になる。
「……別に、それでもいいかって、思ってた……。確実な保証がないのに、ナコを危険な目に会わせるよりは……って」
「バカッ!」
 奈子は、突然大声で叫んだ。
「ファージが死んだと思った時、どれだけ泣いたと思ってるのっ? こっちへ来る時、どれだけの覚悟をしたと思っているのっ? それを……実は生きてました、で済むと思ってんのっ?」
 奈子は、目に涙を浮かべながら怒鳴っている。
 アイミィやハルティ、そしてエイシスは、奈子が怒っている理由がわからずに驚いている。
「……出てって! みんな出て行ってよっ!」
 奈子が叫ぶ。
 五人は顔を見合わせて、揃って部屋から出ていった。
 一人残された奈子は頭から毛布を被って、声を殺して泣き始めた。



 夢を、見ていた。
 そこに、自分がいた。
 夢の中で奈子は、リューイを殴り続けていた。
 無惨に潰され、血塗れになったリューイの顔。
 奈子の拳も、顔も、服も、返り血で真っ赤に染まっている。
 それでも殴り続ける。
 奈子はそんな自分を、少し離れたところに立って見つめていた。
 リューイは既に事切れている。
 なのに、殴ることを止めない。
(止めて、止めて!)
 目の前にいる、もう一人の自分に向かって叫ぶ。
(止めて、その人は、悪くない!)
 それでも夢の中の奈子は、手を止めようとはしない。
『こいつは、ファージを殺した』
(違う! その人は、何も悪くない、だって、ファージは、生きているんだから!)
 夢の中の自分が振り上げた拳を、力づくで抑えようとする。
 リューイを殴っていた奈子が、顔を上げる。
 その顔は、笑っていた。
 返り血を浴びた、残忍な笑みだ。
 思わず、掴んでいた手を離した。
 数歩、後ろに下がる。
(や……止めてよ! どうして……どうして笑ってるの?)
『楽しいからだよ』
(違う、違う! 楽しくなんかない。人を傷つけることは、楽しくなんかないっ!)
『楽しいから……』
(違うっ! 好きでやっているわけじゃないわっ!)
『楽しいじゃない?』
(違うっ!)



 目を覚ますと。
 陽は、すっかり高く昇っているらしい、カーテンの隙間から、強い日差しが差し込んでいた。
 ぐっしょりと汗をかいている。
 それは必ずしも、陽が昇って室温が上がっているためだけではない。
 奈子はベッドから降りて、汗で重く湿った寝巻きを脱いだ。傍らに置かれていた着替えを手に取る。
 そして、その時になって初めて、室内に人がいることに気が付いた。
 壁に寄り掛かって、にやにやと笑っている男に。
「……エイシス? 人の寝室で何やっているの?」
 手に持った服で胸を隠し、ちょっと怒ったように言う。
「いや、そろそろ出発するつもりなんでね、一応、別れの挨拶でも、と思ったんだが。何か、うなされてたからな」
「……それなら、さっさと起こしてよ。おかげで嫌な夢見ちゃったじゃない」
「もう、起きても平気なのか?」
 マイカラスの王宮で、最初に目覚めてから三日。奈子は、ほとんどベッドの中で過ごしていた。
 怪我はとても重く、ソレアの魔法でも完治には時間がかかったのだ。
 その間、ハルティやアイミィは毎日見舞いに訪れていたが、ファージはあれ以来顔を見せない。
「それで……、出発するって、どういうこと?」
 まだ長く立っているのが辛い奈子は、服を手に持ったままベッドに腰を降ろした。
「どうもこうも、俺の仕事は終わったからな。報酬も貰ったし。平和になっちまったら、こんな田舎に用はないよ」
 そう。あれから一週間近くが過ぎていた。
 レクトンをはじめ、クーデターに加担した者たちは全て捕らえられ、ハルティがマイカラス全土の実権を掌握している。
 近日中に、正式に王位につくことも決まっていた。
 そしてエイシスは、ハルティから約束の、いや、それ以上の報酬を受け取っていた。 
 元々彼は金目当ての傭兵なのだから、報酬さえ受け取ってしまえばマイカラスに用はない。
「そっか……行っちゃうんだ。……どこに行くの?」
「さぁて、まだ決めてないが……。久しぶりに、南のハレイトンにでも行くかな。金もあることだし、しばらく大きな街で遊ぶのもいいか」
 ハレイトンは大陸南部にある古い王国で、またその王都の名でもある。現在のコルシア大陸で、一、二を争う大都市だ。
 金さえあれば、遊ぶところには事欠かない。
 どことなく下品な笑いを浮かべているエイシスを見て、奈子は小さく溜息をついた。
「……あんたって、いっつも気楽だよね」
「お前が深刻すぎるんだよ。約束したろ。この戦いが終わったら、もっと気楽に生きるって」
 約束?
 奈子は首を傾げて記憶を辿った。
「……そんな約束、してないよ。ちょっと考えてみるって、そう言っただけだ」
「気楽に生きた方がいいぞ。人ひとり殺したくらいで、毎晩うなされているよりは、な」
 エイシスの言葉で、奈子の表情が急に険しくなった。
「人ひとり殺したくらい……、って、そんな考え方できないよ。だって……人を、殺しちゃったんだよ。あいつら……ファージを殺したから、仇を討とうと思ってた。でも、ファージは死んでいなかったのに……アタシは……」
 言いながら、だんだんと涙ぐんでくる。
「アタシ、人を殺しちゃった……。そうしなきゃならない理由なんか、無かったのに……」
 エイクサムたちはファージを殺したのだから、報いを受けなければならない。
 それが、大前提だった。
 なのに、ファージは死んではいなかった。
 罪もない人間を殺してしまった。
 奈子は、そう思い込んでいた。
 アタシはただの人殺しだ、と。
 奈子の目から涙が溢れ出した。持っていた服で涙を拭う。
「自分に対する罰のつもりなのか? その傷は」
「え?」
 エイシスが、奈子の身体を見ながら言う。
 その視線を追った奈子は、自分の胸が露になっているのに気付いて、慌てて両手で隠した。
「やだっ、エッチ! どこ見てんのよっ!」
 エイシスが見ていたのは、奈子の右の乳房の下にある刀傷だった。
 リューイを殺した時に、彼の剣に貫かれた傷。
 ソレアの魔法なら、その程度の傷は数日で消すことができる。
 事実、奈子が受けた他の傷はもうほとんど残っていない。
 しかし奈子は、この傷だけは消すのをためらっていた。
 そう意識していたわけではないのだが、エイシスの言う通り、自分がしたことに対する罰のつもりなのかも知れない。
 普通の女の子なら、身体に、特に胸に大きな傷が残るのは、重大な問題のはずだった。
 奈子は両手で胸を隠したまま、朱くなって俯いた。
「やっぱり、消した方がいいんじゃないか? その傷。結構いい身体してんのに、勿体ない」
「な……!」
 奈子は立ち上がると、数歩、エイシスから離れた。
 胸を隠している手に、思わず力が入る。
「あんた、ガキには興味がないとか、言ってなかった?」
「勿論興味はないさ。しかしあと二、三年もしたら、興味が出るかも知れないだろ?」
「あんたって、最低ぇ……」
 心底軽蔑したようにつぶやく。
「そうかな? 正直で男らしいとは思わんか?」
「あんたみたいなのが男らしさの代表だとしたら、アタシは人生を儚んでしまうね」
「それは困るな……。せめてあと三年、元気に生きていて貰わんと。それで、ソレア・サハの十分の一くらい女らしくなってくれれば、結構いい女になると思うぞ」
 何処まで本気か、冗談か、さっぱりわからない調子で、エイシスが言う。
「ふぅん、やっぱり、ソレアさんみたいなのが、好みなんだ? でも、アタシがホントにいい女になったとしたら、あんたなんか絶対相手にしないね」
「そう言うなよ、一晩だけでいいから」
「あ、あんた! 女を何だと思ってンのっ?」
 元々かなり不機嫌だった奈子は、ついに大声を上げた。
 しかしエイシスは、相変わらず飄々としている。
「男の人生にとって、最大の楽しみ……かな?」
 はぁ、と奈子が大きな溜息をついた。
「あんたって……。なんか、ホント、自分の生きたいように生きてるよね」
「お前も真似してみろ。生きるのが楽になるぞ」
「アタシは……。アタシだって、自分なりに生きてるんだ。エイシスから見たら、いつまでもうじうじと悩んでいるように見えるかも知れないけど、これがアタシなんだ」
「やれやれ……それは困ったな。何とか元気づけようと思ったんだが……」
 エイシスは、顎に手を当ててなにやら考えている。
 奈子はちょっと意外な気がした。
「あんた……先刻から、アタシを元気づけようとしてたの?」
「それ以外、どう見えるって?」
 今ごろなに言ってんだ、コイツ。エイシスの表情はそう言っていた。
「……喧嘩売ってるようにしか、見えなかったけど」
 それが、率直な感想だった。
「どうも、人を慰めるってのは苦手なんでね。取り敢えず怒らしとけば、落ち込んでるよりは元気そうに見えるだろ?」
「あ、あのねぇ……」
 呆れて、しばらく何も言えなかった。
 小さく深呼吸して。
「……何であんたが?」
「頼まれたんだよ。王子と、姫様に。お前が落ち込んでて可哀相だからって」
 エイシスは、ぽりぽりと頭を掻く。
 その様子を見て、大体の事情を理解した。
 エイシスが、自分の損得抜きで動くはずはない。
「つまりアタシを元気づければ、それなりの報酬が約束されてるってことね?」
 エイシスが、おや、という表情を見せる。
「わかった? やっぱり」
「ずいぶん慣れた。あんたの性格には」
「じゃあ話は早い。せめて、王子や姫様の前では、元気な姿を見せてやってくれないか? フリだけでもいいからさ。な、頼むよ。俺の稼ぎのために」
 奈子は呆れ、そして思わず吹き出した。
「……あんたって、変」
「……そうか?」
「……変、すっごく、変」
 可笑しくて、涙が出てきた。
 本当に可笑しくて笑うのは、考えてみれば久しぶりだった。
「……いいよ。取り敢えず、フリだけはしてあげる」
 涙を拭きながら、奈子は言った。
 心の傷が、癒えたわけではない。
 アタシは人殺しだ。その想いは、今も重くのしかかっている。
 それは変わらない。
 しかし――
 奈子の中で、何かが少しだけ、変わり始めた。



 マイカラスの王宮の中庭には、大きな池がある。
 奈子は、この場所が気に入っていた。
 周囲にはたくさんの樹が植えられ、まるで森の中にいるような気分になれる。
 池では、鴨を小さくしたような姿の水鳥が数羽泳いでいて、水面に楔形の波を立てている。
 時々、池の魚が丸い波紋を作る。
 水面近くを羽虫が飛んでいると、それを狙って小さな魚が跳ねた。
 奈子は池の縁に腰掛けて、そんな光景を見ているのが好きだった。
 ぼんやりと水面を見つめていると、背後から草を踏む軽い足音が聞こえてきた。
「ナコ・ウェル様……」
 首だけで振り返って声の主を確認すると、奈子はゆっくりと立ち上がった。
「姫様、その呼び方、止めてくださいよ。柄じゃないですから……」
「それなら……、私のことを姫と呼ぶのも、敬語を使うのも、止めてくださいね?」
 少し朱くなっている奈子の側まで来て、アイミィがにっこりと微笑んだ。
「でも……、姫様を呼び捨てにするなんて……できませんよ」
「では私も、救国の英雄で、私たち兄妹の命の恩人であるナコ・ウェル・マツミヤ様を、呼び捨てになどできません」
 口調は真面目だが、アイミィの顔は笑っていた。奈子も思わず苦笑する。
「敬語なんて止めてください。王女と騎士、そんな関係じゃなくて、私はナコ様と……、友達になりたいんです」
「……。はい、わかりました、」
 奈子は一旦言葉を切って、小さく息を吸った。
「……アイミィ……さん」
「はい、ナコさん」 
 一瞬の沈黙の後、二人は同時に吹き出した。
「うふふ……。ナコさん、怪我はもういいんですか?」
「ん……。もう、すっかり平気」
 怪我は、もうほとんど完治していた。あとは体力が回復するのを待つだけだ。
 傷跡も残っていない。
 ただ一つ、胸の傷だけを除いて。
 奈子は結局、この傷は消してもらわないことに決めた。
 自分がしたことを、忘れないために。
 まだ若いのだから、もしかしたら、この傷跡もいつか消えてしまうのかも知れない。
 その頃には心の傷も、忌まわしい記憶も、忘れてしまうのかも知れない。
 しかしいずれにせよ、それは遠い未来の話だ。
「ナコさん……、怪我が治ったら……故郷へ、帰るのですか?」
「え……、ん、そのつもり」
 奈子がこの世界へ来てから、どのくらい経ったのだろう。
 もう、半月以上になるのは確かだ。
 最近無性に、家が、自分の世界が、懐かしい。
(一生帰れないかも知れない。そう覚悟してこっちに来たはずなのに……。一月と経たずにホームシックか……)
 情けないな。心の中でつぶやく。
 だけど、会いたくて仕方がない。
 両親や、友達や、そして……。
「えっと……」
 アイミィが、ためらいがちに口を開いた。
 これ、言っちゃってもいいのかな――そう前置きして。
「実は……兄様は、ナコさんにこの国に残って欲しいと、そう思っているんですよ。その……」
 アイミィはそこで言葉を切り、顔を朱らめた。
「……王妃……として」
 驚いて足を滑らせた奈子が池に落ちそうになり、アイミィが慌てて手を差し伸べる。
「お、お、おうひ〜?」
 アイミィはこっくりと頷く。
「お、王妃って……?」
「知りませんか? 国王の妻のことです」
「そうじゃなくてっ! なんでアタシが……」
 奈子は真っ赤になって叫んだ。
 気が動転して、言葉がまともに出てこない。
 同性にはもてる奈子だが、実のところ、まともな男女交際にはほとんど免疫がなかった。
「兄様、ナコさんのことが好きだったんですよ。多分、初めて会った時から。ナコさんて雰囲気が、ちょっと伝説の竜騎士レイナ・ディに似ていて恰好いいですし」
「だ、だって……だって、いきなりそんなこと言われたって……。それに、仮にも一国の王が、アタシみたいな……」
 奈子は、いよいよ耳まで朱くなる。
 アイミィは、そんな奈子の様子を面白そうに見ている。
「マイカラス王国の騎士、ナコ・ウェル・マツミヤ様ですよ。マイカラス国王、ハルトインカル・ウェル・アイサールの妃として、身分に不足があるとは思えませんが?」
 笑いながら言った。
 マイカラスの騎士の身分、
 アイサール家の、ウェルの名。
 それが、今回の事件の報酬として、奈子がハルティから贈られたものだった。
 元々奈子はエイシスと違い、現金や財宝にはほとんど興味がない。
 だから、この贈物はとても気に入っていた。
『これは、アイミィと、私を護ってくれたことに対するお礼です』
 ハルティはそう言った。
 奈子が、リューイを殺したことでひどく傷ついていることを知っているから。
 敵を倒したことに対してではなく、命を護ってくれたことに対する報酬なのだ、と。
 その心遣いは、涙が出るほど嬉しかった。
 後でソレアが教えてくれたのだが、奈子に対するお礼で頭を悩ませていたハルティにこれを勧めたのは、エイシスなのだそうだ。
 金にしか興味無いようなあの男が? 奈子にはちょっと意外だった。
「ひょっとして、『浮いた分の金、俺によこせ』とか言ってなかった?」
 そう尋ねると、ソレアは笑って頷いていたのだが。
 そんなことを思い出していると、アイミィがナコの顔を覗き込んできた。
「ナコさん。兄様のこと、嫌いですか?」
「いや、そんなことはないけど……」
 アイミィの問いに、奈子はそう答えた。もっと正直に言うと、ハルティはかなり好みのタイプだった。
 顔は文句なく二枚目だ。
 体格もいい。
 剣を持たせれば、奈子よりもずっと強い。
 アイミィではなく、面と向かって本人の口から聞いていたら、断れなかったかもしれない。
「……それとも故郷に誰か、恋人とか、将来を誓った方が?」
「……! い、いないいない。そんなの……」
 一瞬、頭に浮かんだ顔を、慌てて振り払う。
「……ただ、さ……、急にそんなこと言われても、心の準備が……。それにアタシの国では、十五歳じゃ、まだまだ結婚なんて早いもの。考えたこともないし……」
「そうなんですか? それなら、今すぐとは言いません、考えておいてください。また、来て下さるんでしょう?」
「え……」
 奈子は一瞬、返答に詰まった。
 アイミィから視線を反らし、池の方を見る。
 相変わらず、水鳥がのんびりと泳いでいた。
「……うん、また、来るよ。いつか……」
 その答えに、アイミィが嬉しそうに微笑んだ。



 ソレアの家の居間で、
 ファージはソファに座り、不機嫌そうな顔でお茶を飲んでいた。
 乱暴にカップを置くのと同時に、ソレアが入ってくる。
「機嫌、悪そうね?」
 ソレアは戸棚から自分のカップを取り出し、ポットからお茶を注いだ。
 そのカップを持って、ファージの隣に座る。
「……あれ以来、ナコちゃんのお見舞いにも行かないし」
 ファージは黙っている。
「ファージには、理解できないでしょうね。ナコちゃんがどうして怒ったのか」
 お茶を一口飲んで、ソレアが言った。
「あなたみたいに、何も感じずに人殺しができる人には、わからないでしょう? ナコちゃんがどんな思いで闘ってきたのか」
「うるさいな……」
 ソレアの方を見ずに、ファージはつぶやく。
「ナコちゃんみたいな子を、巻き込むべきじゃなかったのよ。この世界でファージの側にいる以上、人の死に関わらずにはいられないもの」
 ソレアはそう言って、ファージに向かって手を差し出した。
「だから、没収」
 ファージはソレアを睨み付ける。手を出したまま、微かに微笑んでいるソレアを。
 やがて小さく舌打ちをして、ベルトに付けた小さなポーチから数枚のカードを取り出し、ソレアに渡しす。
「ナコちゃんがもうすぐこっちに来るから、ちゃんと送ってあげなさいよ」
 受け取ったカードをポケットにしまいながら、ソレアは言った。
「……そういえばナコちゃん、あんな説明で納得したのかしら?」
「あんな説明って?」
 訊き返しながら、ファージはカップの底に残ったお茶を飲み干す。
「ファージが生きてた理由」
 ああ……と頷いて、ファージは立ち上がった。ポットの処へ行き、空になったカップにお茶を注ぐ。
「大丈夫でしょ。ナコは、魔法のことなんてなにもわからないんだし」
「本当のこと、言う気はない?」
「言ったって、それが何を意味するのか、今のナコにはわからない」
 それだけ言うと、ファージはお茶に蜜を一さじ入れてスプーンでかき混ぜる。一口味見をして、蜜を少し足した。
「もういいでしょ、ソレア。私だって、無条件で受け入れてくれる友達がほしいんだ」



 すっかり傷の癒えた奈子は、久しぶりに、ソレアの屋敷に戻ってきた。
 自分の世界に帰るために。
 ハルティとアイミィは名残惜しそうだったが、再会を固く約束してきた。
(ファージに会うのも久しぶり……)
 奈子がファージに会ったのは、マイカラスの王宮で最初に気付いた時だけだった。以来ファージは、マイカラスに顔を見せていない。
(アタシ、ファージに謝らなきゃ……)
 ソレアに連れられて地下室への階段を降りながら、奈子は思った。
(ファージは何も、悪くないもんね……)
 ソレアが、地下室の扉を開ける。
 最初にソレアの家を訪れた時に、連れてこられた地下室。
 部屋の床一杯に大きな魔法陣が描かれているが、最初にここへ来た時とは違う模様だった。その模様には見覚えがある、転移魔法の魔法陣だ。
 そして、部屋の中にファージが立っていた。
 しかし、入ってきた奈子の方を見ようとはしない。
「ファージ……、この間はゴメン。ひどいこと、言っちゃって……」
「いいよ、別に、もう……」
 奈子と目を合わせないまま、ファージは応える。
「じゃ、ナコ、魔法陣の中心に立って」
「え……、あ、うん」
 事務的なファージの口調に戸惑いつつも、奈子は魔法陣の中に入った。
 奈子が中心の小さな円の中に立つと、ファージはすぐに指で印を結び、呪文を唱えようとした。
(どうして……? どうして何も言ってくれないの?)
 奈子は驚いてファージを見る。
「シカルト トゥ……」
 ファージが呪文を唱え始めた瞬間、奈子は思わず叫んでいた。
「待って、ちょっと待って、ファージ!」
(言わなきゃ、アタシが、言わなきゃ……)
 奈子は、ファージの側へ歩いていった。
「なに?」
「あの……さ」
 躊躇いながらも、奈子は言った。
「アタシ、そのうち……また、遊びに来てもいいかな……、こっちに、さ」
「え……」
 ファージが、驚いたように顔を上げる。
「ハルティやアイミィとも約束したし。ファージやソレアさんにも、また会いたいし……」
「ナコ……」
 ファージははっきりと、嬉しそうな表情を見せた。
 そして、ちらりとソレアの方を見る。
 仕方ないわね……。ソレアの目はそう言っていた。
「……あのね、ナコちゃん。正直言って私は、ナコちゃんがまたこっちに来るのは、反対なの」
「ダメ……ですか?」
「この世界は、決して平和な処ではないわ。また、今回みたいな目に遭うかも知れないわよ? 辛くない?」
 そう言いながらも、ソレアはポケットからカードを取り出してファージに渡した。
「いいんです。アタシ、逃げたくありません」
 奈子ははっきりと言った。
「このまま二度とこの世界に来なければ……、全ては夢の中の出来事と同じ。でも、そうじゃない。全部、現実なんです。アタシが人を殺したことも……。その事実から目を背けるのは、卑怯だと思います。だからアタシは、ここへ来なければならないんです」
 そこで奈子は言葉を切り、少し考え込んだ。
「……いや、違うな……。そんな理由は言い訳でしかない。会いたいんです。アタシ、ファージやソレアさんや、アイミィやハルティ様に、また会いたい。いけませんか?」
「ナコ……」
 ファージの目には、涙が滲んででいるようだった。
 奈子の手に、ソレアから返して貰ったカード――転移魔法のカードを握らせる。
「……また、会えるよね?」
「うん、必ず」
 力強く応えると、奈子は魔法陣の中心に戻った。
「自分の家でしばらく休んで、少し落ち着いたら、さ。……また、来るよ」
「うん……」
 ファージは涙を拭くと、今度こそ呪文を唱え始めた。



 自分の世界に戻ると、また、夜だった。
 どうして戻る時はいつも夜なんだろう。奈子は首を傾げる。
 まだ、真夜中にはなっていないらしい。
 奏朱別公園の展望台からは、街の明かりが見渡せた。
 空は晴れていて、丸い月が辺りをぼんやりと照らしている。
 しかし三つの月が輝く向こうの夜に比べれば、こちらの夜空はひどく暗く感じる。
(早く会いたいな……父さんと母さんに。家にいるかな……。怒ってるかな? 怒ってるよね)
 奈子が簡単な書き置きを残して家を出てから、半月以上が過ぎていた。
 学校も、もう夏休みは終わって新学期が始まっているはずだ。
(早く会いたいな……、由維……)
 奈子は、自分の手を見た。
(あの子には、言わなきゃならない。何もかも……)
 由維は、どう思うだろう。
 軽蔑するだろうか?
 この手が血に塗れていても、好きでいてくれるだろうか?
 由維に会いたい。そう思いつつも、会うのが恐かった。
(大丈夫。あの娘は、きっと。全てを聞いても、それでもにっこり笑って、おかえりって言ってくれる。そうだよね、由維……)
 だからこんなにも、由維に会いたいのだ。
 奈子は歩き出した。
 思わず走り出しそうになる気持ちを抑えて。
 展望台から降りる道に差し掛かった時、下から登ってくる人影を見つけた。
「……、奈子、先輩……」
 由維が、そこにいた。
 一瞬、信じられないといった表情で奈子の名を呼んだ由維は、次の瞬間走り出して、奈子に抱きついてきた。
「奈子先輩だ。本当に、奈子先輩だぁ……」
 それが夢でも幻でもないことを確かめるかのように、奈子の身体に回した腕にぎゅっと力を込める。
 どうして、由維がここに?
 その疑問の答えは、考えるまでもなかった。
 奈子が還ることを信じて、毎日のようにここへ来ていたに違いない。
「奈子先輩だぁ。帰ってきて、くれたんだ……」
 由維の声が、だんだん、涙声になる。
 奈子はなにも言えなかった。
 口を開いたら、自分も泣き出してしまいそうだった。
 だからなにも言わず、そっと由維の小さな身体を抱いた。
「奈子先輩……」
 顔を上げた由維は、涙を手で拭い、小さく鼻をすすった。
 そして。
「……おかえりなさい」
 にっこりと微笑んで、そう言った。
 一番、聞きたかった言葉だった。
 奈子の目から、涙が溢れそうになった。
「おかえりなさい、奈子先輩」
 もう一度繰り返した由維は、背伸びをして、両腕を奈子の首に回した。
「奈子先輩……」
 目を閉じた由維の顔が、近付いてくる。
 その意図は明白だ。
 しかし、今度は逃げなかった。
 別に、宗旨替えしたわけではない。
 ただ――
 友情とか、愛情とか。
 男とか、女とか。
 そういった区別はこの際置いといて。
 とにかく。
 奈子は、由維のことが好きだった。
 由維も、奈子のことを好きでいてくれる。
 だから、由維がそうしたいのなら……。
(まぁ、キスくらい好きにさせてもいっか……)
 そう、思った。
 そうして、二人の唇が触れた。
 初めて触れる由維の唇は、とても柔らかかった。
 奈子も、由維の身体に手を回そうとして。
 しかし次の瞬間――
 奈子は慌てて由維の身体を突き放すと、口に手を当てて叫んだ。
「……し、し、舌を入れるなぁぁっ!」



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