一章 オホーツクの海辺


 海から吹きつける強い風に、髪がたなびく。
 まだ八月の上旬というのに、オホーツク海を渡る風は冷たかった。
 国道二三八号は北海道の北東部、オホーツクの海岸に沿って網走から稚内までを結んでいる。
 なだらかな海岸線がどこまでも続く、単調な道。
 その中ほどにある、この地方では比較的大きな港町の近くを、奈子と由維は自転車で走っていた。
 由維は小さなリュックと釣り竿を背負っている。
 時折、車が二人を追い越していく。
 国道にしてはそれほど交通量の多くない道だが、夏休み中ということで地元以外のナンバーも多い。
 やがて、漁港が見えてきた。
 二人はちらりと顔を見合わせると、そちらへ進路を変える。
 五分とかからずに、防波堤の基部に着いた。
 風が強い。
 大きな波が打ち寄せている。
 横の方に目をやると、近くの砂浜は数十メートル沖まで真っ白だ。
 空は曇っているが、雨が降るほどの天気ではない。
 防波堤の上を、自転車に乗ったままゆっくりと進んでいく。強い風にあおられないようにバランスをとりながら。
 波は高いが、防波堤を乗り越えるほどでもなかった。
 先端近くまで来て、二人は自転車を降りる。
「すごい風ですね〜、奈子先輩」
 髪を押さえながら由維が言う。
「ホント。海なんて鉛色してるし、とても八月とは思えないね。石狩や小樽の海とは大違い」
 二人が住む札幌近郊の海岸であれば、この季節は大勢の海水浴客で賑わってるはずだ。
 ここにはもちろん、海で泳ごうなどという物好きはいない。
 たとえ波がなかったとしても、とても泳ぐのに向いた水温ではないからだ。
 気温も、今日は二十度を下回っているだろう。
「これじゃ泳げませんね。いちおう水着も持ってきたのに」
「由維、あんた死ぬ気?」
 由維は笑いながら、ここまで背負ってきた持ってきたルアーフィッシング用の釣り竿をつなぎ、リールを取り付ける。
 糸の先に、ブラーと呼ばれる短冊形の鉛に釣り針をつけた仕掛けを結んで、餌の代わりに、匂いと味を付けた樹脂製の疑似餌を針に刺す。
 奈子は防波堤の上に直に座って、そんな様子を見ていた。
 ここは、札幌から車で六時間ほどはかかる、オホーツク海沿岸の街。二人は、由維の両親と一緒にキャンプに来ていた。
 夏休み恒例、宮本家の家族キャンプ…のはずだったのだが、由維の姉の美咲が参加しなかったので、代わりに奈子が誘われたのだ。
 小さい頃から家族同然の付き合いがあるから、いまさら遠慮することもない。
 キャンプ場はここから少し離れたところで、二人は車に積んできた自転車で、サイクリングがてら釣りに来たというわけだ。
「晩ゴハンのおかず、釣れるといいんですけどね〜」
 楽しそうに言いながら、由維は仕掛けを防波堤の隙間に沈めた。
 リールをフリーにして、底に着くまで糸を送り込む。
「そううまくいくかな?」
 半信半疑の面持ちで奈子は言った。
 その言葉が終わらないうちに、竿先がググン、と引き込まれる。
「来た来たぁ!」
 歓声を上げながら、由維はリールを巻く。
 竿全体が大きく曲がっている。
 ピシャッ!
 水面で魚が暴れ、水しぶきが上がる。
「それっ!」
 竿を大きくしならせて、由維は獲物を取り込んだ。
「わぁい! 大っきい!」
 コンクリートの上でびたんびたんと跳ねまわっている魚に飛びかかって押さえつける。
「クロゾイ、ゲットぉ!」
 得意げに獲物を持ち上げてみせた。
 三十センチ近いクロゾイ。
 奈子も口元をほころばせる。
「やるじゃん。刺身が美味しいんだよね〜、それ」
「へへへ〜、毎週TVで『釣〜りんぐ北海道』見てますもん」
 リュックに入れてきたひも付きの網に魚を入れ、活かしたまま海に沈めておくと、由維は再び竿を手に取った。


 奈子は竿を出さずに、ぼ〜っと考え事をしていた。
 少し前にあった、空手の大会のことだ。
 ふと右手を見る。
 テーピングの巻かれた手。小さなものではあるが、骨にひびが入っていた。
 本来なら、奈子の前に立ちふさがるほどの相手はいないはずだった。
 中学時代に一度も勝てなかった先輩のめ〜めこと安藤美夢は、高校では階級が違う。
 なのにその美夢が、奈子と同じ階級でエントリーしてきたのだ。
 自分本来の階級である軽量級には、手応えのある敵がいないからという理由で。
 決勝はこの二人の対戦となった。
 当然のことだった。
 異世界での幾多の実戦を経験してきた奈子の実力は、高校女子のレベルをはるかに凌駕するものとなっていたし、美夢はもともと十年に一人の天才といわれた才能の持ち主だ。
 決勝の試合場で、奈子は美夢と向かい合った。
 いままで、一度も勝てたことがない相手だった。
 軽量級でもっとも小柄であるにもかかわらず、その実力はずば抜けている。
 確かに筋力やスタミナという点では、他の選手に劣るだろう。
 しかし美夢には、それを補ってあまりあるスピードと、そして間合いの見切りがあった。
 それは、天性の才能だった。
 空手のような素手の打撃技では、突きや蹴りが本来の威力を発揮する範囲はきわめて狭い。
 ほんの少し当たるポイントがずれただけで、その威力は大きく削がれてしまう。
 それ故に、たとえ瓦やブロック、あるいは氷柱などを砕く力を身につけても、動く人間を一撃で倒すのは容易ではないのだ。
 それを美夢は、いとも簡単にやってのける。
自分の技が最大の威力を出す間合いを瞬時に見切り、確実にその間合いで打撃をヒットさせてくる。
 タイミングさえ完璧なら、体重と筋力の不足はさほど問題ではない。
 もともと北原極闘流の技は、己の力を百パーセント破壊力に転換することを真髄としている。
 相手に一瞬の隙をついて繰り出される美夢の打撃は、防御不可能とまでいわれていた。
 奈子は考える。
 どうやって闘えばいいのだろう。
 いまの奈子の力を持ってしても、美夢の攻撃をかわすのは至難の業だ。
 あの北原美樹でさえ、「美夢の蹴りを防御できるかどうかは五分五分」とまで言っていたのだ。
 自分から仕掛けるしかない。
 しかし生半可な攻撃など、いとも簡単にかわされるに違いない。
 だとしたら…
 開始の合図と同時に、奈子は前に出た。
 美夢の間合いに入る寸前で、左の正拳突きを繰り出す。
 奈子にとっても遠すぎる間合い。これはフェイントだった。
 美夢は難なくかわして…
 それは賭けだった。
 奈子の拳をかわした美夢が、いちばんの得意技である右の上段回し蹴りで反撃してくる、と。
 そう読んでいた。
 相手の動きを見てからでは遅い。
 美夢の動きを捉えるより先に、奈子は右腕をフック気味に振った。
 拳に鋭い痛みが走る。
 奈子のこめかみを直撃するはずだった上段蹴りを、拳で受けとめていた。
 骨まで響く痛みに、一瞬顔をしかめる。
 しかし痛かったのは美夢も同じだろう。
 ほんの一瞬動きが鈍った美夢に対し、前に出ながら左右の突きを連打する。
 手の痛みなど気にしていられない。
 間髪入れずに鳩尾を狙った前蹴り。
 クリーンヒットする。
 美夢の身体が曲がる。
 とどめは左の正拳。
 しかし美夢はぎりぎりのところで奈子の拳をかわすと、その腕をつかんできた。
 その前の前蹴りが効いているのか顔をしかめてはいるが、そのまま腕を絡ませて肘を極めると、奈子の腕に体重を預けてくる。
(立ち関節――?)
 北原極闘流は、空手といいつつも投げや関節、寝技も認められた総合武術だ。
 とはいえ、やはり打撃技が中心なのは間違いないし、美夢の場合は特にその傾向が強い。
 それだけに、この反撃は予想外だった。
 奈子の身体が傾く。
 このまま倒れれば、腕は完全に極められてギブアップするしかない。
 一瞬の躊躇も許されなかった。
 自由な右手の親指、人差し指、中指の指先を揃え、くちばしのような形を作る。
 そのまま手首のスナップをきかせて、鋭く揃えた指先を、ほとんど密着した態勢の美夢の、胃を狙って打ち込んだ。
 小さなうめき声がもれる。
 それでも美夢は腕を放さず、奈子を寝技に引き込んだ。
「くぅぅっっ!」
 倒れながら、奈子はもう一度揃えた指先で、袖をつかんでいる美夢の手の甲を打つ。
 鍛え抜かれた指先と手首を持つ者だけが可能とする、現代的なスポーツ空手ではまず使用されない技だった。
 手の甲は、人体の中で鍛えることのできない部位のひとつ。
 ここを尖った固いもので強打されれば、手の骨など簡単に骨折する。
 美夢の手から一瞬力が抜けた。
 その隙を逃さず、奈子は美夢の腕をふりほどいて立ち上がった。
 そして――
 美夢はそのまま、立てなかった。
 腹を押さえたまま、うめき声を上げている。
 審判の右手が、高く挙げられた。
 奈子は、信じられないものを見るような目で、足下に倒れる美夢を見おろしていた。
 すぐには、信じられなかった。
 あの、め〜め先輩に勝てたなんて。
 本当に、自分はそれだけ強くなれたのか。ひょっとして、あのときたまたま美夢が体調を崩していただけではないのか。
 そんな気さえしてくる。
 しかし、たしかに勝ったのだ。
 そうでなければならない。
 自分は、ただの高校生ではない。
 マイカラスの騎士の称号を持ち、そして、人を殺したことすらあるのだから。
 生半可な相手に負けるなど、許されないことだった。
 それがたとえ、安藤美夢であろうと、北原美樹であろうと。
 自分と同じ、血に染まった拳を持つ美樹ともう一度闘ってみたい――奈子はそう思った。


 奈子はぼんやりと、外海を見ていた。
 波が高い。
 小さな漁船が波間に揺れている。
 ひとりで器用に船を操りながら、網を揚げている。
 時折、大きな銀鱗が光る。
 カラフトマスだろうか? サケにはまだ少し時期が早いはずだ。
 防波堤の際には、日本海では見かけない大きなクラゲが、たくさん打ち寄せられている。
 頭から触手の先まで、五十センチはありそうだ。
(たとえ波がなかったとしても、これじゃ泳げないな…)
 それが人にとって有害なクラゲかどうかはわからなかったが、まあ試してみない方が無難だろう。
 八月上旬なのに泳げない海。
 暖かい日本海側で生まれ育った奈子には、カルチャーショックだった。
 この季節にこの気温、この風、この波。そもそも海の色がぜんぜん違う。
(札幌とは、ぜんぜん別の世界みたい…)
 わざわざ次元を超えなくても、異質な世界はいくらでもあるんだな…と、奈子は妙な感心をした。
 同じ北海道でさえ、日本海側とオホーツク海側ではこれだけ違うのだ。
 空を見上げる。
 雲が、速い速度で流れている。
 たまに、その切れ目から陽が射し込む。
 次に、いま自分が座っている防波堤を見る。
 奈子が座っている場所のすぐそばに小さな割れ目があって、そこに小さな花が咲いていた。
 ほんの小さな、か細い草。
 いじけたような小さな黄色い花。
 名前は知らないが、道端でもよく見かける雑草だった。
 もっとも、ここに咲いているのは普段見かけるものよりずっと小さい。
(こんなところで…)
 土なんてほとんどない。
 風に飛ばされてきたわずかな砂が、コンクリートの割れ目に溜まっているだけ。
 養分だってほとんどないだろう。
 それでも、どこからか風に乗ってやってきた種が、ここで育ち、花をつけているのだ。
 海からの強い風が吹きつけ、気温も低いこんな厳しい場所で。
 ときには波もかぶるだろう。
 それでも、たしかに生きている。
 見ているうちに、なんだか涙が出そうになった。
 生きることの厳しさ。
 そして生命というものの強さ。
 それを、見たような気がした。
「奈子先輩…?」
 三尾目の獲物、二十五センチくらいのハゴトコを取り込んだところで、由維が振り返った。
 ずっと無言なので、不思議に思ったのだろう。
 奈子の顔を見て、それから、奈子が見ていたものに気づいた。
「花…こんなところに」
 コンクリートに手をついて花を覗き込み、それから奈子の顔を見上げた。
「なんだか、素敵ですね」
 そう言うと奈子の隣に移動してきて、ぴったりと身を寄せる。
 風は冷たいけれども、由維が触れた部分はとても暖かかった。
 奈子は小さく笑うと、由維の頭に腕を回してぎゅっと抱きしめた。
 身体の芯が、ぽっと暖まる。
 もう一度、テーピングの巻かれた右手を見る。
 美夢の蹴りを受け止めて、ひびの入った拳。
 何度も、血に塗れた拳。
 だけど…
 それでも、由維は自分のことを好きでいてくれる。
 それが救いだった。
 由維に少し体重を預ける。
「由維…」
「なに?」
 少しだけ間をおいて、
「…好きだよ」
 そう言うと、由維の頬が少しだけ朱くなった。



 夕方近くなってキャンプ場へ戻る途中、海岸に建つ近代的な建物が目にとまった。
 道路脇に、案内板が立っている。
「…水族館?」
 奈子も行ったことがある小樽水族館のような、大きな施設ではない。
 それよりもずっと小さな建物だ。
 それでも夏休み中のせいか、駐車場は六割ほど埋まっている。
 このまままっすぐ帰っても夕食には少し早い。
 ふたりは、なんの気なしに寄り道することにした。
 まだ新しい施設らしい。
 大きくはないが、きれいで清潔な建物だ。
 館内は子供連れが多い。
 奈子と由維は入場券を買うと、手をつないで中に入った。
 展示されているもののほとんどは、なじみの深い北の海の魚。
 魚屋でよく見かける魚、食べたことのある魚が多くて、かえって親しみがもてた。
 サケ、マス。
 ソイやカジカ、イワシやニシン。
 タラの仲間。
 カレイにヒラメ。畳ほどもあるオヒョウの標本に驚きの声を上げたり。
 凶悪な顔のオオカミウオとにらめっこしたり。
 先刻見たクラゲもいた。
 海の魚の他に、イトウやオショロコマなど、北海道固有の淡水魚も展示されていた。
 生物の展示だけではない。
 オホーツク海らしく、流氷ができるメカニズムの説明があったり。
 その横には、ひと抱え以上もある本物の流氷が展示されていたり。
 ローカルな内容ではあるが、けっこう楽しい。
 売店には、
「…ほたてチップ?」
 などという、妙なお菓子も売っていた。
「見た目はポテトチップと変わんないけど…」
 パリ…
 一枚試食してみる。
「味はどっちかというとおつまみ系ですね〜」
 順路に従ってひとつひとつの水槽を見ていって、やがて、出口が近づいてくる。
 最後の部屋に、床から天井までつながった、円柱形の水槽があった。
 大人ふたりで手が届くくらいの直径だ。
 周囲に数人の観客がいる。
 奈子たちも近づいてみた。
 中にいたのはクリオネだ。
 北の海に棲む、貝殻を持たないくせに貝の仲間。
 見た目はどちらかというと、羽根の生えた小さなウミウシといった感じだ。
 ライトアップされた幻想的な水槽の中を、数十匹のクリオネが漂うように泳いでいる。
「へぇ…私、生きてるクリオネ見るのって初めて」
 由維が嬉しそうに言う。
 そんな声を聞きながら、奈子は鈍い頭痛を感じていた。
(なんだ…?)
 妙な既視感がある。
 この水槽に? 何故?
 突然の頭痛に顔をしかめながら、そうっと手を触れてみた。
 ガラスほどには冷たさを感じない、硬質アクリルの手触り。
 そうすると、いっそう頭痛がひどくなった。
 なにか…、なにかを思い出しそうな気がする。
 なにか、忘れていた大切なことを。
 そう…なにかを見たはずだ。
 こんな場面に、覚えがある。
 こんな…円柱形の…光。
「――っっ!」
 いきなり突き刺すような激痛を感じて、奈子は頭を抱えてしゃがみ込んだ。



(いったいなんだったんだろう…)
 寝袋の中で、奈子は考えていた。
 人里離れた夜のキャンプ場は、ひどく静かだった。
 時折、キタキツネの叫び声が聞こえるくらいのもの。
 あとは、隣に寝ている由維の静かな寝息。
 昼間の頭痛は、ロビーのベンチで少し休んだだけで嘘のように治ってしまった。
 そのままキャンプ場に戻って何事もなかったかのように過ごしていたのだが、どうにも気になった。
(いったい…?)
 いくら考えてもわからない。
 なにか、向こうの世界に関することだろうとは想像できた。
 しかし思い出せない。
(今度向こうへ行ったときに、ソレアさんにでも相談してみるか…)
 そんな結論に達して、奈子は考えるのをやめた。
 テントの中には由維とふたりきり。
 由維の両親は、隣のテントだ。
 奈子の隣に、由維が寝ている。
 ほとんど密着した状態で。
 このメーカーの寝袋は、ファスナーでふたつをつなげて、大きなひとつの寝袋として使うこともできた。
 このあたりは、夏でも夜の気温はかなり下がる。
 それだけに、由維の体温が心地よい。
 別に、エッチな意味ではなくて。
 ただ、由維に触れているととても落ち着く。
 やっぱり、恋愛感情とは少し違うのかもしれない。
 これまでに何度もキスしたり、それ以上のことをしようとしたりもした。
 でもそれは、考えてみると性的な『欲情』とは少し違う。
 ただ、由維に一番近い存在であることを確かめたかった。
 その証がほしかった。
 お互いに他の誰よりも大切な存在であること、それは確かなことだった。



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