二章 墓守


 奈子が目を覚ますと、もう夜が明けていた。
 ぽ〜っとした表情で天井を見上げて、自分がいま、どちらにいるのかを考える。
 夏休み中は頻繁に行き来しているので、つい混乱してしまうのだ。
 横を見ると、鮮やかな金髪の少女がすやすやと寝ていた。
 向こう、だった。
 ソレアの家だ。
(まさか…)
 いやな予感がして、奈子はばっと飛び起きる。
 自分の身体を見て、安心したように大きく息を吐いた。
 大丈夫、今日はちゃんと寝間着を身に着けている。
 ファージと一緒に寝るときは油断ができない。
 以前、寝る前に一緒にワインを飲んでいて、翌朝気がつくと全裸で抱き合って寝ていたことがあった。
 身体中キスマークだらけで。
(とりあえず一安心…)
 別に、ファージとそういう関係を持つことに抵抗があるわけではないが、由維に見つかると後が面倒なのだ。
「ん…」
 ファージのまぶたがぴくりと動く。
 ゆっくりと目を開いた。
 猫のような金色の瞳が、こちらを見ている。
「…おはよ、ナコ。ねえ、今日はヒマ?」
 手で顔をこすりながら、ファージは身体を起こした。



 そこは、廃墟だった。
 荒野の中に遺る、破壊され尽くした都市の跡。
 ところどころに雑草が生えている他は、生きものの気配はない。
 王国時代の末期…いまから千百年近く前に戦争で破壊され、そのまま放棄された都市だという。
 奈子とファージは、廃墟の中を歩いていた。
 原形をとどめた建物はほとんどなく、瓦礫が山となっているが、大きな通りを選んでいけばそれほど歩きにくくもない。
 考えてみると、こうしてファージと二人で遺跡を調べに来るのも久しぶりだった。
「ここには、なにがあるの?」
 奈子は訊いた。
 朝食のあと、ほとんどなんの説明もなしに連れてこられたのだ。
 まあ、ファージのそうした行動はいつものことだから、いまさら気にもならない。
「…別に、なにも」
 ファージがつまらなそうに応える。
「なにも…?」
「古くから知られている遺跡だから、いまさらなにもない…はずなんだよね」
「じゃあ、どうして…」
「最近、ここで大々的に発掘を行った連中がいるらしいんだよね。いまさらなにも発見がないのはわかっているはずなのに」
 ファージは立ち止まると、腕組みをして首を傾げた。
 どうにも、腑に落ちないといった表情だ。
「発掘って、誰が?」
 奈子は周囲をぐるっと見回してから、ファージの方を振り返った。
「トカイ・ラーナ教会」
「トカ…なんだって?」
 初めて耳にする単語を訊き返す。
「王国時代より後に広まった、ファレイア系の宗派だよ。いまの大陸で最大の勢力を誇る教会だね」
 ファージもゆっくりと周囲に目をやる。
「なにを探っているのか知らないけど、ほっとくわけにはいかないでしょ。私の立場上」
「…!」
 その口調は何気なかったが、奈子は敏感に反応した。
 ファージが自ら『墓守』について触れる発言をするのは初めてだった。
 王国時代の遺跡の発掘につきあわされたことは、過去何度もある。
 しかしその時は、ファージの個人的な興味で王国時代の失われた知識を求めているものだと思っていた。
 三ヶ月ほど前に、フェイリアから『墓守』のことを聞かされるまでは。
 いまから千年前、大国間の全面戦争でこの大陸そのものが滅亡の危機に瀕した時代。
 未来を憂えて、強大な魔法の知識を封印しようと考えた者たちがいたという。
 長い戦争とそれに続く暗黒の時代の中で、王国時代の大いなる知識はほとんどが失われてしまっていた。
 過去の遺跡の中から、そうした知識を復活させるものがいないように監視する者たち。
 過去の知識を受け継ぎ、封印のためだけにその力を用いることを許された者たち。
 『墓守』と呼ばれる、そうした者たちが存在するという。
 フェイリアは、ファージとソレアがそうした墓守の末裔であると考えているらしかった。
 もちろん二人とも、自分からはなにも言わないが。
 だから、奈子もそれについて訊ねてみたこともない。
 ファージがそれらしきことを口にするのは、これが初めてだった。
 奈子がフェイリアから墓守について聞かされていることは、ファージも気づいているのだろう。
 だけど、お互いそのことに触れようとはしない。
 それが、暗黙の了解だった。
 いままでは。
「ファージ…?」
 ちらりと奈子の方を見て、ファージはかすかに笑った。
 なんとなく、いつもの表情と違う。
 普段、奈子といるときの無邪気な笑いでもなく、敵と対峙したときの残酷な笑みでもなく。
 あえて言うなら、自嘲…だろうか。
「フェイリア・ルゥの言うことがすべて正しいわけじゃないけどね」
 それだけ言うと、ファージは歩き出した。
 口をつぐんで、足下にあった石のかけらを蹴飛ばす。
 いまはこれ以上のことを話すつもりがない、という意思表示だった。
 仕方なく、奈子も質問をあきらめてファージのあとを追った。
 廃墟は、どこまでも続いていた。
 半分土に埋まった瓦礫の山ばかり。
 千年以上も前の廃墟なら、完全に土中に没していてもおかしくないのでは…奈子はそう思って訊こうとしたが、ファージの表情を見て思いとどまった。
 いつになく真剣な表情で、じっと廃墟を見つめている。
 なにか、声をかけるのもためらわれる雰囲気があった。
 奈子の前で見せたことはほとんどない、暗い表情だ。
 どことなく怒っているようにも、あるいは泣いているようにも見えた。
 下唇を噛んで、ぎゅっと拳を握っている。
 いったいどうしたというのだろう、ここが、そんな重要な遺跡だというのだろうか。
 しばらく、廃墟よりもファージの様子に気を取られていた奈子だったが、それでもやがて気づいた。
 建物がみな、一定の方向に壊れている。
 街の中心でとてつもない大爆発があって、その爆風で破壊されたのだろうか。
 だとすると、いまふたりは爆心地の方に向かって歩いているようだった。
 進むにつれて、瓦礫の山も目につかなくなる。
 それは、瓦礫も残さないほどの破壊があった証だった。
 やがて奈子が目にしたのは…。
 直径二百メートルほどの、緩やかなすり鉢状の地形だった。
 黒い地面は滑らかで、固い。
 しゃがんで、手を触れてみた。
 土や石というよりも、ガラスのような手触りだった。想像を絶する高温に熔かされた岩石だろう。
 ファージは、無言で歩いて行く。
 奈子も立ち上がって続いた。
 すり鉢の底に着くと、ファージは立ち止まって振り返る。
「ここが、爆心地。竜騎士の魔法のただ一撃で、都市がひとつ、消滅したんだ」
 感情のこもらない、台本を棒読みするような声で言った。
「竜騎士の…魔法…」
 確かに、それしか考えられない。
 王国時代後期の高度な技術による建築物は、何事もなければ千年後の現在までほとんど無傷で残る。
 この大陸に、ひとつの都市をここまで徹底的に破壊する力は現存しない。それを可能とするのは、王国時代の竜騎士の力だけだ。
「ここは、いつ頃からこうなの?」
「トリニアの暦で…四百三十年頃かな」
「四百三十年…?」
 奈子は、あれ…と思った。予想外の答えだった。それでは計算が合わない。
 この都市は、トリニア王国と後ストレイン帝国の、いわゆる終末戦争で破壊されたものだと思っていた。
 しかし、両国の戦争が始まったのは四百八十年頃だ。
「そんな時代に大きな戦争があったの? トリニアの最盛期じゃない」
 まだ、後ストレインがトリニアに対抗するほどの力を持たなかった時代。
 トリニアに敵らしい敵は存在しなかったはず。
「…戦争というか…、内乱…かな」
 ファージが言いにくそうに答える。
「内乱?」
 四百三十年頃に?
 そんな出来事があっただろうか…と考える。
 奈子もトリニアの歴史書は何冊か読んでいるが、どうも記憶にない。
 もっとも、奈子の読書は大半が斜め読みだから、見落としていても不思議ではないのだが。
「それにしても、千年以上前に廃墟になったにしては、ずいぶんきれいに残ってるね」
 奈子は足の下の地面を蹴った。
「もっと、土砂に埋まってるかと思ったけど」
「ここは、何度も発掘の手が入っているから」
 ファージが言うには、この街は過去何度となく発掘が行われているのだという。
 その結果、街全体がきれいに掘り出されているのだ、と。
「だから、いまさら新しい発見があるとも思えないんだけどね。連中、いったいここでなにを発掘してたんだ…?」
 腕を組んで、片手を顎の下に当てる。
「ずいぶん大々的な発掘を行っていたらしいし…。トカイ・ラーナ教会が、いまさら些細な遺物に興味を持つとも思えないけどな…」
 王国時代の失われた知識を求めるのはどこの国も同じだが、なかでもアルトゥル王国、ハレイトン王国、そしてトカイ・ラーナ教会がもっとも遺跡の発掘に力を入れているという。
 現在の大陸における三大勢力だ。
 いずれも、大陸の覇権を狙っていることに変わりはない。
「こいつらはね、王国時代の力、知識について既にかなりのことを知ってるんだ。墓守だって万能じゃない。私たちが封印しきれなかったものも少なくないからね」
「ファージ…」
 奈子は驚いてファージを見た。
 いまはっきりと『墓守』について認めた発言だった。
「…フェイリア・ルゥから聞いたんでしょ? 王国時代の知識を封印する『墓守』のこと。おおよそのところは、彼女の言ってたとおりだと思う」
「…でも…でも…、ファージも王国時代の知識を求めていたじゃない。初めて会ったときに、次元転移の魔法とか研究していたでしょ? 封印する立場のファージが、どうして?」
 それは、彼女の立場と矛盾するのではないか。
 奈子の疑問に、ファージは淡々とした口調で答えた。
「個人的興味。墓守である以上、私の力はひどく制限されているからね。もっと強い力がほしいって思うのは、当然でしょ」
「だって、墓守はその目的にしか力を用いちゃいけないんでしょう?」
 自分の興味などで、失われた知識を求めていいはずがない。
「私が、好きで墓守なんてやっていると思う?」
 ファージは皮肉な笑みを浮かべて、奈子の顔を見た。
 光を放っているのでは、と思うほど鮮やかな金色の瞳が、奈子を見つめていた。
「じゃあ…」
 奈子は混乱していた。
 好きでやっているわけではない。
 では、ファージは無理矢理その役目を負わされているというのだろうか。
 だとしたらいったい、誰の命令で?
 誰が、ファージにそれを強制することができるというのだろう。
「ファージ…」
 ファージは黙って、奈子を見つめている。
 なにか、思い詰めた表情に見えなくもない。
「…あのね、ナコ」
 ファージが口を開きかけたとき、急に陽が陰ったように感じて、奈子は空を見上げた。
 だが、空には雲ひとつない。快晴だ。
「なに? いまの…」
 確かに、なにかを感じたのだが。
 なにかの、力が働いた。
「…そういうこと。やってくれるじゃない」
 ファージはつぶやくと、唇をぺろりと舐めた。
「なに?」
「こういうこと」
 突然、目の前で光がはじけた。
 奈子は反射的に手で顔を覆う。
 続けざまに二度、三度。
 周囲の空気がびりびりと震えている。
 魔法による攻撃だった。
 何者かが、奈子たちを狙撃している。
 それでも、身体にはなんの怪我もなかった。
 ファージの防御結界が、ふたりを完全に護っていた。
 ファージは悠然と周囲を見回す。
 魔法の矢は四方八方から降りそそいでいる。
 敵はひとりやふたりではない。
「やれやれ、こういうことか」
 ファージは肩をすくめた。
 奈子もおそるおそる顔を上げる。
 ファージが防御に徹している限り、その結界を破れる者がいるとは思えない。とはいえ、矢というよりは槍といった方がいいような魔法の光が、絶え間なく自分に向かって飛んでくる光景というのはどうも心臓によくなかった。
「…大丈夫?」
 思わず声が不安げになる。
「大丈夫だよ。逃げられないけどね」
「え?」
「先刻感じたのは、転移封じの結界だよ。逃げ道をふさいで包囲して、なぶり殺しにするつもりらしい」
 あっさりとした口調で、物騒なことを言う。
「…じゃあ、まさか…」
「囮だったんだ。連中の狙いは、私を始末することさ。最近、立て続けに発掘の邪魔をしてやったから腹に据えかねたらしいね。墓守を誘い出すためのガセネタだよ」
 奈子たちは、爆心地…クレーターの底の部分にいた。
 その周囲が、ぐるりと取り囲まれている。
 魔術師だけではない。剣を持った兵士たちが隊列を整えていた。
 魔法で防御結界を破れないようなら、直接攻撃しようという考えらしい。
「二百…ってとこか」
 周囲を取り囲んだ兵士たちを見て、値踏みするように言う。
「結界を破ってる時間はないだろうな…」
「…どうするの?」
「ナコはひとりで逃げて。この程度の結界じゃ、ナコの転移は妨害されないから」
 通常の空間転移と奈子の次元転移、基本的な原理は一緒だが、多少性質が違う。
 一般的な転移封じの結界では、奈子の転移は影響を受けない。
「でも、ファージひとり残して逃げるなんて…」
「私は、平気だから。ただ、ナコには見られたくない」
 ファージが、腰につけたポーチからなにかを取り出す。
 それを見た奈子は、ファージの「見られたくない」ものがなんであるか理解した。
「…戦うつもりなの?」
「戦いにもならない」
 ファージは手に持っていた数十枚のカードをばっと放り投げた。
 魔法のカードはふたりの周囲にバラバラと散らばる。
「ナコ、帰った方がいいよ」
 油断なく周囲に注意を払いながら、ファージはもう一度言った。
 魔法攻撃ではらちがあかないと思ったのか、敵が包囲の輪を狭めてきていた。
「ファージ…」
「ナコには、嫌われたくない」
「…」
「早く、時間がない」
 一番近い敵までの距離は、もう五十メートルもない。
 しかし奈子は、ゆっくりと首を振った。
「アタシ、帰らない」
「ナコ!」
 ファージが顔色を変える。
「アタシ、ファージのこと好きだから、ファージのすることから、目を背けちゃいけないと思う」
「…きっと後悔するよ?」
 まっすぐに奈子の顔を見て、決心を変えるつもりがないとわかると、ファージは小さくため息をついた。
 もう間に合わない。
 ファージが無理矢理奈子を転移させようと思っても、防御結界を張りながら同時に転移魔法を用いるほどの余力はない。
「どうなっても、知らないからね!」
 投げやりに叫ぶのと同時に、ファージの足元に散らばったカードが一瞬の閃光と共に消滅した。
 代わって敵兵の頭上に、直径一メートルほどの青白い光を放つ球体が、数十個出現する。
 魔法に関しては素人同然の奈子でもはっきりとわかる、桁違いに大きな力の流れだった。
「ファージ、これは…!」
 奈子が声を上げた瞬間、その光球から、青い光線が地上に向けて次々と放たれた。
 あたり一面、青白い光に包まれる。
 悲鳴も上がらなかった。
 奈子は以前にも見たことがある。
 この魔法…王国時代、竜を倒すために用いられたという魔法。
 あの光は、直撃すれば竜の身体ですら貫くという。
 並の人間の防御結界など役に立たない。
 直撃された人間の身体は、炭も残さずに消滅する。そして、残った周囲の組織が燃え上がるのだ。
 その惨劇は、そう長くは続かなかった。
 数十条の光線が放たれ、すべての光球が消滅するまでに要したのは、ほんの数秒というところだろう。
 あとには…
 ずたずたになった死体と、くすぶって煙を上げている黒いかたまり。
 それが、地面のあちこちに散らばっていた。
 生存者の気配はない。
 いつの間にか、ふたりを封じ込めていた転移封じの結界もなくなっていた。
 ファージの言った通りだった。
 確かにこれは、戦いと呼べるようなものではない。
 見られたくない、と言っていたのがわかる気がする。
 ファージの力は圧倒的だった。
 奈子はちらりとファージの顔を見る。
 彼女は、満足げな笑みを浮かべていた。
 瞳が、爛々と輝いている。
 まるで、楽しんで人を殺しているような表情。
 流れる血に興奮しているかのように、自分が作りだした死体を見つめていた。
 奈子には、とても直視できなかった。
 吐き気がこみ上げてくる。
 あわてて口を押さえた。
 口の中に、酸っぱ苦い味が広がる
 奈子はしゃがみ込んだ。
 無惨な死体、ということであれば以前にも目にしている。
 聖跡の中で、クレインに殺されたアルトゥル王国の兵士たち。
 同じく聖跡の中で見た、王国時代の戦争の幻影。
 それに、ダルジィがとどめを刺したサラート王国の将軍。
 だからといって、慣れるものでもない。
 気を失いそうになる。
 悲鳴を上げたくなる。
「…だから、見られたくないって言ったのに」
 うずくまって嘔吐する奈子を見て、ファージはぽつりと言った。
 確かにその通りだ。
 普通なら、他人に見せられるものではない。
 こうまでしなくても、これだけ力の差があれば、もっときれいな戦いだってできるだろうに…一瞬そう思った奈子だったが、すぐに考えを改める。
 奈子にも、責任はあるのだ。
 ファージが反撃に転じるとしたら、それまでのような強固な防御結界は張っていられない。
 奈子の安全を守るためには、一瞬で敵を殲滅しなければならなかったのだ。
「奈子には見せたくなかった。…でも、これが私なんだ」
「ファージのこと…嫌いに…なったり…しない…」
 苦しそうに息をしながら、奈子は言った。
 それは本心だった。
 ファージにはもともと、戦うこと、敵を殺すことを楽しむようなところがある。
 ときとしてひどく残酷な。
 そんなファージの性格は、以前から気づいていたことだった。
 それに、ファージにとって彼らは明確な敵である。
 奈子の世界、平和な日本とは違う。
 ここは、こういう世界なのだ。
 頭では理解できる。
 だから、この光景を見せられたからっていまさら嫌いになったりはしない。
 とはいえ、死体の山をまともに見せられては、身体が勝手に反応してしまう。
「…ただ…これは…ちょっと…」
 条件反射的にこみ上げてくる吐き気までは抑えられない。
「じゃあ、これは始末しようか」
 嘔吐を続ける奈子を見かねて、ファージが言った。
 呪文を唱えかけて…
 最初の一声を発した瞬間、言葉がとぎれる。
 一瞬前まで、なんの気配も感じなかった。
 その瞬間だけ感じた、強い力の気配。それはすぐに消えた。
 そして…
 赤い魔法の光が、ファージの胸を貫いていた。
「…まだ、いたのか…」
 ファージの顔から一瞬、表情が消える。
「ファージ!」
 奈子は立ち上がった。
 光はすぐに消え、ファージのちょうど心臓の位置から、赤い染みが広がっていく。
 信じられない速さで。
「ファージ!」
 傾きかけたファージの身体を支える。
 しかし驚いたことに、
「大丈夫」
 ファージはにっこりと笑って言った。
 決して強がっている様子ではない。
 口の端から血が流れているというのに。
「こんなことじゃ死なないから」
 ファージの身体から、一瞬だけ力が抜ける。
 奈子の腕に体重を預けて。
 同時に、強い魔力の動きを感じた。
 それは、ファージの中からというよりも、どこか外部からの力の流れ。
 そして、ファージは顔を上げた。
 自力でしっかりと立ち、手で胸の血を拭う。
 破れた服の下から覗く肌には、傷ひとつ見えなかった。
「ね?」
 驚愕のあまり、奈子はしばらく声も出せなかった。
 陸に上がった鯉のように、ぱくぱくと口だけを動かす。
「ね、って…。こんなことじゃ死なないって…、普通、死ぬよ?」
 自分の目で見ていても、奈子には信じられなかった。
 確かに見たのだ。
 誰が放ったものかはわからないが、相当に強力な魔法が、ファージの心臓を貫いていた。
 なのに…
「この程度の魔法をいくら食らったところで、私は死なないんだ」
 ファージは平然と言った。
「そんな…」
 そのとき、はっと思い出した。
 以前にも、こんなことがあった。
 一年前にも。
「…じゃあ…じゃあ、前に、エイクサムたちに殺されそうになったときも…実は…?」
 ばつの悪そうな表情で、ファージは奈子の問いを肯定した。
「…死んだふり、してた。ま、あのときはもっと強力な魔法だったから、いまほど簡単じゃなかったけどね」
「ファージ!」
 奈子は思わず怒鳴り声を上げる。
「あの頃のナコがこんな光景見たら、もっと驚いてたでしょ。それに私のことを詳しく説明するわけにもいかなかったし」
 気まずい表情で弁解するファージを、混乱した思いで見つめていた。
「いまのナコは…なんて言うのかな、あの頃よりもずっと、この世界に深く関わってる。だから…、私のことも少しだけ話してあげようかなって」
 その通りだった。
 もっともっと知らなければならないことがある。
 そう、感じた。
 訊きたいことは、たくさんあるように思える。
 だけど、なにから訊けばいいのだろう。
 とりあえず…
「たとえ王国時代の竜騎士だって、心臓を刺されたら死ぬもんだと思ってたけど」
 ファージの、血塗れの左胸を指差す。
「普通は、ね」
 ファージは悪戯っぽく笑った。
 しかし奈子は、その言葉にどこか悲しげな感情を感じ取っていた。
『この程度の魔法をいくら食らったところで、私は死なないんだ』
 そんなファージの言葉が、なぜか「私は死ねないんだ」と言ったように聞こえていた。



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