「なんで、あんたがここにいるのよ? それに…ここ、どこ?」
一度家に帰った奈子が、数日後、再びこちらに転移したとき。
奈子はすぐに、久しぶりに転移に失敗したことを悟った。
着地に失敗して転び、小さな悲鳴を上げる。
転移が終わる瞬間、なにか突風にでも巻き込まれたような感じだったが。
そこは、見慣れたソレアの屋敷の地下室ではなく、屋外だった。
周囲を森に囲まれた草原の中の、古い廃墟。
王国時代の小さな神殿跡のようだった。
そして目の前には、よく見知った男が座っていた。
それで、冒頭の台詞になるわけである。
条件反射で、いつものように蹴りを入れてやろうと思ったが、ぎりぎりのところで思いとどまった。
奈子が手を下すまでもなく、目の前の男はすでにかなりひどい手傷を負っている様子だったのだ。
エイシス・コット・シルカーニ。それがこの男の名前だった。
神話に出てくる、剣の神にちなんだ名。
それに相応しく、職業は傭兵。百八十センチを優に超える大きな体躯と、鮮やかな赤い髪が特徴だ。
奈子としては、あまり会いたくない相手である。
なのに、何度も会ってしまう。
「なにやってんのよ、エイシス?」
顔を見るだけでも不愉快になるのだが、それでも一応は訊いてみる。
とどめを刺すのはいつでもできるだろうから、と。
意外な相手の出現にエイシスも驚いていたようだったが、
「よぉ、久しぶりだな、ナコ」
癇に障るにやにや笑いを浮かべて言った。
これもいつもの台詞だ。
いつもと違うのは、奈子が必殺のハイキックをお見舞いする以前から、額から血を流しているということだ。
額だけではない。よく見ると全身傷だらけだ。
服が血で汚れている。
剣の傷、そして魔法による傷。
傭兵という職業柄、怪我をするのは珍しいことでもないのかもしれないが、少なくとも腕だけは一流のこの男が、これだけの深手を負っているというのも不可解だった。
「とりあえず…」
奈子は腰から短剣を抜いて言った。
「楽にしてあげようか?」
「冗談言ってる場合か!」
少し怒ったように言って、エイシスは立ち上がる。奈子は半ば本気だったのだが。
「逃げるぞ」
言うなり、奈子の手をつかんで走り出した。
「え? ち、ちょっと!」
奈子にはまるで状況が理解できない。
「いったい、なにがどうなってるの?」
「あとで話す。いまはとにかく走れ! 死にたくなければな」
森の中を走るふたりの背後から、魔法の炎が飛んできて、すぐ横をかすめていった。
「…で、いったいあんた、何やったわけ?」
疲れきった表情で、奈子は訊いた。
すでに陽は沈んで、周囲は暗やみに包まれつつあった。
追っ手の目に付くからと、焚き火もできない。
奈子は、持っていたカロリーメイトで飢えをしのいでいた。
あのあと三度も、エイシスを追っている兵士たちとの戦いに巻き込まれてしまった。
ずきずきと傷が痛む。
なんとか切り抜けはしたが、無傷でというわけにはいかなかった。
もともと負傷していたエイシスはなおさらのこと。
「いったい誰に追われてるのよ。これってただごとじゃないよ?」
むっとした口調で聞きながら、奈子は目の前の男をにらみつけた。
まったく事情も分からずに、有無を言わせず戦いに巻き込まれたのだから、機嫌がいいはずもない。
追っ手は、明らかにどこかの国の正規兵だった。
その数も十や二十ではない。ちょっとした『軍隊』だった。
エイシスは傭兵だから…ひょっとして、戦争に負けて残党狩りに追われてるのだろうか。
そう思って口にしてみる。
だが、エイシスはそれを否定した。
「ある人物を暗殺するように依頼されてな…。…断ったら…依頼主が気を悪くした」
エイシスも相当疲れているのか、それとも傷が痛むのか、口をきくのも辛そうだった。
小さな声でぼそぼそと話す。
「そんなことでふつう命まで狙われる? あんたよっぽど失礼なことでも言ったんじゃない? 人を怒らすのは得意なんだから…」
「…そんなことはないさ。俺から情報が漏れることを気にしてるんだろうな…」
言いながら、エイシスは考えていた。
いったい、どこまでを話すべきだろうか、と。
奈子の性格を考えると、いまは慎重な対応が必要だった。
そこは、それほど大きくはない、しかし賑やかな酒場だった。
ひとりカウンターで酒を飲んでいると、見覚えのない男が隣に腰を下ろした。
「あんた、エイシス・コットだろう。傭兵の」
エイシスはちらりとその男の方を見ただけで、なんの返事もしなかった。
その必要はなかった。
その男の口調は、問いかけではなく確認だったから。
三十代後半くらいの、軍人風の男だった。身分は隠しているようだが、雰囲気からかなり高い地位と推測できる。
「仕事を頼みたい」
よけいな前置きなしに、男は言った。
エイシスはまた男を見て、無言で続きをうながした。
「人をひとり、始末してもらいたいのだが」
エイシスにだけ聞こえるよう、低い声で言った。
「俺に頼むと高くつくぜ?」
かすかに口の端を上げて、エイシスはにやっと笑った。
最初にこう言っておけば、報酬についての交渉がしやすくなる。
これで引き下がるようなしみったれた依頼なら、はじめから引き受ける気もない。
「並の人間には頼めん。難しい相手だ、五千万でどうだ?」
暗殺する相手の名前よりも先に報酬の額を口にするあたり、向こうはエイシスの性格をよくわかっているようだ。
しかしエイシスは、飲みかけの酒をあやうく吹き出すところだった。
内心ひどく動揺しつつも、辛うじてそれを表に出さずに応える。
「…破格じゃね〜か」
冗談を言っているのかと思った。あるいは、酔っぱらいの大ボラか。
そのくらい、常識を無視した額だった。
しかしどう見ても、この男はしらふだ。
男の表情は本気だった。
冗談でも、はったりでもないらしい。
「人ひとりにそれだけの金を出すとは…相手はハレイトンの国王か? それともトカイ・ラーナ教会の教皇とか?」
なにげない冗談のつもりだったが、男が一瞬、ほんのかすかに顔をしかめたことをエイシスは見逃さなかった。
「そんな相手ではない。それならばもっと安く済ませる方法はいくらでもある」
「まあ、そうだろうな。わざわざどこの馬の骨とも知れない傭兵を雇う必要はないか」
本当に五千万出す気があるのなら、並の暗殺者を十人雇ってもたっぷりとお釣りがくる。
単に身分が高いとか、警備が厳重だというだけのことではないのだろう。
もっと特殊な相手なのだ。
そう、例えば…
「ファーリッジ・ルゥ・レイシャ。…知ってるだろう」
その名前に、カップを口に運びかけた手が止まった。
さしものエイシスも、驚きの表情を浮かべて男を見る。
「…たしかに、手強い相手だな。そのくらいはもらわなけりゃ、割は合わんか」
エイシスは止めたカップを口に運んだ。
ほんのかすかに、その手が震えていた。
緊張が高まっている。
ぴんと張りつめた空気がただよっていた。
(これは…)
下手な対応はできないな、と考えた。
いったい誰だろう。
ちょっとした国の国家予算にも匹敵する額を提示してまで、ファーリッジ・ルゥを始末しようとするのは。
彼女に恨みを持つ者、ということであれば候補は数え切れないくらいいる。
だが、報酬の額が候補を絞り込む手掛かりになっていた。
それだけの金を出せる国はそう多くはない。
本当にそれだけの金を払う気があるかどうかは別問題として、その言葉には信憑性がなければならない。
例えばマイカラスのような小国がこの額を提示したところで、本気にする者はいないだろう。
その額を信じてしまうだけの支払い能力がある国、または組織。
そう考えると、対象はおのずと絞られてくる。
ハレイトン王国、アルトゥル王国、トカイ・ラーナ教会…くらいだろうか。最近躍進著しいティルディア王国あたりでも、少々苦しいところだ。
このうち、アルトゥル王国も除外していいように思えた。
エイシスに恨みがあるはずのアルトゥル王国が、こうして彼に依頼をしてくるとも思えない。もちろん、この依頼そのものが罠という可能性も考えられなくはないが。
あるいは、六年前の恨みを忘れるほど、ファーリッジ・ルゥが邪魔になったのか。
「ファーリッジ・ルゥ…か」
エイシスは独り言のようにつぶやいた。
動機については考えるまでもない。
墓守の噂は、裏の社会では有名な話だ。
王国時代の知識、技術の収集に力を入れている大国ほど、墓守には数え切れないほどの恨みがあるだろう。
ファーリッジ・ルゥが命を狙われることなど日常茶飯事のはずだ。
実際、一年ほど前にも一度殺されかけている。
それでも平然と生きていられるのは、墓守だけが持つことのできる強大な魔力のためだ。
大陸の覇権を狙う大国にとって、それだけの力を持つ者が存在することも許せないだろう。
(それにしても、五千万か…)
スポンサーが誰かは知らないが、ついに本気になったということだ。
本気で、墓守を排除しようとしている。
千年もの間、王国時代の大いなる知識を護り続けてきた者たちを。
エイシスにとっても、心動かされる額だった。
魅力的な数字だ。一生、遊んで暮らすことができる。
しかし…
だからといって、簡単に引き受けていいことでもなかった。
一応顔見知りとはいえ、ファーリッジ・ルゥとは昨年のマイカラス王国のクーデターの後で少し言葉を交わした程度に過ぎない。
報酬の額を考えれば、彼女を殺すことなどいまさらなんとも思わない。
十代の頃からずっと、戦うこと、殺すことを生業にしてきたのだ。よほど親しい者でもない限り、顔見知りだからといって別に躊躇する必要もない。
エイシスにとってファーリッジ・ルゥは、友人ではなく単なる知り合いでしかない。
とはいえ…
ふたつ、問題があった。
ひとつ目は…ファーリッジ・ルゥは強すぎる。
直接その力を目にしたことはないが、噂はいやというほど聞いていた。
自分の力には自信がある。一対一で負けることなどまずあり得ないと思っている。
そんなエイシスでも、勝てるかどうかは即答できない相手だった。
(いっそのこと…)
フェイリアに協力を仰ぐという選択肢もあった。
彼女にとっても、墓守の存在は目の上のこぶだ。
そして、墓守と戦えるだけの力を持った、数少ない存在だった。
しかしフェイリアは、金のための殺しには決していい顔をしないだろう。
そういう性格だ。
自分の目的のためなら、人だろうと魔物だろうと、なんのためらいもなしになぶり殺しにできるというのに。
そしてもうひとつは…こっちの方がより大きな問題だった。
(俺がファーリッジ・ルゥの命を狙ったら…あいつは絶対に許さないだろうな…)
心の中でつぶやく。
ナコ・ウェル・マツミヤ。
ファーリッジ・ルゥとは親友である。
エイシスにとって『特にお気に入りの女』の三人のうちのひとりだった。
できれば、恨まれることはしたくない。それでなくても嫌われているというのに。
(いい女…だよな)
しかもリューリィやフェイリアと違い、まだ抱いてもいないのだ。ただし未遂は一度あるが。
(しかし…この俺が、女ひとりのためにこれだけの儲け話をふいにするのか?)
それだけの金があれば、女などこの先いくらでも手に入るというのに。
しかし、金では決して手に入れることのできない女もいる。
そして、エイシスが好きなのはそういった女だった。
不意に、初めて会った頃の奈子を思い出す。
仇を追っていたときの、あの目、あの表情…。
悲しみを隠した、心を持たない野獣の目。
(あの目で追われるのは、ごめんだな…)
結局、それが結論だった。
「悪いが、この依頼は受けられないな…」
そう言うと、男は少しだけ意外そうな表情をした。
「さしものエイシス・コットもファーリッジ・ルゥには勝てないか?」
幾分、挑発するような口調だった。
もちろん、いまさらそんな挑発に乗るようなエイシスではない。
「どうだろう、難しいな」
笑いながら応える。
「…そうか。残念だが、仕方がない」
男は小さく肩をすくめた。
それから、ふと思いついたように訊く。
「ところで…、ファーリッジ・ルゥを殺すのは、不可能だと思うか?」
「いいや」
この質問には、エイシスは即答した。
彼も先刻考えてみた。
正攻法では難しい。
ファーリッジ・ルゥは、魔法も剣の腕も超一流だ。その上、人を殺すことにためらいがない。
まともに闘って勝つことは難しいだろう。
だが…
ひとつだけ、勝算の高い方法があった。
しかしそれは彼にとって、考えるだけでも気分が悪くなるようなものだった。
そんなことを思いついた自分がいやになるくらい。
「手はある…はずだ」
エイシスはそれだけを言った。
予想に反して、男はその方法については訊いてこなかった。
訊いても、エイシスが答えないと思ったのだろうか。
たしかにその通りだったが。
「そうか、それだけ聞ければ充分だ」
そう言って男はかすかに笑う。
なにか納得したような表情。
まさか、エイシスと同じ考えにたどりついたはずはないが。
男は、カウンターに銀貨を置いて立ち上がった。
「手間をとらせて悪かったな。この話は忘れてくれ。ここは私のおごりだ」
「悪いな、役に立てなくて…」
エイシスの額に、一筋の汗がにじんでいた。
店から出ていこうとする男を見送るそぶりで、周囲をさりげなく見回す。
席は八割方うまっていた。
こういった酒場にはありきたりの客層ばかり。
しかし…
エイシスが握りしめていた、銅のカップがぐしゃりとつぶれる。
男の足音が、背後に遠ざかっていく。
店の扉が開く音がして…
その瞬間、エイシスはあらん限りの力で、魔力の源となる精霊を召喚した。
驚いたのは、通りを歩いていた人々だった。
目の前でいきなり、酒場の建物が爆発して燃え上がったのだから。
屋根が吹き飛び、降り注ぐ残骸から人々が逃げまどう。
夜空を朱く照らして燃え上がる建物を見て、たちまち野次馬が集まってきた。
しかしその中に、裏口からそっと抜け出した人影に気づいた者はいないようだった。
「見つかってはいないと思うが…」
エイシスはそうつぶやくと、目立たない路地を選んで逃げ出した。
酒場を吹き飛ばしたのは彼だった。
逃げ出す隙を作るために。
依頼を断った瞬間から、酒場の中には殺気が充満していた。
エイシスの口から、ファーリッジ・ルゥの暗殺計画が漏れることを警戒しているのだろう。
あのとき酒場にいた客も、大半があの男の手下だろうとエイシスは考えていた。
たとえ、そうではない民間人が巻き込まれていたとしても、気にしてはいられない。
一瞬遅ければ、彼の方が襲われていた。
なによりも自分の命の方が大切だった。
混乱が収まる前に、街から逃げ出さなければならない。
そして…一応、ソレアには知らせておいた方がいいだろう。
ファーリッジ・ルゥがどうなろうとエイシスにはどうでもいいことだったが、ソレアや奈子に恩を売っておくのは悪くない。
そんなことを考えながら走っていると、進路上に、ひとりの人影が浮かび上がった。
走る速度を緩め、背負った剣の柄に手をかけてその影に近づく。
「仕事を断った上に、あれだけのことをしておきながら、黙って逃げようなんてよくないなぁ」
それは、若い男の声だった。人をからかうような調子で。
エイシスの顔から、さっと血の気が引いた。
その声には覚えがあった。
「お…」
口を開いた瞬間、暗い路地に一筋の赤い光が走った。
それは防御結界を張る暇も与えずに、エイシスの腹を貫いた。
飛び散った血と肉片が、後ろの塀をべっとりと汚す。
エイシスが膝をついた。
「お前…が?」
「本当は、僕は来ちゃいけないことになってるんだ。他に仕事があるからね。でも、あの無能どもに任せておいては、君を取り逃がすことになる。少しハンデが必要だろう」
相変わらず軽い調子でそう言うと、その人影はかき消すように消えた。
エイシスは腹を押さえたまま、低いうめき声を上げる。
額に脂汗が滲んだ。
「本気も本気…ってワケだ。あいつまで動くとは…」
苦しそうにつぶやき、塀に手をついてよろよろと立ち上がる。
「本気とはいえ…あいつにとっては…半分ゲームのようなものか…」
複数の足音が近づいてくる。いつまでもここにはいられない。
苦しそうに息をすると、エイシスはふらつきながら歩き出した。
翌日――
なんとか街を抜け出しはしたものの、それで追っ手が止むというものでもなかった。
エイシスは街道を避け、反対側の山へ向かった。
街道を通っていては簡単に追いつかれてしまうし、この方が国境に近い。
隣国は、この国とはお世辞にも仲がよくないから、国境を越えて追ってくるとは考えにくい。
傷はかなりの深手だったが、エイシスはそれでもなんとか追っ手を撃退して、山の中へと入った。
見晴らしの利かない森の中なら、少しは逃げやすくなる。
その代わり、傷ついた身体に山道は少々辛い。
追っ手の総数がどれくらいになるのか、考えたくもなかった。
少人数のグループに分かれて捜索しているらしい。
おかげで気の休まる暇がない。
追っ手の大半は並の兵士だから、見つかったときは傷ついた身体でもなんとか戦える。
しかし、無傷でというわけにもいかなかった。
時がたつにつれて傷は増え、その分、歩みは遅くなる。
頭の中で、追っ手に見つかる頻度と、山を越えて隣国に逃げ込むまでの時間を計算してみた。
「…死ぬな」
そういう結果になった。
ただこのまま逃げるだけでは望みは薄い。
なんとか、一気に追っ手を減らすか、あるいは時間稼ぎをする必要があった。
昨夜は一晩中逃げ回り、もう体力も限界だ。
受けた傷も、ちゃんとした治療が必要だった。
まだ陽は高いが、この分では夜まで持つかどうか難しい。
暗闇に紛れれば、まだ多少は逃げやすくもなるのだが。
なのに…
歩いているうちに急に樹がまばらになったかと思うと、エイシスの前には草原が広がっていた。
「やれやれ…」
絶望的な声でつぶやいた。これでは身の隠しようもない。
いったん引き返そうとしたが、背後からの追っ手の気配に気付いて思いとどまった。
もう間に合わない。背後だけではなく、左右にも気配が近づきつつあった。
進むしか選択肢はない。
普段は背負っている剣を杖代わりにしながら、残った体力を振り絞って走った。
草原の中ほどまで進んだところで、ふと、足下の固い感触に気づく。
土ではない。生い茂った草の下に隠れるように、ひび割れた平らな石が見えた。
明らかに人工物だ。しかもこの形は…
「…アリトレス派の…神殿跡?」
エイシスはつぶやいた。
アリトレス派は王国時代の初期、この地方で信仰されていたファレイア系の宗派のひとつだ。その信者は人里離れた山中の神殿で、俗世と切り離された生活を送っていたという。
「ふうむ…」
エイシスは立ち止まった。
その口元に、かすかな笑みが浮かんでいる。
ようやく、運が向いてきたようだ。
背後を振り返る。
追っ手は、ちょうど森から姿を現したところだ。数十人はいるだろう。
ここでは身の隠しようがないのを知って、一気に片を付けるつもりなのだろう。
(こいつらを始末すれば、少しは楽になるな…)
エイシスは剣を抜くと、割れた石の隙間に突き立てた。
両手の指を組み合わせ、大きく息を吸い込む。
「天と地の狭間にあるもの、力を司る者たちよ…。我の呼びかけに応えよ――」
彼の魔力の源となる、精霊召喚の呪文を唱えはじめた。
その口元がゆるむ。
思った通りだった。いつもよりずっと、精霊の反応がいい。
傷ついた身体によけいな負担をかけることなく、力を行使できる。
自然を崇拝するアリトレス派の神殿は、こういった場所に建てられているのだ。
その上、神殿そのものも魔法陣代わりに作用する。
力尽きかけているエイシスが、目の前に迫った数十人の敵を始末できるとしたら、ここしかない。
「我は命ずる。
力ある言葉に従い、
汝らの力を解き放ち
数多の世界より、我の元へ届けんことを――」
一瞬、草原全体が燃え上がったかのように見えた。
金属も熔かすほどの高温に包まれる。
草原の草や灌木は、炎を上げる間もなく炭となって消えた。
そして、彼に迫っていた追っ手たちも。
草原を包んだ熱波はすぐに消え去った。いまのエイシスの体調では、長時間魔力を集中させ続けることは難しい。
身体から力が抜けて、その場に座り込んだ。
これで、いくらか時間は稼げるはずだ。
追っ手が全滅したわけではないだろうが、数はかなり減らした。
残りが追いついてくるまで、一息つける。
そう思ったのだが、次の瞬間、エイシスの顔からさっと血の気が引いた。
転移魔法の気配。
誰かが、ここに転移してこようとしている。
「まさか――」
頭に浮かんだのは、昨夜のあの男だった。
未だふさがっていない、この腹の傷を付けた男。
いまあの男に来られては、逃げようはない。
体調が万全のときでさえ、勝てるかどうか怪しい相手なのに。
だが、目の前に出現し、バランスを崩して転んだ相手はあまりにも予想外だった。
しばし、言葉を失う。
「…なんで、あんたがここにいるのよっ?」
その人物は尻餅をついたまま、何度も聞いた台詞を口にした。
今回ばかりは、エイシスの方がそれを訊きたかったが。
「ここ、どこ?」
きょろきょろと周りを見回している彼女の様子に、思わず笑い出しそうになった。
(ああ、そうか…)
彼女の転移はひどく不自然で、しかもミスが多い。
それは知っていたことだ。
フェイリアも同じことを言っていた。
そもそも転移魔法は、ひどくデリケートなものだ。
本人がきちんと目的地をイメージし、精神集中していなければまったく話にならないし、たとえ術者に不手際がなくても、近くにある強力な魔法源の干渉で、意図したのとは違う場所に出現することも少なくなかった。
今回は、神殿の魔力と彼が使った魔法の余波を受けて、転移に失敗したのだろう。
吹き出しそうになるのをこらえて、エイシスは言った。
「よぉ、久しぶりだな、ナコ」
(さて…どうしたものかな…)
エイシスは考えていた。
ファーリッジ・ルゥが狙われているという事実を、奈子に話すべきかどうか。
おそらく、話さない方がいいだろう。
彼女の性格を考えれば、この話を聞いて冷静でいられるわけがない。
たぶん、知らない方が幸せなのだ。
ソレアには話すつもりでいた。一応、警告はしてやった方がいい。
もし必要ならば、彼女から奈子に話すだろう
「…ちょっと、なんとか言ったらどう?」
奈子は、見るからに不機嫌そうだった。
無理もない。
彼女にしてみれば、自分はなにもしていないのに、いきなりこんなトラブルに巻き込まれ、おまけに傷まで負っているのだ。
「悪かったな、巻きこんじまって」
「悪いわよ! まったく…」
追われているのはエイシスひとりなのだから、だったら彼を置いてひとりで逃げればよさそうなものなのに。そうしないところがなんだか可笑しい。
まあ、そんなところが彼女らしいといえなくもない。
しかし、そんな性格だからこそ、彼が追われている本当の理由を話さない方がいいように思われるのだ。
「まったく…」
またなにか文句を言いかけた奈子の顔が、不意に強張る。
エイシスも小さく舌打ちをした。
「ゆっくり休ませてもくれないのか…」
追っ手の気配が迫っていた。
ふたりは立ち上がって走り出す。
少し行ったところで、四〜五人の人影が前に立ちふさがった。
奈子は走る速度をゆるめずにそのまま飛び込んで、先頭の男の顎に掌底を打ち込んだ。
全力で走っていた運動エネルギーをまともに受けて、男の身体は大きく飛ばされる。
一瞬も止まることなく奈子は身体を回転させ、二人目の男に裏拳を叩き込んだ。男は踏まれたカエルのような奇妙な声を上げて倒れる。
そのすぐ後ろにいた男の剣を身を屈めてかわすと、そのままスライディングでもするような態勢で男の膝を蹴った。相手が倒れたところで、全体重を乗せた肘を鳩尾に落とす。
こうして奈子が三人を倒す間に、エイシスの剣が残り二人を屠っていた。
いまは、できるだけ魔法を使わない方がいい。
魔力の動きは、遠くからでも感知される。
暗闇で火を焚くようなもので、こちらの位置を知らせることになってしまう。
「さ、行こう」
立ち上がって息を整えた奈子が言う。
ふたりは歩き出した。
ポツリと、顔に冷たいものが当たった。
奈子は空を見上げる。
宵のうちは見えていた星や月が、いまはひとつもない。
見上げた顔に、また水滴が当たった。
「最悪…」
だんだん激しくなる雨の中を、ふたりはずぶ濡れで歩いていった。
ふたりは、無言で座っていた。
屋根を打つ雨音だけが響いている。
雨の中、山中をさまよっていて、偶然廃村を見つけた。
そのうちの、比較的損傷の少ない建物の中だ。
とりあえず雨だけはしのぐことができる。
乾いた服に着替えはしたが、気温はひどく低い。
既に、夜は明けていた。
結局、昨夜は一睡もしていない。
ここにたどり着くまでに、さらに二度の戦闘をくぐり抜けた。
少しでも気を緩めたら意識を失いそうなくらい、疲れ切っていた。
そして、かなり血も流した。
雨に濡れたせいか、熱もあるような気がする。
奈子は自分の身体をぎゅっと抱きしめた。
こんなにも寒いのは熱のためだろうか。それとも、血が足りていないためか。
全身に鳥肌が立っている。ひどくだるい。
ちらっとエイシスを見た。
血の気のない顔で、剣を抱くようにして座っている。
なにも言わないが、かなり具合は悪そうだった。座っている床の周りに、血の染みができている。
そもそも、奈子と会う前からかなりの傷を負っていたのだ。
「…エイシス」
ささやくような声で、奈子は言った。
追っ手に見つかることを気にしたためだけではない。もう大きな声を出す元気もなかった。
「…いったい、どうしてこんなことになったの? ちゃんと説明してよ」
ただ、暗殺の依頼を断っただけにしてはいくらなんでも不自然だ。なにかを隠していることはわかっている。
エイシスがなにもこたえないので、眠ってしまったのかと思った。
「エイシス!」
もう少し大きな声で呼ぶ。
エイシスはゆっくりと目を開けた。
「…ナコ、お前…転移魔法が使えるんだろ?」
辛うじて聞き取れるくらいの声で言う。
「使えるって言うか…まあ…、でも、あんたと一緒には無理だよ」
奈子の転移は、あくまでもこの世界と自分の世界を行き来するためのもの。それも奈子自身の力ではなく、ファージが作ってくれた魔法のカードの助けを借りて行っているのだ。
その魔法もまだ未完成で、こちらの人間を奈子の世界へ転移させることもできないのだが、もちろん、エイシスはそんな事情を知らない。
「…だったら、お前ひとりで逃げろ。とにかく国境を越えれば、なんとかなる…から」
「なに言ってンのよ。その前に、ちゃんと事情を説明しなさいよ」
しばらく無言で奈子の顔を見ていたエイシスは、かすかに唇の端を上げて言った。
「…聞いたら…逃げられなくなる」
その言葉に、奈子は首をかしげる。それはいったいどういう意味だろう。
答えはひとつしかなかった。
「…アタシにも、関わりがあることなんだ?」
それしか考えられなかった。
それでいて…いや、それだからこそ、エイシスはなにも知らせずに奈子を逃がそうとしているのだ、と。
エイシスはなにも答えなかった。
「エイシス?」
もう一度呼ぶ。
しかし彼は黙って目を閉じている。
「…エイシス?」
様子がおかしい、と気づいて傍に寄る。
ひどく顔色が悪い。額に手を当てると、すごい熱だった。
ふと、エイシスの身体に目をやる。
先刻着替えたばかりなのに、かなり大きな血の染みが広がっていた。
「エイシス! ちょっと、大丈夫?」
その身体を揺り動かすと、ようやくわずかに目を開けた。
「…まあ…なんとかな。大丈夫だから…お前はひとりで逃げろ」
「なに言ってンの! こんな…」
そこまで言って、奈子はふと立ち上がった。
じっと壁を見つめて、神経を研ぎ澄まして耳に意識を集中する。
外で、追っ手の気配がする。
ついにここまで追いつかれたのだ。このままでは、見つかるのも時間の問題だろう。
足元に座っているエイシスを見た。
半ば意識を失っている。
この身体では、もう戦えまい。
奈子自身の体力も、もう長くは保たない。
既に限界に近いのだ。
奈子は考える。
なんとか、この場を逃れる術はないだろうか。
彼女ひとりで相手にできる数は限られている。
エイシスやフェイリア、あるいはファージのように強力な魔法が使えればいいのだが、魔法に関してはまだまだ未熟な奈子では、同時に二、三人を攻撃するのが精一杯だ。
本気で、転移で逃げることも考えた。
しかし、奈子の転移は日に一回と制限されている。
ただでさえ不安定な魔法、そう続けて使うことはできない。次元の狭間で迷子になる危険は冒せなかった。
そのため、奈子ひとりが転移で脱出したとして、そのあともう一度こちらに転移し、ソレアやファージを連れてここに戻れるのは早くても明日になってしまう。
それでは間に合わない。
だとしたら、あと残された選択肢は…。
奈子はぎゅっと拳を握って、もう一度エイシスを見た。
気に入らない男だ。
スケベで軽薄なところが嫌いだ。
だけど…
こんなところで、死んでいいはずがない。
唇を噛む。
もう逃げられない。
ならば、追っ手を倒すしかない。
まだ数十人はいるであろう敵を、いまの奈子の力で倒す方法は…。
ひとつだけ、あった。
だからこそ悩むのだ。
それは、奈子にあまりにも厳しい決断を迫るものだった。
しかし、他に方法はなかった。
「エクシ・アフィ・ネ…」
小さな声でつぶやく。
手の中に、一振りの剣が現れた。
その柄の感触に、背筋にぞくっと冷たいものが走る。
飾り気のない、シンプルな剣。
普通でないのは、その刃。
透けて見えるほどに薄く、それでいて決して曲がらず、折れず。
たとえ鋼鉄を切り裂いても、刃こぼれひとつしない。
王国時代の偉大な魔法技術の結晶。
無銘の剣。竜騎士レイナ・ディ・デューンの剣。
恐ろしいまでの魔力を秘めたこの剣だけが、奈子に残された選択肢だった。
これなら、たとえ数十人の敵がいても戦える。
ただし…
それは、相手を殺すことを意味していた。
無銘の剣の力は強大すぎて、とても手加減などできない。
軽く傷を負わせるだけのつもりでいても、普通の人間には致命傷となってしまう。これは、竜を倒すことのできる剣なのだ。
ふたりが生き延びるためには、数十人を殺さなければならない…。
鳥肌が立った。
恐ろしい考えだった。
そうまでして、生き延びなければならないのだろうか。
奈子ひとりなら、転移で脱出できる。
しかし、エイシスは…。
もしかしたら、それはとんでもない考えなのかもしれない。
だけど…
見知らぬ数十人と、エイシスの命。
(…、アタシは…)
奈子は、後者を選んだ。
そうするしかなかった。
(こんなヤツでも、死ねばフェイリアやリューリィ・リンが悲しむもんね…)
それが言い訳だった。そうやって、自分を納得させる。
剣を握りしめて、もう一度外の気配を探った。
少しずつ近づいてくる。
廃屋を一軒ずつ調べているのだろう。
奈子は、扉に手をかけた。
「お前…なにをしようとしている?」
意識を失っていると思ったエイシスが、不意に目を開けた。
「なんでもないよ」
「…無銘の剣を持って、なんでもない…か?」
奈子の考えなど、すべて見透かされていた。
エイシスは、ひとりで逃げろと言った
「人殺しなんて、できないくせに…」
「できるよ」
そう応えた声は、ほんの少し震えていた。
「何十人だって、殺してやる! あ、あんたが死ぬくらいなら…」
そう言うのと同時に、涙が頬をつたった。
エイシスはほんの少し驚いたような表情を見せ、そして小さく笑った。
「…な、なによ、勘違いしないでよね! あんたなんか大嫌いなんだから! ただ、フェイリアに悪いし…」
声がだんだん小さくなる。
「…これまで何度も、助けてもらった」
「…お前の気持ちはありがたいけどね」
エイシスは笑って言う。
「…無理すんなよ。感謝の気持ちなら、そんなことよりも一晩俺の言うことを聞けって」
「あ、あんたってばこんなときまで…! なによ、そんなことしか頭にないの?」
奈子は真っ赤な顔で怒鳴った。
冗談なら、もっと時と場所を選ぶべきだろう。
「第一、ここを生き延びないとそれどころじゃないでしょ!」
「…死にやしないさ。お前が約束してくれるなら」
エイシスは言った。口元には笑みを浮かべているが、いつものような人を小馬鹿にした感じではない。
妙に、真剣な口調だった。
「…なあ、ここを切り抜けられたら、抱かせてくれるか?」
奈子は一瞬言葉を失う。
あまりにも、ストレート過ぎる物言いだった。
「……、…いいよ」
なぜそう答えてしまったのか、自分でもわからない。
気がついたときには、口から言葉が出ていた。
だけど、訂正しようとは思わなかった。
「…だったら…俺がやる」
「そんな身体で…」
どうしようというの? そう言おうとした奈子をさえぎって、
「少しだけ手伝ってくれ」
エイシスは、数本の短剣を取り出した。
きれいな銀色に光る、小ぶりの短剣だった。
短剣を奈子に差し出しながら、壁の隙間からちらりと外を見る。
いつの間にか雨はほとんど止んでいて、深い霧に包まれていた。
「霧に紛れてこの短剣を…この建物を中心にして、東西南北それぞれの村の端の地面に一振りずつ、突き刺してくれ。それができたら合図するんだ」
「…短剣?」
「手抜きではあるけど、魔法陣代わりになる。いまの俺でも、残った連中を吹っ飛ばすくらいはできるさ。そのあと、国境までは肩を貸してもらう必要がありそうだが…」
「アタシが闘った方が早い」
「お前が、正気を保ったまま何十人殺せるとは思えんね」
エイシスの言葉は、鋭いところをついていた。
奈子が自らの手で殺した人間はひとりだけ。
そしてそのことは、今なお奈子の心に深い傷を残していた。
「こんなつまらん血で、お前の手を汚すな」
「…あんたはさんざん殺しまくってるくせに」
「だからこそ…さ。な、頼むよ」
奈子はエイシスをじっと見て、短剣を受け取った。
近くに敵の気配がないのを確認して、そっと外に出る。
外は深い霧に包まれていて、五十メートルも離れるとなにも見えない。
空気が、とても冷たかった。
霧に紛れ、足音を殺して奈子は村はずれを目指した。
幸い、敵はいま反対方向にいるらしい。
一本目の短剣を濡れた地面に深く刺し、それから村をぐるっと一周するように進んだ。
途中で一本ずつ、短剣を刺していく。
敵の注意は建物の方に向いているようで、奈子は気付かれない。
最後の一本が奈子の手から離れたとき、甲高い笛の音が響いた。
合図の呼子だ。見つかったのは奈子だろうか、それともエイシスか。
奈子はすかさず、炎の魔法を放った。
狙い違わず、エイシスが隠れている家の壁に当たる。
その瞬間、突風が吹いたように感じた。
本物の風ではない。
エイシスが召喚した精霊が、ものすごい勢いで集まっているのだ。
地面に刺した短剣を結ぶように、光の輪が描かれる。
奈子はその範囲からあわてて飛び出した。
凄まじい魔力の奔流だった。
一瞬後、村全体が光に包まれる。
今度こそ本物の爆風に、奈子は地面に転がった。
熱が、奈子の髪を焦がす。
やがて消えた光は、すべてを焼き尽くしていた。
周囲の霧もすっかり蒸発し、青空が見えている。
村の廃屋は燃え上がり、ふたりが隠れていたあの家だけがわずかに原型を留めていた。
敵兵の姿は残っていない。
奈子はあわてて、その家に駆け寄った。
「…エイシス、生きてる?」
倒れている男に声をかける。
「ああ…」
倒れたまま、男はかすかに笑った。
「…手を貸してくれよ」
奈子はエイシスを助け起こし、肩を貸してゆっくりと歩き出した。
国境までは、もういくらもなかった。
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