四章 ふたりの夜


 奈子は、自分の家で風呂に入っていた。
 熱い湯で満たした湯船に鼻まで浸かり、ぷくぷくと泡を吐き出す。
 奈子の家の風呂は、比較的広い。
 手足を伸ばせるサイズの湯船は、奈子のお気に入りだった。
 もっとも、両親は仕事の都合でほとんど東京のマンション住まいだから、たまの休みで帰ってきたときくらいしか利用する機会がない。
 ほとんど、奈子専用の風呂だった。
 いや、正確に言えば、たまに由維とふたりで入ることもある。
 顔の半分まで湯船に沈めたまま、奈子は自分の身体を見おろした。
 相変わらず、生傷の絶えない身体。
 また、新しい傷も増えた。
 そして…
 歳の割には豊かな胸の上に、傷とは別に、赤いあざがいくつかあった。
 奈子はそっと、両手で胸を包みこんだ。
 適度な弾力が感じられる。
 まだ、あいつの手の感触が残っているような気がした。



 追っ手を振りきって国境を越えてから、二日が過ぎた。
 国境に近い街の宿でゆっくりと休息をとって傷の手当をし、半分死人のようだったエイシスも、もうひとりで歩くのが問題ないくらいに快復していた。
 前の晩まではほとんど身動きもできなかったのに、魔法の助けを借りたとはいえ呆れるほどの回復力だ。
 夕食のあと、奈子が包帯を替えてやっていると、エイシスが言った。
「ところで、約束を忘れちゃいないだろうな」
 ギク!
 奈子の表情が強張った。
「や、約束って、なんのこと?」
 とぼけてみせるが、顔には引きつった笑みを浮かべているし、声は裏返っている。
「しらばっくれるなよ」
 エイシスにいきなり腕をつかまれ、そのままベッドに引き倒された。
 大きな身体が覆いかぶさってくる。
「ちょ…ちょっと! 怪我人のくせに…」
「もう治った」
 暴れる奈子を押さえつけ、服のボタンに手をかける。
「ヤダ! ちょっと…」
 下になった奈子が暴れるが、しょせん腕力ではかなわない。
 奈子の両腕を押さえ、にやにや笑いを浮かべている。
「抱かせてくれるって、言ったよな?」
「そんなこと言ったって…」
 困ったような表情の奈子は、ついその場の雰囲気でうなずいてしまったことを後悔していた。
 まったく、なんて約束をしてしまったのだろう。もう少し後のことを考えて行動するべきかもしれない。
 大ピンチだった。
 今年の四月、記憶喪失になってエイシスにだまされたとき以来の貞操の危機だ、…といっても、奈子は処女ではないのだが。
「約束を破る気か?」
「う…」
 そう言われては返す言葉がない。
 仕方ない、覚悟を決めた。
 間違ってもエイシスに抱かれたいわけではないが、勢いでとはいえ、一度した約束を反故にするのも性に合わなかった。
(…仕方ないな。別に初めてってわけじゃないんだし…少しの間我慢すればいいことか…)
 そう、自分を納得させる。
 諦めたように、抵抗をやめて腕から力を抜いた。
「…わかったわよ! もう、さっさと済ませてよね!」
 言ってるうちに、顔が赤くなってきた。
 しかしエイシスは、
「いいや。滅多にないことだから、じっくり楽しませてもらうぞ」
 などと言う。
「ちょ、ちょっと…」
 服が脱がされていく。
 胸が露わになる。
 鎖骨のあたりに、唇が触れた。
「ん…」
 恥ずかしくて、小さく声を上げる。
 エイシスの舌が、胸の上を滑る。
 もう一方の胸が、大きな手に包みこまれた。
 か〜っと、頬が熱くなる。
 初めてではない。とはいえ、男性とこういったことをするのは慣れていないのだ。
 同性相手の方がまだ経験が多い。
「まだ、残ってるんだな」
 エイシスがつぶやいた。
「…なにが?」
 そう訊ねると、エイシスの指が右の乳房の下に触れた。
 その動作で、いったいなにを言っているのか理解した。
 そこには、一年前につけられた傷が残っているのだ。
「これと同じ傷を、増やしたくなかったんだ」
 珍しく優しい口調で言う。その言葉に虚をつかれた隙に、唇を奪われた。
「う…ん…」
 舌が、入ってくる。
 奈子はためらいがちに、それを受け入れた。
 ふたりの舌が絡みあう。
 やがてエイシスの口が離れると、奈子はむっとした顔で言った。
「なによ、アタシのことなんて放っといてよ! あんたには、リューリィもフェイリアもいるでしょ!」
「妬いてるのか?」
「誰がっ!」
 それだけは天地がひっくり返ろうともあり得ない、と奈子は断言した。
「…まあ、リューもフェアもいい女だな。でも、お前も負けてはいないぜ? 放っておくなんてできないね」
「浮気者! 女ったらし! スケベ!」
 絶え間なく続く悪口を無視して、エイシスは奈子の身体を撫でまわした。
 時々悪口が止んで、奈子がぴくっと身体を震わせる。
 やがてその手は、スカートの中にまで入ってきた。
 奈子はその手を押さえると、睨みつけるようにして言う。
「ひとつ言い忘れてたけど、アタシ、恋人いるんだからね」
「俺の他に?」
 エイシスは眉を軽く上げ、ほんの少し驚いた様子を見せた。
「あんたが、いつアタシの恋人だったって言うの?」
「俺はそのつもりでいたが…」
 勝手な言い分に、奈子は怒るより先に呆れてしまった。
「まあ、そいつが俺よりいい男ってことはないだろ?」
 そんな根拠のない自信には呆れてものも言えないが、しかし否定もできない。
 奈子の最愛の相手が、いい「男」でないことは事実だったから。
 もしここで「相手は女の子だ」などと言ったらどんな顔をするだろう。
 一瞬その誘惑にかられたが、なんとなく「ああ、やっぱり」と納得されそうな気がしたので黙っておいた。
「あ…」
 話に気を取られて手から力が抜けた隙に、スカートと下着も脱がされた。
 全裸で、ベッドに横たわっていることになる。
 奈子は思わず顔をそむけた。
 いくらなんでも、恥ずかしかった。
 せめて明かりは消してほしいと思ったが、そう言ったところで、奈子を困らせるために嬉々として明るいまま続けることだろう。
 エイシスの指が、敏感な部分に触れる。
 思わず、声が漏れる。
「気持ちいいか?」
 やけに楽しそうに、エイシスが訊いてくる。
 奈子はぎゅっと唇を噛んだ。
 身体が、愛撫に反応してしまっている。
 それが恥ずかしく、そして悔しかった。
(どうしてよ? アタシ、こんなヤツ嫌いなのに…)
 こんな男に惹かれているだなんて、考えたくもない。
 とはいえ、それはそれで問題だった。
 それでは、好きでもない男に抱かれて感じていることになる。
 それもまた受け入れがたいことだ。
(ヤダもう! どうなってんのよ、アタシってば?)
 指の動きに合わせて、こらえようとしても唇の隙間から小さな声が漏れてしまう。
 息が、荒くなってくる。
 身体が熱っぽくって、そして…。
 絶対に認めたくはなかったけれど…。
 濡れて、いた。
 気持ちイイ。
 認めたくはないけれど。
「そろそろ、いいかな」
 エイシスの大きな身体が覆いかぶさってくる。
 押しのけようとしたが、手に力が入らなかった。
(あ…)
 指以外のものが、そこに触れた。
「あ、あぁっっ!」
 奈子はぎゅっとシーツを握りしめた。
 うめき声を上げる。
 少しだけ、鈍い痛みがあった。
「――っっ!」
 奈子の中に、侵入してくるものがある。
 無理やり押し広げて、ゆっくりと、しかし着実に奥へ進んでくる。
「は…ぁ…、ぅ…ん…」
 抑えようとしても、声が漏れてしまう。
 言いようのない圧迫感と異物感。
 自分の身体の中に、自分以外の存在が入り込んでいる。
 初めてではない。ではないが…男性を受け入れるのはまだこれが二度目だった。
 初体験はもう一年半も前。
 その後の経験といえば、ファージや自分の指だけ。
 それに比べると、いま奈子の中にあるものは、信じられないくらい大きく感じた。
 少しだけ痛くて。
 だけど気持ちイイ。
「は…ぁ…」
 いちばん深い部分まで行き着いて、それは動きを止める。
 奈子は小さく息を吐き出した。
「…きついな。いい締まりしてるな、お前」
 エイシスが耳元でささやく。
「な…っ!」
 その、あまりにもあからさまな台詞に、恥ずかしくてなにも言い返せなかった。
 恥ずかしい。恥ずかしくて…痛みはもうほとんど感じないのに、涙が出てきた。
 涙目で、相手を睨みつける。
 エイシスは笑っていた。
「その表情、そそるなぁ」
 そう言うと、身体を動かし始める。
「あっ…あ…ん…」
 エイシスの動きに合わせて、奈子の唇から声が漏れる。
 どんなに歯を食いしばっていても。
 少しずつ、少しずつ、動きが激しくなっていく。
「やっ…ダメ…、そんな…もっと、やさしく…あぁっ!」
 奈子の声も、だんだん大きくなっていく。
 やがてそれが悲鳴に近いものになったとき、奈子の腕はエイシスの身体をしっかりと抱きしめていた。


 それはどのくらい続いたのだろう。
 奈子はぐったりと放心したように、ベッドに横になっていた。
 息が少しだけ荒い。
 身体が、じっとりと汗ばんでいた。
 隣に寝ていたエイシスが、奈子の頭を抱えるようにして、こめかみにそっとキスする。
 その、余裕のある笑みがなんだか悔しかった。
「…言っとくけどね」
 むっとした口調で奈子は言った。
「約束だから仕方なく、だからね。アタシ、あんたのことなんか大っ嫌いなんだから。勘違いしないでよ!」
 それを聞いて、エイシスはのどの奥でくっくと笑う。
「手強いなぁ」
 それだけ言うと、また奈子の上に覆いかぶさってきた。
「ちょ…ちょっと、なにすんのよ! もう約束は済んだでしょ?」
「一回だけ、と約束した覚えはないぜ?」
「あ、こら、ばかっ! やめてよ! いやぁっ!」
 エイシスはそんな苦情には耳を貸さず、暴れる奈子の足首をつかんで強引に脚を開かせた。



「…まったく、なに考えてンのよ!」
 翌朝、宿を出てからずっと、奈子は文句を言い続けていた。
 その口調も表情も、これ以上はないというくらいに不機嫌で、やたらとご機嫌なエイシスとは対照的だった。
 エイシスは鼻歌など口ずさんでいる。
「あんたがどう思ってたか知らないけどね、アタシ、男の経験なんてほとんどないんだから! まだ十五歳だよ」
 奈子は高校一年だが、二月生まれだ。
 エイシスをきつい目で睨んでいる。その頬は少し朱い。
「…だから?」
 エイシスはのほほんと訊き返す。
「そんな女の子相手に、ふつう一晩に五回もする? ほとんどケダモノよね。信じらンない!」
 奈子がいくらわめいても馬耳東風。これっぽちも気にする様子はなかった。
 相変わらずのにやにや笑いを浮かべている。
「ちょっと! なんとか言ったらどう?」
 ようやくエイシスは奈子の方を見ると、ぼそっとつぶやいた。
「感じてたくせに」
 か〜っと、奈子の顔がまっ赤になった。
 怒りと、そして恥ずかしさのために。
 エイシスの言葉は、事実だった。
 奈子にとってはこれ以上はないくらいの屈辱だったが、しかし事実だった。
 なにか言い返したくても、言葉が見つからない。
 一晩中、明け方近くまで抱かれ続けていた。
 しまいに奈子は泣き出してしまったが、それでもやめてはくれなかった。
 そして…
 口とは裏腹に、奈子の身体はしっかりと反応していた。
 エイシスの愛撫に、感じていた。
 何度も、イカされてしまった。
 だから、エイシスの言葉に反論できなくて、
「あ…あんたなんか、山の中でのたれ死んでればよかったのよっ!」
 渾身の右フックを顎に叩き込んでエイシスを張り倒すと、奈子はそのまま自分の世界へと帰ってきてしまった。



 ちゃぷ…
 熱い湯にのぼせるくらい長い間、奈子は湯船に浸かっていた。
 思わず、頭を抱えてしまう。
 ああ、もう、どうしてあんなことしてしまったんだろう。
 由維に会わせる顔がない。
『奈子先輩て、倫理観とゆ〜か、貞操観念とゆ〜か…が欠如してますよね〜』
 ふと、いつかの由維の台詞を思い出した。
 確かにその通りだ、と自分でも思う。
 どうして、こんなことしてしまったんだろう。
(せめてハルティ様ならともなく、よりによってエイシスなんかと…)
 いや、そういう問題じゃない。
「由維に、謝らなきゃ…な…」
 最近の由維は妙に寛大だから、許してはくれるだろう。
 だけど…
 本当はどう思ってるんだろう。
 顔では笑っているけど、実は、奈子が見ていないところでは泣いているのではないか。
 いっそ、黙っていた方がいいのだろうか。
 …いや、ダメだ。
 ちゃんと言わなきゃならない。
(これは不可抗力だったんだって。本当に愛してるのは由維だけだよって)
 ああ、もう、なんでこんなことになっちゃったんだろう。
 思い出すのも恥ずかしい。
 なのに…昨夜の出来事が、頭から離れない。
 明け方近くまで、それは続いた。
 しまいには、抵抗する気力もなくなっていた。
 いろいろな姿勢をさせられて。
 動物みたいに四つん這いにさせられたり、上に乗せられたり…。
 それどころか…。
 それどころか…。
 ああ、もう考えたくもない!
 く、口で……なんて。
「…やっぱり、殺す」
 奈子は湯の中に顔を沈めて、ぶくぶくと泡を吐き出しながらつぶやいた。
 目が、危険な光を帯びている。
「絶対に殺す! あの男、今度会ったら刀のサビにしてやる!」
 ざばっと立ち上がった奈子は、無銘の剣は決して錆びたりしない、ということを失念していた。
 くら…
 熱い湯に長く入っていたのにいきなり立ち上がったため、奈子は立ち眩みを起こしてしまう。
 のぼせてふらつきながら風呂から上がり、脱衣所の鏡の前に立った。
 あまりにも長く湯に浸かっていたせいで、治りきっていない傷が赤く浮かび上がっていた。
 今回受けた新しい傷はやはり目立つ。ソレアに治してもらった方がいいだろうか。
 左肩の傷も大きい。三ヶ月ほど前、マイカラスに侵攻したサラート王国の将軍と戦ったときのもの。
 そして…
 胸や内股に、傷とは違う赤いあざがいくつかあった。
「…あのヤロ〜、こんなにキスマークつけて…。由維に見られたらどうすんのよ」
 いちばん大きな傷は、右胸の下にあった。
 一年前の傷。
 奈子が殺した相手に、剣で貫かれた。
 そっと手で押さえる。
『これと同じ傷を、増やしたくなかったんだ』
 そう、エイシスは言った。
(なによ、キザなこと言って…)
 それは身体に残る傷のことではない。
 心に深く残った、決して治らない傷。
 こうやって向こうの世界を訪れている限り、いつかまた、同じ傷を受けることになるだろう。
 鏡を見ながら、奈子はじっと考える。
 そんなことが、許されるだろうか。
 だけど…。
 奈子は、行かなければならないのだ。



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