五章 無銘の剣


 一晩自分のベッドで寝ると、奈子は翌日すぐにソレアの屋敷を訪れた。
 特に用があったわけではない。
 ただ、家にいて由維と顔を会わせるのが気まずかっただけだ。
 由維に会えば、きっと顔に出てしまう。
 いつかは由維にも話さなければならないだろうが、まだ心の準備が出来てはいなかった。
「あら、いらっしゃい。ナコちゃん」
 ソレアは家にいた。奈子の顔を見て、いつものように微笑む。
「もっと早くに来るかと思ってたけど…、また、失敗した?」
「え…まあ…ね」
 奈子は曖昧な笑みを浮かべてごまかした。
 その様子に不自然なものを感じたのだろう。ソレアはわずかに目を細めて訊いた。
「なにかあったの?」
「え、いや…別になにも…」
 引きつった顔で応える。ソレアはおおよそなにがあったか気付いていたのかもしれないが、それ以上追求はしなかった。
「まあいいわ。それより、ちょうどいいときに来たわね。もうじき、ファージも来る約束なのよ」
「ファージが?」
 ソレアの屋敷を訪れても、ファージはいつでもいるわけではなかった。どこを飛び回っているのか、ここにはいないことの方が多い。
「お昼までには来るって言ってたから、もうじきね。ナコちゃん、悪いけどおつかいに行ってきてくれない? その間に、昼食の準備をしておくから」
「うん、わかった」
 ソレアから買い物のメモを受け取ると、奈子は街に出た。


 買い物は特にややこしいものではなかった。
 いつものようにパンとミルクとワイン、そしていくつかの野菜を買って帰ろうとする。
 その途中、見覚えのある人影が奈子の視界をちらっと横切った。
(…、誰だっけ?)
 確かに覚えはある。しかし、どこで…。
 その人影を目で追う。
 中肉中背の、平均的な体格をした男の背が見えた。
 しかし、その髪の毛が特徴的だった。
 鮮やかな赤毛。それに見覚えがあった。
 奈子が知る中に、これほど鮮やかな赤毛の持ち主はふたりしかいない。
 ひとりは、あのエイシスだ。
 しかしエイシスは百八十センチを優に越える大男だから、後ろ姿でもひと目でわかる。
 そしてもうひとりは…
(まさか!)
 後ろ姿で、顔は見えない。
 人違いかもしれない。
 髪の色を除けば、これといって特徴のある容姿ではない。
 しかし…。
「アルワライェ・ヌィ…」
 その名前を、小さくつぶやいた。
 腕に、鳥肌が立った。
 以前、王国時代の竜騎士レイナ・ディの墓所に関する情報を求めて、マイカラスの王宮に忍び込み、ファージに怪我を負わせた男。
 奈子が出会ったのはレイナ・ディの墓所の中で、その時はひどい怪我を負わされ、大切な剣を折られた。
 無銘の剣を手にした奈子に片手を切り落とされて逃走したはずだったが…。
 最近では、マイカラスとサラートの戦争にも関わっていた形跡がある。
 強大な魔力を持った、正体不明の人物だ。
 王国時代の失われた知識や力を求めていることは間違いなさそうだが、所属も、経歴も、本名も一切が不明だった。
 もしあれが本当にアルワライェであるなら、いったいこのタルコプでなにをしているのだろう。
 ソレアの屋敷があるこの街を歩いていることが、ただの偶然とは思えなかった。
 なにか、また、良からぬことを企んでいるに違いない。
 奈子は、あとを追うことにした。
 気付かれない程度に距離をあけて、
 男はやがて、大通りを外れて路地に入った。
 奈子もそのあとに続く。
 向こうは、尾行に気付いた様子はない。
 このあたりの道は詳しいのか、入り組んだ路地を少しも迷わずに歩いて行く。
(いったい、どこへ行こうとしてるんだ…?)
 アルワライェがなんの目的でここにいるのか、見当もつかなかった。
 やがて、建物の間の幅数十センチほどの隙間を通り抜けると…。
「え…?」
 そこは行き止まりで、小さな空き地になっていた。
 男の姿はない。
「え…? 確かにここに…」
 いや、あれが本当にアルワライェなら、転移魔法が使えるのだから、袋小路で姿を消してもおかしくはない。
 しかしそれなら、最初から目的地まで転移すれば済むことのはず。
(転移…?)
 それで思い出した。
 アルワライェが得意とするのは、極短距離の転移で相手の背後をとる戦法だ。
「まさかっ!」
 ばっと振り返った瞬間――
 いきなり、額に手が当てられた。
「――っ!」
 衝撃が頭を貫く。ちょうど、極闘流の奥義『衝』を頭部に受けたような感じだ。
 奈子の身体は、その場に崩れ落ちた。
 意識はあったが、身体がまったく動かない。
 全身が麻痺しているようだった。
 倒れた奈子を見おろしている人物が視界に入る。
 赤い髪…しかし、アルワライェではなかった。
(女…?)
 それは、二十歳くらいの女性だった。
 騎士を思わせる身なりをしている。
 美しい、整った顔立ちだった。
 アルワライェに比べるとややくすんだ色の髪を、肩にかかるくらいの長さで切りそろえている。
 女は、微笑んでいた。
 確かに美しかったが、どこか、ぞっとするような残忍さが感じられる表情だった。
「初めまして。ナコ・ウェル・マツミヤ」
 声も美しかった。どことなく嘲るような口調であるのに、それでも聞き惚れてしまうような澄んだ声だ。
 女は、仰向けに倒れている奈子の傍らに屈み込んだ。
「会いたかった。あなたに、大切な話があるのよ」
 奈子はなにも言えなかった。身体が麻痺していて、声を出すこともできなかったのだ。
 ただ、女の顔を見上げていた。
 まったく見知らぬ人物だった。向こうも「初めまして」と言っていたのだから、それは間違いないだろう。
「あなたには、アルの腕の怨みがあるんだけど…今日はその話じゃないの」
 そこに出てきたひとつの単語が、奈子の記憶を刺激する。
(アル…アルワライェ?)
 そういえばレイナ・ディの墓所で出会ったとき、「アルと呼んでもいいよ」と言ってはいなかったか。
 この女性が、あの男の関係者であることは間違いなさそうだった。
 奈子と因縁があることを知った上で、アルワライェの幻影を見せておびき出したのではないだろうか。
 だが、なんのために?
 この女性は、いったい何者なのだろう?
 見当もつかなかった。
「とびきりの美女、というほどでもないけれど、まあ悪くはないわね」
 女は、奈子の顔を観察するように見て言った。
「でも、この瞳は素敵ね。意志の強さが感じられる…見つめていると、ぞくぞくしてくるわ。アルが気に入るのもわかるわね」
 しばらく奈子の髪を指でもてあそんでいた女は、やがて、奈子の額に手を当てる。
「あなたに、お願いがあるのよ」
(お願い…?)
「それは、あなたにしかできないことなの…」
 耳元に唇を寄せ、歌うような声でささやく。
 心の奥底にまで染み通るような、不思議な響きを持った声だった。



 奈子がソレアの屋敷へ戻ると、もうファージは来ていた。
 奈子の顔を見て、嬉しそうに駆け寄ってくる。まるで、飼い主にじゃれつく仔犬のようだ。
 そんなファージを見て、奈子の口元にもかすかな笑みが浮かんだ。
 微笑んで、そして…。
 右手がかすかに動いた。
 口の中で小さく、ある言葉をつぶやく。
「ファージ! 駄目っ!」
 突然、ソレアが叫んだ。普段のソレアからは想像できないような金切り声で。
 警告は間に合わなかった。
 いつものように奈子に抱きつこうとしたファージの身体が、寸前で止まる。
 一瞬硬直して、震える手が奈子の肩をつかんだ。
 ファージの顔に、驚きの色が浮かんでいた。
 なにが起こったのかわからないといったような。
 しかしそれはほんの一瞬のことで、すぐに、すべてを理解した表情になる。
 大きな金色の瞳に、奈子の姿が映っていた。
 かすかに開いた唇が動く。しかしそれは声にはならない。舌が震えている。
 なぜか、小さく微笑んだように見えた。
 ぽたり…
 ふたりの間に、赤い滴りが落ちる。
 最近替えたばかりの新しい絨毯に、赤い染みが広がった。
 剣が、ファージの胸を貫いていた。
 心臓を、正確に。
 その剣を握っているのは、奈子の手だった。
 限りなく鋭く、限りなく強靱な刃。
 無銘の剣――千年前の竜騎士レイナ・ディ・デューンが用いたという、大陸最強の魔剣。
 奈子の顔には、なんの表情も浮かんでいなかった。
 人形よりも無機的な顔で、ただ剣を握っていた。
 しかし、奈子は感じていた。
 自分の手の中にある呪われた剣が、この、ファーリッジ・ルゥ・レイシャという存在に、本当の意味で致命的な傷を負わせたということを。
 その刃は薄く、身体の傷は小さなものだ。
 だが、剣に秘められた力は、ひとつの命を――不死身とさえいわれていたこの少女を支えていた魔力そのものを、ずたずたに切り裂いていた。
 無銘の剣は、凄まじいまでの魔力を備えていた。「この程度の魔法をいくら食らったところで、私は死なないんだ」そう言った少女を殺すのに充分すぎるほどの力を。
 物理的な力ではない。命そのもの、魂そのものを破壊する力だった。
 奈子の肩をつかんでいた手から、ふっと力が抜けた。
 その美しい金色の瞳から、光が消えていく。
 ゆっくりと、とてもゆっくりと。
 ファージの身体は、その場に崩れるように倒れた。
 周囲に、赤い染みが信じられない速さで広がっていく。
 奈子の手から、剣が落ちた。
 刃も、柄も、赤く染まっている剣。
 人形のようだった顔に、少しずつ表情が戻ってくる。
「あ…」
 足元に倒れている少女を見る。
 その目が、大きく見開かれた。
「…な…によ…これ…」
 自分の手を、顔の前に持ってくる。
 血に染まった手。
「い…」
 ぶるぶると手が震えている。
「ひ…ぃ…」
 わずかに顔を動かした。ソレアと目が合う。
 彼女もまた、あまりにも衝撃的な出来事に言葉を失って立ちすくんでいた。
 そうしてようやく、奈子は自分がなにをしたのかを理解した。
 両手で顔を覆う。
「い…い…、いやああぁぁぁっっっ!」
 奈子の絶叫が、屋敷の中に響き渡った。

《金色の瞳・後編に続く》


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