六章 あたしの中の…


「奈子先輩、起きて。朝だよ」
「ん〜」
 朝食の支度を済ませた由維が起こしに来るが、奈子はなかなか起きあがろうとしない。毛布を頭からかぶったまま、だるそうな声で曖昧な返事をするだけだ。
 普段は寝起きのいい奈子にしては珍しい。いつも、朝食前に早朝トレーニングを済ませてくるというのに。
「奈子先輩?」
「なんだかだるくて…。少し熱っぽいし…」
「…風邪ですか?」
 そう言うなり、由維は毛布をはぎ取って、いきなり奈子にキスをした。
「ん…んっ?」
 驚いている奈子に構わず、舌を入れる。十秒間ほどそうしていて。
「少し、熱があるみたいですね」
「…って、どこで計ってるのっ?」
 奈子が叫ぶ。
「奈子先輩が風邪引くなんて、ものすご〜く意外ですね?」
「なんだか、ひどく失礼なこと言われてるような気がするんだけど…」
「ごはんは食べられます?」
「だめ。食欲ないし、なんだか吐き気もするし…。今の風邪はお腹に来るのかなぁ…」
 これも、奈子にしては珍しい。周りから「鉄の肝臓とチタン合金の胃腸を持っている」とまで言われているのに。
「病気の時は、栄養つけた方がいいんですけどね…。じゃあスープかなにか、食べやすいもの用意しますから、もう少し寝ててください」
「…ありがと」
 奈子はまた毛布の中にもぐり込んだ。
 由維は何かを考えるような表情で、そんな奈子の様子を十秒ほど見ていてから部屋を出る。
 その時にふと、壁に掛かっているカレンダーが目にとまった。


 一時間くらい経ってから、由維がまた起こしに来た。
 相変わらず具合は悪かったが、風邪薬を飲む前に、少し胃に物を入れておいた方がいいだろうと、無理に起きあがる。
 食卓に着くと、玉子雑炊と野菜スープが湯気を立てていた。
 由維が、なんだか奇妙な表情で奈子のことを見ている。いつになくシリアスな顔だ。
 奈子はスプーンを手にとって、スープを一口飲もうとしたが、その匂いを嗅いだだけで吐き気がこみ上げてきた。
 思っていた以上に症状は重いらしい。
 手で口を押さえて、慌ててトイレに駆け込んだ。
 昨夜もほとんど食べていないから、胃液しか出てこない。
 それでも、吐き気はなかなか治まらない。
「ふぅ…」
 なんとか一息ついて、トイレットペーパーで口を拭ってトイレに流す。
 その時になってようやく、ドアが開けっ放しなことに気付いた。
 外に、由維が立っている。
 不思議な表情で、奈子を見ている。
「…何?」
 何か言いたいことがあるのかと思って、奈子の方から訊いてみた。
「…ちょっと、こっちに来て」
 奈子を促して、由維は居間へ戻る。ソファを指差した。
「そこに座って」
 まるで、これから子供にお説教しようとしている母親のようだ、と奈子は思った。二つも年下なのに、由維は時々、奈子の母親代わりのように振る舞うことがある。
 奈子が腰を下ろすと、由維もテーブルを挟ん正面に座った。
 じっと、奈子を見る。
 どうしたのだろう。なんだか由維の様子が変だ。奈子は不安になった。
「何? いったいどうしたの? 妙に深刻な顔しちゃってさ…」
「奈子先輩…」
 それは怒っているというよりは、どことなく、呆れているような口調に聞こえた。
「なによ、いったい」
「自分で、気付いてないんですか?」
「だから、なにが?」
 訊き返すと、由維は小さく溜息をついた。少し間をおいて、決心したように口を開く。
「奈子先輩…。妊娠してるんじゃ、ないんですか?」
「…え?」
 数十秒間、その場が凍り付いたように、二人の動きが止まった。
 奈子がその台詞の意味を理解するために、それだけの時間が必要だった。
 ぱちぱちと瞬きを繰り返して、由維を見る。
 由維は真剣な表情で、真っ直ぐに奈子の目を見つめている。とても、冗談を言っているような雰囲気ではない。
「…に、妊娠? アタシがぁ? なに馬鹿なこと言ってンのっ?」
 重苦しい空気に耐えきれなくなって、奈子はその場を笑い飛ばそうとした。
 しかし、由維はぴくりとも表情を変えない。
「じゃあ、聞きますけど…」
 ゆっくりと、口を開く。
「エイシスさんとエッチした時、避妊しましたか? 奈子先輩のことだから、自分の安全日だって知らないんでしょう?」
「う…」
 言われるまで気付かなかった。そういえば、考えもしなかった。妊娠の危険なんて。
「それに、最後に生理が来てからどれだけ経ちました? いくら何でも、間が空き過ぎじゃないですか?」
「いや…、でも、それは…ほら、十代の頃って、けっこう不規則な人も多いって言うじゃん?」
「そうですね。普段から不規則な人なら、そういうこともあるでしょうね。でも奈子先輩は過去一年間、原子時計並に正確な周期でしたよね」
「人の生理周期をいちいちチェックするな!」
 奈子は真っ赤になって叫ぶ。
「なに言ってるんですか。いつも忘れてて、私にナプキン借りてたくせに」
「う…」
 由維の言う通りだ。症状が軽いせいもあって、奈子はこういったことにはひどくアバウトなのだ。
 だから、言われるまで気付かなかった。ここしばらく、生理が来ていないことに。最後に来たのはいつだったろう。そういえば、夏休みが開けてからは一度もなかったのではないだろうか。
「…だからって、必ずしも妊娠とは…」
「そうですね。ここで言い合っていても埒があきませんね。はっきり決着をつけましょう」
 由維は、テーブルの上にひとつの箱を置いた。ちょうど、歯磨きの箱をやや大きくしたような細長い箱で、白地にピンク色の線が描かれている。
 奈子はその箱を手に取ると、書かれている文字を読んだ。
「ドゥーテスト…なにこれ?」
「知りません? 妊娠判定薬ですよ」
「に…、なんで、そんな物が家にあるの?」
 まさか普段から常備してあるわけではあるまい。
「いま買ってきたに決まってるじゃないですか」
 由維が言う。それで納得した。朝食の用意だけにしては、ずいぶん時間がかかっていると思ったのだ。
「はい、調べてみてください」
 トイレの方を指差す。
「うぅ…でも…」
 奈子は妊娠判定薬の箱を手に、ぐずぐずとしている。
「はっきりするのが、恐いんですか?」
「う…」
 そう。確かにそうだ。事実を見つめるのが恐かった。
 これで、はっきりしてしまう。
 妊娠なんて。
 由維の思い過ごしであればそれに越したことはないのだが、その可能性が極めて低いことは、自分でもわかっている。
「それとも、いきなり病院に行きますか?」
「イヤ! それはイヤ!」
「じゃあ、まずはこれで調べてくださいね」
 にっこりと笑って言う。奈子は逆らえなかった。
 仕方なく、立ち上がってまたトイレへ入る。
 そして数分後――
 瀕死のゾンビよりも血色の悪い顔で、奈子が戻ってきた。



「ど、ど、ど、どうしようっ?」
「まずは、病院じゃないですか?」
 おろおろと狼狽えている奈子に対して、由維はずいぶんと冷静だった。
「あ、そ、そうだね。えっと、この近くの産婦人科って…?」
「白岩学園大の医学部付属病院でいいんじゃないですか? 奈子先輩、外科は常連さんでしょ」
「あ、そっか、そうだよね」
 空手の稽古や試合では、怪我をすることも多い。白岩学園大付属病院の外科は、奈子に限らず極闘流の門下生が頻繁に利用していた。
「もう、落ちついてくださいね」
 意味もなくばたばたと走り回っている奈子をたしなめる。
「落ち着けったって、無理だよ」
 奈子の言うことにも一理ある。この状況下で当事者が落ちついているのは、ちょっと難しいだろう。
「えぇっと、なにがいるんだろう? 保険証と、お金と…。ねぇ、中絶ってどのくらいかかるんだろ? …って、あんたに訊いても知ってるはずないか」
「え?」
 奈子の妊娠が発覚しても、これまで信じられないくらい冷静だった由維が、初めて驚いたような声を上げた。
「中絶…?」
 信じられないといった表情で、目を見開く。
 そのただならぬ雰囲気に、奈子も動きを止めて由維を見た。
 しかしすぐに、由維は冷静さを取り戻したようだ。見開いた目が、軽く伏せられる。
「殺すの…? 赤ちゃん、殺しちゃうの?」
 抑揚のない、静かな口調だった。
 その表情はむしろ、泣いているようにも見えた。
 泣いている…? どうして。
 驚いたのは奈子の方だ。信じられなかった。
 これではまるで、由維は中絶に反対しているみたいではないか。
「だ、だって…」
 まさか、産むわけにはいくまい。
 奈子はまだ高校生で、もちろん未婚で。
 しかも相手は恋人でもなんでもなくて。その上、この世界の人間ではないのだ。
 そう、相手はエイシスしか考えられない。奈子の男性経験は過去エイシスと高品の二人だけで、高品との関係はもう一年半以上も前の一度きりだ。
「あのね、奈子先輩」
 由維は静かに言った。
「ひとつの命…なんだよ。奈子先輩の中にある、もうひとつの命」
 奈子の隣に移動してきた由維は、下腹部にそっと手を当てる。
「…ここにいるのは、奈子先輩の血を分けた、子供なんだよ」
 決して、奈子のことを責めているわけではない。ただ淡々と言う。
 透き通った、純粋な瞳で奈子を見ていた。
 言われて、奈子も気付いた。
 自分は、ひとつの命を殺そうとしていたのだ。それも、自分の子供を。
 冷静になって、そんなことができるのかと自分に問いかけてみれば――
 答えは、否だった。
「だけど…でも…どうしよう?」
「産めばいいじゃないですか」
 由維はあっさりと言う。
「そんな簡単に!」
「難しく考えたって、選択肢は産むか産まないかの二つしかないんですよ?」
 その通りだ。しかしだからといってそう簡単に割り切れるものでもない。
「母さんにはなんて言えば…」
「正直に言っちゃえば?」
「言えるわけないでしょ!」
 言えるわけがない。
 異世界で、しかも恋人でもない男との間にできた子供なんて。
「じゃあ『誰が父親かわからない』ってのは?」
「もっと悪い!」
 真っ赤になって叫ぶ。
「それに、産むったって、学校だってあるし…」
「あれ、知らないんですか?」
 由維の瞳が輝いた。
「なにが?」
「白岩学園の校則には、ちゃんと女生徒の出産休学に関する規定がありますよ。高等部はね」
「えっ?」
 慌てて、部屋から生徒手帳を持ってきてページを繰った。これまで生徒手帳なんて、持っているだけでろくに開いたこともない。
 信じられないことだが、由維の言う通りだった。
「…なんて学校よ」
 奈子は絶句する。
「進んでますよね〜」
「…の一言で済ましていいのか?」
 かなり自由な校風の白岩学園ではあるが、いくらなんでもこれはやり過ぎという気がする。
「でもさ…、アタシに、子供の世話なんてできると思う?」
「大丈夫!」
 由維は胸を張って言った。
「赤ちゃんの面倒は私が見てあげる」
 嬉しそうに宣言する。
 その時になってようやく、奈子は妙なことに気がついた。
「由維…あんた…」
「はい?」
「どうして、そんなに嬉しそうなの?」
 考えてみれば先刻から、奈子に子供ができたことを喜び、産むことを勧めている。
 普通なら、やきもちを妬いて泣きわめく場面ではないだろうか。女同士とはいえ、由維は奈子の恋人なのだから。
「だって、嬉しいじゃないですか。奈子先輩の子供ですよ? きっと可愛いでしょうね〜」
「いや、だから…どうして…」
「やきもち妬かないのかって?」
 由維も、奈子の言いたいことはわかっているようだ。
「だって、どんなに好きでも、私と奈子先輩じゃ子供は作れないもの。だとしたら、奈子先輩の子供を私たち二人で育てるしかないでしょう? きっと可愛いだろうな〜」
 奈子は首を傾げた。
 そういうものだろうか。なんとなくずれているような気がしないでもないが。しかし、由維が納得しているのなら、それでいいのだろう。
「あ、そういえば…」
 ふと思い出したように、由維が言った。
「エイシスさんにも、報告しなきゃダメですよ」
「どうして?」
「だって、父親なんですから」
「言えるわけないじゃん。アタシが? なんて?」
「そのままでいいじゃないですか。『えへ、できちゃった(はぁと)』って」
 言った後でその光景を想像したのか、由維は自分の台詞に笑い転げる。
「言えるわけないっしょっ!」
「じゃあ、私が言いましょうか?」
「ヤダ! 恥ずかしい! いいじゃん、あんな奴放っといたって」
「あのね、奈子先輩」
 子供を諭すような口調で言う。
「事情はどうあれ、エイシスさんはお腹の赤ちゃんの父親なんですよ。産む産まないを奈子先輩が決めるとしても、エイシスさんにはそれを知る権利があるんです」
「だって…」
 いったい、あのエイシスに対して、どんな顔をしてそんな報告をすればいいというのだろう。
「私が言ってもいいんですけど、やっぱり、自分で言うべきだと思うんですよ」
「……うん」
「あとは、奈子先輩のご両親ですけど…。これはもう少し考えましょうね。どう説明するのがいいのか」
「……うん」
「早いうちに、病院も行かなきゃダメですよ」
「……うん」
「うふふ〜、楽しみだな〜。奈子先輩の赤ちゃんか〜」
 由維は、奈子のお腹に優しく頬ずりする。
 奈子はぼんやりと、そんな様子を見ていた。
 まだ、実感が湧かない。
 自分の胎内に、ひとつの命が宿っているなんて。
 それが、あと一年もしないうちに一個の人間として生まれてくるなんて。
(子供…アタシの…?)
 まだ信じられない。
 そして…。
 どうしてだろう。つい先刻まで、あんなに狼狽えていたはずなのに。
 今は知らず知らずのうちに、口元に笑みが浮かんでいた。



 それから一週間ほど過ぎたある日。
 その日は体調が良かったので、奈子は向こうへ行ってみた。
 由維は来ていない。気を利かせたつもりなのだろうか。本音を言えば、ついてきてほしかった気がする。
 今回は無事にソレアの家に着いた。魔法陣のある地下室から、階段を上って居間の扉を開ける。
 すると。
「なんで! あんたがここにいるのよ! よりによって今日!」
 奈子は一瞬で真っ赤になって叫んだ。
 まだ、心の準備が何もできていないのに。
 そこにはソレアもユクフェもいなくて、よりによってエイシスがいるなんて。
「なに怒ってんだよ? ソレアとユクフェなら留守だぜ、買い物に行ってる。俺は留守番な」
 エイシスが言う、
「フェイリアやリューは?」
「今日は来てない。あいつらは、俺ほど暇人じゃないし」
 しかし、これはある意味チャンスかもしれない。
 他に誰もいない。言うなら、今しかない。
「あ、あのね、エイシス…」
 奈子はおずおずと口を開いた。
「ん?」
「あ、あの、じつは、その…」
「なんだよ、らしくないな」
「あの、だから…、えっと…」
 奈子が言い淀んでいると、エイシスは不気味なものでも見るような顔になった。
 恥ずかしそうに赤くなってもじもじしている奈子なんて、これまで見たことがないのだから無理もない。ベッドの中でさえ、もう少し大胆だ。
「あのっ、つまりね、え〜と…」
「あら、ナコちゃん。いらっしゃい」
 なんとか言葉を絞り出そうとしていた奈子は、背後からの突然の声に、飛び上がるほど驚いた。
「ソ、ソ、ソレアさん!」
 裏返った声で叫ぶ。
「今日はユイちゃんはいないの? どうしたの、そんなに真っ赤な顔しちゃって」
「な、な、なんでもない!」
 両手をばたばたと振って慌てふためいて応えると、ソレアは奈子とエイシスを交互に見た。
「はは〜ん、もしかして、いいところで邪魔しちゃった?」
「う、ううん! 全然! そんなんじゃない! あ、買い物してきたの? 荷物、アタシが片づけるから!」
 奈子はソレアの手から荷物を強引に奪うと、ユクフェの手を引いて台所へ向かった。
「どうしたの、あの子?」
 そんな奈子の後ろ姿を見ながら、今度はエイシスに訊く。
「さあ? 今日は来るなり、あんな調子だったな。なにか悪い物でも食べたかね?」
「ふぅん…」
 ソレアは何か考え込む。ほんの一瞬だけ驚いたような表情を見せて、それから意味深な笑みを浮かべた。
「今日は、ファージがいなくて正解だったかもね」
 小さな声で言う。
「何か言ったか?」
「ううん。独り言」
 そう言うと、首を傾げているエイシスを残してソレアも台所へ消えていった。



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