「いらっしゃい、ユイちゃん。今日はナコちゃんは?」
ソレアが訊ねる。由維は小さく肩をすくめた。
「今日もダメ。まだ、つわりが治まらなくて…」
「そう。今が大事な時期だし、無理しない方がいいわよね」
奈子の妊娠発覚以来、由維はたまに、一人でこちらへ来るようになっていた。
最初は奈子も心配していたのだが、試しに二人でくる時に由維に転移を任せてみたら、奈子よりもよほど精度がよかった。
これまでノーミスで、数回に一回の割合でミスする奈子とは大違いだ。魔法の精度に関しては、由維の方が素質がありそうだった。
奈子は最近、家で寝ていることが多い。つわりが重くて出歩けないのだ。
転移の際、たまに乗り物酔いに似た症状が出ることがあるのだが、今の奈子ではそれに耐えられそうもない。
今のところ、このことを知っているのは由維とソレアだけだ。結局、まだエイシスには言えずにいるようだし、ファージにも伝えていない。もちろん、エイシスが知らない以上フェイリアやリューリィにも言えるわけがない。
それは奈子のつわりが治まって、またこちらに来られるようになってからの問題だろう。
由維はソレアからティーポットとカップを受け取ると、書斎へと向かった。最近はここで過ごす時間が多い。
具合の悪い奈子を家に残して、由維がこちらへ来ているのは勉強のためだ。
魔法について。この世界の歴史について。
ソレアの書斎にある、貴重な書物を片っ端から読みあさっていた。
「本当に、勉強が好きなのね」
ソレアが感心したように言う。そんな由維に刺激されて、ユクフェも一生懸命勉強に励んでいるのだから、ソレアにとっては歓迎すべきことだ。
確かに由維は、もともと勉強は得意だし、好きだ。
しかし、それだけではない。
由維には、この世界のことをもっと知らなければならない理由があった。
それは、奈子のため。
今の奈子は、以前よりもずっと深く、この世界に関わっている。
最初の頃のように、訳もわからずに巻き込まれたり、遊び半分で来ているのとは違う。レイナの剣を受け継ぎ、聖跡に足を踏み入れ、少しずつ、そして着実に、この世界への影響を、さらにはこの世界からの影響を強めている。
本人が望んだことではないかもしれないが、だからといって、もう、引き返すことはできない。
だから由維は、少しでも奈子の力になりたかった。できるだけ多くのことを学んで、奈子を助けたかった。
異世界で、ただ奈子に護ってもらうだけでは駄目なのだ。
どちらかが相手に一方的に依存するのではなく、お互いを支え合って生きていきたい、と。
そう思っていた。
そうした理由で、大きな書斎を埋め尽くす本を片っ端から読みあさっていた。
その多くは王国時代の物。
それより後の時代の物もいくらかある。
一般には知られていない、失われた知識についての書物もある。なにしろここには『墓守』の知識が蓄えられているのだから。
由維には、知りたいことが山ほどあった。
まずなにより、魔法について。
その起源。力の源。そして、その力で何ができるのか。
それは、この世界を支え、支配する力だ。避けて通ることはできない。
そして次に、この世界の歴史について。
王国時代以降のことはだいたい資料が揃っているが、それでも謎は多い。例えばエモン・レーナの正体。これについては、ソレアも本当に知らないらしい。
そしてトリニアやストレインの時代はともかく、デイシア帝国よりも前の、無数の小国が乱立していた戦国時代までさかのぼると、信頼できる資料は極端に少なくなる。
それ以上古い時代、一万年以上もさかのぼるともうお手上げだ。
原始時代から文明の曙にかけての時代の情報が、由維の常識では考えられないくらいに不足している。
十万年前にこの星を襲った『大破局』の影響だ。
それは、おそらく巨大な隕石の衝突。由維の世界でそれほどの大災害が起こったのは、六千万年以上も前のことだ。恐竜絶滅の原因といわれる、ユカタン半島への巨大隕石の落下がそれだ。
この世界では、それに匹敵する大異変がおよそ十万年前に起こっている。地質学的時間から見れば、それはつい最近といってもいい。
その大事件が、現在と過去とを大きく分断している。
歴史の連続性が途切れてしまっている。
だから、十万年前に滅びた『前文明』がどの程度のものだったのか――紀元前のエジプトや中国程度のものだったのか、それとも中世くらいまで進んでいたのか――すらわからない。
知りたいのに、知ることができない。由維にとっては欲求不満がたまる。
もっと新しい時代だって、エモン・レーナや、ストレインの皇帝ドレイア・ディ・バーグといった人物の周辺は謎が多い。
古い時代の資料に関しては、ちょっとした国の王宮図書館でも及ばないソレアの蔵書をもってしても、わからないことはいくらでもあった。
一度、ソレアに訊いてみたこともある。ここで学べる以上のことは、どこへ行けば知ることができるか、と。
「ハレイトンやアルトゥルといった古い国の王宮図書館。あるいはアルンシル…トカイ・ラーナ教会の総本山。そういったところなら、少なくともここに匹敵するくらいのものはあるでしょうね」
ソレアは苦笑混じりに言った。
本来、そういった知識を封印するのが、墓守と呼ばれる者の役目である。しかし彼らの目を逃れたものが、少なからず存在するのも事実だった。
「あと、マイカラスの王宮も、数は少ないけれど価値のある書物が残っているわね」
「聖跡…は?」
聖跡、それはエモン・レーナの墓所。不死身の竜騎士に護られ、大陸の歴史を見守り続ける謎の遺跡だ。
由維は、まだ行ったことがない。
「あそこは…それ自体興味深い存在ではあるけれど、書物の形で情報を保管しているわけではないし。第一、誰でも入れるわけじゃないし」
聖跡の番人は、何者の侵入も許さない。一般にはそう言われている。しかし何事にも例外はある。例えば奈子やフェイリアのような。
「ソレアさんは入ったことあるの?」
「これまで、二度…クレインには会ったことがあるわね。墓守の後継として、一応挨拶もしなきゃならないし。あまり歓迎はされなかったけれど」
「歓迎されない? 墓守なのに?」
「クレインは本来、墓守とも距離を置いているのよ。ファージの一件を除けば、彼女はただ聖跡を護って、大陸の歴史を見守っているだけなの。だからユイちゃん、一人で行ってみようなんて考えちゃ駄目よ」
「わかってますよ。そのうち、奈子先輩に連れてってもらおうっと。あと、マイカラスにも」
そう言ってから、由維は少し考え込んだ。
「ハレイトン王国や、トカイ・ラーナ教会が持っている資料、なんとか見ることはできないかな?」
「無茶なこと言わないの」
ソレアが苦笑する。
「国の最高機密よ。王宮の中でも一握りの人間しか触れることができないような。それを部外者…よりによって墓守の関係者に、見せてくれるはずがないじゃないの」
「それもそうですよね〜」
そう言ってうなずく由維は、やっぱりどこか残念そうだった。
「じゃあ私は、ユクフェちゃんの勉強を見てくるから。何かあったら声をかけて」
「はーい」
ソレアが出ていって、由維は一人で書斎に残った。
そこへ、いつの間にこの家へやってきたのか、ファージが顔を出す。
「な〜んだ、ユイだけか。今日もナコはいないの?」
つまらなそうに口をとがらせる。
「残念でした」
由維は、本からちらりと顔を上げて応えた。
「ちぇっ」
奈子がいない時は、由維とファージも取っ組み合いの喧嘩なんかしない。別に、仲良しというわけでもないが。
結局のところ、奈子の気を引きたいがための喧嘩であって、二人きりの時にやっていても体力の無駄でしかない。
「最近、あまり来てくれないんだもんな〜」
「い、いろいろ忙しいんですよ、奈子先輩も」
由維は曖昧に誤魔化した。
ファージは奈子の身体のことを知らない。当分は内緒にしておこうと、ソレアと相談して決めた。そうしなければ、エイシスの命が危ないから、と。
「あ〜あ、仕方ない」
ファージは溜息をつくと、いきなり由維に抱きついてきた。驚いた由維の手から本が落ちる。
「な、なにすんのっ?」
「ナコと間接抱っこ」
笑って応える。
「最近、ナコに抱きついてないし…」
ぎゅっと腕に力を込める。
「こら〜っ!」
由維がいくら暴れても、ファージ相手に単純な腕力で敵うはずがない。竜騎士候補だったファージと違い、由維は筋力の点では普通の「ちょっと元気な女の子」でしかない。
「ん〜、ナコの匂いがする」
ファージは、由維の胸に顔を押しつけるようにして言った。偶然かわざとかは知らないが、唇が敏感な部分に触れている。
「もぉ、やめてよぉ!」
「せっかくだから間接抱っこだけじゃなくて…」
ファージの顔が胸から離れた、と思った瞬間、いきなり唇を奪われた。
抗う隙を与えずに、舌が差し入れられる。
「んっ、ん…」
腕をしっかりと掴まれて、抵抗することもできない。
それに…
(ちょっと…気持ちイイかも…)
目をつむると、なんだか奈子にキスされているような気がする。舌の使い方が、少し似ているように思えた。
考えてみれば、奈子とファージは何度もキスを重ねているのだ。当然、奈子よりもファージの方が経験豊富だろうから、奈子のキステクニックはファージに教わったのかもしれない。
濃厚なキスは数分間続いた。奈子とだって、これほど激しくしたことはない。その間、ファージの手は腰やお尻に回されていた。
目を開くと、宝石のような金色の瞳が由維を見つめている。
まるで、魂が惹き寄せられるような眼差しだ。
しばらくたってようやく解放されたが、脚に力が入らなくて、虚ろな表情でその場に座り込んだ。
「んふふ〜、ごちそうさま。けっこう美味しいね、ユイも」
ファージが笑う。由維は意識が朦朧として、言い返す気力もない。
「さて、じゃあ仕上げは…」
「…え?」
ぼんやりとした頭でも、殺気を感じた。
「間接エッチだ!」
ニヤリ。
ファージが、危険な笑みを浮かべて言った。
「うわぁぁぁん、ファージのバカ〜ッ!」
そんな叫び声に続いて。
ばたばたと走る足音。
扉がばたんと閉められる音。
そして、扉に鍵をかける音が聞こえてきた。
その時、ソレアはユクフェに勉強を教えていたところで、二人して顔を見合わせる。
「なに、今の?」
「ユイおね〜ちゃんの声だね」
二人が首を傾げていると、そこにファージが姿を現した。
「えへへ〜、泣かせちゃった。冗談のつもりだったのに」
「ファージ、あなた何をしたの?」
「んふ、ちょっとね〜」
ファージは、ぺろりと舌を出して笑った。
(もう、昼か…)
居間のソファに横になって、奈子はぼんやりと考えた。
今日は、由維はいない。
一人で向こうへ行っている。
特に危険はあるまい。同じファージのカードを使っているのに、由維の転移は奈子よりもはるかに精度が高いのだから。
向こうで奈子がトラブルに巻き込まれるのは、そのほとんどが転移をミスして変な場所に出たことがきっかけだ。真っ直ぐにソレアの家へ行けば、危険な目に遭うことはまずない。
一人で危険な場所へは行かないように、よく言い聞かせてあるし、ソレアやファージにも監視を頼んである。
まあ、由維一人でも大丈夫だろう。
由維は勉強好きで好奇心が強いから、疑問をそのままにしてじっとしていられないのだ。奈子が向こうへ行けないのは、完全に自分の不注意だから、由維が行くのを止めるわけにもいかない。
(それにしても、子供…か)
やっぱり、信じられない。
自分が、母親になるなんて。
だけど、それが現実なのだ。
横になって目を閉じ、そっとお腹に手を当てる。
確かに、感じることができる。まだ三ヶ月くらいなのに。
自分の中にある、もう一つの命の存在がはっきりと感じられる。あるいは、魔法の力によって感覚が鋭敏になっているのかもしれない。
(名前、どうしようかな…)
気の早いことを考える。男の子だった場合、女の子だった場合。
(どっちにしても、将来は格闘家だよな…)
勝手に、子供の進路まで考える。
奈子とエイシスの子供であれば、体格も素質も申し分あるまい。しかし別に他のスポーツ選手でも構わないはずなのに、格闘技にこだわるあたりが奈子の趣味である。
「奈子、お粥ができたよ」
奈子がぼんやりと考え事をしていると、そんな声が聞こえた。
「…いつもすまないね」
お約束として、そう応える。
「それは言わない約束でしょ」
「…ぷっ」
二人して、同時に吹き出した。
相手はもちろん由維ではない。奈子の具合が悪いのに由維が留守だと聞いて、亜依が来てくれたのだ。彼女も、奈子が一人では満足に食事も作れないことを知っている。
もっとも亜依はまだ、奈子の身体のことは知らない。今のところ、ただの風邪と誤魔化している。いずれは、打ち明けなければならないだろうが。
「だけど奈子、ホントに具合悪いの?」
「え? ど〜して?」
具合が悪いのは本当だ。身体はだるくて熱っぽいし、まだつわりも治まってはいない。
「だって、ぜんぜん具合悪そうな顔してないよ? なんだかすごく幸せそう。それに、奈子って最近きれいになったよね」
「え、そ、そう?」
奈子は朱くなって、頬に両手を当てた。
翌週の週末も、由維は一人で向こうへ行こうとしていた。
金曜の夜、奈子のところに顔を出した後、奏珠別公園の展望台へ向かう。
(今日は、何を調べようかなぁ。やっぱり…)
知りたいことは山ほどあるが、いま一番の疑問は、あの世界の『神』についてだった。
奈子が初めて向こうへ行った頃から、由維はその世界のことについて、奈子が知っていることはすべて聞かせてもらっていた。
しかし、奈子の知識もごく限られたものでしかない。話を聞いて想像していたことと、実際に見たことでは、ずいぶんと違っていることもあった。
正直なところ、由維は初めの頃、もっと簡単に考えていた部分があったのだ。
奈子が話してくれた、二種類の神について。
ファレイアの神々と、ランドゥの神々。
ファレイアの主神トゥチュは太陽神だ。それに対してランドゥは、闇の中から生まれた神である。
神話によれば、二つの神は太古から対立を続けているという。だから由維は、それこそファンタジー小説やロールプレイングゲームによくあるような「光と闇の闘い」だと考えていたのだ。
剣と魔法の支配する世界。光の神と暗黒神の闘い。ファンタジーの王道ではないか。
しかし、どうも様子が違う。
トリニアをはじめ、コルザ川より南部の地域では、古くからファレイアを信奉していた。ストレイン等、北の国々はランドゥを崇めていた。
そうした国々では、対立する神は邪神である。奉ずる神の違いが、古くから戦争の原因にもなっていた。トリニアとストレインの対立も、元を辿れば宗教戦争的な意味合いが強い。
しかしそんなことは、由維の世界でもよくあることだ。
権力者にとって、信仰心に訴えることは民衆を操るもっとも有効な手段の一つだ。あの世界でも、それは共通している部分がある。トカイ・ラーナ教会などはその典型ではないか。
面白いことだ。
闘いの女神の化身、アール・ファーラーナの存在が信じられている世界。
竜騎士の力は、神々から授けられたものと信じられている世界。
なのに由維がいくら調べても『神々』の存在を実体として捉えることはできなかった。由維の世界と同じく、神とはひどく抽象的な存在でしかないのだ。
魔法が存在する故に、神の存在も現実のものとして受け入れてしまいそうになるが、もしかしたら違うのかもしれない。
エモン・レーナは確かに謎の多い人物だ。そして、千五百年前に彼女が実在したことはまず間違いないだろう。
だがそれをいったら、イエス・キリストだって実在の人物なのだ。しかし彼が起こしたとされる奇蹟の数々は、熱心なクリスチャン以外にとっては眉唾でしかないだろう。
神という言葉は便利なものだ。どんな疑問も不条理も、神に責任を負わせることができる。
しかし由維が学んだ範囲内においては、結局あの世界の歴史も、人間が紡いできたものなのだ。
あの世界は、別に神様が創ったわけではない。宇宙そのものを創造したのが神であるなら話は別だが、仮にそうだとしても、神がその世界に干渉したのはビッグバン以前のことだろう。
もしも神というものが実在するとしたら、それは物理の法則を決め、創世のスイッチを入れて「後は好きにしなさい」と言うだけの存在に違いない。
ノーシルと呼ばれるあの星は、四十億年以上昔に、由維が知るものと同じ物理法則に従って誕生した。
そして、地球とよく似た、しかし少しだけ違う歴史を歩んできた。
魔法という不可思議な力を除けば、二つの世界の間にそれほど大きな違いはない。
もしかしたら、魔法だっていずれは科学的に説明できるのかもしれない。
(科学的に…か)
そんな考え方は、ある意味偏見かもしれない。科学万能の社会に住む者の。しかし真理を追究する術は、必ずしも科学だけとは限らないだろう。
向こうの世界は、いわゆる科学技術、機械技術に関してはこの世界での中世レベルにも劣るかもしれない。しかし、文化や知識のレベルはその時代よりもずっと高い。
王国時代の知識は、特に自然科学の分野に関しては極めて高いレベルにあった。それは科学的な手法によるものではなく、魔法学の研究によって得られたものである。
彼らは、多くのことを知っていた。その豊富な知識には、由維も驚かされた。
例えば星のこと、宇宙のこと。
トリニアの時代には既に、自分たちの住む世界が、ノーシルという一個の星であることが知られていた。
それが、太陽を巡る惑星であることも。
銀河の存在を知り、宇宙には、同じような銀河が無数に存在することも。
ノーシルの誕生から現在までの歴史も。
いずれも、非常に高度な知識を保有していた。
そして、生命のこと。
生物の身体が細胞から作られていること。
細菌やウィルスの存在。
そして、生命の源が遺伝子…DNAであることさえ。
もしかしたら、遺伝子を操る技術はこの世界を越えているかもしれない。
王国時代、ドールと呼ばれる様々な魔法生物が人為的に創りだされていた。王国時代の後期には、それは単なる掛け合わせによる品種改良ではなく、異なる種の遺伝子の結合、あるいはまったく一から合成された遺伝子によって生み出されるようになっていた。
王国時代のドールの中で、一般に最高傑作と呼ばれているのが亜竜だ。それは竜に似ているが、竜の遺伝子のクローンではない。竜を目標に、一から作られた人工の生命だった。
由維は亜竜を、そしてもちろん竜も見たことはないが、それがどれほどの力を持った生物であるかは聞いている。
そして…。
ドールの真の最高傑作は、あの少女だろう。
ファーリッジ・ルゥ・レイシャ。
人の形を取り、竜騎士を越える力を持った魔物。
ソレアが、こっそり教えてくれた。
ファージは、人間の遺伝子を操作して強大な力を持たせたものではない。まったく異なる遺伝子を元にして、人の形を取るように手を加えたものなのだ、と。
そう聞いても信じられなかった。
実際に会ったファージは、とても人間くさくて。
話していても楽しい相手だった。
あれで恋敵でなければ、もっと仲良くしたっていい。
ファージの遺伝子がどのように創りだされたのか、正確なところはわかっていないという。
彼女を生み出した魔術師は、早くに亡くなっていた。表向きは病死ということになっているが、実際には自殺だったらしい。自分の屋敷に火を放って、自身もその中で焼け死んだのだ。
その時、彼が行っていたドールの研究に関する資料も、すべて失われたという。
唯一残ったのは、炎などでは殺すことのできない存在、後にファーリッジ・ルゥと名付けられることになる赤ん坊だけだった。
『私が調べたところでは…』
ソレアが言っていた。
『ファージの遺伝子は、むしろ竜に近いわね。竜の持つ魔力をさらに強力にして、それを人間の形にしたもの…というのが一番近いのではないかしら』
(竜…ね)
本物の竜は、向こうの世界でももう見ることができない。トリニアとストレインの最終戦争後間もない時期――今から千年近く前――に絶滅してしまった。
戦争で失われた竜も多いが、竜はもともと数も少なく、繁殖力も弱い生物だったという。
そのため、高い知性と強大な魔力を持ってはいるが、その巨体が災いして、戦争が引き起こしたノーシルの環境の急変に対応できなかったのだろう。
(人よりも、竜に近い生き物…か。そうは見えないよなぁ…)
人なつっこくて、ちょっと乱暴で、やきもち妬きな女の子。
そして、かなりエッチでテクニシャン…。
不意に、先週のことを思い出した。顔が真っ赤になる。
いきなりキスされて、無理やり、それ以上のこともされそうになって…。
(奈子先輩以外の人に、あんなコトされて感じるなんて、私ってば…)
もちろん奈子には話していない。奈子は自分のことは棚に上げて、由維の浮気にはすぐ嫉妬するのだ。
(これじゃあ、奈子先輩が少しくらい浮気しても怒れないよなぁ)
溜息をつく。
(今日はファージはいないといいなぁ。顔会わせにくいもん)
そんなことを考えながら、転移のカードを取り出して呪文を唱える。淡い光が、由維の身体を包み込んだ。
「……奈子先輩じゃあるまいし」
思わず、そんなことをつぶやいた。奈子に聞かれたら怒られそうな台詞だ。
そこは、真っ暗な場所だった。周囲は何も見えないが、足の下には堅い、平らな石の感触がある。
由維は呪文を唱えて、小さな魔法の明かりを灯した。それで周囲を照らしてみる。
かなり広い、石造りの部屋だった。地下室だろうか、窓は一つもない。ただ、扉が一つあるきりだ。
「やっちゃった…」
そう。由維は今回、初めて転移に失敗したのだ。ファージのことやなんかを考えていて、精神集中が不十分だったのだろうか。
「どこ…ここ…?」
人の気配は感じられない。
奈子が転移に失敗した時は、王国時代の遺跡に出ることが多かったという。しかし、どうやらここは違うようだ。
今は人の気配はないが、時々、人間が訪れている様子があるし、床には埃もほとんどない。
部屋の中には特にこれといったものはない。となると、扉を開けて外に出てみるしかなさそうだ。
ほんの少しだけ扉を開き、隙間から外を覗いてみる。
どうやら、通路のようだ。同じような石造りの壁が続いている。壁の所々に魔法の明かりが灯っていて、ぼんやりと明るい。
向こうから、人がやってくる気配がした。由維は慌てて顔を引っ込める。ほんの小さな隙間から、様子をうかがった。
通路を歩いてきたのは、二人の中年男性だった。法衣らしきものをまとっている。何か小声で話しているが、はっきりとは聞こえない。
しかし、その中に一つだけ、明瞭に聞き取れた単語があった。「アルンシル」と。
思わず、声を上げそうになった。
別にこの世界で、教会や神殿は珍しいものではない。宗教者らしき人間が歩いていたとしても、気にすることでもない。
しかし…。
もしも、由維の懸念が的中していたら。
ここが、トカイ・ラーナ教会――それも、一般の信者は立ち入ることができない総本山の奥部『アルンシル』だとしたら。
大変なことになった。
(なんで、こんなところに…)
確かに、転移をミスした時は、魔法的な影響の濃い場所に出ることが多いという。しかしアルンシルともなれば、大国の王宮並に強固な結界が張られているだろうに。うっかりミスで迷い込めるような場所ではない。
そう考えてから気が付いた。
奈子や由維の次元転移は、通常の空間転移に比べると、対転移結界の影響を受けにくいのだ。
(だからといって、マズイよなぁ。いくら、こっちに来る前に宗教のことを考えていたからって。こんな、神様のお膝元に…)
そういう雑念が、転移には一番よくないのに。
今回は、精神集中が足りなかったかもしれない。
(どうしよう…どうしよう…)
膝ががくがくと震えていた。
好ましからざる事態、というべきだろう。
トカイ・ラーナ教会は、奈子やソレア、ファージにとっては『敵』だ。その関係者となれば、見つかった時ただでは済まないだろう。
下手をしたら、殺されるかもしれない。
(殺…される…?)
身体から力が抜けて、へなへなと座り込んだ。
由維は今、ひとりきりで敵地の真ん中にいるのかもしれないのだ。
絶望的な気持ちになる。
由維や奈子は、最低でも十数時間の間を置かなければ、次の転移はできない。
それまで、逃げ出すこともできない。
ここに、ひとりきりでいなければならない。
奈子はいない。ソレアも、ファージも。
(怖い…)
全身が震え出す。
これまで、考えたこともなかった。自分の命が危険にさらされるなんて。
そう、今はひとりきりなのだ。
こんなこと、これまでなかった。
物心ついてからこれまで、いつだって奈子が傍にいてくれた。
いつだって奈子が護ってくれた。
その安心感があるから、由維は、なんの不安もなしに行動することができたのだ。
だけど、ここには奈子はいない。
(奈子先輩…)
由維は、膝を抱えるような姿勢で床に座った。
もう、二度と会えないかもしれない。ほんの数分前まで、そんなこと考えもしなかったのに。
(奈子先輩…助けて…)
涙が出てきた。
怖くて、不安で仕方がない。
自分がこんなに臆病な人間だったなんて。
いいや、そうだった。臆病で、泣き虫なのだ。小さい頃から。
そんな弱さを護ってくれたのが、奈子だ。
奈子に護られているという安心感があればこそ、どんな大胆な行動だってとれた。
だから、少しでもお返しがしたかった。
なんでもいいから、奈子の役に立ちたかった。
奈子にとって、大切な存在になりたかった。
その想いは叶ったのに…やっぱり自分は、相変わらず弱虫なのだ。
(私、どうなっちゃうの…。助けて、奈子先輩…)
自分が今アルンシルにいることを、なんとか知らせることができれば。直接奈子に通じなくてもいい。ソレアでも、ファージでも、あるいはフェイリアでも。
そうすれば、きっと奈子が助けに来てくれる。何があっても、ここがどこであっても。
(魔法…)
そう、魔法だ。魔法を使えば、テレパシーのように遠く離れた相手と話をすることだって不可能ではない。
とはいえ、由維は実際にその魔法を試したことはない。
それに、ここが本当にアルンシルだとしたら、強固な結界に覆われているはずだ。その中で下手に外へ通じる魔法など使ったら、自分の存在を周囲に宣伝するのも同然だった。
奈子に知らせるよりも先に、見つかってしまう可能性が高い。それでは話にならない。
(あ…!)
そこで、大変なことに気が付いた。
ここがアルンシルであった場合、そうでなくとも、トカイ・ラーナ教会に属する大きな教会であった場合、もしも見つかって捕らえられてしまったら、どうなるだろう。
由維が、奈子やソレアたちの関係者であると知られたら…。きっと、すぐに殺されはしない。そして、人質として利用されることだろう。
由維が人質になったとしたら、奈子は絶対にやってくる。
自分の身にどんな危険があるとしても、躊躇するはずがない。
奈子がすべてを引き替えにしてでも由維を助けようとすることは、容易に想像できた。
(…ダメ、そんなこと。今の奈子先輩を、そんな危険に巻き込むなんて…)
奈子のお腹の中には、赤ちゃんがいる。とても、闘えるような状態ではない。
本来ならこんな時は、由維が奈子を護ってやらなければならないのに。
(…そうよ、泣いている場合じゃないの)
由維は、手の甲で涙を拭った。
ここで泣いていても何も解決しない。
奈子を護らなければならない。
そのために、いま自分にできることをしなければ。
まずは、ここからなんとかして逃げ出すことだ。
そう決心して、立ち上がった。
まだ、脚が少し震えている。
怖いのは誤魔化しようもない。
だけど、何か行動を起こさなければならない。
いつまでも、小さい頃と同じ泣き虫ではいられないのだ。
(さて、これからどうしよう)
もう一度転移で帰るには、明日まで待たなければならない。それは時間がかかりすぎる。
先刻の二人の男以外、人の気配は感じられない。あまり人が来ない場所なのだろう。
どこかに隠れて、明日までじっとしているべきだろうか。
それとも、外への通路を探した方がいいだろうか。教会から出れば、ソレアやファージとも連絡を取りやすいだろう。
(まずは…もう少し、周囲の状況を知ることよね)
適切な行動を選択するためには、まず十分な情報を集めなければならない。そもそも、ここが本当にアルンシルであるかどうかも、まだわからないのだ。
情報収集をせずに憶測だけで行動したとしたら、うまくいくかどうかはまったくの運任せになってしまう。できるだけ多くの情報を分析して、少しでも成功の確率が高い行動を選ばなければ。
幸い人の気配もないし、ここから出て周囲を探ってみよう。そう、決めた。
もしかしたら、意外と出口は近いかもしれないし、ここよりももっと適切な隠れ場所が見つかるかもしれない。
(万が一誰かに見つかったら…)
念のため、その時のことも考えておかなければならない。
どうするのがいいだろうか。
(…巡礼に訪れた信者の…娘ってのはどうかな?)
トカイ・ラーナ教会の聖地であるアルンシルは、大陸各地から多くの信者が巡礼に訪れるという。
アルンシルの奥部に入れるのは、ごく僅かな高位の神官だけらしいが「親とはぐれて迷い込んでしまった」というシナリオなら、けっこう信憑性はあるのではないだろうか。
(それとも、もしも相手が若い男だったら、色仕掛けってのは……)
そう考えて、自分の身体を見下ろして。
(……無理か)
冷静かつ的確な判断を下した。
やっぱり、子供っぽい顔つきやスタイルを逆手にとって、何もわからない子供のふりをした方が似合っている。
由維はもう一度扉を開けて、顔を出してみた。
所々に灯っている明かりでぼんやりと明るいが、遠くまで見渡せるほどではない。通路は左右とも、少し行ったところで直角に曲がっているようだ。
じっと、耳を澄ましてみた。
何も聞こえない。
心を決めて、通路に滑り出た。
さて、どちらへ行ったらいいだろう。左右とも同じような通路が続いている。
少し考えて、左手…先刻の二人の男たちがやってきた方を選んだ。こちらに何があるかは知らないが、右へ行けばあの男たちがいるのは確実なのだ。
足音を立てないように、慎重に進んでいく。
最初の角を曲がった。その先も真っ直ぐに通路が続いている。
由維が出てきたところ以外には、扉は見当たらない。しかし石造りの回廊は所々に窪みがあって、小柄な由維ならなんとかもぐり込めそうだ。通路が薄暗いことが幸いして、万が一誰かが来た時はここに身を隠せば、やり過ごせる可能性が高そうだった。
ほんの少しだけど、希望が湧いてきた。
微かな気配も見落とさないように、周囲に気を配りながら足を進める。
通路はかなり古いものだ。埃や塵はほとんど積もっていないが、そう頻繁に人が通っている様子もない。
ひんやりとした湿った空気から、やはりここは地下なのだろうと考えた。
ほとんどなんの変化も見られない通路を、ゆっくりと進んでいく。しばらく行って、いくつかの角を曲がったところで、正面に大きな扉が出現した。
由維は扉に張り付くようにして耳を押しつけ、中の気配を探る。
物音は聞こえない。
そうっと、扉を押してみた。
かなり重かったが、ほとんど音も立てずに開く。中をのぞき込んだ。
部屋のようだった。これまで歩いてきた通路と同じくらい薄暗いが、それなりに広そうだ。
慎重に、中へ入ってみる。
がらんとしていた先刻の部屋と違い、ここにはたくさんの書棚が並んでいた。そして、奥に別な扉がある。
ちらりと書棚に目をやる。ぎっしりと本が並んでいた。
古い物が多い。もしかしたら、ソレアの書斎にも匹敵するくらいに。
「これは…」
並んだ本の背表紙にざっと目を通してみた。読めない文字で書かれた物もけっこうある。
それに、ソレアの書斎で見たのと同じ物も…。
(…ビンゴ?)
由維は心の中で舌を出した。
もしかして、トカイ・ラーナ教会が所有しているという、王国時代の失われた知識に関する資料を収めた書庫だろうか。
だとしたら、大変な物を見つけたことになる。残念なのは、ゆっくり読む余裕がないということだ。ここでなら、ソレアの蔵書でもわからなかったことが調べられるかもしれないのに。
(少し、もらっていっちゃおうか?)
ふと、そんなことを思いついた。
泥棒には違いないが、トカイ・ラーナ教会は…いや、もしもここがアルンシルではなかったとしても、王国時代の知識を求める者はソレアやファージの敵なのだ。
(いいよね、少しくらい)
窃盗ではなくて、スパイ活動だ、と。そう言い訳する。
幸いなことに、ポケットの中には物品収納用の魔法のカードが何枚か入っていた。本の百冊くらい、造作なく持ち出せる。
とはいえ、あまり本選びに時間をかけるわけにもいかない。こんなところで本を物色しているところを見つかったら、言い訳のしようもない。
一冊ずつ内容を見て選ぶ余裕はないので、とりあえず古そうな本で、ソレアのところで見た覚えのない本を片っ端から取りだし、カードの中にしまっていった。
念のためそのカードはポケットではなく、靴の中に隠しておく。
部屋の奥には、書物以外のものを収めた棚もあった。
なんだろう。ちょうど弁当箱くらいの金属製の箱が、いくつも並んでいる。
一つ手に取ってみた。ずっしりと重い。
宝石箱のように、上蓋が開くようだ。開けて、中を覗いてみる。
柔らかな布が敷かれて、小さなガラス板が置かれていた。それを手に取ってみる。ガムよりも少し大きいくらいで、厚みはもっと薄い。
「なんだろ…これ」
ぼんやりとした光に透かしてみた。
「顕微鏡のスライドグラス…のわけないよね」
よく見ると、それはガラスではない。もっと鮮烈な輝きを放っている。光の屈折率がガラスとは違うのだ。
「宝石…?」
爪で弾いてみた。なんとなくガラスよりも固い感触だ。
「水晶とか…?」
もしかしたら、魔法に関係した品だろうか? 由維にはよくわからない。
「わかんないから、これも何枚かもらっちゃお」
ソレアやファージなら、きっとわかるだろう。そう思って、カードの中にしまい込む。
一通り部屋の中を物色して、奥の扉の前まで来た。
それを開けようとしたところで、いきなり向こうから扉が開かれた。
由維は驚いたが、向こうも同じくらいに驚いているようだ。そこには、三十代前半くらいの男性が立っていた。
「きゃ〜〜っっっっ!」
反射的に、思いっきり股間を蹴り上げてしまった。
それは、道場で何度も練習した一連の動きだ。相手が前屈みになったところで、後ろ回し蹴りにつなぐ。
蹴りがまともに顎に当たって、男は白目をむいて倒れた。
「…やっちゃった。でも、仕方ないよね?」
本当なら、迷子のふりをする計画だったのに。
しかし、こんな場所に迷い込んだ後では、こうした方がよかったかもしれない。
幸いなことに、他に人はいないようだ。そこは今いる部屋よりも暗く、もっと広い。そして室内にあるものは、これまでとはまるで違っていた。
「…えっと」
とりあえず、目を覚ましても暴れられないように男を縛り上げて、猿ぐつわをかませた。そして、部屋の隅の目に付きにくい場所へ引きずっていって転がしておく。
「で、ここはなんなの?」
学校の教室よりもずっと広い部屋に、所狭しと並べられた大きなガラス容器。小さなものでも一斗缶くらい、大きなものは家の浴槽くらいのサイズだ。いずれも僅かな濁りのある透明な液体で満たされ、管でつながれているものも多い。
「水族館…のわけないよね」
近くにあった、比較的小さな容器をのぞき込んでみた。中に、何かいる。
「――っ!」
由維は声にならない悲鳴を上げ、一メートルほど飛び退いた。
その容器には、体長三十センチほどの、不気味な生き物が入っていた。強いて言えば、サンショウウオの幼生を大きくしたような。
あるいは…何かの胎児だろうか。
恐る恐る、もう一度よく見てみた。今度は心の準備をしてから。
小さな手足が生えていて、丸くなってじっとしている姿は、やはり胎児のようだ。
「…なに…これ」
隣の容器も見てみた。今のと似たような、だけどもっと大きな生き物が入っている。
それを確認した由維は、他の容器も順に見ていった。ほとんどの容器に、同じような生物が納められていた。
まったく同じではない。あるものは両生類、あるものは鳥類、またあるものは哺乳類のような姿をしていた。
発育段階も様々だ。先刻とは逆に、もっと小さな、未成熟のものもいる。
これらは、ホルマリン漬けの標本ではなかった。この容器の中で、生きていた。
時折、身体を震わすように動くものがいる。半透明の皮膚を透かして、心臓が脈打っているのが見える個体もいた。
「なにかの研究室? 気持ち悪いな…」
奥にもまだ部屋が続いている。隣り合ったいくつもの部屋を、扉なしでつないだような構造になっているらしい。
由維は、奥へと進んでいった。あまり長居したい場所ではないが、先がある以上、戻る気にもなれない。
見ていくうちに、胃液がこみ上げてきた。ハンカチで口を押さえる。
やがて、これまでよりもずっと大きな容器が並んだ部屋に出た。これまでの容器と中の生物のサイズとの比率からいけば、この容器の中に入っているものは人間よりもずっと大きいことになる。
「胎児でこのサイズってことは…まさか象とか鯨?」
そう思って覗いてみる。
「……え?」
そこにいた生き物は、これまでとは少し違っていた。
確かに大きい。由維よりも大きいくらいだ。
それでいて、まだ胎児の姿をしている。
それも、奇妙な姿の生物だった。
おおよそのシルエットとして、褐色の鱗に覆われたその身体はオオトカゲに似ている。
しかし、頭の後ろと尻尾の先に生えた各三対の角と、そして背中に生えた翼はなんなのだろう。
その姿は…。
「――竜?」
確かにそれは、本で見た王国時代の竜に似ていた。
「…まさか」
竜のはずがない。
竜は、千年近く前に滅びてしまったはずだ。
現存するのは、人間が創りだした竜に似た生物、亜竜だけだ。
「亜竜を飼育してるのかな…?」
確かに、本物の竜には及ばないとはいえ、亜竜も非常に強い力を持った魔物だ。そして、生息数は極めて少ない。研究材料としての価値はかなりのものだろう。
「あれ? でも亜竜って、鱗が黒いんじゃなかったっけ?」
竜よりもやや小さいことを除けば、姿形はほぼ同じだ。しかし、本物の竜には見ることのない漆黒の鱗が、亜竜の特徴だったはず。
目の前のこれは、黒と呼ぶにはいくらなんでも色が薄すぎる。
「胎児だから? 成長するに連れて色が濃くなるのかな? それにしても…亜竜を飼育しているなんて…」
王国時代の魔法の研究のためだろうか。それとも、兵器としてだろうか。
「どっちにしろ、ろくなことじゃないよね…」
ソレアやファージに伝えた方がいいかもしれない。
生命を弄ぶ行為、という倫理的な問題だけではなく。
どこの国であれ、亜竜を兵器として量産できるとなったら一大事だ。大陸における戦力のバランスが大きく崩れてしまう。そして、また戦争が起きる。
ソレアやファージがこれを知ったら、絶対に放ってはおかないだろう。
亜竜なんて大物が出てきたから、これが最後の部屋かと思ったら、まだ先があった。これ以上の大発見はあるまいと思っていたのだが。
由維は、さらに奥の部屋へと足を踏み入れた。
やはり同じような部屋だが、先ほどの亜竜の部屋に比べれば容器のサイズは小さい。とはいえ、それでも由維はおろか、成人男性でも楽に入れるサイズなのだが。
「…まさか!」
遠くからちらりと見えたものが、すぐには信じられなかった。
暗いから見間違えたのだろう、と。そう思い込もうとする。
「まさか…ね」
よく見えるように、小さな魔法の明かりを灯す。
そして、息を呑んだ。
目が見開かれる。
「そんな…そんな…」
竜の姿をを見た時、これ以上の驚きはあるまいと思った。しかし、それは間違いだった。
竜よりも衝撃的なものが、一つだけ存在した。
容器の中に浮かんでいるのは紛れもなく――
人間、だった。
そこに並ぶ十以上の容器のそれぞれに、様々な成長段階の、人間の胎児の姿がある。
いいや、胎児ばかりではない。
由維の目の前に、もっとも成長していると思われる個体がいた。
それは、赤ん坊ですらなかった。
四〜五歳くらいにはなっているだろうか。
女の子だ。赤い髪が水中に漂っている。
その女の子は、目を開いていた。
作り物のような赤銅色の瞳が、由維を見つめていた。
まさか、意識があるのだろうか。そう思ってのぞき込む。
「――っ」
由維を見て、微かに笑ったようにも見えた。気のせいかもしれないが。
「なに、これ…」
ぺたりと、床に座り込んだ。
全身が震えている。どうしても震えが止まらない。
「なんなの、これ…」
その答えは、既に知っているはずだった。
先刻、竜の姿を見た時に、答えを口にしたはずだ。
ここが、単なる生物学の研究室などではないことは、とうに気付いている。
一つ前の部屋にいたもの、亜竜。
それは王国時代に生み出された、――だ。
だとしたら、ここにいる子供たちも…。
「……ドー…ル…」
ドール。それは人の手で生み出された、人造の魔法生物。
「この子たちも…?」
そう思ってもう一度よく見る。
人間っぽくない、赤銅色の金属的な光沢のある瞳が特徴的だ。それはどこか、ファージの金色の瞳を彷彿とさせた。
ファージの瞳は黄金色で、髪も金髪だ。
ここにいる子供たちは皆、赤毛に赤銅色の瞳を持っているという違いはある。
しかし…。
(…赤い…髪?)
何かが、引っかかる。何か見落としてはないだろうか?
大切な何かを…。
「…あぁっ?」
思わず、声に出して叫んだ。
ここが本当にアルンシルだとしたら、これが単なる偶然だろうか。
アルワライェ・ヌィ・クロミネル。
アィアリス・ヌィ・クロミネル。
裏で数多くの兵を擁するトカイ・ラーナ教会でも、最強の力を持った二人だ。
二人とも、赤い髪を持っている。
由維は会ったことがないから瞳の色までは知らないが、これが単なる偶然だろうか。
現在では失われたはずの、王国時代の竜騎士にも匹敵するという、強大な力を持った姉弟。
その二人とも、ここにいる子供たちと同じ赤い髪を持っているとしたら。
それが偶然のはずがない。
「…ドール…なの? アルワライェも、アィアリスも…」
「正解」
突然、背後で声がした。
床に座り込んでいた由維は、びっくりして、転がるように振り返った。
「じゃあ、どうしてその名を知っているのか、どうしてこれを見ただけで、その結論を導き出せたのか、教えてもらえるかな? ああ、それから、君が何者なのかもね」
人なつっこい笑みを浮かべた、二十歳くらいの若い男がそこに立っていた。
赤い髪の、そして…。
「ずいぶん探したよ」
そう言う男の瞳は、赤銅色の輝きを放っていた。
「網に獲物が引っ掛かったのは間違いないのに、ずいぶん気配が弱くて。第一、狙っていた獲物と違うんだもんなぁ。いったい、君は誰?」
男は、悪戯な笑みを浮かべて言った。
「アルワライェ…ヌィ…?」
由維は床に座り込んだまま、震える声でつぶやいた。
間違いあるまい。
背格好。髪の色。子供っぽい表情と口調。
すべてが、奈子から聞いたアルワライェの特徴と一致している。
「…どうして僕の名前を知っているのかな? 君とは初対面だと思うんだけど。第一、君は何故ここにいるんだい?」
アルワライェは訊く。興味深そうに、面白そうに。
「あ、…」
由維はミスを犯したことに気付いた。
アルワライェの名を口にしたのは失敗だった。誰かに見つかったら道に迷ったふりをするという、最初の計画が台無しだ。
「あ、あの、え〜と…」
額から汗が噴き出す。
「道に迷った、なんてふざけた言い訳はしないようにね」
アルワライェが先回りして言う。
台詞を取られた由維は、開きかけた口をつぐんだ。じっと、上目づかいにアルワライェを見上げる。
何も知らないふりをしたり、とぼけたりするのは難しそうだ。
だから、戦術を変えることにした。
「…獲物が網に掛かったって、どういうこと? 狙っていた獲物って?」
「子供のくせにうまいね、君は」
由維の質問には答えず、さも可笑しそうに言う。
「質問しているのはこっちだよ。それに答えず、質問に対して別な質問で返す。訊かれてまずいことを訊かれた時の、基本だね」
どうやら由維の考えなど、簡単に見抜かれているようだ。
「だけど、答えてあげてもいいよ。僕は親切だからね。でも、君はもう答えを知っているんじゃないかな? そうじゃなければ、どうしてナコ・ウェルだけを対象とした対転移結界に引っ掛かるんだい?」
不意に聞き慣れた名前が出てきて、びくりと肩が震えた。一瞬、表情が強張る。
「ナコ・ウェルがたまに行う転移は、ちょっと変わっていてね。一般的な転移魔法とは、通る次元が違うんだよ。だから、そこに罠を仕掛けてみたんだ」
アルワライェは一語一語、ゆっくりと言う。まるで、由維の反応を確かめるように。
「本当なら、僕の部屋に招待するつもりだったんだけど、ちょっと狙いが甘かったかな。何重にも結界を張っているのに、ここの魔力は強すぎてね。周囲の転移に対する影響が大きいんだ」
由維のこめかみに、冷や汗が一筋流れた。
由々しき事態だ。
トカイ・ラーナ教会は――あるいはアルワライェ個人がかもしれないが――は、奈子を捕らえようとしていたのだ。
一般的な転移魔法とは違う、次元転移をする者だけを対象とした罠。それはつまり、奈子だけを狙ったもののはずだ。
由維が、それに引っ掛かってしまった。転移に失敗したのは自分のミスではなく、結界の力で無理やりここに引き寄せられたのだ。
「転移魔法を使える魔術師はたくさん知っているけど、あんな奇妙な転移をする人間はナコ・ウェル以外に見たことがない。そもそも、どこから転移してきているのかもわからないしね。ソレア・サハの屋敷にいない時は、いったいどこで過ごしているのやら」
アルワライェがわざとらしく肩をすくめる。
「会いたいのになかなか会えないから、ちょっと強引な招待を思いついたのに」
ようやく獲物がかかったと思って来てみたら、それは期待していた相手ではなかった、と言いたいのだろう。
「ごめんね。当てが外れて」
それだけ言うのにも、声が震えないようにするのが大変だった。怯えているなんて、知られたくない。
「人違い、ということで見逃してくれないかなぁ?」
「人違い? まさか」
由維の提案はあっさりと笑い飛ばされた。
「君、ナコの知り合いだろう」
アルワライェは、そう断定した。
「そういえば、最近ソレア・サハのところに小さな女の子がいるって報告が来ていたっけ。それが君だと思うんだけど、違う?」
口調は質問でも、アルワライェはそのことを確信している。ソレアの屋敷は見張られていたのだろうか。
無駄だとはわかっていても、由維は一応否定する。
「し…知らない。ナコって誰? いったいなんのこと?」
「残念ながら、君は嘘をつくのが下手だね。顔に書いてあるよ。君を人質にすれば、ナコ・ウェルが血相変えて飛んで来るって」
「――っ!」
由維は跳ねるような動作で立ち上がると同時に、アルワライェの股間を蹴り上げようとした。完全に不意をついた攻撃のはずだった。
しかし、それは空振りに終わった。同時に、激しい衝撃が身体を貫き、由維は壁に叩きつけられた。
口の奥に、錆びた鉄の味が広がる。
「しばらくアルンシルに滞在してもらうよ。なぁに、そんなに長い間じゃない。きっとすぐにナコがやってくるさ」
由維は歯を食いしばって、相手をきっと睨みつけた。手で、口元についた血を拭う。
アルワライェは、そんな由維を満足げに見ていた。
「そういう表情は、ナコに少し似ているね。面白くなってきた。アリスもバカだなぁ。こんないい時に、留守にしているなんて」
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