八章 流血の女神


 アンシャスの女王であるレイナ・ディ・デューンの許を、招かれざる五人の客が訪れていた。
 いずれも、大戦を生き延びたトリニアの竜騎士たちだ。
「…で、大勢でいったい何の用かな?」
 レイナは玉座に着いたまま、尊大な態度で五人を見下ろす。万人が思っている通りの「レイナらしい」態度だった。
 そんな態度も、その美しさも、三十も半ばを過ぎた現在ですら二十代の頃と何も変わっていない。
「言わなくてもわかっているだろう?」
 騎士たちの一人が、代表して応える。
「貴様がやろうとしていることを、止めるためだ」
 それを聞いたレイナの口元に、笑みが浮かぶ。
「…そしてまた何百年も、同じことを繰り返すのか?」
「そんなことにはならん。そのために我々がいる。貴様がやろうとしていることは、大陸を今以上の混乱に陥れるだけだ」
「墓守…か。下らんな。馬鹿どもの相手をしているほど暇ではない。お引き取り願おう」
「そういうわけにはいかん。力ずくでも、我々に従ってもらう」
「力ずく…だと?」
 レイナは笑って立ち上がった。
「雑魚が五人集まったところで、雑魚には変わりあるまい。トカゲが五匹いても竜にはならんぞ」
 嘲笑されて、五人は一斉に剣を抜いた。
「思い上がるな。剣の力で最強の名を戴いてきたくせに。理由は知らぬが、貴様が無銘の剣を失ったことは聞いているぞ。それで、我々六人を相手にできるというのか?」
 五人も自信ありげだった。そう考えるのも当然だ。竜騎士同士の闘いで五対一などというのは、常識で考えれば勝ち目があるはずもない。
「六人?」
 レイナは不思議そうに言って、五人の背後に視線をやった。そして、静かな笑みを浮かべる。
「六人目…か」
 十代後半の若い女が、無言でそこに立っていた。
 長い黒髪を腰まで伸ばしている。そのために、外見はレイナによく似ていた。
 黒を基調とした、トリニアの青竜の騎士の礼服をまとっている。それも妙な話だ。トリニアが滅びたのはもう十年近くも前のこと。その頃、彼女はまだ十歳にもなっていまい。
 しかし、紅い地に青い竜の紋章――紅蓮の青竜と呼ばれるその紋章は、青竜の騎士にのみ許されたものだ。
 そして、今では彼女だけがそれを着ける資格を持っていた。
「我々五人と、大陸で最高の血を引く竜騎士。レイナ・ディといえども勝ち目はあるまい? 大人しく、レーナ遺跡を引き渡してもらおう」
「…馬鹿につける薬はない、というのは本当だな」
 吐き捨てるように言うと、レイナは無造作に腰の剣を抜いた。それはもちろん無銘の剣ではなく、竜騎士が用いる魔剣でもない。ごく普通の長剣だった。
 それを見て、先頭に立っていた男が後ろを振り返る。
「…両親の敵を討つチャンスがやってきたぞ、レイナ・ヴィ」
 促されて、レイナ・ヴィ・ラーナは無言で前に進み出た。
 男の隣まで来て、真っ直ぐに自分の叔母を見つめる。その顔には、なんの表情も浮かんでいなかった。
 それから、ゆっくりと剣を抜いた。
 普通の剣よりも長く、そして金属の光沢を持たない、磁器のような純白の刃。
 竜の角から削り出されたといわれる『竜の剣』。
 この世に二本とない名剣。
 この剣は、彼女の母親ユウナ・ヴィ・ラーナの形見だった。
 そして、この剣を扱う技術を教えてくれたのは、目の前にいる叔母、レイナ・ディ・デューンだ。
 彼女の母親は、双子の妹の名を自分の娘に与えた。
 剣を握る手に力が入る。
 刃が閃いた。血飛沫が舞う。
 やや間を置いて、隣に立っていた男が倒れた。
「ば、馬鹿な…。裏切るのか、レイナ・ヴィ!」
 残った四人の騎士たちがざわめく。
「馬鹿は貴様らだ」
 鋭い目で彼らを睨みつけ、ゆっくりと言った。
「叔母上は、私にとってただ一人の肉親だ。それなのにどうして、貴様らに命じられて闘わなければならない? 自分の力で闘うこともできない臆病者どもが」
 四人の男たちに、剣を突きつける。
 その闘いの決着がつくまでには、さほど時間はかからなかった。


 闘いが終わった時、レイナ・ディは満足げにうなずいた。
「腕を上げたな、レイナ」
 返り血を浴びたレイナが顔を上げた。床は血の海で、五つの死体が転がっている。
 レイナ・ヴィは、顔に浴びた血を腕で拭った。
「あなたに教わった技です」
 姿勢を正して応える。
 レイナ・ディが玉座から降りてくる。
「そうだな、ヴィ・ラーナの名を継ぐに相応しい力だ。わずか七年で、ここまで成長するか」
「七年も、かかりました。ここまで来るのに」
 真っ直ぐに、お互いを見つめた。無言のまま、視線がぶつかり合う。
「なぜ、こいつらを殺した?」
 レイナ・ディが問う。
 それに対してやや躊躇うように、少し間を置いて答える。わずかに俯いて。
「…自分の力を、試す必要がありました。あなたは確かに、竜騎士として最高の技術を教えてくれた。その成果を試す必要がありました。並の竜騎士の四、五人くらい、無傷で倒せなくては…」
 そこでいったん言葉を切り、顔を上げた。正面からレイナ・ディを見て、意を決したように口を開く。
「――あなたには勝てません」
 その衝撃的な告白を聞いても、レイナ・ディは表情を変えなかった。
「他の誰でもない。私があなたと闘うのは、自分自身の意志で決めたことです。だから、この者たちは邪魔です」
「そうか」
 うなずくレイナ・ディの表情は、どこか嬉しそうですらあった。
「正直なところ、お前を引き取った時にはあと十年以上はかかると思ったがな。よく成長したものだ。これで私も、ユウナに対する義理を果たしたというもの。私を殺す資格があるのはお前だけだ。しかし…」
 レイナ・ディは剣を構えた。
「わざと負けてやる義理はない。手加減はしないぞ?」
「その必要はありません。今の闘いで確信しました。私は、あなたよりも強くなっています。竜の剣の助けも得られることを考えれば、負ける要素はありません」
 静かな、しかしはっきりとした口調で言うと、レイナ・ヴィも剣を構え直した。



 目を覚ました奈子は、自分の左胸に手を当てた。
 もちろん、傷なんてあるはずがない。
 しかし、鋭い痛みが残っていた。
 夢の中でレイナ・ディ・デューンを貫いた、竜の剣の感触が。
 レイナ・ディは、自分の姪に殺されることを選んだ。
 決して、手加減はしていなかった。しかしそれでも、レイナには初めから勝つつもりはなかった。
 十年前、姉のユウナ・ヴィが彼女に対してそうしたように。
 それが、一般には病死とされているレイナ・ディ・デューンの死の真相だった。
 奈子が墓所を訪れて以来、時々見るレイナの夢。それが単なる夢だとは、これっぽっちも思っていない。
 だから、すぐに信じられた。いま見た夢が、実際のレイナの死の場面なのだと。
(そんな…)
 彼女たちは、肉親同士で殺し合っていた。
 相手を憎んでいるわけではないのに。
 レイナ・ディは、姉のユウナ・ヴィを殺した。
 そしてユウナの子レイナ・ヴィが、レイナ・ディを殺した。
 憎しみはなく。
 ただ、そうしなければならない運命を呪いながら。
(どうして…)
 いったい、何があったというのだろう。
 あの五人の竜騎士たちは、トリニア側の人間だった。元々はストレインの騎士だったレイナ・ディだが、ストレインを出奔してアンシャスの支配者となった後は、トリニアと同盟を結んでいたはず。
 なのに何故、あの男たちはレイナを殺そうとしていたのだろう。
 レイナも、ユウナも、どうして闘わなければならなかったのだろう。
「まだまだ、知らないことが多すぎるな…」
 奈子は身体を起こした。いつの間にか、ソファで寝てしまっていた。
 本――妊娠と出産についての――を読んでいるうちに、眠ってしまったらしい。
 室内は暗い。時計を見ると、もう夕方だ。
 由維はまだ帰っていない。
(すぐ帰るって、言ったのにな…)
 由維が一人で向こうへ行ったのは、昨日の夜のことだ。ファージがいなくて自力で転移するにしても、今日の昼過ぎには帰れるはず。
 また、読書に夢中になっているのだろうか。
 しかし行く前には、向こうに長居はしないで読みたい本は持って帰ってくる、と言ってはいなかったか。
(心配しすぎ…だよね。ちょっと遅くなっただけじゃない)
 そう、自分を納得させようとする。
 なのにどうしてだろう。嫌な胸さわぎが治まらない。
(別に、今日初めて一人で行ったわけでもないのに)
 転移の精度では、比べものにならないくらい由維の方が上だ。ミスするはずがない。
 真っ直ぐにソレアの屋敷へ行っている以上、そうそう危険な目に遭うはずもない。
 なのに――
 心臓の鼓動が、大きくなる。
 夢見が悪かったせいかもしれない。どうしても不安が拭えない。
「…よし」
 決めた。向こうへ行くことにしよう。
 幸い今は、体調もそれほど悪くない。
 由維は怒るかもしれないけれど、一人で不安にとらわれている方がよっぽど身体に悪い。
 奈子は二階の自室へ行くと、転移のカードと向こうの服、そして短剣を掴んで外に出た。
 秋の日没は早い。
 もう、ずいぶん暗くなっていた。街灯が灯って、薄暗い通りを照らしている。
 奏珠別公園の展望台へと急ぐ。
 空気が冷たい。
 展望台に着いた奈子は、呼吸を整えてカードを取り出した。
 心を落ち着けなければならない。
 由維を心配するあまり、自分が転移に失敗したら笑い事ではない。
(落ちついて、落ちついて…。由維はきっと、大丈夫だから…)
 自分にそう言い聞かせて、呪文を唱えた。



 転移は、何事もなく完了した。
 ソレアの家の地下室に出る。
 居間へ行くと、ソレアの姿は見当たらず、ユクフェが一人で座っていた。
「あ、ナコおねーちゃん。いいところに来たね」
「いいところ?」
「これ、おねーちゃんに手紙。つい先刻届いたの」
「手紙? 誰から? ソレアさんや由維はいないの?」
 ユクフェが差し出す手紙を受け取りながら訊く。
「ソレア様はお仕事。でもそろそろ帰って…、あ」
 ちょうどその時、玄関が開く音がした。ソレアが帰ってきたらしい。
「それで…」
 由維は? と訊こうとした奈子は、息を呑んだ。
 手紙をひっくり返してみて、そこに、あってはならないものを見つけた。
 トカイ・ラーナ教会の紋章の封蝋。
「…それで…由維は…?」
 声と、手が震えていた。
 乱暴に封を解いて手紙を開く。
「ユイおねーちゃん? 来てないよ?」
 そんなユクフェの声は、奈子にはまるで死刑の宣告のように聞こえた。
 居間の扉が開き、ソレアが顔を出す。
「ただいま…あら、ナコちゃん?」
 笑いかけたソレアだったが、ただならぬ奈子の様子に表情が曇る。
「…なにか、あった?」
 奈子は黙って、手の中の紙を差し出した。受け取ったソレアの表情も、たちまち強張る。
「…ユイちゃんが?」
「昨日、ひとりでこっちに来たはずなんだ」
「…いいえ、来ていないわ」
 それは重々しい、絞り出すような声だった。
「よりによって、アルンシルに…」
 偶然というには、あまりにも出来すぎている。
 かといって、アルンシルの対転移結界は、ソレアでも簡単に突破できるものではない。由維が自分の意志で行こうとしても、まず無理だろう。
 自分の意志に依らずにアルンシルにいるのだとすると、事態はよりいっそう悪いことになる。
「ソレアさん…」
「駄目よ!」
 奈子の言葉を、ソレアは強い口調で遮った。
「あなた、ひとりで行こうとしているでしょう? 冗談ではないわ。罠とわかっているのにみすみす…。少し待ちなさい。まず、ファージを探すから…」
「それじゃ間に合わないかもしれない!」
 奈子は叫んだ。
「…それに、ひとりで来いって書いてある」
「そりゃ書くでしょう」
 だからといって、ハイそうですかとそれに従うわけにはいかない、というのがソレアの言い分で、それはもっともなことだった。
「アルワライェの目的はアタシだもの。アタシが行けば、由維はきっと解放してもらえる」
「…もう用なしとして、殺されるかもしれない」
 びくっと、奈子の肩が震えた。
「アルワライェ・ヌィの目的がナコちゃんなら、なおのこと簡単に行くべきじゃない。あなたがこちらにいる間は、取引もできるわ」
「由維の命を、取引の材料なんかにできない!」
 きっぱりと言った。
「アタシはもう決めてるの! ひとりで行くって!」
「ナコちゃん!」
「お願い、アタシをアルンシルへ連れていって! アタシが行けば、絶対に由維は殺させない。それに…アルワライェはきっと、アタシも殺さないよ。すぐには…ね」
 引きつった笑みを浮かべる。アルワライェが、教会の命とは違った部分で奈子に興味を持っていることは知っていた。
 奈子にとっては、それだけが勝算だった。
「だから、その間にファージを探して。由維だけは、なんとしても助けて」
「ナコちゃん…」
「それが、一番いいと思う」
「あまり、いい考えとも思えないけれど…」
「いいから早く! 一分一秒でも、由維が危険に晒されるのは我慢できないの!」
 奈子は悲痛な表情で叫んだ。



「…やっぱりだ。ここにはもう、なにもない」
 足の先で、地面の上の小石を蹴ってつぶやく。
 その時ファージは、廃墟となった都市の中心にいた。
 古い遺跡だ。すべての建物は跡形もなく崩れ、瓦礫の山となっている。
 遠い昔は、大きな街だった。
 当時、大陸で最大の都市であったといってもいい。その、千年以上も昔の光景をファージは憶えていた。
 なんて変わってしまったのだろう、あの頃とは。
 光の都と讃えられていた、トリニアの王都マルスティア。
 そこは今、広大な廃墟と化している。
 住む者はいない。
 いや、そもそも生命の痕跡すらない。
 ここは虫けら一匹、雑草一本すら存在しない、死の世界なのだ。
 それは、千年前の大戦の後遺症。
 この都市を破壊し尽くした強大な魔力が残す、瘴気に覆われた地。
 魔法による防護がなければ、生身の人間はここにいられない。
 ただどこまでも、破壊された都市の痕跡が広がるだけの土地。
 他に、何もない。
 そう、何も。
「…やるもんだ」
 誰に言うともなしにつぶやく。
 一年前にここを訪れた時、ここにはレイナ・ディ・デューンの墓所があった。
 なのに、今はそれが存在しない。
 いや、本来それが正しいのだ。
 千年の間、多くの人間が探していたレイナ・ディの墓所だ。いくら人が生身で近付けない地とはいえ、マルスティアの真ん中にあれば、とうの昔に誰かが見つけていたはずだ。
 なのに、それは千年間見つからずにいて。
 そして今は、その場所に何もない。
 つまり、一年前のあの一時期にだけ、それは存在していたのだ。
「初めから、千年後の一時期だけ姿を現すように魔法をかけていた? それとも時間は関係なしに、無銘の剣を受け継ぐ者がこの大陸に現れた時…なのかな?」
 どちらが正解かはわからない。
 しかし、奈子が無銘の剣を譲り受けたことによって、レイナの墓所はその存在意義を失ったことになる。
「いや、待てよ。無銘の剣…おかしいな」
 ファージは考え込んだ。
「確かに、すごい力を持ってる。なにしろ、私を殺すことができる剣なんだから。だけど、所詮は剣でしかない。なぜそれを千年も…?」
 もう一度、周囲を見回す。
「奈子が受け継いだものは、剣だけじゃないのかも…。レイナ・ディの奴…なにを企んでいたんだ?」
 なにしろレイナ・ディといえば、エモン・レーナやクレイン・ファ・トームに匹敵するほどの謎の多い人物である。ファージにも、その意図がすべて読めるわけではない。
 千年生きてきたとはいえ、クレインと違い、ファージは聖跡の中で眠っていた期間が長い。わからないことも多いのだ。
「ここに手掛かりがないとすると…あとはどこを調べるかな…」
 そんなことを考えながら、ぷらぷらと歩く。
 少しだけ、周囲に対する注意が散漫になっていた。
 そのために――
 それを、かわしきれなかった。
 わずかに身体をひねったものの、その光はファージの左肩を貫いた。
「――っ!」
 やられたな、と思う。よくもここまで見事に気配を消していたものだ。
 心臓を直撃でなくてよかった。ここには、ファージを不死としている聖跡の力も届きにくい。
「…アィアリス・ヌィ…だったっけ?」
 ファージはゆっくりと振り返りながら訊ねる。
 一人の女性が、そこに立っていた。
 騎士の礼服を身にまとい、ややくすんだ朱い髪を肩の位置で切りそろえている。
 美しい女性だった。静かな笑みすら浮かべて、ファージを見つめている。
「初めまして、かしら?」
 澄んだ、美しい声だった。これ以上美しい声を人間が発するのは、不可能ではないかと思うくらいに。
 しかしその声には、人間らしい暖かみが欠片も含まれてはいなかった。
 それを言ったら顔だってそうだ。美しいその顔は、整いすぎていて人間らしさに欠ける。
「会いたいとは思っていたけれど、まさかこんな場所で会うとはね。レイナの墓所が消失したという報告を聞いて、様子を見に来たのだけれど…」
 アィアリスは軽く目を伏せた。何か、面白いことを思いついたかのように、口元がほころんでいる。
「ちょうどいいわね、ここなら、誰にも邪魔されない」
「そうだね。あんたをなぶり殺しにしても、ソレアに文句を言われることもないわけだ」
 ファージも笑っていた。肩の傷からのおびただしい出血は気にもとめていない。
「それは無理ではないかしら? ソレア・サハ抜きの今のあなたでは…ね」
「よく調べたもんだ。だけど、少し認識不足かもね」
 ファージの手の中に、紅い光が生まれた。
 それは長く伸びて、剣の形を取る。
 同時に、アィアリスの手の中にも、同じような紅い光の剣が出現していた。
 魔力そのものが実体化した光の剣。それは、並はずれた魔力の証でもある。
 ファージ自身、自分とこの姉弟以外でこれをできる人間を知らない。
 唯一の例外は、かの聖跡の番人、クレイン・ファ・トームだ。しかし厳密にはファージもクレインもこの時代の人間ではない。
 だから現在ではアィアリスとアルワライェだけが、王国時代の竜騎士に匹敵する力を持っていることになる。
 いや、力の強さという点では、肩を並べる人間をあと二人は知っている。しかしそのどちらも、光の剣は用いない。二人とも、比類ない強力な魔剣を所有しているからだ。
 そもそも王国時代の竜騎士だって、普通は光の剣など使わない。竜騎士のために鍛えられた魔剣の力と自分の魔力を合わせた方が、より強い力を発揮するのは当然だ。
 ファージやクレインが実剣を使わないのは、竜騎士の剣の大半が失われた現在では、二人の好みに合う剣が存在しないからでしかない。
 本来、竜騎士同士の力が互角であれば、より強力な魔剣を持つ者が勝利する。もっとも現在では、ファージやクレインに匹敵する力の持ち主などほとんどいないが。
 数少ない例外が、目の前の女とその双子の弟。
 無銘の剣の後継者、奈子。
 そしてもう一人――
 おそらく、現在の大陸において最強の騎士。
 あの忌むべき『黒の剣』の主。
 黒剣の王、ヴェスティア・ディ・バーグ。
 しかしここ何年かは、ヴェスティアの居場所が突き止められなくなっている。生死すらわからない。まさか『黒剣の王』がそう易々と死ぬとも思えないのだが。
(さて、こいつの力はどの程度かな…)
 ファージは油断なく身構えた。
 アィアリスがかなりの力を持っていることはわかっている。
 これほどの力の持ち主の存在を、つい最近になるまでファージもソレアも気付かなかったというのは不思議だ。墓守は過去数百年間、竜騎士の血を色濃く残している者を監視し続けてきたのだ。
 墓守がソレア一人となった現在ならともかく、まだ何人もの墓守がその役目についていた時代に見落としがあったとは、にわかには信じ難い。
(どこに隠れて生きてきたのやら…。ま、試してみるか)
 ファージは、呪文も、なんの予備動作も起こさずに攻撃をしかけた。アィアリスの周囲に朱い色の光球がいくつも出現し、間髪入れず一斉に爆発した。
 同時に、ファージはその爆炎の中に飛び込む。
 炎に妨げられて相手の姿を見ることはできなくとも、気配ははっきりと感じられる。光の剣を維持するための膨大な魔力が、アィアリスの位置を知らせてくれる。
 なんの手加減もなしに、ファージは剣を振った。こんなことは久しぶりだ。
 閃光が走る。
 アィアリスの剣は、ファージの打ち込みを完璧に受けとめていた。
 それだけなら別に驚きはしない。ファージもそのつもりでいたのだ。この打ち込みを受けられない程度の相手なら、なんの問題もない。
 そうでなければ、剣を通して伝わってくる相手の魔力の強さや、その流れを読みとる。初めから、この一撃は小手調べのつもりだった。
 しかしそれだけでは面白くないので、行きがけの駄賃とばかりに、至近距離から強力な魔法を一撃放って離れた。その魔法も、アィアリスの防御結界に弾かれて火花が散る。
 なるほど、大した魔力の強さだ。
 アィアリスは、反撃してこなかった。
 そんな素振りも見せなかった。
 最初から、この攻撃を受けきれる自信があったのだろう。
 顔には出さなかったが、ファージはかなりの衝撃を受けていた。
 攻撃を受けられたことに対してではない。いま感じ取った、魔力の固有波動が問題だ。
 魔力には人それぞれに個性があり、そして、それは遺伝する。
 だから魔力の波動を読みとれば、アィアリスの血筋をある程度絞り込むことができる。
 しかしそれは、あまりにも予想外の結果だった。
「…そう。道理で、今まであんたたちの存在に気付かなかったわけだ」
「なんだ、わかっちゃったの。もう少し秘密にしておけると思ったのに。どうしてわかるのかしら?」
 言葉とは裏腹に、アィアリスは別段残念そうな表情はしていない。むしろ、楽しそうですらある。
「ドール…か…。教会の連中も、とんでもないものを作ったもんだ」
 ファージは、一瞬で見破っていた。
 アィアリスが「造られた」存在であることを。
 わかって当然だ。その魔力が持つ波動は、あまりにもなじみ深いものだった。
 いや、まったく同じというわけではない。しかし、そこには数多くの共通点があった。
 それは、ファージ自身の力だった。
 正確に言えば、生前のファージだ。クレインに力を封じられる前の。
 王国時代の、ある狂った魔術師が生み出した人工の生命。
 どうやって、その秘密を手に入れたのだろう。
 トカイ・ラーナ教会の魔術師が、独力で作り上げたはずはない。どこからか、その秘密を手に入れたのだ。
 厳密にいえば、ファージとまったく同じものではない。しかし間違いなく、同じ人間の手による産物だった。
 不思議な話だ。ファージを生み出した研究の資料は、すべて灰燼に帰したはずなのに。
 あの男は、自分が何を作りだしたのかを悟った時、自ら屋敷に火を放って、炎の中に飛び込んだのだ。
 ファージはその頃まだ赤ん坊だったが、その光景は憶えている。
 一番古い記憶だ。
 人工羊水を満たした培養槽の中で、それを見ていた。
 狂気に歪んだ笑いを浮かべて、炎に撒かれていった男の姿を。
 あの時、焼け残ったものはファージだけのはずだ。他の実験体も、膨大な量の書類も、すべて失われた。
(…いや、そうとは限らないか…)
 あの男がまだトリニアの宮廷魔術師だった時代の、未完成の研究がある。それで十分な成果を上げられなかったために、その地位を失ったのだ。
 当時の資料なら、王宮のどこかに残されていたかもしれない。いつ頃のことかはわからないが、トカイ・ラーナ教会の魔術師たちは、それを発掘して研究を完成させたのだろう。
 その成果が、いま目の前にいる女性。そしてその弟に違いなかった。
「ドール…と呼ばれるのは好きではないわね」
 アィアリスは、不快そうに言った。
「私は、アール・ファーラーナよ。世界を変える力を持った存在。失われし大いなる力を受け継ぐ者」
「笑わせるな」
 ファージが鼻で笑う。
「出来損ないの化け物が」
 その一言に、アィアリスの表情が険しくなった。
「でもまあ、これでお前を殺す理由がひとつ増えたわけだ。覚悟しな。細胞ひとつも残しゃしない」
 同じ遺伝子を持つ者への仲間意識など、毛ほども感じなかった。
 ただ、嫌悪感がつのるばかりだ。それは憎悪といってもいい。
 遺伝子の一片たりとも残しはしない。この、呪われた遺伝子など滅ぼしてやる。
 そう、心に誓った。
 ファージの持つ剣が、形を変える。
 刃と柄が少しずつ長くなり、両手用の剣となった。
 脚を広めに開き、腰を落とした構えになる。それは、トリニア流の騎士剣術だった。
「ソレア・サハがいない限り、あなたの力は王国時代の竜騎士に遠く及ばない。私に勝てる道理はないわ」
 アィアリスの顔には、勝利を確信した者の余裕の笑みが浮かんでいる。
「では今度は、私から行くわよ」
 剣を構え、美しい声で言った。



 奈子をアルンシルへ送るのには、なんの困難もなかった。
 いつもならばそこは、ソレアでもひどく手こずるはずの対転移結界で護られた地だ。しかし今はその結界に一箇所、ぽつんと穴が開いていた。
 ここへ来い、といわんばかりに。
 それが、奈子のために用意されたものであることは一目瞭然だ。
 そこにはアルワライェが、あるいはトカイ・ラーナの軍勢が待ちかまえているはず。
 それがわかっていても、奈子をそこへ送り届けるしかなかった。
 奈子の決心は微塵も揺るぎはしなかった。
 由維を助けるため…そのためならば、奈子は他のすべてを犠牲にできるのだ。
 奈子の転移を終えた後、ソレアは俯いて、小さくため息をついた。
「ナコおねーちゃん、大丈夫かなぁ…」
 ユクフェが不安げにつぶやく。ソレアが顔を上げた。
「…信じるしかないわね。それよりも、ぐずぐずしていられないわ。すぐにファージを探して連絡を取らないと…。ユクフェちゃん、あなたも手伝って」
「はい、ソレア様」
 魔法陣のある地下室へと向かうソレアの後に、ユクフェも続く。その途中、ふと思いついたように言った。
「あの、フェイリア様とか、エイシス様にも連絡を取らなくていいですか?」
「え…?」
 ソレアが立ち止まる。
 言われてから、気が付いた。
 そうだ。確かに、あの二人ならばアルワライェが相手であっても十分な戦力になる。
 奈子を助けるためなら、あの二人はきっと力を貸してくれるに違いない。
 これまで他人に助けを求めたことなどなかったから、考えもしなかった。
 ユクフェに言われなければ、気付かなかっただろう。
「…そうね。そうしましょう。じゃあ、そちらはあなたに任せるわ。きっと、ハシュハルドのリューリィのところで連絡が付くはず。すぐにここへ来てもらって」
「はい!」
 ユクフェは力強くうなずいた。



 そこは、石造りの大広間だった。
 小さな体育館ほどの広さがあるが、中には何もない。がらんとしている。
 地下室なのか、窓は一つもないが、いくつもの魔法の明かりがそこを照らしている。
 奈子が転移したのは、そんな場所だった。
「由維!」
 奈子は叫んだ。
 大広間の中央に、倒れている人影がある。
 小柄な女の子だ。間違いない。
 奈子はすぐさま駆け寄った。意識を失っているらしい由維を助け起こそうとして。
「――っ!」
 左胸に、灼けるような痛みが走った。
 反射的に飛び退く。
 心臓や動脈は外れたらしいが、血があふれ出していた。
 倒れていた少女が身体を起こした。手には小さな短剣を握っている。その刃が、奈子の血に濡れていた。
「由維…じゃない…?」
「…つまんない。隙だらけなんだもの」
 それは、由維の声ではなかった。
 顔の形と、髪の色が見ている間に変わる。肩に軽くかかる茶髪が、背中の中程まで伸ばした赤毛になった。
 由維ではない。こちらの人間だ。
 似ているのは背格好くらいだろう。由維よりは少し年下かもしれない。
 その少女は、からかうような笑みを浮かべながら、短剣に付いた血を舐め取った。
「アル様のお気に入りっていうから、どれほどのものかと思ったら…。ぜ〜んぜん期待はずれ」
 紅く濡れた口で、つまらなそうに言う。
「由維はどこ? 由維を返して!」
 目の前の少女が何者かなんて、奈子にとってはどうでもいいことだった。
 それよりも、由維の行方だ。
「心配しなくても、ここにいるよ」
 背後から声がした。聞き覚えのある男の声だ。
 奈子が振り向く。
 先刻まではなかったはずの、二つの人影がそこにあった。
 中肉中背の、赤毛の男。子供っぽい笑みを浮かべた、二十歳くらいの。
 アルワライェ・ヌィだ。
 そして、そのすぐ前に、肩を掴まれて立っている小柄な少女がいる。
「由維!」
 奈子は叫んだ。今度こそ間違いない。紛れもなく由維だ。
 ぱっと見たところ、怪我をしている様子はない。
 しかし…。
「由維! 由維! 大丈夫?」
 奈子の呼びかけにも、何も答えない。
 何か様子が変だ。
 こちらの声が聞こえている様子がない。
 焦点の合わない虚ろな瞳に、奈子の姿が映っているのかどうかも定かではない。
 ただぼんやりと、その場に立っているだけだ。
「由維! ちょっと、由維にいったい何したのっ?」
「別に、大したことじゃない。この子はちょっと強情でね、僕の質問になにも答えてくれないんだ。せっかくだから君のこと、いろいろと教えてもらおうと思ったのに」
 悪びれない表情でアルワライェが応える。
「だから、ちょっと強引に教えてもらったというわけさ。結局、必要最小限のことしかわからなかったけど。でも驚いたね。君がこの世界の人間じゃないなんて。道理で、不思議な魅力があるわけだ」
「由維! あんた、由維になんてことを…」
 奈子は唇を噛んだ。
 由維は…由維だけは。
 危険な目に遭わせたくなかったのに。
 傷つけたくはなかったのに。
「心配しなくてもいいさ。このくらいなら、ソレア・サハなら治せるだろ、多分。ちゃんと返すよ。約束したからね」
「じゃあ、早く由維を返してよ。あんたの言う通り、一人で来たよ。ファージも、ソレアさんも連れてきていない」
「もちろん約束は守るさ」
 由維の肩を押さえたまま言う。
「でも、ひとつだけ条件がある」
「なによ」
 奈子は、どんなことでも受け入れるつもりだった。無銘の剣だろうと、奈子自身だろうと。
 唯一、すぐに承諾できないものがあるとしたら、それはファージの命…だろうか。
「なぁに、簡単なことだよ。その子に勝てたら、返してあげる」
 奈子にとってはまったく予想外のことに、アルワライェは、由維に化けていた赤毛の少女を指差した。
「…?」
「その子、ウェリアは僕の…まあ、妹みたいなものかな」
「…姉の他に、妹もいたの?」
 それは初耳だった。奈子にアルワライェとアィアリスのことを教えてくれたエイクサムも、何も言っていなかった。
「君の話をしたら、興味を持ってね。どうしても闘ってみたいって、聞き分けがないんだ」
 我が儘な妹に好き勝手させている甘い兄、というわけだ。
 奈子は横目でちらりとウェリアを見た。妹だけあって、アルワライェによく似ている。そして、あの女にも。
 似すぎている。
 許せないくらいに。
 奈子の顔から、表情が消えていた。
 アルワライェに向き直る。
 静かに、そして冷静に。抑揚のない声で訊いた。
「…殺しても、いいの?」
 それを聞いたアルワライェが苦笑する。
 奈子にはそんなことできはしないと、そう確信した口調で、からかうように応えた。
「やってみなよ、殺せるものなら、ね。言っとくけど、そこらの騎士なんか問題にならないくらい強いよ。妹たちの中では一番見所がある」
「今度は、少しくらい楽しませてよね。不意打ちじゃないんだから」
 ウェリアも馬鹿にしたように言う。
 奈子は、その台詞を最後まで聞いてはいなかった。
 瞬きするほどの時間もかけずに、三メートルほどあったウェリアとの間合いを瞬時に詰めると、右手を突き出した。
 ウェリアは決して油断していたわけではない。それでも、何も反応できずにいる。
 奈子は右手の人差し指と中指、薬指と小指をそれぞれ揃えて、ウェリアの両目に突き入れた。
 悲鳴を上げる間さえ与えなかった
 鍛え抜かれた貫手は、そのまま眼底を突き破り、脳に致命的な傷を負わせる。
 そのまま、眼窩に指を引っかけて手前に引いた。
 前に倒れそうになるウェリアの顔面に膝蹴りを叩き込み、同時に、延髄に肘を落とす。
 鈍い破壊音が響いた。
 白く細い首が、あり得ない角度に曲がる。
 奈子が手を放すと、それは壊れた人形のように、崩れるように倒れた。
 目と、耳と、鼻と口から血が溢れている。
 どれほどの力を持っていたのか、今となってはわからない。アルワライェが「見所がある」と言うのだから、相当なものだったのだろう。
 しかし、奈子の足元に横たわっているそれは、ただの、小さな女の子でしかなかった。
 ただの、小さな死体だった。
 その場が、しんとした空気に包まれる。
 奈子は、何も感じていなかった。
 ただ、右手を濡らす体液の感触だけがあった。
 自分が殺した二人目の人間を無視して、奈子はアルワライェに向き直った。
「…約束通り、由維を返して」
 先刻と同じように、抑揚のない声で言う。
 一瞬、驚いたような表情を浮かべたアルワライェだったが、すぐにまたいつもの顔に戻った。目の前で妹が殺されたというのに、相変わらず人を小馬鹿にしたような笑いだ。
 むしろ、楽しそうですらある。
「驚いたね。ナコにこれだけのことができるとは…。気に入った。もちろん、約束は守るよ」
 そう言って、由維の背中を軽く押した。
 ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
 意識があるのかどうかは定かではない。
「由維…」
 奈子が小さく息を吐き出す。よかった。本当によかった。
 思わず、涙が出そうになる。
 五メートルくらいまで近付いたところで、奈子は走り出していた。
 その時、視界の隅にちらりと、アルワライェが腕を動かすのが見えた。
 本能的に危険を感じた奈子は、最大強度で防御結界を展開しながら由維を抱きしめた。小さな由維の身体を庇うように、アルワライェに背を向ける。
 閃光と破裂音。むっとした熱気。
 背中に、灼けるような痛みを感じる。
 結界だけでは、完全には防ぎきれなかった。
 だから、自分の身体を盾にして由維を護った。
「…どういう…つもり?」
 由維を抱きしめたまま、奈子は訊いた。
「ナコを怒らせるには、これが一番いいと思ってね」
「…これ以上アタシを怒らせて、どうしようっていうの?」
 そういいながら、まだ防御結界は解かない。これで終わりという保証はないのだ。
 背中が濡れているのを感じる。出血しているのだろう。
「本気の、君と闘いたい。本気になって、すべての力を出し切ったナコを、僕が圧倒する。そうして初めて、君は僕のものになるのさ」
「何をふざけたことを」
「わかるかい? 僕は君のことが好きなんだよ。ナコを手に入れるためなら、僕はなんでもするのさ」
 奈子は、由維を抱きしめていた腕を緩めた。そのまま、壁際へ連れていって座らせる。
「あんたは、ファージを傷つけ、アタシを傷つけ、そうして由維を傷つけた。いまさら後悔しても遅いよ」
「いいね。今までにないほど強い意志の力を感じる。そう来なくっちゃ」
 アルワライェの手の中に、紅い光の剣が出現する。
 奈子は両手で腰に差した二振りの短剣を抜くと、逆手に握った。その刃が青白い光に包まれる。奈子の魔力が刃を覆っているのだ。鋼の刃だけでは、アルワライェの光の剣は受けられない。
 奈子は魔法の矢を牽制にして、間合いを詰めた。至近距離からさらに続けて魔法を放つ。周囲の空気が熱くなる。
 光の剣が閃いた。奈子は短剣で受けとめる。
 二つの刃の間で、激しく火花が散った。
 膝へのローキックを放つ。
 アルワライェがバランスを崩す。
 そこを狙って、喉を目掛けて斬りつけた。
 しかし寸前で、アルワライェの姿が消える。
 それは、予想の範囲内だった。アルワライェは、極短距離の転移魔法で相手の背後を衝く戦法を得意とする。以前闘ったことのある奈子は、そのことを知っていた。
 転移魔法が使える魔術師はそれだけでも珍しい存在だが、たとえ転移が行えたとしても、並の魔術師にアルワライェのような真似はできない。それは近所のコンビニに買い物に行くのに新幹線に乗るようなものだ。転移は本来「遠くへ」移動するための手段なのだ。
 ファージでも、時間をかけなければできないという魔法。アルワライェの並はずれた魔力とセンスの証だった。
 背後に、気配が出現する。奈子は上体を前へ倒しながら、後ろ蹴りを放った。
 アルワライェは後ろへ飛んで蹴りを避ける。同時に魔法で反撃してきた。
 奈子はそのまま床に転がって、魔法をかわす。
 次々と飛来する光の矢が、奈子の後を追うように床石を砕いていく。
 床を蹴って奈子が立ち上がったところで、さらなる魔法が追撃ちをかけてきた。
 アルワライェの手から、細い、糸のような光が無数に放たれた。風になびく糸の束のようなそれは、滑らかな曲線を描いて、奈子の防御結界の隙間を縫うように迫ってくる。
 奈子はその光を結界で受けとめ、あるいは短剣で薙ぎ払う。
 それでも、何百にも分かれた光をすべてかわしきることはできない。
 腕や、脚を貫かれる。
 一本一本の威力はさほどでもない。とはいえ、手足に針金を突き刺されたような鋭い痛みが走る。一瞬、力が抜ける。
 その隙を狙って、糸状の光の第二波が放たれた。
 脚に力が入らず、先刻のような俊敏な動きはできない。奈子は瞬時に覚悟を決めた。
「オカラスヌ ウェイテ アパニ ク ネ!」
 爆発が起こった。アルワライェを狙ったものではなく。奈子を包み込むように。
 今まさに奈子を貫こうとしていた糸状の光も、爆炎に巻き込まれて霧散する。
 要するに、自爆したのだ。自分自身の魔法とはいえまったくの無傷とはいかないが、それでもアルワライェの攻撃をまともに受けるよりははるかにましだ。
 爆炎が消えた時、目の前にアルワライェの姿がなかった。
(また、転移?)
 反射的に、背後を振り返る。しかし、そこにもアルワライェの気配はない。
「――っ?」
 予想外の位置に出現した気配に、一瞬反応が遅れた。
 真上、だ。奈子の頭上、空中にアルワライェが出現した。剣を振りかぶっている。
 奈子は両手の短剣を頭の上で交差させ、相手の剣を受けとめようとした。
 一瞬、腕に重みがかかる。
 それは、ほんの一瞬だった。ファージに特別に頼んで作ってもらった大型の短剣も、アルワライェの力に重力加速度が加わった斬撃を受けきれなかった。
 厚い刃が砕ける。
 奈子は身体をひねって、刃の進路から逃れようとした。しかし、かわしきれない。
 左胸から腹にかけて、えぐるような衝撃が貫く。
 血飛沫が舞う。
 剣をかわそうとした勢いが余って床に転がった奈子は、膝をついた姿勢で、片手を床についてなんとか身体を支えた。
 ぼたぼたと、血が滴る。床に紅い斑模様を描いていく。
「ぐ…ぅ…」
 かなりの深手だった。
 傷そのものが致命傷というわけではなかったが、アルワライェと刃を交えている今の状況下では、致命的なダメージといえた。
「いやぁ、強くなったね」
 アルワライェは勝ち誇った表情で、手の中で光の剣を弄んでいる。
「大したもんだ、前に戦った時とは桁違いだよ。だけど、僕はそれ以上に強くなっているのさ。そして、これからもまだまだ強くなる。そろそろ、諦めた方がいいんじゃないかな? ナコの血はとてもきれいだけど、これ以上流すと死んじゃうしね」
「…もう、勝った気でいるんだ? ちょっと気が早くない?」
 傷の痛みを堪えながら、奈子は応える。
「まだ、闘えるとでも?」
 アルワライェの表情は嬉しそうだった。
 彼は奈子の、決して敵に屈しないところが好きなのだ。そういう相手を蹂躙し、屈服させることでこそ満足感が得られる。
「闘える…さ。あんたを殺すまでは、闘いを止めないって決めたんだ」
 呼吸を整えながら、奈子は言った。
 出血がひどい。が、まだしばらくは動ける。
 はったりではなかった。
 まだ、闘う術はあった。
 アルワライェは確かに強い。
 生前のファージならともかく、今の封印されたファージやフェイリアを、間違いなく越える強大な魔力を感じる。
 それでも、まだ、奈子には十分すぎる勝算があった。
 誰かが、耳元でささやいたような気がした。
『あなたの手の中にだって、誰もかなわない強い力がある』
 そうだ。その通りだ。
 どうして忘れていたのだろう。
 奈子は、脚に力を込めて立ち上がった。
 右手を前に差し出す。たとえこの状態から魔法を放っても、今の奈子ではアルワライェの防御結界は破れない。
 しかし、この手はそんな意味ではない。
 奈子の口から、短い言葉が発せられた。
 これまで、何度も口にした言葉。
 しかし、これほど強い意志を込めてそれを口にしたのは、初めてのことだった。
「エクシ・アフィ・ネ」――剣よ、我が手の中に、在れ――と。
 その言葉に応えて。
 奈子の手の中に、一振りの剣が現れた。
 それは本来、ここに持っていないはずの剣だった。
 無銘の剣。
 竜騎士レイナ・ディ・デューンの剣。
 今から千年以上も昔、当時のトリニアで最高と讃えられた剣匠ディング・コット・ギガルが、自分の命と引き替えに鍛え上げた剣。
 無数の死体と、彼がそれまでに鍛えた何振りもの魔剣。そして彼の一人娘、トリニアの剣姫と呼ばれた竜騎士イルミールナの命から生まれた、呪われた剣。
 その刃は限りなく薄い。金属でありながら、向こうが透けて見えるほどに。
 無限大の魔力を、極限までに研ぎ澄ました刃だった。
 想像を絶する魔力を秘めたその刃は、決して曲がらず、折れず。
 鋼であろうと、硬い竜の鱗であろうと、その刃を妨げることはできない。
 しかしそれは、今の奈子が持っていないはずの剣だった。
 聖跡の番人、クレインに渡してきた。
 これを持っていたら、また、人を殺してしまうかもしれないから、と。
 もう、誰も殺したくないから、と。
 そもそもこの剣は、イルミールナの仇であるファージを殺すために作られた剣なのだ。
 聖跡の力に護られたファージを殺すことができる、おそらく唯一の武器だった。
 だから、持っていたくなかった。
 しかし剣を受け取った時、クレインは言った。『無駄だと思うぞ。これは、お前の剣だからな』――と。
 今なら、その言葉の意味もわかる。
 過去、この剣の主となったのはただ一人、千年前の竜騎士レイナ・ディ・デューンだけだ。この剣は、他のどんな騎士も自分の主と認めなかった。
 しかし今、奈子は紛れもなくこの剣の所有者だった。
 これは、奈子の剣だった。
 奈子が、この剣の主だった。
 この剣は、その主が必要とする時、必要とする場所に存在するのだ。
「無銘の剣…そうこなくっちゃ」
 アルワライェが目を輝かせる。
 目の前に面白そうなおもちゃを差し出された子供のようだ、と奈子は思った。
 それは、ある意味正確な比喩かもしれない。
 今の奈子にとって、アルワライェは子供も同然なのだから。
「チ ライェ キタイ!」
 奈子がその短い呪文を発した瞬間、アルワライェの顔色が変わった。
 彼の周囲に、二十数個の青白い光の球が出現する。
 目が驚愕に見開かれていた。
 光球から、次々と灼熱の光線が放たれる。
 周囲の空気がプラズマ化し、閃光が走る。
 光線はアルワライェの防御結界を貫き、堅い石の床に深々と穴を穿つ。
 最強の防御結界を張り、短距離の転移を繰り返して、アルワライェは必死にかわそうとする。瞬く間に彼は血塗れになっていった。
 それは本来、人間に比べれば不死身にも等しい竜を倒すための魔法だ。直撃したら竜ですら命がない。並の人間なら、かすめただけで死体も残らない。
 アルワライェの防御結界でも、完全には防ぐことができない。それは、現在では存在しないはずの、竜騎士の魔法だった。
 最後の光線をかろうじてかわし、アルワライェはほっと息をついた。直後、背後に強大な魔力の気配が現れる。
 振り向きざま、剣で薙ぎ払った。同時に、手の中の紅い剣が消えた。
 奈子が、そこに立っていた。奈子の剣が、アルワライェの光の剣を切り裂いていた。
「なん…だって…」
 アルワライェは怯えていた。そんな感情を覚えるのは、生まれて初めてのことかもしれない。
 彼を圧倒する魔力が存在するなどと、考えたこともなかった。彼を越えるものは唯一、姉のアィアリスだけだったはずだ。
「馬鹿な…」
 そんなアルワライェの反応に、奈子は満足していた。
 この憎い男をなぶり殺しにするのは快感だった。
「今回は、腕一本じゃ済まないからね。安心しな。すぐにあんたの姉貴も同じことになる。二人なら、地獄でも寂しくないっしょ」
「くっ!」
 アルワライェは、紅い光の短剣を立て続けに投げつける。
 奈子の剣はそれを易々と受けとめた。無銘の剣の刃に触れた瞬間、光の短剣は跡形もなく霧散する。
 アルワライェが息継ぎをした一瞬の隙に、一気に踏み込んだ。剣の間合いだ。
 どこを狙おう。心臓、首。どこでも思いのままだった。
 やっぱり、身体をまっぷたつにしてやろうか。
 そう考えて、横薙ぎに剣を叩きつける。
 防御結界があったところで、なんの役にも立たない。豆腐ほどの手応えもなしに、アルワライェの身体は両断されることだろう。
 刃が防御結界に当たり、閃光が弾ける。結界は一瞬で砕け散った。
 血飛沫と、そして――
 奈子の身体を、鈍い衝撃が貫いた。
「……え?」
 アルワライェが、脇腹を押さえて膝をついた。
 指の隙間から、紅い血があふれだしている。
 奈子が動きを止めた。
 手から、剣が落ちる。
 そのまま茫然と立ちつくしている。
 あの瞬間、アルワライェが自棄になって放った衝撃波。奈子の身体を貫いたそれは、普段の奈子であれば大したダメージにもならない。
 ましてや、無銘の剣を手にした今の奈子にとってはなおさらのこと。
 しかし――
 ここには、その些細な傷にすら耐えられない、か弱い生命が存在した。
「――っ!」
 突然、甲高い悲鳴が聞こえた。
 奈子の声ではない。
 由維でもない。
 いや、そもそも耳に聞こえる音ではない。
 しかしそれは確かに、奈子の頭の中に響いていた。
 人間ですらない。まだ、人間としての意識を持たない存在。
 しかしそれは、確かに生きていたもの。
 その、断末魔の悲鳴だった。
「ぐ…ぅあっ!」
 突然、奈子の下腹部を激しい痛みが襲う。まるで、内蔵をずたずたに引き裂かれているような。
 身体の芯から全身に広がる痛み。
 奈子は腹を押さえて、その場に座り込んだ。
 痛みは更に激しくなり、頭の中に響く悲鳴に、頭が割れそうになる。
 胃液が逆流してくる。
『苦しい』
『苦しい』
『身体が裂ける』
『痛い』
『痛い』
『痛い』
『痛いよ』
『痛いよ…』
『痛いよ、お母さん!』
 その叫びを最後に、声は聞こえなくなった。
 奈子の周囲の床に、紅い染みが広がっていく。
 先ほどの、光の剣で斬られた傷からの出血ではない。そんなものは、無銘の剣を手にした瞬間にふさがっている。
「あ…あ……」
 それなのに、血の染みはどんどん広がっていく。
 胎内からの――性器からの出血は、止まる気配もなく続いている。
 手で押さえても、指の隙間から止めどもなくあふれ出してくる。
「ダメ! ダメ! そんなのっ!」
 紅い水溜まりの中に座り込んだ奈子は、必死に叫んだ。
 しかし、もう、わかっていた。
 はっきりと感じていた。
 彼女の中にあった、かけがえのない存在が。
 永遠に失われてしまったことを。
「あ…ぁ」
 両手が、真っ赤に濡れている。
 奈子の血と、同じ血を分けたもう一つの生命と。
 それが存在していた、最後の証。
 今、ひとつの生命が、失われた。
 まだ生まれてもいなかった、しかし確かにそこにあった生命が。
 この世に産まれ出ることもなく、失われた。
「……?」
 訝しげな表情を浮かべたアルワライェが、苦しそうに立ち上がった。
 あのとき彼は、死を覚悟していた。
 ほとんど破れかぶれで放った一撃が、何か、思いも寄らない結果を引き起こしていた。
 しばらく茫然と、血溜まりに座り込んでいる奈子を見つめて。
 そして――
 不意に、笑い出した。
「は…そうか、そういうことか。はは…、そうだったのか!」
 無銘の剣に怯えた先刻までの表情は消えていた。いつもの、子供のような笑いが甦る。
「あっはっはっは…、これはやられたね! まさか、こんなことになっていたとは…ははは…」
 腹を押さえて笑い転げている。
「やるもんだね。相手は誰だい? エイシスかな? それともハルティ・ウェル?」
 不意に、子供っぽい笑みが消えた。後に残ったのは、もっと残酷な笑いだ。
「だけどね…」
 アルワライェは奈子の傍に寄ると、髪を掴んで乱暴に引き起こした。そんな力があるようには見えないのに、左手一本で奈子を持ち上げる。
 右手には、紅い短剣が生まれていた。
「そんな必要はないんだ――」
「――っ!」
 紅い刃が、奈子の下腹部に根元まで埋まった。
 そのままぐいっと刃をひねると、奈子を乱暴に放り投げる。
 奈子の身体が、血溜まりに倒れた。そこへ、新たな傷口からの出血が加わる。
「ナコが産むのは、僕の子供だけだ。憶えておくといい」
 そんな声は、奈子の耳には届いていなかった。
 奈子はただ、全身を襲う痛みに耐えていた。
 肉体的な痛みではない。精神が、ずたずたに傷つけられていた。
(死んじゃった…死んじゃった…)
 まだ、生まれてもいない生命。
 奈子の中にあった、もう一つの…。
 名前も付けていない、抱いてやってもない。
 由維と二人で育てるはずだったのに――
(アタシの、赤ちゃん…!)
 殺された。
 殺された。
 殺された。
 殺された。
 誰に?
 それは、こいつ…。
 こいつ…。
 こいつが…。
 こいつが…。
 こいつが、殺した…。
 力無く倒れた姿勢のまま、奈子は目を開いた。
 視界に、残虐な笑みを浮かべている男が映る。
(あいつが…)
 殺した。
 大切な、大切なものを奪った。
(許さない…許さない…)
 許さない…。
 許さない…。
 許さない…。
 許さない…。
 殺してやる。
 殺してやる。
 殺してやる。
 殺してやる!
 あの男も、あいつを生み出したこの教会も!
 何もかも――


 自分のしたことに満足した笑いを浮かべていたアルワライェは、目の前にぽつんと、小さな光の点が浮かんでいるのに気付いた。
 それは本当に小さな、針の先よりも小さな点で、眩い光を放っていなければ気付きもしないだろう。
「…?」
 訝しげに、手を伸ばす。
 その瞬間――



 それは、無限に小さい空間の中に存在する、無限大のエネルギーだった。
 今、扉は開かれ――
 力は解き放たれた。



「…口ほどにもないわね。その程度なの、ファーリッジ・ルゥ?」
 口の端から流れる血を拭い、アィアリスは嘲笑を浮かべる。
 口だけではない、致命傷にはほど遠いが、腕や肩、脚からも血を流している。
「強がっていられるのも、今のうちさ」
 そう応えるファージは全身血塗れだった。明らかにアィアリスよりもダメージは大きい。
 ベルトにつけたポーチから十枚ほどのカードを取り出すと、それを宙に放る。しかしそのカードは内部に秘められた力を発動することなく、小さな炎に包まれて消滅した。
「駄目よ、道具に頼ろうだなんて。自分の力で勝負なさいな」
「うるさいな、これだって元はといえば私の力だよ!」
 更にポーチからカードを取り出そうとするが、今度はポーチそのものが炎に包まれた。
「さて、これで反則技は使えないわね」
 余裕の表情で言うと、アィアリスは剣を構える。
 もちろんファージもだ。
 カードなしでもそうそう負けるとは思わないが、アィアリスの力は桁外れだった。
 それも当たり前。彼女の遺伝子は、生前のファージと多くの部分が共通なのだ。トリニアの最盛期、青竜の騎士十一人をたった一人で倒した、地上最強の存在と。
 お互い、相手の隙を伺って、じりじりと間合いを詰めていく。
 そして、一気に飛び込もうとしたその瞬間。
「…っ!」
「え…?」
 一瞬、二人の動きが止まった。
 普通の人間なら何もわからなかったかもしれないが、二人ははっきりと感じ取っていた。
 たった今、津波のように押し寄せた魔力の奔流を。
 やや遅れて、地面が揺れ始める。
 地震だ。揺れそのものは、ごく小さなものでしかない。ただし、近くに火山も断層もなく、極めて安定した地盤を持つこの地方で地震とは珍しい。
 地震というのは小さな揺れであっても、範囲は広い。それを引き起こすのに要するエネルギーは膨大なものになる。
 それが、ひとりの人間の魔法によって引き起こされたなどと、誰が信じられるだろう。
 しかし、疑いようはなかった。二人とも感じていた。
 突然出現した、想像を絶するほどの『力』の存在を。
 遠い。なのに、はっきりと感じる。そのくらい強い。
 その場所は…。
 二人の表情が、同時に変化する。
 アィアリスは、その力が出現した場所に驚いていた。
 ファージは、その力が持つ波動に驚いていた。
 一瞬、二人の視線が交錯する。
「残念だけど、続きはまたの機会にしましょう。ちょっと、急用ができたみたいだから」
「…そうだね。でも、今度会った時は生かして帰さないけれど」
 二人は同時に剣を納め、同時にその場から転移していった。



 それは、真白い光だった。
 それ以外の何物でもなく。
 無限に小さい空間の中に閉じこめられた無限大のエネルギーは、一秒の何億分の一かの時間で、その大きさを爆発的に膨張させた。
 それによって単位体積当たりのエネルギー密度は減少するはずなのに、そこにはなおも、素粒子すら存在できない超高温の空間が広がっていた。



「なに、あれ?」
 茫然とその光景を見つめていたソレアは、不意に声をかけられて、驚いて振り返った。
 振り返って、もう一度驚く。
「ファージ! どうしたの、その怪我は?」
「怪我なんかどうでもいいから! どういうこと? ナコが、あそこにいるの?」
「…ええ、そうよ」
 二人はもう一度、その異質な光景に目をやった。
 そこは、大陸でも有数の大都市トゥラシがあった場所だ。
 今は、街全体が半球状の青白い光に包まれている。
 大河コルザ川を挟んだ対岸の丘の上に立っていても、灼けるような熱を感じた。
 街を覆った光の表面に、無数の青白い閃光が走っている。超高温の光と接した周囲の大気が、プラズマ化しているのだ。
 想像を絶するエネルギーがそこにあった。
 しかも街を包み込んだその光は、今なおゆっくりと広がり続けている。
 どこまで広がったら止まるのか、そもそも止まるのかどうかすら、今の段階ではわからない。
 ひとつだけはっきりしていることは、トゥラシはもう存在しないということだ。
「どうして? いったい、どういうこと?」
 ファージの顔が青ざめている。
 ソレアは、ファージの留守中に起こったことをかいつまんで説明した。
「じゃあ…ナコとユイがあそこに? これは、ナコがやっているの? そんな、まさか…これじゃあまるで…」
「…王国時代の、最強の竜騎士にも匹敵するわね」
 千五百年にわたって語り伝えられることが正しいとすれば、ストレイン帝国の帝都ミレアスは、これと同じように白い光に包まれて消滅したのだという。ファージが生まれる四百年以上も前のことだから真偽はわからないが、今その場所は、大きな湖となっている。
 それに匹敵する――もしかしたら越えるかもしれない力。
 二人が知る奈子の力を、はるかに上まわる力。
 それでも、この力は紛れもなく奈子の波動を持っていた。
「…二人を助けないと!」
「どうやって?」
 ソレアの口調は、冷たいとすら感じられるほどに冷静だったが、その顔色はファージと同じくらい憔悴していた。
 彼女はファージより一足先にここへ着いた分、いろいろと検討する時間があったのだ。そして出た結論は「ここからではどうしようもない」ということだった。
 あの光の中は、周囲とは隔絶された空間だ。
 その中への転移は、強固な結界を破って転移することよりも格段に難しいし、そもそも、これほど強大な魔力の支配下での転移は、どんな影響を受けるかわかったものではない。
 もしも無事に中へ入り込めたとしても、あの超高エネルギー下では、最強の防御結界であっても、ほんのわずかな時間しか耐えられないだろう。
「ここからではどうしようもないわ。ナコちゃん自身が、何とかしない限り…」
 ソレアは唇を噛んで言った。
「少なくとも、ナコちゃんはまだ生きている。そうでなければ、この力の場は消滅するか、制御を失って暴走するかのどちらかでしょう。ただ…」
「ただ?」
「ユイちゃんがどうなったのか…」
「まさか!」
 ファージは叫んだ。
「この力がナコちゃんのものだとして、それを引き出すきっかけは何だと思う?」
「まさか…」
 顔から血の気が引く。ファージだって奈子の性格はよくわかっている。
 何か、とんでもないことが起こったのだ。そうでなければ、こんなことあり得ない。
「可能性は二つ…ね…」
 独り言のようにソレアが言った。
 奈子が、おそらくは本人の限界も超えたこれだけの力を解放するに至ったきっかけ。事情を知らないファージと違い、ソレアには二つの心当たりがあった。
 そして。
 そのどちらであったにしろ、奈子にとってはあまりにも大きすぎる喪失であることは間違いなかった。



 由維には、最初から意識はあった。
 ただ、その意識は心の奥底の堅い殻に閉じこもって、外に出る手段を失っていた。
 アルワライェは、乱暴に由維の精神に侵入してきた。由維の記憶の隅々まであさって、奈子に関する知識を奪っていった。
 必死に、抵抗しようとした。
 初心者とはいえ由維も魔法を使えるし、たとえそうでなくても、外部から精神への侵入はもっとも抵抗しやすい魔法なのだ。
 それでも、アルワライェの力は圧倒的だった。必死の抵抗をあざ笑うかのように、由維の心を裸にしてゆく。
 それはまるで、精神に対するレイプだった。
 ぼろぼろに犯された由維の意識は、それでも何とか逃げ延びた。
 アルワライェには決して渡してはならない記憶を持って。外部からの侵入を許さない代わりに、自分から出ることもできない心の奥底へと。
 自分を護るためには、そうするしかなかった。
 だから、すべて見えていた。すべて聞こえていた。
 奈子がやってきたこと。
 あのウェリアとかいう少女を、なんの躊躇いもなく殺したこと。
 アルワライェと闘い、無銘の剣の力で追いつめたこと。
 そして――
 それは、思い出すのも辛い光景だった。
 アルワライェが放った魔法が、奈子の腹を貫いた。
 奈子の中にある脆弱な生命が、一瞬にして失われた。
 その断末魔の悲鳴は、由維にも聞こえた。
 心が引き裂かれるような、あまりにも純粋すぎる叫び。
 奈子の心を砕いたその叫びは、また、由維の意識を包んでいた殻をも打ち砕いていた。


 ゆっくりと、由維は身体を起こした。
 何も見えない。周囲はすべて純白の光に包まれている。
 床や壁の感触がない。
 上下の感覚もない。
 すべてが消滅していた。
 アルワライェも、アルンシルの建造物も。
 一瞬にして素粒子にまで分解された。
 だけど、由維はここにいる。
 あらゆる物質の存在を許さない空間に。
 それでも、由維はなんの不安も感じなかった。
 ここは、奈子が作った空間だから。
 奈子の気配を感じるから。
 奈子が、近くにいるから。
 だから、安心していられる。たとえどんな状況下でも、奈子が由維に危害を加えることなどあり得ない。
 奈子が、泣いているのを感じる。
 周囲の空間全体を、奈子の悲しみが満たしている。
「…奈子先輩ったら…強がっているくせに、実は泣き虫なんだから…」
 ゆっくりと、歩いていく。
 見えなくても、感じることはできる。
 生まれた時からずっと、傍にあった気配なのだから。
 微塵の迷いもなく、感じた方向へ歩いてゆく。
 白い光の中を。
 どこまでも歩いていく。
 由維がいたはずの大広間の広さよりも、ずっと長い距離を歩いた。
 ここは、元の空間とは隔絶された『場』だから。
 それでも、どんなに離れていても、奈子の気配は感じることができた。奈子を見つけだすことはできた。
 心が感じるままに歩いていく。
 はたして、奈子はそこにいた。
 腹を押さえた姿勢で座っている。
 虚ろな目をして、涙を流さずに泣いている。
 血に染まった手。
 脚も、流れ出た血で濡れている。
 血溜まりの中に座っている。
 だけどその顔は聖母のように神々しい、と。
 由維はそう思った。
 奈子の前に、膝をついて座る。
 真っ直ぐに奈子の目を見る。
 何も見えていなかったような虚ろな奈子の瞳に、微かな変化が現れる。
「…ゆ…い」
 声にはならなかった。口が、小さく動くだけ。
 由維はこくりとうなずいた。
 それから、奈子の身体に腕を回してしっかりと抱きしめる。
「…もう、いいの。もう、終わったの」
 背中を優しくさすりながら、由維はささやいた。
 奈子の目から、涙があふれ出す。
「もう終わったの。だから、私と一緒に帰ろう」
「…由…維」
 奈子はゆっくりと腕を上げて、由維を抱いた。
 由維の肩に頭を預けるようにして、泣き続ける。
 涙が、服を濡らしていく。
 だけど由維は、それを温かいと感じていた。



 光は、現れた時と同じくらい唐突に消滅した。
 そこには、大陸でも有数の大都市の姿は残っていなかった。ただ、巨大な、深いクレーターが穿たれているだけだ。
 トゥラシの街はずれを流れていたコルザ川の支流に、光が消えると同時に本流から水が逆流してくる。
 渦を巻いて、大量の水がクレーターに流れ込んできた。大陸で史上二つ目の、竜騎士によって作られた湖が生まれようとしていた。
「ナコ! ユイ!」
 光が消えると同時に、ファージもソレアも、クレーターの中心にある二つの気配に気付いた。
 すぐさまファージが転移し、濁流に飲み込まれる直前の二人を助け出す。
 意識を失った奈子は、由維に優しく抱きしめられていた。



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