赤ん坊が泣いている。
いつまでも、いつまでも。
優しく抱いてあやしているのに、泣き止もうとしない。
『も〜、この子ってば泣き虫なんだから』
奈子が、不機嫌そうな台詞とは裏腹に、実に嬉しそうな表情で言う。
隣で、由維も笑って赤ん坊の顔をのぞき込んでいる。
『お母さん似なんですよね〜。奈子先輩も、赤ちゃんの頃はすごい泣き虫だったそうじゃないですか』
『う、嘘だよそんなの。アタシ、泣いたりしないもん!』
『だって美奈さんも、うちのお母さんもそう言ってましたよ』
『〜〜っ!』
由維は歯がみしている奈子の手から赤ん坊を受け取ると、そっと頭を撫でてやった。
なぜか赤ん坊はすぐに泣き止んで、奈子を悔しがらせた。
「…あ」
夢か。
奈子は、大きくため息をついた。
目を開いて最初に目に入ったのは、見慣れた光景だった。
天井も、壁紙も、カーテンも。
奈子の部屋――ソレアの屋敷の、奈子がいつも使っている寝室だ。
シーツからは微かに、由維とファージの匂いもする。
そして、ベッドの傍らに立つ人影がある。
「…ソレアさん」
「気が付いた? 気分はどう?」
「良くは、ないよ」
「…そうね」
ソレアが少し困ったような表情をしていることに、奈子は気付かなかった。また眠ろうとした奈子は、はっとしたように目を開いた。
「由維はっ? 由維はどうしたの?」
「大丈夫。今は自分の部屋で休んでいるわ。先刻まで、まる二日徹夜でナコちゃんの看病をしていたのよ」
「無事なのか…よかった…」
ほぅっと、大きく息をついた。心の底からの安堵の息だ。
「あなたは、もうしばらく安静にしていなさいね。ひどい怪我だし、かなり消耗していて命も危ないところだったのよ」
「うん…」
奈子がまた眠る姿勢になったのを見て、ソレアも寝室から出ようとした。そこで、背後から呼び止められる。
「…ソレアさん?」
「…何?」
表情を読まれないように、小さく深呼吸してから振り返る。
「あの…その…」
奈子が、妙に言いにくそうにしていた。
「子供…の、ことなんだけど…」
ソレアの表情が曇る。俯き加減に、小さく首を左右に振った。
「あ、やっぱり…。いいや、わかってはいたんだ…」
奈子としてはできるだけ平然と言ったつもりだろうが、悲しそうな表情は隠し切れていない。
そんな奈子を見て、ソレアは辛い決断を迫られていた。
辛いことだけれど、言わなければならない。本当は、もっと落ちついてから言うつもりだったけれど、この話題が出た以上は黙っているわけにはいかない。
「…それでね、ナコちゃん…」
「ん…?」
「お、落ちついて聞いてね。実は…」
それは、言う側にとっても、聞く側にとっても、これ以上はないというくらい辛い告白だった。
「あなたの身体は…」
おそらく、もう、子供を育むことはできない…と。
奈子は一瞬、何を言われたのかわからないといった表情を見せた。それから徐々に、引きつった笑みを浮かべる。
それは、無理に笑おうとしている表情だった。
「あ…、あ、そう。そうだったんだ。でも、別にそんなの構わない…よ…。だって、今回のは完全に事故だし…、第一、アタシが将来、男と結婚して子供を産むなんて、…考えられない…じゃない? 別に…関係な…」
だけど、最後まで言うことはできなかった。
言葉が終わる前に、涙があふれだしてきた。
奈子は口を押さえるが、嗚咽が漏れるのを堪えることはできなかった。
「ほ…ホントだよ…別にアタシ…どうでもいいんだから……」
それだけ言うと、枕に頭を埋めて泣き出した。
ソレアは何か言おうとしたが、結局黙ったまま寝室を後にした。
本当なら年長者として慰めの言葉をかけるべきかもしれなかったが、今の奈子にいったい何を言えばいいというのだろう。
彼女を慰められる人間は、一人しかいない。
その人物は、寝室の扉の前で待っていた。
ソレアはわずかに苦笑すると、その少女の頭にそっと手を載せた。
「あとは…お願いね。ユイちゃん」
「しばらく一人にしておいて!」
由維が寝室に入ると、奈子がベッドに突っ伏したまま叫んだ。
構わずにベッドの傍らへ行き、奈子の肩にそっと手を置く。
「私です。奈子先輩」
それが由維だと気付いて、奈子も、出ていくようには言わなかった。
ただ黙って、すすり泣いていた。
「好きなだけ泣いてもいいんですよ。泣き止むまで、傍にいてあげますから」
「…うん」
肩に置かれた由維の手に、自分の手を重ねる。
「抱っこしてあげましょうか?」
「……うん」
由維もベッドにもぐり込んで、奈子の身体を優しく抱きしめた。
子供と添い寝する母親のように。
奈子は、由維の胸に顔を埋めるようにして泣いていた。
由維はただ黙って、奈子が泣き止むまでそうしていた。
言葉は必要ない。
小さな頃から、お互い、相手の温もりを感じることが一番の幸せなのだ。
泣きたい時には、涙が涸れるまで泣く方がいい。特に奈子は、由維の前では泣くのを我慢することが多いのだから。
奈子は長い間泣き続けていた。
嗚咽が止んだのは、一時間近く経ってからだろうか。由維の服の胸の部分は、ぐっしょりと濡れている。
「奈子先輩…」
由維は、小さな声でつぶやいた。
「…ごめんなさい」
小さな、本当に小さな声で。
「……」
「ごめんなさい、私のせいで…。私が捕まったりしたから…」
「……」
「私のせいで、奈子先輩が…」
最後まで言うことはできなかった。涙があふれてきた。
「ごめんなさい…奈子先輩…」
奈子を抱きしめたまま、今度は由維が泣き出した。
堪えきれなかった。奈子の前では泣かないようにしていたのに。
奈子はしばらく黙っていたが、急に身体を起こすと、由維を組み伏せるような体勢になった。
じっと、由維を見下ろす。その目には、確かに怒りの色が浮かんでいる。しかしその怒りは、由維が考えていたのとは少し異なるベクトルに向けられていた。
「奈子先輩…」
「一つだけ、はっきりさせておくけどね」
怒気をはらんだ口調で言う。
「こうなることがわかっていたとしても、アタシは由維を助けに行ったよ。子供が殺されるとわかっていたって、アタシは躊躇わなかった」
「奈子先輩…」
由維の目から、また涙があふれてくる。しかしその涙が持つ意味は、先程までとは違う。
「奈子先輩…」
言葉が続かない。ただ、涙だけが途切れることなく流れ落ちる。
「謝る必要なんかない。由維のことが一番大切なんだ。あんたのためだったら、どんな犠牲を払ったっていい。由維が傍にいてくれるなら、他に何もいらない」
「奈子先輩…」
由維は他に何も言えず、奈子の服をぎゅっと掴んで嗚咽を漏らしていた。奈子の手が、優しく頭に触れる。由維はその上に自分の手を重ねた。
そのまましばらくすすり泣いていたが、やがて涙を拭うと、わざと明るい調子で言った。
「…奈子先輩。私、考えたんですけど…」
「…ん?」
「将来、私が奈子先輩の子供を産んであげる!」
「え…?」
驚いたような…いや、心底驚いた表情で、奈子は由維の顔をのぞき込んだ。
「…頭、大丈夫?」
その口調が本気で心配しているようなので、由維はぷぅっと頬を膨らませる。
「私、一生懸命考えたんですよ。奈子先輩が子供を産めなくたって、人工授精で、私が代理母になるって手があるじゃないですか。ね、これなら私、奈子先輩の子供が産めるんですよ!」
まるで本気みたいだ。いや、由維は間違いなく本気だろう。
思わず奈子も、小さく吹き出した。
「バ〜カ、なに考えてるの」
「いい方法だと思うんだけどな〜」
「そもそも、人工授精だって相手が必要でしょう?」
「誰でもいいじゃないですか。エイシスさんでも、高品先輩でも、ハルティ様でも、なんならレオナルド・ディカプリオでも。私の好みとしては、やっぱり美形がいいんですけど?」
「ディカプリオってのは難しいと思うなぁ…」
「何かのイベントで来日した時に、背後から殴り倒すってのはどうですか?」
由維は半分以上本気といった表情で言い、それから二人は声を揃えて笑いだした。お腹を押さえて笑い転げる。
「ああ、それから…」
笑いすぎてあふれてきた涙を拭いながら、由維は言った。
「パパになり損ねた人が来てますから、会ってくださいね」
「えっ?」
奈子は思わず飛び起きる。
「エイシスが来てるの? あいつに、言ったの? どうしてっ?」
「…って、そりゃあ、言わないわけにはいかないですよ」
奈子はがばっと毛布をかぶった。
「ヤダ! どうして言うのっ! どんな顔して会えっていうのっ?」
「その顔でいいんじゃないですか? 真っ赤になって可愛いですよ」
「由維のバカ! 一生恨むから!」
由維はそんな苦情には耳も貸さずにベッドから降りた。
「呼んできますからね。あ、それと、殴っちゃダメですよ。ひどい怪我してるんですから」
「怪我…?」
毛布から、顔だけ出して訊く。
「何かあったの?」
「心配?」
由維が、小悪魔な笑みを浮かべていた。
「べ、別に!」
また毛布の下にもぐり込む。
「フェイリアさんと私が一発ずつでしょ。ファージが五発でリューリィが十発…。さすがにリューリィの時は途中で止めたんですけどね。本気で殴ってたから」
「あ…」
呆れて、何も言えなかった。四人がかりで痛めつけられているエイシスの姿が目に浮かぶようだ。
「…だったらアタシにも、一発くらいは権利があるんじゃない?」
「奈子先輩にはこの間の貸しがある、って言ってましたけど」
「この間…ああ、あれね」
奈子のせいで、ファージにぼろぼろにされたあの件だろう。確かにあれは全面的に奈子が悪い。
「とゆ〜わけですんで、呼びますね」
由維が寝室を出ていく。
それから間もなく、扉が控えめにノックされた。
「…いいよ」
奈子が応えると、扉が開かれた。
入ってきたのは怪奇ミイラ男…ではなくて、頭と、腕と、脚に包帯を巻いたエイシスだった。
奈子は思わず吹き出してしまう。
「なによ、その恰好」
「仕方ないだろ、俺も今度という今度は命がないかと思ったな。あのチビには感謝しないと」
「由維?」
エイシスがうなずく。
「でも、あいつの一発がいちばん痛かったぞ。チビのくせに」
言いながら、近くにあった椅子を引き寄せて座った。
奈子の顔をのぞき込む。
「…なによ?」
頬が赤くなるのを感じる。
「…すまなかった」
「なによ、らしくない。気味悪いじゃない」
「連絡を受けるまで、なにも知らなくて…」
「だって、アタシ言わなかったもん」
「本当に、すまん」
いつもからは考えられないくらい、殊勝な態度だ。
しかし別に、エイシスが悪いわけではない。
そもそも妊娠の件は、奈子が不注意だった。
エイシスを恨む気持ちはこれっぽちもない。それどころか、エイシスを見ていても以前ほどむかつかない。
むしろ…その逆かもしれない。
(じょ、冗談じゃない! どうしてアタシが…)
ほんの一時とはいえ、エイシスの子を胎内に宿したという事実が、奈子の心理に何か影響を与えているのかもしれない。
「いいよ、もう」
照れ隠しに、そっぽを向いて言った。
「…この償いは、いずれ必ずするから…な」
「……うん」
背中を向けたまま、奈子は応えた。
エイシスが椅子から立ち上がる音がする。扉の方へと歩いてゆく。
「ねえ、エイシス?」
奈子は、その大きな背中に向かって呼びかけた。
「ん?」
「もし、何事もなく子供が産まれてたら、あんたはどうしてた?」
悪戯な笑みを浮かべて訊く。
答えそのものにはそれほど興味はなかった。ただ、エイシスの困ったところを見たかっただけだ。
「…そうだな」
扉に手をかけたまま、少し考える。
やがて、いつもの人を馬鹿にしたような笑いを浮かべて言った。
「リューに百発くらい殴られて、それでも生きてたら…結婚を申し込んでたかな?」
「…なに言ってんの、バカ!」
奈子が真っ赤になって叫ぶ。エイシスは笑いながら部屋を出ていった。
その事件は、大陸中を震撼させた。
それも当然だ。なにしろ中原の大都市トゥラシが、一瞬にして消滅したのだから。
それも、トカイ・ラーナ教会の総本山であるアルンシルごと。
その衝撃は近隣諸国にとどまらず、大陸中に広がっていった。教会と敵対していたハレイトンやアルトゥルといった王国でさえ、喜びよりも戸惑いが先に立った。
いったいこの時代、一つの都市を跡形もなしに消し去ることができる力が、どこに隠されていたというのだろう。王国時代ですら、こんなことはそうそうあったわけではない。
教会の支配下にあった中原十カ国をはじめ、さまざまな国が調査に乗り出していた。
もっとも、そこで起こった事件の真相にたどり着く者はいないだろう。
彼女にとって、そんな周囲のざわめきはどうでもいいことだった。
彼女は、ただ静かに笑いながら湖の畔に立っていた。
それは、この大陸でもっとも新しい湖。
そして、人の手で作られた二番目に大きな湖。
ここはつい先日まで、十万を越える人々が住んでいた土地だった。それが今では、小さな波が湖岸を洗っている。
湖面を渡る風が、朱い髪を揺らす。
彼女――アィアリスは笑っていた。
心底、可笑しそうに。
湖の畔に一人立って、いつまでも笑い続けていた。
「まだ、今日は大人しくしてなきゃダメですよ」
由維が子供に言い聞かせるように言う。
「…わかってるよ」
自分の家の、自分のベッドに横になって奈子は応えた。
奈子の体調はまだ完全ではなかったけれど、由維もいつまでも家を空けているわけにもいかないので、こちらへ帰ってきた。
ずいぶん久しぶりのように感じるが、実際に向こうへ行っていたのはほんの四日間でしかない。
「…あのね、由維」
空になったコップを持って部屋を出ようとしたところで、由維は背後から呼び止められた。
「なに?」
「……」
奈子は言いにくそうに、沈んだ表情をしている。何かを思い詰めたような。
「…なんですか?」
奈子がなにも言わないので、もう一度訊く。
「トゥラシって…どのくらいの人が住んでたんだろ?」
その言葉に、由維は一瞬動きを止めた。手に持っていたコップを机の上に置いて、ベッドの傍に戻る。
床に膝をついて、横になった奈子の顔をのぞき込む。
小さく深呼吸してから口を開いた。
「……聞かない方が、いいと思う」
由維はその答えをソレアから聞いていた。だけどあえて奈子には言わなかった。
近いうちに奈子がこの話題を持ち出すことはわかっていた。しかしそれに対してどう対応するのが一番いいのかは、まだ決めかねていたのだ。
トゥラシは、大陸でも有数の大都市の一つだ。
そして、その市街地にはなにも残らなかった。生存者など論外だ。瓦礫すら存在しないのだから。
直径数キロの真円形のクレーター。ただそれだけだ。
あまりにも常軌を逸した力だった。たとえ核兵器を使ってもこうはいくまい。
王国時代の偉大なる魔力――その恐ろしさが初めて実感できた。墓守と呼ばれる者たちが、その力を封印しようとしたのも当然だ。
大都市を一瞬で消滅させ、大陸の気候すら変えるほどの力。
由維を傷つけられ、お腹の子供を殺された奈子のとった行動が、それだった。
正気に戻った奈子がどんな反応を示すか…。由維にとっては、火を見るよりも明らかだった。
「…何万人も、殺したんだ…アタシが…。アルワライェもアィアリスも許せない。あいつらを生み出したトカイ・ラーナ教会だって…。でも、なんの罪もない人を……何万人も…」
奈子の目から、涙があふれていた。
由維の服を掴む。
「どうしよう。ねえ、どうしよう…」
縋り付くように訴える。
そのことは、由維も考えていた。
それは、いくら考えてもどうしようもないことだった。
いくら悔やんだところで、その事実は変えられない。
死んだ人は帰ってこない。
そしてなにより、そのために奈子を失うわけにはいかないのだ。
由維は、奈子をぎゅっと抱きしめた。奈子の手に、更に力が込められる。
その手が、小刻みに震えているのに気付いた。
「ねえ、アタシの手、血で真っ赤に染まってるの。どんなに洗っても洗っても拭えない血の染みが増える一方なの。ねぇ、どうしよう?」
由維はすぐにはそれに答えず、ただしっかりと奈子を抱きしめていた。
「由維のため…だったんだよね?」
確かめるように訊いてくる。
「子供は死んじゃった。だけど、アタシには由維がいる。由維さえいれば、あとは何もいらない。由維のためなら、世界中を敵に回してもいい。ねえ、そうだよね?」
由維は気付いていた。「由維を護るため…」という大義名分のためならば、奈子は自分のあらゆる行動を正当化できるのだ。
それは、事実ではない。あのとき子供は既に死んでいたのだし、由維を護るためだけならば、あそこまでする必要はない。
しかし、奈子には免罪符が必要だった。自分自身の正気を保つためには、そうするしかなかった。
以前、ソレアが考えた通りだ。
『あの子がいれば、ナコちゃんはなんでもできる。あの子を護るため、という大義名分さえあれば、ナコちゃんは屍の山を築くことだってできるでしょう』
それは、やや常軌を逸した行動かもしれない。しかし、今の奈子にはそれが必要だった。
ソレアから話を聞いていたわけではないが、由維もそのことは気付いていた。奈子が闘うためには「護るべきもの」が必要なのだ。
「そう、奈子先輩は、私を助けてくれたんだよ。なにがあっても、どれだけの人間を敵に回しても、奈子先輩は私を助けてくれるんだよね? だから、私も奈子先輩が好き」
奈子の身体を抱いて、優しく言った。
「前に言ったよね? 私、なにがあっても奈子先輩のことが好きだって。なにがあっても、私だけは奈子先輩の傍にいるって」
「由維…」
どちらからともなく、二人は唇を重ねた。
激しい、貪るようなキスだった。だけど由維も、そうされるのは嫌いじゃない。
「由維」
「ん…ふ…」
ベッドの中に引きずり込まれて、乱暴に服を脱がされる。荒々しい手つきで胸を掴まれても、今日の由維は抵抗しなかった。
ただ、奈子のするがままにさせておいた。
その激しすぎる愛撫は、由維にも火をつけていた。
抵抗するなんて考えられない。
実際のところ、由維自身のの精神状態もまだまだ正常とは言い難く、いつもの自制心は働かなかった。
もっともっと、愛して欲しい。
何があっても、どんなことがあっても、私たちは一緒。
その、証がほしかった。
「由維…愛してる…」
「奈子先輩…いいよ…」
スカートが下ろされ、奈子の指が下着にかかる。脱がしやすいようにと、由維は軽く腰を持ち上げた。
「由維…」
全裸にされた瞬間、由維は少しだけ怯えたような表情を見せた。だけど、拒絶はしない。
奈子は、微かに震えている由維の身体を、もう一度しっかりと抱きしめた。
――と。
「…なにやってるのっ! あんたはぁっっ!」
鈍い音と同時に、奈子の目の中に火花が散った。
聞き覚えのありすぎる声が響く。
「もう少しTPOってものを考えなさいよ! 昼間っから何やってるの!」
「…か、か、母さん!」
「…美奈さん」
少し前にもこんなことがあったな、と思いながら、奈子は後頭部に手を当てた。前回とまったく同じ位置に、大きなこぶができていた。
そして、ベッドの脇に母親がものすごい形相で立っている。これも同じだ。この前との違いは、場所がソファかベッドかという点だけだ。
「な、なにしに来たの! この間来たばっかりじゃん!」
「ばっかりって、一月も前のことじゃない! それに、自分の家に帰ってきたからって文句を言われる筋合いはないわ! 特に、昼間っから女の子を襲っているようなバカ娘にはね!」
「今日は合意の上だぞ!」
「とてもそうは見えなかったわね。あんた、ちょっと乱暴すぎるわよ。それに、今日はってことは、やっぱりいつもは強姦なわけね?」
「ちが〜う! だいたい、なにしに来たんだよ! 普段は年に数えるほどしか帰らないくせに」
そんな親子喧嘩の隙に、真っ赤になった由維は慌てて衣服を身につけている。
「仕方ないでしょ。だって、子供ができたっていうから…」
「――っ!」
ボタンを留めていた由維の手が止まった。奈子も一瞬凍り付く。
奈子は、横目で由維を見た。
(由維、あんた言った?)
(まさか、言いませんよ)
(じゃあ…?)
無言のまま目で会話した二人は、美奈に視線を戻した。
「何をひそひそ言ってんの?」
「えっと…、こ、子供って…なんのこと?」
「何うろたえてるのよ? あんたが妊娠したわけじゃあるまいし」
美奈の際どい台詞に、どっと汗が噴き出す。
しかしまだ、バレたと決まったわけではない。ぼろを出さないようにしなければ。
「…えっと、じゃあ…」
奈子でなければ、いったい誰が妊娠したというのか。
「まさか、美奈さん…」
由維がおそるおそる、といった様子で訊く。
「えへへ、三ヶ月だって」
「あ、あんたがっ?」
「母親をあんたと呼ぶな!」
鉄拳制裁が奈子を襲う。
「え、え〜っとぉ…おめでとうございます!」
「…いい歳をして」
ぼそっと余計なことをつぶやいた奈子は、もう一発殴られた。
「あたしは永遠の二十八歳よ。いいじゃない、子供の一人や二人」
「さりげなく八歳(推定)もサバを読むな!」
推定…というのは、美奈は娘にも自分の生年月日を明かしていないからだ。
「仕方ないのよ、失敗したから」
わざとらしく、よよよ…とその場に泣き崩れる。実力派の人気女優のくせに、家の中ではかなり大根だ。
「仕方ない?」
いい歳をして、娘同様に失敗したとでもいうのだろうか。
この人ならあり得る、と奈子も由維も思った。そもそも、奈子を産んだのも大学生の頃だったはず。どう考えても計画出産とは思えない。
「えっと…失敗っていうのは…?」
由維が躊躇いがちに訊く。
「つまりね、一人目が大失敗だったからさ。もうひとり産んで、今度はもうちょっとマトモに育てようかと」
「誰が大失敗だってっ!」
「女の子を襲うような『娘』が失敗作でなくて、いったい何を失敗と呼ぶのよ?」
「いいじゃん、そんなのどうだって!」
「だってこのままじゃ、孫の顔は見れそうにないもの。次女か長男かはまだわからないけれど、この子に期待するしかないじゃない」
自分のお腹を押さえて言う。
「う…」
奈子は言葉に詰まった。
美奈が考えているのと理由はかなり違うが、奈子に期待しても「孫の顔は見れそうにない」のは事実だからだ。
「もう、好きにすれば! でも、あんまりこっちに帰ってこないでよね」
「由維ちゃんを襲えないから?」
「あんたが妊娠なんてことになったら、またマスコミとかが押し掛けてうるさいんだから!」
「いいじゃない、そのくらい。あんたに頼みがあったのよ」
「頼み?」
「あのね…」
美奈の「頼み」に奈子は戸惑い、由維は面白そうに目を輝かせた。
「やれやれ、まいったなぁ」
奈子はうんざりしたようにつぶやきながら、コーヒーカップを口に運んだ。
由維は、フルーツパフェを頬張っている。
ここは、家の近くにある喫茶店『みそさざい』だ。二人で夕食の買い物に出たついでに、ちょっと寄り道している。
「いいじゃないですか。でも、奈子先輩がお姉さんになるんですね〜。なんか意外」
「まあ、それはいいんだけど…困ったなぁ」
「え〜? いろいろ考えるのも楽しいじゃないですか」
奈子が唸っているのは、母親の「頼み」のためだ。
つまり『この子の名前は、奈子が考えてね』と。そう頼まれたのだ。
それで、困っているのである。生まれるのは来年の話だし、性別もわからないうちにまだずいぶんと気の早い話ではあるが。
「う〜ん…」
カップを置いて、腕組みをして唸る。
「男の子だったら、日明とか、倍達とか、それとも章圭とか…」
「思いっきり趣味に走ってますねぇ」
由維が苦笑する。いずれも奈子が好きな、二十世紀後半の有名な格闘家の名だ。
「でもそれって、あまり苗字と合わないような気もするけど…。そうだ、延彦なんてどうです?」
「弱そうだからヤダ」
一言で切り捨てる。
「強い人? じゃあヒクソン」
「日本人だぞ」
う〜ん、と二人揃って頭を抱えた。
気に入った名前はたくさんあっても、実際にはそのうちたった一つしかつけられないのだ。いざ考えるとなると、なかなか難しい。
「あ、いい名前思いついちゃった」
由維は笑いを堪えているような表情で、スプーンをくわえたまま指を一本立てた。
「あのね…松宮雄二ってのは?」
奈子はコーヒーを吹き出した。
「じょ、じょ〜だんじゃないわよ!」
一瞬で、奈子の顔が真っ赤になる。口元を拭いながら叫んだ。
雄二…は奈子の初恋の、そして初体験の相手の名前だった。同じ道場の先輩で、高品雄二という。
「いいと思うんだけどな〜。じゃあ、男の子は保留として、女の子の名前考えます?」
「あ、それはもう考えてある」
奈子はコーヒーを飲み干すと、マスターの晶にお代わりを頼んだ。
「どんな名前ですか?」
興味津々に訊く。
「あのね…」
奈子は得意げに言った。
「由維とアタシから一字ずつ取って『由奈』ってどうかな? トリニアの竜騎士みたいでカッコイイじゃん」
「松宮由奈…いい名前ですね。でも、どこかで聞いたような…」
「え、なに? 私の名前が、どうかした?」
「え?」
突然、会話に割り込んできた声に、二人は顔を上げた。
傍に、コーヒーのお代わりを持ってきた、バイトのウェイトレスが立っている。
奈子と由維はしげしげと彼女を見て、それから顔を見合わせた。
相手の目を見て、お互いに同じ考えだと理解する。
「聞いたことあるはずですね」
「ちょっと…マズイよね。万が一似ちゃったら…」
「…他の名前にした方がいいかも」
「…だね」
こそこそと言ってうなずき合い、そして、同時に吹き出した。
「…?」
男遊びの激しさで知られる、みそさざいのウェイトレス柊由奈は、笑い転げる二人を不思議そうに見つめていた。
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