函館から帰った翌日のこと。
「昨日家に帰ったら、お姉ちゃんがケーキ買ってきてるんだもんなぁ。お祝い、だって」
奈子の家へやって来た由維が、そう言って苦笑した。
「……もしかして、美咲さんにはバレバレ?」
「みたい、ですねぇ」
お祝いとはつまり、由維の初体験のお祝いという意味に違いない。
由維の姉の美咲は、二人の関係を知っている。その二人が旅行へ行っていたのだから、夜に何があったかは聞くまでもない、ということなのだろう。
「まさか、おばさんたちにも?」
「いや、それはないと思うけど」
まさかこんなこと、親に話したりはしないだろう。性格にはかなり問題ありの美咲ではあるが、その点では信用してもいい……はずだ。
「うー、……まあいいや。今さら悩んでも仕方ないし。……で?」
枕はとりあえずここまでにして、本題に移る。
函館の夜に、由維が言いかけたこと。
奈子が言わせなかったこと。
前文明が遺したという、メッセージのことを。
それが本当に実在するのであれば、いつまでも放っておくわけにはいかない。
居間のソファに座ると、由維は持ってきたバッグから小さな箱を取り出した。奈子の前でそれを開けて、中に収められていたものを取り出す。
それは一見、小さなガラス板に見えた。形も大きさも、ちょうど顕微鏡のスライドグラスのようだ。
しかしよく見ると、光の屈折率がガラスとは微妙に違う鉱物でできていることがわかる。
奈子は差し出された数枚の透明な板のうち、一枚を手に取った。窓の方に向けて、光に透かして見る。
特に変わったところはない。なんの変哲もない透明な鉱石だ。水晶に似ているかもしれない。
「これ、あんたがアルンシルから持ち帰ったものだよね?」
以前、トカイ・ラーナ教会の中枢であるアルンシルに迷い込んだ由維が、書物などと一緒にこっそりと持ち帰ったもの。ファージやソレアにも言わずに、これまでずっと保管して調べていた。
「まさかこれが、前文明の遺物だっていうの? ただのガラス板にしか見えないけどなぁ。それに、だとしたら教会は前文明のメッセージを解読してるってこと?」
そもそもこんなものが、十万年も残るものだろうか。
両端を押さえて真ん中を指で押すと、微かにたわむ。普通のガラスとそれほど変わらない強度しかないということだ。奈子の握力であれば簡単に折ることができるだろう。
「ちょっと違いますよ。多分これは王国時代のものか、あるいはもっと後に教会で作られたものだと思う」
「じゃあ……?」
由維は立ち上がると、居間のカーテンを閉めて明かりを消した。室内は、お互いの顔もよく見えないくらい暗くなる。
「……で?」
由維は黙って、魔法の明かりを灯した。手の中に生まれたロウソクほどの小さな明かりが、部屋の中をぼんやりと照らし出す。
その前に、指につまんだ問題の鉱石板をかざした。
「――っ!」
奈子が目を見開く。
淡いクリーム色の壁紙に、細かな記号らしきものがびっしりと投影されていた。ちょうど、スライドでも映し出すかのように。
見た目には透明なガラス板なのに、これはどうしたことだろう。魔法の灯り、というところに秘密があるのかもしれない。
「……これが、文字なの? これが前文明のメッセージ? なにが書いてあるのかさっぱりなんだけど」
それはまるで新聞の白黒写真をルーペで拡大したような黒い点の集まりで、文字のようには見えない。なんとなく規則的なパターンが感じられなくもないが、奈子が知っている向こうの世界の文字と比べたって似ても似つかない。
「こんな文字、読めったって無理だよ。アタシたちがなんとか読める向こうの文字で一番古いものは、アィクル古語でしょう? 十万年も前の文字なんて……」
「別に、これが前文明の文字ってわけじゃないですよ。でも、文字といえば文字かもしれませんね。世界で一番古くて、そしてどれだけ時間が経っても変わらない、万国共通の言葉」
「……?」
「これがどこにあったか、覚えてますか?」
「アルンシルの……ドールの研究施設でしょ」
竜や、アィアリスの弟妹たちや、その他様々な魔法生物を培養していたという地下施設。その話は由維から聞いている。
「あそこで育てられていた何十種というドールの中で、一番重要なものってなんだと思います?」
「それは……アリスの弟妹たち?」
「はずれ」
「あ、竜……か」
亜竜ではない、本物の竜。千年近く前に滅びたと考えられていた竜が現代に甦れば、どれほどの戦力になることか。それは既に、マイカラスで実証されている。
それに比べれば、アィアリスの弟妹たちは個体による能力差が大きすぎる。アィアリスやアルワライェは文句なしだろうが、奈子が会ったことのある他の弟妹たちは、力という点では明らかに見劣りした。要するにアィアリスの遺伝子は、まだ未完成の、不安定なものなのだ。
「で、竜がどうしたって?」
「私ね、これを持ち帰ってからずっと考えていたんですよ。これはいったい、なんなのかって。そしてある日、魔法の光を当てるとこの模様が浮かび上がることに気がついた。これは一種の記憶素子なんです。マイクロフィルムみたいなものって言えばいいかな。多分、魔法で結晶の構造を変化させているんだと思う。この小さなガラス板に、普通の書物なんか比べものにならないくらい大量の情報をしまっておけるってわけ」
「……それはまあ、わかるけど」
「でも、この模様がなにを意味しているのかはわからなかった。なにかの暗号か、私たちの知らない古代文字か。一昨日の夜、その謎が解けたんです」
「…………」
「あの、歌ですよ。リューリィが教えてくれた、あの歌」
「歌、……って」
確かにあの時、由維は歌を口ずさんでいた。リューリィがよく歌っていた歌。アレンジは加えられているはずだが、基本となる旋律はあの世界に古くから伝わるものだという。
しかし、歌と、このわけのわからない模様と、そして前文明と。いったいどこでつながるのだろう。
由維の思考がどこでどう飛躍したのか、奈子にはさっぱりわからない。
「歌詞はともかく、メロディはどこかで聴いたことあるような気がしていた。すごく懐かしい気がする。奈子先輩もそうじゃありません?」
「うん、それはアタシも同じ」
「そう感じるのは当然なんですよ。だってあのメロディは……」
「メロディは?」
思わず、由維の方に身を乗り出して訊く。
「生命の歌、です。人間を形作る、一番基本的な旋律なんです」
「ちょっと待って、もう少しわかりやすく説明してよ。そんな、ますむらひろしのマンガみたいなこと言われても……」
「わかりませんか? あの旋律は、人間の遺伝子なんですよ。DNAの配列を、音符に置き換えたものです」
由維が高らかに宣言する。残念ながら奈子は、その言葉の意味をすぐに飲み込めるほど科学に精通してはいない。それに気付いた由維が、わかりやすく説明してくれた。
生物の遺伝を司るDNA――デオキシリボ核酸は複雑な二重螺旋構造をしているが、もしも両端を引っ張って伸ばせば、それは梯子のような形になる。梯子の踏み子を形作るのが四種類の塩基で、どの塩基がどんな順序で並んでいるかによって、遺伝情報を書き記しているのだ。
二十世紀の終わり頃、この塩基の並びを音楽に置き換えようと試みる何人かの生物学者が現れた。
どの塩基をどの音階に割り当てるか。
オクターブの変化はどうするか。
それに音階は四種類よりも多いから、ひとつの塩基を場合によって異なる音階に割り当てる必要もある。
そういったルールは、それを試みた科学者たちがそれぞれ試行錯誤して見つけていった。
そして、結果は驚くべきものだった。
できあがったものはどれも、とても美しく、人間の耳に優しい旋律だったのだ。
人間の遺伝子の中には、美しい旋律が隠れている。
生命を形作るもっとも基本的な旋律。だから人はその曲を美しく、懐かしく感じる。それを見つけ出したきっかけは、科学者のちょっとした遊び心だった。
「……え、じゃあ……あの歌が?」
「そう、です。初めて聴いた時から、どこかで聴いたことがあるような気がして。ずっと考えていて。あの夜、二人で話していたじゃないですか。私たちはお互い愛し合うように、遺伝子にそう書き込まれているって」
由維はそれで気付いたのだ。
あの旋律がどうしてこんなに懐かしいのか。以前どこで聴いたのか。
「ちょっと待った。どうして由維は、あれが生命の歌だってわかったの?」
「だって、聴いたことありますもん」
「え?」
「ずいぶん前に。NHKの科学ものの番組で」
由維はバッグから、携帯用のMDプレーヤーを取り出して奈子に渡した。
「昨日の夜、古いビデオテープを探して、録音してきたんです」
ヘッドフォンを耳に当てて、奈子は再生ボタンを押した。NHKらしい落ち着いたナレーションの後ろに、音楽が流れている。
「……似てる」
リューリィの歌とはずいぶん違う。しかし、どこか似ている。
違うのは当たり前だ。あの世界とこの世界では、使用される音階も違うのだから。ちょっと聴いただけでは、まったく違う音楽にも思える。しかし間違いなく、この二つの旋律は同じ一つの源から生まれたものだ。
「そうか……生命の中には、こんなに優しい旋律が隠されているんだ。だからなのかな、人間が音楽を心地よく感じるのは」
「そうかもしれませんね」
生命は、美しい。音楽に形を変えても、人を感動させることができる。
奈子は、泣きそうな気持ちになった。
「でも、さ」
MDプレーヤーを止めて言う。
「リューの歌が、どうしてこんなに懐かしく感じるのかはわかった。でも、それと前文明と、この鉱石板と、いったいどんなつながりが?」
「もぉ、まだわかんないんですか?」
「わかるように説明してよ。アタシ、あんたみたいに頭よくないんだから」
「……これは、竜の遺伝子の配列なんですよ!」
由維は立ち上がると、壁に映し出された意味不明の模様をばんばんと手で叩いた。興奮のあまり顔が紅潮している。
「竜の……遺伝子?」
奈子は、由維の言葉を反芻する。
「この、意味もなく散りばめたような黒い点。よく見てください。どれも、角がひとつ欠けた正方形をしているでしょう?」
「……そうだね」
言われてみて気がついた。壁紙に投影しているので輪郭がやや曖昧になり、遠目にはただの黒い点でしかない。が、近くでよく見るとどの点も正方形をしていて、角のひとつが折ったみたいに欠けている。但し、四つの角のどれが欠けているかは点によって異なっていた。
「つまり、ここには四種類の点があるわけです。そしてDNAを構成する塩基も、アデニン、チミン、グアニン、シトシンの四種類」
「……あんた、なんでそんなこと知ってンの?」
奈子は知らなかった。そんな単語初めて聞いた。
「このくらい常識ですよ」
「それは違うと思うよ。少なくとも、中学三年の女の子の常識じゃないと思う」
とはいえ、実力テストでは平均を少々下回る成績の奈子と、常に学年一桁の順位をキープしている由維とでは、常識のレベルも違うのかもしれない。由維はもともと、女の子には珍しく科学好きでもある。
「……でも、たまたま四種類だからといって、それがDNAの構造を表しているとは限らないでしょ?」
「証拠はあります。左上が欠けているものをA、右上がB、右下がC、左下をDとすると、AとB、CとDが必ず上下に対になっているんです」
「それで?」
「これと同じように、DNA中の塩基は、必ずアデニンとチミン、グアニンとシトシンがペアになっているんですよ」
「…………」
奈子は黙り込んだ。遺伝子のことなど詳しくはないが、こうして聞いていると由維の説明には説得力がある。
「そして、これを見てください」
由維が、光の前に置いた鉱石板を少しずつ前後に動かす。これがスライドならば投影される映像の焦点がぼやけるだけのはずだが、壁に映る模様はその度にまったく違ったものになった。
「ホログラフみたいに、情報が立体的に記録されているんです。これ一枚で、膨大な情報量ですよ」
今度は、由維が何を言いたいのか奈子にも少しはわかった。細胞核に含まれる遺伝子は、膨大な情報を保持していると聞いたことがある。それをすべて文字に直したら、百科事典数十冊分にもなるという。
遺伝子の配列をすべて記録するなら、書物などという手段はあまりにも非効率的だろう。しかしこの鉱石板なら、たった一枚で人間のすべての遺伝情報を記録できるのかもしれない。
「このちっぽけな鉱石板に、膨大な情報が詰め込まれている。そこには四種類の記号が記されていて、塩基配列と同じく必ず二つずつ対になっている。そしてこれが保管されていたのは、人造生命であるドールの研究所。……これだけ材料があれば、この鉱石板はドールを作るための遺伝子情報の記録メディアだと考えるのが自然じゃありません? あそこには他に、それだけの情報を記した書物は見当たりませんでしたよ」
「……鉱石板は何枚かあったんでしょう? どうしてこれが、竜の遺伝子だと?」
「一番大切に保管してありました」
「…………降参。由維の言う通りだわ」
淀みなく答える由維に向かって、奈子は両手を上げた。
大したものだ。よくもそこまで思いついたものだ。
しかし、これですべての謎が解けたわけではない。
「……トカイ・ラーナ教会の学者が王国時代の竜の死体を調べて、その遺伝子を解析し、この鉱石板に記録した。……それともこれは王国時代のもので、それを教会が発掘したのかな? まあとにかく、この遺伝情報を元に、ドールを作る技術を応用して竜を再生した。そこまではいいとして、それと前文明のメッセージになんの関連が?」
「前文明が数十万年後まで残るメッセージを書き残すとしたら、ここしかありません」
「ここ、って?」
「DNAの中ですよ。無数の塩基配列のうち、実際に有用な遺伝情報を記しているのはごく一部なんです。残りの部分は、古い、今では使われていない部分だったり、遺伝子の中に潜んでいるレトロウィルスの痕跡だったり、遺伝子と遺伝子の間の緩衝地帯だったり。とにかく、その部分にメッセージを埋め込んだとしても、その生物に悪影響はないんです」
「……そんな、まさか」
奈子には、にわかには信じ難い。DNAの中に、メッセージを埋め込めるだなんて。
「そのくらい、やるんじゃないですか? カール・セーガンのSF小説には、円周率の中にメッセージを埋め込んだ太古の異星人の話がありますよ。それに比べればDNAくらい」
「どうして、そんな手間のかかること」
「遠い未来まで、残すためです。どんな強固な金属板にメッセージを彫ったって、地質学的時間の中では地殻変動で失われる可能性がかなり高いです。でも生物は、局地的な災害なら自分の脚で逃げます。地質学的時間も、子孫を残すことで越えられるんです。そして、DNAの強固な二重螺旋構造には自己修復機能があって、十万年やそこらではほとんど変化しません。人間とチンパンジーの祖先は数百万年前に別れたのに、DNAの差は一パーセントかそこらだそうですよ。たった十万年なら、誤字は一万字につき一文字もありません」
その割合なら、文庫本一冊につき誤字は十文字以下ということになる。その程度の誤字で、重要なメッセージの意味が理解できなくなることなどあるまい。
しかもDNAは、目に見えない小さな細胞核の中で、膨大な情報量を保持することができる。そして、例えば哺乳動物ならひとつの個体が数兆個の細胞でできている。これだけの数のコピーがあれば、なんらかの事故で一部が失われても、正しい情報はどこかに残る。
遠い未来へ、大量の情報を送り届けるにはもっとも効率的で、確実な方法なのだ。
「十万年前の文字なんて読めない……奈子先輩は先刻、そう言いましたね。でも、科学の法則は、時代、場所を問わず共通なんですよ」
「だけど……そんな、遺伝子の中に人為的に情報を書き込むなんて……そんなことできるの?」
「できます」
奈子は知らなかったが、それに近いことはこの世界の現在の技術でも可能なのだそうだ。
そして向こうの世界の王国時代には、もっと進んだ遺伝子操作の技術があった。ファージが作り出されたのは、千年以上も昔なのだ。
前文明がさらに進んだ技術を持っていたなら、間違いなく可能だろう。
「じゃあ、これが最後。どうして、竜の遺伝子の中にメッセージがあると?」
別に、人間でも他の生物でもいいではないか。
しかし由維は、その答えも用意していた。
「竜は、前文明によって一から作り出された生物だからです」
なんの迷いもなく、きっぱりと断言する。
「竜が……作られた生物? どうして……」
「竜はあの世界の生物の、進化の系統樹から外れた存在ですから」
由維は説明する。竜が自然の進化の中で生まれた生物なら、他にも似た種が存在するはず――と。
竜は、まったく異質な存在だった。しかし竜以外のあの世界の生物たちは、魔法の力を除けばこの世界のものと大きな違いはない。
「私たちの世界の脊椎動物は、すべて五本の指を持っています。馬みたいに退化して減った例はあるけど、それでも進化の道筋を遡っていけば五本指だった祖先がいる。そして、すべての陸上の動物は四本の脚を持っています。どうしてかわかります?」
「……最初に陸に上がった動物の祖先が、四本の脚と五本の指を持っていたから?」
「そうです」
すべての脊椎動物は、そのただ一種の祖先から進化した。だから、現在では多種多様に分化した動物たちは、みな共通の構造を持っている。
それは、あの世界でも同じだ。
四本の脚。五本の指。
ただ一種の例外を除いて。
「知ってますか? 竜は六本指で、親指に相当する指が二本あるそうですよ」
そして何より、あの翼。
竜は二対の脚と、一対の翼を持っている。
さらに「竜の炎」と呼ばれる超高温のプラズマを放射する能力。
人間並みかそれ以上の高い知能。
人間を超えるといわれる魔力。
明らかに異質な存在なのだ。
「竜が自然発生したものなら、他にも六本指や三対六本の脚を持つ生物がいるはずです。そうでなきゃおかしいんです」
「……言われてみれば、そうかもしれないね」
竜は、竜ただ一種だけの存在だった。鱗の色が異なるものはいるが、それは人間でいえば髪や瞳、肌の色の違い程度の差でしかない。人間とチンパンジー程度に異なるような竜の近縁種などというものは、存在しないのだ。
「アタシも一つ、気になっていたことがあった。アタシたちの世界では、人間が最強の動物だよね。だから、世界を支配している。だけどあの世界、どう考えたって最強の存在は竜だよ。王国時代以前ならなおさら。なのに地上を支配しているのは人間で、竜は基本的に人間に干渉せず、ひっそりと暮らしていた。まるで……」
まるで、人間たちを見守るかのように。
本来、強いものが支配者となり、生き残る。それが生存競争というものだ。
しかし竜が人間の手で作られた存在なら、人間を滅ぼさないように配慮されていてもおかしくない。
「竜が作られた存在だとすると、必然的にそれは前文明時代のことになります。現在の歴史の中では、竜は有史以前からいたんだし、王国時代以前に遺伝子を操作する技術はなかったでしょうから」
「……たいしたもんだ。あんた、ホント頭いいよ」
そう言って、乱暴に頭を撫でてやる。由維は嬉しそうに目を細めた。
「えへへ。昨日……っていうか、今朝四時まで、ずっと考えていたんですよ」
「偉い偉い」
撫でている手でそのまま頭を抱えるようにして、頬ずりする。そして、頬にちゅっとキス。
「あんっ」
「あ、可愛い声。もっと聞きたいなー」
そのまま、ソファに押し倒した。
頬、こめかみ、額、鼻、そして唇。キスの雨を降らせる。
「やぁっ、奈子先輩……今はそれどころじゃ」
「いま話すべきことはほとんど話し終わったっしょ? ちょうど、カーテンも閉めてあることだし」
「やぁん!」
口では嫌がっても、胸に置かれた奈子の手を払うことはできない。由維は腕を伸ばして、奈子の首に抱きついた。
奈子の手は二人の身体に挟まれて、動かせなくなる。しかしそれで諦めず、自由な方の手を由維の下半身に回す。
「あっ……、ん……ふっ」
スカートの中にもぐり込んできた手に、由維は身体を震わせた。つい、なにもかも忘れてこの手に身を委ねたくなる。
「……もぉ、奈子先輩。ひょっとして、知ってるんじゃないですか?」
「なにを?」
「前文明が遺した、メッセージの内容。知っているからこそ、こうやって誤魔化しているんじゃ……」
「知らない。アタシは知らないよ」
応えながらも、指の動きは止めない。
「ん……んっ!」
「……でも、知っていたヤツはいたのかもね。王国時代には」
「や……っ、やっぱり、奈子先輩……あっ!」
「ねぇ、放っておくわけにはいかないの?」
奈子は、由維の耳元に唇を寄せた。一度耳たぶに唇を押しつけ、それから息を吹きかけるようにささやく。
「もう、こんなこと忘れて……さ。よその世界の、十万年も前の文明のことなんてどうでもいいじゃん」
「…………だめ」
力の入らない声で由維は応える。
「奈子先輩だって、本心は放っておいた方がいいなんて思ってないくせに。いつも言ってたじゃない。知らない方がいいことなんてない、なにも知らないことが一番不幸なんだ、って。今になって自分の言葉を裏切るんですか? ずるいですよ」
「ちぇ、強情なんだから。こんなに感じてるくせに」
「やっ、あぁん! 奈子、先輩……っ!」
「……わかったよ、降参。あんたの言う通り。解読しよう、前文明が遺したメッセージとやらを。でも、それだけだよ。解読しただけで、なにもしないかもしれないよ。いい?」
「……いい、です」
「じゃ、話がまとまったところで……」
奈子は、本格的に由維の服を脱がしにかかった。
「どうしてそうなるんですかぁっ!」
「あれ、途中でやめちゃっていいの?」
意地の悪い笑みを浮かべて奈子は訊く。
「欲求不満にならない? こんなになってんのに」
「…………」
今まで由維の下着の中で蠢いていた指、艶やかに濡れた奈子の中指を鼻先に突きつけられて、由維は何も言えなくなった。
心の中で、自分に言い訳する。
十万年も昔のメッセージ、もう半日くらい待たせておいてもいいだろう、と。
「……優しくして、くださいね。今夜、泊まってっていいですか?」
奈子がうなずくと、由維は自分から頭を持ち上げて唇を重ねた。
翌日から、解読作業が始まった。
DNAの塩基配列は、三つ一組でひとつのアミノ酸を表している。そして、アミノ酸は全部で二十種類。
奇妙な偶然だった。
あの世界でもっとも古いとされる言語、現在のアィクル語の元となったアィクル古語のアルファベットは、ちょうど二十文字なのだ。由維は、塩基が表すアミノ酸とアィクル古語の文字が、そのまま一対一に対応するのだろうと考えた。
三つ一組の塩基配列の組み合わせは、全部で六十四種類。それぞれがどんなアミノ酸を表しているのかは、現在すべてわかっている。
しかし問題はある。鉱石板に記された四種類の正方形と、アデニン、チミン、グアニン、シトシンの塩基がどう対応するのか。そして、どのアミノ酸がどの古アィクル文字に対応するのか。
その問題を解くには、あらゆる組み合わせを試してみるしかなかった。片っ端から試して、意味のある言葉が現れる組み合わせを見つけるしかない。
これは面倒なことだった。なにも難しいことはないが、とにかく手間がかかる。鉱石板に記された塩基配列には本当の遺伝情報も含まれているのだから、組み合わせが正しいか間違っているかは相当量を「翻訳」してみなければわからない。
人力で解決するのは大変な作業だった。しかし量が膨大なだけで、ひとつひとつの作業は単純だ。これは、コンピュータの助けを借りる必要がありそうだった。
そこで由維が相談したのは、白岩学園大学に通う従姉、田沢愛姫だ。愛姫は、高校時代からの友人である紀貴之という人物を紹介してくれた。
紀の父親は遺伝子工学の世界的な権威で、本人も大学で遺伝子の研究をしているという。これは余談だが、奈子と由維がよく行く喫茶店『みそさざい』のウェイトレス、柊由奈の恋人だそうで、世間は狭い、と二人は笑った。
紀に事情を説明するのは、少々骨だった。なにしろ、本当のことをすべて話すわけにはいかないのだから。
一番肝心な部分をなんとか曖昧に誤魔化して、それでもどうやら、二人がSF小説を書くための資料集めをしている、ということで納得してくれたらしい。
二人は、鉱石板に記された塩基配列を感熱紙に焼き付けて持っていった。それをイメージスキャナでディジタルデータとして取り込んでもらう。これで、コンピュータに解析を任せることが可能になった。
大学のデータベースに保管されているデータを元に、読み込んだ点の並びを塩基配列に置き換えていく。スキャナの読み取り誤差も多少はあるだろうが、この段階であり得ない並びをチェックすればかなりの確率で発見できる。コンピュータの操作とプログラム作成は、すべて紀がやってくれた。
こうして、鉱石板から読み取った膨大な量の塩基配列のデータベースが出来上がった。
次の問題は、どのアミノ酸がどの文字に対応するかということだ。これはとにかくあらゆる組み合わせを試してみて、意味のある言葉になるかどうかを調べるしかない。
もちろんアィクル古語のフォントなど存在しないので、できるだけ似た形の英字で代用して、出来上がった文字列をファイルに保存してもらい、二人で手分けして読んでいった。
二十文字すべてについて正しい組み合わせを見つけるには、ずいぶん時間がかかった。
そもそも現代アィクル語ならすらすら読める二人も、アィクル古語ではかなり手こずるのだ。一見正しそうな組み合わせでも、読み進めていくうちに意味が通じなくなる場合もあった。その度に、また別な組み合わせでやり直しだ。
夏休み中なのをいいことに、二人は毎日大学に通った。そうして試行錯誤を重ねて、ようやく正しい組み合わせが見つかった。
竜の塩基配列の中から、意味のある文章が浮かび上がってきた。ここには確かに、なんらかのメッセージが刻まれているのだ。
こうなれば後は、塩基配列から古アィクル文字への置き換えはコンピュータ任せでいい。二十四時間動かしっぱなしの変換プログラムは、膨大な量のアィクル古語のテキストを吐き出していく。
奈子と由維の次の仕事は、それをメッセージ部分と遺伝情報部分、それ以外の不要な部分に分けることだった。これはとにかく読んでみるしかない。アィクル古語を解さないこちらの世界のコンピュータには、どうにもできない作業だ。
人間の遺伝子ならば何年も前に解析済みのデータベースが存在するが、これは未知の生物、竜の遺伝子なのだ。
しかし二人はやがて、メッセージ部分の最初と最後に必ず、ある決まったパターンが出現することに気がついた。これにより、メッセージ部分の抽出もコンピュータに任せられることになった。
「考えてみれば、当然ですよね」
由維が言う。
そう、当然だ。このメッセージは、見つけやすくなっていなければおかしい。これは、後世の人間に読んでもらうために遺されたメッセージなのだ。
メッセージの最初の一文が、それを証明していた。
『遙かな未来、この地に生まれ来る者たちへ』
そんな意味の文章で始まったメッセージ。
竜の遺伝子の中にあることさえ気がつけば、その先は容易に読み進められるはずだった。
最後の作業は、メッセージを読み解き、翻訳すること。
二人は日本語ではなく、現代アィクル語に翻訳することにした。メッセージの内容を紀に読まれる心配がないし、同系統の言語の方が翻訳もしやすい。
こればかりは、奈子と由維が人力で行うしかない。膨大な量のテキストには思わず目眩を覚えたが、やがて、この問題にも解決策が用意されていることがわかった。
メッセージは、多くの章に分かれていた。そして各章の先頭には必ずその章の内容の要約があり、その後に詳細な本文が続くのだ。
このメッセージを遺した者は、いたせりつくせり、読む人間のことを考えていてくれたらしい。
二人は要約部分だけを読み、翻訳していった。
今はとりあえず、おおよその内容がわかればいい。
前文明とはどんなものだったのか。
このメッセージはなんのために遺されたのか。
そして、十万年前に何があったのか。
要約部分だけを読んでいって、気になる記述があれば本文を詳しく調べた。
そこに書かれていたのは、主として歴史だった。
ノーシルと呼ばれるあの惑星が誕生してから、前文明が滅ぶまでの。
あらゆる歴史。知識。
十万年前に起こった破局。
これまでまったく謎に包まれていた前文明の姿が、明らかにになっていった。
最後に、アィクル語のフォントを作ってその内容をすべて印刷し、何度も何度も読み返した。
それは、二人の予想をはるかに超えた真実だった。
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