五章 天と地の狭間で


 ノーシルに生まれた文明は、急速に進歩していった。
 最初のきっかけは、火の利用だった。
 そして、石器から青銅器へ。
 青銅器から鉄器へ。
 薪から木炭へ。そして石炭、石油へ。
 木と石の時代から、火と鉄の時代へ。
 ついには、電気と原子力の時代へ。
 機械と科学という強力な武器を手にした人間は、ノーシルの絶対的な支配者となった。
 機械の力で、どんな獣よりも速く地を駆け、どんな鳥よりも速く遠くへ空を飛ぶことができた。
 そしてついには、惑星の外へと飛び出していった。
 最初は、低い衛星軌道を周回するだけの原始的なロケットであったが、やがて、ノーシルを巡る月ホル・チュへ人間を送り込むことにも成功した。
 軌道上に恒久的な基地が築かれ、そこから近隣の惑星への有人飛行が開始された。
 やがて、さらに遠くの小惑星帯や外惑星も人間の行動範囲となった。その頃、惑星上の資源は枯渇しはじめていたが、人類は宇宙で無尽蔵の資源を手に入れたのである。
 太陽系外にも、いくつもの探査機が送り出された。
 ノーシルに比較的近い環境を持った近隣の惑星は、人間が住めるように改造されていった。
 太陽系の第三惑星で誕生した生命は、星々の世界へと広がっていったのだ。
 しかし――
 発展は、永遠に続くわけではなかった。
 やがて、停滞の時代が訪れた。
 惑星間の隔たりを克服した人類にとっても、恒星間の距離はあまりにも遠すぎたのだ。
 時間さえかければ、その距離を越えることはできなくはない。しかしこの時代になっても、依然として光速の壁は超えることが不可能な限界だった。
 古代人が空を見上げながら、星々の世界へ旅することなど夢物語であったように。やはり銀河は、人類にとって手の届かない世界だった。
 新天地の開拓も、新しい発見もない時代が続いた。
 文明とは、そこに留まることのできない不思議な存在だ。流れる水と同様、動きが澱んでしまえば腐敗してしまう。
 やがて文明は衰退を始めた。
 社会が、崩壊しつつあった。
 そんな時代――
 一人の科学者が、新しい可能性を発見した。
 これまでの物理学の限界を超えた、新たなエネルギーの存在。
 それは本来、オカルトや疑似科学に属する考えだった。しかしその科学者は周囲の嘲笑を無視して、再試可能な実験でそれを証明してみせたのだ。
 それはまるで、お伽噺の中の魔法のように。
 中世の錬金術のように。
 何もない空間から、莫大なエネルギーを取り出すことに成功したのだ。
 三つ以上の十分な質量をある法則に従って配置すると、その中心部に生じる重力波の干渉から、人が制御可能な未知のエネルギーが取り出せることがわかったのである。 
 核融合など足元にも及ばない効率を秘めたエネルギー。それはまさしく『魔法』だった。
 星々の隔たりを越え、光年単位の旅が現実となる可能性。
 人々はその発見に熱狂し、研究が進められた。
 植物の細胞に含まれる葉緑体が光と水からエネルギーを取り出すように、重力波からエネルギーを取り出す物質が存在することが突き止められた。
 それは、人間の脳細胞の中から見つかった。
 数億人に一人という極めて珍しい遺伝子によって作られる、未知の蛋白質。その発見には、いくつかの偶然と幸運が寄与した。
 これは、新たな進化の予感だった。
 人類はこの頃、自分たちの進化を人為的に進めることも可能となっていた。一本鎖RNAと、その遺伝子を人間のDNAに組み込むための逆転写酵素を用いて、その貴重な遺伝情報をすべての人間に組み込むことも可能だったのだ。
 超人類への進化――人は、自らの手でそれを行おうとした。
 遺伝子の組み込みに先立ち、理想的な重力波の干渉を得るため、質量を綿密に計算された三つの小惑星が、ノーシルの軌道上に配置された。元々ノーシルを巡っていた月、ホル・チュの軌道も変化させた。
 ノーシル本星と四つの月によって、無限のエネルギーと、光も、時も超越する可能性が実現するはずだった。 
 だが――
 結論からいうと、そうはならなかった。
 理由の一つは、技術と理論がまだ完全ではなかったことだ。
 基礎理論は、決して間違いではなかった。しかしその理論は本当に基礎の部分でしかなかく、応用理論はまだ完成していなかった。
 そしてもう一つ。
 基礎理論から導き出された計算を完璧にこなすには、当時の最高の技術を持ってしてもまだ不十分だった。
 新たに配置された月の質量と軌道は、コンマ以下十桁まで正しいはずだった。
 それが、人類の技術で計測、制御できる限界だった。
 しかし、それ未満の誤差ですら、予期しなかった結果を引き起こすのに十分だった。当時の理論では、その結果を予測できなかったのだ。
 そして第三の、一番大きな理由。
 それはある意味、非常に人間らしい理由であった。
 誰よりも、まず自分が幸福になりたい――それが動物の本能だ。
 現存する生物は皆、その思いによって過酷な生存競争を勝ち抜いてきたのだ。
 だから、超人類に進化するのは誰でもない、自分でなければならなかった。
 いくつもの勢力の対立はやがて、全人類を巻き込んだ戦争へと発展した。


 この新たな力は当時の人類にとって、機械文明初期の原子力以上に制御の困難なものだった。
 その結果は、人類がこれまで体験したことのない規模の大戦。
 人類の歴史上初めて、宇宙空間までが戦場となった。
 前時代の核兵器が玩具のように思える超兵器の応酬。その影響で、新たに配置された月の一つ、もっとも内側の軌道を回っていたイン・チュがその軌道を外れ、ノーシルへと落下した。
 人類の歴史が始まってから、初めて経験する天文学的規模の衝突。
 想像を絶する大規模な地殻変動が、ノーシル全土を襲った。
 その災害は、さらに別の副作用ももたらした。
 原子力時代、地下深くに築かれた無数の放射性廃棄物の貯蔵施設が破壊され、地上は猛毒のプルトニウムで汚染された。
 これらの災厄は惑星上から、文明と、そして生命の痕跡を消してしまうのに充分すぎるものだった。



 それは、どこまでも、どこまでも、果てしなく続く荒野。
 赤茶けた土の上を動くものは、乾いた風だけ。獣も、鳥も、それどころか植物さえも。生きているものの気配は何もない。
 この辺り一帯は現在、生物の棲める環境ではなく――
 ただどこまでも、荒れ果てた大地が広がっていた。


 しかしやがて、死んだ風景の中にたった一つだけ、動くものの姿が現れた。
 赤い砂が流れる乾いた大地の上を、ゆっくりと歩いている。
 それは、人間の女だった。
 ちょっと見ただけでは、年齢はよくわからない。二十歳から四十歳までのいくつであってもいいように思われた。
 肩に軽くかかるくらいの長さで切りそろえた茶色い髪が、風に揺れている。この髪はつい先日までは腰に届く長さがあった。荒野の旅には邪魔だからと切ってしまった。
 何年ぶりかで頭が軽い。
 心が重く沈んでいる分、せめて身体は身軽でいたかった。
 小高い丘の上に立った女は、周囲を見渡した。
 自分の他に、動くものの姿はない。
 いまさら確認するまでもなく、それはよくわかっている。それでも、きちんと自分の目で確かめる必要があった。
 人間が、犯した罪の光景を。
 目に焼き付けておかなければならない。
 ただし、それを語り伝える相手はもういないのだが。
「……ふぅ」
 女は小さな溜息をつくと、背負っていたバックパックを地面に置き、自分も腰を下ろした。
 さほど疲れていたわけではないが、別にいまさら先を急ぐ旅でもない。
 地面に手をついて、空を見上げた。
 既に太陽は西の地平線に沈んで、群青色の空は急速にその濃さを増しつつある。
 星の瞬きが、少しずつその数を増やしている。しかし今夜は三つの月がすべて空にあるから、星空はそれほど見事なものではないだろう。
 おかげで陽が沈んでも荒野を歩くのに不自由はないだろうが、星空が好きな彼女にとっては少し残念だ。
 静かな夜だった。
 こんなに静かな夜は、この星にとって何百年ぶり、あるいは何千年ぶりだろうか。
 人工の明かりはなにもない。
 いや、ある意味この言い方は正確ではないかもしれない。荒野をぼんやりと照らす三つの月のうち、二つは人の手によってその場所に置かれたものなのだから。
 いずれにしても、この星に文明が生まれて以来、初めて迎える静かな夜だ。この静寂が再び破られるのは、遠い未来のことだろう。
 あるいは――
「……いっそのこと、永遠にこのままでもいいのかもしれない」
 彼女はつぶやいた。
 ひんやりとした地面に仰向けになる。
 ちょうど天頂に、月がひとつあった。
 ホル・チュ。
 一番明るく、一番大きく。そして、一番古い月。
 きっと、地表からこうして見る月の姿は、一万年前、十万年前のそれとほとんど同じものなのだろう。空は、何も変わっていない。
「……遠い昔、天が生まれ、地が生まれ……そして人が生まれた」
 小さな声で、故郷の国に古くから伝わる詩を口ずさんだ。
 それは創世の神話。長い長い神謡を口語訳した、その最初の一節だ。
 彼女は上体を起こすと、三つの月に照らされて白く浮かび上がる周囲の荒野を見回した。
 それは、滅びの光景。
 死せる大地の姿。
 天は、創世の時代と何も変わらないのかもしれない。
 しかし、大地は滅びてしまった。
 なのに、何故――
「なぜ、人は生き残った……?」
 まだ、結論は出ていない。
 自分のしたことが、正しかったのかどうか。
 仲間たちのしたことが、正しかったのかどうか。
 それとも、彼女たちの『敵』がしたことが正しかったのだろうか。
 誰もが、自分の選択が正しいと信じていた。しかしまた誰もが少しずつ、自分のしようとしていることに疑いを持っていたはずだ。
 正解は、誰にもわからない。
 遠い未来、その答えが出るのかもしれないし、永遠に出ないのかもしれない。
 彼女にとっては、どうでもいいといえばどうでもいいことだった。
 未来を築くのは、彼女の世代ではない。
 そう、どうでもいいことだ。
「……だとしたら、なんのためにここへ来たのかしら」
 考えるまでもない。その答えはわかっている。
 ただ、寂しかっただけだ。
 こんな世界で一人でいるのは、あまりにも辛すぎる。
 今、彼女が会いたい相手は二人いた。
 しかしそのうちの一人とは、もう永遠に会うことはできない。
 だから、残ったもう一人を訪ねようとしているのだ。
 会ったからといって、何を言えばいいのかはわからなかったが。


 目的地に着いたのは、翌日の午後だった。
 相変わらず空は晴れ渡っていて、気温はかなり上がっている。それでも湿度が低いために、さほど不快感はない。
 それは、大きな建造物だった。
 ドーム状の屋根を持ったスポーツ競技場にも似ているが、近くに寄れば、それよりもはるかに大きなものだとわかる。
 物音はしない。動くものの姿もない。
 しかしそれでも、この施設はまだ「生きて」いた。
 中には確かに、生命が存在していた。
 その事実に、知らず知らずのうちに口元が緩んでしまう。
 おかしな話だ。これは、彼女の『敵』なのに。
「敵……か。でも……」
 それももう、過去形で語るべきだろう。戦争は、あの愚かな争いは、もう終わったことなのだ。
 マルスティア――
 彼女たちと敵対していた勢力の一つが、最後に築いた都市。それとも、要塞と呼ぶ方が相応しいだろうか。
 人類の滅亡を防ぐために。
 この星の滅亡を防ぐために。
 激変した環境の中で、数万年は耐えられる堅牢な都市。
 彼女は間近まで来て、その建造物を見上げた。
 建設中に訪れたことはあるが、完成した姿を自分の目で見るのは初めてだ。
「立派なものね、まるで…」
 まるで、古代の王たちが築いた巨大な墓のようだ――と。
 そう思った。
 両者の間にはある意味多くの共通点があって、その思いつきにくすくすと笑った。
 正面のゲートは固く閉ざされていた。無理やり開けることもできなくはないが、しかしそうする必要性は感じない。
 外壁に沿ってしばらく歩くと、やがて小さな扉が見つかった。非常時に使われるものだろう。二人が並んで歩くのがやっとの大きさだ。
 もちろん、この扉もロックされている。
 彼女は開閉レバーに手をかけると、扉を見つめた。小さな金属音とともに扉が開く。
「……不用心だこと」
 小さく笑って中へ入る。もちろん、不用心とかいう問題ではない。対魔法用のシールドを施した扉であっても、彼女の『力』に抵抗することなどできはしない。
 無人の通路は、どこまでも続いているように見えた。硬質セラミックの床と壁。継ぎ目ひとつ見あたらない。
 マルスティアの内部は、しんと静まり返っていた。彼女の足音だけが響いている。
 この都市に、生きている者はほとんどいないはずだった。全自動化されたコンピュータによって制御される、無人の都市だ。
 生命は「記録」としてのみ存在していた。かつてこの惑星に存在した生物たちの遺伝子が可能な限り集められ、コンピュータのメモリの中に保管されている。
 何万年か経って惑星の環境が落ち着いた時、生命を、人類を再生するために。
 その考え自体は、そう悪いこととは思わない。
 確かに、人間は愚かな生き物だ。しかし彼女も人間だった。人間を愛していた。滅びた方がいいとは思わない。
 しかし何もしなければ、人類は遠からず本当に滅びてしまうだろう。
 この惑星上で、現在でも生きている人間はほんの僅かしかいない。
 そして、その人間たちが長く生き延びられる可能性は低い。
 数万年――その長い時間によらなければ解決できない問題もあるのだ。
 彼女は無言で、無機的な通路を歩いていた。
 通路は入り組んでいて、あちこちに枝道や扉がある。しかしそれらには目もくれず、なんの表示もない通路を、確かな足どりで一度も迷うことなく進んでいく。
 しばらく歩くと、通路は行き止まりになっていた。その、最後の扉の前に立つ。
 扉は音もなく開いた。
 一歩、足を踏み入れる。
 こちらに背を向けて座っていた男が、椅子ごとゆっくりと振り返った。
 三十代後半くらいの男だ。きちんと櫛で整えた黒髪に、黒い瞳。最後に会った時と同じように、静かな笑みを浮かべている。
 こうして会うのは何年ぶりだろうか。
 しかし過ぎた歳月の割に、外見は昔とほとんど変わっていないように見える。もっともそれは、彼女についても同じことが言えるのだが。
「久しぶりだね。ファル……ファレイア・レーナ」
 立ち上がりながら、男は言った。
 彼の背後の壁はモニターを兼ねているようで、外の風景が映っている。彼女が中に入る前から気付いていたくせに、わざとこうして芝居がかった動作をする。そんなところも昔と変わっていない。
「ファルでいいわよ、ランディ。昔と同じように。あなたにフルネームで呼ばれたりしたら、なんだか背中がむずむずするわ」
「そうかい。じゃあファルと呼ばせてもらうよ。ようそこマルスティアへ、歓迎するよ。今となってはろくなもてなしもできないけど、ゆっくりしていくといい」
 ランディと呼ばれた男は親しげに近寄ってくると、ファル――ファレイア・レーナの肩に手をかけて、頬に軽くキスをした。
「正直なところ、もう会えないと思っていた。よく来てくれたね」
「会わないつもりだったけど、そうもいかなくなったの」
 笑いながら、こちらからもキスを返す。
「……どうして?」
「見てよ、この砂埃」
 ファレイアは両手を広げて、自分の姿を見せた。
 荒野を越えてきた長い旅がもたらす当然の結果だった。着ているものも、顔も髪も、朱い砂で汚れている。
「わざわざ歩いてきたのか、大変だろう? そんな必要もないだろうに。それと俺に会いに来ることに、どんな関係が?」
「決まってるじゃない」
 ファレイアは、昔よくそうしたように子供っぽく笑った。
「他に、シャワーが使えそうな場所に心当たりがなかったのよ」
「……なるほど、それもそうだ」
 ランディは苦笑する。
「幸い、バスルームは無傷だよ。好きに使うといい」
 ファレイアは荷物を置くと、指し示されたバスルームへと入った。ランディが後からついてきたが、構わずに服を脱ぎ始める。
「あれだけの攻撃をしたのにバスルームひとつ破壊できなかったと知ったら、あいつらが生きていたら傷つくでしょうね。ここは、下手な要塞よりもよほど堅固だわ」
「当然だ。ここは、人類にとって最後の砦だからな」
「今にして思えば、破壊できなくてよかった。おかげでこうして熱いシャワーを浴びることもできるんだから」
 ファレイアは男の目をはばかることなく全裸になって、シャワーを浴びはじめた。
「ここを破壊してしまおうかと考えたこともあったけれど、そうしなくて正解だったみたいね」
「君が思い止まってくれてよかった。いくらこの都市でも、君の力を防ぐことはできないからね。おかげで君はシャワーを浴びることができたし、僕は久しぶりに目の保養ができたというわけだ」
「あら、見てるだけのいいの?」
 ファレイアは悪戯な笑みを浮かべてランディを見た。
「今はとりあえず、ね。それにしても相変わらずスタイルがいいな。とても一児の母とは……」
 ランディそこではっと口をつぐんだ。ファレイアのきつい視線で彼を睨んでいた。
 慎重な彼にしては珍しい失言だ。これはまだ、触れてはならない傷だった。
「……言っておきますけどね」
 ファレイアはシャワーを止めて、ランディに詰め寄った。
「私は、あなた方がやろうとしていることのすべてを無条件で受け入れたわけではないわ。忘れないことね。今でも私がその気になれば、このマルスティアだって一瞬で廃墟にできるのよ」
「だけど君は、そうするつもりはない。だからこうして、平和的にシャワーを浴びている。違うか?」
「……そうね。確かにこの都市は必要よ。生命を、遺伝子を次の時代に伝えるという点では必要なものだわ。四十億年を越える生命の歴史をここで終わりにしたくないのであれば」
「終わりにしたくない。僕たちはこれまで、ことあるごとに対立してきたけれど、少なくともその一点だけは意見が一致するはずだ」
「そうよ。但し条件があるわ」
 ファレイアはタオルを手に取って、濡れた髪を乱暴に拭う。
「条件?」
 その質問にすぐには答えず、ファレイアは下着を着けてバスルームから出た。汚れた服はそのままにしておいた。バスルームがあるくらいだから、全自動洗濯機だってあるのだろう。
 下着姿のまま居間でくつろぎ、ランディが持ってきてくれた飲み物に口をつける。
「ねえランディ。もう、ここにはあなたしかいないのよね?」
「ああ、生きて活動している人間は、ね」
 残りはすべてコンピュータのメモリの中、というわけだ。あるいは、冷凍睡眠という形で眠っている者も多少はいるのかもしれない。
「つまり、あなたがこの都市の支配者というわけね。人類の未来は、あなたが握っている」
「……何が言いたい?」
「一つ、私の頼みを聞いてもらおうと思って」
 ファレイアは自分の荷物から一枚の光ディスクを取り出した。ランディに向かって無造作に放り投げる。
「これは?」
「それを、作って欲しいの。ここの設備ならできるでしょう?」
「……、『竜』か。なるほど」
 ディスクのラベルに書かれた文字を見て、どうやら事情を察したようだ。二人でこの話をしたのはずいぶん昔のことのはずなのに、よく憶えていたものだ。
 どうして、人間はこんなにも傲慢な存在になってしまったのか。それが、その時の雑談の話題だった。
 ランディは言った。人間には天敵がいないからだ、と。
 ファレイアも似たような意見だった。人間が、自然よりも強い存在になってしまったから、と。
 昔、人間が自然よりも弱い存在だった時代、人間は自然を敬っていた。当時から人間はこの星で最強の生物ではあったが、それでも自分たちを取り巻く自然と、他の動物たちを畏れ敬って暮らしていた。
 科学が、技術が進歩し、自然そのものが人間の支配下に置かれるようになると、人間たちは畏れること、敬うことをやめてしまった。
 だったら、人間よりも強い存在を作り出してやればいいのではないか――冗談半分にそんな話をした。
 人間よりも賢く。
 人間よりも強く。
 見る者に畏怖の念を起こさせるような存在がいれば、人間はもう少し謙虚になるのではないか、と。
 ファレイアはその存在を『竜』と呼んでいた。
「……まさか、本気だったとはね」
 手の中の小さなディスクを弄びながら、ランディが言った。その中には、ファレイアがデザインした『竜』のDNAの設計図が収められていた。
 遺伝情報からその生物を実際に作り出すことができる設備は、今となってはこのマルスティアにしか残っていない。
 ランディはディスクを近くの端末にセットした。
「人が創り出した『神』か」
「いいじゃない。あらゆる可能性を試してみましょう」
「いいけどね。いまさら敵も味方もないからな。俺たちも、君たちも、他の者たちも、滅亡を回避するために様々な計画を進めてきた。そのいくつかは既に失敗したし、残りに判定が下されるのは遠い未来のことだ。もう一つくらい候補が増えても、問題じゃあない」
「何万年か後、この都市が生み出す未来の人間たちが、私たちよりももう少し謙虚な存在になってくれればいい。そのための試みよ」
「それはいいんだが……」
 ディスクに収められたDNAの塩基配列を、解析プログラムでチェックしていたランディは、おやっと首を傾げた。
「君の仕事にしては、ずいぶんと無駄の多いデータだな?」
「あ、気付いた?」
 悪戯を見つかった子供のように、ファレイアはぺろっと舌を出した。
「これは……」
 ランディもこの分野に関しては第一人者だ。すぐに意図を見抜くことができた。
「そう、メッセージよ。遙かな未来、この地に生まれ来る者たちへの」
「なるほど」
 ランディも苦笑する。いかにもファレイアらしい遊び心といえなくもないが、反対する理由もない。
「遙かな未来、か……」
「ええ」
 遙かな未来――人類に未来があれば、の話だ。
 人間の技術がどれほど進歩しても、結局、時間によってしか解決できない問題もある。昔、大喧嘩をして別れた二人が、今こうして笑って話せるように。
 しかし人類の未来に残された問題は、二人の諍いよりはもう少し深刻だった。
「特異点……だよな。問題は」
「そう。あれだけは、私たちが何とかしなきゃいけない問題よ。あんな負債を、遠い未来の子孫たちに負わせるわけにはいかない」
 僅かな計算誤差と、月が一つ失われたことによって生じた『力』の揺らぎ。それが原因で、世界を滅ぼすことができるほどの力が、一点に集中してしまっている。
 誰もそれを消滅させることはできなかった。川の流れの中にできた渦のようなものだ。石を投げ込んで水面を乱しても、渦はすぐにまた再生する。
 特異点は、今はまだ顕在化していない。わずかな重力波の揺らぎとしてしか検出されない、計算の中だけの存在だ。
 しかし、あと数万年の後には――
「特異点が形をとって現れる。一人の人間が、その気になればこの世界を滅ぼすことのできる力を手にするんだ。今のファルの力でさえ俺は恐ろしいのに、それ以上の力なんて考えたくもないな」
 ファレイアはランディをじろっと睨んだが、今の台詞の後半部分については何も触れなかった
「その力を巡って、また戦いが起こる」
「しかし俺たちには、特異点をどうこうする力はない……」
「方法は、あるわ」
 一瞬、会話が途切れた。
 お互い複雑な表情で、相手の顔を見る。
「……レーナ砲、か?」
「そう呼ばれていたのは知らなかったわね。あれの正式なコードネームは『大いなる槍』よ」
「君があれを使うのを思い止まってくれて、心底ほっとしているんだが」
「本当は、完成と同時に使うつもりだったんだけど」
「そんなことしたら、それこそ世界が滅びる」
「そう、だから諦めたの」
 首の皮一枚で持ちこたえているような、今のノーシルの環境。
 これ以上のダメージを与えるわけにはいかない。
「あれは封印してくれ。それだけが俺の頼みだ。竜と引き替えに、交換条件だ」
「封印……ね、いいわよ。どうせ、すぐに使えるものではないし。だけど破壊はしない。それが私の方の条件。私たちの子孫が、その道を選ぶかもしれないから。選択肢だけは残しておくわ」
「……いいだろう」
 それで話は終わりだった。ファレイアは、カップに半分ほど残った中身を空にする作業に専念する。
 しかしランディは、まだ何か言いたいことがあるようだった。それに気付いていながら、わざと無視してカップを傾ける。
「……なあ、ファル」
「…………なに?」
 かなり間が空いて、ようやくランディが口を開く。ファレイアは仕方なく返事をした。
「……あの子は、どこに埋葬されたんだ?」
「あの子って?」
「ファル!」
 もちろん、わかっていてとぼけたのだ。ランディの声が嶮しくなる。
「お前の怒る気持ちも分かる。だが、墓参りくらいしたっていいだろう? 俺は一応、あの子の父親なんだ」
「――」
 ファレイアは小さく、しかしわざと相手に聞こえる程度に溜息をついた。
 あまり、触れて欲しくはない話題だった。まだ、傷は癒えていない。
 しかし、ランディの言うことももっともだ。彼が、あの子の父親であるという事実は変えようがないのだから。
「いいわ、行きましょう。ここにはまだ、飛べる飛行機はあるかしら?」
 空になったカップを置いて、ファレイアは立ち上がった。
「案内するわ。あの子――エモンの墓所。そして、揺り篭でもある場所へ」



「それが……この星の失われた歴史なのか? エモン、お前は……前文明の時代から来た人間だと?」
 トリニアの竜騎士クレイン・ファ・トームは、掠れた声で聞いた。喉がからからに乾いていた。
 目の前には彼女の親友にしてトリニアの王妃、エモン・レーナが立っている。
 静かに微笑んではいるが、どれはどこか悲しげな笑みだった。エモンが小さくうなずくと、それに合わせて長い黒髪がふわりと揺れた。
 クレインには、たった今聞いた話がとても信じられなかった。自分の頭がどうかしてしまって、ありもしない妄想を作り出したのではないか――そう思ったほどだ。
 だが、今見ているものは紛れもなく現実だった。
 二人がいるのは、窓のない――地下なのだから当然だ――大きな円形の部屋だった。
 壁も床も天井も、白い陶器のような材質で造られている。トリニア風の建築に用いられる黒い石材とはまるで違ったものだ。
「私がアール・ファーラーナ――神の子というのも、あながち間違いではないかもしれないわね」
 エモンの笑みが、微妙に変化する。まるで、自分自身を嘲笑するかのように。
「私の母の名はファレイア・レーナ。父はランディ・バーグ。前文明の最後の時代、人類の滅亡を回避しようとそれぞれ力を尽くしていた者たち。若い頃二人は夫婦で、その間に私が生まれた。やがて二人は対立する国に別れ、さらに数年後、最後の戦争が始まった……」
「ファレイア……ランディ……。ファレイアやランドゥの神の名は、そこから生まれたものか」
「そうね。二人もまさか、自分たちが神になるとは思わなかったでしょうけど」
 エモンは笑う。他はおおよそ二人の予想通りに進んだのに、これはまったく考えもしなかったことだろう。
 前文明の滅亡から数万年の後、ノーシルの自然環境が生命を支えられるまでに回復した頃。
 マルスティアを制御するコンピュータは、遠い昔のプログラムに従って、生命の再生を開始した。
 新たに生み出された生命。
 新たに生み出された人類。
 文明の再生は結局うまくはいかず、人間たちは再び文明以前の時代からやり直すことなった。
 ファレイアやランディ、そしてマルスティアの名は、伝説となり、神話となった。
 現在のトリニアの王都マルスティアは、神話に登場する神々の都市の名からとったものだ。
「母はどういうつもりで、戦争で死んだ私を再生してこの時代に送ったのかしらね」
 その台詞はクレインに対してというよりも、ここにはいない者への質問のように聞こえた。
 エモンの声を聞きながら、クレインは目の前の光景に見入っていた。
 この円形の部屋の中心部に、三本の柱がちょうど正三角形の頂点になるように立っている。
 もちろん普通の柱などではない。それは実体を持たない、赤紫色の光の柱だった。
 手で触れそうなほどに密度の濃い光の柱。そのうちの一本は、中に、人影が浮かんでいた。
 クレインは、その姿から目を逸らすことができなかった。
 全裸の、長い黒髪の美しい女性。
 まるで眠っているように、光の中に浮かんでいる。その姿は、目の前で儚げに微笑んでいる親友と、寸分違わぬものだった。
「過去の知識を伝えること。この時代の者たちが、過去の過ちを繰り返さないように見守ること。新しい時代の行く末を見届けること。いろいろあるだろうけれど、一番の理由は、特異点――黒の剣を、この世から消し去ること」
「黒の剣……魔王ドレイアの剣、か」
 その名を口にする時、クレインは心の奥底に微かな恐怖を感じていた。大陸最強の竜騎士といわれたクレインであっても、だ。黒の剣はそれほどまでに圧倒的で、忌むべき存在だった。
 ストレイン帝国の皇帝、ドレイア・ディ・バーグの剣。
 ドレイアこそが、この大陸で最強の竜騎士だった。その恐ろしいまでの力故に、魔王と呼ばれて恐れられている人物だ。
 彼の力の源こそ、他でもない黒の剣なのだ。
「この世界に魔法を生み出すために配置された月。そのわずかな軌道のずれによって生じた魔力の澱み。それが、黒剣の真の姿。人間の目に剣の形で見えるのは、剣が『力』の象徴だからよ。特異点を消滅させることこそが、私に課せられた役目。だけど……ね」
 エモンは、クレインの肩にそっと手を置いた。
「私は、すべてをあなたたちに任せることにした。私はもう、表舞台から退場」
「何故? 卑怯じゃないか。元はといえばお前が始めたことだろう。勝手にかき回して、勝手に私たちの前から消えようだなんて!」
「楽しかった。母の言いつけを破ってこの時代の歴史に関わってしまったけれど。本来なら十万年前、まだ十代で死んでいたはずの私が、エストーラと結婚できて、可愛い子供たちも生まれて。こんな幸せなことはないわ。私があなたたちの前から消えても、私の血はこの世界に残る。この時代の人間として、新たな歴史を紡いでいくことができる」
「だったら、最後まで付き合えよ! どうして今!」
 知らず知らずのうちに、涙声になっていた。理由なんてどうだっていい。大切な友人を失いたくはない。
「私の力を持ってしても、黒の剣を直接どうこうすることはできないとわかったから。だから、あなたたちに任せた方がいい、と。この世界の進む道は、あなたたちが決めるべきよ。私は……、答えを知っていてそれをするのは、卑怯だからね」
「エモン……」
「どうして、今――そう訊いたわね。近い将来、ストレイン帝国との最後の戦いがあるから。ドレイア・ディと……黒の剣と、直接戦うことになる。その時、私はいない方がいい。歴史を作るのは、今を生きる者たちでなければならない。私は、遠い過去の存在でしかないもの」
「エモン」
 クレインは他に何も言えなかった。ただ泣きながら、親友の名を呼んでいた。
「エストーラには、あなたから伝えて。私は……あの人の前に立ったら、決心が鈍りそうだから」
「エモン!」
「ありがとう、クレイン。あなたと知り合えてよかった」
 エモンはそう言って、クレインの身体をしっかりと抱きしめる。
 顔は微笑んでいたが、しかしその目には涙が溢れていた。



<<前章に戻る
次章に進む>>
目次に戻る

(C)Copyright 2001 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.