マイカラスの王宮の一室で。
誰もが、無言で座っていた。
奈子の話が終わった後しばらくの間、その場にいる全員がただ黙って、いま耳にしたばかりの信じがたい話を心の中で反芻していた。
ソレア・サハ・オルディカ。
エイシス・コット・シルカーニ。
リューリィ・リン・セイシェル。
ハルトインカル・ウェル・アイサール。
ダルジィ・フォア・ハイダー。
ケイウェリ・ライ・ダイアン。
そして――奈子と、由維。
話し終えた奈子は、手に持っていた紙の束をテーブルの上にぽんと放り出した。一瞬、全員の視線が集中する。そこにはいま話した内容が、現代アィクル語で記されていた。
竜のDNAから見つけ出した、前文明が――ファレイア・レーナが遺したメッセージ。
「信じる信じないはあんたたちの勝手。だけど、これが真実なんだ」
奈子の言葉に、一同はお互いの顔を見合わせた。今の話を自分以外の者がどう受け止めているのか、探るような表情で。
まだ、話を完全には飲み込めていないという雰囲気が漂っている。
無理もない。彼らにしてみれば、これまでの世界観を根底から覆されたようなものだ。むしろ異世界の住人である奈子と由維の方が、先入観がない分、この事実を素直に受け止めることができていた。
「考えてみて。竜はこの世界の基準で考えても、進化の道筋から外れた存在じゃない? それは人間が生み出したもの。前文明の時代の人間たちは、その中に未来へのメッセージを遺した。疑うなら、自分たちで調べてみればいい。竜の遺骸は手に入らなくても、亜竜の遺伝子の八割くらいは竜と共通のはずでしょ」
竜は、人間が生み出したもの。
人間が畏れ敬うための『神』として。
人間を超える力を持った存在として。
そのために、この世に生を受けた。
「……確かに、ナコさんが嘘をつく理由はありませんが」
「それが、前文明の正体……? 魔法も、竜も、人間が生み出した……」
「ファレイアやランドゥといった神々は、前文明の時代の人間たちで……」
「エモン・レーナも……」
少しずつ少しずつ、その事実が頭の中に染み込んでくる。
まったく途方もないお伽噺だ、と笑い飛ばしてもいいはずだった。こんな、奇想天外な話。
しかし実際には、誰も笑うことができなかった。
奈子がこうしたことで嘘をつくような性格ではないことを、ここにいる全員が知っている。奈子を目の敵にしているダルジィでさえ、それは認めざるを得ない。
ファージの死によって心に大きな傷を受けてこの地を去った奈子が、固い決意の感じられる表情でここにいる。その事実だけでも、これが単なるヨタ話ではないことを示している。
その場にいる六人は、互いに腹の探り合いをしているようだった。誰が最初に、この話を信じたと宣言するか――と。
「……で、お前は何をする気なんだ?」
ついにエイシスが、奈子に向かって口を開いた。
「え?」
「ただ、この事実を伝えるためだけに戻ってきたのか? 違うだろう。前文明や魔法の正体を知ったからといって、今の俺たちになんの関わりがある? それにお前、先刻言ったよな? 力を貸してもらう、って」
「あ、憶えてた?」
奈子は苦笑いを浮かべた。
「あんまり、言いたくなかったんだけどね。きっと反対されるから」
「なんのことだ?」
「それは……」
言いかけた奈子は、一度口をつぐんで深呼吸をした。
心を落ち着けるかのように。
そこにいる全員の顔をゆっくりと見回す。
硬い表情で。
奈子はゆっくりと言った。
「この世界から、魔法の力を消し去るんだ」
またしばらく、場が沈黙に包まれた。
全員が、呆気にとられた表情で奈子を見つめていた。
「な……」
エイシスが、引きつった笑みを浮かべる。
「なにを、馬鹿なことを」
「冗談なんかじゃないよ」
奈子はきっぱりと言った。
「魔法って何? それはファージを殺した力。ユクフェを、フェイリアを、アタシの子供を殺した力。この世界の無数の命を奪った力。前文明を滅ぼした力。……そんな力、この世からなくなればいい」
「だからといってそんなこと……第一、人間の力でできるはずがない」
「できるよ」
奈子は一人、窓際へ移動した。
両開きの大きな窓を開けると、身を乗り出して空を見上げる。そして、満足そうに微笑んだ。
夜空には、三つの月が煌々と輝いている。
「先刻説明した通り、魔法は、人間がこの世にもたらしたもの。だったら、人間がそれを消し去ることもできる。綿密な計算によって配置された四つ以上の天体――つまりノーシル本星と最低三つの月。それが、魔法に必要なものなんだ」
誰に語りかけるでもなく、奈子は空を見上げたまま言った。それからゆっくりと室内を振り返る。
肩越しに、背後の夜空を親指で指した。
「月を、破壊するんだ」
ぽつりと、何気ない調子でつぶやいた台詞。誰もが、その意味するところをすぐには理解できずにいた。
奈子はもう一度繰り返す。
「あの月を、ノーシルに一番近い『シ・チュ』を破壊するの」
既にそのことを知っていた由維を除く全員が、目を見開いた。二の句を継げずにいる。
奈子は微かな笑みを浮かべて、黙ってその様子を見つめていた。
「く……」
沈黙を破ったのは、エイシスの笑い声だった。
「……なにを言い出すかと思ったら。馬鹿な。そんなこと、できるわけがない。なにを考えてるんだか。まさか、ファーリッジ・ルゥが死んだショックでおかしくなったわけじゃあるまい?」
笑いながら言うエイシスだったが、決して心底可笑しくて笑っているわけではなかった。不自然に引きつった表情が、それを示している。
笑われても、奈子は別に怒りはしなかった。そんな途方もないホラを、と笑い飛ばしたいエイシスの気持ちはよくわかる。自分が彼の立場だったら、同じ反応をしていたかもしれない。
つまりは信じたくない、認めたくないのだ。
エイシスとは対照的に、ソレアはひどく強張った表情をしていた。他の者たちは、まだ驚きから立ち直れないといったところか。
「たとえ竜騎士の力を持ってしても。たとえ、一つの都市を一瞬で消し去る力があっても、月を破壊するなんてできっこない。月がどれほど遠くにあるか、どれほど大きいか、知らんわけじゃあるまい? そんなこと、黒剣の王だって無理だ」
「……できる。できるんだよ」
奈子は静かに言った。普段の彼女からすれば、不自然なほどに落ち着いた口調だった。
「前文明で最後に生き残った人たちは、そのことも考えていたんだ。自分たちのしたことは根本的に間違っていたんじゃないか、いっそのこと魔法の力をすべて捨て去った方がいいんじゃないか、って。その可能性を否定できなかったから、ファレイア・レーナはそのための用意はしておいたんだ。実際に魔法を捨て去る道を選ぶかどうかは、この時代の者たちに託して」
「前文明が滅ぶ前に、月を破壊する方法を遺していった……と?」
ようやく立ち直ったハルティが口を開く。
「その備えは必要だった。特異点――黒の剣を破壊するには、他に方法がないかもしれないと考えていたんだ。そして……その通りだった」
「月を破壊する方法……それはいったい?」
ここまで、質問はすべてエイシスとハルティによるものだった。リューリィやケイウェリ、ダルジィがでしゃばらないのは当然としても、何故かソレアが一言も発していない。
奈子はそのことに気付いていたが、あえて無視していた。
先程の質問に答える前に、ハルティとエイシスに向かってにやっと笑ってみせる。
少し間を置いて、わざともったいつけて。
人差し指で、テーブルの天板をこつこつと叩いた。
「……ここに、あるよ。この、マイカラスに」
「――っ!」
「あの……遺跡? だからアィアリスは、ギアサラス地方を手に入れたがっている?」
言葉を失ったハルティとエイシスに代わるように、ソレアが初めて口を開いた。
奈子は微かにうなずく。
「それは表向き、トリニアやストレインの時代の古い遺跡。だけどその下には、もっともっと古い遺跡が隠されている。トリニアの時代、遺跡の存在を知っていたわずかな人間たちは、それを『レーナ遺跡』と呼んでいた。前文明時代の末期、ファレイア・レーナの指揮によって建造された、巨大な魔法兵器なんだ。その力は竜騎士を百人集めたって及ぶものじゃない。月の一つくらい、わけもなく破壊できる」
ファレイア・レーナはそれを『大いなる槍』と呼んでいた。
この惑星の中心部、もっとも魔力が強まる部分から汲み上げた強大な力を集中して、空の一点に向かって撃ち出す。それは一種の巨大な大砲だった。
「そんな……」
絶句している六人の顔を、奈子は確かめるように見ていった。
予想していたことではあったが、奈子の考えを歓迎している者はいないようだ。
そして。
この計画にもっとも強く反対するのがソレアであることも、予想のうちだった。
「そんなこと、できっこないわ!」
ソレアは厳しい口調で言った。今にも拳をテーブルに叩きつけそうな雰囲気だった。
「月を破壊して、魔法が使えなくなって。そんなことをしたら、私たちは生きていけない。それこそ世界が滅びてしまう。魔法なしで生きていくなんてできっこない。そのくらい、あなただってわかってるでしょう?」
「私も、そう思う」
こちらも今まで黙っていたケイウェリが、重々しく言った。
「魔法の力は、我々の生活に必要不可欠なものだ。それをすべて消し去ろうだなんて、前文明の者たちもなにを考えて……」
表情を見れば、ハルティもダルジィも、そしてエイシスやリューリィも同意見なのは明白だった。
しかし奈子は、これらの台詞を笑って聞き流す。
「あんたらの都合なんて、アタシは知ったこっちゃない」
信じ難いほどに身勝手な台詞が、ケイウェリの言葉を遮った。
「魔法の力が、生きていく上で必要不可欠? アタシにはわかんないね。なにしろアタシは……」
奈子はそこで一呼吸の間を置いて、ちらりとソレアを見た。ソレアが、こちらを睨んでいた。
そこで奈子は、今まで秘密にしていた決定的な事実を明かした。
「アタシは、魔法なんてものが存在しない世界で生まれ育ったから」
しん……。
水を打ったように――という表現がこれほどぴったりな場面もないだろう。場が、一瞬で静まり返った。
皆、何を言われたのかわからないといった表情で奈子を見ていた。一人ソレアが、硬い表情をしている。
「みんなにはまだ言ってなかったんだ、ソレアさん」
「……ええ。その必要もないと思っていたから」
「それはいったい、どういう……」
「そういえば……、いつかフェア姉がちらっと言っていたことがある」
リューリィが、やっと聞こえるような小さな声でつぶやいた。
「ナコとユイは、信じられないくらい『遠い』ところから来たんだって」
それを聞いて、事情をまったく知らない四人が顔を見合わせる。
奈子は小さくうなずくと、説明をはじめた。
まず最初に、自分と由維がこことは別な世界で生まれ育った人間であること。
そこが、どんな世界であるか。
ファージの魔法の実験に偶然巻き込まれ、この世界を訪れるようになった経緯。
そして、その後のこの世界での冒険。これまでに目にしたこと、耳にしたことのすべて。
かなり長い話になったが、誰も、一言も言葉を挟まずにそれを聞いていた。
「魔法は、人が生きていく上で必要不可欠なものじゃないよ。先刻の話、忘れてない? この世界だって、前文明の末期までは魔法なんてものは存在しなかったんだ。ノーシルの四十数億年の歴史、生命の四十億年の歴史の中で、魔法が存在したのはほんの十万年でしかない。魔法なんて存在しない時間の方が、何万倍も長かったんだ」
「だからといって……」
「あとね、これは気休めかもしれないけれど。月を破壊してもしばらくの間……数百年くらいは、日常生活に使うような弱い魔法なら使えると思う。竜騎士の戦闘用魔法とか転移といった、強力な魔法は使えなくなるけどね。アタシはもう、決めたんだ。みんなが反対したって関係ない」
「そうね。でも、私は反対よ」
きっぱりと言って、ソレアが立ち上がる。
全員の視線が彼女に集まった。
「……あなたに、それをする権利があるの? あなたはこの世界の人間じゃないわ。それなのに、この世界の未来をどうこうする権利があるの? 関係ない世界のことに、口出ししないでちょうだい!」
みんな驚いていた。ソレアには珍しく感情的な声だった。
奈子だけが一人、それが当然といった表情でソレアを見つめていた。
「関係は、ある。確かに、生まれ育ったのはこの世界じゃない。だけどアタシは今、ここにいるんだ。無関係じゃない」
微かに怒気を孕んだ声音で、しかしゆっくりと奈子は言った。
「この世界にはアタシの大好きな人たちが何人もいて、そのうちの何人かは殺された。一度は、この世界の男の子供を身籠もったこともある。それに……だから、関係ないなんて言わせない」
二人は真っ直ぐに睨み合った。鋭い視線がぶつかる。
「……表へ出ましょう。ここでやるわけにはいかないから」
「いいよ」
ソレアの言葉にうなずくと、奈子はハルティに向かって言った。
「ハルティ様、城の練兵場をお借りします。城の建物には……、できるだけ被害を出さないようにしますから」
「ナコさん! ソレア・サハ!」
ハルティが、続いて他の者たちが立ち上がる。
それを無視して、二人は部屋を出ていった。
もう真夜中に近いはずだが、城の外は意外と明るかった。
三つの月が、夜空をぼんやりと照らしている。地面に敷き詰められた灰色の砂が、月明かりを浴びて銀色に光っていた。
その上に、二つの影が落ちる。
少し距離を空けて、六つの影が後ろからついてゆく。前の二人を止めようとする努力は、ここに来るまでに放棄していた。
「ソレアさんは反対すると思った。墓守だもんね。それが存在意義。『力』を封印しつつも『力』を護ってきた者たち。千年前、レイナ・ディが同じことを企てた時、墓守たちはレイナを殺そうとした」
ソレアの方を見ずに、奈子は前を向いたまま独り言のように言った。
「……ソレアさんも、アタシを殺す?」
「ええ」
なんの躊躇もなく、ソレアがうなずいた。
後ろで聞いていた者たちには、二重の驚きだった。あのソレアが、ここまで過激な発言をするとは。
しかし、奈子にはこうなることがわかっていた。
墓守にとっては、これこそが拠り所なのだ。
竜、竜騎士、そして魔法。千年間の歴史と伝統。
それらを失うことを恐れている。
他の者たちが「魔法は人間に必要なものだから」と論理的に反対しているのとは違う。千年間信じていたものを失うという、本能的な、感情的な恐怖なのだ。
「あなたは、いったい誰?」
ソレアが訊いた。
立ち止まって、前を歩く奈子の背中を真っ直ぐに見て。
「月を破壊し、この世界から魔法の力をなくしてしまう。そのとんでもない考えは、誰が思いついたのかしら」
「どういう意味?」
奈子も立ち止まった。
振り返らずに訊き返す。
後ろでそのやりとりを見ている者たちは、二人の間に今までとは違った緊張感が漂っていることに気がついた。
「あなたは、誰の意志でそれをしようとしているの? ナコ・マツミヤの意志? それともレイナ・ディの意志?」
「…………」
「はっきりと答えてもらいましょうか。ねえ、レイナ・ディ・デューン?」
「――っ?」
全員が、耳を疑った。ソレアは今、なんと言ったのか。
だが、間違いない。
レイナ・ディ・デューン。
そう、呼びかけた。
奈子の背中に向かって。
しかしそれは千年近く前に死んだ、王国時代末期の竜騎士の名だ。
「どうしてあなたは、ナゥケサイネの名を知っているの? どうしてあれがナゥケサイネだと知っているの? ストレイン帝国で、ただ一人を除いて誰にも従わなかった暴れ竜を、どうしてあなたは従えることができたの?」
ソレアが振り返った。
奈子ではなく、背後の観客たちに向かって語りかける。
「答えはひとつしかあり得ない。ナコは、レイナ・ディの墓所で無銘の剣を受け継いだ。だけど、受け継いだのは剣だけじゃない。レイナ・ディの記憶、意志、そして力。ここにいるのは、私が知り合ったときのナコ・マツミヤではないわ」
「……まさか!」
「彼女は、レイナ・ディ・デューン。千年前の時代の、最強の竜騎士。エモン・レーナの、そしてクレイン・ファ・トームの遺志を継ぐ者。ここにいるのは、千年の歳月を越えて、ナコ・マツミヤという少女の肉体を借りて甦った竜騎士よ」
聞いていた五人にとって、これこそが今日一番の驚きだった。
今日は、信じられないような衝撃的な話をいくつも聞かされた。だが、これは極めつけだ。
いくらなんでも、こんなこと信じられるわけがない。
奈子とソレアを交互に見ていた五人は、ふと思い出したように傍らにいる由維を見た。
そして、確信した。
ソレアの言葉が、真実であることを。
由維は、驚いていなかった。
ただ、硬い表情で二人を見守っていた。
自分を見つめる視線に気付いたのか、由維はちらりと横を見て、微かに苦笑した。
その表情で、他の者たちは理解した。彼女は、知っていたのだ。
ハルティやエイシスたちも、目の前の出来事が事実であると受け入れはじめた。
「あのね……。聖跡が、ファージがしていたのと……同じことなの」
由維が小声で言う。
非常に高度な魔法ではあるが、記憶を他人に写すことは可能だ。
ファージやソレアが、それをすることができる。奈子や由維がこの世界の言葉を憶える時に用いた魔法だ。
それと同じように、遺伝子だって写し取ることができる。魔法の力で、DNAの塩基配列をそっくりそのまま再現するのだ。
まったく同じシナプスの結合。まったく同じ遺伝子の配列。そして肉体を形作る細胞の一つ一つ、分子の一つ一つまで寸分違わず再現すれば、オリジナルとまったく同じ人間を、魔法の力で作り出すことができる。
もちろんそれは簡単なことではない。
ファージやソレアにできるのは、記憶のほんの一部を写し取ることだけだ。一人の人間を完全に再現することができたのは、聖跡だけだった。
「聖跡はそうやって、クレイン様やファージを不死の存在としていた。肉体が破壊されるたびに、聖跡に残された元の記憶から肉体を記憶を再生していた。もちろん、同じ事が人間の魔力でできるとは思わない。だけど……」
ソレアは再び、奈子の方を見た。
「エモン・レーナの末裔である名門ラーナ家の血を受け継ぎ、王国時代を通しても有数の力を持っていたレイナ・ディ・デューンであれば、それに近いことはできたかもしれない。今のあなたは、遺伝子も脳の中身も、すなわち肉体的にも精神的にも、全部ではないにしても……かなりの部分がレイナ・ディのものでしょう。彼女にはまだ、やるべき事があった。だけど、その時ではなかった。そこで彼女は待つことにした。何百年、何千年。条件に合う者が見つかるまで。レイナ・ディの墓所は、そのためのトラップ。実体を持たない、時空を越えた罠」
「……いつから、気付いてた?」
奈子がゆっくりと振り返る。微かに、苦笑していた。
「ファージは、かなり前から疑問を持っていたみたいね。レイナ・ディの墓所から戻った後のあなたは、少しずつ変化していった。最初は気にも留めなかったわ。異世界に来て様々な経験をすれば、人は変わっていくものでしょう。だけど、それだけでは説明できない部分があった。性格、行動、外見、そして魔力。あまりにも不自然な変化だったわ」
「なるほどね。由維にばれるわけだ」
喉の奥でくっくと笑う。
「だけど、アタシはアタシさ。今、こうしてここにいる。それが松宮奈子か、レイナ・ディ・デューンかというのは、大した問題じゃないよ。名前なんかどうでもいい。アタシは、アタシの意志でここにいるんだ」
「そう?」
奈子とソレアは、広い練兵場の中心で、距離を空けて向かい合った。
それを遠巻きに見つめる六人は、何も口出しできなかった。
止めた方がいい。止めなきゃいけない。誰もが、頭ではそう思っている。
ただならぬ空気が二人を包んでいた。このままにしておけば、取り返しのつかないことになりかねない。
しかし誰も、行動に移すことができなかった。ただ黙って、遠くから見ていることしかできなかった。
リューリィが、エイシスの服をぎゅっと掴んだ。エイシスにだってどうにもできない。ファージがいない今、誰が二人の衝突を止められるだろう。
いや。一人だけ、可能性のある者がいた。
「……おい、ユイ」
エイシスはなんとか、掠れた声を絞り出した。喉がからからだった。
「ナコを止めろよ。それともあれは、レイナ・ディなのか?」
奈子としての意識がないから、由維の言うことも通じないのか――と。そういう意味で訊いたのだが、由維は小さく首を振った。
「……奈子先輩が言ってた。多分、ソレアさんは腕ずくでも止めようとするって。だからこれは、必要な儀式なんだって」
それを聞いて、本当に何も言えなくなった。奈子は、ここに来る前に既に覚悟を決めていたのだ。
「それじゃあ、始めましょうか?」
先にそう言ったのは、ソレアの方だった。奈子は小さく肩をすくめた。
「それはいいけど、ソレアさんが闘えンの? アタシ、手加減なんかしないよ」
その疑問は、ソレア本人以外の全員に共通したものだった。
ソレア・サハの名は、強い力を持つ魔術師として広く知られている。しかしまた、彼女が直接闘うことがないというのも有名な話だ。だからファージや奈子が攻撃担当、ソレアが防御担当。そんな役割分担が出来上がっていた。
墓守は、戦う力を封じられているはずなのだ。それを補うために、ファージがいたのだから。
「闘えるわよ。わからない? 今の私には、聖跡の束縛はないのよ」
ソレアの手に、銀色の短剣が現れた。
そこにいる全員、初めて目にする光景だった。調理と裁縫以外の目的で刃物を手にしているソレアなんて。
その短剣で、自分の長いスカートの両側を切り裂いていく。動きやすくするため、女性騎士の礼服のような深いスリットを入れたのだ。
「リューリィ」
その作業を終えると、ソレアの手から短剣が消えた。そしてエイシスの陰に隠れるように立っているリューリィに呼びかける。
「剣を貸してくれない? 竜の剣を」
まるで操られるように、リューリィはその言葉に従った。カードの中にしまってあった剣を取り出して、ソレアに渡す。
フェイリアの形見の、竜の剣。破壊されたハシュハルドの街の跡で発見されたそれを、今はリューリィが持っていた。
剣を見た奈子が、ひゅうっと小さく口笛を吹く。
「いきなり、そう来るかい?」
「憶えていて? 千年前、レイナ・ヴィ・ラーナがあなたを殺した剣よ」
ソレアが剣を抜いた。
白い磁器のような刃が、月明かりを反射して真珠色に輝く。
「忘れるもんか。でも、アタシをじゃない。千年前のレイナ・ディを……だろ」
竜の剣。
竜の角から削り出したといわれる純白の刃を持つそれは、数ある王国時代の魔剣の中でも最高のものの一つだ。
レイナ・ディの実姉、ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリトの愛剣だった。
ユウナの死後、一人娘のレイナ・ヴィ・ラーナが剣を受け継ぎ、そして母の仇を討った。
「少し、名残惜しいわね」
ソレアは背中に手を回すと、自分の髪を掴んだ。
足元まで届くほどの長い銀髪を。
ざく……。
背中の中ほどで、ばっさりと切り落とした。
切り落とされた髪の束が、砂の上に広がる。
「……ユウア・ヴィ……ファラーデ……」
ぽつりと、由維が言った。
ほんの小さなそのつぶやきは、しかし離れたところに立つ二人の耳にも届いていた。
ソレアが微笑む。
「ファージがしゃべったの? あのおしゃべりが」
「……ふぅん、そーゆーこと?」
奈子も納得顔でうなずいた。
「それもそうか。ソレア・サハ・オルディカなんて、出来すぎた名前だもんね。表の職業……いかにも占い師らしい、源氏名ってわけ」
「……せめて芸名と言うべきでは」
他にどう対応していいものやらわからず、由維はつっこみを入れる。しかしその台詞は当事者たちに黙殺された。
「墓守の末裔は、すなわちトリニアの竜騎士の末裔。ユウア・ヴィ・ファラーデ・ラーナ・ファーラーナ。それが私の本当の名。ヴィ・ラーナの血を引く、正真正銘、竜騎士の最後の一人よ」
ソレアは剣を両手で構えると、横身になって脚を前後に大きく開き、腰を低く落とした。
その独特の構えは、紛れもなくトリニア王国の騎士剣術だった。
「面白くなってきた」
奈子は、右手を開いて前に突き出した。
小さく深呼吸して、あの言葉を唱える。
闘いの時、これまで何度も口にした言葉を。
「剣よ、我が手の中に、在れ――」
その言葉に従い、手の中に一振りの剣が現れる。
限りなく薄く、無限の切れ味を持つ最強の刃。
人の手によって生み出されたものとしては、大陸最強の魔剣。
無銘の剣。
レイナの剣。
レイナ自身から譲り受けた、奈子の剣。
この世に生み出されてからこれまで、この剣はたった一人の主しか持たなかったのだ。
「ナコ……」
「奈子先輩……」
見ている者たちは、息を呑んだ。
それが意味するところを知っているから。
奈子は、滅多なことではこの剣を手にしない。無銘の剣の力は、あまりにも強力すぎるのだ。
手加減することすらできない。かすり傷一つでも、普通の人間には致命傷になる。
奈子はそう言って、本当に必要な時以外、この剣を使おうとはしなかった。
それなのに今、ソレアを相手にして剣を握っている。
本気、だった。
誰にも、止められなかった。
「あなたが勝ったら、あなたがやろうとしていることを認める。協力してあげるわ。だけど私が勝ったら……交換条件はいらないか。その時は、あなたは生きていないわね」
ソレアは、笑みを浮かべていた。普段のソレアの、優しげな微笑みではない。
奈子には、わかっていた。きっと、自分も同じ表情をしているはずだから。
レイナやユウナ、クレインや、ファージや、イルミールナ。
王国時代の竜騎士と、同じ表情をしている。
戦う者の顔だ。
息を吸い込んで、少し吐き出して。
「……行くよ」
奈子は地面を蹴った。
ザッ!
銀色の砂が舞い上がる。
奈子は一瞬で間合いを詰めると、剣を振りかぶった。
鋼よりも硬い刃がぶつかり合い、剣全体を覆っている二人の魔力が干渉し合って火花を散らす。
奈子の背後に、青白い光球が出現する。
横に跳んだ奈子を追って立て続けに閃光が走り、地面に深い穴を穿った。
続けて放たれた無数の光の矢が、左右から挟み込むように奈子を追いつめる。
逃げ場を失った奈子は、剣で矢を薙ぎ払った。同時に、反撃の魔法を放つ。
ソレアを取り囲むように出現した朱い光球が、一斉に爆発した
言葉を失って二人の闘いを見守っていた六人は、爆風に煽られて慌てて防御結界を張った。竜騎士の力を持つ者同士の闘いなのだ。生身で見ていては無傷でいられない。
奈子は紅蓮の炎でソレアの視界を遮り、その間にもう一度距離を詰めた。
接近戦なら奈子に分がある。
徒手格闘の技。
無銘の剣の力。
いずれも、ソレアを圧倒している。
離れて魔法で闘っていては、魔力の強さはともかく、それを操る技術ではソレアに一日の長がある。
しかし剣の間合いに入るよりも早く、青い光の奔流が炎の壁を突き破ってきた。それは奈子の防御結界を一瞬で霧散させ、そのまま身体を貫通する。
奈子の身体は、紅い飛沫を撒き散らしながら砂の上に転がった。
ソレアを包んでいた炎が消える。
そこには火傷ひとつ負うことなく、剣を構えているソレアがいた。
刃が、青白い燐光を放っている。
「忘れていたの? 私が持っているのは竜の剣なのよ」
竜の角から削り出したといわれる、竜の剣。その刃は竜の炎と同じ力を持つ。
竜騎士の結界であっても完全に防ぐことはできないという、灼熱の竜の炎だ。
「……結界で防げると……思ったんだけどなぁ」
奈子は深手を負いながらも、自嘲めいた笑みを浮かべた。
地面に手をついて、身体を起こそうとする。身体から、顔から、ぽたぽたと血が滴った。
なんとか上体を起こしたところで、傍らに落ちていた剣に気付いてそれを手に取る。
「ひどい自惚れね。生身で竜の剣の力を跳ね返すなんて、ヴェスティアにだってできなかったのに」
数メートルほど離れたところで奈子に剣を向けたまま、ソレアが言った。竜の剣の以前の所有者であるフェイリアは、この力で当時の黒剣の王ヴェスティアに深手を負わせたのだ。
切っ先は真っ直ぐに奈子に向けられている。刃が、青白く光っていた。その内に秘めた力の大きさを物語っているようだ。
次で、終わる。誰もがそう思った。この至近距離ではかわしようがない。
「まだやるの? 次は確実に死ぬわよ」
「……できる、かな? 人を殺したことなんて……ないくせに」
奈子は台詞こそ強気だったが、その声には力が感じられなかった。苦しそうに声を絞り出している。
「必要とあればそうするわ。トリニアの竜騎士は、あなたみたいに甘くない」
「そう?」
刃を包む光が、直視できないほどに強くなる。
ハルティやエイシスが止めようとするよりも早く、その力が解き放たれた。
短い悲鳴を上げたのは、リューリィだろうか。
竜の炎が、その場を青白く照らし出した。
青い光が天空に伸びていく。全員が一瞬、はっと空を見上げた。
その一瞬の間に、形勢は逆転していた。
ソレアが、地面に倒れている。竜の剣は彼女の手を離れ、砂の上に転がっている。
立ち上がった奈子が、ソレアに覆いかぶさるようにして喉元に剣を突きつけていた。
「アタシの……勝ち」
奈子は血の混じった唾を吐き捨てた。
「ソレアさんこそ、忘れてたんじゃない? どんな魔法でも破壊できない、竜の炎でも熔かすことのできない最強の刃。それが、無銘の剣」
その刃は竜騎士すら凌駕するほどの魔力を帯びており、どんな強力な攻撃魔法であっても歯牙にもかけず跳ね返す。奈子は剣で、竜の炎を弾いて逸らしたのだ。
「それに……ソレアさんやっぱり甘い」
奈子がふっと笑った。先刻までとは違う、緊張感のない柔らかな笑みだ。
「狙いが少し、ずれてたよ。かわさなくても、死にはしなかったかもね」
「……」
無言で見上げるソレアの顔に、奈子の血が滴り落ちた。
「……どうしても、やるの?」
喉の奥で小さく呻くような声だったが、奈子の耳にはちゃんと届いた。
こくりとうなずく。
「今の人間は、何も知らずに刃物を振り回している赤ん坊と同じ。だったら、その刃物を取り上げるのは当たり前じゃない? 根本的な解決にはならないかもしれない。それでも何百年か、何千年かの猶予は与えられる。その間に人間は、もう少し大人になれるかもしれない」
奈子の手から、無銘の剣が消えた。
そのまま、ソレアに手を差し伸べる。
ソレアの顔からも、敵意は消えていた。
「……本当に、月を破壊して、魔法を捨て去るの? それが意味するところがわかっているの? あなたが、月を破壊したとすると……」
「……わかってる。もう、転移なんて高度な魔法は使えなくなる。アタシは、自分の世界には戻れなくなる」
ソレアはごくりと唾を飲み込んだ。
奈子の覚悟を、思い知らされた。
「わかっているなら……」
「この世界を根底から揺るがすようなことをして、そのまま帰ろうなんて思っちゃいない。アタシはここに残るよ。この先、一生ここで暮らす。この世界の行く末を、この目で見届けるんだ」
「……どうして。どうしてそこまでするの? よその世界のことなのよ。なのにどうして、そこまでできるの?」
「先刻言ったじゃん。無関係じゃない、アタシは今、ここにいるんだよ」
数秒間、ソレアは無言で奈子の顔を見上げて。
それからゆっくりと、差し伸べられた手を握った。
奈子は自分もふらつきながら、ソレアが立ち上がるのを助けてやる。
「どっちにしろ、時間はあまり残されていないんだ。もう、カードの残りが少ないからね」
ファージがいないから。
手持ちのカードが尽きたら、もう転移はできない。
奈子と由維が使う転移魔法のカードは、ファージが作った物だ。たとえソレアでも、同じ物を作り出すことはできない。
あるいは残されたカードを調べ、試行錯誤を繰り返せばなんとかなるかもしれないが、それには年単位の時間が必要だろう。
だからもう、今まで通りに遊び半分で行き来はできない。
選択肢は二つだった。
一つは、もうここには来ないこと。この世界のことはこの世界の人間に任せ、奈子は自分の世界で生きていくこと。
それができないのなら――
ここで、この世界で生きていくしかない。
そして奈子がこの世界にいる以上、アィアリスとの闘いは避けることができないことだった。
黒剣の王、アィアリス・ヌィ・クロミネル。
その力で、大陸の支配を目論む者。
また、戦争が起きる。いや、もう起きている。
ティルディア王国が、そしてアルトゥル王国が滅びた。
現在はハレイトン王国で激しい戦闘が繰り広げられている。
奈子はもう、魔法によってさらに多くの人が死ぬのを見過ごせなかった。
そして、黒剣の力を奪う術は一つしかない。
「……アタシには、他に選択肢がないんだ。損な性格だけどさ」
奈子は、血まみれの顔のまま苦笑した。
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