七章 Fight!


 ダルジィは、城の中庭を歩いていた。
 最初は王の執務室へ向かったのだが、そこにハルティの姿はなく、決裁の必要な書類を手にした若い文官が、困ったように立ちつくしているだけだった。
 もちろんダルジィには、いつ戻るかわからないハルティをそこで一緒に待つ気はなかった。執務中に行方をくらましたのだとしたら、行き先は限られている。
 見当をつけて中庭へ来ると、はたしてハルティの姿があった。剣の練習場として使われている一角に、一人で立っている。
 敬愛するハルティの姿を目にしても、今日はあまり心が弾まなかった。これから伝えなければならない知らせが、あまりいいものではないためだろう。
 他に誰もいない練武場で、ハルティは一人で剣を振っている。
 その姿を見て、ダルジィはふと思い出した。
 初めて、ハルティに会った日のことを。
 ここの風景は、当時とあまり変わっていなかった。


 あれは、何年前のことだったろう。
 彼女はまだ、十歳にもなっていなかったはずだ。
 この国の将軍であった父親に連れられて、初めてこの城にやってきた日だった。もちろん当時はそこがどこかなんて知らず、ただ見知らぬ大きな屋敷と思っていたものだ。
 細部は憶えていないが、どうしてか父親とはぐれて、城内で迷ってしまった。多分、父親が誰かと会談している間、別室で待っているうちに退屈になって、勝手に城内を歩き回ったのだろう。 
 歩いているうちにやがて、この中庭に出た。
 その片隅に、一人で剣の稽古をしている少年の姿を見つけた。歳はダルジィと同じくらいか、あるいは一つ二つ上だろうか。
 やや癖のある金髪で、男の子にしてはずいぶんと綺麗な顔立ちをしている。それだけに、手にした大人用の長剣が少々不釣合いではあった。しかもそれは、実戦用の剣と同じ大きさと重さの、肉厚の刃の練習刀なのだ。
 しかしその少年は、汗を撒き散らしながら必死に剣を振っている。
 ダルジィは、ふと悪戯心を起こした。誰かは知らないがちょっとからかってやろう、と。
 剣には自信があった。
 物心つく前から父親に手ほどきを受けて、これまで同世代の男の子たちは負けたことがなかった。既に騎士見習いとなっている五歳年長の従兄とだって、互角に近い勝負ができる。
 顔に似合わないことをしているこの少年に、自分の腕を見せつけてやろう、と。
 そう思った。
 意地の悪い笑みを浮かべて、少年の前に進み出る。
「君は……?」
 近づいてくるダルジィに気付くと、少年は剣を振る手を止めて訊いた。
 汗ばんだ額に、前髪が張り付いている。
「ずいぶん熱心ね」
 相手の質問には答えず、ダルジィは一方的に言った。
「でも、その成果はあるのかしら。わたしと手合わせしてみない?」
 どうして、こんな喧嘩を売るような言い方をしたのだろう。
 少し、嫉妬していたのかもしれない。自分の父はこの国で一番の騎士と言われているのに、それよりも大きな屋敷に住んでいるなんて。
 相手の返答を待たず、ダルジィは置いてあった試合用の剣を手に取って構えた。
 少年が困惑の表情を浮かべる。
「試合……君と? でも、怪我しちゃうかも」
「あら、男なのに怪我がこわいの? いいわ、手かげんしてあげる」
 ダルジィは笑った。やっぱり、見かけ通りの意気地なしだ――そう思った。
 これにはさすがに、少年も気分を害したようだ。感情を表に出さないように努力しているようだが、口がへの字に曲がっている。
「違うよ。君が怪我をするって言ってるんだ。女の子と試合したことなんてないからね。うまく手加減できない」
「なんであんたが手かげんするのよっ? わたしが負けるわけないじゃない!」
「じゃあ、賭けようか。負けたら、僕の言うことをなんでも聞くんだよ」
「いーわよ。負けるのはぜったいあんたなんだから。あんたこそ、負けたらわたしの家来になるのよ!」
「……いいよ」
 少年が愉快そうに笑った。当時のダルジィはこの笑みの意味を深くは考えず、単に馬鹿にされたのだと受け取った。
「いくわよ!」
 一方的に宣言して、ダルジィは打ちかかった。
 火花が散る。
 真上からの最初の打ち込みを、相手の剣はしっかりと受け止た。
 少年は、見た目の割には力があるようだった。これまで試合をしたことのある同世代の男の子たちなら、ダルジィの全力の打ち込みを受け止めたとしても、その圧力に屈してバランスを崩していたはずだ。
 ダルジィはすかさず剣を引き、今度は水平に薙ぎ払った。しかし相手が一瞬早く後ろに下がったため、ダルジィの剣は空を切った。勢い余って体勢が崩れる。
 その隙を見逃さず、少年が反撃してきた。バランスを崩していたダルジィだったが、それでもなんとか一撃を受け止め、刃の角度を変えて相手の力を逸らした。さすがに、年上の少年の攻撃をまともには止められない。
 相手の上体が流れた隙に、ダルジィは体勢を立て直して次の攻撃に移った。少年も怯むことなく反撃してくる。
 二合、三合。
 剣が激しくぶつかり合う。
 甲高い金属音と、砂を蹴る音だけが響く。
 一見互角の打ち合いだったが、ダルジィは少しずつ押されていることに気付いていた。
 息が上がりはじめている。
 元々体力的には年長の少年に敵うはずがないし、いま手にしている剣は、普段の稽古で使っている自分専用の試合刀よりもずっと重い。
 このままではいけない――そう思った時。
 剣の重さに腕が負けて、わずかに反応が遅れた。
 突然軌道を変えて下から襲いかかってきた刃に剣を弾き飛ばされ、ダルジィはよろけて尻餅をついた。
 ダルジィの負けだった。
 信じられない思いで少年を見上げた。悔しさよりも、驚きが先に立った。
 こんな、女の子みたいな綺麗な顔をした相手に負けるなんて。
 それも、まぐれでもなんでもない。実力で向こうが一枚上手だった。
 驚きが治まるにつれて、徐々に悔しさが込み上げてきた。
 滲んでくる涙をぐっと堪える。涙なんか見せたくない。
「すごいね、君」
 そう言ったのは、勝った少年の方だった。肩で息をしながら、笑みを浮かべている。
「……な、なによあんた! いったい何者よっ?」
 堪えても溢れる涙を誤魔化すように、ダルジィは大声で怒鳴った。
 こんな相手は初めてだった。少年の剣には、もっと年長者を相手にしているような巧さがあった。
「こんなに強い女の子、初めてだ。嬉しいな。君みたいな強い騎士がいれば、安心して兵を任せられる」
 まだ尻餅をついたままのダルジィに、少年が手を差し伸べる。
「……え?」
「君、ダルジィ・フォアだろう? ハイダー将軍の娘さんだ。噂は聞いたことがあるよ」
「あ、あの……」
「僕は、ハルティ・ウェル。初めまして、ダルジィ」
「ハ……っ!」
 仰天した。
 差し出された手を取ることも忘れ、呆然と相手を見つめていた。
 ハルティ・ウェル。
 顔を見るのは初めてだが、もちろんその名は知っている。知らないはずがない。
 この国の者なら、子供だって知っている名だ。
 ハルティ――ハルトインカル・ウェル・アイサール。
 自分が喧嘩を売った相手は、この国の王子だったのだ。


(うぅ……)
 久しぶりに昔のことを思い出して、ダルジィは赤面していた。
 思い出すたびに、顔から火が出そうになる。自分で穴を掘って埋まってしまいたい。
 いくら知らなかったとはいえ、将来自分が仕えるべき王子に、あんな無礼なことをするなんて。
 しかしハルティは、泣きながら謝るダルジィに優しく言ったのだ。「僕には、君みたいな騎士が必要なんだ」と。
 その言葉が、これまで十年以上もダルジィを支えてきた。
 だから、誰よりも強い騎士になろうと誓った。
 家の名誉のためではなく、この国のためでもなく、ただ、自分を必要としてくれるあの人のために。



 ダルジィの表情を見た瞬間、ハルティには彼女が持ってきた報告の内容が想像できた。
 決して、愉快な内容ではあるまい。だとしたら、考えられることは一つしかない。
「トカイ・ラーナ教会の軍勢が、中原を発ったようです」
 ハルティはうなずいた。予想していた通りだ。
 アィアリスが、レーナ遺跡の存在を黙って見過ごすはずがない。奈子が戻ってきたことは、もう察知しているだろう。
「数は?」
「五万を越えるかと」
「……ずいぶん多いな」
 相当の大軍を擁してくるであろうことは予想していたが、それにしても多い。
 教会の軍勢はアルトゥル王国との戦を終えたばかりで、現在はハレイトン王国との戦場に大軍を送っている。だというのに、さらに五万以上の兵を揃えられるとは。
 その軍勢をハレイトンに向ければ戦況はかなり有利になるだろうに、この大事な時機にマイカラスのような小国相手に五万の大軍を差し向ける。それはつまり、本気ということだ。
「ギアサラス……レーナ遺跡への到着は?」
「ぎりぎりですが、間に合ってしまうでしょう」
「……そうか」
 奈子が言うには、レーナ遺跡の力はいつでも発動できるものではないらしい。月がちょうど遺跡の真上を通過する時。その時でなければ、遺跡の力で月を破壊することはできない。機会はせいぜい年に数回だ。
 次の時限までには、まだ数日ある。奈子は、その日に遺跡を発動させる計画でいる。その前に教会の軍勢に遺跡を占拠されてしまっては、計画は御破算だ。
 現在、遺跡は強力な魔法で封印された状態だった。中へ入れる者は奈子しかいない。
 しかし、遺跡の力を発動させるためには、封印を解かなければならない。
 そして奈子が中に入ってから遺跡の力を発動させるまでには、かなりの時間がかかるという。
 遺跡がその力を発揮する前にアィアリスに侵入されれば、遺跡は破壊される。前文明の高度な技術によって築かれた建造物とはいえ、内部からの黒剣の力には対抗できまい。
 いや、なにもアィアリスでなくても構わない。
 遺跡の中に入ったら、奈子は力を制御することに専念せねばならず、無防備になってしまう。普通の兵でも奈子を傷つけることができるだろう。
 だからその間教会の軍勢から、遺跡と、そして奈子を護らなければならない。アィアリスが妨害する意志を持つ以上、この計画は奈子一人では実現できないことなのだ。
 この時点でハルティは、まだ態度を明確にしてはいなかった。
 奈子との賭けに負けたソレアは、奈子に協力するようだ。竜騎士の力を持つ彼女であれば、アィアリスを倒すことはできなくとも、時間稼ぎはできるだろう、と。
 エイシスは初めから迷っていなかった。事の是非は問わず、奈子に対する借りを返すという姿勢だ。
 だが、彼らだけでどうにかなるものでもないだろう。相手は、黒剣の王アィアリスが指揮する五万の大軍なのだ。
 奈子は遺跡の制御にかかりっきりになる。由維やリューリィは戦力としてはさほど役には立たない。
 ソレアがアィアリスを抑えていたとしても、エイシス一人で何ができるだろう。
 アィアリスが自分一人で来るのではなく、教会の軍勢を差し向けた以上、この計画にはマイカラス軍の協力が不可欠なのだ。
 もちろん、奈子たちはハルティが協力するしないに関わらず計画を進めるだろう。しかしそれでは成功はおぼつかない。
 しかし――
「全軍を動員したとしても、せいぜい一万あるかないか……か」
 領土的野心を持たないマイカラスの軍勢は少数精鋭、守り重視だ。国土の面積の割に人口が少ないせいもあって、兵数は決して多くない。
「難しい問題だな……」
 以前のサラート王国の侵攻の際、一万余騎の敵に対して三千騎で立ち向かったように、これが通常の侵略であれば少ない兵力でも対処のしようはある。
 広い砂漠それ自体を武器にして、戦っては退くという戦術で敵を消耗させることもできるし、こちらに有利な地形で待ち伏せをすることもできる。要所には小規模とはいえ堅固な砦もある。
 しかし今回は事情が違った。レーナ遺跡を護らなければならないという絶対的な条件がある。
 遺跡の前面に布陣して敵を迎え撃たねばならず、戦術的な撤退は許されない。遺跡の近くに新たに砦を築いている時間的余裕もない。
 五倍以上の敵と、野戦で正面からぶつからねばならないのだ。
 これは、絶望的な条件といえた。
 ハルティ個人の心情としては、もちろん奈子に協力したい。
 彼女のことを愛しているし、命を救われた恩もある。王妃に迎えることができないのであれば、なおさらここで恩を返しておきたい。
 しかし今の彼はマイカラスの国王であり、全国民に対して責任のある立場だ。
 教会の大軍と真っ向から戦って敗れれば、一万を越える兵の生命を失うだけでは済まない。マイカラス王国そのものが滅亡するだろう。
 その場合、被害を受ける国民はいったいどれほどの数に上るか。
 教会に降伏し、遺跡のある土地を明け渡せば、実質的には教会に支配された属国としてでもマイカラス王国は存続でき、民の生活も守られる。
 国のことを思えば、そうするべきではないだろうか。
 それに第一、月を破壊して魔法を捨て去ることは、本当に間違いではないのだろうか。
 生まれた時から魔法というものが当たり前に存在していたハルティにとっては、魔法が存在しない世界というのは想像できない。奈子は「すぐにすべての魔法が使えなくなるわけではない」と言ってはいたが。
 難しい問題だった。
 マイカラスを取るか、奈子への恩を取るか。
 奈子と対立する立場を取れるはずがないし、かといって王としては国のことを考えないわけにもいかない。
「こんなことなら、大臣たちの言葉に従って、さっさと結婚して世継ぎをもうけておくべきだったかな」
 ハルティは苦笑した。突然の言葉に、ダルジィが怪訝そうな表情を浮かべる。
「そうすれば、私は国を捨ててこの戦に加われた」
 王位をその子に譲って。
 ただの、一人の男として。
「ナコ・ウェルを助けたいのであれば、そうなさればよろしいでしょう。マイカラスの兵はすべて、陛下に従います」
 どこか不機嫌そうに言うダルジィの顔を見つめ、ハルティは数回瞬きする。そして、小さく吹き出した。
「君は、いつもその調子だね。ダルジィ」
「は?」
「長い付き合いなんだから、幼なじみらしい忌憚のない本音を聞かせてくれてもいいのに」
「幼なじみだなんて、そんな畏れ多い……。私は、マイカラスの騎士です。陛下のために、陛下をお護りするために、こうしてここにいるんです」
「まったく、騎士の鑑だな、君は。だけど最近、疑問に感じているんだ」
「疑問……と仰いますと?」
 ハルティはすぐには応えず、短い間をとった。
 言うべきだろうか。それとも、知らないふりをしておくべきだろうか。暫し考える。
 しかしやはり、言うべきだろう。このことをはっきりさせないまま、ハルティの個人的な戦いにダルジィを巻き込むわけにはいかない。
「君のその忠誠心は、いったい誰に向けられたものなんだ?」
「もちろん、陛下にです。他に何があると」
 何故そんなことを訊くのか、と不思議そうな顔をしながらも、間髪入れずにダルジィが応える。まったく淀みがない。
 しかし、次の質問に対する答えはどうだろうか。
「それは、マイカラスの国王に、ということか? それとも、ハルティ・ウェル・アイサールという人間に対するものか?」
「あ……っ!」
 ダルジィが言葉に詰まった。それは彼女にとってまったく予期していない質問であり、答えは用意していなかったはずだ。
 少々、意地悪な戦法ではある。しかしこうしなければ、この堅物の女騎士は他人に本心を見せないのだ。
「あ……、あの……それは……」
 顔を紅潮させてどもるダルジィを、ハルティは意地の悪い笑みを浮かべて見ていた。悪戯が成功して喜んでいる子供の顔だ。
「ああ、無理に答えなくていい。答えはわかっている。といっても、知ったのはつい最近だけどね」
 笑いを堪えて言う。
「へ……陛下っ。私は、そのっ……」
「君は、ついてきてくれるかい?」
 ハルティは笑いを納め、真面目な表情でダルジィの弁解を遮った。
 真っ直ぐに相手の目を見る。
「この戦に敗れれば、マイカラスが滅ぶことにもなりかねない。私は、この国の歴史上もっとも愚かな王と呼ばれることになるだろうな。一人の女性に恩を返すために、国を失うなんて。それでも君は、ついてきてくれるか?」
 一瞬、驚いたような表情を見せたダルジィだったが、すぐに理性を取り戻した。唇を真一文字に結んで、力強くうなずく。
「たとえ何があろうと、私は命ある限り、陛下にお仕えします」
「よろしい」
 ハルティは満足げに微笑んだ。
 あまりにも優等生的な答えではあるが、そう答えることはわかっていた。彼女には他に答えようがあるはずがない。
「……正直な話、勝算はあると思うか?」
「あります」
 ダルジィは再び力強くうなずいた。
「敵は、こちらの五倍以上の大軍。それを指揮するのは、黒の剣を持った竜騎士。それでもか?」
 戦の常識として考えれば、まるっきり無謀な戦いに見えなくもない。しかしハルティも、解答があることは知っていた。ダルジィが気付かないはずがない。
「今回の戦、敵を撃破する必要はないのですから。行軍の速度を考えますと、敵がレーナ遺跡に到着するのは早くても遺跡の発動の半日前。我々は半日間、遺跡を守り抜けばいいのです。ナコ・ウェルが目的を達すれば、それでこちらの勝ちです」
「確かに、そうだな」
 考えていた通りの答えに、ハルティはうなずいた。
 この戦いの目的は、敵の大軍を撃ち破ることではない。奈子が遺跡に入っている数時間だけ、敵を近づけなければいいのだ。
 奈子が、月の破壊に成功すれば――
 黒の剣は……黒剣のような強大な魔力は、この世界に存在できなくなる。
 アルンシルの消滅で一度は大混乱に陥った教会をまとめ上げているのは、黒剣の、黒剣の王の力だ。それが突然失われれば、それ以上戦闘を続けることはできないだろうし、そもそも続ける理由がなくなる。
「この戦い、マイカラスにとっても得るものは小さくありません。教会の大軍を撃退したとなれば、大陸中の誰もがこの国に一目置くようになります。陛下は、大陸の歴史の中でももっとも勇敢で優れた王と呼ばれるでしょう。それに我々は、教会の軍門に下って生きながらえるなど本望ではありません。マイカラスの民はなにより、誇りを重んじます」
「そして君は、その王の右腕として戦った名将、となるわけか」
「それこそが、私の望みです」
 ダルジィの言葉に、ハルティも心を決めた。
 信念を曲げて生きるか。
 信じるもののために死ぬか。
 ならば後者を選ぶ。
「よし、決まりだ。将軍たちを集めろ。すぐに軍議を始める。我々は、全兵力を以て教会の軍勢を迎え撃つ!」
 ハルティは力強く宣言した後で、笑いながら付け加えた。
「いいか、君も共犯だぞ。この戦は、私一人の我が儘じゃない。私と君、二人の我が儘だ」



 ハルティとダルジィが城の中庭で話をしていた、ちょうど同じ頃。
 奈子と由維は、自分たちの世界に戻っていた。
 家の近くにある奏珠別公園の中を、二人でぶらぶらと散歩している。
 公園の中には大きな池があって、真夏でも清水を湛えていて涼しげだった。池はコンクリートではなく自然石で周囲を固めてあり、ぐるりと取り囲むように樹が植えられているために、一見自然の池のように見える。
 二人は、池の畔に座った。
 ぶぶぶ……と小さな羽音を響かせて、オニヤンマが目の前を通り過ぎる。水の中では、今年生まれた小さなカエルがたくさん泳いでいた。
 しばらく、そんな光景を無言で見つめていて。
「……ごめんね」
 やがて、奈子がぽつりと言った。
「ごめんね、勝手に決めて……」
 由維は無言で、小さく首を振る。
 また数分間、沈黙が続く。
「それで……さ……」
 やがてまた、奈子の方から口を開いた。
 躊躇いがちに。
 何度か、続きを言いかけては止めるという動作を繰り返した。
 由維は、奈子の方を見ていない。
 奈子も、由維を見ていない。
 池の畔で二人とも前を向いて、真夏の陽光を反射している白い水面を見つめていた。
「……月がレーナ遺跡の真上を通る次の機会まで、まだ何日かある。アリスが黙って見過ごすはずがない。レーナ遺跡で……最後の戦いがある。多分、避けようはないんだ」
「…………」
「それで……さ。その……、由維は……」
 由維は首を動かして、奈子の方を向いた。その動作に気付いて、奈子も由維を見る。
 大きな由維の瞳の中に、自分の姿が映っていた。
 一度、深呼吸する。
 それからようやく意を決した。
「……お願い。アタシと一緒に、あの世界へ来て。向こうで、一緒に暮らして」
 由維は一瞬、驚いたように目を見開いた。
 奈子は困ったように、ほんの少し視線を逸らす。
 一度微かに俯いた由維は、すぐに元気よく顔を上げた。口元は微笑んでいるが、目に涙が浮かんでいる。
「……私一人でこっちに残れなんて言ったら、池に蹴落としてやるつもりだった」
「そう言うつもり、だった。けど……」
 いざ口を開いた時、実際に口から出たのはまったく逆の言葉だった。
 どんなに強がっていても、それが本心だった。
 月を破壊したら、もう転移魔法は使えなくなる。奈子はこの世界へ戻れなくなる。
 この先の人生を、向こうの世界で送ることになる。
 それは覚悟の上だ。
 だけど――
 由維が、必要だった。
 たとえ何があっても、いまさら由維と離れることはできない。自分がこちらへ戻れない以上、由維を連れて行きたい。
 我が儘だろうとなんだろうと、一緒にいたい。
 自惚れではなく、由維も同じ想いだと信じている。
 二人の魂は、一つだけでは生きていけないのだ。
「……ごめん」
「どうして謝るの?」
 由維がこちらに体重を預けて、抱きついてくる。
「私にとって一番幸せなのは……奈子先輩と一緒にいることなんだよ」
「……ごめん。そして、ありがと」
 奈子も、由維の小さな身体を抱きしめた。
 由維にすがりつくようにして。
 ただ黙って、奈子は声を上げずに泣いていた。



 翌日、奈子と由維は東京へやってきた。
「どうしたの? 呼びもしないのにあんたの方から来るなんて、珍しいじゃない」
 小さな赤ん坊を抱き上げて、松宮美奈――奈子の母親が不思議そうに訊く。
「ん、まあ、夏休みだから、一度くらいはね」
 奈子は、曖昧に笑って言った。
 二人が訪れたのは、奈子の両親が暮らす都内のマンションだ。向こうへ旅立つ前に、最後にもう一度、両親に会っておきたかった。
 仕事が忙しくて普段は滅多に顔を会わせることもないが、それでも親には違いない。会わずに旅立つわけにはいかない。
 しかし、久しぶりに母親の顔を見て、奈子は来たことを少し後悔した。
 決心が鈍りそうだった。
 もう、二度と会うことができない。自分を生んで、十六年半もの間育ててくれた両親との、今生の別れ。
 それを考えると、涙が出そうだった。
 口に出しては何も言わないが、美奈も久しぶりに奈子に会えて喜んでいるのがわかる。だからなおさら、悲しくなる。
 だけどまさか、ここで泣くわけにはいかない。最後まで普段通りに振る舞わなければ、怪しまれてしまう。
「由奈ちゃん、ちょっと見ない間に大きくなったねー」
 由維がぎこちない手つきで、美奈が抱いていた赤ん坊を受け取った。
 今年の春に生まれたばかりの、奈子の妹だ。
 松宮由奈。
 由維と奈子から一字ずつ取って付けた名前。
 レイナ・ディの双子の姉、ユウナ・ヴィ・ラーナの名でもある。
 妹のことをファージに話した時、笑っていた理由も今ならわかる。やっぱり、ファージは知っていたのだ。奈子がレイナであることを。
「さて。じゃあ、お茶でも淹れようか」
 赤ん坊を由維に渡した美奈が立ち上がり、大きく伸びをした。
「……由維が淹れた方が美味しいと思うけど」
 奈子が小声で、本当のことをつぶやく。血は争えないというかなんというか、奈子の母親だけあって、美奈も料理は不得手なのだ。
「いいじゃない。それも『お袋の味』よ」
 奈子の後頭部を力いっぱい殴りつけながら、美奈は笑って言った。
「それよりあんた、また由維ちゃんを襲ったりしてないでしょうね?」
「襲ってなんかないよ。ちゃんと合意の上で」
 涙目で後頭部のコブをさすりながら、奈子は正直に応える。由維との関係を知っている美奈に対して、いまさら隠しても仕方がない。
 ……が。
「この、バカ娘!」
 予想通り、二発目の拳が飛んできた。目の中に火花が飛ぶ。
 松宮家の母娘のスキンシップは、いつも過激だ。
「ま、いいけどね」
「……いいなら、殴ンなよ」
「大切にしなさいよ。泣かせたりしたら、承知しないからね」
「別な意味では、よく泣かせてる。ベッドの中で……」
 直後に襲ってきた三発目の拳が、奈子を完全にKOした。


「うう……まだイタイ」
 翌日、札幌へ帰る飛行機の中で、奈子はまだ治りきっていないコブを押さえて呻いた。
「当たり前ですよ。馬鹿なことばかり言って」
「そんなこと言ったって……」
「気持ちは分かりますけどね。ふざけていないと、泣いちゃいそうだから……でしょ?」
「……やっぱり、ばれてた?」
 奈子は苦笑する。由維はなんでもお見通しだ。
「ところで奈子先輩」
「ん?」
「もしも由奈ちゃんがいなかったら、向こうへ行ったきりなんて考えなかったんじゃない?」
「……さあ、どうだろ。でも……今よりもずっと悩んだのは、確かだろうね」
 この春まで、奈子は一人っ子だった。
 その奈子が突然いなくなったら、両親はどれほど悲しむことだろう。
 ファージと知り合って間もない頃、無断で三週間も向こうに行っていた時のことを思い出した。奈子が帰ってきた時の両親の顔が、今でも目に浮かぶ。
 もちろん、由奈がいても両親が悲しむことに変わりはないだろうが、それでもいくらか救いがある。
「……由奈はアタシみたいに、親不孝な娘に育たなきゃいいけど」
「大丈夫ですよ。あんなに可愛いんだし」
「なにそれ。アタシは可愛くないってこと?」
「やぁ……いひゃい……」
 奈子は由維の両頬を指で摘んで、むにっと左右に引っ張った。



 最後の数日間は、ずっとこちらで過ごしていた。
 特にあてもなく、二人で街をぶらついたり。
 亜依たちと遊んだり。
 自分たちの生まれ育った世界での最後の日々を、普段通りに過ごすことにしたのだ。
 そして、最後の夜。
 今夜、奈子の家に由維は来ていない。自分の家で過ごしている。由維が両親や姉と一緒にいられるのも、これが最後なのだ。
 だから奈子は、亜依を家に呼んだ。


「はぁ……」
 奈子は満ち足りた溜め息をついた。
「なんか、久々に堪能したなぁ」
 もちろん、腕の中には小柄な亜依の身体がある。
 二人とも全裸で。
 奈子のベッドの中で。
 汗ばんだ身体が、ぴったりと密着している。
「……奈子」
 奈子の肩に頭を預けるようにして荒い呼吸をしていた亜依が、頭を上げて奈子の顔を覗き込んだ。
「ん?」
「なにか、隠してる?」
「隠すって、なにを?」
 亜依の不意打ちにもまったく狼狽えることなく、ごく自然に訊き返すことができた。もうすっかり、心の準備はできているから。
「……わかんない。わかんないけど、変。奈子も由維ちゃんも、二人ともなにか変だよ」
「ヘンって?」
「ついこの間まで、あんなに落ち込んでたのに。でも今の元気もカラ元気というか、……とにかく、なにか変」
 なかなか鋭いな、と心の中で感心する。元々、亜依は観察力が優れている。何も気付かれずにいられるはずがない。
「…………」
「奈子」
 ほんの少し、怒ったような口調で亜依が訊く。
 それも当然だ。親友に隠し事されて、気分のいいはずがない。
 だから奈子は、無理に誤魔化そうとはしなかった。
「……そのうち、話す」
 これは嘘。
 亜依に会えるのも、今夜が最後。
 だけど亜依は、いずれ真相を知ることになるだろう。
 由維と二人で話し合って、亜依にだけ伝えることにした。これまでのことがすべて記してある由維の日記を、最後に向こうへ行く直前、亜依宛に郵送しようと決めた。
 奈子と由維の失踪の秘密を知った亜依がどうするかは、彼女次第だ。その頃にはもう、二人は決して手の届かないところにいる。
「今は……まだ言えない。だから今は……」
 奈子はくすっと笑って、右腕に力を込めた。軽い亜依の身体は、簡単に抱き寄せることができた。
「今は、もっと楽しいコトしよう」
 亜依は何も文句を言わず、奈子に身を任せてきた。由維と少し似ている華奢な身体に、唇を押しつける。
 由維にはちょっと悪い気もするけれど、これが最後なのだから許してもらおう。
 そういえば、亜依と初めてこんな関係になったのはいつのことだったろう。正確なところは思い出せないが、レイナの剣を受け継いだ後なのは間違いない。
 今にして思えば、当時からレイナの性格の影響を受けていたのかもしれない。
 レイナ・ディ・デューンはその力で知られた竜騎士ではあるが、それとは別に、美少女、美少年好きでも有名だったという。常に二桁の愛妾をはべらしていたという伝説もあるほどだ。
 そのためだろうか。
 いつの頃からか、由維が奈子の浮気に寛容になったのも。
 由維は、奈子が自分で意識するよりも先に気付いていた。奈子が、レイナの影響を受けていることを。
 だから「仕方ない」と思っていたのかもしれない。
 だから――
 最後にもう一度、亜依との浮気を許してもらおう。


「……ねぇ、奈子」
「ん?」
 ことが終わって、抱き合ったまま余韻に浸っていた時、亜依が訊いてきた。
「結局、由維ちゃんとは、……したの?」
「…………ん。この間……」
「そっか……」
 その台詞からは、亜依がどう感じているのかは読み取れなかった。そのことを喜んでいるのか、それとも嫉妬しているのか。
「そのせい? 最近、二人とも変なのは。……で、どうだった?」
「……可愛かった。すごく」
「そっか……由維ちゃんもついにロストバージンか」
「あ、それはまだ」
「え? だって」
「すごく痛がったから」
 実はまだ、最後の一線は越えていない。
 由維の身体はやっぱりまだ、成熟度が少々足りないらしい。
 奈子は別に、無理に奪おうとは思わなかった。由維が嫌がることはしたくないし、そもそも男女の交わりとは違って、挿入の有無は大きな問題ではない。
「奈子ってば、乱暴にしたんじゃないの? 私とする時も激しいもんなぁ。初心者相手にあの調子でしたんじゃあ……」
「そんなことない。ちゃんと優しくしたよ」
「やっぱり、指よりも舌?」
「そーゆー露骨な聞き方しないの!」
 奈子の顔が朱くなる。
「恥ずかしくて答えられないっしょ」
「だって興味あるもん。じゃあ、私相手に実践してみせて」
 甘えるように、挑発するように、亜依が唇を重ねてくる。
「だーめ。由維には由維の、亜依には亜依のやり方があるもの。あんたにはもっと激しく……ね」
「や、……あぁん!」
 乱暴に胸を掴まれて、亜依は身体をよじらせた。



 翌日の夜。
 奈子と由維は、奏珠別の街を歩いていた。
 いよいよ、最後の時。向こうへ旅立つ時が来た。
 二人は手をつないで、奏珠別公園の展望台へと向かう。
 夏の終わりの夜。もう気温はずいぶん下がっている。
 大きな蛾が水銀灯の周りを飛び交い、道端の草むらではキリギリスが鳴いていた。
 物心ついた頃から身近にあった、そんな当たり前の自然が今は妙に懐かしい。
 夜の展望台には、二人の他に人影はなかった。
 冷たい水銀灯の明かりだけが、足元を白く照らしている。
 今夜は空に月がなくて、星が綺麗だった。
 夏の大三角に、天の川。夏の星々が天球に散りばめられている。
 そして眼下には、奏珠別の街の夜景が広がっている。
 二人が生まれた街。
 これまでずっと暮らしてきた街。
「小さい頃、よくここで遊んだっけ」
「……懐かしいな」
 公園はもちろんのこと、背後の山々も、この辺りの子供たちの遊び場だった。
 鬼ごっご。かくれんぼ。山の中を探険。虫採り。
「そして……。ここから、始まったんだ」
「二年前に」
「ここで稽古をしていてさ。そこの樹に、由維が刺繍したリボンが結んであった」
 一部分だけ伸ばした奈子の髪は、紅いリボンでまとめてある。向こうでの闘いの中で何度もぼろぼろになって、その度に由維が新しいものをくれた。
「二年……いろんなことがあった」
「そしてこれからも」
「アタシたちは、これからもずっと一緒」
 向き合って、お互いの顔を真っ直ぐに見た。
「……行こうか」
「ん」
 どちらからともなく身体を寄せ合い、しっかりと抱き合った。
 顔が接近する。
「……Fight!」
 由維が耳元でささやく。
 そして二人は唇を重ねた。



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